2013年3月15日金曜日

救いの道(2)神の審判の前に引き出され

神が低地の町々を滅ばされた時、ソドムとゴモラにいたすべての人は同じように罪深く、堕落していたと思われるでしょうか。大きな罪を犯した者も、ごく小さな罪しか犯さなかった者もいたのではないでしょうか。すべての人たちが等しく、大罪人ではなかったと思います。しかし、すべての人が罪人であったので、神のみまえに有罪でした。「硫黄と火」がソドムとゴモラの上に下った時も、老若男女、偉大な人物もそうでない者も、また善良な者も悪しき者もすべて滅ぼされました。彼らは皆その町に住んでいて、同じ仲間でしたから「有罪」とされたのです。

エジプトの長子が全部、同じように堕落していたとは考えられません。多くの者は、おそらくその国の最もすぐれた政治家であり、また詩人や哲学者、祭司であったに違いありません。しかし神は、「わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう」(出エジプト12・13)と言われました。そこで、小羊の血を塗った家は過ぎ越され、塗っていなかった家の長男は滅ぼされたのです。それは、極悪罪の問題ではなく、服従の問題でした。問題は、血が塗られていたかどうかでした。この場合にも、二つのグループしかなかったのです。その血によって守られた人々と、滅ぼされた人々です。

友よ、あなたはイエス・キリストの血によって守られていますか。「肉のいのちは血の中にある・・・・いのちとして贖いをするのは血である」(レビ17・11)というみことばを忘れてはなりません。また、「わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう」(出エジプト12・13)という神のことばを変えることのできる人はひとりもいないのです。神はまた、ヘブル人への手紙9章22節で、「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」と言われました。あなたは血によっておおわれていますか。もしそうでなければ、あなたは滅びなければならないのです。あの大洪水のような神の審判が、必ずあなたをおおいます。あなたの前には、死か永遠のいのちかのどちらかが待っていて、そこからのがれることはできないのです。

世界の大刑務所において、あなたはあらゆる種類の犯罪を見ることができます。大罪を犯した者から、良心的参戦拒否者に至るまでさまざまです。一方は多くの人を奪った殺人犯であり、他方は人の命を奪うことを拒否して投獄された者です。

彼らは全部国の法律を守らなかったので有罪の宣告を受けねばなりませんでした。人がおぼれるには、水が1.8キロの深さもなくてはならないというのではありません。30センチほどの深さで十分なのです。馬の周囲を囲んでいる塀が一ヵ所くずれれば、その塀が全部がない場合と同じように馬は自由になります。一つの罪を犯しただけで、あなたは百万の罪を犯した仲間に加えられます。なぜなら、「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです」と神が言われたからです。

あなたは、みことばを信じますか。あなたにぜひ覚えていただきたいことがあります。それは、一つの点において失敗し、ただ一つの戒めを破り、ただ一つの罪を犯しただけで、すべての点において有罪と同じことになるということです。

わたしが、十の輪の鎖でつるされているとします。ところが、突然鎖が切れて、わたしは落ちてしまいました。よく見ると切れたのはただ一つで、他の九つの輪はそのままでした。罪についても同じことが言えます。わたしたちは、十戒という律法によって保たれています。しかしその中の一つでも破れば、わたしたちは失われた者となるのです。なぜなら、律法を犯したからです。あなたは律法全体をお守りになりましたか。その中のただ一つの戒めでも、破ったことはないでしょうか。一つでも破れば、あなたは有罪となるのです。それがどの戒めであるかは問題外です。それが殺人であろうと、あるいは偽証、姦淫、盗みであろうと、もしあなたが一つの戒めでも破ったならば、律法を犯したことになり、「有罪」とされるのです。そして、その時、世の大罪人の仲間にはいるのです。全能者の怒りは、あなたの上をおおっています。それは、あなたが神の宣告を受けておられるからです。

(『道は二つしかない』オズワルド・J・スミス著斉藤一訳1963年刊行。同書9〜11頁より引用。本稿は「救いの道」の第二回目であるが、回目は2/19の項目をご参照ください。

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