2013年3月16日土曜日

救いの道(3)天国はきよいところ

ああ、何とうるわしい家族の姿であることか、ゴッホの心
あなたは、有罪ではないとおっしゃるかもしれません。あなたは、決して罪を犯したことはないと言われるかもしれません。しかしあなたは、人間の犯し得る最大の罪を犯されたと申し上げたいのです。主イエス・キリストを拒むことほど、大きな犯罪はありません。あなたは神の愛を拒み、神の心を無視し、また神の備えられたとうとい血潮を踏みにじられたのです。あなたは神のあわれみを拒否されたため、不信仰の罪を犯されました。聖書の中で、これほど大きな罪はありません。これは、忘恩の罪でもあるのです。

神は、ご自分のひとり子をあなたに下さったのですが、あなたは、この神のとうとい贈り物を拒まれました。イエスは、「彼(聖霊)が来たら、罪・・・をさばく」と言われました。なんの罪でしょうか。殺人でしょうか。姦淫でしょうか。それとも盗みでしょうか。いいえ、それらではありません。「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです」(ヨハネ16・9)。不信仰! これこそ許されない罪です。あなたは友人から贈られたものを拒絶して、人の好意を無視するようなことは決してなさらないでしょう。ところが、永遠の救いという神の贈り物を拒絶することはなんとも思われないのです。

あなたがもし救われておられないならば、この瞬間不信仰の罪を犯しておられるのであり、それは最大の罪を犯すことになるのです。

罪の深さが問題なのではありません。イエス・キリストに対するあなたの態度が問題なのです。あなたは、イエス・キリストを救い主として受け入れられたでしょうか。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」(マタイ27・22)というピラトのことばほど重大な意味を持っているものはありません。あなたとイエス・キリストとの関係が、あなたの永遠の運命を決定するのです。

あなたは今、神のみまえで自分が有罪であることを認めておられますか。一つの罪が、あなたを永遠に天国から締め出すことを知っておられますか。それは不公平だとおっしゃるかもしれませんが、天国は備えのできた民のための場所であることを忘れてはなりません。もしあなたが、罪を犯したまま天国にはいることを許されたとするならば、それこそ神の不公平を意味し、そこにおいてあなたは、最も不幸な者となるでしょう。聖徒の仲間として入れられる時、あなたはどんな気持ちがするでしょうか。それを心から喜ばれるのでしょうか。あなたはむしろ、罪の仲間とともにいるほうが気楽だとお感じになるのではないでしょうか。あなたはまず備えられなければなりません。新しい性質を持ち、神に関することを心から喜ぶことのできる新生の経験をされなければなりません。汚れた者は、決して天国にはいることができないということを覚えていただきたいのです。

心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。(新約聖書 マタイ5・8)

神のきよさを知り得た時に、はじめてわたしたちは、罪の極悪を知ります。人は、神の聖なる性質をあまり知らないので罪を軽んずるのです。

ペテロはイエスを見るまでは、自らの価値なきことを知りませんでした。しかしそれを自覚した時「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」(ルカ5・8)と叫びました。預言者イザヤに神のきよさがわかった時、彼は「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから」(イザヤ6・5)と叫びました。神が、「全く、かつ正しい」と言われたヨブでさえも、彼の性格に何かの欠点を見つけようとしたサタンのむなしい試みのあとで、神のきよさに触れた時、自分の罪深さを告白して言いました。「それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます」と。

神の前に罪人である皆さん、あなたはこのようなきよい神の前に立たれた時、どうなさいますか。太陽の光線の中でほこりが見えるように、あなたが神の聖と全き義の前に立たれる時、今まで気づかなかったような罪がはっきりと表れてくるのです。

(『道は二つしかない』オズワルド・J・スミス著斉藤一訳11〜14頁引用) 

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