2010年4月30日金曜日

望みの門(上) F.B.マイヤー


 今日と明日の二日間に分けて標題のマイヤーの文章を紹介しよう。この「望みの門」は旧約聖書ホセア書2章の学びである。出典は『祝福された生活(THE FUTURE TENSES OF THE BLESSED LIFE)』(瀬尾要造訳71~79頁)である。

 わたしは彼女に・・・望みの門を与える。(ホセア2・15 英訳)

 本章には、神が、「わたしは・・・しようI will)」と言っておられる個所が多くある。あなたは容易に、二三十個所発見することができよう。そして、それらを熟読するとき自らの好む道を選びとって、神からさ迷い出た私たちのために、神がなそうとしておられるすべてを知って、驚き怪しむのである。それは、神の愛は無尽蔵であること、また、神は、ご自身のものとしようとして取り上げられたひとりびとりの内に、ご自身の御旨を果たされるまでは、失敗されることも失望されることもないという真理のもう一つの例なのである。それは、私たちのたび重なるそむきによって手間どり、阻止された長い過程であるかもしれない。しかし、私たちのさすらいと罪のすべてを通じて、神はご自身の全勝的愛の御旨を遂行され、ついに私たちは永遠に神とちぎりを結ぶに至るのである。

 薄暗がりの中の光

 狭い、岩の多い谷間を想像してみよう。山あいの急で、泥だらけの奔流は、荒い板石や、のこぎりの歯のような石でおおわれた小道――この山道は頂上まで続いている――のかたわらを流れ下る。両側には、水煙が立ちこめ、垂れ下がった草木の花づなしだでおおわれた岩壁が屹立し、上を見ると、狭い割れ目に見える青色は、岩壁がほとんど触れ合うばかりであることを表わしている。すべては荒れ果て、うら寂しく、恐ろしげである。ところが見よ、そこにひとりの女性らしき者が、血だらけの足、わずかなぼろを身に着け、悲嘆にくれ、絶望の姿でうずくまっている。これこそアコル(悩み)の谷であり、非常な悩みのうちにあったイスラエルの民の状態である。神は彼女(イスラエル)をいざなって、罪悪の道から荒野に導かれた。その道はかきが立てられていたので、彼女はその道がわからなくなった。穀物とぶどう酒はできず、羊の毛と麻は奪い去られ、耳輪や宝石ははぎ取られた。

 しかしながら、彼女が今や絶望のどん底に身を投じようとした時、大気は御使いの翼で、また、恵み深い神の御旨から出た、繰り返された約束のことばによって振動するかのようである。そして、それらの励ましを受けて罪びとは、「わたしは行って、さきの夫に帰ろう。あの時は今よりもわたしによかったから」と言うようになる。ああ、さいわいな決心よ! 彼女がこのことばを発するや否や、まばゆいほどの美しい衣を着た人の姿が近づいて来るのが見える。それによって薄暗がりが昼のように明るくなる。それは希望の天使である。そして彼女(天使)が、悔いる罪びとがひざまずいている所に着いて、そのつえをそばの岩に触れると、見よ、岩はうしろに退き、目もあやな美しい風景に通じている道が開ける。そこには穀物が波打ち、熟したぶどうは枝もたわわである。それはアコルの谷にある望みの門である。そこを通って悔いる罪びとは、荒野から楽園に進み入る。そこに、太陽は常に輝き、大気は芳香に満ちている。

 アコルの谷

 これに似たことが今もある。早晩、私たちはアコルの谷を通らなければならない。私たちのホームに行く道にそれがある。火の車が私たちのそばから愛する者を連れ去り、今しがたまで、祝福された伴侶とともにたどった道を、ひとりで行かねばならない。また、私たちは反対に出会ったり、悪口されたり、私たちが友人としてたよりにしていた人々から誤解されることがある。また、私たちの計画が失敗に終わったり、私たちの宿望が挫折したり、容易に手が届くかと見えた地位に達することができないばかりか、敗者のごとく引き下がらなければならない。このような時、私たちは、寂しく、痛ましく、アコルの谷を行くのである。

 「滅ぼされるべきもの」

 私たちは、最初、アコルの谷と名づけられたできごとを忘れられない。そして、私たちがしばしばアコルの谷へ行く原因のあるものに、そのできごとは光を投じるであろう。エリコを攻略した勝利に勢いづいて、イスラエルの部族はアイという小さな町を攻略するのに少人数を選び出した。そのアイはヨルダンの平野からこの国の中心部に通じる谷の頂上にある町であった。この戦争は取るに足りないもので、大した努力も必要でないと思えた。ああ! 夜のとばりが降りるまでに、少数の戦士たちが、あわてふためいて坂を降りて逃げて帰り、キャンプの入口近くまで敵に追跡されるとはだれが予期したであろう! ――それは、彼らに武勇が欠けていたのではなく、河のほとりの沈香のように光っている多くのテントの中の一つ――それはほかのテントと見たところ少しも変わったところのない――に、禁じられているものが隠されていたからである。

 私たちの生涯には、神が直接に、その慈愛深い訓練の意味から与えられる悩みがある。これらの悩みは忍ぶに耐えないものではない。なぜなら、もし神が片手にしもとを用いられるとすれば、もう一つの手で神は、傷を包み、いやし、いのちの木の葉を当てがわれるからである。また、人々によってもたらされる悩みがある。これらもまた耐えることができる。なぜなら、私たちは神の御前に行き、弁明してくださるよう願うことができる。また、神が同情してくださり、悩みをともにしてくださるようよりたのむことができるからである。しかしほかに、私たち自身が責めを負わねばならないような悩みがある。――私たちは禁じられたものを取り、人々の目には触れないように、私たちの心中に隠してなにくわぬ顔をしている。しかし私たちはその間、常に心に秘めている罪責を意識している。そしてそれは、私たちが言い開きをしなければならない神の前に、いつも裸であらわにされている。これらの悩みこそ忍ぶに最も困難なものである。そして、私たちが、この滅ぼされるべきものを発見し、それを白日のもとに引き出し、それを石で撃ち、火を持って焼くことによって除去するまでは、それらの悩みからの救いはない。(明日に続く)

(写真は40周年祝いにいただいたルノアールの「アネモネ」です。)

2010年4月29日木曜日

主の「回復」の働き


 
1948年11月と1949年2月に、ウオッチマン・ニー兄弟は上海で、指導的な同労者たちのために二回の緊急の特別集会を開きました。その最後の集会の中で、多くの祈りと考慮を経た後、ニー兄弟は主の回復の働きのために上海にとどまる決定をしました。一面で、彼は完全に主の主権に信頼していました。もう一面で、彼は危険を知り、主の証しのために犠牲となる覚悟をしました。彼が喜んでそのようにすることは、確かに主の恵みに満たされていたことによるものでした。彼は上海にとどまる決定をした後、直ちに鼓嶺(クーリン)で第二回目の訓練を行なう準備を進めました。

 1950年1月、彼は香港を訪問しました。彼はしばらくとどまって、中国大陸にすぐ戻るつもりでした。各地の兄弟たちは、彼に戻らないよう勧め、危険があると警告しました。しかしながら、中国大陸の諸
CHURCH、同労者たちの必要を覚え、また主を証する必要に迫られて、彼は戻ることに何のためらいもありませんでした。彼は危険を承知していましたが、彼の意志は堅く定まり、霊の中で勇敢であって、自分の行程を全うし、主から受けた務めを果たそうとしました(使徒20:24)。

 ちょうどその時に、彼は汕頭(スワトー)から、母親が死んだという電報を受け取りました。しかしながら、大陸の諸
CHURCHと同労者たちとの緊急の必要のゆえに、彼は3月中旬に、香港から直接上海に行き、母親の葬儀は、彼の一番上の姉に託しました。

 これは、中国における回復にとって緊急の時でした。ニー兄弟は上海に戻ると、労苦して諸
CHURCHと同労者たちを顧み、既存のキリスト教会などからまことの信仰を求めて出てきた多くの主にあるキリスト者の成長のために労苦しました。彼はまた間もなく起こることを予知して、機会をとらえて、鼓嶺(クーリン)で行なった二回の訓練メッセージを出版するようにしました。彼は、これらのメッセージが保存されて、将来の益となることを望みました。

 1952年の春、彼は捕えられて、入獄しました。そして長い審問を経て、1956年の夏に、15年の刑を言い渡されました。しかし彼は、決して釈放されませんでした。

 彼の投獄の期間、彼の妻だけが、面会を時おり許されました。彼女は1971年11月7日にこの世を去りました。妻の死は彼を大きく悲しませ、外界のいっさいの接触から断ち切らせました。彼女の死後しばらくして、1972年5月30日、ウオッチマン・ニー兄弟もこの地上の旅路を終え、彼がいのちの代価をもって仕えたキリストともに安息したのです。

 彼の主に対する信仰は、決して変わりませんでした。彼は自分自身を注ぎのささげ物として、主の回復の上に注ぎ出しました。それは諸
CHURCHを顧みるためでした。諸CHURCHは、彼が主から受けた幻と使命に従い、彼の務めを通して建てあげられました。彼は良き戦いを戦い、走るべき行程を走り終え、信仰を守り通しました。

 彼の監禁されている間は制限を受けましたが、彼の務めは縛られることはありませんでした(Ⅱテモテ2:9)。主の主権の下で、彼の務めはあまねく全世界に広がっていて、今日のキリスト教に対する反対の証しとなり、逆にすべて主を追い求めるクリスチャンに対する豊かないのちの供給となっています。

 彼が主からいただいた唯一の使命は、神の家、神の幕屋としての諸
CHURCHでした。彼自身の地上の幕屋は壊れましたが、彼が心にかけていた諸CHURCHは、存在するだけでなく、さらにたくましく成長し続け、この地上に発展しつつあります。

彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。(新約聖書 ヘブル11:4)

(今日の文章は『今の時代における神聖な啓示の先見者 ウオッチマン・ニー』と題する本の第18章を引用させていただきました。一部引用者が表現を変えたところがあります。たとえば
CHURCH
は原文で「召会」と言われていることばです。CHURCHは本来的に日本語の「教会=教えの会」という表現よりも、「エクレシア=召された者の集まり=召会」の方がふさわしいのですが、まだまだ「召会」が日本語にはなじみがないと思い英文にしました。写真は庭に咲いている花です。花の名前が家人も珍しく失念したようでわかりません。)

2010年4月26日月曜日

主イエス様が下さった40年の恵みとこれから

 今日で結婚して40年になる。あっと言う間に時は過ぎた感じである。40年と何日か前、当時下宿していた足利市の旧家N家の「離れ」の続きに建てられた洋館(上の写真) に関西から家内の嫁入り道具がトラックでどっと運び込まれてきた。広い洋館もたちまち手狭になり、畳二枚をやっと残すのみだったことを懐かしく思い出す。

 その後何週間か仮住まい的に住んでいた下宿先を出て、県営住宅、校長官舎、公団住宅など何度か居所を変え、また栃木県から埼玉県へ移るという大決断をしたこともあったが、1978年以来やっと現住所に落ち着いた。この間、五人の子どもたちもそれぞれ成長し独立し、離れてゆき、今一緒に住んでいるのは次女を残すのみになった。40年前の今日、京都の教会で結婚式を挙げさせていただいたが、過ぎし日々を振り返る時、感無量なものがある。結婚生活は 主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。(旧約聖書 詩篇127:1) のみことばでスタートした。聖書には夫婦の関係がイエス様と信者との関係に比して述べられている有名な箇所がある。いつも余りにも自分たちの結婚生活と程遠くまぶしいばかりで、敬遠していたが、今晩の『日々の光』(愛和技術研究所発行で毎日朝・夜と数聖句が載せられている本)は次のように書いてあった。

キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何ひとつない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。(新約聖書 エペソ5:25~27)

 言うまでもなく、イエス様が私たちの罪とがを贖うために十字架におかかりくださったことをパウロが述べている文章であるが、「キリスト」を「夫」として、「教会」を「妻」にあてはめて読むことも出来る。そんなことは土台無理だと初めから決めてかかったところもあったが、もう一度初心に帰り、少しでもそうありたいと願わずにはおられない。後ともに二人そろって何年生きられるかは分からない。しかし『日々の光』はさらに次のみことばを載せていた。

小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができた。花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。(黙示録19:7、8) イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。(ローマ3:23)

 このみことばは将来主イエス様が再臨されることを述べた文章である。小羊はイエス様の別名である。それに対して花嫁は主イエス様を信ずる者を指している。結婚生活を通してこれからも相変わらずお互いの欠点・醜い部分をさらけださねばならないことであろう。しかし、主イエス様を信ずるだけで、自己中心的な醜い奪う愛でなく、主が着せてくださる「光り輝く、きよい麻布の衣」をいただくことができるという望みが信ずる者には与えられているから感謝である。そして、これらのみことばを通して、ともに永遠の御国を仰ぎ見てこれからも歩み続けなさいと励まされた思いがした。

  一緒にいる次女のお手製の料理とケーキに囲まれて最初は私が祈り、最後は家内が感謝の祈りをささげたが、二人とも主に相見えることを祈った。その後、家族三人の団欒の中で料理の中にタラとジャガイモを上手に混ぜ合わせたコロッケがあり、そのことで私の高校時代の弁当の話になった。亡母の「主婦日記」(1958年)を引っ張り出し、今日4月26日のところを見た。

  朝 ちしゃ味噌汁 じゃこ煮豆
  昼 べんとう(アジ 卵焼 煮豆)
  夜 ライスカレー  

と、あった。思わず三人とも顔を見合わせて大笑いした。夜の食事メニューのメインが全く同じだったからである。(「べんとう」とあるのは父と高校一年である私が携えていった弁当の中身であり、主婦としての母は残り物を食べていたのだろうか)

  若くして召されていった亡母の願いは仲睦まじい夫婦関係・家族関係にあった。私は母が亡くなった後、家族関係で蹉跌を経験し苦しみを体験したが、主は助け手としてキリストを信ずる女性を妻として備えて下さり、私にも信仰を与え、亡母の願いに答えてくださった。遺された「主婦日記」の冒頭に羽仁もと子の次の文章があった。

  人の思うことはまづ感ずるところから来る。思うことの浅いのは、感ずることの浅さ不徹底さから来る。・・・ではその導きの手はどこにある。私はルカ伝10章を思い出す。 「視(み)よ、我なんじらを遣わすは、小羊を狼のなかに入るるが如し、財布も袋も鞋も携うな。また途にて誰にも挨拶すな。いずれの家に入るとも、先ず平安この家にあれと言え」と言われた。

  遣わされて厳粛なお仕事に従事するものに余計な道草をする時はない。もしも私たちはこの世において、無駄な道草をしない純粋な気持ちになって、ゆかり因縁のある人に場合に遭う度に、現実の好みにも思いにも囚われず、心から平安この人にあれこの家にあれということが出来るならば、真の平和はそこにあり、真の平和はそのようにして来るであろう。

  亡母にもこのような形で福音(主イエス様)は確実に伝えられていることを今日初めて知った。結婚40年目を区切りに先述の『日々の光』にあわせて、52年前の母が新年の冒頭に読んだであろう標語をさらに付け加えたい。残された結婚生活を通して私たちもまた「平安この家にあれ」とイエス様に遣わされて人々の真の平和のために祈る者でありたいからだ。

2010年4月25日日曜日

神のともし火 クララ


「あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい――光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである。主に喜ばれることがなんであるかを、わきまえ知りなさい」(新約聖書 エペソ5:8~9)

 あまりにも暗黒な現代の世相を見ては、人の世に望みもうすれようとします。しかしその時うなだれようとする首をもたげるのは「神の灯はまだ消えず」との力強いお言葉です。暗夜に光を、曠野に泉を見出したように力づき、信仰もて神を仰ぎます。かつて選民イスラエルが神を軽んじ、祭司エリの家庭も道徳的混乱と非行に乱れて聖き神の臨在が去った時、世は暗黒の翼におおわれました。

 そのような状態の中にあってもなお「神の灯はまだ消えない」との聖言のように童サムエルは神の前に若木のように育ち行き、国民の前に神の灯としての使命を果たしたのです。彼は永遠の灯をかかげてイスラエルの民を神に引きかえしました。どんな絶望的に見える時代にも、神のともし火はなお消えないとの事実は神の無限の憫れみを示しています。

 暴虐な異邦の王の前に神の灯をかざしたダニエルの生涯、また聖言に守られたエリヤの危機も神は生きていますとの証しでした。神はどんな混乱の中にも、暗黒の中にも永遠の灯をもちたまいます。世が悪の故に亡びた時も義しきノアは守られ、町が滅ぼされた時もロトは救われたのです。神は灯を与えたまいます。反逆ユダヤ人の中より一人のニコデモに限りなき生命を語られ、サマリヤの一婦人のためスカルの井戸辺に生命の泉は流れ出ました。神は誰を遣わそうかと生きた灯を求めていたまいます。

 信仰によって心に主イエスを宿します時、光は暗のうちに輝き、やみはこれに打ち勝たないのです。神の灯とは信仰に満ちた人で、彼らは神の業をします。ジョージ・ワシントンの祈りは、アメリカ建国の基となり、リンカーンは奴隷廃止によって人間に自由の流れを与えました。ルターは「信仰による義人は生きる」との灯をかかげた勇者です。

 かつてシカゴが手のつけようもない暗黒に覆われて、悪人は警官と手を結んで悪事の横行した時、市長は大決断をもって一人の優れた学校の教師を取り上げ、シカゴの市政に当たらせましたら、日ならずしてシカゴは一変したと言うことです。ともし火をもった唯一人の人が立ち上がりますなら、社会にもグループにも家庭にも必要な変化がおこります。神の灯なしに人は自らを知ることは出来ず、したがって自らの生きる目標も、生存の価値も責任も知る事は出来ません。

 思えば空しい存在でありました我々も、今は光の子とせられ、生きがいのある生涯を主に感謝する者です。

 ギデオンのいくさに用いられたからつぼのように神の火をうちに宿し、やがては使命の場所につぼは砕かれ、内なる神の火が輝き出て、み民の勝利が鮮やかにほめたたえられますように!! 神の火はまだ消えない!!

(『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著116頁4月25日から引用。写真は中国生まれの月光花。「月光花 草むら照らす 灯よ 暗黒の世に キリストの愛」)

2010年4月24日土曜日

再び「万年筆考」


 一昨日夜遅く、Fさんから携帯に突然電話があった。「○○さん、万年筆を見つけましたよ!」。最初何のことか分からなかった。その内、その日の前夜Fさんの車で家まで送ってもらったことを思い出した。してみると、助手席に座らせていただいたので、助手席のどこかに万年筆がポケットからこぼれおちたのだろうか。それに気づいて電話くださったのだ。ありがたかった。「明日で(お渡し願うのは)いいですよ」と電話を切った。それにしても丸一日、万年筆の不在にさえ気がついていなかったことを知り、内心恥ずかしかった。万年筆は私の霊的生活のバロメーターみたいなものである。というのは、私は聖書を毎日読むが、聖書のことばをノートに万年筆を使って書き写すことを日課にしているからである。そのように大切な万年筆の不在を知らなかったのだから、私が無為に木曜日の一日を過ごしたことを何よりも雄弁に物語っている。

 一方で、丸一日もその存在すら忘れられている万年筆のことを思うと可愛そうになった。去年の3月にも前ブログ(『泉あるところ』2009年3月3日「帰ってきた万年筆君」参照)で万年筆紛失の仔細を事細かに書いているから、ほぼ一年振りの紛失である。その時は大騒ぎした挙句何日か後に戻ってきた。今回は電話をいただく前に、ノートに書き留めようとして万年筆を捜したのは事実だが、落としたという自覚はからきしなかった。なのに発見はきわめて早く、気がついて電話してくれたFさんの声は、「天」からの声のようで、ありがたかった。

 聖書に次のようにある。
主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(新約聖書 ヘブル13:5)

 このみことばって、本当にすごいことを約束しているみことばなのだと、改めて自身の万年筆紛失の不覚さを通して教えられた思いである。しかし、今朝もう一つの主ご自身の真実さを教えられた。名著とも言うべき『十字架の勝利』(エーリヒ・ザウアー著 聖書図書刊行会発行 19頁)の次の文章である。

自己追求の人間の心は、他人のものを不正な方法で手に入れた物でも、これ幸いとそれを固く保とうとするであろうが(ピリピ書2・6)、愛のみなもとである御子は、自分の本当の正当な所有物である神の形及び神の位をさえ、あらゆる犠牲を払っても固く保つべきものとは思わずそれをわれわれの救いのために引き渡された。かれは贖われたわれわれを、ともに天の高きところへ携えのぼるために、「地の低きところまで」降りたもうた(エペソ書4・9)。神は人が神を知るものとなり得んがために、人となり給うた。かれの貧しさによってわれわれが富める者となるために、貧しき者となりたもうた(コリント後書8・9)

 万年筆は前にも紹介したように教え子の方が私の退職記念にとわざわざ下さったものである。私にとっていただきものであるが、絶対に手離せない代物である。この万年筆を所望する人は恐らく日本国内ではいないであろう。しかし外国の貧しい少年がいたらきっと欲しがることだと思う。私はその時この万年筆を手離すことができるだろうか。できない。しかし、主イエス様はそんなことはお考えにならなかった。一方的に主イエス様を信じない者が受ける罰である「死」を自ら進んで受けるために死なれたお方である。人の愛と神の愛は全く違う。万年筆紛失のことを通して、もう一つの真理、自己追求しか眼中にない人の愛と、そうでない神様の愛とのちがいを思わざるを得なかった。

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(ピリピ2:6~8)

(写真は家の前の花蘇芳<はなずおう>。左横に覗くは雲南黄梅の緑、下に黄色の花が咲き乱れているが、今回はカット。主役は花蘇芳のつもり。<すおう>は4月18日の誕生花だそうだ。「花蘇芳 などてその色 空示す 創造主の 贈り物なり」「しもべなり 万年筆の 変わらざる 働きを見て かくありなんと」)

2010年4月22日木曜日

着物の裏に縫込みし文 パスカル


     キリスト紀元1654年

 11月23日月曜日、教皇で殉教者の聖クレメンス、および殉教者伝に出ている
 他の殉教者たちの祝日、殉教者、聖クリソゴノス、および他の殉教者たちの
 祝日の前夜、夜10時半頃から、12時半頃まで。

     

 「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」。出エ3:6
 哲学者や、学者の神ではない。
 確実、確実、直感、よろこび、平安。
 イエス・キリストの神。

 「わたしの神、またあなたがたの神ヨハネ20:17)
 Deum meum et Deum vestrum.」

 「あなたの神は、わたしの神です」。ル ツ1:16
 この世も、なにもかも忘れる、神のほかは。
 神は、福音書に教えられた道によってのみ、見出される。
 人間のたましいの偉大さ。

 「正しい父よ、この世はあなたを知っていません。
 しかし、わたしはあなたを知りました」。
ヨハネ17:25
 よろこび、よろこび、よろこび、よろこびの涙。

 わたしは、神から離れていた。
 「生ける水の源であるわたしを捨てた(エレミヤ2:13) 
 Dereliquerunt me fontem aquae vivae.」

 「わが神、わたしをお捨てになるのですか」。(マタイ27:46)
 どうか、永遠に神から離れることのありませんように。

 「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、
 あなたがつかわされたイエス・キリストを知ることであります」。
ヨハネ17:3
 イエス・キリスト。
 イエス・キリスト。
 わたしは、かれから離れていた。かれを避け、かれを捨て、
 かれを十字架につけたのだ。
 もうどんなことがあろうと、かれから離れることがありませんように。
 かれは、福音書に教えられた道によってのみ、保持していられる。
 すべてを捨てた、心の和み。
 イエス・キリスト、そしてわたしの指導者へのまったき服従。
 地上の試練の一日に対して、永遠のよろこび。
 「わたしは、あなたのみことばを忘れません
 Non obliviscar sermones tuos.」。
(詩篇119:16)アーメン。

 以上はパスカルの『メモリアル』(パスカル著作集第一巻159~161頁田辺訳の引用)である。これは冒頭のごとく、1654年11月23日のパスカル回心の証と言えよう。伝記によるとパスカルは、この夜の経験を羊皮紙に記して死ぬまで着物の裏に縫いこんでいたということである。だから上の文章は彼の死後見出されたものだ。野田氏はその間の事情を推測して次のように書いている。(『パスカル』野田又夫著岩波新書94~95頁をもとに再構成)

 「恩寵の年1654年、・・・夜10時半頃から12時半頃まで」と日時を記した後、まず太字で一字「火」と書かれている。焔をあげて輝く火を見たか否かは分からない。パスカルの心が熱したことは確かである。そしてすぐ下に、「『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』にして哲学者科学者の神ならず」、と書き、「確実、確実、直感、よろこび、平安」とわが心のさまを、もどかしげに書きつけている。そしてその神は「イエス・キリストの神」である。

――パスカルは哲学者や科学者が、形而上学的理性によってないしは自然の因果をたどることによって証明する神においてではなくて、焔の中にモーゼに現われ、預言者を励まし、最後にイエスにおいて人間の形をとった神において、「確実性」を、自らの信仰の証を、得た。それは心情に「直感」される神であり、わが心の底に「よろこび」と「平安」を注ぎいれる神である。

 つづく数行においてパスカルは父なる神に向かう。復活せるイエスはマグダラのマリヤに現れて言った、「わたしは、・・・わたしの神、またあなたがたの神のもとに上る。」 パスカルは「わたしの神、またあなたがたの神」と書く。「この世も、なにもかも忘れる、神のほかは。神は、福音書に教えられた道によってのみ、見出される。」そしてここにおいて「人間のたましいの偉大さ」が大書される。いまや魂はイエスとともにあって父なる神につながるのである。

 魂はイエスとともに神に向かっていう「正しい父よ、この世はあなたを知っていません。しかし、わたしはあなたを知りました」。自らの魂のこの神への高揚において与えられるもの、それは「よろこび、よろこび、よろこび、よろこびの涙」である。

 ――しかしわが過去はいかがであったか。「わたしは、神から離れていた。」それは神がかつて 「生ける水の源であるわたしを捨てた」と咎めしごとくであった。その罪をわれにかわってすでに贖ったイエス・キリストの最後の言葉は「わが神、わたしをお捨てになるのですか」であった。キリストによって、われは祈るよりほかない。「どうか、永遠に神から離れることのありませんように」と。

 ついでパスカルは改めて神の子イエスに向かう。「イエス・キリスト。イエス・キリスト。」と再度記されている。しかもこのイエス・キリストに自分はそむいたのではないか。「わたしは、かれから離れていた。かれを避け、かれを捨て、かれを十字架につけたのだ。」されど「もうどんなことがあろうと、かれから離れることがありませんように。」そしてつねにキリストとともにあることは、「福音書に教えられた道によってのみ」可能である。すなわち「すべてを捨てた、心の和み。」「イエス・キリスト、そしてわたしの指導者へのまったき服従。」

(今日は昨日と打って変わり冷たい雨の一日である。心まで冷え冷えとしてきた。何とか心を上向きにと思い、パスカルの焔の文章を思い出した。写真は昨日撮影しておいた庭のブルーベリー。「文遺し 若きパスカル 御国から 焔伝えし わがはらからよ」「卯月に 氷雨しとしとと 花咲かす ブルーベリーの いのち縮まる」)

2010年4月21日水曜日

十六、太平洋をへだてて


 親愛なる教父ヴォーリズ様
 わたしは今、生まれてはじめて、味わう大陸の気分に浸っています。あなたが買ってくださった万年筆をとって、遠く太平洋のかなた、ロッキー山脈の東、コロラドの高原を想像しています。わたしは、今、満州の中央奉天府の郊外、清朝の廟所、草むす北稜の、石獣がいならんでいる庭から、茶褐色のはてしないこうりゃん畑を眺めています。
 あなたはこの初夏、太平洋を渡られました。わたしはこの真夏に玄界灘と黄海を渡りました。あなたは東しました。わたしは西しました。詩人キプリングは、西と東は永久に一致せずとか詠ったそうですが、あなたとわたしは太平洋をへだてても、キリストの結び給いし兄弟の心は親しいものですね。
 わたしは、今、あなたから離れてゆく最長の距離―奉天とデンバー市―よりこの手紙をだして、わたしは、あす方向を逆転して再び一歩一歩、あなたに近づくことになることを喜びます。あなたは早く健康を回復して日本に戻ってください。
 まだ見ぬご両親様と弟様によろしく。
 明治38年8月10日

 わたしは書きおえて涙ぐんで祈った。
『天の神様。メレルはあなたの愛子です。必ず日本へ再び帰れるようにしてください』
繰り返しごとを祈るなと、キリストの教えにあっても、わたしの祈りは繰り返されることが多かった。

 北稜の見物を終えて、わたしはこうりゃん畑の中の一筋道を、学友のOとHの三人で肩をそろえて奉天府北門へ帰ってきたとき、大陸の澄み切った西の空は、光り輝く夕日に照らされていた。陸のうねりと、海のうねりとを考えたり、人影のない広野と、せせこましい琵琶湖畔の景色などを思ったりしながら、泥と汗にまみれた満州苦力(クーリー)のようになって宿に帰った。

 その翌日、わたしは七人の馬賊が斬殺される刑をみた。
 半裸体の男の首のない死体が七つころんだ。筋肉隆々とした一粒よりにしても珍しい、七つの肉の持ち主の首がとんだ。鮮血はしょうゆ徳利がころんだように、だくだくとでた。そして切り跡の首筋は脊髄を白くみせて、じりじりと縮んだ。(引用者註:このあと延々と5行程度悲惨な様子が淡々と述べられてゆく。引用者としてはこれ以上パソコンに打つ気力をなくしたので、カットする。)

 わたしは支那に渡って、初めて、日本の文化が隣国よりもすぐれていることを体験をもって知った。そして同時に、宣教師や教師として欧米より日本に渡来する人たちが、日本をどんなにみることだろうと考えてみた。こんどヴォーリズさんが、再び日本に来られたなら、真の親切がしてみたい気がした。わたしは夏の終わりごろ朝鮮を渡って帰国した。

 親愛なるベビー様
 わたしの身体は日増しによくなります。九月には再び近江八幡に着きましょう。神はわたしをお導きになりますから。諸兄弟によろしく。メレル

 という文字のある、美しい絵葉書が、神戸の家にきていて、わたしを待っていた。わたしはうれしくて、ただちにイザヤ書と詩篇を英文の聖書で毎日読むことにした。そして性の目覚めようとするころの奮闘に、その夏を勝利者、克己者としてすごした。
 
 やがて九月がきた。
 ある日、横浜にヴォーリズさんを迎えに行った。
 汽船から岸壁に降りたヴォーリズさんは、見違えるほどの健康体でにこにこして握手した。「ベビーさん」というのは、わたしのことで、わたしはヴォーリズさんの八幡における家族生活の最年少者なので、ベビーさんという綽名をもらっていた。
『ベビーさん。あなたは、わたしより背が高くなりましたね。うれしいことです。わたしはわたしのボーイズがわたしよりも高くなることを無上の喜びと思います』

(やっと春らしい天候に恵まれました。思い切って古利根川にまで出かけ、川べりで菜種花を撮影しました。今日の引用文章は吉田悦蔵氏の著作の24年版と友人から貸与いただいている44年版とを適当に組み合わせて編集しなおしました。横浜は私にとって全く縁のない都市だとばかり思っていましたが、先々代が横浜の南仲通というところにいて『福翁百話』をせっせと模写したものが虫食い状態ですが保存されていたのをいつのころか田舎の家で見つけ感激したことがあります。『福翁百話』は明治29年の作ですから、恐らく先々代は買うお金もなく、どなたかのものをお借りして筆で書き写したものと思われます。今日のヴォーリズさんの横浜港への帰還の話とそう違わない時期に先々代もいたのか、と勝手に思いを馳せました。吉田さんに敬意を表して英文欽定訳聖書イザヤ書を書き写す。And the ransomed of the Lord shall return, and come to Zion with songs and everlasting joy and gladness, and sorrow and sighing shall flee away. Isaiah 35:10)

2010年4月20日火曜日

十五、往復切符


 痩せて細く、青黒くなった身体をヴォーリズさんは京都の友人、当時京都市YMCAの名誉幹事フェルプス氏の宅に横たえていた。邸は京都御所の裏、今出川通りの古びた洋館で、庭の樹木のみ美しい緑を、梅雨の雨上がりの、暖かな太陽にむけて誇っていた。

 わたしはしばしば見舞いに行った。そしてヴォーリズさんがだんだん悪くなるのを悲しんだ。わたしは英語の会話が多少できる自信をもっていたが、フェルプス夫人の女声で学生に親しんだことのない、生粋の英語が聞きとれないのに、ドギマギしながら家族の一人のように待遇されて食卓についた。二階の一室に死期を待つように見えたヴォーリズさんを想い出すごとに、涙ぐましくなった。

 『ミセス・フェルプス、一体メレルさんはどうなるのです』その頃からは、ヴォーリズさんを、フェルプスさんと同じようにメレル・メレルとファースト・ネームで呼ぶことになった。『ドクターの話では腸結核だろうというのですから、出来たら今のうちに本国へ帰るがよいとおもいます』わたしはホームという言葉に本国の意味のあることを、その時初めて知った。『しかし、神戸のサナトリウムで、一二ヶ月養生したがよいとすすめているところですよ』と同夫人が言葉をついだ。

 わたしはサナトリウムという言葉がわからないので、療養所という意味であることを説明してもらった。それからわたしはフェルプスさんのところで、ヴォーリズさんといっしょに泊まることにした。もちろん学校は休んでいた。四五日してから、ヴォーリズさんは神戸の布引の瀧の傍のサナトリウムに入院したので、わたしは八幡の暗い大きな家に帰った。

 半月ほどして、ある日の午後突然六尺豊かなフェルプスさんが、ヴォーリズさんを赤布に包むようにして人力車にのせて八幡にやってきた。『どうしたんです』わたしは驚いてたづねた。『メレルは今晩の急行で横浜へいって、明後日出帆のエンプレスで、合衆国へ帰ります。私はメレルを寝台に寝かしておいて、手回りの品を集め、荷造りして今夜立たせようと思います』

 そして時間がないというので、ドシドシ靴のまま、畳敷きのところも早足ではいって来られた。ヴォーリズさんの寝台の用意をコックに命じ、自分はステーマー・ラッグのかぶせてある大型のトランクを部屋の真中に引出して、衣類やら、何やら手回りの品をつめ始めた。ヴォーリズさんは、静かに、ほんとに元気のない亀のあゆみのように、表口より奥の間に独りで歩んできて、わたしの心配らしい顔をみて、両眼に涙ぐましいうるみを光らせている。わたしは胸のなかに『殉教者! 神よ、再び彼に健康な身体をあたえてこの日本に、この湖畔に帰らせ給え』と祈った。

 わたしは涙をかくしながら、フェルプス氏を手伝って、ヴォーリズさんの荷造りを二三時間ですませた。そして頼んだ運送屋は馬車を一台もってきて、トランク二個、行李、スーツケースを無造作にはこんで行った。『メレル、書籍はどうするの、それからまだ大分荷造りのできないものがあるが、それはどうしよう』『フェルプスさん、私はきっとふたたび帰ってこられそうですから、そのまま置いときましょう、近頃なんだか病気も大丈夫よくなるという確信ができましたからね、そして横浜でも往復切符を買ってください、半年もするとまたこの家に帰ることにきめますから』と寝台の上の病人がそういって身をおこした。

 『吉田さん、私はね、今度帰国したら、お土産に、学生青年会館を八幡町の中央に建てようと思うんです。あなたは、町の中央に土地をみつけてください。私も少々貯金ができたし、国に帰れば篤志の友人もあるからね。二十人位の寄宿舎と、三百人位の集合する場所をつくりましょう。私はいったんは、近々に日本の土になると思うたが、何だかまだまだ働けるようになると思う夢をみているんです。お互いに太平洋をへだてて祈りをしましょうね』

 フェルプスさんはわたしの顔をみて淋しく、ある合図をするように笑っていた。そしてその目には病人に知らせてならぬ消息があるようだった。夕食をすませると、三四人の教会の人たちが驚いてやってきた。そしてまだ夏に早い晩春の星空の下に、人力車をつらねてあの八幡町の郊外の長い縄手をステーションへ指して走った。

 わたしはヴォーリズさんを米原まで見送った。九時過ぎであった。もう離別すべき時がきた。上り急行は今五分にして着するという時、ヴォーリズさんと腕をくんでプラットの南端に歩んでいると、月に光る湖面をへだてて、遠く比良山の上空に壮大な尾をひく彗星があった。

 『ハレース、コメット!』
 『ハレー彗星が出ましたね、悲しい別れの不思議な記念ですね、メレル、早く帰ってください、私は祈ります』

 わたしはヴォーリズさんと握手しつつ泣いた。汽車は月空に黒い煙を残して東へ疾走した。わたしは夜半八幡に帰ってヴォーリズさんの許可をえて自分の寝室にした二階の六畳の鉄の寝台に、身を横たえて、羽枕に顔をうづめて泣いた。
 『我等の父なる神、私共の目をあなたに向かしめた恩人、愛師ヴォーリズさんをふたたび必ず湖の国へ帰らしてください、それは神の国の進歩になりますから』
と。後にきけば、ヴォーリズさんは不治の病をもっていたので、ふたたび日本にくることはあるまいとて、フェルプスさんはヴォーリズさんに片道切符を横浜でわたして、ヴォーリズさんの貯金を全部米国の為替にかえてしまったが、ヴォーリズさんはいったん仕方なしに承知しても、フェルプスさんが帰ってしまうと東京の友人から金をかりて直ちに切符代を増払いし、通用期間六ヶ月の割引往復切符を買い直したのであった。

 それから明治三十九年の六月、ヴォーリズさんは富士山とさくらの国を後にして、星条旗のひるがえる国ロッキー山脈のふもとへ帰ってしまった。

(『近江の兄弟』吉田悦蔵著62~66頁より引用。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」ピリピ2・13。ヴォーリズさんのいのちがけの行動の背後にはこのような全能の主の導きがあったことを思わざるを得ない。写真はヴォーリズさんも昼間の出発なら見たであろう、米原駅を越えてすぐ見える伊吹山。しかし彼らの眼前には遠く比良山に彗星が見えたと言う。この写真で伊吹山の左手奥に見える冠雪せし山が比良山であろう。「異国にて 涙の谷を 越え行きて 証をせんか キリストの愛」)

2010年4月19日月曜日

十四、迫害と「愛敵」の行動


 それから、クリスチャンの学生らは毎朝ヴォーリズさんの借家に集まって、祈祷会を開くことになった。
 学校には、祈り会を終わった20名余の学生がヴォーリズさんを取り巻いて、登校する途中で讃美歌を唱うものや、聖書を読みよみ歩むものもあった。19名のクリスチャン学生は白熱した感激的信仰を持つようになって、商業学校の三百の生徒間に盛んに福音の伝道が始まった。

 教会の会員となった小学女教師N嬢が、脳脊髄炎にかかって危篤だときいた青年の一団は、毎朝、祈り会で彼女のために祈ったり、その宅を訪ねて三々五々、祈りに行ったりした。ところがとうとうN嬢は永眠した。
 そこで、クリスチャン学生は大挙して、学校を休んで葬式に列した。銘旗をもち棺をかく、花輪をもつ、その他何でも葬式人足の役は青年学生が喜んで当たった。教会で式を終わって愈々西山の火葬場に行く葬列を作っていたとき、M先生が飛んできた。そしてその時の顔は青く沈んでいた。
 『オイ、諸君、学生諸君は一寸集まってください』
 Mさんがきた、不安な顔をして僕等を呼んでいる、というので、一隅に四五人いった。他のものはMさんが何というたとて、葬列を他所にするものでないとて離れないものが多数あった。

 『君等は考えて行動してもらわんと困るね。信者になることもよい、教会のために尽くすこともよい、しかし近頃の新聞にあんなにクリスチャン退治をやっている最中、学校を休んでまでも教会員の中でも妙齢の婦人のために葬式に来るなんて、大分熱が高過ぎるじゃないか』
 といって、『今更役を引き受けているもの全部を引上げることも出来ないし、僕は実に困った。ひょっとすると、こんな事からヴォーリズ先生が余りに宗教熱心というので、学校におられん事になるかも知れんと僕は心配するんだ。それで君等のなかで、役のない会葬者は皆登校してくれ給え、僕は頼むよ』

 M先生はクリスチャンであった。そして最もくわしく、険悪になってゆく、教員仲間の空気と、県庁の役人達の意向をしっていた。また近頃のヤソ退治の新聞記事の影響を感じていたのだ。それでも学生は一人も引揚げるものがなかったので、Mさんはスゴスゴ心配顔して学校へ帰った。

 葬式の後にN嬢一家は主イエスを信ずる家庭となった。N子の父は信仰の告白をした時、クリスチャンの同胞主義の実行より神を認めたというた。

 それから滋賀商業の学生間にYMBAが組織された。仏教青年会である。東本願寺の派遣僧、伏見のM師を中心として数十名の学生が団結して、そしてその発会式は盛大なもので、西の別院本堂に、数百の学生と有志が集まった。そしてクリスチャンの生徒は賓客として招待された。仏教徒は『しっかり宗教運動をやれ、東本願寺が後援するから』というていると風評するものがあった。
 反動の傾向がみえた。国粋保存だの日本主義だのが、学生間に叫ばれた。仏教も外国より輸入された宗教であることは棚にあげて、外国に降参する国賊ヤソバテレン共ということになった。

 ある日、北栄太郎が学校の運動場で、ベースボールのバットで頭をしたたか叩かれて卒倒した。そして加害者のSが今にも放校されんとした事があった。
 北は頭を包帯でグルグル巻きにしていたが、その姿で教員室の生徒係に出頭して加害者Sのために弁解してやった。そしてその処分を取り下げてもらった。北はクリスチャンであった。そのSは校内で有名な乱暴者で、ヤソ排斥の大将でピストルを持っているので恐ろしがられた。ニキビだらけの青年で、ヴォーリズを殺せと叫んだのは、この男である。

 もう一人物騒な男があった。Wというので、尋常商業の一年生、年齢十五、六歳の仲間のなかでかれは二十歳を過ごしていて、先生達のような髯を生やし、その頃流行のインパネスを着こんで、煙草入を腰にさして登校する。それが酒をのんで、懐の白鞘を抜いてみせる気味の悪い青年だった。
 国粋主義で、ヴォーリズは国賊の源だから、この白刃の錆にしてやると揚言していた。
 SとWは常に兄弟分のようにして、校内で幅をきかしていて、その鉄拳を見舞われたものはザラに多かった。また鉄拳の洗礼をうけて子分のようになったものも相当にあった。

 『ヴォーリズさん、SとWが、あなたを殺すというてますぜ』と注進するものがあった時、ヴォーリズさんは柔しく笑っていた。
 その内ある夜Kというヴォーリズさんと同居していたクリスチャンが、鎮守の森の散歩から帰る途中、欄干つきのお宮の橋から、何者とも知れぬ二三人の黒い影に襲われて川の中に投げ込まれて、ズブぬれ姿で帰ってきた。それからほとんど毎日事故があった。叩かれたもの、突き飛ばされた者、威嚇されたものが、毎日その出来事をヴォーリズさんに告げた。
 毎朝の祈り会はいよいよ盛んになった。

 ヴォーリズさんは、そろそろその顔の薔薇色を失いかけた。そして腸が悪い、腸が痛いと、持病のように言うようになってきた。ある日SとWがヴォーリズさんを訪ねた。そしてクリスチャンにしてくれと志願した。ヴォーリズさんは驚いてそのわけを聞くと、
 Sは『北の愛敵の実行に感激した』といった。Wは『祈り会の庭に忍んでいて偵察した時に非常に感じた』というた。
 クリスチャン連中は心から万歳を称えて二人の新兄弟を団体に加えて、親睦会を催した。その時、
 ルカ伝十五章の放蕩息子の話を脚色して素人劇をやった。Wが放蕩息子でSが誘惑者になった。そして一齣一齣、深刻な悔い改めの表情がよくできた。

 そうこうして、明治39年(1906年)の三月がきた。
 そして上級の熱心党クリスチャン学生の大部分は、わずかに三名の同志を校内に残して、八幡を去った。
 M先生も、旅行免状をとって、ヴォーリズさんの母校に遊学することとなり、遠く北米の天地に去った。それで、四月、新学年が始まると、今までの賑やかなヴォーリズさんの家は急激に淋しくなった。そして主人公も腹の病が日増しに悪くなって蒼白な顔に、深い皺がよって、梅雨の頃には、京都の同志社病院に入院してしまった。
 Iはレインコートを着たヴォーリズさんを抱えて、二人乗り鉄輪の車にのって、京都のフェルプスさんの宅まで送っていったが、途中ヴォーリズさんが青い顔をして、
『あなたは私の本当の弟のように、よく介抱してくれて実に嬉しい、しかし今度は私も日本の土になるでしょう』と言うた。

(『近江の兄弟』吉田悦蔵著56~61頁より引用。ただし原標題は「宗教熱心」というものであったが、引用者が勝手に内容を考えて標記のように変えた。なお、私の版<昭和24年版>では「I」となっている人物が、後の版<昭和44年版>では「I」は著者の吉田氏自身であることが明記されている。後年の版では吉田氏が召されたのでもはやイニシアルの必要がなくなったのであろう。そう思って前回のものも読み直してみると、これらの文章の証言がより一層真に迫ってきた。今日の箇所はヴォーリズさんにとって最初の蹉跌なのだろうか。しかし聖書には「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。」詩篇126・5というすばらしい約束がある。)

2010年4月18日日曜日

すばらしい愛 


「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい」(新約聖書 ヨハネ15・9)

 ここで主ははじめて譬ばなしを離れて、父なる神について率直に語られている。譬では愛については何も教えることができない。自然のぶどうの木と枝との関係は、すべて自然の法則の束縛のもとにあって、そこには生きた愛はないのである。私たちはキリストを神によって任命された、私たちの必要なものの供給者に過ぎないと考える危険性が多分にある。このような考え方では、キリストご自身の強い愛が私たちを抱擁し、私たちのいのちはこの愛によってだけ真の幸福を見つけ出すことができるという大切な事実が忘れられてしまうのである。

 キリストはこの事実を私たちに教えるために、もう一度キリストの生涯と私たちの人生とが全く同一のものであることをお示しになった。父がキリストを愛されたように、キリストは私たちを愛されるのである。父を信頼しきったキリストの生涯は、父の愛の中にある生涯であったのである。その愛がキリストの力となり喜びとなった。キリストの中にとどまっているこの父の愛の力によって、キリストは生き、そして死なれたのである。私たちがキリストのような生涯を送るためには、私たちもこの愛を分け与えていただかねばならない。私たちはキリストと同じように、神の愛の中で生きていかねばならないのである。もし神の愛がキリストをまことのぶどうの木としたなら、キリストの愛は私たちをまことの枝とすることができるはずである。

 さて、父はキリストをどのように愛されたのだろうか。神が持っておられるすべてのものをみ子に伝え、み子をご自身と完全に等しいものにし、神はみ子の中に住み、み子は神の中に住むという神の限りない願いと喜び―これが神のキリストに対する愛であった。この愛は栄光の奥義であって、私たちはそれがどのようなものであるか、とても考え及ぶことができるものではない。そのような愛、それと全く同じ愛をもって、キリストは私たちをご自身の性質と祝福の分担者として、私たちの中に住み、ご自身の中に私たちを住まわせることを、限りない喜びをもって望んでおられるのだ。

 もしキリストがこのように強い、このように限りない天の愛をもって私たちを愛されるならば、愛はすべての障害に打ち勝ち、私たちを愛の手の中に収めるはずなのに、実際はこれを妨げるものがあるというのはどういう訳であろうか。その答は簡単である。父のキリストに対する愛と同じように、キリストの私たちに対する愛は神の奥義で、私たちの努力で理解するにはあまりにも高大に過ぎるからである。キリストの中にあるこのすばらしい愛の力を啓示することができるのはただ聖霊だけである。枝に実を結ばせるのはぶどうの木であるように、聖霊によって私たちの心の中に住むのはキリストご自身でなければならない。このようにして私たちは愛を知り、愛は私たちの中に住むのである。この愛こそ、愛がどんなものであるかを私たちに伝えるのである。

 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである」※。 私たちは生きておられるキリストに近づき、キリストを信じ、キリストに従い、キリストの愛が私たちの中にとどまるようにしようではないか。父がキリストを愛されたことを、キリストがそれを知りつついつも喜んでおられたように、父がキリストを愛されたように、キリストが私たちを愛されることを、私たちも絶えず意識しつつ生きていこうではないか。

 祈り

『父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである』とあなたは言われました。親しき主よ。私はぶどうの木のいのちと、枝のいのちが全く同じものであることがようやくわかり始めました。あなたはぶどうの木、父があなたを愛され、あなたをとおして父の愛を注がれるからです。だからこそあなたは私を愛してくださるのですし、また枝としての私のいのちは、あなたのいのちと同じように、天の愛を受けたものです。そして私はその愛をほかの人にも分け与えます。アーメン」。

(文章は『まことのぶどうの木』マーレー著安部赳夫訳85~89頁より引用。※安部さんの翻訳では「父が私たちを愛されたように・・・」となっていた、原文を見られないので確かめようがないが、前後関係から見て、ここは「父はわたしを愛されたように・・・」ではないかと勝手に判断して文中のものに変えた。写真は昨日土曜の朝、浅間山麓の長野県御代田町で浅間サンライン道路を眼下に、遠く八ヶ岳を遠望したもの。4月にしては珍しい雪に東日本など各地が見舞われた。信州地方は当然のごとく雪に見舞われた。しかし、一日にして20センチ弱降り積もったかに見えた雪もさすがに陽春だ。たちまちにして溶け失せたようだった。)

2010年4月15日木曜日

すみれ

 道端に野生のすみれが咲いていた。アスファルト道路と歩道のほんの隙間のところに写真のように一塊になって咲いていた。久しぶりに村田ユリさんの画文集を開いてみた。ユリさん曰く

 日本の山野には五十種ものすみれがあるという。一生懸命に親しくなろうとしても、顔と名をはっきりと識別するのは大変に難しい。どれも、あけぼのすみれ、たちつぼすみれ、えいざんすみれ、と、名と姓がある。ところがただ一つ、すみれ、と姓だけ名乗る花がこれである。なぜそうなのかは知らないけれど、多分一番すみれらしいからなのだろう。代表者に選ばれた花なのであろう。
  
 私もこの花だけは何処でも見つけても迷うことはない。優しく、愛らしく、誰もが眼を細めて眺める春の花である。

 ゲーテもハイネも、この花によせる詩を書いた。これにモーツァルトやスカラッティーが旋律を添えて、これをより不朽のものとした。それだけではない。デューラーのたった一輪を描いた有名な絵もある。こんなに巨匠たちをとらえた花は他にあったろうか。花仲間の間でも羨望の的であろう。

 4月28日 御代田

 と、あった。文中、モーツアルトと書いていたので、早速調べてみた。声楽作品集に「すみれ K.476 Das Veilchen」として収められていた。原詩はやはりゲーテだ。

 すみれが一つ草原に
 丸まって人知れず咲いていた。
 かわいらしいすみれだった。
 そこへ羊飼いの若い娘が
 足取り軽く心朗らかにやって来た。
 向うから、向うから
 草原をやって来ながら歌っていた。

 ああ! とすみれは考える、私が
 自然の中の一番美しい花であったなら、
 ああ、もうすぐに
 あの大好きな人が私を摘んで 
 胸にそっと当ててくれるだろうに!
 ああほんの、ああほんの
 15分間でいいのだが!

 ああ! だがああ! 少女はやって来て
 すみれは気づかずに
 かわいそうなすみれを踏みつけた。
 すみれはくずおれて死んだが、それでもなお喜んでいた、
 たとえ私が死ぬとしても、
 あの人に踏まれて、あの人に踏まれて、
 あの人の足元で死ねるのだから。

 かわいそうなすみれ!    Das arme Veilchen!
 かわいらしいすみれだった。 Es war ein herzig's Veilchen.

 イエス・キリストもまた踏みつけられたお方だった。

彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て満足する。・・・自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられた・・・しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。(旧約聖書 イザヤ53・11、12、10)

 春雨に 群れなすすみれ 往き交いて 無事見届けし 紫ロード
 イエス君 踏まれしすみれ 友たりと 犠牲の心 汲みたりゲーテ

2010年4月13日火曜日

十三、捏造記事


 ストライキがあった日の翌晩、暗闇の夜であった。Iはヴォーリズさんの書斎でリンコルン伝を読んでいた。Iはやっと英文の「天路歴程」を読み終わったので、生まれて始めて一冊の原書を、しかも四百頁もあるものを読みこなしたので、嬉しくて夢中になって第二の英書をよんでいた。

 『I君一寸きてくれ給え』
 障子のそとに芋虫と綽名された同級生が、吹き消したばかりの提灯を片手に、立っていた。
 『今なあ、山田の所でクラスの者がよって昨日のストライキの始末やら、今日羽生先生によび出されてなあ、どうやら放校にでもなりそうな、嵯峨瀬や大谷やその他二三人のために、相談しとるのやから君、一寸きてくれ給え』

 『うん行こう』と、Iは本をとじて芋虫といっしょに外に出た。呼びに来た芋虫について暗い町を東へ三丁ほどいって北に折れると右側に、小さいランプ屋があった。それが山田の下宿だった。
 裏の八畳の離れに皆でよっていた。
 『ヤアI君』
 二日前にクラスの秘密をもらす男というので、鉄拳制裁を加えようとした同級生三十余名が今晩にかぎって馬鹿に愛想がよかった。
 『ヤアI君、遅うからすまんなあ』

 『君、まあ、すわり給え。僕等は今度のストライキについて、少々暴行をやりすぎた所へ、安場校長や羽生教頭の頭が随分強硬なんだから、クラスからどうやら二三人の犠牲者を出さんならん事になったんや。所が僕等は親から毎月金をもらっていて、もう今年で最上級生となるし、来年は社会に出る時になって退校処分を受けると、親が泣くからな。君、君はヴォーリズさんに馬鹿に信用があるし、教員らにも連絡があるから、一つ、今度は僕等のために、運動して貰いたいのやがなあ、どうや君、僕等は今度は徹底して改心するからヴォーリズさんに保証してもらって、放校や無期停学にならんようにしてくれ給え、何しろ、もう三学期の学年試験がくるからな、I君頼みまっせ』

 Iは頭をたれていたが急に身を起こして
 『諸君、僕はクリスチャンだから、改心した時に神にその事を申しあげて後、ヴォーリズさんやまた他の先生達に運動することにしたい。今、祈祷するから、皆で眼をとじて頭をさげてください。さあ、僕は祈りますからね』

 昨日までは血気にまかせて、拳から血が出るほどに下級生をなぐった仲間が、一時にしんとした。不思議、奇蹟、突飛とでもいわねばならぬ光景であった。
 『天の神様、私共の心の底の悔悟の涙を受けてください。暴行したのは実に悪いことでした。どうぞ、清い善良な学生としてこの一団のものを改心させてください。イエス・キリストの名によって願い奉ります』
 『アーメン』
 Iは感激の心を打ち開けて神に祈って、山田の下宿を出た。そして同級生の一人は提灯をつけてヴォーリズさんの家まで送ってきた。

 あまりの血気にまかせて暴行を演じた反動か、クラスの一同は粛然としていた。ヴォーリズさんは職員中に相当熱心に運動してくれたが、結局、大谷と嵯峨瀬は退校処分になり、三名は無期停学で一年を棒に振って落第することになった。

 しばらくすると、近江新報に変な記事を投書したものがあった。

  滋賀商業学校殴打事件真相
                      鶴鳴山人(投書)
  (当局者の猛省を促す)
 今回出来せし事件につき同校長は曰く、何等の原因あるに非ず、ただ単に三年級が最早四年級に昇級するの期に臨み下級生に威力を張らんがためただ浅はかなる考えより出でしなりと。また曰く今回の事たるや主任教師は十分慎重にこれが調査をなしたり、従前はイザ知らず八幡町へ移転後はかかる事件決してなかりき(実は随分あるなり)今これを等閑に附せば悪弊を増長せん、よって職員会議の結果断然の処分をなしたりと。かかる際にかかる処置ありしは実に当然の事と言うべし、しかしながらこれが事実を探索するに実に意外なる原因あるを知れり。

 処分の不公平なること。主謀者とみなされ退学を命ぜられし二名は決して主謀者に非ず、教師の尋問の冷酷にしてただ汝等は平素の行為良からず、今回の事も汝等が扇動したるならんと、これを弁解せんとせば叱責せられ、ほとんどその真実を言わしむるの時間を与えず、断定、否、認定せられたるものなり。その一人のごときは教師の扇動なる言葉の意味を解する能わず、ただ「ボンヤリ」と「ヘー」と言いつつ考えおりしに、最早宣し去れと言われ遂に主謀者の名を蒙れりと。これを他の生徒に聞くに皆曰く我々は平素の鬱憤を晴らせしにて主謀者たるものなし、ただ二人は平素の行為あまり良からざると「クリスチャン」生徒の讒言とにより彼等は「クリスチャン」攻撃の犠牲となれりと。また曰く一ヵ年停学を命ぜられたるものの如き、性極めて温柔、人が打てと勧むるも恐れおる位のものにして、手を下さざりしに口訥なると僧侶の子弟なるとにより処分に遭いしなり。また「クリスチャン」生徒中手を下せしものにて最も暴行ありしものが、「クリスチャン」先生の援護により三日の停学にて済みしものあり、あるいは全く罪を免れしものあり、要するに調査甚だ粗漏にして処分を受けし生徒よりもむしろ免れた生徒の方非常に激しおれり。

 真相。当商業学校職員中には二名の耶蘇教信者あり外国雇教師(熱心なる信者)と協力して熱心に該教に生徒を引入れんと努め、青年会を組織しその名の下に聖書を講じ該教を信ぜしものには洗礼を受けしめ、目下洗礼を受けしもの二十余名、青年会にて聖書の講義を聴くもの百余名ありと言う。然るに右二名の職員は舎監なるゆえをもって寄宿舎は土曜日大祭日祝日等の外は門限ありて夜中外出を禁じあるにもかかわらず、青年会の聖書聴講に行くものおよび教会に行くものには深更までも外出を許されおれり。生徒中には耶蘇教を信ずるにあらずして名を借りて外出するものあり、あるいは教会に行けばただ妙齢の少女に邂逅するを楽しみとして教会へ行くものありと言う、ために醜聞汚行少なからず、また右等教師は平素教室において生徒を誡むるに「クリスト」的訓諭をなすと言う。

 かかる事実あるをもって生徒間には自然耶蘇派、非耶蘇派なる二派を生ずるに至れり。耶蘇派中には衣服を飾るもの、頭髪を長く分くるもの、チック美顔水を用いるもの、眼鏡を掛くるもの等概して生意気なるもの多し、非耶蘇派生は常にこれを攻撃し、殊に四年生某某を目指しつつありしなり。然るに三年生の大部分は非耶蘇派たるをもって、ここに平素の憤怒凝結してついに耶蘇生の生意気をこらさんため先ず下級生より始め、終に四年生に及ぼさんの意志ならんも、中途にして教師の発見する所となりその目的を達し得ざりしなりと言う。要するに今回事件の原因は耶蘇派排斥より起こりしものと言うべし。

 そもそも我が国は皇祖皇宗の御遺訓ありて教育の方針は独り小学校のみならず上は大学に至るまで教育勅語の御精神に基づかざるべからず、然るに宗教的ならざる本県商業学校において、宗教の力により生徒を訓戒するの教師あるとは奇怪千万なりと言うべし。我が国憲法において信仰の自由は許されるをもって、教師自身己が信ぜる宗教を信ずるのは我輩の敢えて容喙する所に非ずと雖も教師自身が信ずるのゆえをもってこれをわが教育する生徒に及ぼすは我が国において教師の徳義上許さざる所なりとす。法令上注意する所もありしか?(往年教育と宗教の衝突論識者の問題となりしことあり)中等程度の学生たるや未だ意志の柔弱なるをもって教師たるものこれを宗教に引き入るはいと易きことと言うべし。我輩はこの時代の生徒に宗教を信ぜしむるは大いに心身の発達上害ありと信ず。殊に商業家の子弟を教育するにおいてをや。父兄もまた我が子弟をこの校に入学せしむるはヤソ教信者を作るに非ずして他日社会に出で敏活なる商業家を作る目的たるや明らけし。

 今回の事件たるやその原因耶蘇排斥より起こりたるものなるに、これが局に当たるものその原因の討究をなさずして単に少年の血気に出でしものと看過し、以上論ずるが如き職員間に(職員間にも両派ありと言う)軋轢を生じ、今後同校の一大紛擾を来すこと明らかなり。我輩大いに杞憂す。願わくば当局者たるもの大いに同校教育の刷新を図り事を未発に防がんことを。

 真赤なウソ、否真黒な捏造記事とは実にこの投書であった。三年中のクリスチャンは一人であって、ストライキの相談のとき既にクラスの秘密を売る者として同級生間の暴行を受けんとした。さらにストライキの現場は狂乱の姿となりて、竹刀やナイフをふり廻す同級生をとめたのもIであり、かつIは三日の停学なんか受けていない。

 前記の記事が近江新報に掲載されると、その翌日から得体も知れぬヤジ投書が出るわ出るわ、ほとんど毎日「商業学校の真相」だとか「安場校長の話」だとか「本県商業学校問題につき県下の有志諸君に寄す」とか無責任な「寄せ文欄」のハガキ投書などあった。遂に「商業学校は宗教学校たらんとす、すべからく雇教師ヴォーリズを解雇すべし」と叫ぶものが出てきたり、ヴォーリズさんは、教会に出入りする一美人と怪しいなど書き出した。

 バイブル・クラスのある夕。
 『ヴォーリズさん、近頃新聞に変な悪い記事が出て、あのまま捨てておく事ができないと思います。どうしましょう』
 と一人が言うと、ヴォーリズさんは、
 『捨てておきましょう。我等は誠実に神の子として静かに勉強しましょう。また共に敵のためにも祈りましょう』
 と、答えたばかりであった。

 以上、『近江の兄弟』(吉田悦蔵著49~56頁)からの引用である。少し長めであったが、思い切って一気に載せた。単なる誤解だけでなく、捏造に対して私たちはなす術が無い。しかし、ヴォーリズさんはよく闘われたと言えよう。

悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(新約聖書 エペソ6・11~12)

(写真は昨年12月23日の次男の結婚式のおり、新婦の友人が撮影してくださったバラの花。「真実は バラの花弁よ 水滴と 抗(あらが)いなしに 身を横たえり」) 

2010年4月12日月曜日

十二、爆発(下)


 『クラスの秘密がわからんか、君は、赤猿が酒をのんだ事、俺が煙草を吹かすことをヴォーリズにいっただろう』
 『それはクラスの秘密ではありません。僕はT君やK君のためにヴォーリズさんと相談して、禁酒禁煙のYMCAに入会してもらう計画をしたんです』
 Iの答は小さい声でも皆に聞こえたらしかった。
 『議論せんと、なぐれ』
 『おいたれ、おいたれ、可哀想に』
 『同級生をなぐるのは名誉やないぞ』
 『なぐれなぐれ』
 Iは鉄拳を覚悟した、そして黙って祈った。

 『神様救うて下さい、私をなぐる人達もこんな事をせぬ人にして下さい』

 しばらくして。ドヤドヤと大勢の足音に目を開くと、同級生は、ストライキを中止して向こうにいった。
 感謝感謝、神に感謝して、Iはその下宿ヴォーリズさんの借家にもどった。
 その翌日だ。

 暴行が決行された。年少の学生を一人一人雨天体操場にオビキ出してきては、三年級生一同で、毆打の限りをつくした。寄宿舎の病室に寝ていた一生徒を引出して、竹刀と、皮のスリッパーと、拳骨をもって瀕死の状態までになぐりつけた。なぐった青年たちの拳は血ににじんでいた。
そしてその学生は、淡路の者で親がきて連れて帰ったが後に、死んでしまったという事であった。雨天体操場は中から錠をかけてしまって、数人の下級生をストライキしていた最中、教師の一人N先生が入口の戸の節穴からなかを覗いたのを、内側にいた、暴動の首謀者、Oが拳骨をかためて、その眼の上を、イヤという程なぐりつけた、その同じ節穴より外を見た学生は、
『オイオイ、N先生が、額に手をあてて逃げていったぞ』といった。
 ストライキの現場を教師に見つけられたから、その暴行も自然中止となって、真青にふるえている下級生達を、その場に取残して、一同、バラバラに校門を出た。

 そして六日して後、近江新聞に以下の記事が出ておった。

       商業学生の大挙暴行 明治39年1月26日
『去る二十日本県立商業学校内において、本科三年級生徒嵯峨瀬民次大谷豊太郎の両名主謀者となり、同級生徒の過半数(別報によれば同級全生徒なりともいう)これに雷同して下級生徒四名を毆打し負傷せしめたるために同級全生徒はあるいは退学あるいは停学あるいは訓戒などの処分を受くるに至りたり、今その詳細を聞くに初め嵯峨瀬らが暴行を加えんと目指し密かに牒し合したるは本科一二年および予科の生徒中十数名にして同日先ずその内最も敵視したる某某四名を雨中体操場内に誘い行き矢庭に包囲して鉄拳を飛ばし散々に毆打の蛮行を逞しうし中には器物をもって頭部を乱打し出血淋漓(りんり)たらしむるに至れるものすらありしがこの不穏の騒動を聞きたる生徒主任その他の職員等現場に駆け付け一方既に負傷したる四名の生徒を救い出して丁寧に手当てを施し、一方次いで暴行を加えられんとする生徒を保護し直ちに主謀者および下手人の取調べをなしなおかかる重大事件なれば軽率に処置すべからずとその後引続き綿密に調査の歩を進めたるがその原因は別段深き意趣遺恨などありての事にはあらず要するに彼らは下級生の身にも顧みず平素上級生に対して敬意を欠きたりとかいわゆる生意気なりというほどの憎しみと自己の威勢を張らんと欲したるに過ぎざる由なれどもいやしくも名を忠告に借りて右のごとき乱暴の行為をなすが如きは許すべからざることなるのみならず将来実業界に身を投ぜんとするもののためには一層厳戒せざるべからざる所今これら不穏の挙動をなしたるものの処分を寛大にせんか他の生徒のためあるいは悪影響を及ぼさんも知れざるをもって心情多少忍び難き点なきにあらざるも断然厳重の措置を執るべしと二十三日それぞれ副保証人を学校に呼び出し安場校長より一々将来の理由を懇話し同級生全生徒に対し以下の処分を行いたりという実に当然の処断というべし。
  退学 二名 無期停学 三名 一ヶ月停学 一名 三日間停学 十六名 訓戒 二十三名
 中学教育時代にあるもの往々客気に乗じ蛮勇を誇り不穏粗暴の行いをなし却って得たりとする事をあるを聞く苦々しき挙動にて沙汰の限りというべし。』

 以上、『近江の兄弟』(吉田悦蔵著45~48頁より)の引用である。飛んだ事件が起こったものである。明治39年は西暦1906年に当たるから、すでに100年以上前の一地方の出来事である。しかし事はこれで終わらなかった。思わぬ展開でこの事件はヴォーリズ氏に火の粉が舞いかかることになる。すでにこれよりも10数年以前のこと1891年(明治24年)11月には井上哲次郎氏の論文〔宗教と教育について〕が発表されている。同年初の内村鑑三の不敬事件に端を発するキリスト教攻撃が激しくなってのことであった。

ゆえなく私を憎む者は私の髪の毛よりも多く、私を滅ぼそうとする者、偽り者の私の敵は強いのです。(旧約聖書 詩篇69・4)

(写真は朝陽を受ける花大根)

2010年4月11日日曜日

自然の脅威・歴史の脅威を教えられて


 久しぶりにテレビを見た。テレビと言えば、大相撲は見る。後は、高校野球ぐらいか。その他ではニュースステーションなどを毎晩見ていたが、それも昨今の民主党政権の体たらくぶりには愛想がつきて、見る気さえ起こらず、すっかりテレビから遠ざかってしまっていた。

 ところが、昨晩は9時過ぎから11時近くまでNHKの二本の番組に珍しく釘付けにさせられた。最初の番組は「大氷壁に挑む」という番組で50そこそこの方の氷壁クライミングに取り組む姿を追うものだった。天候や地形をよく見据えた上で、何度も襲ってくる雪崩を予知しながら氷壁にアタックし頂上を極めるまでの一部始終が映像化されていた。生死の極限の狭間の中で果敢に挑戦する喜びのようなものが伝わってきた。

 知人の息子さんがつい先だっても雪山で滑落し重傷を負うできごとがあったばかりで、その息子さんの情熱の一端を理解した思いだった。

 次に見たのは、「密約問題の真相を追う」と題するヴィヴィッドな内容のものだった。なぜか東京地裁に入る西山さんの姿や、一際目立つ着物姿の澤地さんの姿に惹きつけられて最後まで見てしまった。特に野武士然とした西山さんの風貌にはただならぬものを感ぜさせられた。

 番組は、「沖縄密約」を認め開示命令を出した東京地裁の判決とそこに至るまでのプロセスを丁寧に追っていた。西山氏が放ったスクープ記事の中で、情報源が外務省の女性職員であったこともあって、その問題に矮小化され、結局、彼の密約云々の指摘は闇から闇に葬られた記憶が過去あった。その国の厚い壁に何度も何度も挑戦し、ついに金曜日の東京地裁の勝訴にこぎつけたことに、西山氏の常人ならぬ不屈の闘志を見せられた思いがした。奇しくも前番組の氷壁に挑む人の思いとダブった。

 また番組後半で放送された、外務省の元条約局長の東郷氏と情報公開法の制定に早くから関わってこられた学者の先生とキャスター鎌田氏との鼎談が私には見ものだった。その中で、東郷氏はご自身の条約局長時代の文書は後世の歴史の検証に耐え得るように伝えるべく後任に引き継いだということを強調された。そして、何が何でも公開するのではなく、最低二つの条件は守って欲しいと言われた。

 一つは現在交渉中の外交案件に関するものの公開はその交渉が終わるまでは絶対できないこと、あともう一つは相手外国人が存命の場合は相手に迷惑がかかるのでやはりこれまたしないで欲しい。ただしこれら機密文書は後の歴史の審判に耐え得るために破棄しないで保存することが責務であると強く言われた。この毛並みのいい外交官として活躍された東郷氏が、ご自分の仕事に矜持を持っておられることが改めてひしひしと伝わって来た。元アメリカ局長吉野氏がご高齢の中、今回の裁判で在任中の国会証言に反してまで、原告側の証人として立たれたのもそこにあると思った。

 一方、「情報公開法」の導入の日米の落差ぶりが浮き彫りにされていた。アメリカでは1960年代後半に制定されたが、日本では30数年後の2000年代のことであるということだった。その上で件の沖縄文書を日本の外交文書公開の文書館に行った場合にはほとんど取り寄せられないのに対し、アメリカの同種文書館を訪れた場合は百パーセントの公開が得られるちがいが報道されていた。これなど論より証拠、一番手っ取り早い日米の比較がなされていて興味深かった。

 果たして今後この問題―沖縄密約文書の全面開示―はどうなるのだろうか。ポスト変わって、外務大臣は民主党政権の岡田氏である。果たせるかな、同氏は記者会見で、国側の全面敗訴に 「調査を徹底したにもかかわらず、足りないと言うがごとき判決だ」と不満をぶちまけた。と、東京新聞は報じていた。番組の出演者は、異口同音に「情報公開」が日本の民主主義にとっての試金石だとも言っていた。さりなんと思わされた。また、私は番組の中で、盛んに繰り返される「歴史の検証に耐え得る」ということば に強く同意しながら、もう一方で、歴史を動かしておられる天地万物をお造りになった主なる神様に各人が人生の総決算を迫られていることをも思わずにおられなかった。

各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。(新約聖書 1コリント3・13)

(写真は玄関前のクレマチス・アーマンデー「白い石 与えると言う 黙示録 アーマンデーの 白さ格別」)

2010年4月9日金曜日

十二、爆発(上)


 『諸君!』と黒板の前に突っ立ったのはクラスの勢力家、ベースボールのチャンピオンで、チームのレフトを引き受けているKであって、無鉄砲の青年でどんなに強い球が直線にとんで来ようが、高いフライ球が落下してきようが、グローヴもつけないで、素手で、パチリと肉音を立てうけとめるので有名な男だ。
 『喧しい、いうな、おい、諸君、こっち向いてくれ、黙れ!』
 Kの顔が青黒く光る。そして拳骨で教壇を破れるばかりに叩いていた。今、教師が商法の講義をすまして教員室に引き揚げたばかりで、最早、放課後だから三年級の一同は教科書やインキ壺をまとめている時間であった。
 『なんや、なんや』と口々にとなえて黒板の方をみると、Kが演説を始めた。
 『僕等はもう三年級にいるのは三ヶ月しかないんだ、そして、僕等の級はまだ目覚しいこともしないで、最上級生になってしまうのは、僕は残念でたまらん。』
 『木谷ツ、俺ら、腕が鳴ってるぞ』
 『シッカリやれ、拳骨が風邪を引くぞ』
 とKの共鳴者、鬼瓦赤猿がどなった。
 『四年級の奴等近頃、紳士振りやがって、チックをつけたり、インパネスを着たり、ポリ公のアーメン宗に入ったり』というと、
 『僕等のクラスにもバテレンの悦公がいるぞ』
 『ストライキやってやれ、悦から始めたれ』という者があった。
 『そうガヤガヤいうな、木谷のいう事をきいてやれ』と赤猿がいうた。
 『僕はもう堪らんから僕一人でも下級生の生意気な奴に鉄拳制裁を加えてやって、最上級生のフヌケ共に、男子の意義を見せてやる、賛成する者はないか』
 『あるぞあるぞ』
 
 クリスチャンになった、Iはその場をはずした。彼は三年級ただ一人のアーメン党であったのだ。
 『生意気な奴の名前をこの黒板に書いてくれ給え、そして諸君の賛成があったら、明日の朝雨天体操場に呼び出して、皆でストライキをやってやる事にしよう』とKは結論した。
 黒板に白墨で十人位の名がでる。
 一々紹介者が説明する。その理由は、上級生にお辞儀をしない奴、袴のつけ方が生意気だ、彼奴の顔をみると癪に触るからやってやれ、バテレン臭い奴だ、等とあってそれが一々三十余名の三年級生のまんなかに、オビキ出されて鉄拳の五六十から二三百に値する罪状なのだから堪らない。

 『I君一寸きてくれ給え』
 Iは変に思った。そして少し青くなったが、呼び出しにきた青瓢箪と命名された、日頃おとなしい同級生についていった。その日は雨がふっていた。そして放課後、教室から外に出ようとする時だった。廊下を少しゆくと、誰もいない教室に青瓢箪が入れというので、気味悪くはいった。ドヤドヤと同級生全部がきてIをその真中にいれて円陣をつくった。
 『オイ』と、と綽名のある、小さい年寄った同級生が口をきった。
 『君はクラスの秘密をヴォーリズさんに密告するんだそうだね』
 Iは頭をたれた。そうすると背部から拳骨で背中をつつく者があった。
 『クラスの秘密を売る奴は制裁するぞ』
 風雲は急になったIは心臓が変調になったことと、クリスチャンの殉教の話が頭に浮かんだ。それから数日前同級の夏蜜柑君から顔の真中、鼻の上をイヤというほど殴られて鼻血の始末に困ったことやら、Sに教壇へ投げつけられたことやら、バテレン、国賊、売国奴と同級生から痰をはきかけられたことを思い出して情けなくなってきた。しかし、キリストとヴォーリズさんは捨てられないと思って、
 『クラスの秘密て、何んですか、僕にいってください』と返答した。

 以上が十二、爆発の前半部分である。この項は長いので二つに分けた。上級生の鉄拳は私たちの学校生活でも生きていたような気がする。実際にそのような目にあったことはなかったが、そのような目に会いはしないかという恐怖心のようなものはあった気がする。そのくせ私の内側にはこのような悪をかえって愉快に思う心があることを否定することができない。心の内側から新しくされたい、と思う。人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。(新約聖書 マルコ7・20~23)とはイエス様の私たちに対する的確な診断である。

(写真は地元古利根川桜堤)

2010年4月8日木曜日

十、バプテスマ


 明治38年の秋は、ヴォーリズ先生の熱烈なる信仰が実を結ぶ時であった。
 滋賀商業の四年級にて、最も謹直で、父親さんとも、爺さんとも綽名されていた、級長のKが決心して洗礼を受けた。ヴォーリズさんと同居した他のKも受洗した。Iも九月の末に受洗した。

 八幡教会の伝道者は彦根より出張してくるOさんであった。Oさんは実に痛快な人であった。右手がない上に、右の眼が鹽魚(しおざかな)のようになっていて、左のただ一つ残った眼も強度の近視なのだ。それでいて音声は朗々として、伝道説教になると、私共の鼓膜のビリビリするほどの大声が出る。そして破鐘式でなくて美しく愉快な声なのだ。ある時Oさんは次のように説教した。

 『僕の知人に痛快な医者がいるんです。彼は煙草と戦ったが勝てなかった。それで僕に何として戦ったらよいかと尋ねたので、「僕は天地の唯一の神に祈るのみ」と、一言答えておいた。ところが彼はまだクリストを知らないから神に対する祈りを知っていない。
 その細君にきくと、実に痛烈な事をこの医者がやったものだ。諸君まあこうだ。彼が祈りをする事になると、家の二階に上って、人には格好が悪いものだから、襖を閉めきって、十畳の部屋のまんなかに、キチンと座って、大声に、

 「天地にただ一つの神があるならば、その神に物申します。
私は煙草をただ今より断然廃止します。もし私の口に煙草が入りますなれば、私を八つ裂きにしてください。アーメン」

 とやったんだ。そうするとしばらくは煙草の欲がなくなった。しかし、また三四時間するとムラムラと欲がでてきたので、猛然と立って診察中でも、午睡の最中でも何でも構わん、二階の十畳の真中へ飛び込んでは八つ裂きを祈るんだ。

 「神様、八つ裂きにしてください。もし私が煙草を吸う時には。アーメン」

 といって三日御晩、戦って勝ったよ。勝った後に彼は、実に目覚しいクリスチャンになった。
 諸君は理屈をならべる暇に、大いにその肉体の欲と戦闘して勝つことを要するんだ。信仰は勝利者の上に明白に来るものである。
 パウロは「汝ら未だ肉の欲と戦いて血を流すに至らず」(註1)と言っている。諸君は血をもって信仰の生活に入る必要がある。』

(中略)

 こういうような調子で、Oさんは不具者特有の醜い顔に、天来の美しい輝きを宿らせて、預言者バプテスマのヨハネを、しのばせてくれた。

 その教会(註2)は明治13年頃から同志社の新島先生門下の、海老名、宮川、原田氏達の、猛者が伝道して起こしたもので、明治20年前後には相当の信徒数もあったが、欧化政策の夢より国粋保存の反動の波にもみ壊されてしまって、日露戦争を終わった頃には、信徒は男四人、女五六人にすぎなかった。集会場は薄暗い家で深尾さんという婦人伝道師がすんでいた。家の二間続き、六畳と八畳に瀬戸火鉢が三つほどあって、古い本箱に、塵に埋もれた福音書、表紙のない讃美歌、聖書講義録や信仰上の雑著がならんでいた。ぼろオルガン一つ、壁は鼠色で、所々洋紙で、つづくり張りがしてあった。アメリカ伝道会社からきた日曜学校の掛絵も散々の目にあって掛かっていた。畳も勿論ひどい。

 ヴォーリズさんは米国の教会堂で、オルガンを受け持ったりしたのだが、パイプオルガンやピアノにふさわしい手で、ガタガタ踏音のするぼろオルガンを弾いていた。そして、青年共は破れ声をあげて、

 「ほろぶる、この世、
 くち行く、我が身、
 何をか頼まん、
 十字架にすがる」
だの
 「さまよえる者よ、立ち帰りて
 天つ故郷の父を見よや」
とか
 「我罪を洗いて雪よりも白く
 せよな」
 
 などの歌を唱った。盛んなものだった。Oさんが唯一の大事な左の目、それも細く血走って脂のでるのを、白手袋をつけてある義手の掌の、指の間に挿んだハンカチを、右の手でスッとぬいて目を拭きふき、左の腕でポッキリと切り残された、肱の所に、さんびかの本をもたせて、暗記しておられる歌の詞を、朗々たる美声をもって唱ってゆかれた。そして常に悲壮、痛烈、熱血をもって立つ伝道者として私共学生を鼓舞せられた。

 信仰の炎は火柱をあげてきた。
 滋賀商業の学生の三分の一以上は、バイブルを手にし讃美歌を唱いだした。
 私ども、受洗したものの制服のポケットには革表紙小型赤金縁の聖書と、同じ装丁のさんびかがあった。課業と課業との間の休憩時間は、さんびかの研究や、聖書の黙読に費やすことにした。
 運動場に点々とバイブル・クラスに出入りする生徒等が読書している姿。

 それは聖書を読んでいるのであった。

註1 ヘブル書12・4を指す。必ずしも著者はパウロと確定はしていないが、吉田氏はそう解釈したのであろう。
註2  八幡教会のことであろう

(引用文章は『近江の兄弟』吉田悦蔵著34~38頁のもの。なお、前回に続く、七、「日本印象記」、八、「消息」、九、「心の清き者」は残念ながら省略した。滋賀商業は近江商人の士官学校と言われたこともある、と聞く。この学校の明治の歴史にこのような一齣があったとはにわかに信じがたいことであるが、事実は事実である。それにしても、その後はどうなるのだろうか・・・今日の写真は昨冬、庭に植え込んだ5、6本の木のうち枯れずに成長した唯一の木。名前を忘れた。)

2010年4月7日水曜日

六、狙い撃ち


 『イエス様、信じます、眼を開けてください、一生の願いで御座います』
 松の緑も、紅の花も、両親の姿もしらぬ盲人はキリストの裾をにぎって離さない。
 イエス様の唇よりは、かすかな祈りの息がもれた。盲人は粛然として座した。イエス様の御手は盲人の目にふれた。
 『アッ、何だかぼんやり見えます。大勢の人間は、聞いていました林の木のようです。』と盲人は叫びました。
 イエス様の第二の御手が再び目にふれた。
 『ア、ア、アッ、見えます、見えます、一人一人、人間は違った顔と違った姿をしています。オォ嬉しい、驚きました、不思議なことでございます』

 新約聖書は古来無二の絵巻物である。土佐派の絵のように彩色の派手な、美しい、嬉しい場面がたくさんにある。キリストは群集の王ではなくして、個人個人の兄であり、教師であり、また完全な父でありました。私共は十把一束に取り扱われたくない。一人一人の人格を認めてほしい。あの癒された盲人が一人一人見たように。

 ヴォーリズさんは、バイブル・クラスを組織したが、その一人、一人を忘れなかった。ヴォーリズさんの教え方は、群集に向かって大気炎の大砲を放つばかりでなく、短刀をとって個人の肺腑と心臓に肉薄する、即ち狙い撃ちをするだけの努力と信仰があった。ナポレオンは帝位についてから叫んだそうだ。『我は泥土より将軍を作るものだ』と。

 ヴォーリズさんは、ソンナことは決して宣言しなかった。しかし己の至誠の涙をもって泥土を練った。静かに、失望せずに、二十五年の将来をみて、ヤンチャ盛りの学生の陶冶に没頭したのであった。

『ヤア、水曜日がきよった、またポリ公の所へ遊びにゆこうか』
『また煎餅と、お祈りが出るぜ』
『近頃、菓子屋にゆくと、バイブル・クラスという煎餅を売っとるぜ』
『行こう、行こう、クラスの前に今晩はヴォーリズさんに、柔道の極意を教えてやろう』
『オイ。この前の時な、大橋とポリさん、角力を取ったらポリさんの金縁眼鏡に大橋が手をかけたんで、メチャメチャに壊れたぜ』
『毛唐さん気が大きいから知らん顔で騒いでたよ』
『ポリさんと、取っ組むと、下顎のゴリゴリ髯で、俺の頬っぺたを、ゴシゴシとやらかして、俺は痛かったから、参った、参ったというたら、マツタマツタときき間違えて、待たん待たんといいながらゴリゴリやられたよ』
『今晩はM先生が通訳にこない先に、ポリ公を胴上げにしてやろう』
何しろバイブル・クラスはすごい人気であった。
『イエスのたとえ』という本と『ヨハネ伝』が教科書で、A先生と、M先生が通訳であった。

 その頃の滋賀商業の学生は中学の学生と柄が違っていた。タバコも酒も一通りヤル方が卒業してからの役に立つ、大きい商売は宴会の席、芸者の隣でするものだ等と、途方もない思想が全校を風靡していた。禁酒禁煙の校則は殆ど顧みる人がなかったというてもよい。教師の前さえ遠慮をすれば、何でも仕放題、またある教師は表向きの行為と、見逃さるべき要領のよい行為とを別々に取り扱ってくれたし、修身の点数、操行の点数が合致しないでも平気であった。制服制帽は殆ど影が薄くて、前掛けに旧式の煙草入れが学生間に偉大なる、成人の表象となっていた。

 本科四年の課程を十年計画で、卒業すればよいと豪語している、金持ちの馬鹿息子もある。その時分官員様しか着ないようなインパネスを着込んで、鼻下に美髯を貯えた生徒もいた。それが普通商業の二年生だからやりきれない。芸者遊びもする者あり、その他あらゆる青年期の罪悪を犯している様は今から見てもゾッとする。

 ヴォーリズさんはその故国で、青年期の生理及び心理を研究して、世界に名誉を得たスタンリー・ホール博士の著書で有名な『青年期』という書物の愛読者であった。机の上には始終この本がおいてあった。

 これが種本となって、独特な人を捕えて離さない友愛の持ち主、二十四歳のヴォーリズさんは、腕白にして、生意気な、自堕落にして、不健康な青年どもを一人一人狙い撃ちに、性格に応じて陶冶する知恵をえておった。しかし、何というても、信仰第一で、ヴォーリズさんの学生を愛するの熱愛があふれて、個人個人の霊に注ぎこんで行ったのである。

(今日の文章は吉田悦蔵氏の著書の20~23頁の引用である。最初の挿話はマルコの福音書8・22~26に記されている福音書の実話である。ヴォーリズさんの働きがいかなるものであったか導入部として用いておられるが、この件をこんなふうに書き上げた吉田さんに敬意を表したい。私は別の箇所ヨハネ9・40~41にあるイエス様のことばを引きたい。パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、・・・、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」今日の花はお隣の家のツバキ。) 

2010年4月5日月曜日

『イースターの朝のできごと』(フランク・モリソン著 清水氾訳 みくに書店)


 金曜日から日曜日まで関西に出かけた。お決まりのコース、18切符を使っての往復だった。18切符を使っての電車の往復は、時間の無い人には所詮無理な話だ。しかし時間があり、お金の無い者にとっては願ってもない方法ではある。すでに私は20年近い方法でこの切符の春夏冬の販売時期にその恩恵にあずかっている。

 このところ、この片道10時間前後の電車の行き帰りでは、決まって一冊の単行本を読み上げることを習慣にしている。今回は標題の本を読了した。原名は「who moved the stone」である。翻訳は清水氾さんである。何年か前に召されたが、長らく奈良女子大の先生をなさっていた方である。出版は1968年であり、この本の存在は前々から知っており、数年前に古本として購入しておいた。ところが書棚の奥にしまいこまれて、いつの間にか埃をかぶっていた本である。

 読了して、これだけスリリングな書物はないと思った。それだけでなく、いつも読んでいる聖書がいかにすべての検証に耐え得る本であるかを示された。鈍行列車の車内でカバンを膝の上に置き、その上に聖書とこの本を並べ、首っ引きで比較して読むことができた。聖書は書かれてから、最も最後に書かれた部分でも少なくとも2000年近い歳月が経過していると言う。そしてその叙述は真実を直裁に伝えてきたところにその特徴がある。しかもこの291頁にわたる、16章の章立てで叙述が進められている本は、イエス様の最後の生涯の七日間のできごとが中心である。すべて聖書の中の四つの福音書を中心に徹底的に検証が進む。

 著者は『使徒信条』という教会内で唱える文句のうち、若い頃、いつも次のところに差し掛かるとことばを発することに詰まったと言う。すなわち

「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ・・・」た。私は若い頃、教会の礼拝に出席し、使徒信条の詠唱がここまでくると、それ以上読むことができませんでした。私は固く歯をくいしばって、それ以上は口にすることを拒みました。(同書94頁)

その「・・・」の箇所は長い論述の末に、最後の方で「三日目に死人の中からよみがえり」であったと明かされる、要するに主イエス・キリストを信じていても、十字架刑からの三日後の「復活」を著者は信ずることができなかったのだ。ところが聖書を丹念に読むことを通して、著者は「復活」を疑い得ないものとして確信するに至った。その経過を七日間の全行程を追いながら読者にも追体験させて行くのだ。その手法はまさしくA級の推理小説のようで、一つ一つ証拠物件を確かめる思いで読まされた。

 イエスの逮捕、裁判、処刑そのものがどんなに厳密に組み立てられ、当時の法律に照らし合わせながら進められてゆくのかがわかり、今までの読み方がいかに浅かったかが思い知らされた。しかも聖書は四人の嘘偽りのない四方向の証言を相互に矛盾するまま載せている。こんなに強い真実への迫り方はないと言える。そしてそのキーポイントになる聖書箇所のひとつに福音書記事の中でもっとも古いマルコの福音書の次の叙述があるという。

そこで、ヨセフは亜麻布を買い、イエスを取り降ろしてその亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納めた。墓の入口には石をころがしかけておいた。マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、イエスの納められる所をよく見ていた。さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がころがしてあった。(新約聖書 マルコ15・46~16・4)

 ところが、その墓内にはいった彼女たちが見つけたのは「空の墓」であった。それだけでなく、彼女たちより早く来ていた一人の若い男に遭遇するのである。そしてその若い男からイエスがよみがえったことを聞かされるのである。しかし

女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。(マルコ16・8)

 短いマルコの福音書はこれで終わっている。すなわち、「そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」で閉じているのである。一体、なぜだれにも言わなかったのか、またその恐ろしさとは何だったのかと追求してゆく。

 「who moved the stone」がこの本の原題だが、当時から、今日までイエスの埋葬された墓が空っぽであったことは、なぜか不思議と「復活」を信ずる側も、反対する側も共通して認めていることに著者は読者に注目させる。なぜなら、墓が空っぽでなかったことを証明しようと思えば、墓の中に十字架刑で処刑され葬られたイエスの亡骸を証拠として反対者は提出できたはずなのに、そうはしていないからである。

こんなことが歴史的事実であってよいでしょうか。(注:「こんなこ と」とはイエスが復活したと伝えることに反対する当局側が墓の番兵を買収して墓が空なのは、弟子たちが墓から死体をどこかに運んでいってしまったとする説をさす。マタイ28・11~15参照)イエス・キリスト神社に参詣した人の記事などは使徒行伝にもサウロの書簡にも、また古い経外典のどこにものっていま せん。キリストの死体がまた墓の中にあったとしたら、この墓はキリスト教徒の思い出の中で、最も神聖な場所となるはずです。けれど、この神聖なるべき墓に 関しては、決して破られることのない沈黙があるのみです。これは不思議というよりほかありません。もし死体が墓の中にあったなら、イエスの姿が栄光を帯び て婦人たちの思い出によみがえり、彼女たちはその墓にもうでて、しばらくの時をすごそうと思ったにきまっています。ヨハネとペテロとアンデレは、偉大なる 師の朽つべき肉体を納めた場所を至聖所にしてはどうかと、少なくとも一度は計画したはずです。けれど、そんな計画は事実一度もなかったのです。もし死体が 墓の中に置かれたままだとしたら、これほど不思議なことはないでしょう。(同書198頁)

 そして著者はひとつの大胆な仮説を提唱している。あのマルコの福音書の末尾に登場し、女が墓に到着する以前にすでに墓所内部にいた若い男は実は「祭司長の召使」でないか、という仮説である。そしてその鍵はマルコがイエスの逮捕劇の中で唐突に挿入させるマルコ14・51~52の青年であるとする。

ある青年が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕えようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた。

その上で、後にこの墓所内にだれよりもいち早くいたに違いない「若い男」が他の福音書、すなわちマルコよりも後に書かれたマタイの福音書では「御使い」と表現されるようになったかが考察されている。この辺の叙述は本当に正しいかどうか私自身さらに考えて行きたいと思う。けれどもこの本のおかげで今年の受難週はより聖書の真実に近づき得た思いがしている。

 さて、こんなスリリングな謎解きに満ちている、この本の著者はフランク・モリソン氏という人物であるが、あとがきに清水氏は次のように書いている。

さて、この本の著者についてでありますが、じつのところ、一言しかいえないということです。フランク・モリソンとは匿名であって、実際の著者はだれなのか、一つとしてわかっていません。正体不明の著者とは、ますます推理小説もどきではありませんか。「だれがこの本を書いたか」といって茶化したくなりますが、それよりこの著者の行間にあふれる熱意からみても、こうした誤解は不用のようです。著者は私たちに復活の疑問を解く鍵を示していますから。(同書291頁)

 個人的な感想をさらに言わせてもらえば、私はこの一週間重篤にあるA氏からたまたま二度にわたりキリスト者が墓に葬られることについての具体的な説明を求められていたのである。私はもちろん天国を指し示すばかりであった。その時はこの本を読もうなんて意志はこれっぽちもなかった。ところがこの本を偶然のごとく車中で読んだのだ。答えはここにあると思った。

 「アリマタヤのヨセフは墓所を用意して丁寧に葬った。しかしイエス様はその墓からよみがえられた。その墓が空っぽであった。」

 こんな興味ある本で、しかも清水氏は翻訳を日本の実情に合わせて工夫して訳しておられる。上述のイエス・キリスト神社はその一例であろう。しかし、現在もはや古本市場でも見つけられず、巷間には流布していない本のようだ。残念である。唯一国会図書館なら閲覧可能であろう。ただ英文でなら、サイトにある。以下がそのサイトである。参考までに記しておく。http://www.gospeltruth.net/whomovedthestone.htm#13

(写真は大阪桜ノ宮駅付近から源八橋方面を望む。4月4日日曜イースター当日朝の風景である。正面は帝国ホテルか?「桜宮 つどいし聖徒 復活の 主を覚えて 心満たさる」)

2010年4月2日金曜日

わたしたちをあがなわれた主 マルチン・ルター


 一、二ヶ月前に偶然な機会に、私はルターの一書を手にした。それは『オリブ山で―ルターの「主の受難の説教」 』(石橋幸男訳 聖文舎発行)と題する新書版の本である。1965年に出版されたものだ。全部で7つのメッセージが収められている。それらは次のものから構成されている。

 序章 キリストの受難
 第一 受難から生まれる恵み
 第二 オリブ山で
 第三 イエスの逮捕
 第四 剣をおさめよ
 第五 アンナスとカヤパの前で
 第六 ペテロが三度主を否定する
 第七 反逆者ユダの最後

日本語版でわずか155頁であるが、受難週のこの機会に熟読してその内容に驚かされた。私たちがいかに罪を犯すように悪魔の誘惑を受ける存在であるか、そこからの脱出は、イエス・キリストの十字架の贖いがすべてであることが、聖書のことばとの関連で説得的に描かれていたからである。しかも後半でペテロとユダという二人のイエス様の弟子がいかにしてイエス様を裏切ったかが考察されていた。しかし、もちろん結論はそこにあるのでなく、いかにしてペテロが悔い改めの恵みにあずかれたか、逆にユダが眠っていた罪の虜になり、罪を跋扈させ、滅んだかは、みことばに聞き従ったか、どうかだった、と結ばれていたからである。

 読んでいて、わが身に照らし合わせてぞっとする思いがした。みことばに従順に従わない自分もユダのようになり得ると思ったからである。だから、今日はその本から抜粋して紹介しようと思ったが、どこを区切っても区切りきれない、全体が一書になっており、カット品をお見せするのは気がはばかれた。そのため、それに代わるものとして、別の手許にある一書『ルターによる日々のみことば』(鍋谷堯爾編訳 聖文舎発行)の4月2日の分を引用し転写することにした。(もっともこの本はあるサイトで公開されているはずである)同じルターのものであるだけに精神が共通しているところがあるからである。題して「わたしたちをあがなわれた主」であるとする一文である。

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。(新約聖書 コロサイ1・13~14)

 罪は、永遠に変わることなくさばかれています、(神は罪に対しては決してゆるされることがなく、また、おできにならないからです。神の怒りは永遠に変わることなく罪に向けられております)。それゆえ、怒りを取り除き、支払いをなし、罪が取り去られ、完全に消し去られるために、特別に貴重な代償が払われることなくしては、あがないはありえないのです。しかも、いかなる被造物もこれをなすことができず、助けもありません。ただ、神ご自身のみ子が助け主としてこられ、人となられ、ご自分の上に永遠の怒りを負われ、犠牲のそなえものとして生命と血をささげられることだけが唯一の道であります。

 わたしたちに対する限りないあわれみと愛のうちに、主はこのことをなしとげてくださいました。ご自分を捨て、永遠の怒りと死を身に負われたのです。この貴重な犠牲は、ご自身の愛するみ子の行為のゆえに、神にとっては限りなく高価なものでありました。み子は神の大能と栄光のうちに神とともにあられたかたですが、このみ子によって神は和解を受け、罪を許し、み子を信じるすべての人を恵みのうちに受入れてくださるのです。

 このゆえにのみ、わたしたちは貴重なあがないの行為の実と結果を与えられて喜ぶことができます。それは、語ることも、測り尽くすこともできない愛から、わたしたちのために獲得してくださり、与えてくださったものです。そこで、わたしたちの側では誇ることは何ひとつなく、ただ、失われ、罪に定められたわたしたち罪人をあがなうために、これほど高価な代償を払ってくださった主に感謝し、賛美するのみです。

(写真は《三つの十字架》レンブラント1653年作のエッチングより。「十字架 伝える幸を 忘れまじ 初子生まれし この日を想う」 )

2010年4月1日木曜日

イエス捕縛 マルチン・ルター


イエスが彼らに、「それはわたしです。」と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。そこで、イエスがもう一度、「だれを捜すのか。」と問われると、彼らは「ナザレ人イエスを。」と言った。イエスは答えられた。「それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。」(新約聖書 ヨハネ18・6~8)

 ルターは上の聖書箇所から二つの主のなさった奇跡に言及している。そのうちのひとつはイエスのことばを聞き、あとずさりし、そして地に倒れてしまったユダヤ人たちの姿であった。あとひとつは、ご自身の命に代えて、武器によらず、「この人たちはこのままで去らせなさい。」ということばで弟子たちを無事に逃がされたことである、と言っている。ここでは紙面の都合上、前半の部分について触れたルターのメッセージをのみ紹介する。

 ユダヤ人が庭に入って主イエスのところへ来た時、イエスは彼らに「だれを捜すのか」とたずねられた。そこで彼らが「ナザレ人。イエスを」と答えた時の主の答え、「それはわたしです。」は、彼らを非常に驚かし、彼らはことごとくうしろに引きさがり、あたかもいなずまに撃たれたかのように、地に倒れた。これは主がその時お示しになった特別な神の力によって行なわれたもので、ユダヤ人を恐れさせたのみでなく、彼の弟子たちを強めるためのものだった。

 これらのことは、彼ら(注:弟子たち)がやろうとしたような、武力によってイエスを救出しようとする冒険のかわりに、この力を示されたことから、主が自らを死に渡すことを選びたまわないのなら、他のものの助けや保護を求めなくても、ご自身を守り、その敵に反抗したもうことがおできになると結論を下したことであろう。

 主は暴力が行使されることを欲したまわなかったし、後で見るように、このことに関して、ペテロをきびしく戒めたもうている。したがって、この奇跡は、つまずきの深淵に対する保護柵として役立つ。この深淵の中で、ユダヤ人も、後には弟子たちですら、ともに溺れそうになったのである。主はご自身を捕らえさせ、ユダヤ人にわるふざけをさせることを許し、そしてついには、十字架上であのような恥ずかしい死刑を執行されることを許したもうたのだから、弟子たちですら、すっかりつまずいて、彼らがイエスのなしたもうのを見たあのすべての奇跡も、彼らが耳で聞いたあの力強い説教すらも忘れてしまって、イエスの主張と関連するすべてのことは失われ、彼らの希望も全く空しくなったと思ったのである。そして他方、不信仰な悪意に満ちたユダヤ人たちは、キリストを十字架に釘付けするとすぐに、自分たちの目的が成就するにちがいないと思っていたのである。

 だから、この奇跡は何と輝かしいものではあるまいか。剣や、棒で武装し、統治者から権威を与えられ、その役目を果たそうとの熱心で死にもの狂いの多くのユダヤ人が、押し返され、敵のようなものが彼らを激しく撃ち倒したかのように驚いてみんな地に倒れたというのである。しかもこのすべては、ただひとりで武器を持たずに立ち、優しい言葉でしか語られたことのないおかたによって言われた「それはわたしです。」という一言で起こったのである。

 弟子たちはこの大奇跡を見た。ユダヤ人もその力を感じた。それにもかかわらずそれは間もなく忘れられたのである。実際、キリストはそのように忍耐強くそのお苦しみに身を任せ、敵に対しては他の力を用いたまわなかったので、彼らは主を単なる人間と思ったのである。

 しかし、彼らは当然次のように論ずべきだった。もしもこの人が、毒舌でも呪いでもなく、単なる優しい答えの一言をもって、落雷にあったかのように、大きくて、強くて大胆な武装した人々を打ち倒すことができるのなら、確かにその自発的な忍従の中に深い意味があるにちがいない、と。彼はご自身を防ぎ守ることはできるが、そうしないで屈服しておられる。だから、人の助けを願いたまわない。そして、そのみ力を隠し、ユダヤ人に好きなようにさせたもうているが、これは決して終わりとならない。

 驚愕が彼の敵を捕らえるだろうが、彼は彼らを征服したまわねばならない。なぜならば、彼がしばしば示したもうたその神の力は、ことにこの庭で、ただの一言「それはわたしです。」によって現わしたもうたその力は、長い期間保留され、押さえられたままであることができないからである。

 弟子たちは特にこの光に照らして、この奇跡を見るべきだった。主がここでその神の力を現わしたもうたのも、実にこの目的のためであったことは疑いの余地はない。しかし、悲しいかな、この効力はどちらの側にもたちまちにして無くなった。危害を及ぼそうとするユダヤ人は、それ以上には恐れなかった。うろうろする弟子たちは、時には悲しみ、時には驚き、主によってこれ以上恵みを受けられないという絶望は言うに及ばず、彼らの主であり師であるおかたを再び見る希望すら失ってしまった。

 これがヨハネによる福音書の中で、キリストが唱えておられる「やみの時」であって、それはつまずきが勝ちを占め、悪魔がその力を行使する時である。この理由のためにこそ、主はあれほどまでに熱心に弟子たちをいましめて、「誘惑に陥らないように目をさまして祈っていなさい」と言われたのである。

(写真は『オリブ山で』ルター著の表紙。この文章がおよそ500年ほど前に書かれたとは信じられない。しかし、そんなことを言ったらこの新約聖書のことばは2000年前だ。人の心理は往古少しも変わっていない、と言えるでないか。)

イエス捕縛 ジェームズ・ストーカー


 とうとう終わりは目前に迫ってきた。エルサレムのどこの家庭でも、過越しの食事をする木曜日の夕方になった。イエスも十二使徒とともに、席についてその食事をなさった。彼は今夜が地上での最後の晩であること、またこれが弟子たちとの別れの宴であることを知っておられた。幸いにもそれについてはくわしい記録が残っていて、クリスチャンにはよく親しまれているところである。彼の生涯の最大の晩だった。彼の魂の筆舌に尽くしがたい優雅さと荘厳さが溢れた。もっとも、宵の口にいくつかの陰が彼の霊にかかった。だがすぐ消え去った。

 弟子の足を洗われる光景、過越しの食事、主の晩餐の設定、別れの挨拶、それに偉大なる大祭司の祈りと、この間彼の性格のすべての栄光は輝いた。友情のあたたかな衝動と限りなく流れ出すおのが者への愛とに、すっかり身を任せきっておられた。そして、まるで彼らのあらゆる欠点を忘れられたかのように、彼らの将来の成功を思って喜び、彼の働きの勝利を語ったりされた。一条の影といえども彼の父の顔を隠すことをしなかったし、今まさに完成しようとしているわざを見て感じられた満足感を減じはしなかった。まるで受難はすでに過ぎ去って、彼のまわりにははや高揚の栄光がきざしつつあるかのようだった。

 しかし反動はすぐやってきた。彼らは真夜中に席をたって街を通り抜け、市の東の門から都の城外へ出てケデロンの谷を横切り、彼がよく行かれたオリーブ山のふもとのゲッセマネの園に着いた。ここであの恐ろしい記憶すべき苦悩が起こった。晩餐の席において絶頂に達した歓喜と信頼の気分と、この一週間ずっと戦い続けてきた憂うつの気分がイエスに忍び寄ったのも、これが最後だった。

 それは最後の試みの攻撃だった。実に彼は一生試みられ通しだった。だが、われわれはこの光景の要素を分析することをおそれる。どう考えてみても、その意味を尽くし得ないことは明らかである。その中の主な要素―彼が贖いつつあられた世の罪の押し潰さんばかりの、焼き焦がすような力―をほんのわずかでも測り知ることができるだろうか。

 だが戦いは完全な勝利に終わった。哀れな弟子たちは、間近に迫った危機への準備の数時間を眠って過ごしたが、彼はその間に、それに対してすっかり準備を整えられた。残された最後の試みに打ち勝ち、死の苦しみは過ぎ去り、何ものにも乱されない落着きと、彼の裁判と処刑を人類の誇りと栄光に変じた尊厳とをもって、次の場面を抑え得る力が与えられた。

 オリーブの枝の間から、敵の一団が月光の中を反対側の斜面を下りながら彼を捕えようとしてやってくるのをごらんになったのは、彼がちょうどこの戦いに勝利をおさめられた時だった。裏切り者がその先頭に立っていた。彼は主がよく行かれる所を心得ていて、おそらくそこへ行けばそこに眠っておられるだろうと予想していた。彼がその暗い行いの時刻として真夜中を選んだのは、そのためである。その方が彼の新しい主人たちにもつごうが良かった。市内にたくさんいるガリラヤ人の怒りを恐れて、昼間イエスに手をかけるのをためらっていたからである。(略)

 彼らは相手が洞穴の中にひそんでいたり、森の中を追跡しなければならない場合のことを考えて、たいまつとあかりとを持ってきていた。しかし彼は、園の入り口へ自分から出て来て彼らを迎えられた。彼らはその威厳ある態度と、人をたじろがさせるような言葉の前に、臆病者のように小さくなった。彼は自らを相手の手に委ねられ、彼らは彼を町へつれ戻った。時刻は多分真夜中頃であったろう。そしてその晩の残りの時間と翌朝まだ暗いうちに、彼らは、彼の生命を求める渇きをうるおす前に、なさなければならない法律上の手続きをすませた。

(『キリスト伝』ジェームズ・ストーカー著村岡崇光訳164~167頁より引用。ここには触れられていないが弟子ペテロによる主に対する三度の否認もまたこの夜の出来事である。写真は『オリブ山で』ルター著石橋幸男訳裏表紙のもの。捕縛の場面を描いたものだが、刀をふりあげるのはペテロであろうか、イエス様は刀をおさめるようにおっしゃっているのであろう。背面に明らかに逃げてゆく弟子の姿が見える。「そのとき、弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった。」マタイ26・56。