2010年4月30日金曜日

望みの門(上) F.B.マイヤー


 今日と明日の二日間に分けて標題のマイヤーの文章を紹介しよう。この「望みの門」は旧約聖書ホセア書2章の学びである。出典は『祝福された生活(THE FUTURE TENSES OF THE BLESSED LIFE)』(瀬尾要造訳71~79頁)である。

 わたしは彼女に・・・望みの門を与える。(ホセア2・15 英訳)

 本章には、神が、「わたしは・・・しようI will)」と言っておられる個所が多くある。あなたは容易に、二三十個所発見することができよう。そして、それらを熟読するとき自らの好む道を選びとって、神からさ迷い出た私たちのために、神がなそうとしておられるすべてを知って、驚き怪しむのである。それは、神の愛は無尽蔵であること、また、神は、ご自身のものとしようとして取り上げられたひとりびとりの内に、ご自身の御旨を果たされるまでは、失敗されることも失望されることもないという真理のもう一つの例なのである。それは、私たちのたび重なるそむきによって手間どり、阻止された長い過程であるかもしれない。しかし、私たちのさすらいと罪のすべてを通じて、神はご自身の全勝的愛の御旨を遂行され、ついに私たちは永遠に神とちぎりを結ぶに至るのである。

 薄暗がりの中の光

 狭い、岩の多い谷間を想像してみよう。山あいの急で、泥だらけの奔流は、荒い板石や、のこぎりの歯のような石でおおわれた小道――この山道は頂上まで続いている――のかたわらを流れ下る。両側には、水煙が立ちこめ、垂れ下がった草木の花づなしだでおおわれた岩壁が屹立し、上を見ると、狭い割れ目に見える青色は、岩壁がほとんど触れ合うばかりであることを表わしている。すべては荒れ果て、うら寂しく、恐ろしげである。ところが見よ、そこにひとりの女性らしき者が、血だらけの足、わずかなぼろを身に着け、悲嘆にくれ、絶望の姿でうずくまっている。これこそアコル(悩み)の谷であり、非常な悩みのうちにあったイスラエルの民の状態である。神は彼女(イスラエル)をいざなって、罪悪の道から荒野に導かれた。その道はかきが立てられていたので、彼女はその道がわからなくなった。穀物とぶどう酒はできず、羊の毛と麻は奪い去られ、耳輪や宝石ははぎ取られた。

 しかしながら、彼女が今や絶望のどん底に身を投じようとした時、大気は御使いの翼で、また、恵み深い神の御旨から出た、繰り返された約束のことばによって振動するかのようである。そして、それらの励ましを受けて罪びとは、「わたしは行って、さきの夫に帰ろう。あの時は今よりもわたしによかったから」と言うようになる。ああ、さいわいな決心よ! 彼女がこのことばを発するや否や、まばゆいほどの美しい衣を着た人の姿が近づいて来るのが見える。それによって薄暗がりが昼のように明るくなる。それは希望の天使である。そして彼女(天使)が、悔いる罪びとがひざまずいている所に着いて、そのつえをそばの岩に触れると、見よ、岩はうしろに退き、目もあやな美しい風景に通じている道が開ける。そこには穀物が波打ち、熟したぶどうは枝もたわわである。それはアコルの谷にある望みの門である。そこを通って悔いる罪びとは、荒野から楽園に進み入る。そこに、太陽は常に輝き、大気は芳香に満ちている。

 アコルの谷

 これに似たことが今もある。早晩、私たちはアコルの谷を通らなければならない。私たちのホームに行く道にそれがある。火の車が私たちのそばから愛する者を連れ去り、今しがたまで、祝福された伴侶とともにたどった道を、ひとりで行かねばならない。また、私たちは反対に出会ったり、悪口されたり、私たちが友人としてたよりにしていた人々から誤解されることがある。また、私たちの計画が失敗に終わったり、私たちの宿望が挫折したり、容易に手が届くかと見えた地位に達することができないばかりか、敗者のごとく引き下がらなければならない。このような時、私たちは、寂しく、痛ましく、アコルの谷を行くのである。

 「滅ぼされるべきもの」

 私たちは、最初、アコルの谷と名づけられたできごとを忘れられない。そして、私たちがしばしばアコルの谷へ行く原因のあるものに、そのできごとは光を投じるであろう。エリコを攻略した勝利に勢いづいて、イスラエルの部族はアイという小さな町を攻略するのに少人数を選び出した。そのアイはヨルダンの平野からこの国の中心部に通じる谷の頂上にある町であった。この戦争は取るに足りないもので、大した努力も必要でないと思えた。ああ! 夜のとばりが降りるまでに、少数の戦士たちが、あわてふためいて坂を降りて逃げて帰り、キャンプの入口近くまで敵に追跡されるとはだれが予期したであろう! ――それは、彼らに武勇が欠けていたのではなく、河のほとりの沈香のように光っている多くのテントの中の一つ――それはほかのテントと見たところ少しも変わったところのない――に、禁じられているものが隠されていたからである。

 私たちの生涯には、神が直接に、その慈愛深い訓練の意味から与えられる悩みがある。これらの悩みは忍ぶに耐えないものではない。なぜなら、もし神が片手にしもとを用いられるとすれば、もう一つの手で神は、傷を包み、いやし、いのちの木の葉を当てがわれるからである。また、人々によってもたらされる悩みがある。これらもまた耐えることができる。なぜなら、私たちは神の御前に行き、弁明してくださるよう願うことができる。また、神が同情してくださり、悩みをともにしてくださるようよりたのむことができるからである。しかしほかに、私たち自身が責めを負わねばならないような悩みがある。――私たちは禁じられたものを取り、人々の目には触れないように、私たちの心中に隠してなにくわぬ顔をしている。しかし私たちはその間、常に心に秘めている罪責を意識している。そしてそれは、私たちが言い開きをしなければならない神の前に、いつも裸であらわにされている。これらの悩みこそ忍ぶに最も困難なものである。そして、私たちが、この滅ぼされるべきものを発見し、それを白日のもとに引き出し、それを石で撃ち、火を持って焼くことによって除去するまでは、それらの悩みからの救いはない。(明日に続く)

(写真は40周年祝いにいただいたルノアールの「アネモネ」です。)

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