2010年2月26日金曜日

「火曜の晩餐」


 火曜日、84歳になるご高齢の方をお訪ねした。奥様を三年半前に亡くされ今はお一人でマンション住まいをされている。今も頭脳は明晰である。この方とは昨年6月ドイツへの旅行で初めてお会いし、その後一週間ばかりご一緒し、親しくさせていただいた。帰ってからすぐにでもお訪ねするつもりで、かれこれ8ヶ月が過ぎてしまった。その間に、しばらくしてのことだが、交通事故に会われたことを風の便りでお聞きした。しかし薄情にもお見舞いに行かず仕舞いであった。

 したがって火曜日のお交わりはこちらの非礼をわびる意味をもっていた。ところが突然の訪問にもかかわらず大層喜んでいただいた。交通事故で車に轢かれられたが、一命を取りとめられたという大変なものだったようだ。奥様の命日の前日に花を買いに出かけられての事故であった。横断歩道を青信号で渡っておられたのだから一方的に車が悪い。しかも後続車としてパトロールカーがいたというおまけつきであった、と言われた。今も両足の甲が腫れ痺れも続いており、最近やっと歩行出来るようになったという話であった。

 お父様が数学者で、ご自身も日本の最高学府の一つを出られ、その上アメリカの大学にも学ばれ、社会的にも成功なさった方である。ところが、自分の不注意で奥様を早く死なしめてしまったという慙愧の念に、今も囚われておられる。いかなるこの世の富・栄誉・力もこの方の孤独を前にしては役立たずである。晩年、奥様を通してイエス・キリストの救いを受け入れられたのだが、まだ全面的とは言えず、突然奥様に先立たれての寂しさは尽きないようである。どのみことばがお好きですか、とお尋ねしたら、壁にかけられた色紙のみことばを紹介してくださった。

人はみな草のようで、
その栄えは、みな草の花のようだ。

草はしおれ、
花は散る。 しかし、主のことばは、
とこしえに変わることがない。

1ペテロ1・24~25のみことばである。ブラームスのレクイエムはこのみことばが中心になっていてその音楽を好むのだとも言われた。時間もちょうど夕飯時になっていたためお暇したかったが、逆にお夕食を用意していただいた。いつも奥様の陰膳を用意しているのでちょうどあなたが食べてくださると助かるとまで言われるのであった。そして台所に立たれ、「女の方は立派ですね、家内も何も文句を言わないでこうして毎食・毎食、亭主の食事を用意してくれていたんですね」と言い言い準備してくださった。とても84歳とは思えない。かつて大学時代アメリカンフットボールをなさっていたので体も頑健でいらっしゃるのかも知れない。食事前に先ほどのみことばを読みご一緒にお祈りして、ありがたくお相伴にあずかった。

 食後、バッハのクリスマスオラトリオを聴きませんかとお誘いくださる。前日かNHKBSで放映されたものを録画なさっていたものだった。もともと機械にはお強い方でかつ音楽マニアでいらっしゃる。解説していただきながらお聴きすることができた。独唱や合唱の場面では一つ一つのドイツ語の歌詞が日本語で表示される。いずれも聖書にちなんだことばである。独居老人であるその方の心の慰安となっていることを知る。演奏の合間には美しい風景が放映され、いながらにして最高の音楽とことばと風景を楽しむことができると言われた。

 しばらくご一緒にお聴きしていたが途中で遅くなったので辞去させていただかざるを得なかった。奥様に先立たれ、交通事故に会い、病院に一月入院され苦しい試練の時を過され、こうして今もなおご自分で懸命に生きておられる。最晩年に福音に出会われたのは不幸中の幸いであった。しかし、どうしてこんなにまでして生かされているんでしょうね、とも言われた。人生の大先輩にご馳走にあずかりながら、奥様は天の御国という一番良い所で憩うておられるのですよ、と申し上げた。暗くなった夜道を帰宅を急ぎながら、その方の心のうちに信仰の灯が燃やし続けられるようにと、祈らずにはおれなかった。(ルカ24・32)

 今振り返ってみるとその前日古本を購入した。ところが、その中に小冊子として「天をおもう生涯」(笹尾鉄三郎)があった。昨日のブログで掲載させていただいた。それはご覧のとおり私たち一人一人に何を目当てに生きているかを問うていた。それだけでなく奥様を天に送られたその方にもぴったりの内容だった。こうして主はいつも私たちを時に叶って導かれるお方であることに驚かされる。主が私たちに願われているのは一人でも主の救いに漏れる者がいないようにいうことである。最後にもう一度その方が好きだといわれたみことばを前後のことばとともに書いておく。

あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。「人はみな草のようで、 その栄えは、みな草の花のようだ。 草はしおれ、 花は散る。 しかし、主のことばは、 とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。(1ペテロ1・23~25)

(写真は言うまでもなくレオナルドの「最後の晩餐」である。絵葉書のコピーである。この方の食卓の正面にはこの絵が飾られていた。いつもこの絵を見てイエス様の優しさを思うのだと言われた。イエス様は私たちの罪を贖い永遠のいのちを与えんと今日も手を差し伸べていてくださる。)

2010年2月25日木曜日

天をおもう生涯 笹尾鉄三郎


こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。(新約聖書 コロサイ3・1~3)

 まず記憶すべきは「もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら」とある。これは世の人一般の人々に言われたことではない。世の人に向かって、地のことをおもうな、天のことをおもえと言ったとしても、それはできないことである。けれどもキリストを信じる者は、コロサイ2・12にあるとおり、死んで、そうして甦ってきた者である。もはや古い身分の者でなくて、新しい身分になった者である。だからそのつもりで暮らしなさいというのはもっともである。信者である者は、ついこの間救われた者でも、みな甦ったのである。もはや悪魔の子ではない。神の子である。だから神は私にも「上にあるものを求めなさい」とおっしゃるのだ。

 キリスト者の一つの特色は天に属していることである。この世につかず、地につかず、霊につき、神につき、天についている。これは仏教の僧侶のように世を逃げ去ることでなく、また俗務に離れることでもない。身は依然として俗界にあり、さまざまな雑務をしておりながら、心が天にあるものを求めていることである。どうか、このコロサイ書をとおしてキリスト者の心意気を知りたいものだ。

 第一に「もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら」とある。私どもは無理に天のことを思うのではない。これはむしろ当然である。なぜなら、キリストが彼処(かしこ)におられるからである。天下の中でだれかキリストのように私を愛し、キリストのように私のために尽力してくれたものはあるだろうか。私のために天から下り、すべてのことを犠牲にして、命をも捨ててくださった主は今も天にいらっしゃるからである。昔はキリストの墓を重んじるあまりに、十字軍が起こったことがある。もちろんこれには信仰の誤謬はあるが、キリストのためにという心がけに立ち入れば、殊勝なことではある。けれども現在キリストは、はたしてその墓におられるのであろうか。かつて金曜より日曜の朝までそこにおられたことはあったが、今はそこにはおられない。今そのキリストは天にいらっしゃる。だからキリストがいらっしゃるところが天にあることを本当に記憶しているなら、私どもも知らず知らず彼処(かしこ)に心が向くはずだ。詩篇73・25~26を見よ。

天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかには私はだれをも望みません。この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。

とある。じつにそのようである。ムーデーがよく言われたことに、自分の娘が向こうに嫁いでいるから、日に何度なく向こうを見る、別に用があるわけではないが、ついその家の方に目がつくと。これは愛する者がそこにいるからである。私どももそのように、別にこれという用事がない時にも、常に天のことを思うようになってくる。上の方を向いていれば、その中に天のことが映り、下を向いていれば地のことが映る。

 次に私どもに先立って行った聖徒が天にいるからである。彼らは涙もなく、悲哀もない栄光の中で楽しんでいる。

だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。彼らはもはや飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。(黙示録7・15~17)

 彼らは永遠の慰めの中にいるのである。このことを思えば、私どももまた慰められるではないか。今朝も、先日息子を失ったある兄弟が来られて、人情としては悲しいけれども慰藉(いしゃ)がある、ひと晩悲しんだけれども、あとは慰めとなったと申されたことであった。先年私の知人がなくなったが、その臨終の時、家族の者が泣くと、その兄弟が、私は今上に行くのにおまえらは下を向いているのだ、上を向け上を向けと、今や死なんとする兄弟が、悲しんでいる家族を慰めた。兄弟は自分が墓にはいるなどと悲しんでいなかった。天へ行くのだと望みをもって輝いていた。ところが家族の者は肉体が死ぬ死ぬとばかり思っていたから悲しんだのである。オォ天のことを思おう。神のことを思おう。そこに勝利がある。パウロは「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。」(ピリピ1・23) といった。  

今一つは天に私たちのために住宅が備えてあることである。

わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたが たに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたを わたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。(ヨハネ14・2~3)

 これが永遠の住処(すみか)である。キリストがこの世を去って天に昇られた一つの目的は、私どものために処を備えようとなさることである。御昇天以後今 に至るまで千何百年、キリストはいそがしく私どものために処を備えていてくださる。黙示録の終わりにある住所の美は、品性の美を指したことであるが、また 実際に住処(すみか)が美麗であることをも指しているのである。ヘブル書11・13~16に

これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れる ことはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、 自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらに すぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用 意しておられました。

とある。これが信仰の人の足跡である。地にあっては、ほんの一夜の宿であることを思って、天の美しい住処を求めたい。私どもの心が天に向かっているなら ば、この世のつまらぬものをむさぼるようなことはすまい。たとえば何かの用でどこかに行く旅人が、道中に大きなよい家があるからといって、それを買ったり などするまい。雨露さえしのげば善しとして、あるところをもって足れりとするのである。ォー私どものためにこの世のものよりも、さらに幾倍も美しいものが 天に備えられている。これに目をつけて進みたい。

 終わりにもうひとつ大切なことを申し上げたい。天のものを求めよといってあるそのあとに、このコロサイ書では三章より四章にかけて、いろいろなことを 言って、夫婦、親子、主従の関係にまで説き及ぼしている。ずっと高い天上の理想を示しておいて、今度はそれが台所のすみにまで届くように記してある。いろ いろな仕事雑務をするにも永遠のものに目をつけてゆき、霊的なものに眼をつけてゆかねばならない。まず三章にある第一のことは私どもの品性の問題である。 地につける姦淫だの、汚穢だの、邪情悪欲および貪婪などは霊の剣、十字架の力で殺してしまい、そして12節にあるような慈悲、あわれみ、謙遜、柔和、忍耐 などを着なさいとある。これはみなキリストの姿である。この世の美服でなく、これらはみな天にまで行くキリスト者の服装である。

 金銭のことについても、キリストのように天に財を蓄えることが、天にあるものを求める人のことである。箴言にも「寄るべのない者に施しをするのは、主に貸すことだ」(19・17)とある。天に眼のついた人はこのことをするはずである。

 また仕事に従事するにも永遠に眼をつけるべきである。する仕事は何にせよ、よし雑巾がけにしても神のことを思いながら、また人のために神の栄えのために という心がけで、なすべきである。そうしてこのような動機ですべての仕事にあたることが肝要である。ある人の家に「永遠のために働く」と書いてあったが、 神の栄えのため、人の益のためにと思って働く働きは、永遠にまで残るのである。冷水いっぱいにても、愛のために人に与えれば、それは天にまで至るのであ る。「地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい」。このおもう(think)とは英語で、天にあるものにあなたの愛情を置けという意味である。ちょ うど親の心が子供にぴったりくっついているようなことである。何としてでも天のものに全く心を奪われて、地につけるものを捨てたいものである。                            

(この文章は明治42年2月聖書学院教会でなされた笹尾の説教の聞き書きである。101年前の今頃のメッセージである。原文に一部手を加え現代風にアレンジした。写真は庭に咲いたクリスマスローズ。「人知れず うつむくローズ 春近し」 「天国に あこがれて白 写したり」 「天おもう 造化の妙 雄蕊雌蕊」)

2010年2月20日土曜日

強情な私


 永年、人から一冊の本を読んで欲しいと私は言われていた。ところが私は読まなかった。要するに強情なのである。たまたま一人の方がそのことを知られた。そしてその方も私にその本を読んで欲しいと思っておられたようだ。今週火曜日にその方から、その本を綺麗に包装されたプレゼントとしていただいた。とうとう読まずには済ませなくなった。少しずつ読み始めたが、もう少しで読み終える。こんなことなら最初から素直に読んでいれば良かったと思う。しかし、これもまた主が私に私というものの実態を知らしめるために許しておられたことに違いない。以下はその本からの抜粋である。

 非難することから人が救い出されるのは容易ではありません。しかし、理屈から人が救い出されるのはもっと困難です。わたしは若かったころ、いつも神の理屈のない行為によって悩まされました。その後、わたしはローマ人への手紙第九章を読んではじめて、神の権威に触れました。わたしは自分がだれであるかを見始めました。わたしは神の被造物です。わたしの最も理屈のある言葉も、神の御前では頑固であるにすぎません。すべてをはるかに超えておられる神は、その栄光の中にあって近づくことができません。もしわたしたちが神の栄光のわずか百万分の一でも見たなら、わたしたちのすべての理屈を投げ出してひれ伏すでしょう。遠く離れて生きている者たちだけが高ぶることができるのです。また暗やみの中に生きている者たちだけが、理屈の中にとどまっていることができるのです。自分自身のたいまつの光で、自分自身を見ることのできる人は世界に一人としていません。主がわたしたちに少しばかりの光を与え、ご自身の栄光を少しばかりわたしたちに啓示される時はじめて、わたしたちは使徒ヨハネのように、死人のように倒れ伏すことでしょう。

 どうか神がわたしたちをあわれんでくださり、わたしたちが今日も依然として価値のない、卑しい人であることを見させてくださいますように。どうしてわたしたちはあえて神と論じ合うのでしょうか? 南の女王がソロモンを訪れた時、そして王が彼女に彼の栄光のほんの少しを見せた時、彼女の霊は消え去るばかりでした。ここにソロモンにまさる方がおられます。捨て去ることのできない理屈がわたしにあるでしょうか? アダムは善悪の知識の木の実を食べて罪を犯しました。その時以来、理屈は人の存在そのものに根を下ろしました。しかし、もし神がその栄光をほんの少しでもわたしたちに啓示されるなら、わたしたちは一匹の死んだ犬、一塊の土くれでしかないことを見るでしょう。わたしたちのすべての理屈は、神の栄光の中に消え去るでしょう。人は栄光の中に生きれば生きるほど、一層理屈が少なくなるでしょう。他方において、理屈を言う人を見れば見るほど、一層あなたは彼が決して栄光を見ていないことを知るでしょう。

 この何年間かに、わたしは一つのことを見いだしました。それは、神のなさる事は決して理屈にはよらないということです。たとえ神が何を行なっているのか全く理解できなくても、わたしはやはり神を礼拝します。わたしは神のしもべであるからです。神が行なうあらゆる事がわたしによって理解され、認識されるとしたら、わたしは御座の上に座している者と同じであるでしょう。いったんわたしが、神はわたしのはるか上におられることと、神だけがいと高き方であることと、わたしはちりの中にひれ伏すべきであることを見るなら、すべての理屈はわたしから去るでしょう。この日以来、権威だけが事実です。理屈や、正しいか間違っているかではありません。神を知る者は確かに自分自身を知ります。そしていったん人が自分自身を知るなら、すべての理屈は取り除かれます。

 神を知る道は服従によります。理屈の中に生きる人はすべて神を知りません。進んで権威に服従する者だけが真に神を知ることができます。アダムから受け継いだ善と悪のすべての知識は取り除かれなければなりません。その時以後、わたしたちの服従は極めて容易になるでしょう。

 レビ記第十八章から第二十二章で、主はイスラエル人にある事を行なうよう命じるたびごとに、「わたしはである」という言葉を命令の間に差し挟みました。「なぜなら」という言葉さえありません。わたしはこう言う、わたしは主であるからである。他の理由は必要ありません。「わたしはである」が理由です。もしこれを見るなら、あなたはこの日から理屈によって生きないでしょう。あなたは神に言わなければなりません、「過去において、わたしは自分の考えと理屈によって生きてきました。今日、わたしはひれ伏し、あなたを礼拝します。それがあなたからである限り、わたしはそれで十分です。わたしはあなたを礼拝します」。(『権威と服従』ウオッチマン・ニー著123~125頁より、引用の際一部表現を変えたところがある。「主」は原文では「エホバ」である。)

南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者(イエス・キリストのこと)がいるのです。(新約聖書 マタイ12・42)

ときに、シェバの女王が、主の名に関連してソロモンの名声を伝え聞き、難問をもって彼をためそうとして、やって来た。彼女は、非常に大ぜいの有力者たちを率い、らくだにバルサム油と、非常に多くの金および宝石を載せて、エルサレムにやって来た。彼女はソロモンのところに来ると、心にあったすべてのことを彼に質問した。ソロモンは、彼女のすべての質問を説き明かした。王がわからなくて、彼女に説き明かせなかったことは何一つなかった。シェバの女王は、ソロモンのすべての知恵と、彼が建てた宮殿と、その食卓の料理、列席の家来たち従者たたが仕えている態度とその服装、彼の献酌官たち、および、彼が主の宮でささげた全焼のいけにえを見て、息も止まるばかりであった。(旧約聖書 1列王記10・1~5)

(写真はホフマンの絵になる、ソロモンの知恵があらわされた有名な場面。旧約聖書1列王記3・16~28参照)

2010年2月18日木曜日

『神を求めた私の記録』 イゾベル・クーン著


 バンクーバーに熱い目が注がれている。この本は、そのバンクーバーで育った一人の女性の「神」の探求物語である。キリスト者の家庭に育ったイゾベルが、長じて大学に進むとともに、幼い時から信じ切っていた神様の存在に懐疑的になるところから物語はスタートする。

 彼女はダンスの上手な情感豊かな女の子で将来は教師を夢見ていた。ところが、いずれもその夢は暗礁に乗り上げるのだ。一番大きな痛手は失恋であった。その結果、自尊心が大いに傷つけられ死のうとさえする。しかし、そうはならなかった。そうは神様がさせなかった。両親の祈り、両親の親しい友人の祈りが彼女を真の悔い改め、キリストにある新生へと導いたからである。彼女は聖書のみことばを通して語り続けて下さる神様の御声に聞き従う信仰を得る。

 13章にわたる『私の記録』の前半部を象徴するみことばは彼女によるとエレミヤ23・12ということだ。

それゆえ、彼らの道は、暗やみの中のすべりやすい所のようになり、彼らは追い散らされて、そこに倒れる。わたしが彼らにわざわいをもたらし、刑罰の年をもたらすからだ。

 「それゆえ」とは「主なる神を認めず自分勝手に生きるから」という意味だ。しかし、神様は生きておられる。だから、他者がどのように低俗と判断して批判的に見ているような事柄も、主はその人を神ご自身の道に歩ませようと待ち構えていてくださっていると証しする。そして、この彼女のために人知れずとりなしをしていたキリスト者ホイップル夫妻の生き方が紹介される。

彼女(ホイップル夫人のこと)は、いのちの一般的原則(※)を知っていました。(略)年を取った人たちには、若い世代が使う科学的学術用語を全部理解できないかもしれません。けれども彼らは、決して変わることのないいのちの原則を知っているのです。自分の前を歩いた人たちが得た知恵体験という遺産を捨てない人は賢い若者です。(72頁)

 教師の道に進んだイゾベルは、こどもたちの指導に対して力量不足を自覚し、挫折する。その彼女に示されたのは、こともあろうに中国リス族への宣教のビジョンであった。後半は、その彼女に、どのようにして宣教の道が開かれてゆくかが克明に語られる。宣教師として外国に出て行くことに反対であった母親の突然の死、さらに父親の事業の失敗により、経済的自活を果たしながらのムーデー聖書学院での二年数ヶ月の学びの道、どれ一つ取っても神様に頼らずしては前に進み得ない困難な事柄であった。そのような試練の中、彼女はますます神様の愛を個人的に体験してゆく。私自身多くのことを教えられ、ノートにメモするのに暇なしだったが、そのような中で彼女が記している次のみことばが重い意味を持ち迫ってきた。

御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえます・・・(1コリント2・15)

 聖霊に従うことの重大性を示されると同時に、彼女の証を通して神様の御意思がすべてを治めていることを改めて確信させられた。

 この彼女が聖書学院を卒業し、いよいよ中国宣教の道が開かれようとするとき、最終の断を下すべく宣教団体の審査が行なわれた。しかしたった一人の人が推薦に反対したため、条件付になる。彼女には極めてショックな出来事であった。しかもその理由は「あなたがごう慢で不従順でトラブルを起こす可能性がある」ということだった。いずれも彼女には身に覚えのない中傷も同然の内容だった。このことに関して彼女がその非を友人に訴えた時、一人の友人が次のように答えたということだ。

「イゾベル、わたしがいちばん驚いたのは、このことに関してとったあなたの態度です。あなたはひどいことだといって怒っているようですね。もしだれかがわたしに向かって『ロイ、きみはごう慢で不従順、それに問題をおこす人間だ』と言ったら、わたしは、『アーメン、そうです。しかしあなたは、まだわたしの心の半分も言い表していません』と答えるでしょう。いったいわたしたちの心にどんなよいものがあるでしょうか、わたしたちはこれらの罪を一つずつ十字架のもとに持って行って、十字架につけていただかなければ、決して勝利をとることはできません」(161頁)

彼のことばは私を突きさしたので、はっと霊の目が開かれました。なんという真実な友だちでしょう。彼は恐れずに「塩で味つけられた」ことばを使い、同時に「優しいことば」で語ることも忘れなかったのです。私はその場にひざまずくと主に許しを願い求めました(162頁)

主がこの大事な仕事を私の手に託される前に、私の自己信頼は徹底的に砕かれなければならなかったのです。主はそれをなしとげてくださいました。私の主はほんとうにいたれりつくせりのおかたです。「だれも主のようなことはできない」。(163頁)

 この章に当てられた題名は「屈辱とへりくだりの学課」である。最終章である13章は「前進」と題されているが、遠く中国へと向かうために太平洋に向けて北米大陸西海岸を出航するエムプレス・オブ・ロシア船上のできごとが次のように記されている。

巨大な船体は静かに岸壁を離れました。紙テープが、ひとつひとつ切れていきます。コーナークラブの愛する人たちの顔は深い感動でつつまれています。「主よ、これらの人たちが忘れることのできない最後のことばを、私にお与えください」。私は小声で祈りました。大きな声を出せば、まだ岸壁に届きます。私は身を乗り出して、ゆっくりと、「完成を目ざして進みましょう!」と叫びました。(190頁)

 さらに、この13章にわたる叙述の結びは次のようにして閉じられている。
さて、読者のみなさん、これでお別れしなければなりません。私は、「完成を目ざして進もうではないか」(ヘブル6・1)ということばほど、この場にふさわしいものはないと思います。私たちの神の偉大さと親しみ深さとを探求するために、ともに進もうではありませんか。神は、人をかたより見るようなことはされません。「もし、あなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会う」(エレミヤ29・13、14)と言っておられます。(略)ですから前進しましょう。探求の旅を続けていきましょう。(191頁)

 だから、原名『By searching』に即して言うならば、『神を求めた私の記録』に留まることなく、むしろすべての人が同じように生けるまことの神を求めて、終わりのない探求の旅に出ることを勧めた本である。真剣にまことの人生を求めている人々に是非一読していただきたい本である。
(文中の※は引用者が勝手につけたものですが、2コリント5・17、2コリント6・14~17を指すものと思われます。写真は昨日東大和市で見かけた梅の花。中々晴天に恵まれないが、梅は各地で咲いている。春まであともう少しです。)

2010年2月16日火曜日

あーまたこの二月の月かきた


 つい先日、昨年11月刊行の『小林多喜二の手紙』(岩波文庫)を図書館で見つけた。何となく気になって読んでみた。十数年前、多喜二のお母さんを書いた三浦綾子の『母』(角川文庫)を読んだことがあったので真相を知りたいという思いがあった。それだけでなく母から聞いていた戦中の北海道を知りたい気持ちもあったからである。

 もともと私の家は先代まで北海道の森町で米穀商を営んでいた。その家に嫁いだ母は夫に死なれ、未亡人になったので森町の家を畳んで留守宅の本土滋賀県に帰ってきた。そして、家を守るために私の父を養子として迎え、私が一粒種として与えられた経緯がある。ところが、母は生前よく私に先夫の話をしたものだ。先夫は戦死したが、函館商業で左翼思想の洗礼を受け、それゆえの軍隊内での死であったかのような口ぶりであった。確かに先夫が遺した書籍にはそれらしきものがあった。それに対して私の父が農業関係の本しか持っていなかったので、生意気盛りの私には父より母の先夫がまぶしく見えた時期があった。

 『手紙』を読んで、当時の小樽を中心とする北海道を知るだけで楽しかった。また、彼が真面目に経済学を学んでいた人であることにも驚かされた。後に身請けすることになる田口タキに宛てた書簡は様々なことを考えさせられた。また獄中から送られる多くの書簡は謙虚に自らを顧み、新たな文学作品を生み出す充電の時期として過しているところなど多喜二の人間としての誠実さを思わされた。

 しかしこの多喜二には実はキリスト者の姉がいたのだ。獄中の多喜二に姉は賛美歌510番の歌詞を書いて送る。有名な賛美歌だ。(『手紙』224頁)

まぼろしのかげを追いて、浮世にさまよい、
うつろう花にあこがれる、汝が身のはかなさ。
春は軒の雨、秋は庭の露、
母は涙かわく間なく、祈ると知らずや。

幼くて罪を知らず、胸に枕して
むずかりては、手にゆられし、昔忘れしか。
春は軒の雨、秋は庭の露、
母は涙かわく間なく、祈ると知らずや。

汝が母のたのむ神のみもとにはこずや
小鳥の巣にかえるごとく、心やすらかに。
春は軒の雨、秋は庭の露、
母は涙かわく間なく、祈ると知らずや。

汝がために祈る母のいつまで世にあらん
とわに悔ゆる日の来ぬ間に、とく神に帰れ
春は軒の雨、秋は庭の露、
母は涙かわく間なく、祈ると知らずや。

そして多喜二は書く。「これは賛美歌です。姉が学校に通っていたころ好きな歌の一つらしく、ぼくも覚えさせられて、よく声を合わせて歌ったことのある歌です。姉は母の代筆の手紙にこの歌をかいてきているのです。この歌が今こそ始めて、本当の意味をもって、お前が独房の中で思い起こし、歌わなければならない歌だ、というのです。姉です。・・・・」

 一方、三浦綾子の『母』はその辺の取材を丹念に行ないながら、ほぼ事実に近い形でこの作品をつくり上げたように思う。再読してほんの一箇所だが森町が登場することにも気づいた。(『母』95頁)こんな多喜二が二度目の検束の結果、築地署で昭和八年二月二十日に拷問により死ぬ。母として耐えられない「息子の死」である。彼女はイエス・キリストの十字架死を最愛の息子の虐殺死に重ねる。三浦綾子はその母セキの追憶を通して全篇を描いた。秋田弁で語られる母のことばは万人の胸を打つ。以下は最後のシーンである。

 なあに? そこにある紙は何ですかって? ああ、これか。これは見せられない。泣きごとだ。わだしの泣きごとだ。

 二月が近づくとなあ、多喜二が死んでから三十年近く経っても、まだ心が暗くなる。まだ信仰が足りんのだべかねえ。恥ずかしいけど、そったら気持ちを書いたもんだ。ずいぶん前に書いたもんだ。思い切って見せて上げるべか。まだチマにも見せたこともない。

 ほんとはね、これはイエスさまにしか見せないつもりでいたんだ。人になんぼ見せても、わたしの辛さをどうしてくれるわけにもいかない。イエスさまだら、この辛さをちゃーんとわかってくれると思うの。死ぬ時には手ば引いて、山路ば一緒に行ってくれるお方だもんね。あんまり下手で恥ずかしいども、作ったというか、書いたというか、鉛筆持ったらこんなのできたというか、ま、そんなもんだ。

 あーまたこの二月の月かきた
 ほんとうにこの二月とゆ月か
 いやな月こいをいパいに 
 なきたいどこいいてもなかれ 
 ないあーてもラチオで 
 しこすたしかる 
 あーなみたかてる 
 めかねくもる 

 これな、ほんとは近藤先生にだけは見せたんだ。したらな、先生、なんも言わんで、海のほうば見ているの。五分も十分も黙ってるの。

(先生、何か気にさわったべか)

 と思ったら、先生の口、ひくひくしているの。そしてな、持って来たでっかい聖書ひらいて、

「お母さん、ここにこう書いていますよ。『イエス涙流し給う』※ってね」

 先生そう言って、声ば殺して泣いてくれたの。わだしは、「イエス涙流し給う」って言葉、何べんも何べんも、あれから思ってる。イエスさまはみんなのために泣いてくれる。こったらわだしのために泣いてくれる。下手なもの書いたと思ったけど、そう思ったら、破るわけにもいかんの。

 いや、長いこと喋ったな。ほんとにありがとさんでした。いや、ありがとさんでした。
 おや、きれいな夕映だこと。海にも夕映の色がうつって・・・・。

(※ヨハネ11・35のみことばである。写真は日曜日の那須地方、東西に走る55号線沿いの風景。右端が那須岳か。文中のセキの詩、方言で読みにくいが、恐らく、次のように読むのであろう。「あー、またこの二月が来た 本当にこの二月という月が嫌な月 声を一杯に泣きたい どこへ行っても泣かれない あー、でもラジオで少し助かる あー、涙が出る 眼鏡が曇る」)

2010年2月8日月曜日

生くるは愛のため 畔上賢造


我にとりて生くるはキリスト、死ぬるは益。されどもし肉体にて生くること、わが勤労(はたらき)の果(み)となるならば、いずれを選ぶべきか、我れこれを知 らず。我はこの二つの間に介(はさ)まれたり。わが願いは世を去りてキリストと偕(とも)に居らんことなり、これ遥かに勝るなり。されど我れなお肉体に留 まるは汝らのために必要なり。我れこれを確信する故に、なお存(ながら)えて汝らの信仰の進歩と喜悦とのために、汝ら凡ての者と偕(とも)に留まらんこと を知る。これは我が再び汝らに到ることにより、汝らキリスト・イエスにありて我にかかわる誇りを増さんためなり。(新約聖書 ピリピ人への手紙1・21~26)

 以上の数節において我らの先ず強く感ずることは、彼(註 パウロ)に存せしところの永遠希求の熾烈(しれつ)なる情感である。それは晩年においてのみ盛んとなったのでないことは、その壮年の時の書翰にもこの希求の強く現れているので知れる。すなわち最も早き作たるテサロニケ前後書の如きは、重にキリスト再臨について述べたものであるが、再臨といえば新天新地の出現―救いの完成の機会を意味するものである。ロマ書の如き彼の大作もガラテヤ書の如き彼の代表作も、共に是れ「如何にして救われんか」の問題を中核とするものにして、救いとは彼においては全然来世的であったのである。

 「御霊の初の実をもつ我らも自ら心のうちに嘆きて子とせられんこと、即ちおのが体の贖われんことを待つなり」(ロマ8・23)と云いて、彼は救拯(きゅうしょう)完成の日を一刻千秋の思いをもって待ち続けたのである。「我らもしその見ぬ所を望まば、忍耐をもてこれを待たん」(同25)と云うはこれである。従って晩年に至りては、この希求がいやが上にも盛んとなったのである。ピリピ書のここの数節の如き、また3章8ー21節の如きに表れたる彼のこの心は、げに心憎きまでに燃え立てる永遠思慕の心である。我らは之を一の宗教的偉人の心境として、全く特異なるものとして説明し去ってはならない。神を信ずる者の必ず求めねばならぬ真生命への欣求(きんきゅう)が茲に在るのである。

 かくも熾(さかん)なる永遠思慕は、もし今世を去る如きことあらば、ただちにキリストと偕(とも)なり得て充分に満たさるべきである。しかるに兄弟姉妹を愛する心よりして、彼らの益を計らんがために寧ろ地になお留まるを選ぶとの決意を抱きしは、盛んなる永遠思慕の心よりも尚一層盛んなる愛他的精神の発露である。これ実に世にも貴く、美しい心ではないか。世に人の魂を愛するために自己の幸福を棄てても厭(いと)わぬという人は多いが、そのためには自己最大の宗教的希求を暫し抑えても厭わじというは稀有の心である。稀有ではありても、我らの有ちたき心ではないか。

 私は時に思う―殊に苦悩痛悶に際しては思う―むしろ今直ちに世を去りてキリストと偕(とも)になるが我の幸福ではあるまいかと。しかし翻って、弱き我をも柱と頼む数名の家族の上を思うては、なお此の世に存(ながら)えたしと望む。もとより召さるる時来らば誰人も之に抗することは出来ぬが、ただ自分だけの望むところはそこにある。之は我が父母、わが妻子を愛するという普通の人情の発露であって、極めて自然のことである。そしてパウロの如きは凡ての兄弟姉妹を我が家族と同じほどに愛する心を有ちたればこそ、彼らのために地上生存の必要を痛感したのである。

 されば我らは彼のこの心を特異として説明し去らずして、先ずわが家族の魂に対するだけの愛を他の多くの兄弟姉妹の魂に向かって抱きたいものである。問題は茲に存する。パウロの信仰的偉大は、その家族を全く棄てて信仰の兄弟姉妹をのみ愛したという点にあるのではない。父母、兄弟、妻子(妻子ありしとせば)を愛すると同じほどに、すべてのクリスチャンを愛した点に存する。故にこそ彼はその家を顧みることなくして、専ら人のために働いたのである。故にこそ彼の家は全世界にして、必ずしもキリキヤのタルソ(註 パウロの出身地)に限られなかったのである。

 われらもとより、彼に真似て家庭を棄てて全世界を遍歴する必要はない。しかし学びたきは彼のこの大にして無私なる愛心である。わが家族を懐うほどの篤き愛をもって凡てのクリスチャンを、また全人類を愛した情熱―その強さ、け高さの前には、私は謹んで額づきたいような気がする。パウロ崇拝ではない、ただ模範的基督者としての彼を懐うのである。そしてかくも深く人の魂を愛するは、ただ人の魂を愛するだけをもって終わらない。この心ありてこそ自己の魂が伸びる。故に人の魂を愛すること切なるは、自己の魂を培う所以にして、愛他は必ずその反響を自分の魂の上に受くるものである。これ愛の原則である。故に愛は斥けられても少しも損はない。斥くる者は損であるが、斥けらるる者はその愛を己の上に受けて己の魂を養う。人に道を説くは、人を救うためである以上に自己を救うことである。

(引用文は『畔上賢造著作集』第5巻655~657頁。原文は昭和5年から雑誌に連載された畔上の文章であり、名文であるが、現代人には読みにくいところがある。引用者の手により、漢字を少なくし随時読み仮名を( )内に示したりした。絵はオディロン・ルドン作のもの。)

2010年2月7日日曜日

Happy Birthday を受けて


 昨晩から二人の孫がやって来た。私の誕生祝だという。二人姉妹は「じいじ」の誕生祝のケーキを作りに行くんだと張り切っていて、前からあたりの人々にも公言していたようだ。仕事で忙しい両親を引っ張り出しての来宅となった。夜の八時ごろ電車を乗り継いで喜び勇んで飛び込んで来た。60歳以上ちがう孫のパワーには圧倒されっぱなしであった。

 ケーキ作りは最初からというわけには行かなかったが、デコレーションは家内や次女に手伝ってもらいながら、それぞれの思いを乗せてきれいに仕上げていった。一日早い誕生祝がこうして手作りのケーキでできた。祝いのために駆けつけて屈託なく笑い興じる孫の姿は老醜をさらしているこの身にはまぶしいばかりであった。

 もちろん喜んでばかりはいられない。彼らが時とすると聞き分けが悪く、わがままになりお手上げ状態になることが多々あるからである。自分の子どもなら叱り飛ばしてしつけるが、どうしても遠慮が先立つ。孫のために祈るだけである。朝、妹の方がまだ寝ている父親を指して、「じいじとばあばのこどもはまだ寝ているよ」と言って来た。幼いこどもなりに親子の関係をよく理解して、悪いことは悪いと判断しているのである。

 昨年はこの日は彦根におり義母の見舞いにベックさんたちと病院へ行った。義母ははっきりイエス様の救いをベックさんを通して受け入れた。それまで自分の罪をふりかえることの多かった義母が心の底から喜んだ瞬間だった。私には何よりの誕生プレゼントであった。一年のちにその義母はいない。私たちも早晩この義母の後を追うであろう。こどもや孫に信仰の遺産を伝えるものでありたい。

 今日の福音集会で国立から来られたK兄が語られたみことばを掲げておく。孫の誕生祝もさることながら、このみことばこそ私に対する神様が下さった今年の誕生プレゼントだと思い、主が許し給うなら、また一年歩ませていただきたい、と思う。

私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。 私が仕えている万軍の主は生きておられます。(旧約聖書 1列王記17・1、18・15)

2010年2月6日土曜日

復活の主を仰ぎ見て


 今日は久方ぶりにAさんのところに出かけた。闘病生活は一年をとっくの内に過ぎ、一年半になろうとする。今年になってからは二回か三回目かの訪問である。自宅で療養し始められてから行く回数は減ったが、それでも行くたびにお訪ねして良かったと思わされる。お交わりして最後は聖書を二人で輪読して一緒にお祈りして帰って来れるからだ。

 今日はピリピ人への手紙一章を二人で一節ずつ交互に輪読した。その後、先ず私が先にお祈りし、そのあとAさんがお祈りされた。いつも永遠のいのちを与えると約束してくださった主に対する感謝をされるが、今日はそれだけでなかった。祈りの初めに三つのことを言われたのだ。

 すなわち、最初に、「神を愛すること、へりくだること、隣人を愛すること」と言われた。それができますようにというお祈りだった。そして祈りの終わりには友人、家族の名前をあげてそれぞれの方の平安を祈られた。Aさんにとって病の進行は徐々に進んでいるし、将来に対する不安はあるが、それでもイエス様にある平安をいただいておられるのがよくわかった。

 2時間程度のお交わりだから互いに心を割って話し込む。私は先週の義母の死とそこにいたるまでの自分たちの証しのことを正直に話した。私たちは義母が浄土真宗に生まれながら帰依し、85年間その生活が体に染み通っていることを知った上で義母の救いを40年以上祈ってきた。しかし義母に福音を伝えることはどうしても叶わなかった。義母が病に突然たおれたことを通して、病室内で初めて福音を伝える恵みにあずかったに過ぎなかった。

 けれども義母はもはや元気な時のようなコミュニケーションは取れなくなってしまっていた。ある時は幻覚状態に見舞われたこともあった。私たちはそれでも義母の心に語り続け、枕頭で祈り続けてきた。しかし義母に果たして私たちの言葉は通じているのだろうかと思う時もあり、悩んだ。しかし、それが亡くなる二日ほど前に義妹を通して聞かされたことでハッとさせられたのだ。

 義母は病室内に生けられた咲匂う蝋梅の香をかいだのだろうか、花の名を知らない若い看護士さんが家人にこの花は何という花ですかと問うていた時に、義母の口から「ろうばい」ということばが出てきたそうだ。この話を伝え聞いて、私は「ああ、義母は意識がしっかりしているのだ。果たしてコミュニケーションが成立しているのかと、これまで半信半疑だったが、実はそうではなかったのだ。」と思った。同時に、そのニュースは、主なる神様は死んだ者の神ではなく生きている者の神であり、私たちがイエス様が提供してくださった永遠のいのちの約束を伝えることは決して空しいことでない、とルターの『卓上語録』の文章を通して新たに確信させられていたことと重なった。

 だから義母が首尾一貫して私たちの語りかけること、祈ることを元気な時のように拒絶するのでなく、逆にいつも黙って聞いてくれていたことを振り返ることが出来た。特に、最後になった1月17日のお見舞いの時に家内が祈った言葉に一々頷いていたことは、この素晴らしい福音のニュースを義母は意識して受け入れてくれたのだ、と確信できたことだった。私はそのことをAさんに申し上げた。それに対してAさんは即座に賛意を表された。

 そしてご自身のお母さんが4年ほど前に亡くなる前の話をしてくださった。彼の友人がどうしてもお母さんにお会いしたいと申し出たそうだ。Aさんは、「そんなこと言っても母はTさんのことをわかるだろうか」と内心不安に思っていたところ、お見舞いに訪れた何年ぶりかで会うTさんを見て、大分具合の悪くなっていたお母さんの口からTさんの名前がスラスラと出てきてびっくりした覚えがある、ということだった。それだけでなく、Tさんが東京から九州にある事務所に出張のため来たお見舞いだったそうであるが、お母さんの入所されていた介護施設が100mほどしか離れていない高台に位置していたということだった。

 主なる神様のなさることはいつも完全である。主なる神様に対して感謝の薄い私ではあるが、Aさんが祈られたように、主の前に、人の前にへりくだって歩みたいと思わされた今日のお交わりであった。最後に復活はないと主張していた人に対して、主イエス様が言われたことばを引用する。

イエスは彼らに言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。・・・死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の箇所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」(新約聖書 マルコの福音書12・24、26~27)

(2月になってさすがに寒い日が続く。はるか故郷を思って、昔撮った写真を載せる。安部氏の選挙ポスターが懐かしい。撮影日は2007年3月12日とあった。)

2010年2月5日金曜日

出処進退


 大相撲から朝青龍が退場した。道を踏みはずしたばかりに退場せざるを得なかった朝青龍。やめ方は潔いように見える。しかし内情はそんなきれいごとでもないようだ。けれども、これで、彼が仕切り前に見せるあの独特のポーズは見られなくなった。また土俵にたたきつけんばかりの激しい取り組みも見ることが出来なくなった。

 この報を受けた白鵬が、唇をかみ好敵手を失った悲しみ・口惜しさを全身で表していたのが印象的だった。切磋琢磨する勝負の世界に生きる者ならではの感慨のようだ。しかしこんな相撲も日経春秋子が指摘する次のような見方がかつてあったことは知らなかった。

文明開化の香りたっぷり啓蒙(けいもう)思想を鼓吹した「明六雑誌」が明治7年、相撲をやり玉にあげて書いた。「智をたたかわせるのではなく、力をたたかわす獣類のすることです。それを見て楽しむ者も、また人類のすることとは言いがたい」

 実に手厳しい。だから相撲道から獣類に堕した感のある朝青龍の退場は当然だと言わんばかりの論調だった。

 しかし、この日の大方の日本人の関心は小沢氏の問題ではなかっただろうか。結局小沢氏の土地購入原資の4億円にまつわる様々な嫌疑は証拠不十分として不起訴になった。極めて黒に近い灰色だとも巷間言われている。しかし、小沢氏は政界から退場しなかった。

 二人の対照的な責任の取り方について毎日新聞の余録の記事が光っている。「出処進退」ということばを用いての説明である。以下引用する。

「人というものが世にあるうち、もっとも大事なのは出処進退という四つでございます」。幕末の長岡藩を率いた河井継之助を描いた司馬遼太郎の小説「峠」の中の河井は語っている。実際の河井の言葉にもとづくというその発言は「そのうち……」と続く▲「進むと出(い)ずるは上の人の助けを要さねばならないが、処(お)ると退くは、人の力を藉(か)らずともよく、自分でできるもの」。

 と、あった。小沢氏は退くかわりに処(お)ることに賭けた。相撲の世界と政治の世界とは次元が違うし、責任のありようが大いに異なる。今後、小沢氏の出処進退がどのような軌跡を描くのか。当分私達のいらいらは続きそうだ。今朝読んでいた聖句に次の聖句があった。パウロが獄中で書いたマケドニア地方のピリピ人にあてた手紙の一文である。

私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。私はこのことを確信しています・・・(新約聖書 ピリピ1・21~25)

 弱冠29歳の朝青龍も私と同世代の小沢氏にも出処進退を考える時、「板ばさみ」状態にあったことは当然であろう。その中で朝青龍は退き、小沢氏は処(お)ることにした。天秤にかけられたのはどのようなことであったのだろうか、知る由もない。しかし、朝青龍と小沢氏とでは行くところを異にしたが、世論頼みの「出処進退」という点では共通しているのではないだろうか。けれども、パウロの天秤は両者何れとも異なるのであった。それは彼のこのことばの前にある次の聖句が明らかにしている。

私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。(ピリピ1・20)

 この使命感こそ私達人間に与えられている究極の「出処進退」を示すものでないだろうか。

(近江電車車窓から見た、ふるさとの冬の夕景色。撮影は09.12.6である。「赫々と 四方染めぬきて 陽退く」 )

2010年2月4日木曜日

『卓上小話』より


 このところ毎日のようにルターの『卓上語録』をひもといている。先頃義母、義叔父を亡くしたばかりの私にとり、人の「死」について考えさせられることが多いからだ。ルターの一つ一つの文章は時代を越え、国を越え、生き生きと私に迫ってくる。そして結論として、自分は神のみわざを無視して生きる生き方しかしていない、という思いにたどりつかざるを得なかった。「私は主を畏れていない」「私は主を畏れていない」と繰り返し、繰り返し独語せざるを得なかった。

 たまたま今日は我が家で家庭集会を持たせていただいたが、メッセージされた方が、人にとって二つの事が重要だと語られた。一つは何よりも主を畏れること、二つには主を愛することだと言われた。偶然にしては余りにも符合した内容で、心から感謝した。参考までに引用聖句を掲げる、なお、その後の文章は『卓上小話』と題する畔上さんの訳になるものである。(ちなみに畔上さんの部分訳を除いて、三種類の翻訳があるが、これが全部内容が微妙に違う。いかに『卓上語録』が大部であるかがわかるというものだ。)

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。(新約聖書 ヘブル12・2)

 神の凡ての業は測りがたく又言い難い。人の思いで之を見出すことはできない。ただ信仰のみが之を掴み得る(人の力又は助けなくして)、死ぬべき人間は神の気高さを悟り得ない故に人間の様はあわれにして、実に人であるのである。即ち罪、死、荏弱の人であるのである。

 万物の中に、最も微賎なる動物の中に、その各肢体の中に、神の全き能(ちから)と驚くべき業とは明らかに輝いている。なぜならば、どんな人でも―いかに力ある人、賢き人、聖き人にても―一つの無花果から無花果樹又はも一つの無花果を造り得ようか。又桜の果の核から一つの桜の果をも又桜の樹をも造り得ようか。又どんな人でも如何にして神が万物を創造し、保続し、発達せしむるかを知り得ようか。

 また我等はどうして目が物を見るかを知りえぬ。又どうして舌が口の中で動くだけであって有意味の語がはっきり語られるかを知り得ぬ。之等ごく普通の事、毎日見たり為したりして居る事すらよく分らない。さればどうして崇厳なる神の隠れたる御心を了得し得ようか、人間の感覚や、理性や、知解力で探り出し得ようか。それで我等自身の智慧を称揚すべきであろうか。私自身としては、自分を愚者と認め、奴隷として従うのである。

 太初に神アダムを土くれより造り、エバをアダムの筋骨より造り、彼等を祝して「生めよ殖えよ」と言い給うた。この語は世の終わりまで力強く立つところの語である。モーセがその詩にて「なんじ人を塵にかえらしめて宣わく、人の子よ汝等帰れ」(詩篇90・3)と言いし通り、日々多くの人が死ぬるが又常に多くの人が生まれる。その他神は日々創造しつつある。然るに不敬虔盲目の徒は之を神の驚くべき業として認めず、凡てが偶然の事に過ぎないとして居る。然るに信仰の人はどこへ眼を向けても、天を見、地を見ても、空気を見、水を見ても凡てを神の驚くべき業として認め、驚きと歓びとに充ちて、創造者を賛美する(それが神の喜び給うところなるを知りて)。

 盲目なるこの世の子等には基督教の信仰箇条はあまりに高過ぎる。三つの神が一つであるとか、神の真の独り子が人となったとか、キリストには神の性と人の性とが存するとか―こんな事は小説である、造り話であるとして彼等を嫌忌させる。神が人となったとか、人性と神性が結びついてキリストという一人を造ったとかいう事は、人間と石とが同じものであると云うたほどに人の感覚や理性には妄誕である。しかしパウロは此の問題について何と云うか。コロサイ書を見よ。「智慧と知識の蓄積(たくわえ)は一切キリストに蔵(かく)れあるなり」とある。又「それ神の充ち足れる徳は悉く形体(かたち)をなしてキリストに住めり」とある。(『聖書之研究』第270号大正12年1月所収の『卓上小話』ルウテル畔上賢造訳)

(我が家の鉢植えの無花果。撮影日を見ると昨年の6月15日とあった。「立春に 無花果考 御手のわざ」)

2010年2月3日水曜日

『花みずきの道』 河相洌著(文芸社 2010年2月刊行)


 昨年末、一冊の本の進呈を受けた。著者からの贈呈であった。著者は言うまでもなく『ぼくは盲導犬チャンピイ』の著者である。ご高齢で、現在病を得ておられる。その著者がこのような小説をものにされるというので驚かされ、すぐ手に取って読んだ。200頁ほどの作品は普通の本に比べれば分量は少ない。しかし、読了一遍、清澄な印象が体内に満ちた。著者が要望されるように若い人に是非読んでいただきたい本である。

 小説とは言え、ほぼ事実に近いのではないだろうか。主人公は恭子という旧満州大連療病院院長森山洋介を父に持つ女性である。叙述は終戦間際の大連にソ連軍が侵攻してくるところから始まる。この小説の文体は、すべて小気味良い短文からなり、明晰である。したがって、ソ連軍侵攻の背後の複雑な国際関係から、戦後の米ソ対立を予感させるできごとも、著者の手にかかって簡潔に語られている。簡にして要を得た叙述だ。そのような事態を経験せず知識でしか知ろうとしない私のような者にも事実が直裁に伝えられるので有難かった。

 その上、大状況である敗戦日本社会で戦中、戦後にかけて大陸から日本へと引き上げ、翻弄されざるを得ない人々の姿が、人間悪に目をそらさずに、端的に描かれてゆく。そのような中で隣人愛に生きて難民を収容した人々の献身的な生き方に恭子が捉えられ、求道の道が始まる。前半はそのことに焦点が絞られている。恭子が神に出会い、神にすべてをささげようと歩み出すのがその部分である。

 戦後数年経ち、本土の尾道に引き上げた恭子の父はその後富士山麓富岡村に医院を開業する。恭子は父の勧めもあって東京での学生生活を送ることになる。そして親戚の幼馴染で外交官の子息である河村清二と再会する。小説の後半部にさしかかるあたりに展開する、西荻近辺にあった清二の家を訪問する、Ⅷ思わぬ出会いの場面がそれである。清二とは幼い時に母方の親戚同士ということもあって、旅順で家族ごとの交流があったが、以来会っていなかった。思わぬ出会いとは、その時清二は失明していたからである。

 以下Ⅸ富士揺らぐ、Ⅹ聖ヨゼフ修道会、ⅩⅠ男心、女心、と続き、最終章のⅩⅡ父と子と一気になだれ込んでいく。恭子が修道会に入るか、それとも失明した清二の妻となるか大いに悩むのが後半のテーマでもある。そしてその両者の間に恭子の父洋介の娘を思う愛、また清二を信頼する愛が見える。そしてそれらすべての背後に目に見えない神の愛があることが描かれる。最終章の洋介の言葉を抜き出そう。主のみ心を求めた結果、清二との結婚を決意した恭子が、その矢先結核になり、安静を命ぜられる。結婚を逡巡する恭子に父が語る場面だ。

「恭子。お前、弱気になってはいけないよ。今は良い薬が出来てきたし、私が必ず治してみせる。だが本人が弱気になっては、病気に負けてしまう。それに清二君がこんなに優しい手紙をくれているじゃあないか。普通の縁談なら壊れているだろうさ。だけど彼は一年でも二年でも待つと言っているんだよ。お前達はただの仲じゃあない。心と心が一つに溶け合っているんだ。お前がどうしても修道会に行くと言った時、私は清二君に留めてくれるよう頼んだ。彼の一言が、お前の気持ちを変えたのだ。それほど二人の心は一つになったんだね。清二君はお前を一人にはしておかないと言っているよ。お前も彼を一人にしてはいけない。お前達は神様に召されたのだ。軽率な行動を取ってはいけない」

 著者は、この小説のあとがきで、自分は父と娘の物語を書きたかった、と告白し、つい筆が滑って、若い二人の間柄を描くことに比重がかかったのではないかと懸念している、と言っている。実話に近いこの小説がそのような思いで書かれるほど、著者の妻への感謝の思いもさることながら、義父への感謝も強いのだろう。序に私的なことを言えば、私の父が昭和30年代に肺病になった時、伯父がいち早くこの方に相談し、この方から安静その他の療養について注意事項が書かれた手紙を寄越してくださったことを思い出す。

わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ。―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。(旧約聖書 エレミヤ29・11)

(写真は著者の菅平の山荘。今は冬、昨日は関東でも冠雪に見舞われた。緑が懐かしい!)

2010年2月2日火曜日

村共同体と信仰


 先週は金曜、土曜と家内の母の葬儀に列席するため帰郷した。義母の家での葬儀は今回で3回目になる。最初は、結婚して何年か後に経験した家内の祖母の葬儀であった。その時はまだ土葬であった。野辺送りということばがぴったりの葬儀であった。わらじを履いて寒風吹きすさむ中、遺骸を墓地にまで運び、土下座して会葬者の前に控えたことをかすかに覚えている。その他のことは忘れてしまったが、その印象だけは鮮烈であったので未だに忘れられない。

 それから時代が下り今から5年数ヶ月前の義父の時はさすがに土葬ではなかった。その後、村の申し合わせにより葬儀も随分簡素化されたようだ。しかし都会の葬儀と違い、自宅が葬儀場であり、密接な人間関係の中での葬儀なので、隣近所が葬儀の責任を負うところが大いに異なる。確かに葬儀社が入り、会場の設営はなされるが、そのほかの伝統的な葬儀の準備が組全体の参加協力で行われる。

 男子は葬儀の会場の用意をはじめ力仕事にあたり、女子はこの葬儀の間の親戚一同や会場設営に当たる人々の食事の炊き出しに当たる。11、2軒の方々が組の構成員である。一糸乱れない結束ぶりは目を見張るものがあった。私のように村に育たず、小さいとは言え町で育った者には想像できない互いの皆さんの奉仕振りであった。

 義父の時は炊き出しは自宅であったが、今回は自宅でなく公民館が食事の場所となった。そのために時間を見計らって食事時になると家から徒歩で5分程度の公民館まで歩いて出かけねばならなかった。葬儀後の夜の食事だけは家族・親族がお礼を兼ねて接待側に廻るが、それまでの二日間にわたる昼食、夕食、昼食の三食はすべて組の方々が接待してくださり、葬儀の喪主側に食事の支度の心配がないようにと配慮されている。

 これらのことはすべて業者に任せばいとも簡単に行なわれることではある。現代日本社会は、金がすべての世情であるのに、何をそんなに手作りにこだわるのかと都会の人は思うに違いない。私はそのようにしていただく食事がいかにありがたいものかをふっと感じさせられる瞬間があった。それは、たまたま別の用事のため、そっとその場を抜けてスーパーに買物に出かけたときに感じたことだった。スーパーに入る入り口のドアーが自動的に開くことに対して不思議と感じた違和感であった。

 初めて自動ドアなるものを経験したのは今を去ること40数年前のことだったような気がする。現代社会の便利さの象徴である自動ドアなるものは、ひょっとすると村社会の手触りある人間交流をなくしてしまっている典型ではないかと考えさせられたからである。そのように考えた瞬間から因習に取り囲まれているとしか見ていなかった田舎の相互扶助組織が別の面から見えるような気がした。

 肝心の葬祭の実行者であるお寺のご住職はその村でもっともあがめられており、それぞれ通夜、告別式と読経に当たるだけであった。組全体が浄土真宗の教義に生き、読経は住職以外の方々もそれぞれ練達しておられる。葬祭がお寺を中心にまとまっている村共同体が義母の生まれ育った土地柄であった。浄土真宗は蓮如上人を抱き、このような自治体を各農村に次々作っていったのであろう。時代の流れに抗しながら、伝統組織を守り続けている村共同体の今を思わされた。

 ひるがえって浄土真宗の信仰と私の信ずるイエス・キリストの信仰との違いも思わざるを得なかった。浄土真宗は人間の罪と死からの救済は生者の読経により可能だと考えられているように見えたことだった。それに対して、イエス・キリストはすべての人間が受けなければならない罪の価を自らに十字架刑で受けられ死なれ、その3日後に復活された。キリスト信仰はただその事を信ずるだけである。

 「南無阿弥陀仏」と読経される、純粋な信仰心が、「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」(ローマ10・13)と主イエス様への祈りとなるならどんなに素晴らしいことだろうと思わざるを得なかった。村共同体の中にも様々な言うに言われない人間関係の軋轢葛藤があることであろう。だから余りにも村共同体を美化することは慎まねばならないが、麗しいまでの共同体の生き方を通して、その二日間私が絶えず考えさせられた事柄であった。

 村人すべてが喜びあう社会は聖書にも登場する。私の好きな場面を最後に引用しておく。(ルツは異邦人の女性で生活の糧を得るために落穂拾いをする。その畑の持ち主がボアズという男でイスラエルの民であり、主の名を呼び求める民の一人であった。刈る者たちはボアズの土地を刈り入れる労働者であった。その彼らの共同社会が次のように描かれている。)

ルツは出かけて行って、刈る人たちのあとについて、畑で落穂を拾い集めたが、それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑のうちであった。ちょうどその時、ボアズはベツレヘムからやって来て、刈る者たちに言った。「があなたがたとともにおられるますように。」彼らは、「があなたを祝福されますように。」と答えた。 こうしてボアズはルツをめとり、彼女は彼の妻となった。彼が彼女のところにはいったとき、は彼女をみごもらせたので、彼女はひとりの男の子を産んだ。近所の女たちは、「・・・男の子が生まれた。」と言って、その子に名をつけた。彼女たちは、その名をオベデと呼んだ。(旧約聖書 ルツ記2・3~4、4・13、17)

(写真は亡き義母が通った小学校の位置する風景。山すそに広がる近江湖東平野扇状地の一角。)

2010年2月1日月曜日

蝋梅の花一輪


 キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。(新約聖書 2テモテ1・10)

 かねて闘病中であった義母が先週の木曜日の早朝に亡くなった。85歳であった。思えば、一年前のお正月には早朝「母危篤」の報せを受け、驚かされた。気が動転する中、家内と二人で祈った。その時、不思議と二人の心は一致して「主のみこころに従います」と祈ることができた。それとともに心は落ち着きを取り戻していた。家内は早速取るものも取りあえず搬送先の大学病院へと新幹線でかけつけた。幸い手術は成功し、一命を取りとめた義母はほぼ一年いのちを永らえることができた。

 この一年は家族にとって欠かせない一年となった。葬儀の出棺の折、跡継ぎである義弟は参列者の皆様にお礼の奏上を申し上げた。「この一年間、人生の生と死を考えさせられました」と。母との死別の悲しみを端的に語ったものだった。私たちも皆同じ思いであった。

 義母は85年の全生涯を土地の生え抜きの人として浄土真宗の信仰心の厚い村で生まれ育った。その義母に私たちは福音を語り続けた。福音を語らずにはおれなかった。しかし、最後まで私には私たちの思いは一方的に過ぎないものなのではないかという悩みがあった。ちょうど義母の死の数日前から私はマルチン・ルターの書いた「卓上語録」を読んでいた。が、その中に以下の件があった。

「神は活ける者の神にして、死せる者の神に非ず。」※この本文は復活を示す。復活の希望が無いなら、この短い憐れな生活の後に他の、またもっと善い、生活の希望がないなら、どうして神は、われらの神であるように彼自身を提供し給うか、またわれわれに必要であり有益である一切を与えると言われるか、また最後には、時間的な悩みや霊的な悩みからわれわれを救い出すと言われるか。何の目的のために、われわれは、神の言葉を聴き、神を信ずるだろうか。(『卓上語録』佐藤繁彦訳 昭和4年発行 74頁 ※ルカ20・38などのイエス様のことば 引用者註)

 義母に語り続けた「福音」は決して絵空ごとでなく真実であることを改めて確信させられたルターの言葉であった。それだけでなく死の二日前、田舎から義母の病室を見舞った義妹から一つのエピソードを聞かされていた。それは病室に義弟が家の庭から義母の慰めにと持ち込んできた蝋梅の一輪の花にまつわる話だった。

 蝋梅のかぐわしい香りが幽(かす)かに部屋に満ちたのだろうか。御世話くださる看護士さんがこの花は何という花ですか、と誰聞くともなく、問うたそうである。ところが義母はその会話を聞いて「ろうばい」と瞬時に言ったそうである。それまで、全身で病の苦しみをこそ表せど、自ら語ることのなかった義母が、はっきりその花の名前を言い当てたことに一同びっくりしたということであった。

 その話を聞かされて義母の意識はしっかりしているのだ。だとすれば私たちが、罪の赦しがイエス様によって与えられ、人の死は終りでなく、罪を悔い改めてイエス様を信ずる者の霊は必ずイエス様とともに永遠に生かされ生きることができる、今の苦しみは一時的で必ず主イエス様とともに天の御国に入れられるよと、語り続けたことも義母ははっきり聞いてくれたのだと私は思った。

 もし義母が死で終わるしかない存在であったら、私たちのことばはすべて空しいが、罪の赦しによる永遠のいのちは確実に義母の心に届いていたと確信することができたのだった。それからしばらくしての先週の義母の死であった。仏式で営まれた葬儀の義母の遺影には、なぜか昨年2月にベックさんが病室をお見舞いし、お交わりされた時に撮影された満面笑みをたたえた写真が使われた。

庭に咲く 蝋梅の花 義母送る

忘れまじ 蝋梅の香よ 義母の愛