2010年2月4日木曜日

『卓上小話』より


 このところ毎日のようにルターの『卓上語録』をひもといている。先頃義母、義叔父を亡くしたばかりの私にとり、人の「死」について考えさせられることが多いからだ。ルターの一つ一つの文章は時代を越え、国を越え、生き生きと私に迫ってくる。そして結論として、自分は神のみわざを無視して生きる生き方しかしていない、という思いにたどりつかざるを得なかった。「私は主を畏れていない」「私は主を畏れていない」と繰り返し、繰り返し独語せざるを得なかった。

 たまたま今日は我が家で家庭集会を持たせていただいたが、メッセージされた方が、人にとって二つの事が重要だと語られた。一つは何よりも主を畏れること、二つには主を愛することだと言われた。偶然にしては余りにも符合した内容で、心から感謝した。参考までに引用聖句を掲げる、なお、その後の文章は『卓上小話』と題する畔上さんの訳になるものである。(ちなみに畔上さんの部分訳を除いて、三種類の翻訳があるが、これが全部内容が微妙に違う。いかに『卓上語録』が大部であるかがわかるというものだ。)

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。(新約聖書 ヘブル12・2)

 神の凡ての業は測りがたく又言い難い。人の思いで之を見出すことはできない。ただ信仰のみが之を掴み得る(人の力又は助けなくして)、死ぬべき人間は神の気高さを悟り得ない故に人間の様はあわれにして、実に人であるのである。即ち罪、死、荏弱の人であるのである。

 万物の中に、最も微賎なる動物の中に、その各肢体の中に、神の全き能(ちから)と驚くべき業とは明らかに輝いている。なぜならば、どんな人でも―いかに力ある人、賢き人、聖き人にても―一つの無花果から無花果樹又はも一つの無花果を造り得ようか。又桜の果の核から一つの桜の果をも又桜の樹をも造り得ようか。又どんな人でも如何にして神が万物を創造し、保続し、発達せしむるかを知り得ようか。

 また我等はどうして目が物を見るかを知りえぬ。又どうして舌が口の中で動くだけであって有意味の語がはっきり語られるかを知り得ぬ。之等ごく普通の事、毎日見たり為したりして居る事すらよく分らない。さればどうして崇厳なる神の隠れたる御心を了得し得ようか、人間の感覚や、理性や、知解力で探り出し得ようか。それで我等自身の智慧を称揚すべきであろうか。私自身としては、自分を愚者と認め、奴隷として従うのである。

 太初に神アダムを土くれより造り、エバをアダムの筋骨より造り、彼等を祝して「生めよ殖えよ」と言い給うた。この語は世の終わりまで力強く立つところの語である。モーセがその詩にて「なんじ人を塵にかえらしめて宣わく、人の子よ汝等帰れ」(詩篇90・3)と言いし通り、日々多くの人が死ぬるが又常に多くの人が生まれる。その他神は日々創造しつつある。然るに不敬虔盲目の徒は之を神の驚くべき業として認めず、凡てが偶然の事に過ぎないとして居る。然るに信仰の人はどこへ眼を向けても、天を見、地を見ても、空気を見、水を見ても凡てを神の驚くべき業として認め、驚きと歓びとに充ちて、創造者を賛美する(それが神の喜び給うところなるを知りて)。

 盲目なるこの世の子等には基督教の信仰箇条はあまりに高過ぎる。三つの神が一つであるとか、神の真の独り子が人となったとか、キリストには神の性と人の性とが存するとか―こんな事は小説である、造り話であるとして彼等を嫌忌させる。神が人となったとか、人性と神性が結びついてキリストという一人を造ったとかいう事は、人間と石とが同じものであると云うたほどに人の感覚や理性には妄誕である。しかしパウロは此の問題について何と云うか。コロサイ書を見よ。「智慧と知識の蓄積(たくわえ)は一切キリストに蔵(かく)れあるなり」とある。又「それ神の充ち足れる徳は悉く形体(かたち)をなしてキリストに住めり」とある。(『聖書之研究』第270号大正12年1月所収の『卓上小話』ルウテル畔上賢造訳)

(我が家の鉢植えの無花果。撮影日を見ると昨年の6月15日とあった。「立春に 無花果考 御手のわざ」)

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