2010年2月1日月曜日

蝋梅の花一輪


 キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。(新約聖書 2テモテ1・10)

 かねて闘病中であった義母が先週の木曜日の早朝に亡くなった。85歳であった。思えば、一年前のお正月には早朝「母危篤」の報せを受け、驚かされた。気が動転する中、家内と二人で祈った。その時、不思議と二人の心は一致して「主のみこころに従います」と祈ることができた。それとともに心は落ち着きを取り戻していた。家内は早速取るものも取りあえず搬送先の大学病院へと新幹線でかけつけた。幸い手術は成功し、一命を取りとめた義母はほぼ一年いのちを永らえることができた。

 この一年は家族にとって欠かせない一年となった。葬儀の出棺の折、跡継ぎである義弟は参列者の皆様にお礼の奏上を申し上げた。「この一年間、人生の生と死を考えさせられました」と。母との死別の悲しみを端的に語ったものだった。私たちも皆同じ思いであった。

 義母は85年の全生涯を土地の生え抜きの人として浄土真宗の信仰心の厚い村で生まれ育った。その義母に私たちは福音を語り続けた。福音を語らずにはおれなかった。しかし、最後まで私には私たちの思いは一方的に過ぎないものなのではないかという悩みがあった。ちょうど義母の死の数日前から私はマルチン・ルターの書いた「卓上語録」を読んでいた。が、その中に以下の件があった。

「神は活ける者の神にして、死せる者の神に非ず。」※この本文は復活を示す。復活の希望が無いなら、この短い憐れな生活の後に他の、またもっと善い、生活の希望がないなら、どうして神は、われらの神であるように彼自身を提供し給うか、またわれわれに必要であり有益である一切を与えると言われるか、また最後には、時間的な悩みや霊的な悩みからわれわれを救い出すと言われるか。何の目的のために、われわれは、神の言葉を聴き、神を信ずるだろうか。(『卓上語録』佐藤繁彦訳 昭和4年発行 74頁 ※ルカ20・38などのイエス様のことば 引用者註)

 義母に語り続けた「福音」は決して絵空ごとでなく真実であることを改めて確信させられたルターの言葉であった。それだけでなく死の二日前、田舎から義母の病室を見舞った義妹から一つのエピソードを聞かされていた。それは病室に義弟が家の庭から義母の慰めにと持ち込んできた蝋梅の一輪の花にまつわる話だった。

 蝋梅のかぐわしい香りが幽(かす)かに部屋に満ちたのだろうか。御世話くださる看護士さんがこの花は何という花ですか、と誰聞くともなく、問うたそうである。ところが義母はその会話を聞いて「ろうばい」と瞬時に言ったそうである。それまで、全身で病の苦しみをこそ表せど、自ら語ることのなかった義母が、はっきりその花の名前を言い当てたことに一同びっくりしたということであった。

 その話を聞かされて義母の意識はしっかりしているのだ。だとすれば私たちが、罪の赦しがイエス様によって与えられ、人の死は終りでなく、罪を悔い改めてイエス様を信ずる者の霊は必ずイエス様とともに永遠に生かされ生きることができる、今の苦しみは一時的で必ず主イエス様とともに天の御国に入れられるよと、語り続けたことも義母ははっきり聞いてくれたのだと私は思った。

 もし義母が死で終わるしかない存在であったら、私たちのことばはすべて空しいが、罪の赦しによる永遠のいのちは確実に義母の心に届いていたと確信することができたのだった。それからしばらくしての先週の義母の死であった。仏式で営まれた葬儀の義母の遺影には、なぜか昨年2月にベックさんが病室をお見舞いし、お交わりされた時に撮影された満面笑みをたたえた写真が使われた。

庭に咲く 蝋梅の花 義母送る

忘れまじ 蝋梅の香よ 義母の愛

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