2010年2月18日木曜日

『神を求めた私の記録』 イゾベル・クーン著


 バンクーバーに熱い目が注がれている。この本は、そのバンクーバーで育った一人の女性の「神」の探求物語である。キリスト者の家庭に育ったイゾベルが、長じて大学に進むとともに、幼い時から信じ切っていた神様の存在に懐疑的になるところから物語はスタートする。

 彼女はダンスの上手な情感豊かな女の子で将来は教師を夢見ていた。ところが、いずれもその夢は暗礁に乗り上げるのだ。一番大きな痛手は失恋であった。その結果、自尊心が大いに傷つけられ死のうとさえする。しかし、そうはならなかった。そうは神様がさせなかった。両親の祈り、両親の親しい友人の祈りが彼女を真の悔い改め、キリストにある新生へと導いたからである。彼女は聖書のみことばを通して語り続けて下さる神様の御声に聞き従う信仰を得る。

 13章にわたる『私の記録』の前半部を象徴するみことばは彼女によるとエレミヤ23・12ということだ。

それゆえ、彼らの道は、暗やみの中のすべりやすい所のようになり、彼らは追い散らされて、そこに倒れる。わたしが彼らにわざわいをもたらし、刑罰の年をもたらすからだ。

 「それゆえ」とは「主なる神を認めず自分勝手に生きるから」という意味だ。しかし、神様は生きておられる。だから、他者がどのように低俗と判断して批判的に見ているような事柄も、主はその人を神ご自身の道に歩ませようと待ち構えていてくださっていると証しする。そして、この彼女のために人知れずとりなしをしていたキリスト者ホイップル夫妻の生き方が紹介される。

彼女(ホイップル夫人のこと)は、いのちの一般的原則(※)を知っていました。(略)年を取った人たちには、若い世代が使う科学的学術用語を全部理解できないかもしれません。けれども彼らは、決して変わることのないいのちの原則を知っているのです。自分の前を歩いた人たちが得た知恵体験という遺産を捨てない人は賢い若者です。(72頁)

 教師の道に進んだイゾベルは、こどもたちの指導に対して力量不足を自覚し、挫折する。その彼女に示されたのは、こともあろうに中国リス族への宣教のビジョンであった。後半は、その彼女に、どのようにして宣教の道が開かれてゆくかが克明に語られる。宣教師として外国に出て行くことに反対であった母親の突然の死、さらに父親の事業の失敗により、経済的自活を果たしながらのムーデー聖書学院での二年数ヶ月の学びの道、どれ一つ取っても神様に頼らずしては前に進み得ない困難な事柄であった。そのような試練の中、彼女はますます神様の愛を個人的に体験してゆく。私自身多くのことを教えられ、ノートにメモするのに暇なしだったが、そのような中で彼女が記している次のみことばが重い意味を持ち迫ってきた。

御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえます・・・(1コリント2・15)

 聖霊に従うことの重大性を示されると同時に、彼女の証を通して神様の御意思がすべてを治めていることを改めて確信させられた。

 この彼女が聖書学院を卒業し、いよいよ中国宣教の道が開かれようとするとき、最終の断を下すべく宣教団体の審査が行なわれた。しかしたった一人の人が推薦に反対したため、条件付になる。彼女には極めてショックな出来事であった。しかもその理由は「あなたがごう慢で不従順でトラブルを起こす可能性がある」ということだった。いずれも彼女には身に覚えのない中傷も同然の内容だった。このことに関して彼女がその非を友人に訴えた時、一人の友人が次のように答えたということだ。

「イゾベル、わたしがいちばん驚いたのは、このことに関してとったあなたの態度です。あなたはひどいことだといって怒っているようですね。もしだれかがわたしに向かって『ロイ、きみはごう慢で不従順、それに問題をおこす人間だ』と言ったら、わたしは、『アーメン、そうです。しかしあなたは、まだわたしの心の半分も言い表していません』と答えるでしょう。いったいわたしたちの心にどんなよいものがあるでしょうか、わたしたちはこれらの罪を一つずつ十字架のもとに持って行って、十字架につけていただかなければ、決して勝利をとることはできません」(161頁)

彼のことばは私を突きさしたので、はっと霊の目が開かれました。なんという真実な友だちでしょう。彼は恐れずに「塩で味つけられた」ことばを使い、同時に「優しいことば」で語ることも忘れなかったのです。私はその場にひざまずくと主に許しを願い求めました(162頁)

主がこの大事な仕事を私の手に託される前に、私の自己信頼は徹底的に砕かれなければならなかったのです。主はそれをなしとげてくださいました。私の主はほんとうにいたれりつくせりのおかたです。「だれも主のようなことはできない」。(163頁)

 この章に当てられた題名は「屈辱とへりくだりの学課」である。最終章である13章は「前進」と題されているが、遠く中国へと向かうために太平洋に向けて北米大陸西海岸を出航するエムプレス・オブ・ロシア船上のできごとが次のように記されている。

巨大な船体は静かに岸壁を離れました。紙テープが、ひとつひとつ切れていきます。コーナークラブの愛する人たちの顔は深い感動でつつまれています。「主よ、これらの人たちが忘れることのできない最後のことばを、私にお与えください」。私は小声で祈りました。大きな声を出せば、まだ岸壁に届きます。私は身を乗り出して、ゆっくりと、「完成を目ざして進みましょう!」と叫びました。(190頁)

 さらに、この13章にわたる叙述の結びは次のようにして閉じられている。
さて、読者のみなさん、これでお別れしなければなりません。私は、「完成を目ざして進もうではないか」(ヘブル6・1)ということばほど、この場にふさわしいものはないと思います。私たちの神の偉大さと親しみ深さとを探求するために、ともに進もうではありませんか。神は、人をかたより見るようなことはされません。「もし、あなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会う」(エレミヤ29・13、14)と言っておられます。(略)ですから前進しましょう。探求の旅を続けていきましょう。(191頁)

 だから、原名『By searching』に即して言うならば、『神を求めた私の記録』に留まることなく、むしろすべての人が同じように生けるまことの神を求めて、終わりのない探求の旅に出ることを勧めた本である。真剣にまことの人生を求めている人々に是非一読していただきたい本である。
(文中の※は引用者が勝手につけたものですが、2コリント5・17、2コリント6・14~17を指すものと思われます。写真は昨日東大和市で見かけた梅の花。中々晴天に恵まれないが、梅は各地で咲いている。春まであともう少しです。)

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