2016年1月31日日曜日

主の素晴らしい御顔を直視しなさい

「だれかわれわれに良い目を見せてくれないものか。」主よ。どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください。(詩篇4・6)

 このようにして主の御顔の光は私たちを救ってくださるのです。

「彼らは、自分の剣によって地を得たのでもなく、自分の腕が彼らを救ったのでもありません。ただあなたの右の手、あなたの腕、あなたの御顔の光が、そうしたのです。あなたが彼らを愛されたからです。」(詩篇44・3)ここでは御顔の光は過去の救いの手段として読めますが、

「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」(詩篇42・5)の詩篇作者は将来の助けに対する賞賛を先取りしてうたっています。この二つの詩篇は、現在の救いとなる後者の詩篇を傍注として読むことにより、美しくもつなげられているのです。

 「あなたがおられることが救いです」そのあとに平安が続くのです。主が私たちの上に御顔の光を照らし、私たちに平安を賜わる時、波は静められ、嵐を呼ぶ雲は音もなく、急速に、確実に逃げ去っていきます。なぜならこの主の御顔の照らしこそ主のかえりみが光り輝く前面であるからです。渋面にかわる笑顔としてです。

 私たちが主の光の中を歩く時、平安は喜びへと成長し、御顔を見ていつでもどこでも非常な喜びを経験することでしょう。その間、一足歩むごとに私たちはキリスト御自身のよみがえりの喜びに近づけられ、主とともに、「あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。」(使徒2・28)と言うことができます。

 私たちは日々、王なる方の御顔の光のうちに聖め、救い、平安、そして喜びを体験できるのです。こういうことがいのち、生まれ変わった新しいいのち、王なる方のこどもとしての喜ばしいいのちを構成するのではないでしょうか。

主の祝福の満たしが私たちを取り囲み、

主の約束の満たしが輝ける日ごとに冠となります。

主の栄光の満たしは上からの輝き、

私たちはますます主の愛の満たしを実感するのです。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-31-look-full-in-his-wonderful-face/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97195です。

 フランシスは18歳の時Worcester Cathedralで堅信礼〈※註〉を受けたが、その時のことは彼女に深い聖なる印象となって残った。「ああ主よ、このあなた様の子がとこしえまであなた様にとどまり続けるようにあなた様の天来の恵みをもって守りたまえ」ということばが司祭により彼女の頭上で重々しく宣言された時、「私の心が真剣な願いで打ち震えており、純粋な喜びをともなうものでなかったとしても、『とこしえまであなた様を(愛する)』ということばにあってなされたこと」であったと(語っている)。

 ※註 ヨーロッパの制度教会が信仰の確信を保証するために設けた仕組み。しかし、聖書を読む時、そのようなことは一切記されていない。主イエス様を自分の救い主として受け入れるだけで十分である。そこに宗教としてのキリスト教と「信仰」との大きな違いがある。「信仰」は外形、儀式などでなく、私たちが主イエス様との心からの交わりを持っているかどうかが大切である。

2016年1月30日土曜日

「幾重にも折り畳まれた」報酬※

王はどうして、そのような報酬を、この私にしてくださらなければならないのでしょうか。(2サムエル19・36)

 バルジライはダビデ王が王都から追放され、マハナイムにいた間、王を養っていました。ダビデが戦に勝利し都にもどる日が来た時、王はバルジライに言いました。「私といっしょに渡って行ってください。エルサレムで私のもとであなたを養いたいのです」(2サムエル19・33)

 これは報酬でありました。しかし、王に仕えたこの老人にとって、あまりにも大きな特権であり喜びであったに違いありません。そうです。婦人たちのように、持てるもので天から下られた王に仕えていた者たちにとって、王の近くに侍ることはどんなにか継続する喜びであったに違いないからです。

 人はその奉仕による分け前をどれだけか求めたことがあったでしょうか。なぜ王は私にそのような報酬をくださらなければならないのでしょう。なぜあなたのしもべがあなたとともに王都に住めるのでしょうか。なぜなら、主の愛と報酬との間には美しい釣り合いがあるとしても、働きと報酬の間には大変な不釣り合いがあるからです。

 しかしそのうちには美しいまでの一致があるのです。主に食事を与えた人々にとっては、永続的な喜びというごちそう。飲み水を与えた人々にとっては、主の喜びという川。身寄りのない人を泊まらせた人々には、天の父の住まい。。裸の人に着せる物を与えた人々には、白い衣。病人を訪ねた人々には、いのちともはや苦しみのない木。囚人を訪れに来た人々には、栄光ある自由。主のためにその悲しみ苦しみをともにすることに満足する人々にとっては、繰り返される約束「私といっしょに」(2サムエル19・33他)をとおして与えられるすべての冠であります。なぜこんなものがすべて与えられるのでしょうか。私たちがそのことを永遠に求めつづけるためだと思います。

栄光の王に私は何をさしだしましょうか

私はあなたからいただいたもの以外持っておりません。

私がさしだすものは、あなたが私にもどされ、御手によって変えられ

それぞれ価値のないものが宝石や金に変えられたのです。

そしてあなたの祝福によって1000倍に増えました。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-30-a-limitless-fold-return/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97194です。※標題の原語はA "Limitless Fold" Returnであるが文意をとり冒頭の訳にした。

 ウェールズでは、日曜礼拝に参加するのに困らない程度の十分なウェールズ語を朴訥な少女から習い覚えた。海岸に出れば船舶のことを知ろうと夢中になった。また本を読んで独学で和声学を学んだ。さらに彼女は司祭の聖書クラスに最年少のこどもとともに参加することに満足し、よく、司祭の教えから引き出される喜びや利益を参考にしたりしていた。)

2016年1月29日金曜日

あなたの心を主で満たしなさい。

ああ、私は床の上であなたを思い出し、夜ふけて私はあなたを思います。(詩篇63・6)

Memory is never so busy as in the quiet time while we are waiting for sleep; and never, perhaps, are we more tempted to useless recollections and idle reveries than in the night watches. Perhaps we have regretfully struggled against them; perhaps yielded to effortless indulgence in them and thought we could not help it and were hardly responsible for vain thoughts at such times. 

 (主を)思い出すことにおいて眠りにつく前の静かな時ほど活発な時はありません。だから夜ふけよりも無用な追憶や怠惰な夢想に誘惑されることは決してないでしょう。残念ながら、私たちは追憶や夢想と戦った経験が過去にあるでしょう。それらのなすがままであり、そうならざるを得ないと考え、そのような時には空しい考えに対してほとんど無防備であったことでしょう。

 しかし、ここに十分な助けと輝ける希望があります。今晩私たちは「主を思い出し」ましょう。すでに知っていることを思い出すことだけならできるでしょう。ああ、主をほめあげましょう。私たちは思い出のための材料を持っているのですから。

 生涯におけるあらゆる眠れない夜にとって、一語の「あなたを」で十分です。その一語はまっすぐに「ご自身」のところに連れて行ってくれます。その一語「あなたを」にとどまれば、信仰、希望、愛は目ざめ、養われ、成長します。

主の御霊は主のことばの上に輝き、まことにみことばを甘いものにします。

ちょうど私が読むたびに、私のそばにかかげられている輝けるランプのように。

そしてみことばは私の心を床の上で一人にしてくれます。

私の心の内側から戸外にあるあらゆるものまで、神の愛は注がれるのです。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-29-fill-your-mind-with-him/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/print-friendly/lxpf-la-97193です。今日の第一段落は何度英文を読んでも理解不能の個所でありましたが、読者より適切な助言をいただき上記の訳に変えました。ただそれでも意味が不鮮明でありますので英文を併記しました。なおスポルジョンの「夕ごとに」はノアの箱舟に帰る鳩が、箱舟の屋根に帰ってくるのでなく、ノアのふところに帰ってこそ安心する例The dove came in to him in the evening.を用いて、実に鮮明な表現をしています。関心のある方は是非そちらのほうもご覧になることをお勧めします。

 数ヶ月して父は再婚した。フランシスは詩に自分の愛の思いを表した。両親と一緒にドイツに行き、デュッセルドルフの学校に出席し、「ドイツ語で考える」訓練を受けた。110人いる中でトップの成績であったが、早期教育がかなり例外的であった一人のイギリス人少女にとっては小さくない成果であった。
 彼女の知識欲は生涯を通じてのものだった。彼女は新約聖書全巻と詩篇、イザヤ書、小預言書を諳んじることに全力を傾けた。彼女の学びは、ほとんどの場合、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ラテン語、ギリシャ語、それにヘブル語の修得だった。)

2016年1月28日木曜日

神様の与えてくださる喜びを楽しむこと

私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神(1テモテ6・17)

 「豊かに」。まさしく豊かにです。もしもあなたが神様の贈り物の半分を書きとめようとするなら、あなたの手は全部書き終えるまでにくたびれ果てることでしょう。あなたは他の人によって与えられた贈り物のリストは容易に上げることができるかもしれませんが、神様が毎日あなたの生活に与えてくださるもののリストは作れないでしょう。

 「すべての物」。すべての物をあなたはほんとうに必要としています。それに加えてもっと多くのものもです。あなたを良くするすべての物、あなたがかつて考えていたよりもはるかに多くの物です。すべての物を神様はあなたの両手に満たすことがおできになり、あなたを信頼して、つまずくこともなく、落とされることなく運ぶことがおできになるのです。すべての物、あなたが持っているすべての物がそうなのです。

 「楽しむこと」。さあ、これはどんな種類の楽しみでしょうか。私たちを良くするためにだけでなく、楽しむためにということです。神様があなたに与えるものは幸せであって、憂鬱になったり悲しむためではありません。もし、あなたが神様が与えてくださるものを楽しまないなら、それはあなた自身の欠点となります。なぜなら、神様はそれを楽しむように計画しておられたからです。神様に対して輝くばかりの笑顔で見あげ、楽しむためにすべてのものを豊かに与えてくださった方に感謝しなさい。

私の数々の喜びをあなたにおささげします

喜びはあなたの愛が与えられしもの

それぞれが翼となることでしょう

私を天国により近く引き上げるために

私は喜びをおささげします。救い主のあなた様に、すべて。

あなたのご命令によりすべては私のために支払われたものですから。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-28-enjoying-gods-joys/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/print-friendly/lxpf-la-97192です。昨日の夜の家庭集会のベック兄の引用聖句は1テサロニケ5・16〜18であり、「いつも」「絶えず」「すべて」のことについて「喜び」、「祈り」、「感謝」することが勧められた。上述の霊想と共通する。ちなみに昼間の引用聖句は1コリント16・13〜14であり、かなり厳しい警告であった。

 英国の全寮制学校に入り、彼女はそこで「キリストにある信仰と望みを意識し」始めるようになった。「その一年半は私の生涯にあっていかなるときよりももっとも大切な時でなかったのでないか」そして、15歳の誕生日を終えてすぐ次のように書いている。「私は全生涯を救い主にささげた・・・地と天の御国はその瞬間から今までよりもっと輝くものとなった」 )

2016年1月27日水曜日

神が私たちの代りとされる時

皆さんをお迎えするクリスマスローズ※

剣よ。目をさましてわたしの牧者を攻め、わたしの仲間の者を攻めよ。――万軍の主の御告げ。――牧者を打ち殺せ。(ゼカリヤ13・7)

 無能な敵の手でなく、全能の万軍の主の鋭い剣が羊飼いを打つために振り上げられた。このお方は私たちの飼い主なる王、偉大なるお方、中心となるお方、善なるお方(原語で言えば美なるお方)である。

「神による打擲(ちょうちゃ)、殴打」ということばを考えてみよ。
それらが推し量ることのできない激情、しかも私たちが愛しているイエス様の激情、真っ暗い激情の深さだけを推し量ることができる。「イエス様は神様に打たれた」

 私たちはそのことばを口にする時、これに比べればもはや他のどんな悲しみも私たちを動かさないほどに、感情は激しないだろうか。萎縮してそこから離れることがないようにしよう。むしろ今でも、この恐ろしい鞭打ちが、まことに、十字架にかかられているお方を見つめて、私たちの心のうちに「さあ、あなたがたの王です。」(ヨハネ19・14)というささやきであったことを、聖霊が少しでも示してくださるように求めよう。私たちの愛する主イエス・キリストがご自身と父なる神様の愛であることを示してくださるようにと祈り求めよう。

 私たちは遠く離れて立ち、頭を垂れ、ふるえる愛で沈黙し得るのみだ。その時、イエス様の上にしなる恐ろしい鞭は聞いている百人隊を通してこだまとなって降りて来る。一方、癒された人々の心の動悸は答える、「わたしのためだ! わたしのためだ!」「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった。」(イザヤ63・3)

わたしはあなたがたのために痛めつけられた

あなたがたの舌が発することのできる

もっともひどい苦悶の何よりもひどい苦痛で

あなたがたを地獄から救い出すために

わたしはあなたがたのために痛めつけられた

あなたがたは私のために何に耐えることができるか

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-27-when-god-meets-our-substitute/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/print-friendly/lxpf-la-97191です。やはり難解な個所でした。しかし十字架をとおして語ろうとするハヴァガルの霊想は英文を越えて私たちの心の中心に伝わってくる思いがします。

 フランシスが12歳の誕生日を迎える少し前、彼女の母は主のみもとに召されていった。フランシスはこの大きな悲しみに対して全く備えがなかった。しかし召される前に娘に言い送ったことばがある。「かわいいファニーよ、どんなことでも神様があなたを備えてくださるように祈りなさい。すべてのことは、神様があなたのために用意してくださることなのよ。 」このことばは終生フランシスの祈りとなった。
 なぜなら、この「準備」こそ彼女の全人生を貫くものとなったからである。一つの水平線に達すると、必ず前方にまた別の水平線が伸びていた。そのようにしてそれぞれの出来事があとに続くものを備えるのだった。

 ※今日は家庭集会の日。今年は珍しく玄関先にクリスマスローズがいち早く白い花を咲かせた。いつもなら、庭先に紫色の花が咲いて春の音ずれを意識するのだが・・・。高校時代の同窓生が年末の同期会の写真を送ってくださった。立春を意識したお便りであった。細かい心配りに感謝する。)

2016年1月26日火曜日

あなたがたはもっと多くの証拠を必要としているのですか。

「わたしはあなたがたを愛している。」と主は仰せられる。(マラキ1・2)

 こういうことばは私たちが予期しているものとどれほどちがっていることでしょうか。私たちは神様が「もしあなたがわたしを愛するなら、わたしはあなたを愛する」とおっしゃるように予想していたのではないでしょうか。

 でも、そうじゃないのです。主はおっしゃいます。「わたしはあなたがたを愛している。」そうなんです。主はみじめで愛されることをひたすら求めてやまないあなたがたを以前から愛しておられたのです。主は今あなたがたを愛しておられるだけでなく、これからもつねに愛してくださいます。けれども、あなたがたは言うのです。「私は神様が私を愛しておられるかどうかを知りたいのです」

 なぜですか。主はあなたがたに「わたしはあなたがたを愛している。」とおっしゃっているのですよ。この上、主は何を言うことができるでしょうか。

 「『わたしはあなたがたを愛している。』と主は仰せられる。」とあります。そのことは真実です。あなたがたが信じて喜び、どんなに喜んでいるかを主にお伝えすることだけが必要なのです。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5・8)

 主は善良な人に対しては何も仰らないが、あなたがたが罪人であった時、あなたがたを大層愛し、それゆえに神様は主イエス様、ご自身の御子をあなたがたの代わりに死なせるために遣わしたとおっしゃっているのです。神様はそれ以上何がおできになるいうのでしょう。神様は同じことをマラキ1・2で言っておられます。「あなたがたは言う。『どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。』と。」

 「どのように」と言うのですか。ああ、それなら、このようにですよ。あなたがたが神様を愛したのでなく、神様があなたがたを愛して御子を送りあなたがたの代わりに(十字架上で)苦しめられたのです。考えても見なさい。その質問に対して、どれだけ多くの答をあなたがたは見出すことができることでしょうか。

 「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。」見てください。どんなに多くの証拠をあなたがたは数え上げることができることでしょうか。「『わたしはあなたがたを愛している。』と主は仰せられる。」という、このやわらかくも安全な枕(※)のもとにあなたの重荷を下ろしなさい。

あなたはわたしのもの。だから恐れてはいけない。

今やとこしえにわたしのもの。炎は決してあなたに燃えつかない。

あなたは高価なもの。それゆえ恐れてはいけない。わたしにとって高価だ。

わたしはあなたをわたしの栄光とした。わたしはあなたを愛している。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-26-do-you-need-more-proof/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/print-friendly/lxpf-la-97190です。

※pillowと言うのはハヴァガルの遺愛のことばのような気がする。なぜなら彼女が子ども向けにあらわした名品にLittle Pillowsがあるからである。この作品は我が国でもすでに大正4年に翻訳されている。国会図書館のデジタル・ライブラリーで自由に閲覧できるのでご覧になられてはいかがだろうか。どなたかが、美しい今の日本語に翻訳されんことを願う。

 「多くの人が私の人生は比較的苦痛のない道だと思っていた」と後年彼女は書いたが「しかし、その道はもっとも順調な時でもよく内側には苦痛が隠されていた・・・」とある。この純粋な生き方を求める深い願いは、絶えず信仰後退という考えによって、心乱されたが、彼女を訓練し、彼女の書き物にあらわされた献身の証拠となり、無数の人々の手助けとなる同情心を養うことになった。
 1845年に一家はハヴァガル氏が聖ニコラス教区の牧師として指名されたので、Worcesterに移ることになった。フランシスはやっと10歳になるばかりであったが、自分よりはもっと幼い子どもたちのいる日曜学校で教え始めた。そして気の合った仲間と「フランネル・ペティーコート・クラブ」を組織した。この団体については彼女が子ども向きに発行した数少ない書物の一つである『4日間にわたる幸せな日々』という本の中で述べている。)

2016年1月25日月曜日

彼のものは私たちのものであるということ

牛久市中央生涯学習センター※

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。(ヨハネ15・5)

 なぜ、樹液はぶどうの木から枝へ流れるのか。簡単に言えば、枝がぶどうの木につながっているからだ。それで樹液がその性質の法則そのものによって流れ込むのだ。

 それと同じように、信仰によって私たちが主イエスに結びつけられていれば、主イエスのものである樹液は私たちのものとなり、霊的ないのちの法則そのものによって私たちの内に流れ込むのだ。もし妨害がなければまことに川のように流れるであろう。では、そのような賜物が流入するために、あらゆる障害を除去するには、どのように熱心に求めるべきなのだろうか。

 主がその道筋を明らかにしてくださり、あらゆる不信仰、あらゆる自我、流れの中に隠されているあらゆる目詰まりを除去してくださるように祈ろう。そうすれば七倍の祝福が与えられるであろう。主の平安、主の喜び、主の愛は、直ちにそして常に、また今からとこしえに与えられる。天を目ざす旅に必要とする主の恵み、そして主の力、さらには主とともにとこしえに崇高で甘美な生活を味わうための主の安息と主の栄光が与えられる。

私たちの救い主イエス・キリストの父なる神に祝福がありますように

誰か、このような、数え上げることもできず、また金額であらわし得ないほどの、ありとあらゆる祝福をもって私たちを祝福した者があったでしょうか

私たちの気高くも聖なる召しと私たちへの力強い救いは

あなたに向かう、絶えることのない讃美、絶対的な恵みをほどこされる神の中心となりましょう。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-25-what-is-his-is-ours/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/print-friendly/lxpf-la-97189です。

 フランシスは落胆したり敗北感を味わって「野卑な喜び」に浸っている時でも、早くからクリスチャンになることが人生のもっとも望ましいことだと確信していた。彼女は後年、自分の幼い頃の霊的な体験を率直に語った。その経験が明らかになる時、他の人の手助けになるかも知れないと思ったからだが、当時はそのことについて誰か他の人に一言でも話するなら、「サンスクリット語を話していると思われた」ほどだった。
 このことを黙っていたために彼女はよく誤解された。姉妹達でさえ、この彼女の内的な葛藤を知らなかった。彼女の生まれつきの陽気な性格により、部屋の中で泣き崩れていても、陽気に笑い転げたり、突然快活になって階段を上り下りできたからだった。

 ※昨日は今冬もっとも寒い日となったが、関東はどこも空は晴れ渡っていたようだ。自然は豊かでないが、会館を出て眼前に見えるこの設計空間はなぜか気にいっている。「ぶどうの木 つながる枝の 豊かさよ 小なるとも 互い覚ゆる」)

2016年1月24日日曜日

私たちにとって未知の道筋は主にとっては明らかである

イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり(マルコ6・48)

 混乱のさなかにあって。私たちは自分のまわりで何が起こっているのか理解できず、事態がどちらの方向に向かっているか、またどうしたらよいかも話すことも出来ない時、私たちは眼前の事態を見通すことができないのですが、私たちには隠されていることも主からは隠されていないことを考えて、冷静に落ち着いて忍耐強くありましょう。 もし、主が私たちを盲目のうちに導くように選んでおられるなら、主におまかせしましょう。導きの実際と公正さは大したちがいはないのです。

 隠されていること。私たちに何の手がかりも見えず、神さまの啓示を部分的にでも理解できず、主の密やかな助言の前に立ちはだかっているベールを引き上げることもできず、主の道を隠している聖なる暗やみを見通したり、主の足跡がわからないで、大変深い主の公正さを踏み固めることができない時、こういう事態でさえ私たちの王から隠されていることであるなら十分ではないでしょうか。「私の父は、事の大小を問わず、私の耳に入れないでするようなことはありません。」(1サムエル20・2)「それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。」(ヨハネ5・20)

 私たちの王は私たちに何ごとも皆、いとも簡単に明らかにされ、大変明快になさるのです。主にとってはあらゆる私たちの疑問に答えられないことは何一つないでしょう。彼がなさらない時、私たちは彼を信頼し、彼が知っておられ、もし最上であるなら話したいとされたであろうことに満足できないのでしょうか。彼は私たちに言うべきことをたくさん持っておられますが、私たちがそれらに耐えられるまで待っておられるのです。

 私たちは私たちの罪でさえ主から隠されていることを喜ばないのですか。そうです、すべてのことをご存知の主はすべてを聖めることがおできになるし、そうなさりたいのです。彼は私たちが自分自身で目をそむけていることも、すべてお見通しで知っておられましたが、その罪を赦され、今も愛しておられます。

あなたは知らない。述べられたそれぞれの過去の時がどのようにからんでいるかを。

その嘆き、さもなくば喜び。希望、さもなくば恐れ。一つの偉大な愛のご計画のうちに。

私が夜通し、様々な方法によってあなたをどのように導いているかも

つねに雲一つない光の上に、そして日々に前進する道へと。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-24-unknown-paths-are-clear-to-him/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/print-friendly/lxpf-la-97188です。
 フランシス(リドレー・ハヴァガル)は優雅で美しく、晴れやかな顔色をし、明色の髪の毛の持ち主で生き生きとしていた。彼女の早熟ぶりは大変なもので、三歳ですらすら本を読み、四歳で聖書を、七歳で聖句を書き始めたほど、豊かないのちと精神力に満ちていたが、野外の木登りや壁崩しよりは、年上の兄姉たちが課題とした宿題に聞き耳を立ててドイツ語を習得することの方がよりすぐれていた。
 彼女は決して模範的な子どもではなかった。全く話しかけられることを嫌ったし、親切になされる忠告を毛嫌いしたものだ。また彼女は非常に繊細な神経の持ち主で、特に幼い時そうであったが、ちょっとした気質のゆえに、本を読んだり、説教を聞いたりすると、よく惨めさと改悛の情にさらされた。)

2016年1月23日土曜日

主があなたに話される

古利根川の川縁※

私はあなたのために、勧告と知識についての三十句を書いたではないか。(箴言22・20)

 もし私にあなたに伝えたい特別な何かがあり、私の声でもって話す代わりに一枚の紙に書き下ろし、あなたに見てもらおうと渡したのなら、それはまるで私の唇で話したのと全く同じなのではないでしょうか。そして、あなたはその紙を手に取り、私が言ったことが何であるかを一生懸命にその紙から読みとることでしょう。

 そのように今日、あなたが聖書を読む時、一人であっても家族と一緒であってもイエス様がその中で何を仰ろうとなさっているかを読みとりなさい。そうすれば、あなたは決して空しく眺めることはないでしょう。あなたは家に帰ったように、またそれまで全く注意していなかったあることばを発見することでしょう。

 ああ、愛情ある心でその声に耳を傾けなさい。なぜなら、それは主があなたに話しておられることですから。いや、それどころか、もしあなたがほんとうに主からのみことばを待ち望み欲しているなら、興味をそそる文章があなたの心に入り、そのことについて考えたことをさらに知りたいと思うことでしょう。

 それがイエス様があなたに語りかけられる声なのです。耳を傾け、心に銘記し、従いなさい。そしてそれからなおも主があなたに語りかけられることが他にないか注意しなさい。主に言いなさい。「主よ、お話ください」(ルカ7・40)と。

しかし、私が眠るために横たわり待っていたように

それはすでに求められていたのだ。私の指環(※1)のそばに置かれた聖書

そっと開かれた頁を一瞥するように私を誘うかのようだ

あなたの愛にあふれた御霊は一瞥では導かず、

求められたことのない力あることばへと向かっていった

「あの方は汝の主なり」きわめて単純に、しかも力強い

その上、すべてを包み込む。ああそれで十分だった。

すべての霧を追い払い、いのちを花とするのに(※2)

(※昨日、友人のAさんを訪ねた帰り道、倉松川で「かわせみ」を初めて見た。背中が青く、胸は橙色であった。思わず自転車を止めてやおらiPhoneを取り出そうとしたが、その束の間に対岸に飛び去ってしまった。渓流の翡翠と称されるようだが、まさしくそうだ。宝物に出会った思いだった。脳裏に焼きつけて帰って来た。写真はそれとは全く異なる別の大きな川、古利根川の昨日の風景である。
  今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-23-he-speaks-to-you/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97187である。原文中(※1)my band (※2)To chase away all mists and Blooms of life はそれぞれ上述のように訳したが自信がない。
 ハヴァガルは並外れた才能の持ち主であったが、同時に時代の子であり恵まれた環境の子であった。 母は「愛らしいジェイン・ヘッド」と綽名された人であった。また父は有能な説教者であったことはもちろんのこと、能力があり、よく訓練され、賛美歌に精通した音楽家であり、何百という聖歌や礼拝曲の作曲家であり、かつ海外宣教の熱心な支援者であった。彼らの家族は幸せであった。その家庭は祈りと聖句を探求することにおいての模範であり、活力に満ち、その生活は敬虔さで彩られていた。) 

2016年1月22日金曜日

Andということば

神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。・・・こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです(ローマ3・25、26)

地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。(マタイ5・18)

 私たちは「この方は正しい方、救いを賜わり」(ゼカリヤ9・9)と読むように、どんなにこの小さなつなぎのことば「で」「そして」「と」が貴重なものか(知っているであろうか)。「あわれみ深く、そして忠実な大祭司」(ヘブル2・17)「正義の神救い主」(イザヤ45・21)も同じだ。

 私たちは神様の小さなことばの半分しか評価していない。主の義は、もし私たちがうやうやしく言うことが許されるなら、主のあがないの働きが強力である点を指している。私たちのあがないのために必要な身代金は完全に支払われた。彼は律法を成就した。父なる神様がイエス様になすように与えられたすべての働きの中には何一つ不足するものはなかった。イエス様がそれをやりとげられた。そして父なる神様は満足なさった。

 このようにしてイエス様は父なる神様に対して正しくあった。それはイエス様が私たちの罪を赦すために忠実であり、義であられたからである。それは単なる不幸によって動かされるか細い思いやりでなく、強く、大きく果てしのないものであり、人間の心のうちには決してないような正義と憐憫が等しくバランスを保ったものであった。なぜなら、主の取られる道だけがこのように(神の性質の二つを)同等なものにするからである。

あなたの支配を喜び、私たちあなたの子どもは皆、首(こうべ)を垂れ、ほめあげます

なぜなら私たちは知っているからです。すべてあなたの道は

やさしくかつ愛あるもの、正しくかつ真実なもの

あなたのすぐれた憐憫の心とあなたの絶対的な御力を持つ御腕が

私たちの必要とする大きな強い救いのために

あなたの傑出した愛のうちに結びあわされるのです

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-22-and/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97186です。
 昨日に引き続いて彼女の生涯を紹介する。ハヴァガルはその短い42年の生涯で当時の女性にあっては並外れた名声を得、影響力を与えた。彼女が亡くなるまでに発行された詩集の中の一つは30刷を重ねた。The Ministry of Songは38刷であり、雑誌の聖歌作詞にいたってはそれらをはるかに越えていた。Under His Shadow(「主のおかげです」)という彼女の最後の詩をふくむ作品の発行は実に90000部を越え、英国賛美歌史上例を見ない流行ぶりであった。原文はhttp://bibletruthpublishers.com/frances-ridley-havergal/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97164

2016年1月21日木曜日

神の側面、輝きの側面

あなたの一生は真昼よりも輝き、暗くても、それは朝のようになる。(ヨブ11・17)

 かつてどんな人も少なくとも学校を卒業すると段々歳をとっていくという考えには自然と組しえなかった。その考えには抑圧と退行感があるからである。一瞬の休む可能性もなく、瞬間瞬間また年々ひるむことなく圧倒的に前進しても、すなわち人生の上り坂においてさえしばらくすると下り坂につながっているという行進は、多くの春の誕生日の上にすら、秋のような影を投げかけるものだ。

 しかし、聖書はあらゆるものの輝ける面をどれほど確かなものとして示していることだろうか。この場合、聖書は聖書がなければ憂鬱になるのもやむをえない事実について三つの輝ける面を示している。まず第一に聖書は光の中を歩きはじめた人々にとって、輝きが増すという確かな見込みを明らかにしている。たとえ私たちの人生の太陽が一見頂点に達し、私たちが精神的、霊的存在であるという昼間そのものを知ったとしても、「私の一生は真昼よりも輝く」(ヨブ11・17)以外には、私たちの道の上に伸びていく西日の影を詩的にあらわすものはない。

 第二の輝きの面は実が増し加わるということである。働きと実とを混同しないようにしよう。「力のある男たちは、身をかがめ」(伝道12・3)るという日々に近づく時でさえ、かつてよりも私たちの主にとってそれまでよりも、もっと楽しい、もっと完熟した甘い実があることであろう。

 第三の輝きの面はすべての中でもっとも輝かしいものである。「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。」(イザヤ書46・4)なぜなら私たちは絶えず神様の小さな子どもであるし、疑いもなく神様は私たちの父であるからだ。どんなに歳が加わろうともこのことに太刀打ちはできない。

しかし、太陽が段々西に近づく時

あらゆるものを驚異的な一閃で包む

あの日没の光、私たちはそのあとをなぞることをせず、見つめる。

そうして栄光に満ちた聖い光に驚嘆する

義の太陽よ、もっと近くに来ておくれ

誰の素早い短い時間がそんなに素早く過ぎ去るのか

愛と光でそんなにあふれんとするのか

近づく太陽の栄光のうちに失われんとして

それは私たちの光でなく、あなたのものだ。世界は知る。

私たちの貧しき生活をとおしてあなたへの新しい讃美が得られるからだ。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-21-gods-side-the-bright-side/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/print-friendly/lxpf-la-97185です。今日の箇所も全く歯が立たず、誤訳で満ちていると思う。ハヴァガルを読んで、スポルジョンに目を移すと文体が明らかに違う。詩的表現があまりにも多いような気がする。しかし、短いことばで神様の真実を示そうとしているハヴァガルから、とにかくこの一年学びたいと思う。読者が原文を読まれての訂正をしてくださることを期待している。
 昨日は病院で大腸がんの内視鏡検査を受けた。数年前に一度受けたような記憶があるが、事前に経験者から二度と受けたくないと言われていたので不安だったが、案の定、私自身も今後は払い下げにして欲しいと思った。病院内にいる高齢者の方々を見ると、もちろん自分もその一人だが、死に対する備えをどのようにしたら良いのか、いろいろ考えさせられた。何の対策もないのだが・・・
 けれども、短命に終ったハヴァガルは「死」に対して無感覚であったとは思われない。何よりも、上記のようにみことばをとおして主に対する信頼を持ち続けたのだろう。ちなみに、ハヴァガルはビクトリア女王が即位した数ヶ月前すなわち1836年12月14日にイギリスのWorcestershireの小さな村アシュトレーに聖公会の牧師であるウィリアム・ヘンリーとジェイン・ハヴァガルの間の6人兄妹の末っ子として生まれたが、わずか42歳で亡くなっている。)

2016年1月20日水曜日

第一のものを第一に

東海道線根府川付近(2016.1.18)※

もし熱意があるならば、持たない物によってではなく、持っている程度に応じて、それは受納されるのです。(2コリント8・12)

 私たちの持てる物と熱意とを比較する以外には、神様の目から見て、多かれ少なかれ何もないことを覚えることはたいせつなことです。神様は私たちが持っている物はもちろんのこと持っていないこともご存知です。

 神様は一面では低賃金と少ない積立金のすべてや、また別の面では賃上げがともなう固定収入のこともご存知です。だからこういうものから絞り出すものを神様に差し出すことではなく、神様にすべてを差し出し、すべて神様の裁量にまかせ、すべての管理は神様のご命令によっているのかが問われるのです。

ああ、私はおささげしましょう。

あなたが気前良く下さった贈り物の中からです。

ああ、私はいのちに歩みましょう。

あなたが生けるお方であられ、豊かにいのちを与えてくださったからです。

ああ、私を輝かせてください。

暗い暗い地にあっても、あなたの光は私のものです。

私は忠実な証し人となりましょう。

あなたの真実とあなたのために生きる一人として。

(今日の箇所はhttps://www.blogger.com/blogger.g?blogID=1733803829892792249#editor/target=post;postID=108366066674401293です。相変わらず訳出は困難を極めております。誤訳が多いと思います。悪しからず。
※ご覧の通り、月曜日のこの時刻15:23には、空はどんよりとしており、今にも雪が降らんかなの様相を呈しているが、相模湾に面するこの地方には積雪がなかった。積雪を知ったのは京浜地帯に入ってからだった。このあたりは昔「人車鉄道」が走っていた。すなわち小田原・熱海間がそうであった。くわしいことは『幻の人車鉄道』伊佐九三四郎著河出書房新社発行を参照のこと。)

2016年1月19日火曜日

主の着座されるところ

寒桜※ (東海道線興津駅構内 2016.1.16)

キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。(1ペテロ3・22)

 主は実に、私たちが全然統治できないでいるこの内的な世界にあって、万物をご自身で支配することがおできになるのです。私たちはとても喜んで、主をみことばによって理解し、御手にその統治をおゆだねします。主が行為そのものをとおして私たちの王となられ、長い間(私たちから)妨げられ引き離されていた砦のうちに、ご自身が平和の君として即位されるのを乞い願い、主がすべての考えを虜にし、ご自身のやさしい従順へと導いてくださるように祈ります。

 私たちはこれまで、十分な叛逆を経験し、暴君であり謀反人であり、無法と自分をがんじがらめにしばる法のとりこでした。別の神々(ああ、それはどんなに多かったことでしょう)が私たちを支配していました。主はかつては私たちが神々の奴隷であることを許しておられましたが、今や対照的に祝福とくつろぎによって主を礼拝するようにしてくださっています。

 今や私たちだけが「別の王、一人のイエス」を求めているのです。主は私たちがご自身の力を明らかにされる日、すでに私たちをみそなわしていてくださったのです。それが主の統治の始まりでした。そしてその証拠は私たちの心のうちに、「主の支配と平和がいやましに増し加えられ、今やその終りがない」ということでした。

私を治めてください。主イエス様、ああ、私の心にお入りください。

私の心はとこしえにあなたのものです。あなただけのものです。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-19-his-place-by-right/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97183です。今回訳出は大変難航しました。すでに邦訳は出ており、今私の手許にないだけでありますので、何ヵ月か後に私の手許に帰って来ますが、その時その方の訳を見ると多分赤恥をかくこと請け合いだと思います。読者諸氏は原文を確かめられますことを切にお願いします。土曜日に出かけ、昨日こちらに戻ってきたが、車中このブログでも何度か紹介しているロセニウスの『あらしと平安』を再読し、律法と福音の関連について深く考えさせられた。ハヴァガルの描こうとした世界とは無関係でないことを今にして知る。コロサイ2・15、ガラテヤ5・1も覚えたい。
※一方、車内から見る景色は、改めて日本という国が南北に長く東西に広いことを思わしめられた。冒頭の写真もその一端をあらわすであろう。かつて宮脇俊三氏の書かれた名文や江戸期の鈴木牧之が『北越雪譜』をとおして「東南寸雪の国と北方丈雪の国では吹雪の見方がまるでちがう」様を描いた文章を思い出した。)

2016年1月18日月曜日

主は成し遂げるとおっしゃった

あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。(ミカ7・18)

神は彼の願ったことをかなえられた。(1歴代誌4・10)

そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。(1列王紀3・13)

 私たちに対するあらゆる神様の高潔さはへりくだりです。神様が私たちに対してへりくだられればへりくだられるほど、私たちはますます言わねばなりません。「私はあなたがしもべに賜わったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です。」(創世記32・10)祈りに対する偉大なお答えの重みは私たちにとってはほとんど過分なもののようにみえます。その恵みは私たちにとって「あまりにも不思議」(詩篇139・6)なものです。

 私たちの小さな貧しくも弱々しい叫びと神様の御心と御手の偉大な輝かしいお答えの不釣り合いは、私たちが「神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか。」(2サムエル7・18)と言わざるを得ないほど際立つものであります。けれども神の高潔さは依然としてますますへりくだりにあらわれるのです。なぜなら、私たちは主がなしてくださり与えてくださった大きな事柄が私たちが全然願わなかったり、願うことを考えることすらせず、祈りさえしていなかったからです。

 こういう見方ができることはあまりにも大きいそのご謙遜ぶりをあらわすものですから、サタンは主が私たちのためになしてくださった出来事がいかに偉大なことであるかを私たちが見つめ考えないように、にせの謙遜を立てようとつとめます。このようにしてサタンは物惜しみされない神様から主の御名に帰する栄光をだましとろうと企むのです。

私は驚愕してささやいた、「そんなことがあり得るのか。

主は私がこれまで求めた恵みをすべて嘉納してくださったのだ。

私のために労してくださるとは何という驚きだろうか。

私のために答えてくださることも何という驚きであろうか。 」

ああ、何という忠実なお心か。主は聞きたいとおっしゃった。

そしてあなたの貧しい祈りに答えたい、とまで。これまでも聞いてくださった。

そして御約束を果たされた。あなたは何のために恐れたのか。

なぜ、主がおことばを守られたことを驚くのか。

主が期待をもってなす信仰と祈りに上出来をもって祝福されないとしたら

それこそもっとおどろくべきことだ!

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-18-he-said-he-would/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97182です。明けてみると、雪は降っていなかった。代わりに雨がしとしとと降っている。傘を用意してこなかったので困った。折り畳み傘を引っ張り出して事なきをえた。大垣までは順調だったが、蒲郡豊橋間が強風のため列車が遅延しているとのことだ。いずれにしても、今年は例年にない暖冬であることには間違いなさそうだ。)

2016年1月17日日曜日

主をしっかり見据え、確かな歩みをしましよう!

主があなたのわきにおられ、あなたの足がわなにかからないように、守ってくださるからだ。(箴言3・26)

 あなたはよろめくことは避けられません。でも主は「あなたがたを、つまずかないように守ることができる」(ユダ24)のです。ギリシャ語では「よろめくことなく」と強い明確な表現になっています。あなた自身の内にある自信や期待のなさは不可避的なよろめきに導くだけでなく、嘆かわしいつまずきとなります。

 「それでは、どのようにして私は守られるのですか」イエス様御自身の答えはこうでした。「だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。」(ヨハネ11・9)そのように、「光の中を歩きなさい」「イエスから目を離さないでいなさい」(ヘブル12・2)そうすれば私たちは「信仰により、神の御力によって守られており」(1ペテロ1・5)ます。

 私たちは小さな子どもにどこに足を踏み入れるかを見て、進んで行くように話します。しかしキリストの小さな子どもは全く反対のことを行なうのです。彼らはイエス様に目を向けねばなりません。「あなたの目は前方を(下を見るのでなく、前方を)見つめ、あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ。」(箴言4・25)そうすれば、まぶたは世の光であるイエス様を見据え、間違いなくゆらぐことがありません。

すべてのものから目を離してイエス様に目を向けなさい。

そうすればよろめく必要もなく、つまずくこともありません。

それぞれおびき寄せるわなや恐ろしい敵や幻影から

安全が保証されます。主に目を向けなさい。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-17-a-fixed-gaze-makes-a-sure-step/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97181です。近江八幡集会の日曜礼拝に出席するため湖国に帰って来ました。昨日は、まさかとは思いましたが数年ぶりに、小中の同級生のKさんと帰省中の電車内でお会いしました。考えてみると電車内とはいえ、二人だけで話するのは初めてのような気がします。こうして、出かけるところ、出かけるところで、珍しい人にお会いしています。不思議なことです。朝晴れていた空模様も、今では湖東特有の雪雲をはらんだ天候に変わりつつあります。)

2016年1月16日土曜日

あなたも一人の使者です

そのとき、主の使いハガイは、主から使命を受けて、民にこう言った。「わたしは、あなたがたとともにいる。――主の御告げ。――」(ハガイ1・13)

忠実な使者はこれを遣わす者にとって、夏の暑い日の冷たい雪のようだ。彼は主人の心を生き返らせる。(箴言25・13)

 私たちは全員が王様の大使であるようには召されてはいません。しかし、救いのメッセージを聞いた者はどんな者も主の使者であるように召されています。主が私たちに日々機会を与えてくださる時、私たちは人々に主のメッセージをお伝えするのです。

 そのメッセージとは、ハガイに約束されたように「わたしは、あなたがたとともにいる」でした。ご自身の民に対するこの一つの使信を述べ伝え分かち合うことは、いかなる人生にあっても十分な働きではないでしょうか。ですから、依然として遠く離れている人々にとっても私たちは主からゆだねられているその公平でかつ完全な使信を携えているのです。主はその使信を一語で「来なさい」と言うことば※に要約されました。

そうです。私たちはイエス様のために一つのことばを持っています。

私たちはあなたに包み隠すことなく話します。大胆にして忠実なあなたの兵士です。

救い主である尊いお方、私たちはあなたのお名前にあって旗をかかげたいのです。

そうすれば、あなたご自身の旗が上にひらめくことでしょう。

あなたの「喜び」という深紅のお名前と、金色に輝く「愛」というお名前をともなって。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-16-even-you-are-a-messenger/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97180です。※ハヴァガルの胸中にあるのは「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」マタイ11・28であろう。今朝のスポルジョンの霊想には罪人である私たちに、これでもかこれでもかというまでに愛を尽くされた主のみわざが述べられていた。そのキーワードはイザヤ書41・14のI will help thee, saith the Lord.であった。併せて味わいたい。それにしても昨日の碓氷峠のバス転落の事故は悲惨だ。私自身もこの20数年間、しかも一年に何度もこの道路を路線バスに乗り、軽井沢・横川間を往復している。現代日本の縮図のような要素を多分に持つ事故だ。それでも「死は終わりではない」というメッセージをお伝えしたい。あたら若くして事故にあった方々にとって、それでなければ不公平というものではないか。)

2016年1月15日金曜日

あわれみはいけにえにまさる※

わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。(イザヤ43・25)

 かつてジョンという聾唖の人がいました。彼はどんな人の声も聞こえなかったのですが、イエス様の声は聴こえ、声を知り、愛し、声に従っていました。

 ある日、彼に手話で語りかけた婦人に不思議な夢を見たことを話しました。神様は彼に一冊の大きな黒い本を示されたのです。彼のありとあらゆる罪がその本には書き込まれていて、かなりたくさんあったので真っ黒になっていました。そして神様は彼に火が燃えている開けられた地獄を示されたのです。それはこのような罪のために彼を待ち受けているということでした。

 けれどもイエス・キリストはやって来て、ご自身の赤い手を、すなわち十字架でもって血塗られたその手を全頁に置かれたのです。するとその赤い手が彼の罪を全部拭い取ってしまいました。それで神様がその本を光にかざして見られた時、もはや残されているものは何も見ることができなかったのです!

 イエス様の今日の私たちに対することばはこうです。「わたし、このわたしは、あなたのそむきの罪をぬぐい去る者です」。これは気まぐれでもなく、また単なる感情でもなく、イエス・キリストの血が注がれたという神様の真実です。何ものもそれを変えることができません。そしてイエス・キリストの尊い血が私たちの咎をぬぐい去るというのはパウロがコロサイ2・14で言うとおりです。「私たちを責め立てている債務証書を無効にされた」

 そうです。どれだけたくさんの罪が帳消しにされることか。—あなたが忘れてしまった多くの罪、あなたが知っている方以外はあなたも全然罪だとは思わなかった罪—昨日も今日も、またあなたの人生の過去一切の罪が。

 あなたはそれらの罪がぬぐい去られたことをお知りになりたいですか。ダビデは申しました。「私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。」(詩篇51・9)神のことばを手に取って、そのことばは真実であり、あなたにとって真実であるとそのまま信じなさい。「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」(イザヤ44・22)

支払わねばならないものは何もありません。そうです、何も。

イエス様が全部の負債を帳消しになさったのです。

それはご自身の血にまみれた手をとおしてです。

自由にして、赦しを得、愛されている者としてあなたは(主の御前に)立つのです。

イエス様がおっしゃっている声をお聴きなさい。

「まことにあなたはもう支払うべき何ものもなくなった。

負債は支払われた、負債は取り除かれた。

さあ、わたしはあなたに問いましょう。

あなたはわたしを愛しますか

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-15-debtors-to-mercy-alone/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97179です。※標題の原語はDebtors to Mercy Aloneである。今朝のスポルジョンの勧めは、主がいかにご自身の約束を守られる方かが述べられていて、その約束を信じないで、行使しない、すなわち主に願わない信者の愚かさが指摘されていた。あわせて味わいたい霊の糧である。God's promises were never meant to be thrown aside as waste paper; he intended that should be used.)

2016年1月14日木曜日

神の御力によって保たれる

その力あるみことばによって万物を保っておられます。(ヘブル1・3)

みことばのとおりに私をささえてください。(詩篇119・116)

 イエス様は今や「その力あるみことばによって万物を保っておられます」。それですから、私たちは「みことばのとおりに私をささえてください」と言おうではありませんか。

 愛する方、このような約束をいただいているのですから、それらの約束に信頼しましょう。信仰の祈りへと向きを変えましょう。「私の歩みは、あなたの道を堅く守り、私の足はよろけませんでした。」(詩篇17・5)(ダビデは「でもやっぱり、もちろん足はよろける」という囁きをつけ加えたでしょうか)「私をささえてください。そうすれば私は救われます」(詩篇119・117)「もしも私が、『私の足はよろけています。』と言ったとすれば、主よ、あなたの恵みが私をささえてくださいますように。」(詩篇94・18)(拾い上げて!、ではないのですよ)と言ったのです。

 旧約聖書に続いて、新約聖書のこだまが響きます。「このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。」(ローマ14・4)けれども「神のご計画の全体」(使徒20・27)を受け取りなさい。というのは、このこともまた必要とされているからです。「あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。」(ローマ11・20)

 さあ、こういう約束が書かれている文書に価値があるなら、私たちは約束を信じ受け入れ感謝をささげ、喜んで私たちの道を続けるべきでないでしょうか。イエス様の支える力は一回限りのものでなく、また明日のためだけでもなく、次の段階へと進むために絶えずあらわされるものですから。

あなたは、わたしが小さなあなたが見通していることを、どのように支えているか知っていない。

むしろ、わたしの宇宙大の計画をどれだけあなたはより小さく展開していることだろうか

あなたの理性が把握することができる空間は砂粒でしかないのだ

あなたの最も大胆な考えがたどる時間も岸辺の小波のようなものだ

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-14-upheld-by-gods-power/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97178です。今朝のスポルジョンはmighty to saveなるお方である主イエス様について徹底的に語っています。あわせて読まれることをお勧めします。でもイザヤ書63・1の邦訳『救うに力強い方』がすべてを表現していると思います。昨日の家庭集会にもたくさんの方が集ってくださいました。現職の経営者の方のメッセージとつい最近103歳の姑さんを天に送られた方の証でした。100歳の方を救われる。これもまたmighty to saveなるお方の働きです。http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2015/12/blog-post_21.html

2016年1月13日水曜日

満たされること

良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。(ルカ8・15)

 かつて私は、私が決して忘れることができない美しい祈りを聞いたことがあります。その祈りとはこのようなものでした。

 「主よ、私の口を取り上げて、その口を用いて語ってください。私の知性を取り上げて、その知性を用いて考えてください。私の心を取り上げて火にくべてください」

 そして、これこそ主がしもべの口を守られる方法です。それは余りにもしもべの心が主の愛に満たされているので、流れ出るものは愛情以外にありえないことによるからです。またその言い分は全くキリストに似たものと思われるほど満たされているからです。

 注ぎ出される前には満たしがあらねばなりません。そしてもし満たしがあれば「心に満ちていることを口が話すのです。」(マタイ12・34)とかつて主が言われたゆえに注ぎ出されることは間違いありません。

主は聞いておられます。主はあなたがこの世のことを話すのを聞いておられますか、

それは、一時的な喜び、自己憐憫、空しいばか騒ぎに過ぎないのです。

主が語られたのはあなたに対する祝福、赦し、平和、そして愛です。

栄光ある望みと親切な励まし、強さと思いやり、やさしさと真実です。

語られたことのない主の愛をあなたが他の人々に語るのを、主は聞いておられますか、

主の多方面にわたる恵みを知れば神への感謝が溢れ出るはずです。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-13-be-filled/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97177です。昨日の火曜のベック兄の学びは1ヨハネ1・1〜4、7がテキストであったが、テーマは信徒間の交わりの大切さについてであった。しかし、この交わりも、何よりも主イエス様との光にある交わり、いのちの交わり、愛の交わりがあるかどうかがその起点にあると言われた。すべてを捨てて、主のみことばを心を開いて受け入れるならば、そこに初めて満たしが生ずるというこのハヴァガルの霊想と共通している。スポルジョンの昨日の「夕ごとに」も同じ思いが吐露されていた。From the hidden springs within let sweetly flowing rivulets of testimony flow forth, giving drink to every passer-by.)

2016年1月12日火曜日

あなたの神様※

主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み(出エジプト34・6)

 神のみことばはどれ一つとっても大なり小なり、明白なご自身の啓示であります。このことを理解しないと、みことばを見失うばかりです。もし、主の御霊が私たちの目を開いて理解させなければ、歴史的な個所は単なる歴史として、また預言的な個所も単なる預言として、それに教理的な個所も同じく教理として読むだけで、いたるところで暗いガラスを通して輝く神の幻を見失う可能性がどれほどあるか知らないことでしょう!

 そして神ご自身を記録されたみわざや方法を跡づける時でさえ、どれほどしょっちゅ私たちがこれこそ神様のご性質や態度だと思っていることにおいて私たち自身の閉じた個人的な関心を思い出すという個人的に安易な過ちを犯すことでしょうか。私は創世記の初めから黙示録の22章の終りにいたるまで、この美しい小さなともしびの光を反映しないわずか一章でさえあるかどうか疑問に思います。

 あなたの凝視が主が愛なるお方として啓示されている約束に向けられるか、それとも主が正しく聖いお方として啓示されている警告に向けられているか。すなわち、数世紀を整序するにあたり、主の壮大な支配を啓示する歴史を読むか、それとも時の転換についてのご自身の微細な介入を示す章句を読んで「この方こそ私たちの神です」(詩篇48・14)と言って称賛するかです。

 あなたは「神は私たちの知りえない大きなことをされる」(ヨブ37・5)ことを読み、主の書物のすばらしい多様性をとおしてあなたがたくさんの何百万年という年々にまたがる星々から「雪の倉」(ヨブ38・22)にあり、束の間に消えていく薄片にいたるまでの、目に見える万物を治められる偉大な力と栄光を一瞥する時、「この方こそ私たちの神です」(詩篇48・14)と言いなさい。

聖さのうちに栄光あり、讃美のうちに恐れありて

誰かあなたを恐れないでしょうか、大声で叫ばないでしょうか。

栄光あるあなたの全宇宙の讃美は沸き上がります、

聖にして無窮なるお方! 父にして神なるお方!

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-12-make-it-personal/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97176です。標題の原語はMake it personalでしたが、「あなたの神様」と意訳してしまいました。その他、文中には訳しづらい所が沢山出てきました。ご検討ください。今朝は空から、「雪の倉」からでしょう、薄片が舞い降りて来、ちょっぴり「白」を味わうことができました。それだけ上空は冷えているのでしょう。皆様、からだにお気をつけてください。)

2016年1月11日月曜日

キリストの願い

父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。(ヨハネ17・24)
わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。(ヨハネ14・3)
あなたは彼の心の願いをかなえ、(詩篇21・2)

 そこには、悲しみもなく叫びもない、もはや死もなく、いかなる苦しみもないであろう。「そこに住む者は、だれも私は病気だとは言わない」(イザヤ33・24)もはや日が沈む日々もなく、嘆き悲しむ日々もない。悪者に悩まされることも、虐げる者の声も永久にやんだ。悩まされる思いはなく、涙ももはやない!汚すものは何もない!このすべては私たちの愛するお方がくださる祝福の消極的な面にすぎない。

 さらには疲れたる者のための休息、安息日は続き、自由にして完全でとこしえに続く礼拝。いのちの冠、義の冠、栄光の冠がある。愛に満ちた天国の大きな報い、まことにふさわしくないしもべにとって驚くべきことばかりだ!かつてバッタが重荷であった人々がはるかにまさる重い栄光を身にまとうとは!あらゆる祝福の舞台—一層良い国、永続せる都市、王の宮殿、父の家、整えられた大邸宅(恐らくそれまでの巡礼地とくらべて最高の)—すべては卓越せる単一性と荘厳さを持つ主のおことば「わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」に要約される。

私たちのもっとも美しい夢もその聖なる光に決してまさることはできない。

私たちのもっとも気高い考えもその力あるみことばを越えることはできない。

私たちのすべての期待、私たちの主の最善の報酬

私たちの無上の喜びの冠は、この「 主とともにとこしえまで」ということばに要約される

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-11-christs-will/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97175です。昨日は全国各地で成人の集いが行なわれた。成人は一つの節目である。ひるがえって我が成人の日を振り返ると、心から祝えない自分がいた。自己中心で自分ばかり見ていたからだ。イエス様の願いはご自分ではない。私たち一人一人が救われて主と一緒になることだ。そんな暗いわがままであった私も今は主イエス様を信じ喜ぶ者と変えられた。)

2016年1月10日日曜日

老いて盛んなり

恋瀬川、正面は筑波山(常磐線沿線の車窓から)

彼らは、主の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。(詩篇92・13〜14)

 御霊の実の中でいくつかのものは、ささげられた生涯の老年時代に特徴的な性質のように思えますが、私たちもそのような実を結んでみたいと思いませんか。

 ごらんなさい。老年になってのアブラハムの信仰の円熟があります。独りで死ぬために山に登っていった時のモーセの謙遜な姿の偉大さがあります。また後期書簡にあらわされたパウロの芳醇な喜びがあります。そして、初めのころ、神様の怒りの火花を呼び下ろそうとして、「雷の子」とまで称されたことをまるで忘れせしめるようなヨハネのすばらしいやさしさがあります。

 そうです。同じ御霊様は私たちにも与えられているのです。だから私たちもまた「豊かな実」を結べるのです。必ず今よりももっと多くの実を結べるのです。

今は、刈り取られ、鋭くも厳しいですし、

花は散らされ、苦しい傷が(あります)!

けれども、後になって豊かな実を結びます、

それは、主が喜ばれる実です。

(今日は日立に出かけました。ハヴァガルの霊想を皆さんと分かちあいました。原文はhttp://bibletruthpublishers.com/january-10-old-age-no-barrier/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97174です。とんでもない誤訳があると思いますが、できれば読者の方々が指摘してくださると嬉しいです。霊想は毎日あり、365日分あります。なお、今日から90日ほどはすでに翻訳され市販された本がありますが、私の手許を離れましたので、我流で少しずつ訳していくことにしたいと思っています。どこまで続くやら・・・)

2016年1月9日土曜日

誕生日の願い フランシス R・ハヴァガル

西軽井沢国際福音センター入口案内板 2016.1.1

愛する方、私はあなたに何を願いましょうか。
これからの年が始まるにあたって。

悲しみから全く解放された生活をでしょうか。
痛みも不安もない生活。
バラが一杯まき散らされている小道。
あなたを刺すとげとて一つもなく、
喜びに満ち、嘆かせるものの何一つない生活でしょうか。

いいえ、そうではありません。
もしそうなら、あなたは祝福を失うでしょう。
祝福は悲しみにともなってやって来ます。
もしそうなら、満足することもないでしょう。
キリスト御自身の大能ある御力に。

最深の試みのうちにしばしば
最も豊かな祝福がともなうのです。
痛み以外には私たちを上へと導けません。
私たちの天のふるさとへは。

だから私はあなたのこれからを
キリストの全愛の御手にゆだねたいのです。

キリストとともに不思議なことどもはあるのです。
私たちには理解できなくても、
主があなたを導かれることを喜んで受け入れます。

その道は常に正しく、もっとも荒れた道でさえも
ご目的があります。
それは、あなたを連れて行くことができるのです。
ご自身の栄光ある光へと。

私は知っています、主があなたにお与えになることを。
ご自身の深い喜びと休息です。

私は知っています、主があなたに贈られることを
最善で叡智のすべてです。

だから、私はあなたに望むだけです。
主ご自身の完全なご意志、ご自身の甘美な愛、祝福に
あなたの内なる魂が満たされんことを。
さらにさらなる栄光へと、
ゴールが勝ち取られるまで、

そうです。御座には永遠が備えられているのです。

(昨日、私の愛する方お二人の誕生日であった。贈り損ねたが、ハヴァガルのこの詩をお贈りする。一方、この日は北朝鮮の金正恩第一書記の誕生日でもあった。6日の核実験発表はこのことを意識してのものであったようである。誕生日を何をもって祝うか、それぞれ一人一人が創造主なる神様から問われている。フランシス R・ハヴァガルのこの詩は今日たまたま、下記のサイトを見つけ、大急ぎで意訳したものである。原文はhttp://bibletruthpublishers.com/birthday-wishes/frances-ridley-havergal-my-wish-for-thee/f-r-havergal/print-friendly/lxpf-la-97533である。ご参照いただきたい。
わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。イザヤ45・2〜3

2016年1月8日金曜日

反映させる、それとも拒否する

ある日の玄関先の上がり端の絵模様※

主は、・・・救いをもって貧しい者を飾られる。(詩篇149篇4節)

わたしがあなたにまとわせたわたしの飾り物が完全であったからだ。
—神である主の御告げ。—  (エゼキエル16章14節)

 草の端にたよりなさそうにたれさがっているほんの小さな無色の水滴をみてごらんなさい。それは少しも美しくありません。立ち止まって見るほどのこともありません。

 けれども、太陽が昇るまでそこにいて、そしてもう一度見てごらんなさい。それはまるでダイヤモンドのようにきらめいています。そして別の方向から見ると、それはルビーのように紅く輝いています。それからまもなくエメラルドのようにほのかに輝きます。

 取るに足りない小さな水滴は、あなたが今までに見た最も輝かしい美しいものの一つとなりました。

 でも、それはそのものの持つ輝きと美しさなのでしょうか。いいえ! もしそれが日の当らない地面に落ちたなら、ただの汚い一滴の水にすぎません。

 そのように、もし、栄光と愛に富んだ救い主、”義の太陽”があなたを照らすなら、主ご自身の輝きと美の光の幾らかがあなたの上に見られるでしょう。時々、私たちは幸せそうな顔の輝きによって、義の太陽がそこに輝いていることがわかります。

 でも、”主の太陽”(原文は義の太陽)が実際にあなたを照らすなら、聖さ・愛・喜び・平安・温和・善意・誠実・柔和などの麗しい光が少なからず、確実に存在するようになり、人生を、あなたの人生をさえ、とても素晴らしいものとされます。

(『ひそかな所の隠された宝』フランス R ・ハヴァガル著25〜26頁より引用。※年末、家人が喜んで室内に駆け込んで報せに来た。「上がり端に美しい模様がある、あれは何だろう?」と。対面になる二軒向こうのお家の三階の窓に陽が当たり、それがプリズムのように屈折してわが玄関先に日の光を届けていたのだ。えも言われぬ感動を覚えた。しかし、その時、私たちはそれが私たち主を信ずる者の美しさを意味するとは考えも及ばなかった。顧みて、自らが臆面も無く、「義の太陽」(主イエス様)を「拒否」して生きている者でしかないと思い知らされた。)

2016年1月7日木曜日

勝利の祈り

年賀状3
わたしが・・・・あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。(ヨハネ15・16)

 この譬え話の最初の章で、キリストはご自身がぶどうの木であり、父が農夫であることを明らかにされた。そしてご自身と父のために私たちの心の中に住むべき場所を求められたのであった。今、この最後の章では、ご自身と父とについてのすべての教えをまとめて、主が一つ一つの枝を選ばれた二重の意味を明らかにされるのである。

 まずぶどうの木であるご自身については、枝が実を結ぶことであり、父については、主の名によって枝が求めるものはすべて父によって与えられるということである。実を結ぶことが私たちとキリストとの関係の大いなる証しであるように、祈りは私たちと父との関係の大いなる証しである。子なるキリストにつながって多くの実を結ぶことと、父なる神へ力強い祈りをささげることは、真のクリスチャンの生涯の二つの大きな要素である。

 「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」これはこの譬え話の結びのみことばである。ぶどうの木と枝とのすべての奥義は、さらにもう一つの奥義であるところの「あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。」(ヨハネ16・23)という点に展開していくのである。

 さてここで、私たちに祈りが非常に少ない理由、私たちの祈りにほんとうの力が欠けている理由について考えて見ることが必要である。それは私たちがまことの枝として生きることが少なく、またぶどうの木につながることに私たちの熱意を示すことが少ないからである。そのために私たちは常に祈らねばならないと意識することが少なく、私たちの祈りが聞き入れられる自信もなく、したがって、主の御名を神の宝庫への鍵として用いる方法も知らないのである。

 地上に植えられたぶどうの木は成長して天に達したのである。ぶどうの木に熱烈につながら魂だけが、何ものにも打ち勝つ強い力をもって天に達することができるのである。この譬え話の教訓と真理、ぶどうの木の生命と真理を固く信じる私たちは、祈りの力によって信仰を証拠立てねばならない。主につながる生涯、服従の生涯、愛と喜びの生涯、きよめと実りの生涯は、必ず勝利の祈りへの力へと私たちを導くことにまちがいはないのだ。

 「あなたがたが・・・求めるものは何でも」という約束は、まことのぶどうの木と同じように、仲間の人々のためにいつでもいのちを捨てようとした弟子たちにも与えられたのである。この約束は彼らの働きの原動力であったのだ。彼らはこの約束を文字どおりに解釈し、これを信じ、これを用い、そしてこの約束が真実であることを見いだしたのである。私たちもぶどうの木にふさわしい枝として、人々を救い、神の栄光のために実を結ぶ働きに没頭しようではないか。

 そうすれば、私たちは祈り、主に約束の実行を求める新しい力を見いだすであろう。また神の宝庫の鍵が与えたこのような約束の中にある私たちの責任のすばらしさを自覚する。かくて滅びゆく人々のために、パンと祝福を受け取るまで休むことなく祈り続けようではないか。

 愛する弟子たちよ。何はさておいても祈りの人となるように努めようではないか。それはぶどうの木の枝としての私たちの最高の特権を行使することなのだ。それは私たちの存在が神と御子のみこころの中で新しくされた証拠である。それは私たちが自分自身のためではなく、他の人々のために生きていることを示す私たちの力なのだ。それによって私たちは天国に入り、人々のために賜物を受け取ることができるのだ。またそうしてこそ私たちがキリストにつながり、キリストが恵みの手段として私たちを用いることができるのだ。こうして人々のために実を結ぶ力の上に、神に祈りを聞き届けられる力が加わったのである。

 キリストは、私たちを父の御前に伴い、父のみことばが私たちの中に満たされるように私たちの中でお働きになるのだ。「その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。 16:27 それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです」(ヨハネ16・26〜27)という主のみことばはそのことを言っている。人々のために父に直接に近づく力、信仰を持つ人々のために祝福を求め、祝福を受ける執り成しをする自由は、私たちとキリストとの結びつきを最高に実現することである。ほんとうにりっぱな枝になりたいと願う者は執り成しのわざにひたすら打ち込むのである。執り成しは天のぶどうの木であるキリストのただ一つの大きなみわざであり、キリストのすべての力の源である。執り成しを枝としての私たちのただ一つの大きな働きとせよ。それは私たちのすべての働きの力となるのである。

祈り

「主よ。ここであなたはご自身に、『まことのぶどうの木』という新しい名をおつけになりました。私は一本の枝として、あなたに一切のものをささげ尽くし、信じ切り、無条件に服従し、朽ちない実を結ぶためにあなたの中にとどまります。私はあなたの中にあって父のもとへまいります。そうすれば父は私の求めるものをお与えになります。どうか私の生涯をいつも絶えることのない、力強い執り成しの生涯としてください。アーメン」。

( 『まことのぶどうの木』アンドリュー・マーレー著安部赳夫訳141〜146頁より引用。この本は小冊子ではあるが、貴重な書であり、全部で31章になっていたが、今回が最終回であった。原著書名は『The Mystery of The True Vine By Rev. Andrew Murray』である。http://www.biblebaptistelmont.org/BBC/library/Murray/true-vine-10.html

2016年1月6日水曜日

朽ちない実

年賀状2
わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり・・・(ヨハネ15・16)

 果実には長持ちしないものがある。梨やりんごなどのように翌年まで保存できるものがあるが、すぐ食べてしまわなければならないものもある。クリスチャンの働きにおいても成果が永続しないものがある。このような働きは、人を喜ばせ人を教化する力はあったとしても、世の権威や教会の立場に永久的な影響を与えることはできない。

 いっぽう、幾世紀もまた永久にその影響を残す働きがあって、その中には神の力がいつでも感じられる。使徒パウロがこの二つの型の教役者について述べたとき、その成果について「私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。」(1コリント2・4〜5)と語っている。人が知恵と力とを持てば持つほど安定性を失うものである。それに引き換え、神の御霊に従えば従うほど神の力への信頼が確立されていくのである。

 果実を見るとその木の性質がわかるものである。朽ちない実を結ぶ秘密は何であろうか。もしも私たちのいのちがキリストにつながっているならば、私たちの結ぶ実は朽ちないでいつまでも残るに違いない。私たち人間の意志と努力とに関係のあるすべてが、天の農夫の手によって切り取られれば切り取られるほど、また神が聖霊によって私たちの中でみわざを行なわれるために、私たちが自らの存在を外に現わさないようにすればするほど、私たちはさらに全面的にキリストにつながり、私たちの結ぶ実はいつまでも朽ちることがないであろう。

 キリストが私たちを選ばれたのである。私たちに実を結ぶようにお命じになったのである。そして私たちの実が朽ちないようにと望んでおられるのだ。キリストが恵みによって私たちを選ばれた目的を深く理解すればするほど、永遠からの目的と永遠への成果とのつながりを私たちはさらによく悟ることができる。その目的は主のものである。主が成し遂げられる。成果は主のものである。主がそれをもたらされる。

 キリストの福音のために働いている人は、まず何よりも静かに自らの周囲に永遠の足跡を残しているかどうかを点検してみようではないか。あなたの説教や証し、あなたの意志の力や影響力がこれを成し遂げるのではない。すべてはあなたの生活と神と神の力によって満たされているかどうかにかかっているのである。そしてまた、あなたがほんとうに枝にふさわしい生活、すなわちキリストとの破れることのない交わりをしているかどうかにかかっているのだ。

 聖なる主よ。あなたが、実を結ばせるために私たちをお選びになったことを、どうか私たちにお示しください。あなたの目的が実現されることを確信させてください。あなたが私たちをお選びになりました。これを私たちの力とし、あなたのためにすべてを捨て、私たちをあなたのものとさせてください。あなたのお始めになったことは、あなたはご自身で完成なさいます。私たちを愛と永遠の目的の確かさの中に住まわせ、それによって永遠の力が私たちを支配し、私たちのならせる実がいつまでも残るようにしてください。

祈り
「 『あなたがたが実を結ぶように』とあなたは言われました。天のぶどうの木よ。私の心に、実、しかももっと多くの実、豊かな、朽ちない実が、あなたが私にお与えにならなければならないただ一つのものであり、枝として私があなたに差し上げなければならないただ一つのものであることがようやくわかり始めました。聖なる主よ。私はここにおります。私の中であなたの目的を成し遂げてください。あなたの栄光のため、多くの実を、いつまでも朽ちない実を私に結ばせてください。アーメン」。

(『まことのぶどうの木』アンドリュー・マーレー著安部赳夫訳136〜140頁より引用。)

2016年1月5日火曜日

主が選ばれる

年賀状1
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり・・・(ヨハネ15・16)

 枝は自らぶどうの木を選ぶことはしない。ぶどうの木が枝を選ぶのである。それでキリストは、「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選んだのです」と言われたのである。

 しかし自然の世界と心の世界との間には相違があり、人は自由の意志と選択力とを持ち、キリストを信じ、キリストを主と仰ぐことによって、はじめて枝になるのではなかろうかと言う人があるに違いない。この考えは決してまちがってはいないが、しかしそれは真実のある半面に過ぎない。

 ぶどうの木の戒めと主の教えは、キリストを信じる私たちのより深い他の半面を指し示している。もし主が私たちを選ばれなかったら、私たちはけっして主を選ぶことはない。私たちの選択は主の選択の結果で、主は私たちを支配しておられるのだ。ものの道理から言って、枝を造り選ぶのはぶどうの木の特権である。私たちの存在のすべては「恵みの選び」(ローマ11・5)のおかげである。

 もし私たちが枝のいのちのただ一つの源であり力であるぶどうの木としてのキリストを絶対的に信頼している枝としての私たち自身を知ろうと思ったら、「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選んだのです」という、この祝福された真理をよく味わうことが必要である。

 それではキリストはどのような考えでこのように言われたのであろうか。どんな目的のためにキリストがお選びになったかが枝によくわかってほしいものだ。主の選びを信じる枝は、枝の天命を達成する確信を見いだしてほしいものだ。

 ところで聖書の至るところに、この主の選びの教えの大きな目的が記されている。「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。」(ローマ8・29)これを「ぶどうの木の姿に似た枝にあらかじめ定められた」と言い直してみてもいい。また「父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たち」(1ペテロ1・2)などがその例である。

 一部の人々は「選び」の教義を濫用し、また一部の人々は濫用することを恐れるあまりに拒否してしまった。なぜならば彼らはこの教えの真意を看過したからである。彼らはこの教えを測り知れない奥義とのみ思い過ごし、この教えが啓示する目的や、クリスチャンの生涯にもたらされる祝福を受け入れることができなかったからである。

 主の選びの恵みがどんなに大きいものであるかを考えてみようではないか。ここでキリストは、私たちをその枝として選ぶ二重の目的を明らかにしておられる。その一つは私たちが地上の実を結ぶためであり、もう一つは私たちの父への祈りに力を与えるためである。キリストがこの目的のために選ばれたことを考えると、私たちは大きな確信を持つことができるのだ。

 それはこの目的を実行するために、キリストは私たちにきっと力をお与えになるからである。朽ちない実を結び、聞き入れられる祈りを祈ることは何という大きな確信を私たちに与えることであろうか。深くへりくだって主をほめたたえ、その恵みが必ず与えられることを信じて待てという主のみ声が今も聞こえて来るではないか。主は私たちがその任に耐えないとか、あるいは私たちをその任に耐えるようにすることがおできにならない場合は、私たちを選ぶことをなさらない。主の選びは、主が私たちの中にあって一切をなしてくださるというご自身自らの誓約のもとでなされたのだ。

 「あなたがたがわたしを選んだのではありません。」と聖なるぶどうの木が私たちひとりひとりに語られるのを魂の静寂の中で聞き取ろうではないか。そして大胆に、「主よ、あなたの言われるとおりです。しかし私があなたを選んだのです。アーメン」とあえて申しあげようではないか。

祈り
「主よ。『わたしがあなたがたを選んだのです』と言われたみことばの意味を私にお教えください。あなたは私の上にあなたのみこころを注がれ、私に朽ちない実を結ばせ、かなえられる祈りを祈るために私をお選びになりました。あなたのこの永遠の目的の中に私の魂は安らぎ、そして申し上げます。主よ、私をお選びになったとおりに、私はきっといたします。また必ずすることができます。アーメン」。

(『まことのぶどうの木』アンドリュー・マーレー著安部赳夫訳131〜135頁より引用。)