2014年8月28日木曜日

『ディア・グロリア』の描く世界の一考察

ベッケー(?)というドイツの花
縁あって、『ディア・グロリア(戦争で投函されなかった250通の手紙)』という木村太郎氏の著作を今夏読むことができた。尊敬する知人が、私がこのブログでも度々紹介している小林儀八郎さんの戦時中の手紙をまとめていることを知って、参考にしてみればと言って、貸してくださった。出版後すでに三年は経っている本で、いささか時期遅れに読むことになってしまって面映いのであるが、読了、様々なことを教えられ、今日に至っている。今日はそのことを少し書いてみたい。

本の中味は太郎氏の姉君にあたる利根子さんが、英文で記したアメリカの友への手紙を主軸に、利根子さんの生涯を跡づけた構成になっている。日本人である利根子さんがなぜ英語で自己を語らざるを得なかったのかその事情や、ほとんど昭和時代そのものと重なる利根子さんの生き様は、昭和日本が甘受せざるを得なかった戦争に、個人がどのように立ち向かって行ったかの貴重な記録の様相を呈している。

そして、平成の御代に長寿国日本が経験する高齢化社会をそのまま反映するかのように突然の利根子さんの脳梗塞でその友人への手紙の仮想スタイルを取った自己吟味の記録は誰にも知られず、そのまま葬り去られる性質のものであった。しかし幸い、近親者である太郎氏によりその記録が見つけられた。高名なジャーナリストである同氏の手により、英文の手紙はものの見事に復刻された。しかも日本語で。

利根子さんは、父君の勤務の関係で1934年(昭和9年)、六歳かそこらで渡米することになる。それから1941年(昭和16年)の太平洋戦争の直前、日米関係の悪化を懸念する空気の中で、第二の母国アメリカを引き揚げざるを得なくなる。まったく学制の異なる帰国後の日本での学生生活、そこにはまた様々な難題が待ち構えていたはずである。思春期にある彼女にとってそれは大きな苦しみ悩みであったに違いない。しかしそんな個人の思惑も何のその、彼女はそれから、その英語力を買われて戦時中はラジオ放送をとおして敵国アメリカへの宣伝放送に動員され、敗戦後は敗戦後で今度はB・C級戦犯の通訳として用いられることになる。

利根子さんはアメリカで育ったゆえに英語を使わざるを得なかった。最初は大変な苦労であったが、7年余りの滞米期間は彼女にとって、自己を表現する方法はもはや日本語よりも英語の方がふさわしいというほどまでにすっかりその英語は定着していた。ところが、事もあろうにそのアメリカと日本が戦うことになったのである。これほど身を裂かざるを得ない苦悩はなかったのでないか。

私が一人の勝手気侭なる読者として一番考えさせられたのは、東京大空襲に会い、利根子さんが高熱に悩まされ、やっと回復する中で記している1945年の3月のディア グロリア宛の手紙の文面であった。彼女はそこで天国について、また神さまについて大いに語るのである。しかし、そこには彼女が滞米生活で一片の福音にも触れていなかったとしか言いようがない、何とも言えない不可思議さと同時に、私にとっては悲しみとしか言えない記事があった。

ある意味で、この有能な利根子さんが東京大空襲という自己の生存を二重に脅かしたであろう、その断末魔のできごとの中で一生懸命に思索しておられるのに、この結論は何なのかと思わされ、ショックを受けたのだ。でもその後何度もその文章を読むうちに、違う感想を持つように変えられて来た。その文面を紹介しよう。

私は日本人だけど、ただの紙切れが家を火事から護ってくれるなんて信じられないわ。でも人間がだんだん賢くなってそういうことが信じられなくなったとき、今度は見えないものを神様にしたのね。なにしろ目に見えないのだから、神様の力は想像するしかないのよ。神様が水の上を歩いたり、世界中に洪水をおこしたりなんて想像するの。それが神様なのね。(中略)私が神様をほんとうに信じたら、私はとんでもない臆病者だと思うわ。何かに、しかも目に見えない何かに頼るなんて! ピアってとても現実的な女の子が、こう言ったことがあるの。「神様って、あなたの心のことよ」。そのことをずーっと考えていたの。彼女が言ったのは、人の中で何が正しいか、間違っているか判断するものよね。言い換えると良心ね。それは神様かもしれない。そんな神様なら他にもたくさんあるわ。だからその中から私たちの道徳にとっていちばん大事なものを神様と呼ぶこともあるわ。でもそんなのは多くはないわ。ほとんどはいんちきで吐き気のするような目に見えない神様なのよ! ほんものはもっと力があるわ。そのうちに私の神様について書くわね。(同書159〜160頁より引用)

私は目に見えない神様を信じている。水の上を歩かれたイエス様を信じている。そういう論法で行くと私と利根子さんとは全く違うとしか言わざるを得ない。しかし利根子さんが「ほんものはもっと力があるわ。」と語っていることである。にせものでないほんものの神様に利根子さんは出会いたがっていることがよくわかった。違う感想を持つようになったと言ったのはそのことである。「そのうちに私の神様について書くわね。」とは何たる彼女の心の希求であろうか。

二千年前、パウロは次のように語った。

私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。どうか、私たちの父なる神に御栄えがとこしえにありますように。アーメン。(ピリピ4・19〜20)

神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。(2コリント2・14〜16)

ああ、願わくは我をして、主よ、未だあなたを知ることなく切に主を求める人々に適切に福音を語り伝えさしめよ 。

2014年8月26日火曜日

創造のはじめ

つばめさんご夫婦は 高いところで なんの ご相談でしょうね 東御市 8/12
今日、久しぶりに学び会に出席し、そのあと四人ばかりで親しい交わりを持たせていただいたが、その時、父がイエス様を信じてはいるんですが、根が科学畑なので一々理屈を言われて困るんですよと言って一つの質問が出された。それはアダムの誕生の年代と、科学的考察に基づく地球上の歴史のちがいをどう説明したらいいんでしょうかという問いであった。すぐその場で答えられなかったが、一冊の本の記述を思い出した。以下に転記しながら考えてみた。

(しかしまた)サタンの堕罪は彼の支配した領域の崩壊とも関係があったに相違ない。霊と自然との有機的な結びつき、それから後に規模はより小さいがそれに似ている「人間の堕罪」が、それを証明する(そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
創世記3・8)。世界と地との破局はこの宇宙的な革命に対抗する神の正義の反撃の働きとして起こった。そして造られた物は虚無に服せしめられてしまった(それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。ロマ書8・20、21)。

詳細なことは一切、われわれの認識から隠されている。ただ人類が現われる以前、考えも及ばないほど永い期間、地上において植物界及び動物界に死と絶滅とが荒れ狂っていたことだけは、たしかである。このことは地質学的な地層と歴史以前の動物界の発達段階とが、極めて明確に立証している。われわれの足の下に横たわっている地層は、まさに「石の畑にとり囲まれている巨大な墓地」にほかならない。全く、歴史以前の時代の多くの猛獣は、実に貪欲で狂暴な破壊力を有する怖るべき怪物であった(1)。

1 チュービンゲン大学の古生物学者フライヘル・フォン・ヒューネもアダム以前の創造世界における死を、神から委命された「この世の君」であるサタンの堕罪と結びつけている。
 
旧約聖書の証言も、よくこれに相応している。なぜなら、旧約聖書に記録されている人間に委託されたことは、楽園を耕すばかりでなく管理することであり、さらに人間が神に逆らう敵対勢力の誘惑に試みられたという事実は、悪は最初に人間のなかに生じたのではなくて、人間以前にほかの被造物のなかに存在していたのであり、従って人間の現われる以前、人が堕罪する以前、人の堕罪と関連して地が詛われた以前、すでに創造のなかに破れ目と不調和とがあったのであることを、すでに旧約聖書において示している。


この点に関して次のような推測を発表している神によって啓発された人々が古代にも近世にもいる。それは、創世記第一章の六日間の御業はもともと再建の事業であって、最初の地球創造ではなかったのであり、人間は元来、主のしもべとし、また造られた物の支配者として、サタンと道徳的に対立しつつ、外形的に再建された地を、この地上に自己の種族をひろめて地を支配することによって、神の御手に取り戻すべき使命をもっていたのである、という推測である。

それで、例えば、ベッテックス教授は、人間はもともと「神の副王として全地をだんだん奪還する」べきであった、と言っている。またヒューネ教授も回復説を支持しているが、「全被造物を神に取り戻すという大事業の手始めは人間であったのである。人間において物質と霊、神の霊とが出逢う。神の子であり、人であるイエス・キリストはサタンとの決戦に勝ちたもうた。そしてこの勝利の結果はあらゆる方面に影響せざるを得ない。それゆえに、十字架が宇宙歴史の中心に立つのである」と言っている。

『世界の救いの黎明』エーリヒ・ザウアー著長谷川真訳1955年聖書図書刊行会発行同書50頁より引用。)
 

総頁336頁のほんの一部分の引用ではあるが、冒頭の疑問に答える一つの資料ではないかと考える。

「理屈でなく幼子のように…と、わかっているようですが、自分の思いから解放されない自我によって自分を苦しめています」とその方の便りにもあったが、主がどんなに永遠な方か、人間にはわからない。質問は「時間」・歴史の問題であったが、ザウアーは「空間」の問題で宇宙がどんなに限りないものか、天文学的数字を示しながら「創造の偉大さ」(同書33頁)を述べ、それにもかかわらず極めて微小な私たち人間を愛される神の愛に私たちの注意を向けさせている。

主は天にその王座を堅く立て、その王国はすべてを統べ治める。(詩篇103・19)

そしてコペルニクスの1618年のことばを引用している(同書44頁)
「われわれの主は大、その力は大なり、
その智慧には限りなし。
日と月と星と、主を讃えよ、
讃えの歌がいかなる言葉にて響かんとも。
天の諧調よ、主を讃えよ、
御身ら、主の啓示せる真理の証人また容認者も、
また汝、わがたましいよ、汝も、生くる日の限り主の栄誉を歌えよ!
                  アーメン。」

なお、この本の訳者こそかつて紹介した方(http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2014/03/blog-post_5779.html)の戦後の姿であることを知る不思議さよ。