2023年2月28日火曜日

桜の花びらを食む小鳥たち

鳥どりに 花びら与う 桜の木  
 「気温は上昇する」とは、天気予報士が揃って宣った今日だった。いつもより軽装で、セーターを脱いで、古利根川の河川敷を上流に向かって歩いた。突然目の前に現れたのが、この桜の木だった。川縁は静かで閑静であった。一人の方がベンチに座っておられた。特にこの桜を愛でる風でもなかった。

 近づくと小鳥たちが白い花びらをあっちこっちで食べている。大きい鳥もやってくる。そんな鳥が花びらを食べている様をとらえられないかと思ったが無理だった。この写真の中に彼らが写っていないかなと期待したがやはりダメだった。

 川面を見ながら歩いた途中の川中には、たくさんの鴨やカイツブリがいた。それぞれ思い思いに、水中にもぐったり、羽根を羽ばたかせたりして、彼らが呼びかけ合う鳴き声にあわせ、近づく春の生命の躍動を感じ、こちらの心も心なしか弾む。

 今日も火曜日で、午前11時から12時近くまで、ベックさんのメッセージを聞いた(※)。今日は眠らなかった。一々うなずくことばかりで、まるでベックさんが今も生きておられるような思いがした。引用箇所は黙示録10章8節から11節で、『近づいている神のご計画の成就』がその主題名であった。

 お聞きしていて「預言」の重みを感じた。預言とは、神のことばを預かって、それを人々に宣べ伝える働きである。そこには自分の考えが入る余地はない。入ってはいけない。なぜなら、神のことばには権威があるからである。

 天気予報士の言は、私が軽装で散歩に出かけようと決心したように、多くの人の今日の行動を左右したに違いない。「預言」にはそれとは次元が異なるかもしれないが、預言には人を元気にさせる力がある。預言を聞かされて、そのとおりに行動するときに「喜び」が与えられる。桜の木は鳥どりに花びらを与えていた。私たちも桜の木ならぬ神のことばを味わいたいものだ。

※ベックさんのメッセージを知りたい方は私の下記のブログにアクセスしてみてください。過去につくったものですが、ほんの少しですが大要を把握していただけると思います。
https://2chronicles16-9.blogspot.com/

私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。(旧約聖書 エレミヤ書15章16節)

2023年2月27日月曜日

さあ、立って、出ておいで

山茱萸(さんしゅゆ) 蒼空仰ぐ 古木なり 
 東南の角地の我が家の中でも、もっともいい場所に植っている山茱萸。如月の到来とともに必ず花を咲かせてくれる。しかし、近年、その花の咲き具合が目立って少なくなって来ているように思う。そんな山茱萸を眺めていると老斬(ろうざん)の我が身をひたすら思わざるを得ない。

 それにしても関東の冬の空はどうしてこうも青いのだろう。どんよりとした冬空のもとで育った私たちは事あるごとにそう言っては互いに喜び合っている。光が満ちている世界は文句なしに私たちの心を豊かにしてくれる。山茱萸も老いたりとは言えどもそうして黄色い花を懸命に咲かせてくれているのだろうか。

ほら、冬は過ぎ去り、大雨も通り過ぎて行った。地には花が咲き乱れ、歌の季節がやって来た。山鳩の声が、私たちの国に聞こえる。いちじくの木は実をならせ、ぶどうの木は、花をつけてかおりを放つ。わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。(旧約聖書 雅歌2章11節〜13節)

2023年2月26日日曜日

私は主の囚人

利根川を 線路で渡る 雄大さ
 久方ぶりに伊勢崎まで出かけた。写真は帰りの車中から撮影したものだが、利根川の上流面にあたる。行きは、その反対側の下流方面を見ながらの乗車であったが、広大な利根川が関東平野を悠々と流れ、その遠くには富士山がくっきりと見えた。

 私をふくめて14名の礼拝者であった。そのうちの2名の方は初めて来られたご夫婦であった。皆さんに暖かく迎えられた。あとでお聞きすると、ご主人は来られるつもりはなく別の予定だったが、朝、捻挫したため奥様について来られたということだった。それだけでなく、あと二つばかりの不思議なことがあった。

 福音集会でお話したことは、はたしてふさわしかったのかと帰る電車の中でも気になったが、利根川を通過する頃にはすっかり話の気まずさからも解放されていた。家に帰って録音したものを聴くと話の進め方は稚拙であっても、ここにも主のお導きがあったのかと強く思わされた。鍵としたみことばを記念に書いておく。題名は「(主の)囚人」であった。

ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。(新約聖書 2コリント5章15節)

私はどんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。(新約聖書 ピリピ4章11節)

2023年2月25日土曜日

受肉者耶蘇(9)少年イエスの挿話

6 過越の祝いにおける少年イエス

 イエスはラビの大学には入学されなかったが、ただ一回たいせつな時期に、エルサレムの『ミドラシュの家』で、ラビたちの足下に座られたことがありました。ユダヤにおいては少年が十二歳に達すれば『律法の子』と認められ、イスラエル人としての特権と責任とをことごとく与えられ、過越の祝いにも列席することができたのです。

 毎年アビブまたはニサンとも言う、すなわち四月に相当する月に、エジプトの奴隷の境遇よりイスラエルが救い出された記念に行われる祝いがありました。それに列席のため、エルサレムを目指して南へ旅する巡礼の一団に加わって、イエスがヨセフおよびマリヤと共に出発されたのは、その前年の夏をもって十二歳に達されたはずの紀元八年であったことでしょう。

 初めて祝いの列に加わることが許されたその齢の少年の歓喜や、彼らがついに一歩昔ながらの神の都城に踏み込んで、目の当たりに荘厳な神殿を仰いだときの驚嘆の情を写したものが詩篇第百二十二篇(※)であります。この思い出多き季節に際会された少年イエスの感慨もまたこのようなものであったことでしょう。ヨセフやマリヤによって幾たびとなく神の都やシオンの山の物語を聞かされつつ、長い年月、自らこれに接する機会を待ち焦がれておられたことでしょう。ところが今その願いが達せられたのであります。

※人々が私に、
 「さあ、主の家に行こう。」と言ったとき、
 私は喜んだ。
 エルサレムよ。
 私たちの足は、おまえの門のうちに立っている。
 エルサレム、それは、
 よくまとめられた町として建てられている。
 そこに、多くの部族、主の部族が、上って来る。
 イスラエルのあかしとして、
 主の御名に感謝するために。
 そこには、さばきの座、
 ダビデの家の王座があったからだ。

 エルサレムの平和のために祈れ。
 「おまえを愛する人々が栄えるように。
  おまえの城壁のうちには、平和があるように。
  おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。」
 私の兄弟、私の友人のために、さあ、私は言おう。
 「おまえのうちに平和があるように。」
 私たちの神、主の家のために、
 私はおまえの繁栄を求めよう。

7 エルサレムへ残留

 聖き少年にとって、この厳粛な一週間はさながら不思議な夢を見られる心地でありました。印象鮮やかな実物にその目をもてなされ、また耳に聞かれる所をもってその渇きを癒されました。祝い果ててガリラヤの一団も故郷をあとに出発し、ヨセフ、マリヤもまたイエスを取り残したとも気づかず一同と共に旅路に上りました。

 人に埋まる都の雑踏の間にはこのような災難は起こり易いはずです。ことに男子は男子、婦人は婦人と別々の団体を作って旅をする場合には、小児は両親いずれかの列に加わっておられるものと思い合っていました。一日の行程を終わって一隊が泊まりにつこうと言うときになって彼らは初めて気がつきました。

「ラビの足下にて発見」

 中途に取り残したものと心得た彼らは、尋ね尋ねてもと来た道へと引き返したけれども、エルサレムに来ても、イエスの姿を見つけられませんでした。三日の後にようやく『ミドラシュの家』で、ラビの足下に座りつつ、彼らの説に耳を傾けては、また質問を試みて、単純にしてこの世ならざる知識に彼らを驚駭感嘆せしめておられる所に尋ね当てたのです。

 その聡明な理解力と応答とに驚きながら、厳粛謹直な教師らは、この不思議な少年は何者なるかを自ら悟り得たにちがいありません。イウセミアスは『ゆえに願わくは我らも、我らの間に救い主の在(いま)すを認め、その教える所に心を用いながら、心から主を畏れる者となれますように』と言っています。

「神との関係ならびにメシヤとしての職分の発見」

 イエスの両親は驚いた。マリヤは失った宝を発見した喜びに、威儀堂々たる場所柄をも打ち忘れつつ、柔らかな調子で『まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを探し回っていたのです』と叱りました。イエスは今、さながら心も遠く漂うように、思いに沈みつつ『どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか』(新約聖書 ルカの福音書2章29節)とお答えになりました。このことばこそ、恵み深い私たちの主のみことばの記録に残る第一のものであります。

 ヨセフとマリヤがこれに当惑したのももっともであります。これぞ後の生涯の主調であるものであります。爾来イエスは地上において何人をもその父と仰せられず、また何人をも親戚と思し召しされず、人の子の間にあって唯一つの事業、すなわち彼らを贖い出すべき大事業をのみ有することを意識せられ、寤寐(ごび)の間にも止むときなく、衰えられることなく、退転することなく、このことを思い続けられました。

8 ナザレへ帰郷

 しかしイエスは静かにナザレに帰り、再び単純にして律儀な生涯を営まれたのであります。この後十八カ年、自ら何者にして何のため世に来れるかを鮮やかに意識しつつもなお、この驚くべき秘密を胸に秘めて、時期の到来するまでは、ことばの端にも所作にもあらわさず、槌と鋸とに労働を継続せられたのであります。しかもその年月は無益に失われたのではありません。神の摂理の下にあって、事業を完成されるのに必要な準備の時期となりました。

 このようにして自己の降誕を預言し、またその贖いを予め現わす己についての聖書の記事に思いを潜め、また遠くその慧眼を馳せ、温かい心をそそいではやがて救おうとされる世界を間断なく注意されたのであります。ナザレの魯鈍の人の目にはイエスは一個の同郷人に過ぎませんでした。しかしイエスにとって彼らは、その父の家を迷い出た子供でありました。ゆえにその間に伍される間に、彼らを熱心に研究し、その思想に分け入って、その誘惑に心を潜め、その悲しみをともにしつつ、時至って彼らの心を洞察し、その必要に敏く応ずる救い主として、彼らに教えるに足るべき用意を整えられたのであります。

2023年2月24日金曜日

受肉者耶蘇(8)イエスの家庭とその教育

 3 イエスの家庭、その兄弟姉妹

 以上は私たちの救い主が、その少年時代より成人に達せられるまで聖き生活を営まれた四囲の光景であります。その家庭には他にも子供があって、イエスはすなわちマリヤの長子で、彼女はヨセフによって後にヤコブ、ヨセフ、ユダおよびシモン(新約聖書 ルカの福音書2章7節、マタイの福音書13章55〜56節、マルコの福音書6章3節)の四人の男児とほかに数名の女児をも産みました。復活の後に至って彼らは初めてイエスの聖跡(みあと)を踏むに至ったけれども、その伝道の当初には主の兄弟たちはその宣言を否定したのみならず、これを冷笑するのでありました。(新約聖書 ヨハネの福音書7章3〜5節)一度はイエスを狂者と公言して、これを捕えてナザレの家庭へ拉致しようとさえ計りました(新約聖書 マルコの福音書3章21節31節)。

 『預言者は自分の故郷では尊ばれない』とのことばを度々イエスが引用せられるそのままの事情でありました。後年のイエスの生涯はことごとに志と相反する境地に立たれたが、その少年時代は福音書記者のわずかに残した記事によっても美わしい楽しい時期を過ごされたものと察せられます。聖ルカは『幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちて行った。神の恵みがその上にあった』(新約聖書 ルカの福音書2章40節)と言っています。ヨセフは貧しい大工で、毎日の生計によって乏しい暮しを営んだに過ぎませんでした。したがって栄光の主が、その驚くべき少年時代を過ごされた家庭にはぜいたくの如きは夢にも思い設けられないところでありました。しかし世の物質は如何に貧しくとも、天の宝にははなはだ豊かであられました。過越の祝いには婦人は自由に故郷に止まることもできたにかかわらず、マリヤは毎年その夫に伴われエルサレムに上った(新約聖書 ルカの福音書2章41節)ことに照らしてもその敬虔の念が深かったのが窺われます。

「その父」

 ヨセフは篤実な人物で、その『父』と傅(かしず)かれるにふさわしく、心を傾けてこの聖き幼児を育みました(新約聖書 ルカの福音書2章33節41節43節48節)。マルティン・ルターは生涯アイスレーベンの家庭で受けた少年時代の過酷なしつけを忘れることができないで『父』という語は、やがて自分を撲(なぐ)るものと言う連想を浮かべるに至り『バテル・ノステル』(われらの父よ)と繰り返すごとに不意に身震いが出て如何にしても止まらなかったと言います。
 主がこの温厚なヨセフを追懐されるにあたってはそのようなものではありませんでした。つまり天父に関する主の中心思想は、その少年時代に、必要と思し召されたものを供え、善きものを拒まなかった家庭の父の愛に負われるところありと言っても敢えて不敬虔ではないでしょう。(新約聖書 マタイの福音書6章8節、7章11節)。牧羊詩人は自ら羊を取り扱うように、神が己を取り扱い、自らの牧者たらんようにと熱望した(旧約聖書 詩篇23篇1節)ように、イエスもまた人間世界の経験を広く見渡された後、これをあらわさんがため、自らこの世に降られた神の愛を表現するもの、すなわち、その感恩の思召(おぼしめし)やみ難い少年時代に被(こうむ)られた慈愛の記憶より、剴切(がいせつ)なるものはないことを発見されたのであります。

「その母」

 その母マリヤもまた神より授けられたこの幼児に対する己が職分を等閑(なおざり)にしませんでした。ヤイロの娘をよみがえらされたとき、タリタ『我が小羊よ』(新約聖書 マルコ5章41節)と言う母の愛情籠る語を発せられたのは、その母から学ばれたところでありましょう。

4 その教育

 典外聖書には、主の学校時代や、その教師並びに同窓生に対する態度がおびただしく記されています。しかし四福音書にはそれを一つも載せていません。彼らはただ偶然イエスの読書や筆記をよくせられたことを伝えています(新約聖書 ルカの福音書4章16節、ヨハネの福音書8章8節)。したがって無教育のまま成長されたとは到底信じられないのであります。

 ヨセフスは『我が国は土地豊穣なり、国民は極力耕作に努む。しかれども我が国最大の努力はその小児の教育にあり』と言っています。ラビ・サロモの語によると、父がその子の教育を等閑にするのは、これを葬ることと同じだと言うのであります。実に少年時代は青雲に志す黄金時代と認められました。ラビ・エリシャ・ベン・アブヤは『少年時代に志を立てて学ぶは、白紙に文字を記すが如し、されども老年志を立てて学ぶは反古に文字を記すが如し』と言い、聖者ラビ・ユダは『世界は学校児童の息によりて存在す』と言いました。

5 家庭教育

 ユダヤにおける少年の教育はその家庭において先ず授けられ、その両親は教師となりました。聖パウロは、テモテの信仰が祖母ロイスおよび母ユニケより承けたもので、幼少のころより聖書を学んだと言っています(新約聖書 第二テモテへの手紙1章5節、3章15節)。

 ヨセフやマリヤがその小児を教育する熱心の、他の両親に譲るべき筈はありません。イエスまた聡明な児童であって、『知恵は齢』とともに『ますます増し加え』られました(新約聖書 ルカの福音書2章52節)。当時聖書の写本は甚だ高価であったが、紀元前168年既にアンテオカスの密使はユダの諸都市で多くの家からこれを発見しました。ヨセフは貧しくともなお律法の写本は持っていたに違いありません。かつ彼は『私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。』(旧約聖書 申命記6章6〜7節)との戒めに心を留めないはずはありませんでしたでしょう。 

5 聖書の家

 6、7歳に及ぶや、ユダヤの小児は初等の学校に送られました。ここは律法の署をその教科書とするゆえをもって『聖書の家』と称せられ、いずれも会堂に付属のものでありました。会堂は村ごとに建設されたので、学校もまた村ごとに設けられたわけであります。さらに進んで研究するものは学者の大学校すなわち『ミドラシュの家』と称して、有名なラビたちの教授がいる学校へ移されるのであります。

「ミドラシュの家」

 『ミドラシュの家』はヤブネに一校あり、『葡萄の園』という所で、ラビ・エリアザルおよびラビ・イシュマエルがその教鞭をとっていたけれども、最高学府はやはりエルサレムにありました(新約聖書 ルカの福音書2章46節参照)。場所は神殿の苑内、恐らく神殿内の会堂のうちにあったものでしょう。中心となった科目は口頭に伝える所を弟子に授けたが、時にはまた問題を提供して教師から弟子の答えを確かめ、あるいは弟子の 質問に対して説明を与えるため質疑をも許しました。教師はやや高い上座に着いて、生徒はいわゆる『賢人の足の塵を浴びつつ』床の上に円座を作りました。聖パウロが『ガマリエルの足下にて育てられ』(新約聖書 使徒の働き22章3節文語訳)と言うのはそれであります。
 イエスはラビになられるつもりはなかったので、このような学校には入学されませんでした(新約聖書 ヨハネの福音書7章15節)。

「手内職」

 ユダヤの父はその子に正直な職業を必ず教えよ、これを怠るはその子に盗みを教えるなりとの責任を負っていました(新約聖書 使徒の働き18章3節)。イスラエルの賢者の一人は『労働を厭うなかれ』と戒め、ラビすらなお必ず手工の職を知っていました。タルソのサウロはラビとなる目的で、エルサレムの大学に入学したが、それでもなお天幕製造の職を習っていました(新約聖書 使徒の働き18章2節)。それが後年使徒として活動する時代、彼に思いがけない助けを与える準備となりました。一般のユダヤの少年と等しくイエスもまた労働を学ばれたが、その職は当然ヨセフの業を継いで、後年天国の比喩として用い給うた棃(すき)や軛(くびき)をナザレの村民のために製造せられたのであります(新約聖書 マルコの福音書6章2〜3節)。

2023年2月23日木曜日

受肉者耶蘇(7)イエスの郷里

第二章 密かに忍ばれる30年

「恥ずべき十字架の慕わしきかな
  ここに主は罪人との誹謗を受け給えり、
 また第三日の来るまで臥し給いし
  その墓場の慕わしきかな。
 されど主自ら同じ苦痛を忍び、
  また同じ険しき道を歩み、
 ナザレの村の大工として、
  神のための賤しき業を努め給いぬ。」
                             Walter C. Smith

1 ガリラヤ 

「その美観」

 その昔、ナフタリ、アセル、ゼブルン、イッサカルの領地であるこのガリラヤは、イスラエル国中もっとも美しい地方でありました。泉、小川に恵まれ、丘は緑滴るばかり、谷は豊穣な国土でありました。『雅歌』の作者の故国であって、彼の秀麗な叙事詩に慕わしいこの地方の麗しい光景、駘蕩(たいとう)にして心も溶かされるばかりの様が迫ってきます。花爛漫たる葡萄の園、薔薇や百合の香り漂う谷間、枝もたわわに実る林檎の大樹、柘榴の畑、牧場に草を食み、また真昼には木陰に憩う羊の群れ、牧羊者の天幕のそばで戯れる小羊、岩間に巣を営む鴿(はと)、葡萄畑を荒らす小狐、山を跳ね回る子鹿、どれひとつとして美わしからぬものはありません。晨(あさ)の涼しい風は吸うべく、春の息は胸に満たすべく、甘松香、没薬、乳香、曼荼羅華(まんだらげ)のゆかしい薫り、風に誘われるレバノン山からの芳ばしい香りは馥郁(ふくいく)と鼻を掠(かす)めます。または葡萄園丁の鄙歌(ひなうた)や、蜂の羽ばたき、羊や山羊の啼く音、山鳩の忍びなく声、小川のせせらぎ、草葉を潜る囁きは、耳に心地よく聞かれるのでありました。

「その肥沃さ」

 国家衰亡廃頽の悲運に会っても、主がここに日を送られる頃には、ガリラヤはなおその魅力に満ちる面影を止めておりました。ラビ・ヨナの記す所によれば、当時なお、聖地は『乳と蜜の流れる地』と賛辞を与えられるほど美わしく快い豊穣な土地でありました。

「人口の稠密」

 また豊穣な土地にふさわしく、たくさんの人々を有しておりました。ラビ・エリアザルは言います。『イスラエルの国において一人の小児を養うよりは、ガリラヤにおいてオリーヴ樹の一叢(ひとむら)を育てるはさらに容易なり』と。ユダヤ歴史家ヨセフスはまた言います。『この地方は肥沃、豊穣にして、あらゆる果樹に適せり。而して収穫夥(おびただ)しきがため如何に耕作を怠る者もこれに励まされざるを得ず。したがって住民の開墾好く行き届き、荒蕪(こうぶ)の地を見ず。随所に都会あり、豊穣なるが故にいずれの村落も人口稠密にして、最も小さき村もなお人口一万五千を下らず』と。これによって計算すれば当時ガリラヤにおける町村は二百四個所であったので、人口正に三百万を越えたこととなります。しかし数百平方マイルに過ぎない地方にこの夥しい人口を支え得たとはいささか信じ難いが、たとえ如何に内輪に見積もっても、なお多数の人口であったにちがいありません。ユダヤ戦争の間にヨセフ自ら一万の壮丁をガリラヤから募集し得たと言っています。なお福音書を読むにあたって、イエスの赴かれる所、いずこにあってもしばらくの間にたちまち群衆が蝟集(いしゅう)し来るを注意せざるを得ません。(新約聖書 マルコの福音書1章45節、2章4節、3章8節、6章31節、ルカ12章1節)

「異邦人の分子」

 ガリラヤはヘブル語のガリル、すなわち『囲繞(いにょう)』と言う意味で、元来はガリル・ハツゴイム、すなわち『異邦人の囲繞』(旧約聖書 イザヤ書9章1節)と称せられたのであります。砂漠をもって四方を囲まれたユダヤ州と異なり、種々の異教国民と境を接していましたーーすなわちフェニキヤ、デカポリス、サマリヤなどがこれであります。(略)

「ユダヤ州民の軽侮」

 このようであったにもかかわらず、なおガリラヤ人は傲慢なユダヤ州民には軽侮せられました。ユダヤ州はユダヤ人正統の住所で、イスラエル民族の神聖な公共施設の住所であります。首都エルサレム、神殿、サンヒドリン、大学者の所在地であります。彼らはこれを誇りとして、鄙びたガリラヤ人を侮蔑しました。彼らの無知はさながらことわざのようにして嘲られ、祝いの季節に彼らがエルサレムに上るごとに、その所作、衣服、言語の調子など市民の物笑の種でありました。彼らは強い喉音で話をするために、口を開くや否や、その郷里は露われました(新約聖書 マタイの福音書26章73節、マルコの福音書14章70節)。その喉音のなまりから時には滑稽極まる間違いを生じました。ガリラヤの一婦人がある時隣の人に『お出でなさい。バターをご馳走致しましょう』と言ったが、『獅子に食われなさい』と聞こえたと言います。ユダヤ州民がガリラヤ人を嘲るにはいささか妬みの意味もありました。ユダヤ州は土地がやせているのに引き換えてガリラヤは肥えているのが、彼らの妬みの原因でありました。(中略)ユダヤ州民の侮辱はもちろん謂(いわ)れのないことでありました。彼らのことわざには『ガリラヤから預言者は起こらない』(新約聖書 ヨハネの福音書 7章52節)と言ったけれど、事実はイスラエルの偉大な預言者にしてガリラヤ人なるもの数名に及んでいます。その生まれはギルアデのティシュべの出であったけれどもエリヤの活動の舞台はガリラヤであってその後継者アベル・メホラのエリシャの舞台もまたここでありました。後年に及んで女預言者アンナは言うまでもなく、また聖パウロはキリキヤのタルソに生まれたけれども、聖ジェロームのことばによればその両親はギスカラにおったガリラヤ人で、ローマに捕虜となって後、許されたものだと言います。さらに一層歴史上忘れるべからざる一事は、一度はユダヤ州民に侮辱され、嘲笑されたガリラヤ人が『われらの主イエス・キリストの尊き肉と血とをもって祝福され、聖別され、ここに祝福豊かなる御足の跡を印さんがために、処女マリヤより肉と血とをもって生まれ給える』地上において最も神聖な地方と崇められるに至ったことであります。ガリラヤは救い主に家庭を奉り、ユダヤはこれに十字架を供えたのであります。

2 ナザレ

 ガリラヤ連山の間、断崖急にエスドラエロンの平原に落ちる所に、まるい窪地があります。その北西の坂に群がるナザレの部落こそ、この聖なる幼子が『ますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛され』(新約聖書 ルカの福音書2章52節)育たれた場所であります。ナザレの村民は、ガリラヤ内地の住民の間にすらも評判宜しからず、『ナザレから何の良いものが出るだろう』(新約聖書 ヨハネの福音書1章46節)とのことわざさえもありました。イエスがその伝道の中途にこの村を訪れて、会堂において説教されたときの彼らの行動によっても、その感情的な狂暴な性状が窺われます。しかし村民にこのような欠点あるにもかかわらず、ナザレは慕わしい土地であって、殉教者アントニナスがここを天の楽園に凝し、賛嘆おく能わざりし価値は十分であります。家屋は村を囲んだ山々から切りおろす純白の石灰石をもって建築しました。ユダヤ教聖典中、ささげものの酒に用いるべき葡萄の産地として『山上の白き町』と称するはこの外観から察してナザレの村を指すに違いありません。村は四方に聳え立つ山々に囲まれているけれども、一度その懸崖の頂に攀じ登れば、雄大なパノラマは眼前に開展するのであります。北にはレバノンの山脈および雲を戴くヘルモンの高峰烟波に霞み東にはヨルダンの渓谷並びにギルアデの諸山を展望すべく、南にはイスラエルの歴史に名ある古戦場エスドラエロンの平原、西にはカルメル山と地中海の閃くのとが、この一幅のパノラマに収められる光景であります。山の麓を『西の大道』すなわちダマス地中海沿岸諸港との間を往来する商船隊織るように辿るいわゆる『海への通路』廻り、南には商人の引きも切らず打ち続くエジプト街道と、祝いの近づく頃には巡礼の幾百団体が都へと喜び勇んで志すエルサレム街道が通じています。

2023年2月22日水曜日

救いを得させる神の力

白梅に 懐かしき人 想う春
 火曜日は原則として、ベックさんの『すぐに起こるはずのこと』という、ヨハネの黙示録の講解メッセージを聞くことにしている。11時から始まって大体一時間弱で終わるメッセージだが、初めから終わりまで目を見開いてしっかり聞いていることは極めて少ない。

 この日も御多分に洩れず、途中眠ってしまった。またそれが快い眠りになるからこれが応えられない。それならわざわざ聞かなくっても良いとも言えそうだ。でも来週になったらまた聞いているから不思議だ。もっとも聞き逃したところは、すでに本になっているから、目で確かめられる。

 私が聞いているのは、その本の母体となった講解を録音したもので、よくもこれだけのボリュームのある内容を、しかもドイツ人であるベックさんが日本語で語り得たものだとほとほと感心してしまう。

 そんないい加減な私でも今日の個所で印象深いみことばがあった。それは次のみことばであった。

私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって救いを得させる神の力です。(新約聖書 ローマ人への手紙1章16節)

のパウロの言ったみことばだ。「福音には、救いを得させる神の力がある」とベック兄が言われたことが印象に残った。

 今日の写真は私のかつての通勤友達Oさんのお庭にあった白梅を撮らせていただいたものだ。1973年から1976年まで私は自宅である団地の最寄駅のせんげん台駅から勤務先の足利市駅まで通っていた。そのころ、隣駅の春日部駅からではあるが、やはり足利市駅まで通っておられる方がいた。その方がO氏であった。O氏は足利の職工さんだった。ふたりは東京方面とは逆方向に向かう数少ない通勤仲間として、いつしかことばを交わすようになり、すっかり親しくなった。おまけに名前はお互いに「ひろし」だった。

 その後、不思議なことに、私の職場の最寄駅が草加駅になった時、今度はO氏も足利の仕事がだめになって、草加駅に通うようになった。またしても再び互いに通勤仲間となった。それから2年ほどして1978年に私が現住所に団地から引っ越して来た。何と、その同じ通りの数軒向こうに、O氏は自宅を構えておられたのだ。白梅が咲き乱れているそのお家である。

 私はもちろん彼と通勤仲間となった最初から福音を伝えようとしていた。しかし、彼は拒んだ。「自分たちのような職業のものと、あなたのような人とはちがう」と言われたのだ。この方はイエス様が大工の子であることを知られなかった。でも二人は、引き離そうにも、もはや離れられなくなった。彼は通勤のたびに私の家の前を通らければならなくなってしまった。

 私はその引っ越して来た家に10年近く住んでいる間に、いつの間にか自宅で家庭集会を開くように導かれた。私は当然のように今度こそという思いで、彼を集会に誘った。ドイツ人であるベックさんが来て福音について話をするから、と(※)。しかし、彼はまたしても断った。

 その数年後に彼は亡くなった。

 「福音には救いを得させる神の力がある」という絶対的な真実があるのにみすみす無駄にしてしまった。私自身にO氏が心の距離を感じた何かがあったのだろう。O氏の前で、イエス様のように十字架をものともしないへりくだりが備えられていたら、信仰を分かち合い、「兄弟」として、天の御国に送り届けられたのだろう。

※ベックさんについてはhttps://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2016/08/blog-post_23.htmlなどご覧ください。 

2023年2月21日火曜日

重荷を主にゆだねよ


紅梅の 青梅街道 色添える
 初めて、歩く街は何となく心ときめくものがある。青梅街道を車に乗せられ行き来することはあっても、自分の足で歩き確かめるのは、確かに初めてだ。これから行く病院の所在はある程度頭の中にはあっても、初見である。不安がないとは言えない。

 そんなこちらの思いを吹き飛ばすかのように道端に大きな紅梅の木があった。思わず立ち止まりカメラを向けた。妻は「帰りに撮れば」と言ったが、強行した。結局病院を出るのは五時近くなっていたと思うから、「強行」は成功であった。

 家に帰って写真を見ると、こんなにも花が咲き乱れていたのだと改めてびっくりする。この街は道端に梨園がいくつかあり、また大きな樹木の森があり、我が町春日部とは大いに違う。まさに武蔵野の一角かも知れぬ。もっともこの町は次男のお嫁さんの生地である。普段のご無沙汰を詫びる思いで二人で足を踏み固めながら歩いた。

あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。(旧約聖書 詩篇55篇22節)

2023年2月19日日曜日

季節の足どり

鶯(うぐいす)の 伝い歩くは 春の音
 二羽の鶯、それも小さなこどもの鶯が、ベニカナメの枝々を伝い歩くのを目にした。垣根であるベニカナメの手前左側の植物が格好の保護色になって、その姿は室内にいる私の方から静止写真ではとらえることができなかった。しかし、こうして、かぼそき足音はいち早く木々の揺れの中でこだましていることだろう。自然界は春に向かってすでに合唱を奏で始めている。

空のこうのとりも、自分の季節を知っており、山鳩、つばめ、つるも、自分の帰る時を守るのに、わたしの民は主の定めを知らない。(旧約聖書 エレミヤ書8章7節)

2023年2月18日土曜日

市庁舎移転(下)

駆けつける クレヨンシン氏 はりきって
 以前、クレヨンシン氏が駅東口にお出ましした様子は本ブログの2/5の『神招き給う町に導かれて』https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/02/blog-post_5.htmlで紹介した。今度は西口の市庁舎工事現場である。太陽はシン氏の張り切りように敬意を表してか、幟の天幕の向こうに控えておられる。クレヨンシン氏は今や大忙しである。

 さて、昨日私は『田中耕太郎』という本を読む上で、知人のCIアートディレクターの飯守恪太郎氏(※)を紹介し、「天衣無縫」とその人物ぶりを紹介したが、氏は、その実、非常に神経が繊細な方なのである。私が昔正月にお会いすると決まって、「吉田兄、みことばをください」と言われた。

 「新年おめでとうございます」「おめでとうございます」と慣用句そのままお互いに言い合って新しい年を迎え、それで事足れりとしてきた私にとって、その挨拶は正月早々面食らわせるご挨拶ではあった。ために答えに窮している私に、恪太郎さんはご自身の新年早々与えられたみことばをくださるのである。先輩キリスト者として尊敬し尽くし能わざるお人である。そんなお人は小さい頃からヴァイオリンを嗜まれ、87歳の今も私たちの前で弾いてくださるのだ。

 ところで、田中耕太郎氏の評伝の性格を持つ中公新書には何枚かの写真が載っているが、その中の一枚に「記者の前でピアノを弾く田中、1950年3月1日」と注釈のある写真がある(同書180頁)これは同氏が最高裁の長官に就任された時のものだ。ご一族はこうして音楽や絵画など芸術方面にも造詣がおありのことがわかる。

 さて、その評伝で気になる個所があった。それは奥様の峰子さんの夫田中耕太郎氏のカトリック信仰について触れられた個所である。以下は「乾燥状態の信仰」と題して書かれている記事の一部である(同書273頁より)

妻峰子は、追悼集の中で田中の信仰について、「感情的に信心深いタイプ」ではなく、「かわいた状態で、信仰に非常に率直であったということは、ずいぶん心の貧しいことではないかと思います」と振り返る。・・・峰子の見る田中は、信仰の入り口の段階で、悩みながら信仰を深めようとし続けていた。

 この評自身を私は理解したわけではない。むしろもっと読み込まないとわからないと思うぐらいだ。また、次のような個所もあった。「劇的な振る舞い、抑制的な権力行使」の一節である。(同書277頁より)

田中の論敵に対する姿勢は、まずその中に何を拒否するかを明確に見定めていたことにある。そのため、拒否する対象への批判の舌鋒は厳しく、全面的な否定と周囲は受け取りがちであった。だが田中が決定的に否定するのは、状況に迎合し便乗する人物だった。むしろ田中は、信念の強い論敵には、その信念の中核にある価値を否定し尽くしたように見えながら、信念の強さそのものは評価する。それが田中の対極性との接し方だった。

田中は論敵を強烈に批判しながらも、柔らかく心の有り様を讃える姿勢で接した。プロテスタントとしての南原繁との関係がそうであり、共産党員でも志賀義雄とは親交を保ち続け、戦前には峰子を通じて獄中の志賀に差し入れを続けていた。

 このように、田中耕太郎氏は私がこの本を読むまでに抱いていた、謹厳実直で厳正な人だという印象は、それだけでなく、血の通った心やさしきお人柄だったのだなという印象へと深められた。それはこの本を読んで得た私にとってたいせつな効用の一つである。すなわち人はその外面だけで人を見てはいけないという教訓である。それだけでなく、そのお方が日本の戦後社会の価値原理(日本国憲法、教育基本法)を根づかせるのに、いかに苦闘してくださったかを知り、心から感謝したい思いにさせられた。

 最後に、著者牧原出さんがこの作品をとおして言わんとしたことを最後に述べておられるのでそれを紹介したい。

田中が自ら示した軌跡は、苦渋に満ちた組織の制度化の過程であった。では、制度化を遂げた組織を、次の局面でどう新たに再構築し、関わる人々はどう振る舞い、人々はこれにどう関わるか。それが第二次世界大戦後の組織を受け継いだ二十一世紀現在の課題である。田中の軌跡は、この課題に向き合うための前提の一つである。(同書280頁)

※今や春日部市はクレヨンしんちゃんがマスコットになっているが、恪太郎氏のロゴマークには日野自動車や東武鉄道がある。これも全国を駆けめぐっている。そのせいもあってか(?)2/5の写真を見ると、東武鉄道のロゴマークと「くれよんしんちゃん」が仲良く駅頭にある!

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。(新約聖書 マタイの福音書5章3節)

私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。(新約聖書 第二コリント人への手紙5章16節)

2023年2月17日金曜日

市庁舎移転(上)

光射し 建設急ぐ 庁舎
 春日部市では今、市庁舎建設が急ピッチで進められている。1969年に春日部に私が初めて降り立った時には、西口には人家もまばらで、神社と教会が仲良くあるだけで、田畑が広がっていた(と思う)。もちろん銀行もなく、市の中心部は東口であった。

 翌年の1970年には市庁舎が西口に建てられ、いよいよ西口の市街化が進み今日に至ったが、その象徴とも言うべき現庁舎はすでに老朽化し、耐震基準を満たしていないということで、新庁舎は一昨年の8月から工事が始まり、今年の9月に完成の手筈になっている。市庁舎建設という大事業に私はこれまで無関心であったが、そのことを再考させられる本に出会った。

 その本は『田中耕太郎ーー闘う司法の確立者、世界法の探究者』(牧原出著中公新書)という昨年11月に出版された本である。「田中耕太郎」は知る人ぞ知る存在で、今の若い人には馴染みはないと思うが、文部大臣、最高裁判所長官をつとめ最後は国際司法裁判所の裁判官をつとめた人である。

 CIアートディレクターである飯守恪太郎さんの伯父君にあたる方と言うので、大変興味をもって読ませていただいた。と言うのは、飯守さんとは日頃親しくさせていただいているし、その天衣無縫とも言える言辞にはしばしば驚かされてばかりいたからである。

 それに対して田中耕太郎氏は反共で有名で、特に砂川事件で「統治行為論」を展開し、安保条約に違憲判決を下さなかったことに象徴される方で、左翼学生であった私にとってはとんでもない人物としてしかこれまで考えて来なかった。ところがこの評伝とも言うべき本をざっとであるが、読んで、私の考えこそ浅薄でそこには深い熟慮があったことを知らされた。

 その一例であるが、国際司法裁判所の裁判官当時、オランダのハーグにあった裁判所の移転をめぐり、国連とのすり合わせなどで大変苦労されたことが後半部分に叙述されていた。春日部市庁舎の移転と新築もまた小なりとは言えども同質の問題をはらんでいたはずだからである。目の前にそういう問題を抱えていないなら、この国際司法裁判所の移転問題もそんなに関心を持たずに読み過ごしたに違いない。

 そもそも司法とは縁遠く、何の手がかりもない高度な領域と考え、考えることもしなかった自分にとり、田中耕太郎が知人の親戚の方であり、一方身近に市庁舎移転を控えている我が身にとって、これまた田中耕太郎の最晩年の仕事の一部だが、そこを突破口として少し理解できるように導かれた。

 しかし、振り返ってみると、空気のように感じてしまってはいるが、何とかしなければならない、昨今の政治問題、日銀の総裁人事の問題など、実際は大いに私の周辺には問題は山積しているのである。そんな時、この本は真の「権威」は何かを問うている本ではないかと思い、今回は斜め読みだったが、もう一度じっくり読んでみたいと思っている。最後に文中に紹介されていた次の文章を転記しておく。同書120頁

田中が権威の重要性をとりわけ主張した領域が教育である。戦時体制の中、教育現場では混乱が起き、教師への信頼が低下していた。そこでは必要な権威とは、教師に無批判に追従する「外的物質的権威」ではなく、精神生活の内的な権威だと田中は説く。「福音書記者によりキリストが学者の如くならず権威ある者の如く語り給うたと伝えられている意味においての権威」なのである。

イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。(新約聖書 ヨハネの福音書17章1〜3節) 

2023年2月16日木曜日

春よ早く来い


北風に 白蓮つぼみ 空向かう
 気温の高下が激しい。昨日は冷たい風が強かった。しかし、白蓮通りにある木々のつぼみは敢然と風をものともしていない(ふうに見える)。雪国の人にとってはこんな程度ではないと思いながらも心底(しんそこ)冷える思いがした。その雪国の人の勇気に触れた江戸期の紀行文がある。『北越雪譜』(鈴木牧之著)がそれだ。「東南寸雪」の暖国と「北方丈雪」の越後の国を比較しての名文の数々だ。さしずめ次の文章はその白眉だろう。

雪吹ふゞきなどにつもりたる雪の風に散乱さんらんするをいふ。其状そのすがた優美やさしきものゆゑ花のちるを是にして花雪吹はなふゞきといひて古哥こかにもあまた見えたり。これ東南寸雪すんせつの国の事也、北方丈雪ぢやうせつの国我が越後の雪ふかきところの雪吹は雪中の暴風はやて雪を巻騰まきあぐる※(「風にょう+(犬/(犬+犬))」、第4水準2-92-41)つぢかぜ也。雪中第一の難義なんぎこれがために死する人年々也。その一ツをあげてこゝにしるし、寸雪すんせつ雪吹ふゞきのやさしきをみる人のため丈雪ぢやうせつの雪吹の※(「目+台」、第3水準1-88-79)おそろしきしめす。(※)

 寸雪どころか、これまで雪といっても、わずか一日、しかも降り始めても昼過ぎには止み、夕方にはその跡形もなくなった。西高東低の気圧配置は今後どのような気候を暖地の者にももたらすのだろうか。

 旧約聖書に次のような記述がある。

主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。・・・あなたは雪の倉にはいったことがあるか。雹(ひょう)の倉を見たことがあるか。これらは苦難の時のために、いくさと戦いの日のために、わたしが押さえているのだ。(旧約聖書 ヨブ記38章1〜2節、22〜23節)

※なお『北越雪譜』は青空文庫から自由に読める。https://www.aozora.gr.jp/cards/001930/files/58400_69157.html 

2023年2月15日水曜日

「私は生きている死者です」(下)

チロリアン ランプ可憐に 塀(へい)つたう
 ちょうど一週間前、妻と散歩する時、この「塀につたっている草花」を見た。それこそ3、40年はこの前は通っているので、この景色は初めてではない。でもこの時ばかりは何となく美しく感じて写真に撮った。同行者が妻だったからなのかも知れない。彼女は大の花好きで、美術愛好家である。この図柄は絵になっていると言った。問題は花の名前である。ずっとわからなかった。それが昨晩の夕食準備の時、天啓のごとく「チロリアン」だと言い出した。早速私がネットで調べたら、まさに「チロリアンランプ」という草花であった。

 五七五の定型句を考える段に及んで、心は自然と『オネシモ物語』に飛んだ。

 なぜなら、昨日の『オネシモ物語』からの引用は、「エイレーネが地震の恐怖の中、探しに来てくれたオネシモにしがみついた」ところで終わっていたからである。が、実はそのあとが悲惨だからである。その地震でエイレーネの父ポレモンは亡くなった。もともと彼は我利我利亡者であり、オネシモは娘と違いその父は快くは思っていなかった。そのポレモンから羊毛の売上代金として農場管理人グラウコスが受け取った金を、本来は護衛として主人ピレモンから仕事をまかされていた奴隷オネシモが地震のどさくさ紛れに乗じて奪う。

 オネシモにとってお金は自らが奴隷状態を脱するために何よりも必要なものであった。そして奴隷から解放されれば、好きなエイレーネとも結婚できると思ったのだろう。それだけでなく様々な形で奴隷であるがゆえに受けてきた差別・屈従もいっぺんに解決されるはずである。急坂を転がり落ちるようにしてというか、彼の逃亡は主人ピレモンの羈絆(きはん)を離れて進みに進む。その中には2/11『花の生涯』下で紹介した一ブリトン人と剣闘士としての出会いがある。http://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/02/blog-post_11.htmlそうしてとうとう物語はローマで投獄されているパウロとの交わりへと話は進む。以下『オネシモ物語』の二十一話にあたる本文をそのまま紹介しよう。同書225頁より

 オネシモは、パウロとテモテといっしょにそまつな食事をした。それからゆかの暗いところに座って顔をかくし、パウロにことごとく打ち明けた。
 アルキポに対するにくしみ、エペソでの復しゅう、数年におよぶ盗み、そしてついにラオデキヤで金をうばってにげたこと、闘技場で友人を殺したこと、そして最後に死に対する恐怖のことまで話した。一度話しはじめると、いつまでもやめられない気がした。その夜、みじめな彼の心に閉じこめていたいかりやうらみ、そしてあらゆるきたないものが、黒い血のように流れ出した。テモテはつかれて、横になってねていた。しかしパウロとオネシモは話し続けた。
 望みがあるでしょうか。ゆるしがあるでしょうか。ぼくはキリストを何年もの間こばんで、自由になりたいためにこんなに落ちぶれてしまいましたが、キリストはあわれみを与えてくださるでしょうか。
 彼はいくどもこの質問をくり返した。パウロは、キリストの十字架とそれが与えるすべてのことを熱心に長い時間をかけて話した。
 「キリストはあなたを責めたてている罪の証書を無効にできるのです。ちょうど十字架にくぎづけにしたように、その証書を取りのけてくださいます。あなたは信仰によって義と認められ、神との平和を持つことができます。よくわかっていますよ。わたしも同じ道を歩んで来ました。ステパノが殉教者として死ぬのを見ながら、わたしはそれに賛成して石打ちをする人の着物の番をしていました。わたしは良心の呵責(かしゃく)も知っています。でもわたしがどんなふうにキリストとお会いしたか話しましょう。」
 パウロが話し終わったとき、そろそろ朝になりかけていた。オネシモは心をうばわれたようにひたすら聴き入っていた。自分は、何とひどく、とげのついた棒をけって、自分に傷をつけて来たことだろうか。
 番兵がねむりからさめた。オネシモは目を上げると、部屋の格子をとおしてしのびこむ朝の光を見た。そして、まるで自分が再び生まれ変わって、新しく美しい世界にいる小さな子どものような気がした。今や重荷は永遠に取り去られた。彼は罪をゆるされた喜びのあまり、次にどうしたらよいかなどということは考えもしなかった。しばらくの間は、キリストのもとに行き、キリストが受け入れてくださったことだけで十分であった。

 さらに最終章である第二十三話の終末部分を転写する(同書246頁より)

まことに、あなたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな手を打ち鳴らす。(旧約聖書 イザヤ書55章12節)

 このことばは、数世紀前に書かれたものであった。しかし、オネシモのように、こんな喜びをもってまだほの暗い夏の朝を出て行った者がいるだろうか。
 道はとび去るようにすぎて行った。彼はラオデキヤの門を歩きながら、すぐる三年の間になされた再建のわざにおどろいていた。破壊されてがれきの山であった通りは、今や整然として、そこに美しい建物が建てられはじめていた。ローマは、災害を受けたこの町に援助を申し出たとうわさされていた。しかし、ラオデキヤの市民は、何もかも自分たちのお金でまかない、ほこらしげに答えたという。
 「われわれは豊かで、財産はふえているので、必要なものはありません」と。
 彼がすでに再建されたヒエラポリスの門にたどりついたとき、とつぜんくぎづけになったように足をとめた。エイレーネが、町に向かう坂をゆっくり歩いて登って来るところであった。両手とスカートには、三、四人の小さな子どもがまつわりついていた。
 太陽が東の高台をくっきりさせてのぼり、その最初の光を子どもたちに向けてふりそそいだ。そして、あたりの花々は、ちょうどエイレーネを見上げるように花びらを開いていた。銀色のつゆがまだたくさん草におりたままである。
 彼は門のところで考えた。
 「エデンの園のはじめの朝もこんなだったかもしれない。」
 「あっ、だれかが待っている!」
 子どもの一人が言った。
 彼女はすばやく目を上げた。ほおが赤くそまり、目はかがやいていたが、それほどおどろいたようすはなかった。ある意味で、彼はずっと彼女のところにいたのだ。彼女は歩調を早め、彼に向かってまっすぐ歩いて行った。子どもたちは、つゆをふくんだ草の上に小さな足あとをつけて彼女を追いかけた。
 「エイレーネさん、おはよう。」彼はやさしく言った。「ぼくは約束を守ってあなたのところに帰って来ました。自由人として、またキリストに従う者として。」
 エイレーネはオネシモを見上げた。その顔は朝の光のようにまぶしかった。
 「あなたがいらっしゃることはわかっていましたわ。」
 そして子どもたちを自分たちのまわりに引きよせると、町に背を向け、手に手を取って、日の出のかがやくヒエラポリスの丘に向かって行った。

 このような美しい場面で、この250頁ほどの『オネシモ物語』は閉じる。新約聖書の使徒の働きやパウロの手紙を参考にした作者の創作であるが、トルコ西部にあたるラオデキヤ地方を襲った地震と再建についてもほんの少しだが触れられていた。でも主題はあくまでも奴隷オネシモが、自らが「私は生きている死者です」と、自らが奴隷である以前に罪の奴隷であり、同時に死の恐怖にある者だと認めるところにあるのではないだろうか。

 私が生意気にも一トルコ人の方の苦悩を交えた「私は生きている死者なのです」とおっしゃったことばを取り上げさせていただいたのは、たまたま前回と今回とに述べさせていただいた『オネシモ物語』を読んでいたので、その絶望は、イエス様のところに、すなわち人の罪の身代わりに十字架にかかられたイエス様のところに持っていけば希望に変わるのではないかと思ったからです。「生きている死者」とは、生きていてももはや自分には生きる力がないという絶望を指す言葉です。オネシモがパウロのところに行って告白した内容はまさしくそれだったのです。罪にがんじがらめにしばられて自分ではどうすることもできない絶望だったのです。

 それですので、いったん公開にしながら、その後、非公開にさせていただいたブログをもう一度若干訂正して公開させていただきます。それは1/22の『一枚のハガキを貫く真実』というブログです。ここに絶望から希望へと向かった一人の方の証があるからです。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/01/blog-post_22.html
あわせてお読みいただきお考えいただきますれば幸いです。

2023年2月14日火曜日

「私は生きている死者です」(上)

雨静か 馬酔木(あせび)の花の 輝きよ
 昨日は一日中しとしとと雨が降っていた。庭木を見ると雨にもかかわらずどことなく元気に見える。いつの間にかどの木々も芽吹いている。一羽の小鳥がどこかから来、その後ろのベニカナメモチの生垣のあたりに姿を現わした。そのことに気がついた時にはもういなかった。雀ではなかった。どうも鶯(うぐいす)のようであった。

 季節は確実に動いている。トルコ・シリアの地震被害には胸が傷む。たまたま、3、4日前、縁あって、フィクションではあるが、2000年ほど前のトルコ西部での地震に人々が右往左往する様を描写する文章に接した。(『オネシモ物語』パトリシア・M・セントジョン著山口衣子訳159頁以下※)

 そのとき、三度目の、一番強い最後の地震が来た。町全体が大きな音を立ててくずれ、市場のすみの避難民の近くも、すさまじい音とともにくだけるようにつぶれた。倉庫はとつぜん見えなくなり、今まで立っていた場所がおびただしい石やれんがでうまっていた。オネシモは、ポレモンがその中で、両手に金をわしづかみにして死んでいる姿を想像し、ぞっとして身ぶるいをした。彼は、ふるえ、あえいでいたものの、心は、ポレモンのことにも、グラウコスのことにも、自分の安全のことにもなかった。
 市の周辺の大きな家は、中心街の家より被害が少なかった。エイレーネはぶじかも知れない。彼女が生きていても死んでいても、自分はすぐにそこに行かなければならない。自分のいのちはどうでもよかった。ほんとうのところ、彼の心はエイレーネのためならいのちを投げ出してもかまわないという思いでいっぱいだった。柱から馬のたずなをはずすと、彼はヒエラポリスの門に向かって勢いよく進んだ。
 よく知っている道だった。そこを大またで歩いて行くことをたびたび考えていたからである。しかし、進むのはたいへんだった。通りはどこもかしこもふさがれて、人々はがれきの山にひざをつき、両手でかきまわしながら何かをさがしたり、泣いたり、わめいたり、神々を呼んだりしていた。ところどころで、大きな柱がまだぐらぐらゆれていた。町の人々は、牧場や丘の方にのがれようと門のあたりに群がっていた。
 オネシモは、ほこりにまみれた石やれんが、しっくいのかたまり、そして大きな大理石の平らなかべ板の上をこえ、放心している人々や、泣いている子どもたちの間を通りぬけて丘の家まで進んだ。彼はかなり遠くから、目ざす家の屋根がくずれているのを見た。しかし、家のかべはまだ立っていた。門を大またでまたぐと、エイレーネがまっすぐ走って来てしがみついた。

 今もおそらく被害民の方の様子は異ならないことだろう。何日か前、テレビが第一報を報じた時であっただろうか、一人のトルコ人の方が、肉親の死を前にして、悲嘆のあまりであろうが「私は生きている死者なのです」と言われた。全くその通りだと思う。何とか人々に希望が失せないようにと祈りたい。

 前述の話は奴隷オネシモが主人の言いつけに従って、やはり奴隷ではあるが農場管理人のグラウコスの護衛役として同行し、住んでいたコロサイを離れ、隣町ラオデキヤのポレモンとの商売に出かけ、そこで地震に出会った出来事を記している。

 『オネシモ物語』は、主人公が奴隷オネシモであり、隣の町ラオデキヤに居を構える裕福な家ポレモンの娘エイレーネがコロサイに来た時、初めて出会ったことから始まる。二人はまだ少年少女の時ではあるが、互いに好意を持つ。この身分の差を越えて芽生えていたかすかな恋の描写の第一話から始まる物語は、彼らの成長とともに話は次々に展開してゆく。先に述べた地震のできごとはその第十五話にあたるが、全部で二十三の話からなる、この物語は紆余曲折を経ながら、最終章では二人が真の人格の一致を与えられてとうとう一つになる。

 その背後に何があったかくわしいことは次の機会に譲ることとするが、端的に言えば、そこにはオネシモ自身が主なる神様、イエス様に向かってなした一つの重大な告白があるとだけ言って置こう。その告白は、なぜか、私にはあのトルコ人の方がおっしゃった「私は生きている死者なのです」と絶望を顔にあらわして言われたことばと共通するものを感ずるのである。もし、そうならば、そこには絶望から希望へのほんとうの生きる道が用意されているのだと思いたい。

※この本は、私の書棚に1986年から今日に至るまで読まずに放置していた児童書である。それは子どもがその年、日曜学校に通い、皆出席のご褒美としていただいたものであった。当時子どもは小学校4年生であった。今では三女の父親になっている。私は実に37年目にしてはじめてその本を手にして読んだ。

あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に合わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(新約聖書 第二コリント人への手紙 10章13節)

2023年2月13日月曜日

限りない主の愛よ

光受け 平和の鳩の 歩みあれ
 今朝のTBSの森本毅郎スタンバイでは正体不明の飛行物体がアメリカ、カナダでそれぞれ撃墜され、中国では山東省付近にあらわれ、撃墜の準備に入ったと報じたことが話題になっていた。米中対立の中、政治合戦の様相もありはしないか注視する必要があるということだった。

 白鳩はいつもこのあたりにだけ数羽生息している。羽根に射す光を見ているうちに、限りない安らぎを覚えた。我が暗やみの心もかくの如く主の光で照らされたい。そして、地震で甚大な被害にあっているトルコ・シリアの現地の方々を思い、同じ主の助け・光がお一人お一人に臨まれるようにと祈りたい。

「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。(新約聖書 第二コリント人への手紙4章6節)

2023年2月12日日曜日

クリスマス? 春?

初雪や 薄化粧の 山茶花よ
 先週は2/8(水)、今冬初めて雪が降った。裏庭(西北にあたるが)の一角を窓越しに撮影した。反対側の東南の隣家の屋根に、雪降る中、二羽のカラスが何やら食べていた。例により気づいたのは妻だった。食べ物ならぬ、雪を食べていた。格好の被写体だったが、気づいて構えた時には、「遅かりし由良助」、「アバよ」とばかり二羽とも飛び立って行った。

 しかし、雪は午後には止み、屋根や路面からも消えて行った。その後、まるでその日が嘘のように日増しに春の装いが進んでいく。今日の礼拝では、うれしいことにクリスマス賛美のリクエストがあるかと思えば、一方で次のような歌詞の賛美のリクエストもあった。

春ガリラヤ湖は光にあふれ、
花咲く丘にて主は語られた。
「心の貧しい人は幸い、天の御国はその人のもの。」

女は涙で御足をぬらし、
髪の毛でぬぐい香油ささげた。
主イエスは言われた。
「女の罪は、すでに赦された。その愛のゆえ。」

今ガリラヤ湖は青く静まる。
主イエスの足あと静かに秘めて。
伝え歩かれた主のみことばは、
我らの心に、生きて輝く。

 歌いながら、一度でいいから、ガリラヤ湖に行ってみたいなあーと思った。(昔、近江兄弟社の創始者ヴォーリズさんは、琵琶湖にガリラヤ丸を福音伝道のために航行させたことがある。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2011/11/blog-post.html)でも、天の御国にはすべてが揃っているのだろう。同じ礼拝の中では次のみことばも読まれた。

主は泉を谷に送り、山々の間を流れさせ、
野のすべての獣に飲ませられます。
野ろばも渇きをいやします。
そのかたわらには空の鳥が住み、
枝の間でさえずっています。
主はその高殿から山々に水を注ぎ、
地はあなたのみわざの実によって
満ち足りています。
主は家畜のために草を
また、人に役立つ植物を生えさせられます。
人が地から食物を得るために。
また、人の心を喜ばせるぶどう酒をも。
油によるよりも顔をつややかにするために。
また、人の心をささえる食物をも。
主の木々は満ち足りています。
主の植えたレバノンの杉の木も。
そこに、鳥は巣をかけ、
こうのとりは、もみの木を宿としています。
高い山は野やぎのため、
岩は岩だぬきの隠れ場。

主は荒野を水のある沢に、
砂漠の地を水のわき上がる所に変え、
そこに飢えた者を住まわせる。
彼らは住むべき町を堅く建て、
畑に種を蒔き、ぶどう畑を作り、
豊かな実りを得る。
主が祝福されると、彼らは大いにふえ、
主はその家畜を減らされない。
(旧約聖書 詩篇104篇10〜18節、詩篇107篇35〜38節)

2023年2月11日土曜日

『花の生涯』(下)

埋木舎前の中堀と櫓のある城門
 写真の左にのぞいている樹木の辺りが、「埋木舎」であり、今も旧跡をとどめている。直弼が埋木舎に住んだのは天保2年(1831年)が初めであるから、およそ今から200年ほど前、直弼はここに長野主膳を迎え、武道に国学にとその修練を全うしながら、青雲を志していたことになる。

 城とはいかなるものであろう。彦根城は元和8年(1622年)築城相成ったから、今日まで都合400年になり、直弼はその折り返し点になる200年目に、この中堀と城門を目にしながら内堀内にある本丸にも参上したのだろう。不思議とこの城は、井伊家が譜代大名であったために江戸幕府誕生とほぼ同時にスタートし、明治維新期や、第二次世界大戦の戦時をくぐりぬけ、今日まで無傷(?)で生き延び、往時の姿を今に伝えている。

 それにしても直弼の最後は哀れである。私は彼の人生とは何だったのだろうかと時々考える。その国学の師長野主膳は結局、文久2(1862年)年8月27日に直弼に遅れること2年して四十九町牢舎内で「井伊家に死と災いをもたらした」と彦根藩内で断罪され、討ち捨てにされた。

 野口武彦氏は『巨人伝説』という作品の中で、この時の惨死を前にした主膳の思いを次のように作中で語らせている。(同書406頁)

「神よ。お願いですから教えて下さい。・・・私は・・・宣長を幽界の巨人、主君直弼候を顕界の巨人と仰ぎ、国の政治を執り行い、悪き業をする族を神遣らいにやらって参りました。しかるに主君は非業の最期を遂げ、私も縲絏(るいせつ)の辱めを受けております。あなたはかかるマガツビの荒らびをお許しになるのでしょうか。私が虫けらのように殺されるのも、人智では測り知られぬ神慮の中にあるのでしょうか」
 国学の神は沈黙したきり答えなかった。
 このままでは死にきれない。主膳は牢舎の荒畳に正座し、眼を血走らせ、脂汗を流して不眠不休で考え抜いた。疲労困憊の極で、暗闇にポッと小さな灯が点じられたように『古事記伝』の一節が記憶の底から浮かんできた。「神に御霊あるごとく、凡人といえども、ほどほどに霊ありて、そは死ぬれば黄泉の国に去るといえども、なおこの世にも留まりて、福をも禍をもなすこと、神に同じ」という語句である。これだ! これぞまさしく主膳がすがりつくべき啓示の一言だった。

 こうして長野主膳が来世は荒魂となって生きると覚悟してその刑を受けたと描写しておられる。私はこの文章を読みながら、キリストの死とそれにあずかるキリストを信ずる者の死生観のちがいを改めて考えざるを得なかった。そして、今たまたま手にした一つの書物『オネシモ物語ーー二度目の解放ーー』に書かれていた次のシーンを思った。(同書207頁)

 オネシモは相手の胸から短剣を引きぬくと、本能のままに心臓めがけてもう一度つきさした。はげしいさけび声はまったく聞かれなかった。彼は死にかけている友人を痛々しくたった一人で見おろしていた。ブリトン人は、その気になればいとも簡単に自分を殺せたはずだ。青い目がもう一度彼をまっすぐに見つめていた。その目は、これまでと同じように忍耐強く、悲しみとやさしさの表情だけをうかべていて、そこには何のいかりもうらみもなかった。
 「ポンポニアさまのあわれみの神に。」
 彼はささやくように言うと、血のしみこんだ砂の上でくずれるようにたおれた。ブリトン人は天の故郷に帰ってしまったのだ。

 この場面はネロ皇帝の円形演技場での剣闘士同士が闘わされ、その様を見て喜ぶ場面で起きた出来事だ。オネシモは短剣、ブリトン人は剣を与えられていた。オネシモは剣闘士仲間の中で唯一親しみを覚えたのがこのブリトン人であった。その親友同士が物見遊山のために駆り出された結果がこのシーンであった。

 すでに昨日も紹介したように、直弼はその登城中の駕籠の中で理不尽な自己の死が迫ってきたことに対して「憎悪、義憤」を感じたことが舟橋聖一により『花の生涯』で語られていた。先ほどは長野主膳の無念な彦根藩内での処刑に臨んだ死を前にした述懐を野口武彦氏は創作であろうが語らせている。そして、今私が紹介したこの円形演技場ではブリトン人は当然オネシモに「いかり」「うらみ」を持つべき場面である。なぜブリトン人はそうしなかったのだろうか。それを明らかに示す記事がブリトン人がオネシモと親しくなり始めた時にオネシモにもらした次のことばがヒントを与えてくれている。(同書200頁)

「ぼくの国では、人々はかみなりと戦争の神々を礼拝している。闘技場でぼくは、その神々に向かってさけぶ。でも女主人のポンポニアさまは、あわれみと平和と愛の神を礼拝しておられた。その神は、ユダヤ人も異邦人も、つながれている者も自由人も、男も女も、大人も子どももことごとく自分のもとに来なさいと呼んでおられる。もしぼくが明日死ぬなら、ポンポニアさまの神に、ぼくの霊をゆだねるよ。」

 いかがでしょうか。「人は石垣、人は城、人は堀」と武田信玄は言いましたが、その人が死に対して持つ考え方はこのようにちがうのです。『花の生涯』を60年ぶりに拝見した感謝と私のそれにまつわる思いをまとめてみました。

イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたのです。(新約聖書 ヘブル人への手紙2章9節)

2023年2月10日金曜日

『花の生涯』(中)

「埋木舎」の前の中堀 2013.3.14

 写真は、10年前、尾末町の叔父宅を訪問した時に撮影したものである。井伊氏は今尾末町に住んでおられ、生前叔父は井伊さんとは町内の隣組同士で今や回覧をまわす間柄だよと笑って言っていた(それは言外に殿様が町人と同じ位置に立っているご時世を思ったのだろう)。叔父については二度ほどこのブログでも書かせていただいたことがある。私にとっては大切な叔父であるが、その2年のちには亡くなった。 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2015/05/blog-post_30.html

 井伊直弼は井伊家の14人目として生まれ、どうみても藩主になるとは考えられぬ身で過ごしたのがこの中堀に面した尾末町屋敷である。屋敷はこの中堀に面しているが、鉤の手になる一角なので残念ながら屋敷正面は写せていない。彼はここで元服の儀式を行ない、のちに彼自らその屋敷を「埋木舎」と称えた。

さつ事も うきも聞しや 埋木の 
        うもれてふかき こころある身は

と、詠んだのがその原義。
(『井伊直弼』母利美和著19〜20頁参照)

 その彼が果てたのは、万延元年(1860年)3月3日、季節はずれの大雪が降っていた時、外桜田の上屋敷から江戸城に登城する時であった。舟橋文学が表現しようとした『花の生涯』は直弼の桜田門外での横死の際の直弼の気持ちを次のように描いている。(新潮文庫版696頁)

 ーー駕籠の中の直弼は、何者かが、駕籠脇に近づいたのを直感した。
 瞬間、投げ出されるように、駕籠が地上へ置かれたのは駕籠かきが斬られたからにちがいない。
 もはや、疑いもなく、暴徒狂士の襲撃であると知った大老は、こうして、駕籠の中にいることの危険を察知した。とは云え、うっかり、飛び出すことは、よけい危ない。

(馬鹿者ーー自分を殺して、どうなると云うのだ)

 心の底から、憎悪がつき上げてきた。知性の薄い、亢奮しやすい頭脳が、この国では熱血漢として珍重されているのも、妙な話である。国粋も尊王も口実で、実際は政治的権力に盲目となっている或る男に煽られて、自分を殺しにやって来た愚かな刺客にすぎない。そういう奴の手にかかるのは、無念千万だと思った。
 彼はたまらなくなって、外へ出ようとし、駕籠の戸に手をかけた瞬間、全身を振り廻すような、激烈な衝撃と共に、あらゆる力を失った。それは大関が、殆ど駕籠脇へ密着するほど近寄って、狙撃した一弾が、不幸にも、直弼の胸に命中したからである。

 人の死は何ともうとましい。しかも横死となれば、より一層だ。先ごろの安倍元総理の死も同じ思いにさせられるし、現在起きているロシア・ウクライナの戦いによる犠牲者、はたまたトルコで起きた大地震による万を越す犠牲者を思うと、ことばに窮す。

 人間の生と死。罪と死と言い換えても良いかもしれぬが、「花の生涯」ならぬ「人の生涯」には変わらざる主の愛があることを忘れてはならない。

「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。『人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。』とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」(新約聖書 1ペテロ1章23節〜25節)

2023年2月9日木曜日

『花の生涯』(上)

彦根城馬屋門前 2010.2.24
 日曜日、テレビで大河ドラマ第一作である『花の生涯』を観た。NHKによると60年ぶりだと言う。しかも白黒だったものをカラーに再現すると言うので、当初から期待をもって観た。見て良かった。尾上松緑の井伊直弼、佐田啓二の長野主馬(しゅめ)、淡島千景の村山タカ、そのほかにも香川京子はじめ様々な往年のスターたちが出て来た。

 60年前というと、私にとって大学受験に失敗していた浪人時代であり、たまたま2/4のブログ『うれしい一本の電話』で記した二人の友人に対して硬軟両用というか、片や表面は柔和そうに装い、内にはどうしようもなく人を貶めてやまない鬼の醜い心で接した友人に対して、一方では弱さを抱えて柔弱さを示して接した友人らとの交友関係があった年であった。

 ただ、この『花の生涯』をその当時見たかどうか自信が持てなかったが、尾上松緑の特徴ある甲高い声とその容姿、あの鷹揚(おうよう)とした振る舞いには覚えがあった。この七日、80歳の誕生日を迎えたばかりの私にとり、振り返れば、あっと言う間に過ぎ去った60年ではあるが、否応なしに二十歳前の自分が知らなかった世界を次々と体験させられた歳月であった。それもあってか第一話のどのシーンにも心のどこかで頷(うなず)けるものがあった。それにしても政治の世界と男女の性(さが)の葛藤をすでに一話にして色濃く描いていることには驚かされた。が、舟橋聖一の作品なら当然で、それだけドラマが原作に忠実な証拠だと思った。

 だが、私が今回心秘かに関心を持っていた事項があった。それは直弼が国学の師として仰いだ長野主馬の出自であった。長野主馬が直弼に抱えられるまで、住んでいたところは志賀谷という伊吹山麓にあり、その領地は遠く紀伊和歌山の家老水野土佐守忠央(とさのかみただなか)の知行地であった(※)。井伊直弼、長野主馬、水野忠央の三者の間に不思議な結びつきがあったのだ。そのこともあってか、将軍の継嗣をめぐる幕閣内で対立があった際、紀伊藩主慶福(よしとみ)を14代将軍に擁立し、成功したのは、彦根藩主になり、大老職も拝命した直弼と水野忠央の協力関係がその一因にあったようだ。

 このようなことはほぼ160年ほど前の過去の出来事であるが、関心を持つことが我が身辺にあった。それは横浜に在住の一人の方が、春日部に越して来られた知人の救いを求めて、たまたま拙宅で行わせていただいていた家庭集会にその方を伴うために出席されたことによるものであった。都合、6、7年間になろうか、結局その方の来訪はその方の知人が2021年に主イエス様を信じて天の御国に召されるまで続いた。その中で私たちとの深い交わりも与えられ、今日に至るもなお深い御親交をいただいている。何を隠そう、この方はまさに前述の水野忠央公の末裔に当たる方であったのだ。

 すると、どういうことになるのか、160年後、彦根者である私が、紀州に出自を持つその方と一緒になって、その方の知人の救いを願い、ともに祈ってきたのだ。しかもその方は前述のとおり、横浜から、わざわざ田舎の春日部の我が茅屋にと足を運ばれたのであった。世が変われば、人も変わると言うが、片や日本政治を動かす大問題、片や尊い一人の人間の救い、神様の御目から見れば、どちらも大切であり覚えられていることだと思う。

 それにしても、もし長野主馬が井伊直弼と組まなければ、ひるがえって長野主馬が江州にある水野忠央の知行地、その代官の家に住まいしていなかったら、桜田門外の変をはじめさまざまなできごとも起こらなかったかもしれない。人の出会いは摩訶不思議である。しかし永遠の主はこのような出来事の中でもご自身を明らかに示そうとしておられるのではないか。

※吉川英治の『井伊大老』によると次のようになる。(文庫版37頁より)
 沢山もない世帯道具をまとめ、長野夫婦が、江州(ごうしゅう)へ越して行ったのは、それから間もないことで、知人たちでも、知らない者が多かった。新居は江州志賀谷だった。伊吹山の麓である。紀州家の家老、水野土佐守の知行所で、土佐守の代官、河原忠之進の家の一部を間借りして、

 国典歌学教授、長野主馬義言

という看板を、裏口の筑土風の土塀門にかけておいた。

神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。(新約聖書 使徒の働き17章26〜28節)

2023年2月8日水曜日

『受肉者耶蘇』(6)降誕のその年、その日

10 エジプトへ逃れられる

 ところが幼弱の贖い主(イエス)は、暴君の毒手を免れなさったのであります。降りかかる危険を予知することのできたヨセフは、その妻マリヤとともに主を守りながら、夜に紛れてエジプトへ下りました。この因縁浅からぬ国は、祖先が圧制の下に苦しみ、またユダヤ民族としておびただだしい国民となり、大変栄えた所であります。ここに落人は安住の隠れ家を求めることができたのであります。伝説によれば、この一家は一ヵ年の間、血に飢えた暴君の世を去るまで滞留したと言います。このようにして再びイスラエルの故国に引き返して、幾年月を留守にしたナザレの家に落ち着きました。

11 新時代の紀元であるイエスの降誕

 恩寵に満ちている主の降誕が、世界歴史の分水嶺と認められるに至ったことは主に対する著しい貢物であります。主の出現し給うまでは、ローマ市建設の日をもって年号の紀元とせられました。ところがその降誕は間もなく新世界出現の時と認められることになりました。つまり紀元六世紀の半ばごろローマの一修道院の院長ダイオニシアス・エキシグアスがその書シクラス・バスカリスのうちにキリスト教徒は爾後この最大事件をもって年号の紀元となすべきを主張しました。この主張はたちまち全教会の採用するところとなりました。しかしキリスト教徒の紀元はダイオニシアスの計算に幾年かの誤りがあることが明らかで、主の降誕は歴史上最も大事件であるにもかかわらず、その確かな時日を定めることは困難であります。いや到底不可能と思います。

12 その年

 イエスの降誕はヘロデの死んだ紀元四年の春より前であったことは確かであります。しかし幾年前であったかにいたっては、ただ近いと思われるころを定めるしかありません。つまりその降誕はクイリニアスの戸籍調査が行われた間でしょう。これはローマ帝国の最初の登録であり、紀元前八年であったとあるこの資料には間違いがないものと思われます。しかしユダヤの戸籍調べはヘロデに種々の難題があったため、著しく延期したものと思われるのであります。時はあたかも彼がその子アレキサンドルとアリストプラスとを誅せんとして惨憺たる難戦の最中に当たっています。そして彼は紀元前9年か8年かに、その窮状を皇帝に奏上するためにローマに上りました。帰ってみると彼の不在に力を得、また不逞のアラビヤ王シルリウスに唆されたツラコニチスの凶徒のためにユダヤは蹂躙尽くされていました。彼は軍を率いてアラビヤに進んだが、機敏なシルリウスはこれを防ぎながら、一方ローマ皇帝アウグストに書を送って、ヘロデの侵入は暴虐無道の攻撃であると、その窮状を訴えました。激怒した皇帝はヘロデに激越な書を下して『従来、予は汝を遇するに友人の礼をもってせり、しかれども爾後汝を遇するに家臣の例をもってすべし』と通告しました。惨憺たる苦心の結果、憐れむべきヘロデは皇帝の信任を辛うじて回復しました。このようにして戸籍調査に取り掛かるべき時は満二ヵ年も流れ去りました。ゆえにその実行は紀元前5年であったと信じられるのであります。

 また聖ルカはバプテスマのヨハネの事業を開始したのをポンテオ・ピラト(紀元前25年〜35年)の知事のとき、テベリオ政府の第15年すなわち紀元25年であったと言っております。テベリオ政府はその即位の紀元14年から始まったのでなく、彼が自らアウグストの同輩なりとして『領土において、軍隊において、同等の権威』を有すと僭称した紀元11年に始まっているのであります。したがってもし紀元26年の初めの頃、受洗の当時三十歳(新約聖書 ルカの福音書3章23節)に達せられたとすれば、イエスの降誕は紀元前5年であったはずであります。同時にこの計算が、イエスの伝道開始当時、過越の祝いをエルサレムで守られた年が、ヘロデの建築になる神殿の起工後第46年(新約聖書 ヨハネの福音書 2章20節)に相当するものとよく照応します。ヘロデは紀元前37年に王位に即いたので、神殿再興の工事を起こしたのは、その在位の第18年、すなわち紀元前20年であったとすれば、この過越の祝いはまさに紀元26年となるのであります。

13 その日

 西部キリスト教国では主の降誕の日を12月25日に守ることにしています。しかしこれは間違いです。主の降誕は牧羊者がユダヤの野に、その群羊を守ったときとあります。ところが羊を牧場に放つのは過越の祝いのころから冬の初め10月の半ばごろまでであります。したがってその降誕は四月から十月の間でなければなりません。西部教会が何故に十二月二十五日と定めたかは確かにわかりません。この月の終わりの頃ローマにはサターンの神の祭りを行って宴席に己れを忘れながら騒ぎました。淫楽に耽りつつではありますが、なおこれは平和と歓喜の季節でありました。その期間には戦争を起こし、あるいは罪人を罰するのは不敬虔とされ、また友人間で贈り物を交換しました。特に記憶すべきは、丸一日奴隷に自由を与える不思議な習慣であります。当初のキリスト教徒は多く奴隷の境遇にいたもので、異教の同胞が放蕩にその自由の一日を費やす隙を、彼らは尊い血をもって彼らを贖い、神の子である光栄ある自由を与えるため、罪の束縛(※)より彼らを救い給える、彼らの主の降誕を祝しつつ、厳かに、この日に祭りを行ったのは当然でありましょう。

※新約聖書 ローマ人への手紙 7章21節 私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。

以上で『受肉者耶蘇』の 第一章 奇蹟的降誕 は終わります。次は 第二章 秘かに忍ばれる三十年 です。

2023年2月7日火曜日

『受肉者耶蘇』(5)博士とヘロデ王

7 全世界贖い主の降誕を待つ

 救い主の降誕を示されたものはイエスラエルの国内に数少なくありませんでした。ユダヤ国民がローマの圧政の下に苦しんだこの暗澹たる時代に、救い主を待つ希望はいよいよ盛んになり、間もなく贖い主は来られるという信念が生まれてきたことは不思議ではありません。このように主の降誕はもはや少しの猶予もない、国民の切迫した要求でありました。なお不思議なのは、聖地だけでなく、広く世界にこの熱望がみなぎっていたことであります。 

 もし『ちかづき来る事件には予表がある』ということわざが真であるなら、世界歴史のこの最大事件に予表があるのは当然であったことでしょう。宗教改革当時、ある人は、欧州の危機とも称すべき戦争が相次ぎ、秩序がまったく破壊され、不信感がはびこったとき、『全世界が大害悪の産褥にあった』と言いました。時が満ちて、神がその御子を遣わさんとされている時代もまさにその通りだったのです。ブルタークの書物にも一つの物語があります。(略)

 このような物語は数多く、イエス降誕の当時、人心に希望が絶えていたことを示すのに十分であって、まるで世界の太陽が没して、夜が次第に更けて行く心地だったのです。このような事情下にあって恐らくイスラエルの希望が国外まで伝えられ、異教徒も等しく眼をユダヤに注ぎながら、救い主を待望したのでありましょう。

8 星に導かれて博士ら来る

 このことから考えると、救い主の降誕にあたって、異教の人々が遠国から訪れて来たのは怪しむに足りません。『見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました」』(新約聖書 マタイの福音書2章2節)彼らは占星学者でした。

 宗教が力を失い、迷信がこれに代わって跋扈(ばっこ)したころには、彼らの職は非常な勢力でありました。その本拠は神秘的な東洋でありましたが、なお西方、ことにローマにおいてもカルデヤの占い者が、その型にあたるもので、無知な群民だけでなく、政治家や国王の上にまで恐るべき勢力をふるったのであります。(今訪れて来た彼らが献げた礼物が三種あったところから、人数は三人で、カスパル、メルキオル、バルサザルと言う名の国王たちであったと言う伝説があります。)

 彼らははるかに遠いその本国で不思議な星を見たと言うのであります。すでにその当時に天文学上の新たな現象があったという証拠があります。博士たちはその現象を見逃さなかったのであります。彼らは視界に漂う不思議な星の出現を見て王者の降誕の予表として歓呼して迎えたのは自然でありました。彼らは事が起こった場所を知りませんでしたが、それでもふさわしい礼物を調えて、この場所を探り求めるために故国を後にしたのです(旧約聖書 創世記43章11節、1列王記10章2節参照)。

 西に辿るにしたがって世人の期待する所はユダヤに集中することを知ったことでしょう。こうして彼らは足をエルサレムへと転じ、故国を出て二年目に、目的の地に到達しました。そして彼らはしきりに「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました」と尋ね求めたのであります。

9 ヘロデの警戒

 その降誕が星の出現をもって予告せれたことを信じることができるならば、このユダヤの王が救い主でないとしたら、何者と言えばいいのでしょうか。市民はこのために騒ぎ立ちましたが、ヘロデには警戒すべき事態です。

 彼は巧妙な術策を用いて王位を奪いましたが、臣下が自分を憎んでいることを熟知していました。彼はローマの庇護により、わずかに王冠を奪取し得て、今その地位をほしいままにしていたのです。日夜王位を奪還されるのを恐れながら心の休まる日はありませんでした。そのため自分の身を守り、子孫の領土を安泰にするため、たくさんの無辜の血を流し、その毒手を染めたのであります。(中略)

 今彼は自分をはじめ子孫を位より放逐するユダヤ人の王が新たに降誕されたと聞き、これまでの暴挙も、計画も、犯罪も、無益となってしまうのを憂えました。だからどんな手管をつくしてもこの危険を除かねばなりません。

「彼の残忍なる決心」

 ついに彼はこの幼い贖い主を屠ろうと決心したのです。しかし先ず第一にその贖い主を発見せねばなりません。彼はこれをサンヒドリンに問う以外にないと考えました。彼は三十年前にこの重要な機関を破壊したが、その後まもなく再興されました。今や暴君は救い主の降誕の地域を質(ただ)したいばかりに、このような問題には唯一の権威だとされるこの機関を、平素は軽蔑しているにも関わらず、諮問を下すために召集しました。 

 『ベツレヘムに』とは預言者の書により一般の確信となっているところに従った彼らの答えでした。ヘロデはすぐに占星学者を引見して、ベツレヘムに赴きその幼子を探せと命じ、幸いに発見できれば、自分も拝みたいので帰って報告せよと命じました。これは見え透いた企みでした。その昔、術策に富んだ外交家とも思えない拙策でした。齢傾いた暴君も、昔のままの猜疑、凶暴の本性に加え、気が衰えるにつれて悪虐の手段が陰険卑劣となってきたのであります。

 その企みのあまりにも見え透いていたことと、一方天によって導かれる博士たちを欺くことはできませんでした。博士たちはベツレヘムに赴いて、幼子を尋ね遭い、黄金、乳香、没薬などの贈り物を献げて礼拝しました。当時の古風な注釈法により、コンスタンチノープルの敬虔な修道士は言います『黄金は王者の表徴だ。王に捧げる貢には黄金を用いるからだ。乳香は神を祭るを象徴する。乳香は神を祭る際に焚く乳香である。没薬は死屍を象徴する。没薬をもって昔は死屍に塗り、腐敗と臭気とを防ぐためである』(これはキリストの三つの職分、王者、祭司、犠牲を象徴する)。博士らは幼子を探し当てたにもかかわらず、ヘロデのもとには帰りませんでした。他の道を求めてそれぞれの国に帰りました。

 小康を得られた王者(註:嬰児イエスのこと)は、なお暴君の狙いを逃れられることはできませんでした。星の出現を二ヵ年以前だとすれば、嬰児の降誕もまたその間にちがいありません。すなわち彼はベツレヘム並びに付近の2歳以下の男児をことごとく虐殺すべきことを命令しました。福音書の記者は巧妙な機転をきかせて、この悲劇に古の聖句を引用しています。曰く

『そのとき、預言者エレミヤを通して言われたことが成就した。「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ。」』(新約聖書 マタイの福音書2章17〜18節)

と、ラマはベテルと『エフラテすなわちベツレヘム』との間、ベニヤミンの境にある村であります。昔ヤコブはその妻ラケルが悲しみの子ベニヤミンを産んで死んだ時、ここに亡骸を葬りました。その墓が道の辺りにあって、イスラエルの民が捕囚としてバビロンに引いていかれる途上、その墓のそばを過ぎることを思い、エレミヤはさながらラケルがその子孫の不幸を嘆くと感じたのです。後年の物語にはラケルの墓をベツレヘムと記しています。すなわち福音書の記者は無垢の小児の虐殺を嘆く声をラケルが子孫のために泣いたことを適用したのであります。

2023年2月6日月曜日

『受肉者耶蘇』(4)待望する神の人

初めに

 年初のお約束と異なり、このところ私自身のエッセーが連続してしまった。本年は昨年度の青木澄十郎氏のマルコ伝霊解に次いで、David Smithの『The Days of His Flesh』の未完了部分を補充したい意向を持ってスタートしたが、予定に対してその作業が中断した形になってしまった。それこそ、昨日のエッセーで触れた、予定線路を大幅に曲げて「足利市駅」開設に至ったみたいなもので、本来の予定から連載が大分遅れてしまった。それで二、三日少しエッセーから離れて、『The Days of His Flesh』の1/25(3)「牧羊者の群れ」に接続する部分を紹介することにする。

 5 敬虔な志士

 この時のイスラエルの宗教はいたく衰退していました。国の祭司はサドカイ派に属し、教師はパリサイ派でした。しかし、そのうちに二、三の隠れた神の人、敬虔な志士が残っていて、聖書に霊性を養い、信仰と祈祷とのうちに静かに世を送りながら、神の約束と希望とを胸に秘め、暁の曙光を待つように、救い主の出現を今か今かと待ち望んでいたのであります。そのうちの二人に主の降誕(advent)は示されたのです。

「イエスの割礼」 

 このことは実に主の降誕後40日目のことでありました。ユダヤの律法にしたがって主は生後『八日が満ちて割礼を施され』(新約聖書 ルカの福音書2章21節参照)、そしてその名をイエスと命名されました。この名はイスラエル人の間では神聖かつ英雄的な名でありました。思うに、ヨシュアと同じ意味でモーセの後継者がそうでしたし、ゼルバベルを助けて神殿を再興し、ゼカリヤに現われた幻を実行した忠信な祭司もヨシュアと名乗りました。

6 イエス神殿に詣でる

 一か月の後マリヤはヨセフに付き添われ、律法にしたがって身のきよめの供物を献げ、なお長子の生命の贖いとして五シェケルの金を納めるため幼子を抱いて、ベツレヘムからエルサレムに上りました。きよめの供物は通常小羊を用います。しかし貧しい者に対しては『二羽の山鳩か、二羽の家鳩のひな』で許されました。言うならば、この『貧しい者』の献げ物がマリヤが辛うじて献げ得たものであったのでしょう。

「シメオン」 

 この国運すでに傾きつくした暗黒の時代にあって、なお天よりの曙光が輝き、イスラエルの平安がもたらされるべき将来を期待しながら待っている人々の中にシメオンと称する年老いた聖徒がおりました。彼は『主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けており』(新約聖書 ルカの福音書2章26節)、まるで獄屋に入れられた囚人のように自由の日を待ち焦がれていたのです。

 今聖き一家が詣で来るにあたり、老聖徒は祈るために神殿に詣でていたのですが、幼子を見るやこれを腕に抱き取り、心は歓喜にあふれつつ神を賛美して、『主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです』(新約聖書 ルカの福音書2章29〜30節)と言いました。

 主に関する聖書の示しを瞑想した老聖徒の期待は空しくならず、世人が当時の全世界を征服すべき大王の出現を夢見ていた間に、彼は苦しみを負う贖罪の預言に心を留めたのであります。彼は将来をマリヤに預言して『ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また立ち上がるために定められ、また反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです』(新約聖書 ルカの福音書2章34〜35節)と伝えました。

「アンナ」

 シメオンのことばが終わらない間に、また一人の聖徒がそこに現われました。名前をアンナと称す女預言者で『この人は非常に年をとっていた。処女の時代のあと七年間、夫とともに住み、その後やもめになり、84歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた』(新約聖書 ルカの福音書2章36〜37節)とあります。アンナは、側に立ちつつ、口の裡に神を賛美し、やがてここを出て、主がイスラエルに現われるのを熱く望みながら、これを喜び迎える準備を整えた『エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に』(新約聖書 ルカの福音書2章38節)、この聖なる幼子の降誕を語りました。

2023年2月5日日曜日

神招き給う町に導かれて

名にし負う クレヨンシン氏 招く町
 先日、NHKの番組のプラタモリで「足利」についての放映があった。かつて住んでいたところでもあるので、興味を抱いて視聴した。ご当地番組はこうして多くの視聴者を勝ち取るのだろう。その番組で初めて知ったことがあった。

 それは本来開業を想定されていなかった「足利市駅」が路線を大いに曲げての開所駅であったということだ。それは当時銘仙の一大生産地(日本一)であった足利に立ち寄るべく、東武鉄道が路線をそのように、したということだった。番組を見ながら、何と私自身が後年その恩恵にあずかった一人であることを知って感慨深かった。

 私は足利から1969年(昭和44年)12月21日(日)に初めて春日部駅に降り立った。それはそれまで通っていた教会が鴻巣駅にあり、そこまで通っていたが、あまりに遠いし不便なので、何とかもっと簡単に行ける方法がないかと日夜思案していたからだ。

 どうして、「かすかべ」が視野に入って来たのか、覚えがないが、それは電光石火のごとく私に臨んできた。漢字三文字の組み合わせは好むものでなかったし、それまで「春日」とくれば「春日野部屋」の栃錦でしか馴染みがなかったので、「かすが」とは読めたが、それ以上はあとがつづかなかった。

 その春日部に足利から電車一本で一時間も乗っていれば着けるというので、期待をもってやって来た。その日はクリスマス礼拝で、その上、洗礼式もあった。その教会に初めて出席したのだ。その日が春日部との初顔合わせで、その日、駅前の食堂に入って食事したのを覚えている。その場所こそ、写真の今回新装なった東口改札口のあたりであった。

 その時、私は人目を気にしながら、一人で主に祈って食事をしたことを思い出す。まわりで楽しく食事している人にとって、もし注意している方がおられれば私の姿は異様に映ったことであろう。しかし、私には自分が神様を信じて霊の新生をいただいているよろこびがあったのだ。

 それまで、婚約者の望むがままに過ごして来た私が、自分で探して来た教会に、婚約者とともに出席するのだという自立した喜びもあった。その後、4年して、住まいを足利から春日部に、さらに3年して、今度は職場を栃木県から埼玉県に移すことができた。

 うかつだが、名にしおう「くれよんしんちゃん」の存在はつい最近まで知らなかった。保護者の方々が「眉を顰める」とは聞いてはいたので、ある程度内容はわかるが、作者が不慮の死をとげられた今となっては作者の意図がどこにあったのか確かめようがない。

 それにしても人の一生はどこで何が起こり、どうなるかわからない。しかし、私にとっては「春日部」が主なる神様から住むようにと招いて下さった土地であることはまちがいない。「高宮(彦根市)」から「足利」へ、「足利」から「春日部」へ、そしてこの先、天の御国がわが終着点であることを思う。

 今日も一人の方がすばらしいみことばを春日部の礼拝、福音集会の中で取り次いでくださった。感謝して以下のみことばを記念に書いておく。

私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。(新約聖書 ピリピ3章20節、4章4節)

2023年2月4日土曜日

うれしい一本の電話

薄曇り 勢揃いする 雀たち
 よく見かける風景だ。しかし、改めて人工と自然の組み合わせの妙に感嘆する。電線、通信線、電柱、どれひとつとっても人の手によらないものはない。そこにたくさんのスズメ(自然を代表する)が並んでいる。空が青空だったら、どんなにきれいだろうと思ったりする。

 しかし、薄曇りでかえって良かった。黒と白を基調としながら幾何学的な線が走る。そして線は電線であり、通信線であるが、それぞれは人々に熱を運び、光を運び、情報を運ぶ。そのことを思わされたからである。今朝、その通信線をとおし、旧友からうれしい声が届いた。18、9歳の時、私が母を亡くした孤独と一方で捗らない受験勉強に焦っていた時、私のために祈り、励ましをくれた友人からの電話だった。

 この友人は家内よりも早く、福音を私に届けてくれた友人だ。その彼が寄越してくれたハガキには

あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。(新約聖書 マタイの福音書6章34節)

と、墨書されていた。その友人とは爾来60年近い交友が続くはずだった。ところが10年ほど前から私が犯した友人への失礼からであろうか、先方から交わりを断ちたいと言ってこられた。私は悲しいことだが受け入れざるを得なかった。

 今朝の電話はその旧友の方から、非礼を詫びる電話であった。私は私こそ失礼の段を重ねましたと言った。それでも先方はいや私が悪いのですと言われた。うれしかった。60年前に私のすべてを気遣ってくれた友人との交わりが一瞬にして回復した喜びであった。

 そして、昨年12月の彦根への帰省の際に、別のひとりの友人に60年前に(まさに、先ほどの友人から励ましをいただいていた、それと同じ時期なのだが)自分がいかにその友人を貶(おとし)める仕打ちをしたかを思い出し、電話をかけて謝ろうとしたことを思った。残念ながら、その友人は今所在不明で、直接ご本人に謝ることはできなかったが、自分の心の中では整理がついていたからである。

 漱石は『心』という作品を残している。「心」とは聖書がもっともたいせつにすることばのひとつではないかと私は思う。漱石はそのことを十分意識してその作品を物したのではないかと思う。ただ、人の罪はカタルシスで終わらせる問題ではない。12月、2月と私の身辺で起こった友人との交わりの回復について主が今私に教えてくださった教訓である。

主は、人の行ないを喜ぶとき、その人の敵をも、その人と和らがせる。(旧約聖書 箴言16章7節)


もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(新約聖書 1ヨハネ1章9節)

2023年2月3日金曜日

新聞とグッドニュース

新聞の 社会批判 何語る
 今朝は、私にしては珍しく早起きをした。ために新聞一面の上半分をざっと眺め渡すことができた。見出しで先ず目についたのが「岸田首相、なぜ防衛費をあげますか」であった。その次に「世田谷の児童36人 官邸宛手紙」であった。そして「世田谷」と言えば、「一家殺害事件」というイメージを思い浮かべる私にとり「児童36人」という追加文字は新鮮な希望ある文字に写った。中身を見てみると、さもありなんと思う内容である。小学校6年生時代の己が意識をも振り返ることができた。

 次にじっくりと観察(?)できたのが、左縦長に位置する二つの記事だった。先ずは夕食の「クリーム煮」のエッセンス。そして、台所のお惣菜の現在の価格一覧である。こちらこそ、近頃にわかに我が掌中のものになってきた感のある、野菜、水産物の一部始終を物語る内容である。朝起きて、夜寝るまで、料理のこと、買い物のことを考えない日はない。

 補聴器なしでは耳が聞こえなくなっている私、記憶がむつかしくなっている家内、いつの間にか、「男子厨房に入らず」の禁(?)を犯してまでして、夫婦の平和共存の道を見出しつつある今の私にしてみれば、ひとつひとつが欠かすことのできない情報の数々なのだ。「リスキリング」だの、何やらわけのわからない横文字が、またしても永田町を駆け巡っているご時世だが、政治の下支えは庶民としては大いに大歓迎だが、庶民の生活感覚にあった政治家が輩出して欲しい、と切に思う。

 一方、右片隅には、きょうが「大豆の日」であることが明記され、24面にわたる紙面のなかで是非新聞社がその中身を開いて目を通して欲しい記事の見出しを載せている。重宝である。いつもは今日と逆で写真には出ていない、もう片面の下部に位置する記事「筆洗」に目を通している(※)。一面全体を広げることは中々難しく、二つ折りにされている片面だけを手に取って朝食の食卓で読むことが多い。

 このような読者のことを配慮して一面は二つ折りでも記事が全文読めるように工夫してある。かつて新聞編集は、このような新聞記事の構成はたしか「腹切り」と言って避けたが、このような紙面構成はかえってありがたいものだと痛感する。何しろ片面の面数でカウントするなら48面にもなる情報をすべて見ることなんて不可能だからだ。私のように時間に余裕のある年金生活者にしてからが、今朝の新聞誌面の48分の1に該当する紙面だけでおさらばで後は「新聞紙」として反故にしてしまっていることが多い。

 だから、この一面をどんな紙面構成にするかは各社とも相当苦心されていると思う。他紙を知らない私は、それを補う意味で、いつもTBSの森本毅郎スタンバイの「朝刊読み比べ」などを聞くようにしているが、残念ながら今日は森本さん、このトップ記事「岸田首相、なぜ防衛費をあげますか」は取り上げなかった。取り上げたのは「ヤフー・LINEと合併」というZホールディングスに関してであった。

 ところで、忘れがちなのが今日が2023年2月3日という「日」であり、確かに日本人にとっては令和5年という令和天皇即位年5年という意味で大切だが、一方、2023年が主の年2023年であることも忘れたくない。そのほぼ二千年前、やはりたくさんの偶像に取り囲まれて「日」を過ごしていたギリシヤ人はどのように生活していたのだろうか。聖書は次のように証言している。まさに人にとって何がグッドニュースなのか考えさせられる一シーンだ。

アテネ人も、そこに住む外国人もみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。そこでパウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「(略)私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に。』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを教えましょう。(略)神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、「このことについては、またいつか聞くことにしようと。」と言った。こうして、パウロは彼らの中から出て行った。しかし、彼につき従って信仰にはいった人たちもいた。それは、アレオパゴスの裁判官デオヌシオ、ダマリスという女、その他の人々であった。(新約聖書 使徒の働き17章21、23、31〜34節)

※「筆洗」が重要な指摘をしている。末尾だけだが転写する。「国難の少子化への各政権の対応もおそらく歴史に裁かれるのだろう。政治家が何を語り、何をしたのかはいずれ私たちの子孫も知る。」

2023年2月2日木曜日

北風よ、起きよ。南風よ、吹け。

北風に ユーモラスなり 風見鶏

 昨日も晴天であった。しかし風は冷たく強かった。散歩道にいつもとちがう道を選んだ。昨日もご紹介した小枝の本体である木を探しにだった。結局見つからなかった。その代わり、写真の「風見鶏」を、カタカタという音とともに、とあるお宅の屋上に発見した。風車と組み合わされた造作である。NとSの記号も鮮やかにその姿は青空に一方向を指し、北風をあらわしていた。

 「北風」と聞けば、イソップ童話「北風と太陽」を思い出す方が多いだろう。しかし私は個人的なことになるが、2002年8月に結婚した三男が結婚式の式次第に選んだ次の聖句を思い浮かべる。

北風よ、起きよ。南風よ、吹け。私の庭に吹き、そのかおりを漂わせておくれ。(旧約聖書 雅歌4章16節)

 私にとって、この聖句は今日に至るまでわからない謎の一つであった。今回「風見鶏」がきっかけで真剣にその意味を調べたくなった。

 この聖句はこの引用聖句の本体である「雅歌」全文の前後関係からすると、花嫁が花婿を思って発する、祈り、願いのことばであり、そのことばはさらに実際は次のように続いている。

私の愛する方が庭にはいり、その最上の実を食べることができるように(4章16節後半)

 それを受けてハドソン・テーラーは次のように述べている(『主イエスとの一致と交わりーーーソロモンの雅歌ーー』52〜53頁より引用)。

 彼女は、どのような経験に対しても十分備えができています。北風がやって来ても、南風が吹いて来ても、もしそれが園の香料をまき散らして主をお喜ばせするならば、それほどよいことはありません。主は彼女のことを、わが園、ざくろやよき実のなるパラダイスと呼ばれました。主をその中にお招きし、よき実をともに食したいものです。

 このことばに対して花婿が答えます。

私の妹、花嫁よ。私は、私の庭にはいり、没薬と香料を集め、蜂の巣と蜂蜜を食べ、ぶどう酒と乳を飲む。(5章1節)

 いまや花婿は、花嫁の呼ぶ声にただちに答えます。彼女がただ主のためのものである時に、主はご自分の満足のすべてを彼女の中に見いだされることを、彼女に確言されます。

 以上がハドソン・テーラーからの引用であるが、この書物の裏には私の字で「1970.1.11~1.17春日部教会で購入」と記されていた。それにしても信仰をいただくかいただかないかの53年前に私にはすでにこの本が用意されていたことを思うと、いかに自分の心が主に対して堅く、盲目であるかを今更ながらに思わせられている。

 なお、三男夫妻が何のためにこの聖句を引用したのか、結婚式当日はわからなかったが、それからしばらくして、私はある時、『日々の光』という毎日朝夕読んでいる聖句集の7月17日にこの聖句も書かれていることを知って思わず微笑まずにはおれなかった。それは何を隠そう。新婦の誕生日が7月17日であったからである。

 『日々の光』の7月17日の夕には5つのみことばが配置されているが、その二番目にこの雅歌4章16節があった。第一番目にあるのは「御霊による聖め」(新約聖書 2テサロニケ2章11節)であった。そしてこの御霊による聖めが、取りも直さず北風、南風を聖霊の働きだとする考え方があることも知った(笹尾鉄三郎全集第1巻244頁参照※)。

 三男家族も私と同じようにその霊の眼は閉じていることだろう。しかし、いつの日か、主イエス様の救いにあずかって、二番目のみことばが一番目のみことばと共通するみことばだと心から納得して、自分たちの結婚また家庭も主の祝福に基づいてなされたんだと思う日が来て欲しいと切に願う。

※これは新婦の言葉である。嬉しさのあまり思わず祈るところである。ある人はこの北風や南風を聖霊にとる。エゼキエル書37章9節およびヨハネ3章8節に霊を風としてあるからである。つまりこの意味にとれば聖霊よ来て下さいという祈りである。北風は死を示すものであってつまり我らに罪を悟らせ、自己に死なせる聖霊の働きを意味し(ヨハネ16章8節)南風は暖かな風であるから聖霊を慰めるお方として味わったのである(ヨハネ16章7節)。

 またもう一つの解釈は摂理の方面から味わい、北風は冷たい風であるから逆境、南風はその反対に順境を示すと説く。2コリント6章8節に「また、ほめられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです」とあるように、どんな風が吹きめぐってきても芳香を発し、ほめられた時も、はずかしめられた時にも同じように香ばしい香りを放つのである。

2023年2月1日水曜日

彼らはわたしの民

如月の われを励ます 三つの実
 今日から如月である。朝食後早々、近くの歯医者さんの治療のためと足を早めていた。歯医者さんは線路を挟んで拙宅と反対側にある。

 方法は二つある。一つは踏切を横断する行き方。もう一つは地下道を利用する方法。時間を節約するために後者を選んだ。いったん、階段を降りガードの下を数歩歩き、その後今度は上がる。ところが、今回上がって行くや、上の方から男の声がした。そのままではぶつかる。上の方はたまらなく声に出されたのだろう。気づき、あわてて歩行を右側に寄せて上がり、事なきを得た。

 昨晩も夢の中で、一人の方の粗相な振る舞いに手を焼いている自分が出て来た。あれやこれやで、日曜日の自らのあり方をこの時も考えながら歩いていたのだ。しかも狭い階段の左側をうつむいての行動なのだから、先方が迷惑がられたのもやむを得なかった。

 一瞬のことで、謝ることもできず、先方の不快な顔を思いながら、路上に出た。そこに黄色い実をつけた小さな枯れ枝が落ちていた。何となく救われた思いがした。歯医者さんの治療を終え、元来た道をたどって帰って来たら、依然としてその小枝は路上に放置されていた。

 何の木かわからないので、植物に詳しい家内に聞くべく、持って帰って来た。家内も知らない木だった。その代わり、「香りがする」と言った。私も嗅いでみた。あるかなきかの香りだったが、確かに香りがした。豊かな気持ちになった。如月は私の誕生月である。主が良いプレゼントをくださった。

わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。・・・わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。(旧約聖書 エレミヤ書31章33節34節)