2014年6月12日木曜日

聖霊降臨(下)

こんもりと 入道雲 天高し 2014.6.8
もう一つの大切な点についてちょっと考えたいと思います。すなわち、天の宝を引き出すこととは、引き出す鍵とは何でしょうか。言うまでもなく「信仰」です。信頼することです。罪の赦しをいただくにも、聖霊を受けるにも必要なのは「信仰」です。イエス様がわれわれの身代わりとなって亡くなってくださったことを知り、信じ、感謝したとき、われわれの罪が赦され、私たちは神の御前に義とされたのです。

イエス様の召天された日のことを考えてください。イエス様は、地上における33年の間、罪と汚れのこの世に住み続けられ、十字架の上で救いを成し遂げられ、よみがえり、召天され、天に昇られたとき、天では口では言い表わすことのできないほどの喜びがあったことにちがいない。イエス様は、すべてのものにまさる名を与えられ、高く引き上げられました。イエス様は、今天の父なる神様の御座におられます。そこから聖い御霊をわれわれに注いでくださったのです。ですから、私たちは御霊の注ぎのために祈る必要はない。二千年前に、一部の人々ではなく、全教会に降り注いでくださり、今すでにわれわれのうちにおられる御霊を心からお受けし、感謝すれば十分です。

われわれのところに、まだ御救いにあずかっていない方がいて救いを求めるとき、私たちは、その人の身代わりにすでに救いを成し終えたイエス様を示し、ともに祈ります。そのとき、その求める人が、「イエス様、あなたは私の罪をお赦しになるでしょう。私を赦したいのでしょう。」と祈るなら、私たちは、その人が御救いにあずかったとはもちろん信じられません。けど、その人が「イエス様、あなたは私の身代わりに死に、私の罪を赦してくださいました、感謝いたします。」と祈るなら、その方の救いの確かさを私たちは認めるのではないでしょうか。

御霊様についても同じです。われわれが「御霊を下さい」と何十年間祈っても同じです。けど、「イエス様、高く引き上げられ御霊をお下しくださいましたことを感謝いたします。」と言って御霊を心にお迎えするなら、私たちはその力を自らのものとすることができます。イエス様は、あとになってから、主となられるのでしょうか。そうではなく、イエス様は今すでに主の主としておられます。ですから、御霊を待ち望む必要はなく、われわれはすでに聖い神の霊を信ずる者としていただいています。心の目で主なる神の事実を見て、そこから湧き出る「信仰」が大切です。すでにイエス様が高められ、われわれの上に御霊をお注ぎくださったことを心の目で見るなら、私たちはこのすばらしい賜物を感謝しないではいられません。御霊を受けるために必要な条件が使徒行伝の2章38節に書いてありますね。2章38節。

そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

二つの条件と、それにともない二つの賜物について書かれています。二つの条件とは「悔い改め」と「洗礼」すなわち信仰の証(です)。二つの賜物は「赦し」と「聖霊」です。

「悔い改め」とはどういうことかと言いますと、一口で言いますと、趣味が変わる、全く変わるということです。以前には罪を愛していたけれど、今はそれを嫌うようになった。以前にはこの世は自分にとって魅力だった、しかし今はこの世の快楽は自分の費(ひ)ではない。以前にはイエス様のものとなるということが恐れであった。けど今はイエス様のものであるということが無上の喜びです。以前はあれこれを努力して自分のものとしようとしたが、今は追い求めるのはイエス様だけです。以前には恥としまた軽べつしていたものが一番尊いものとなったのです。このように全く趣味の変化を経験した者が、はじめてまことの悔い改めをした者と言うことができるのです。

二番目の条件とはこの箇所を見ると「洗礼」です。洗礼は心の信仰のあらわれであり、一つの告白です。一つの証です。イエス様とともに十字架につけられ、ともによみがえらされたことを信ずる者は洗礼を受けることを求めます。この箇所を見ると、罪の赦しと聖霊の賜物を受ける条件が、これまで述べた悔い改めと洗礼であることをはっきり言っています。私たちは悔い改めてほかの人に信仰告白したことがあるのでしょうか。もしそうなら、罪の赦しと御霊の賜物をいただいているのです。罪の赦しは受けているが、二番目の賜物である御霊は受けていないと言うかもしれないけれど、聖書は、「悔い改め」と「洗礼」すなわち信仰の告白という二つの条件を満たすと、それにともなって、必ず二つの賜物が与えられるとはっきり言っています。

もしかすると今日まで罪の赦しというひとつの賜物だけを考えて感謝したかも知れません。けれどそれだけでは結局十分ではない。

イエス様は高く引き上げられた方です。父の右に座しておられるお方です。コリント第一の手紙3章の16節、293頁になりますが、3章16節。

あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

このコリントの信者たちは御霊の現われを重んじて異言や奇跡を追い求めていましたが、主のものとしての実際生活は実に乱れていました。御霊の力が彼らの上に働いていたが、彼らの内に全く働きをなすことができませんでした。これがコリントの信者の実情でした。彼らはもちろん聖霊を受けたが成長していなかったのです。主のものとなった兄弟姉妹は神の宮であり、御霊が内に宿っているという知識は今日の主のものにもどうしても必要なことです。御霊によって、主なる神はご自身われわれの内に住むようになったのです。もしも御霊が確かにわれわれの心に宿っておられるなら、父ならびに御子イエス様は私たちの内に宿っておられます。これは単なる理論ではなく確かな事実です。想像できないけれどほんとうなんです。

もう一つ言えます。われわれの持っている宝はわれわれの歩みを定めるのではないでしょうか。一つの問題があります。いったいどうして聖霊の力を体験することができないのでしょうか。それは内に住んでおられる内住の御霊を恐れ畏(かしこ)んでいないからです。いったいどうして多くの人々の間にはそんなに差があるのでしょうか。ある兄弟姉妹は勝利の生活を送り、ある兄弟姉妹はいつも打ちのめされています。主の御臨在の多い少ないがその結果をもたらすのでしょうか。決してそうではありません。すべての主のものとなった兄弟姉妹の内に御霊を宿しています。内住の主を心の目で見ると生活の内容が全く変わっています。ある兄弟姉妹は御霊の支配に自分をゆだね、ある兄弟姉妹は自分が自分の主となっている。これは大変な問題です。

われわれが、私たち自身は主のものですという事実を認め、主にあって喜ぶことができれば、ほんとうに幸せなのではないでしょうか。

2014年6月11日水曜日

聖霊降臨(中)

琵琶湖東岸から湖西比良山系を望む(2014.6.7)※
エペソ書1章3節を見ると、御霊の賜物はもうすでに今ここにある、ということがわかります。

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

と、あります。 主の賜物はキリストにある。私たちにはもうすでにわれわれのものとなっている。

しかし、その賜物は個人的に自分のものとして受け取る段階に来なければなりません。多くの人々は、それでは聖霊という賜物を個人的に受け取る前提条件はいったい何でしょうか(と、問われるでしょう)。これに答えるために二つの点についてちょっと分けて考えましょうか。第一番目、注がれた御霊。二番目、内住の御霊です。

注がれた御霊について、もう一回使徒行伝2章に戻りますと、次のように書かれています。使徒行伝2章の33節。

ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。 

36節。

ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」 

このみことばの中には、3つのことがふくまれています。それは第一番目、イエス様が救いをなし終えて高く引き上げられたこと。二番目、イエス様は約束の御霊をお受けしたこと。三番目、(イエス様は)この約束の御霊を信ずる者に降り注がられたこと。この3つのことがふくまれています。なぜ御霊の注ぎがあったか。このみことばを見るとはっきりわかります。弟子たちが祈ったからではない。イエス様が高く引き上げられ、御霊をお受けになったからです。われわれの場合もこの事実が当てはまるのではないでしょうか。

もし私たちがほんとうに救われているなら、すでに御霊はわれわれの上に注がれているのであり、あれをやり、これをやるから御霊を受けるのではありません。主イエスが高く引き上げられたことにより御霊が注がれたのです。

われわれの罪がいったいどうして赦されたのでしょうか。私たちが熱心だったからでしょうか。私たちが自分の罪を告白したからでしょうか。決してそうではありません。主イエスがわれわれの罪を引き受けて、われわれの刑罰の身代わりに十字架の上で亡くなってくださったからです。

私たちはなぜ新しいいのちを受けることができたのでしょうか。 集会に集まったからでしょうか。聖書を読んだからでしょうか。決してそうではありません。イエス様がよみがえってくださったからです。

なぜイエス様を信ずる者全部がキリストにあって御霊様を受けているのでしょうか。あのこと、このことをやったからでしょうか。または、あのことこのことをやめたからでしょうか。イエ、そうではありません。私たちのイエス様が高く引き上げられたからです。御霊が降り注がれたことは、イエス様が高く引き上げられた証拠です。

五旬節はイエス様が、主の主、王の王として、諸々の天よりも高く引き上げられた証拠です。あのナザレのイエスはただ単に自らの考えで殉教したのか、それとも全人類の救い主として十字架におかかりになったのか、どうしたら知ることができるのでしょうか。われわれの上に注がれた御霊によってそれがわかります。

イエス様が高く引き上げられたがゆえに、私たちはイエス様を受け入れることによって、聖霊を受けました。イエス様を受け入れた者はみな御霊を受けています。私たちはどのようにして罪の赦しをいただいたのでしょうか。集会に集まり、聖書を読み、熱心に祈ったために救いが与えられたのではありません。イエス様が血潮を流してくださったから、罪が赦され、救われたのです。ヘブル人への手紙9章22節。旧約聖書の引用されている箇所です。血を流すことなしには罪の赦しはあり得ない。

血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。

救いにいたるただ一つの道は、結局、イエス様の流された血です。イエス様の血はわれわれの罪のために流されたのだ、ということを知り、認め、それを心から感謝したとき救われたのです。

御霊も同じ方法で受け入れたのです。私たちはイエス様が高く引き上げられたことを信じました。そのとき、私たちは御霊をお受けしたのです。もし私たちがまことの救われた者であり、イエス様の血が流されていて、なお罪が赦されていないということはあり得ません。同じようにイエス様がすでに高められておられるにもかかわらず、私たちが救われた者として、聖霊を受けていないということもあり得ないことです。

そう言っても私は何も御霊について経験していないので、立場としてはすべてが与えられているとしても、実際には御霊を持っているとは言えないと言うかもしれません。もちろん私たちはそれらを個人的にわがものとして受け取らなければならない。この素晴らしい賜物を個人的に自分のものとして受け取るには、主なる神の永遠の事実に私たちの心の目が開か(れ)なければなりません。私たちは、イエス様がもうすでにすべてを成し遂げられたことを感謝したとき、救いをいただきました。もし、私たちがイエス様の高められたことを見、それを感謝するなら、御霊の力を経験するはずです。

イエス様はわれわれのためにご自分のいのちをささげ尽くされたのです。この事実を心の目で見るとき、救いのためにもがくことをやめるはずです。そして、主の救いに自分の身をゆだね、豊かな赦しをいただくことができます。イエス様は高められ、御霊を教会の上に降り注がれました。もし、私たちがこの事実を心の目で見るなら、「御霊を下さい」と叫び求める努力をやめるでしょう。もし、私たちが聖書に記されている主なる神の永遠の事実を上からの光によって、啓示によって知らされると、主はわれわれに信仰を与えてくださいます。そして、この信仰により神の事実はわれわれのものとなります。

ある若いキリスト者があるとき、「主よ、御霊を私に下さい」と祈り始めましたが、すぐそれは誤りであると気がつき、「主よ、もうすでに私のうちに御霊を与えてくださったことを感謝します」と祈ったところ、御霊の力を内に経験し、その者の生活が完全に変わって来たということです。

(※気候変動激しい日々である。「雲間から 光溢れて 湖上に 御霊もまた かくの如きか」)

2014年6月10日火曜日

聖霊降臨(上)

今日※は聖霊降臨祭、ペンテコステです。確かに日本のカレンダーには書いていないかもしれないが、外国のカレンダーでは必ず書いています。もちろん今日だけでなく、明日も必ずどこでも休みです。アイドリンゲンでも今日は8000人以上の若い人々が集まるようになりましたし、前に入っていた団体リーベンゼラー・ミッションでも恐らく8000人くらい集まるようになるのではないでしょうか、と思います。

御霊が来られた、約束どうりに。イエス様は「わたしがあなたがたから離れたのは、あなたがたにとってしあわせです、御霊を送るからです」(と言われました)

けれども、「御霊」とはいったいどのようなお方なのでしょうか。

今より百数十年前の地図を見ると、アジア・アフリカ・オーストラリアの一部分は白いままで残されており、地図の傍注にはまだこの地方は調べ尽くされていないと、書かれており、河川も実線で示されておらず、点線で示されていました。また地図によっては都市の所在地もまちまちという有様でした。イエス様を信ずる兄弟姉妹の経験におきましても、その地図のように白いままで残されている未知の世界があるのではないでしょうか。とりわけ御霊についての知識に乏しい人が多いのではないでしょうか。

今読んでくださった箇所を見るとわかります。エペソの信者たちがやはりそうだった。もう一回読みましょうか。使徒行伝19章1節から

アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。そして幾人かの弟子に出会って、「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」と答えた。「では、どんなバプテスマを受けたのですか。」と言うと、「ヨハネのバプテスマです。」と答えた。そこで、パウロは、「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」と言った。これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。その人々は、みなで十二人ほどであった。

とあります。パウロが彼らに、「信者になったとき、あなたがたは御霊を受けたのか」と聞いたとき、彼らは御霊なるものがあることさえ聞いたことがなかった、とあります。御霊の世界はエペソの信ずる者たちにとって、結局、未知の世界でした。父なる神のことはよく知っていて、主なる神は全宇宙の創造者であり、われわれの父であり、全能にして愛に満ちておられるお方であると、心から言うことができました。またイエス様のことも身近に覚えて、イエス様はわれわれの救い主であり、私たちの持てるただ一つの富です、と言うことができたんですけど、御霊は尋ねられますと、御霊についての知識は持っていても、実際には不確かなぼんやりしたものにしか感じていないようです。

御霊と私たちの間の関係はわれわれの霊的生活、霊的信仰に欠くことのできない関係です。 新約聖書によると初代教会の兄弟姉妹にとっては御霊はほんとうに現実的なお方だったことがわかります。初代教会の兄弟姉妹は「御霊」に教えられ、「御霊」に満たされ、「御霊」に導かれたのです。彼らが御霊に語りかけられたということは使徒行伝に書かれています。たとえば、8章29節

御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われた。

御霊が言われた。10章19節。

ペテロが幻について思い巡らしているとき、御霊が彼にこう言われた。「見なさい。三人の人があなたをたずねて来ています。さあ、下に降りて行って、ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。」

結局、御霊が言われた、とあります。13章の2節

彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」と言われた。

結局、聖霊は話された、命令した、とあります。それだけではなく、初代教会の兄弟姉妹が、御霊に満たされたということは、やっぱり使徒行伝をとおして知ることができます。2章の4節

すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

4章31節。

彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。

13章52節

弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。 

と、あります。初代教会の兄弟姉妹が、聖霊によって導かれたということも使徒行伝をとおして知ることができます。15章の28節。

聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。

云々とあります。もう一ヵ所。16章の6節。

それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。

と、あります。

各集会に親しく臨在なさる御霊は、まだ主を信じない者にとっては非常な恐れを抱かせ、すでに救いにあずかっている人々には勝利と喜びを無限に与えたのでした。

旧約聖書においては、御霊を内に宿していた人々はちょっと少なかったようです。限られていました。すなわち、主に特別に選び取られた祭司たち、王たち、士師、預言者たちだけだったんです。新約聖書の今では、聖霊の賜物はすべての救われた人々が持つことのできる特権です。神の友であるモーセ、神のみこころにかなったダビデ、力に満ちた預言者エリヤに臨んだと同じ御霊が今日信ずる一人一人に内住しておられます。御霊の賜物により、現代のすべてのほんとうのキリスト者は、旧約聖書において、主に特別に選び別たれた主の器と同じ水準に、立場に置かれています。ローマ書5章の5節。よく知っているすばらしい箇所です。5章5節。

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた(過去形ね)聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

8章、同じくローマ書8章9節。

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

われわれに与えられるすべての賜物は、キリストにあって私たちに与えられます。
(※6月8日、この日曜日に吉祥寺集会で語られたベック兄のメッセージの聞き書きである。)