2010年8月24日火曜日

「人間の姿勢」とは


 過日、家内の中学時代の先生だった方と夫婦で会食に招待され、お話を伺う機会があった。(本当は話が逆で、喜寿になられた先生を私たちが招待するのが本筋であるが・・・)その先生に家内は直接教わらなかったが、家内が二年のときに初めてその中学に赴任されたと言う。ただその後、妹の担任となられ、教員であった家内の父親とも知り合いだったので、その存在を覚えていただいていたようだ。教わりはしなかったが、もう一人の先生と一緒に、様々な問題のあったその中学を徹底的に改革しようとされていた若い熱血漢の先生としての印象が今も鮮明に残っている、と言う。私たちはおよそ7時間ほどのその先生のお話をもっぱらお聞きする側にまわった。そしてそれはすべて決して退屈することのない滋味に富んだ話であった。
 
 小学校、中学校、高校の各先生を経験され、高校の校長も勤め上げられ、退職後は大学や大学院のの講師として後進の教育に当たられ、文字通り「教育一筋」に生きて来られた方である。お話をお聞きしている間中、この方とは対照的な自分の教師生活の腑抜けさを大いに恥じ入らされた。たくさんのお話をお聞きしたのだが、以下の話はその先生が初めて小学校の教師として赴任された昭和30年代初期の話である。

 下宿の真ん前は電気屋さんでね。まだテレビのない時でしょう。野球のナイターが始まると電気屋さんの前が一杯になるんですわ。その隣に○君の家があってね。その○君のお母さんが毎朝立ってはるんですね。ちょっと太っちょでね、笑顔のいいね、それが毎朝言わはるんですわ。「先生、おはようございます!」と挨拶して、それで「今張り切ってやるけど、もうすぐだめになるよ」って毎朝言われるんです。それ言ってもいやな感じしなくって言われるんです。

 でもアンマリ言われるから、時間に余裕があった時に、「なんでそういうこと言われるんですか。ちょっとさしつかえなかったら理由を教えてください」って言ったら、「そんな先生決まってますがな」こう言わはるんです。「決まっている、と言ったって、ぼく全然わからんがな。」と言うたら、石部というのは旧東海道の宿場町やから道一本でしょう。そこへ通勤の先生がそこを通らはる、まあそれしか道がない。ほんで先生の顔見てると、新しい先生やなあーとわかると。そういう先生も精々一年か一年半経ったら普通の顔になってしまはる。それで先生の教育の姿勢が分かると、それで言うてるんやと。毎日一ヶ月近く言われるからいっぺん聞かなあかんと思うてね。聞いたんやけどね・・・

 お聞きしていて心温まる話だった。このお母さんの眼力は鋭い。それだけでない。そう言われた先生がその言で引っ込まず、それを「ばね」にして51年にわたる教師生活を送ってこられたことを象徴する大切な話だと思いながらお聞きした。しかもこの先生は、私たちのようなでたらめな後進の者に膝を屈して、福音の真髄を求めて招待してくださったのだ。

 私は石部町のこのおばさんと先生の話を聞きながら、バプテスマのヨハネがイエス様について次のように言ったことばを思い出していた。

あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。(新約聖書 ヨハネ3:30)

この言もまた路傍でなされた言であろう。「なんでそんなことを言わはるんやろ」と思う人はおられないだろうか。その言を解く鍵は次のイエスご自身の言明である。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(新約聖書 ヨハネ14:6)

(招待してくださった大津プリンスホテルの最上階38階から見下ろした風景。)

2010年8月2日月曜日

聖書は私たちの海図 ホッジキン


 今日ややもすると「私たちはキリストを信じているから、聖書を読む必要はない」と言う人があると聞くが、神様が聖書を通して示された黙示とも言うべきことばを離れて、どれほどキリストを識っていると言えるだろうか。聖書以外の書物はわずかにキリストの事跡が歴史と一致していることを示す程度であって、キリストのご人格やその教訓やみわざについては何も記していない。

 聖書によってキリストを知らない者が、聖書に関係なく、その心に語りかけられ黙示を受けたと言っても、どれほどキリストを知ることができようか。人間の良心と理性とがどんなに不十分な導き手でしかないかは、聖書中の士師記が実例を挙げて明らかに証明している。「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた」と士師記の中には二度も書いてあるが、それは、決して彼らが良心のとがめることをしたのでなく、自分の目に正しいと見えたことを行なったにもかかわらず、その結果は、恐るべき罪の極限にまで達したのである。

 士師記の記者は多分サムエルであると思われる。本書は王政が建てられた後(士師21:25)、ダビデがエルサレムを攻め取る前に(2サムエル5:6~8)、サウル王の治世中にサムエルが書いたのだろう。「そのころ、イスラエルには王がなく」という言葉は、法律を執行し秩序を維持する外形的な王が無かったことを示している。しかしこの語は、私たちにとってはまことに深い意味があるように聞こえる。

 これは、実はある人々の心の写真であって、私たちの心の中に主イエス様が一切を治める王として在(いま)さないので、私たちが自分の目に正しいと見えることのみをしたならば、直ちに士師記の状態に陥ることを教えている。聖書には王国の律法が書いてあるが、もしこの律法を棄てるなら、その国民は不忠義な民であることは言うまでもない。「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。」(詩篇119:9)

 信仰生涯の航海において、自分の小船(心事)の安全を請い願うならば、船の中に、聖書という海図と、聖霊という羅針盤とを備え、主イエス・キリストを船長として迎えておらなければならない。もし航海者が、私には羅針盤があるから海図の必要はない。または、海図があるから羅針盤の必要はない。と理屈ばっていたとしたらこれほど愚かな話はない。羅針盤はつねに北を指しているように、聖霊は常にキリストを指している。聖書もまたキリストについて証しているが、この二つは互いに一致するものであって、聖霊は聖書に黙示されたキリストを携え来たって、私たちの霊魂のためにこれをいのちとせられるお方である。

(『66巻のキリスト』ホッジキン著笹尾鉄三郎訳101頁から抜粋引用。若干訳を変えたところがある。写真は昨日に引き続き、茨城、日立灯台下にある公園から眺めた太平洋。天気の良い日には地平線がすっきり見えるという。)

2010年8月1日日曜日

心を守れ クララ


「油断することなく、あなたの心を守れ」(箴言4:23)

 すべてのものにはそれぞれに目的があり、その目的を完成するために作られたのです。男性は男性としての道、婦人は婦人としてのあるべき道、そこには混乱をゆるされない厳かな道が定められてあります。ところが現代は靴の先まで足の先まで見なければ男だか女だか見分けがつかないと言う混乱ぶりです。あなたの心を守れと叫ぶ声がひびきます。

 今から三、四百年も前、まだ印刷術が充分に発達していなかった頃のことでしょう。一人の思慮深い人がスコットランドに来ましたが、当時スコットランドには聖書がありませんでしたので彼は考え、箴言を千部つくって人々に読ませようと努力しました。一人が読み終えると次の人、次から次へと皆に読ませました。この努力が長い年月つづけられました。箴言のお言葉がスコットランドの人々の心に根を張りました。世人はスコットランドの人々を評して「賢い人、実際的な人、さらに倹約な人々」だと言いました。

 この真実なよい性格は千部の箴言のもたらした結果です。聖書の一部である箴言が生み出した美徳でこの心の土台から生命の泉は流れ出て人を生かします。

 ああこの小さな聖書の分冊、箴言がスコットランド人をこんなにつくり上げたことです。生命の言葉を心に蓄えると言うことの偉大な効果を思いますが、現代は漫画がはんらんし、大学生の机上にも幼児の本箱にも漫画の洪水で、垣根も屋根も押し流されています。この結果として来るのは何でしょう。何のよきものを期待できましょう。

 賢く、実際的なそして倹約な精神はどこにあるでしょう。「まかなくに何を種とて浮草の波のまにまに生いしげるらん」で、得たと思うものは根なし草ではありませんか。

 聖書はお言葉を大切に心にとめよ、耳を傾けよ、目をはなさずあなたの心のうちに守れといましめています。聖書の言葉は神の目的を知る道です。神が人に幸福を得させるために記された大切な記録です。これを守り行なえばあなたの後の子孫は幸福になる、との約束は確実です。

 作品は作者の心を現わすものです。この地球をつつむ愛の大気、静かに大気は愛の手に大地を支えています。学者の研究では日毎に二億の隕石が大地に向かって飛んで来ます。しかしそれが大気圏内に入ると焼失して姿は失われてしまいます。もし大気が地球を守らなかったとするならば、丁度月のように人も生存できないクレーターとなってしまいましょう。しかし愛の大気は静かに地球をつつみ外敵を消滅させ、大きな隕石は人身で処理できるように消失して落ちて来るとは何と言う神の愛の作品でしょう。

 私共は神の愛によってつくられた作品です。油断することなく、心を守りましょう。地球が大気につつまれているように我が魂も愛の大気につつまれて!!

(『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著1976年刊行7月31日の項、鈴子さんの文章より引用。鈴子さんのペンネームはクララ。写真は日立の古房地鼻<こぼうちはな>にある灯台。初めて今日いわきのTさんの車で連れてってもらい拝見しました。言うまでもなく向こう側が太平洋です。松の木はしっかりと大地に根を張って、吹き寄せる潮風に弓なりになりながらも、倒されることなく立っています。「箴言は スコットランド 魂の 灯台の如 根となりゆけり 」)