2012年6月29日金曜日

五つのパンと二匹の魚


  昨日の家庭集会も沢山の方が集われた。久しぶりの方や、遠方から来られる方や、新しく初めて集われる方もおられる。昼間の集会は、大体女性が中心だが、それでも最近はリタイアされた方が徐々に多くなってきて男性が二・三割程度を占めるに至っている。

 最近、お聞きした言葉の中で印象に残っている言葉の一つに「無から有を生み出す」という言葉がある。このことばは自分のうちに何の良きものがないことを知らされた方が、主なる神様から一方的に恵みを受け、そのことに感動して、自ずと発せられたことばである。

 さしずめ、この家庭集会もその最たるものであろう。メッセージをお願いする方も、証しをお願いする方も二三週間前には決まっていない。ところが、祈りのうちに、それぞれふさわしいと示された方にお願いする。お願いされた方はもちろん断る自由がある。今回の場合、ぎりぎりではあったがそれぞれ快く引き受けて下さった。

 それぞれ自らの予定や仕事のある中で都合して下さる。ところが予定は予定で、当然予期せぬことが見舞う。本来準備ができると思っていたのに、とてもその準備だけに専念する時間が持てない。そのような時に何で約束してしまったのかとほぞを噛む。しかし後の祭りである。これは私自身の経験なのだが、そのような時に不思議とふさわしいみことばが示される。その時に「無から有を生み出す」ということをしみじみと実感するものだ。

 果たして昨日のメッセンジャーと証し人がどんな苦心・工面をされてその場で語られているかはわからない。聞く側では完成されたものとして伝わる。メッセージの引用箇所はルカ9:12〜17で「主の祝福のために」というのがその題名であった。人が浅ましくも目に見えるものに左右されて、いかに神のみことばに頼らない存在であるか、弟子と主イエス様の行動を対比的に語られ、あくまでも主を仰ぎ見られたイエス様の信仰にならうように語られた。結びの言葉としてエレミヤ15:16の以下のみことばが読まれた。

私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。(旧約聖書 エレミヤ15:16)

 ところが間をおいて証しをして下さった方は、今日、私がお伝えしたいと思ってやってきたのはこのみことばに尽きると言って話を始められた。12年間集会に集いながらも、義務的に集っているだけで喜びも何もなかった。しかし、ある時から主イエス様を頭で理解できたからでなく、自分のうちに生きておられる方だと心の大切な箱の中におられる方に気づいた。そしてそのお方の前ではありのままで良いのだと知った。爾来、3.11の恐怖も体験したが御霊なる神様にまかせて平安をいただくようになったと語られた。

 そして聖書が万人の手に渡るために現在、主がどのようなみわざを進めていて下さるかを語って下さった。神のみことばはただである。そのために私たちがささげられるものは二匹の魚と五つのパンに過ぎない。しかし、何とかみことばをすべての人に伝えたいと持てる財を無駄にしたくないと言う信仰者の歩みに感動した様子を伝えてくださった。

渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。(新約聖書 黙示22:17)

  家庭集会は多くの人の祈りに支えられている。また多くの人々の必要に答えてなされる。今回の家庭集会も全く無から始まった。しかし、お二人のメッセージ、証しを通して、主に対する信頼を新たに体験できた。

主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。(箴言10:22)

2012年6月28日木曜日

大きな試練は大きな力を意味する(下) L.B.カウマン

薔薇展 in Paris by Nobuo

 ああ、それはなんという悲劇でしょう! 私たちの愛する天の父は、私たちがあらゆる必要に対処できるようにして下さっています。なるほど信仰は超自然的なことを取り扱うものです。しかし神は、私たちひとりびとりに、その超自然的なことを理解する能力を与えようとして、心を砕いておられるのです。

 パットン博士は、新約聖書をある島の言葉に翻訳していた時、「信仰」という語に当たるその土地の言葉がなくて、非常に苦心しました。ある日、博士が書斎で翻訳に熱中していた時、土着民の教師のひとりが、長い道のりを歩き疲れて、博士の書斎にはいって来ました。彼は籐椅子に身を投げかけ、足を別のいすの上に置き、額の汗をぬぐいながら、「私は自分の全体重をここにかけている」という意味の言葉を口に出しました。その瞬間、パットン博士は探し求めていた言葉を見いだしたのでした。あなたはただ、日々、神に「あなたの全体重をかけ」ればよいのです。信仰は、神の聖なるみことば以外のどのようなものにも、より頼むことをしません。「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか」(新約聖書 ヘブル10:23)

 この点において、非常な注意が払われなければなりません。感情に基づく、うわべだけの「見せかけの信仰」が、しばしば真の信仰に取って代わっています。楽しい情緒や深い満ち足りた経験は、キリスト者生活の一部です。しかし全部ではありません。試練や戦いが前途に横たわっています。それらは私たちにとって不幸なものとみなされるべきではなく、必要な訓練の一部とみなされるべきです。こうしたいろいろの経験のすべてにおいて、もし私たちがキリストの前に従順に歩みたいと思うなら、私たちの感情がどのようであろうとも、内住のキリストにより頼むべきです。多くの人々はこの点で失敗しています。彼らは信仰によるよりも、むしろ感情によって歩もうとしているのです。神のご臨在の事実と、その事実に伴う情緒を区別すること—ここに信仰の永遠の秘訣があります。

 しかし、そのような信仰はどこに見いだされるべきでしょうか。それは、私たちが絶体絶命の状態に陥る時、私たちの心の中に生まれます。窮地に追い詰められる時、私たちは神以外に助けのないことを知らされるのです!

 私たちの主は「神を信じなさい」と言われました。神に対する信仰は、聖霊によって私たちの心のうちにもたらされます。信仰の道において、私たちは、主の思いは私たちの思いとは異なり、主の道は私たちの道とは異なっていることを学びます。肉体的な領域においても、霊的な領域においても、大きな試練は大きな力を意味します! たとい環境が私たちを死に導くとしても、それは災害を意味しません。なぜなら、もし私たちが主に信頼し、忍耐強く待つなら、それは主のすばらしい御力が表わされる機会となるからです。信仰は魔法の薬でも、霊的な麻酔剤でもありません。それは、この世と戦い、この世を征服する勝利なのです。

 信仰
 力強い信仰は神の約束を見る、
 そして、神だけを見つめる。
 それは不可能を笑い、そして叫ぶ、
 「それはなされるのだ」と。

(『一握りの穂』L.B.カウマン著松代幸太郎訳88〜89頁より)

2012年6月27日水曜日

大きな試練は大きな力を意味する(上) L.B.カウマン

飛騨高山の宮川の清流

 困難な苦しい立場—きびしい試練の場—に置かれた時、キリスト者はどのようであるべきでしょうか。キリスト者のとるべき態度はただ一つ、それは単純な、ゆるぐことのない神への信頼です! 困難な環境を見ることを拒否し、それを超越することです。このことをする唯一の確実な方法は、神に近く生活することです。ターボ過給器をつけることによって、飛行機のエンジンの出力は、10キロメートルの高空においても少しも低下しないように(普通のエンジンでは、このような高度において出力の5分の4が失われます)、神のみことばに耳を傾け、神に従いつつ、神とともに歩むキリスト者は、人生の最も困難な高空においても、強くあることができるのです。神は、どのような誘惑、どのような危険よりも、更に強くあられます。そして、神を心の中に持っている人は、征服されることがないのです。

 しかし、神はしばしばご自分の子供たちを、非常な困難の中に置かれるようです。彼らを、のがれる道のない窮地に陥れ、人知ではとうてい想像することもできないような境遇をつくり出されるのです。

 そのような時、「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです」(新約聖書 マルコ9:23)というイエスのお言葉が、更に深い意味を持ってきます。神に対するこのような種類の信仰こそ、人生の問題や試練を解決する最も実際的な道であるということを、はっきりと悟らなければなりません。それは感じではなく、視覚でもなく、理屈でもなく、神のみことばをそのまま信ずることです。私たちの経験は、そのような信仰が日の出を早めることはないが、夜の間を短く感じさせることを示しています。

 どのような下層社会の落後者も、信仰や信頼を失ってしまった人ほどには悲惨な状態にありません。フランシス・ブラウンは次のような物語を述べています。一団の巡礼者は、自分の家族全部の乗った船が沈没したことを語りました。またある巡礼者は、過ぎ去った青春時代の楽しい思い出を語りました。更に他の者たちは、消え去った黄金や名誉について語り、また当てにならない友人たちのことを語りました。すると、「あらゆる悲しみから解放されているように見える見知らぬ人」が言いました。

 あなたがたはいろいろの悲しい損失をこうむりました。
 しかし、私のこうむった損失は、
 あなたがたの損失よりも更に悲しむべきものです。
 信ずる心が私から去ってしまったからです。

 巡礼者たちは言いました。
「ああ、見知らぬかたよ、あなたの損失は、人生における最後の、そして最も悲しいものです」。

 この判断は正しいのです。人生における最大の損失は、信仰を失うことです。ある筆者は言ってます、「キリストがペテロの信仰を維持することに心を砕かれたことは、次のようにだけ説明することができる、『キリストはペテロが失敗しないように干渉することはなさらなかった。しかし、ペテロの信仰がなくならないように守られたのである』 と。人は名誉や名声を失う時、損失をこうむる。しかし信仰を失う時、最大の損失をこうむるのである」。

(『一握りの穂』L.B.カウマン著松代幸太郎訳86〜88頁より。昨日の火曜の学びは「平安を得るための苦しみ」という題で、出エジプト15:22〜27をテキストとして語られた。苦しみ、試練はキリスト者が予想しなければならないことであるが、そこにおいては避けるべき危険がある、それは神様へのつぶやきであると指摘された。そして何よりも取らなければならない態度は主に叫び求めることであり、そのとき万能薬であるイエスご自身が示されるのだと、モーセの故事に照らして語られた。結びのみことばは2コリント4:16〜18であった。主イエス様は試みある者を決して捨てられない唯一の神様であることを感謝したい。明日は引用文の後半を載せる。)

2012年6月26日火曜日

古い粗末な十字架

ここは飛騨高山山中

自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(新約聖書 マルコ8:34)

The Old Rugged Cross


On a hill far away stood an old rugged cross,
The emblem of suffering and shame;
And I love that old cross where the dearest and best
For a world of lost sinners was slain.

Chorus:
So I'll cherish the old rugged cross,
Till my trophies at last I lay down;
I will cling to the old rugged cross,
And exchange it some day for a crown.


Oh, that old rugged cross, so despised by the world,
Has a wondrous attraction for me;
For the dear Lamb of God left His glory above
To bear it to dark Calvary.


In that old rugged cross, stained with blood so divine,
A wondrous beauty I see,
For 'twas on that old cross Jesus suffered and died,
To pardon and sanctify me,


To the old rugged cross I will ever be true;
Its shame and reproach gladly bear;
Then He'll call me some day to my home far away,
Where His glory forever I'll share.

古い粗末な十字架

遠いある丘に、古びた粗末な十字架が立っていた
それは受難と恥辱のしるし
私はその古い十字架を愛する
最愛で最良の人が、失われた罪びとのために殺されたその十字架を

くり返し:
私はその古びた粗末な十字架を大切に思う
いつの日か私が勝利の品々を積みおろすまで
私はその古びた粗末な十字架から離れない
そしていつの日かそれを栄光の王冠へと変える

あの古びた粗末な十字架、
あんなにも世にあざけられたあの十字架は
驚くほどわたしを惹きつける
神の子ひつじが天での栄光を捨てて
真っ暗なカルバリまでを耐えられたのだから

あの古びた粗末な十字架は、聖なる血がしみついた十字架は
私には驚くほど美しい
私をゆるして聖め別つためにイエス様が苦しみ、死なれたのは
あの古い十字架の上だったから

あの古びた粗末な十字架に、私はどこまでも従います
その恥も非難も喜んで耐えましょう
いつの日にか主が、私の遠いふるさとに呼び戻してくださいます
そこで私は永遠に主の栄光に共に与るでしょう

(この英詩は先週の日曜日に年少の友から、プレゼントとしていただいたCDに添えてあったもので訳文は彼女が訳したものである。CDには全部で13曲あった。ピアノとギター、そして鳥の声など自然を組み合わせた美しい曲でいずれも主を賛美するものである。特に上の詩と曲は私には涙なしに読めないもの聞けないものであった。訳詩がいいと思うので、ご本人の承諾をいただいて掲載させていただいた。この曲はGeorge Bennardの作曲になる日々の歌118番〈聖歌402番〉の変奏曲と思われる。)

2012年6月25日月曜日

Deus maximo in minimo

「お帰りなさい」とここを狭しと咲き乱れていた裏庭のあじさい

 神は、最も大きな仕事や、最も栄光に満ちた奉仕のために、十分な力を所有しておられます。神は彼の僕らが霊的な力の欠如のために弱り果てることを望みたまいません。サムソンは獄舎につながれて粉ひきをさせられました。これは大きな巨人が女奴隷のする仕事をさせられたのです。それでも彼はくたびれ果ててしまいました。このことは、不従順のゆえに、主の御霊の力を失ってしまった者にも同じように起こることです。

 主の御霊によってのみ弱い者は強くなり、病的な野心を抱く者は神の家に対するほんとうの熱意に燃え始め、臆病者は勇気に満ちた者となり、沈んだ者は大胆になり、疑う者は信仰の戦士となることができます。

 主の僕にとっては、天賦の才能などは十分な装備とはなりません。雄弁と知識とにひいでた多くの天才が、この世に生を受けたのでありますが、何の痕跡も残すことなく死んでしまっています。しかし、一方神は、人間の目からはとるに足りない者や、ほとんど名の知られていない者を用いたもうているのであります。この事実に関しては、教会の歴史が豊富な証拠を持っています。

 決定的な原動力は、神の御霊の力であります。すべての生まれつきの才能は、神の賜物であります。しかし神は、まずそれをきよめるために、自分の力の中にそれをとりたもうのであります。最上の外科手術の道具でも、それを使用するためにはさびないようにしておかなければなりません。キリスト者の剣も、主の戦いにおいて役立てようとするには、御霊の油脂でよくふいておかねばなりません。いっさいは神の配慮にゆだねられなければなりません。他の人々に幸いとなるような生活を送ろうと思う者は、自分自身とではなく神と相談してみなければなりません。

 「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです」(2コリント4:7)「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」(使徒1:8)。

 「 何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました」(2コリント3:5〜6)。

 「私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです」(1テモテ1:12)。

 こうして、ここに御霊の充満の強大なる逆説があります。すなわちキリストを信ずる者が、心に深く巣食っている罪に悲しみ嘆いている時に、神の目は勝利を得つつあるそのキリスト者の上に注がれているのです。鹿が谷川の水をあえぎ求めるように、心が神をかわき求める時に、その人は喜びと力の泉から絶えず飲んでいるのであります。御霊に満ちた者が、自分の貧しさのために深くうめいている時に、彼は死に瀕している世に向かって、力があふれている豊かないのちの生活を送っているのであります。

 「神は最も小さいものの中において最も偉大である」(Deus maximo in minimo)との古いラテンのことわざは、この関連においても理解されるように、真実であることを証ししています。

(『聖霊を信ず』フレデリック・ヴィスロフ著名尾耕作訳358〜360頁より引用。 フレデリック・ヴィスロフ氏については大方の読者が知られないのではないか。かく言う引用者も知らない。本の紹介によると、1904年にノルウエーに生まれ、1956年には日本も訪問されたと言う碩学は「Rest a While」という八カ国語に翻訳され30万冊が売りつくされたと言う。残念ながら日本ではこの一書が翻訳されているに過ぎない。しかも1956年の訳書出版で、ほぼ半世紀前の書物となってはお手上げである。今回何気なく旅先で読み続けることになったこの本の中には紹介した文章以外にも真実がたくさん書き込まれていた。著者の信仰はこの一書をもって十分うかがうことができる。我らの人生もそのようなものであればどんなに幸いであろうか。)


2012年6月24日日曜日

毒草は摘み取るべし

多くのキリスト者が生活しているというのに、何と幸いが少ないことでしょう。それは彼らが、神に身を委ねる時に、何かが欠けているためであり、また彼らの聖化が何かしら妨げられているためであって、彼らはもはや神の御霊に満たされてはいないからであります。

 キリスト者が世と妥協する時には、その人の霊的な力が弱められることは不可避なことであります。「光とやみとなんの交わりがあるか」(新約聖書 2コリント6:14)。できるだけこの世とおなじように日々を過ごしながら、しかもはっきりとキリストへの信仰を否定しないキリスト者は、決して周囲の人々に対して幸いとはなりません。「あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって造りかえられなさい」(ローマ12:2)。今日神の国の発展の最大の妨害は、実にこの世俗的な心を持つキリスト者なのであります。この世のことや、世俗的な興味と快楽に傾いている心は、神の国における収穫を破棄しようとする毒草であります。

 わたしたちの時代もまた、ヨハン・アーントの次の古いことばをきく必要があります。「もし諸君が心の中に、御霊のたいせつな富をしまっておこうと思うならば、神と神の国とから諸君をひき裂くいっさいのことに対して用心しなければならない。諸君はそのときには、この世の仲間や慰めや歓喜を恐れるであろう。そして、諸君がどうしても、この世俗的な環境の中を動きまわらなければならない時には、みずから制することができるようにと祈り、心を神に向けよ。そうすれば諸君の心の奥に平安と喜びをもった聖霊を再び持ち続けることができるであろう」。

 多くのキリスト者の生活が、貧弱きわまるものであり、幸いに欠けている主要な原因は、彼らとこの世の関係の中にあります。あなたがこの世的な霊を無くしてしまおうと考えないうちは、神の御霊に満たされようなどと期待してもできないことです。

 たしかにこの世から離れた生活と、神に捧げられた生活とが、その霊的な生活のほとんどを今一度この世にもたらすことができます。もしもあなたが、この世に対して幸いをもたらす者であろうと思うならば、まずこの世に別れを告げなさい、そして後に、新たな姿をもってこの世をあなたと再び出会わせなさい。その時、この世はあなたに注目するでしょう。この世があなたを見るときには、あなたが身に帯びているすがた、あなたの救い主をただちに見ることでしょう。

 自己本位と不従順その他すべての罪は、キリスト者の力を腐蝕し荒廃させます。豊かな生活を送ろうと欲する者はすべての罪を放棄し、自分の生命すらも死に渡してしまわなければなりません。主に対して、自分の一部しかゆだねないことによって、多くの主の僕らの霊的な力が、制限されています。いっさいが神のみ心のままにゆだねられていないからです。主の聖壇の上に、すべてが横たえられない前には、主の火は下らないのであります。あるキリスト者たちの行なうすべてのことの中に、自我が現われています。彼らが欲することは、神のためではなくむしろ自分のためであります。うわべは主の家に対して熱心であるかのように見えながら、その実はただ自分の個人的な名誉に対する病的な野心を仮装させているにすぎないのです。あるいは、彼らが大胆さを欠いている根深い理由は、激しい野心をあらわに示そうとしない点にあるのです。彼らの働きの中に喜びを欠いているのは、ほかの主の僕らに対するそねみとか、冷たい心によるものであります。エルサレムのために、主が涙を流したもうた時に現われたものは、エルサレムの人々の進歩があまりにもわずかであったことに対する悲しみでありました。

 これらの中にあって、すべての正しい主の僕は、一生の間世と戦わなければなりません。彼はくり返し、古い自我が再び頭をもちあげることにいつも気がつくのです。しかしながら、もしも御霊の力を働かせようと思うならば、古い自我に対して戦うこともせずに黙認してはなりません。正しい主の僕がしなければならない献身は、自らの野心的な自己を死に渡してしまうことであります、しかもそのような献身については、非常に熱心でなければなりません。十字架につけられた自我が、まだ生きているぞと叫ぶたびに、御霊の力を新たにし、再び自我をしっかりと十字架につけて殺してしまおうと、容赦なく釘をうちこまなければなりません。古い自我の最小部分に対しても、寛容であったりゆるしたり看過したりする主の僕は、祝福のない無力な奉仕しかできません。「尊い器」となりたいと思う者は、「きよめられ、主人に役立つものとなり、すべての良いわざの間に合うようになる」(2テモテ2:21)ことが必要であります。

 「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つものである」(ルカ17:33)「手をすきにかけてからうしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである」(ルカ9:62)

 (「聖霊を信ず」355〜358頁)

2012年6月23日土曜日

きょうもこの世に夜が訪れてきています。

御霊に満ちた者ほど、キリストの苦しみにあずかる交わりを十分に経験するものは他にありません。御霊に満ちたキリスト者のように、世の苦しみを自分の苦しみとしてながめたり、感じたりする者は他にはありません。御霊に満ちた者は、何が責任であるかを知っています。彼は、この世の困窮が自分の肩にかかったように感じ、彼の目は、何をなしえるかを見きわめようとして開かれ、彼の愛は、機を逸することがないようにと彼を駆り立て、どのような障害にもとどまることのない力が、彼のうちに湧き上がって来るのです。(中略)

 クリミヤ戦争は1858年に始まり、何千という傷病兵の恐るべき苦痛が、それにともなって始まりました。病院の世話は規律がなく、看護婦も無い状態でありました。その時、イギリスの陸軍大臣はフローレンス・ナイティンゲールに手紙を書き送り、看護の仕事の責任をとってくれないかと依頼して、野戦における病院服務の組織をつくる絶対的権限を彼女に付与したのであります。短時日のうちに、彼女は38人の看護婦とともに仕事を開始しました。彼女らはどこに行っても、苦しんでいる人々を救助し、傷を包帯し、まわりにいる人々に愛と光を与えておりました。彼女らがはいって行くところでは、空気も澄んできました。フローレンス自身もスクタリ病院で働いていました。夜中でも彼女は小さなあかりを手にしながら病床をみてまわることにしていたので、傷ついた兵士たちは、「あかりを持った婦人」をひと目でも見ようとして、彼女が来るまで目をさましていようと努力したほどでした。フローレンス・ナイティンゲールについてはまた、次のように言われています。「彼女はある宗派、しかもそれは全く小さなものなのだが、いわばよきサマリヤ人の宗派に属していたのである」(ウェレの「教会史」より)

 夜中に、輝くあかりを手にしながら、病傷の兵士たちの間を歩いているこの自己犠牲に満ちた看護婦こそ、すべてのキリスト者の生き方をはっきりと示す模範ではないでしょうか。この世のたそがれに眠ってしまうことは、いとも簡単なことであります。人生の困難な戦いに傷ついて、輝くあかりと愛の手を待ち望みながら、横たわっているこの世の病床をよきサマリヤ人がめぐり歩いているという期待だけが、この世のたそがれにも人々を目ざめさせておくことができるのであります。

 キリスト者の聖なる生活は、たそがれにおいてこの世が求めている輝くあかりのようなものであります(マタイ5:16)。神のみことばに従えば、聖徒の正しい行ないは、小羊の婚宴に招かれた時に装う神の教会の美しい麻布の衣にほかなりません(黙示録19:8〜9)。 きょうもこの世に夜が訪れてきています。数千の傷ついた兵士たちは光を待ちながら横たわっています。きょうこそ、主に属するわたしたちは輝くあかりを手にしながら、苦しんでいる者を愛と慈悲によって助けるために、出かけていかなければなりません。

 (「聖霊を信ず352、354〜355頁 「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」新約聖書 マタイ5:16

2012年6月22日金曜日

キリスト者はひとりの人間であります。

御霊の充満の隠れた力は、日常生活のいろいろな仕事の中に見いだされます。御霊の充満の力は、わたしたちの日常生活においては、キリストの心をもって喜んでなされる、義務に対する聖なる忠実さにかわってしまいます。御霊に満ちた者は、より高い地位を追い求めて、そこで御霊の生活をしようとは思いません。否、むしろ彼はたとえそれが大きくても小さくても、すべての仕事のさ中に両足をしっかりと地につけて、神のみ心に従いつつ日々の生活を送るのです。真に御霊に満たされた者にとっては、作業の場所は聖所であり、作業衣は牧師の礼服にほかなりません。御霊によって目を開かされている者は、日常の小さな事がらの中にも永遠の価値を見る人であります。何となれば、彼にとってキリスト者のなすべきことの中には、とるに足りないものなどは存在しないからであります。

 ほんとうの御霊の充満を経験した者は、自分の義務や任務をほうり出したままで、自分の室に閉じこもったりすることは決してしません。彼にとっては、神の国は積極的に義務を果たす聖なる生活の中にあるのであって、そのためには何よりもまず、自分の義務に奉仕しようとするのであります。御霊に満ちた者が行なうすべての事がらの特徴は、それが御霊に満ちているということです。

 主の宮が建てられた時、すべての個々の部分が小さなものに至るまで、正確に注意深く製作されなければなりませんでした。工人たちは、「工夫をこらして細工をし」、宝石を切りはじめ、「木を彫刻するなど、諸種の工作をし」なければなりませんでした。しかも神は、これらすべてのことを遂行するために、神の御霊に満たされた人々を指名されたのであります。(出エジプト31:1〜6、35:30〜33)。人が御霊に満たされているということは、このようなごく小さな、最も無意味な、ちょっとした仕事の部分においてさえも、重要なことであります。御霊に満ちた人にとっては、たとえ小さなことであっても、それが主のためになされるのですから、偉大な事なのです。

 「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように」(新約聖書 1テサロニケ5:23)。ここで「全く」と訳されているギリシャ語は、それぞれ違った国語でいろいろに訳されていますが、おそらく最もよい訳は、ルターの「徹底的に」でありましょう。すなわち、御霊に満ちた者は、単によいわざを遂行するばかりではなく、自分自身がきよい存在であるのです。御霊は彼の全存在を浸潤して、あますところなく彼をきよめるのであります。

 「酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされなさい」(エペソ5:18)。この対比の主眼点は、次のところにあります。つまり、酒に酔っている者は、徹底的に酔っぱらいの刻印を身に帯びるということであります。彼の歩みも、彼の仕草も、全存在も、それを証明するのであります。しかし、御霊に満ちた者の場合も同様に、彼は御霊の刻印を身に帯びるのです。彼の態度も、ことばつきも、服装も、一連の考え方も、興味も、彼が行なったり、語ったり、存在するすべての事がらが、神の刻印を帯びるのであります。御霊に満ちた者は、人間に対する神の計画の一つの具現ということができるでしょう。

 グスタフ・イェンセンは、次のような祈りを捧げています。「神よ、わたしに力と堅忍不抜の心をお与えください。それによってわたしが、心の律法にしたがって確固たる性質をつくることができ、永久にわたしのうちに住むべき新しい人が、わたしのことばや行為をとおしてますます輝くことができますように。また、わたしのからだをきよめて、神に受け入れられる捧げ物としてください」と。

 キリスト者であるということは、ひとりの人間であるということです。御霊に満ちたキリスト者であるということは、調和のある人間の生活、つまり豊かな生活を送るということであります。それは、彼自らきよく、そして、すべての清い事に、喜びを見いだすことができるからであります。感覚的な人間は、すべてのことばの端々についても何か淫蕩なものを聞き、すべてにおいて何か不潔なものを見るのであります。聖なる者はきよく美しいものを見、またその中にあって喜ぶ者であります。美しい調和、美しい色、りっぱな釣り合いのとれたかわいい小さな花を見る時に、神に満たされている者ほど、純粋な喜びを喜ぶことができるのは他にはありません。目で直接に太陽をながめた者は、かなり長い間は何を見詰めても、太陽の黒い点が目から離れないものです。同様に、キリストを深く見つめた者は、その後彼の見るすべての事がらの中にも何かしら天からのものを見るものであります。「純な小さなこけバラの花でさえ、天上の会堂である」とはっきり言うことのできる者は、キリストを見た人以外にはありません。

 (「聖霊を信ず」343〜346頁より)

2012年6月21日木曜日

福音自由にとどまりなさい!

倫理的に生活すること、わたしの生活態度を変えること、外面の罪の習慣をやめることーこのことは、少なくともある程度までは、わたしの意志がなしとげることのできることです。しかし、聖なる態度で生きることは、はるかに大きなことです。それは生活態度だけでなくて、聖なる人の中で変えられる心の態度です。聖なる行為は、神から生まれるのです。人の意志が、倫理的要求をとらえるとき、その人の生活態度を変えることができます。しかし、それは人間的な身分以上に人を導いていかないのです。彼自身が倫理的生活の主体です。彼の生活を倫理的ならしめるものは、彼が主体であるという事実そのものです。生活の変化は、自分自身のはたらきなのです。

 しかし人間が、みたす力をもたないことを自認するほど、強力に大きな倫理的要求が人間に直面する時、その時こそ要求が人間をキリストに追いやるのです。この要求を通して、人はその罪を知るようになり、こうして神は人間の心に救いのみわざをなしとげられるのです。だから、倫理的な要求が、人間に再三直面し、いつもいっそう強く、また深くある時、それは人間をたたえずキリストに追いかえすのです。再び彼は、その力の及ばないことを宣言して、勝利と聖潔とを与える神の力に向かって、その心を開くのです。ここでは人間の意志はあまりに弱く、創造の力が必要とされます。神のみが聖化することができるのです。

 この点でキリスト者もまた、たやすく考えちがいをするのです。そして間違った聖化の見解が、神との生活にとって致命的となるのです。というのは、わたしたちは福音の自由から律法の下における束縛に、きわめて容易にみちびかれるからです。わたしたちは義とせられることを神からの賜物と考えますが、聖化せられることを義務とするのです。わたしたちはいつも「なんじすべし」と「なんじすべからず」という命令の下に生きています。わたしたちは、幼児のもつよろこびに生きないで、奴隷のもつ恐怖に生きています。釘のあとをもつみ手からの賜物として義認を受け入れつつも、しかも、聖潔への要求をきびしい怒りの神からの命令としてながめるのです。聖化せられることをまぬがれることができれば、そうしたいのですが、そうはできないのであります。ですから強制感をもちつつわたしたちは聖化の定めの下に身をゆだねて、規定されている重い苦役にはいっていくのです。

 しかし、聖化の道について、このように感じるキリスト者の心には、きわめて重大なあやまりがあるのです。聖書はこのような人は、恵みから離れた道にあり、その結果、神から離れているというのです。この人は福音の自由から引き離されて、怒りの雷の下にあります。この人はゴルゴタからシナイへの道にいたるのです。

 ガラテヤ人は、このような状態にいたのでした。ですから、パウロはその人々に言ったのです。「ああ、物分りのわるいガラテヤ人よ、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。御霊で始めたのに今になって肉で仕上げるというのか」(新約聖書 ガラテヤ3:1.3)「肉で仕上げる」という表現は、わたしたちの思いをでたらめの肉の罪ということに導いて行きやすいのですが、ことばはこういう意味ではありません。パウロはガラテヤ人に次のように言いたいのです。「あなたがたは恩恵の道において始めたのに、今になって行為の道において仕上げることを予期するのか。あなたがたはキリストの力において始めたのに、自分自身の力において仕上げようとするのか」。自分自身の人間的な力で仕上げようとすることは、肉で仕上げることを意味するのです。

 また律法と恩恵に対するこの態度のうちで最も悲しむべき、また最も当惑させられる部分は、イエス・キリストが公けに啓示され、ガラテヤ人の目の前で十字架につけられたもうたということです。一歩一歩彼らは生きた血なまぐさい絵画で見るように、神の受難の御子を見ていたのです。だが、それにもかかわらず彼らは、自分自身の肉的な力で仕上げようとしました。このようなことが企てられることは何と悲しいことでしょう。十字架にかけられたもうたお方の姿をもう忘れたのですか。キリスト者の生活をすることが自分自身の力によるものであれば、その時こそ、わたしたちはイエスの十字架の下に「むなし」としるさなければなりません。「というのは、もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる」(ガラテヤ2:21)からです。

 (引き続いて「聖霊を信ず」259〜261頁からの引用。私はかつて「福音自由」にいました。しかし、その私の生活は「福音自由」でなかったことを今日の個所を通して知らされるのです。真の「福音自由」にとどまり続けたいものです。)

2012年6月20日水曜日

エッケ・ホモ

自己放棄が欠けているために、多くの褒美が失われています。自己放棄のなかった所には、愛もなかったのです。なぜなら、犠牲とは、愛する喜びです。キリストはこの点で、わたしたちの大いなる模範であります。「彼は自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで、十字架を忍び、神のみ座の右に座するに至ったのである」(新約聖書 ヘブル12:2)

 「わたしたちのために、キリストは、ちりの中の虫となられた。それなのにあなたは誇るところがあろうか。キリストは枕する所さえなかった。それなのに、あなたはすべてを欲して足ることを知らない。キリストは、あなたのために命を与えてくださったのに、あなたは、隣人にパンのかけらを与えようとも欲していない。そして、キリストは敵のために祈られたのに、あなたは、友人のために祈ることさえしない。キリストの顔は、悪人の鉄拳で打たれたのに、あなたは渋面にも耐ええない。これはキリストの足跡に従うことであろうか。救い主キリストが恥をしのび苦難の道を歩まねばならなかったのに、あなたは肉欲の中で生きることを望みえようか。彼が、いばらのかんむりをかぶられたのに、あなたは黄金のかんむりをかむることを欲するのか」(アーント)。

 キリストのために、そして隣人のために、日々自分を否認することは、キリストの苦難にあずかることです。自分の家畜からおりる意志のある人だけが、強盗にあって負傷している者を安全に宿屋に連れて行くことができるのです。多くの人々はろばの上に心地よくすわっていて、傷ついた旅人に語りかけ、宿屋の方向を指示するだけであります。もし傷ついた人が指示された道を、足をひきずりながら歩み始めても、同情的に道の片側の方をろばに乗ったままで行き、断念しないようにと勇気づけるだけです。しかし、傷ついた人には力がなく前進できなくなって倒れ、ついに死んでしまいます。ろばの上の人は、そのまま乗り続けながら頭をふり、この世の強盗の残忍さについて真剣に考え始めるのであります。

 「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互いに生かしなさい。キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべきこととは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちを取り、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」(ピリピ2:5〜8)

 降りて下ることがキリストのみこころであります。だれも彼ほど高いみ座に上った人はいないし、彼ほど下に降りた人もありません。だれもついに彼より偉大な勝利を得た人はいません。したがって、いまだかつて、だれもイエスほど高く高揚された人もありません。降りて下ることを拒む人は、決して勝利を収めないでしょう。神は、自分をひくくするのを拒む人を、決して高くしたまいません。「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現われる際に、よろこびにあふれるためである」(1ペテロ4:13)地上の生活でひくければひくいほど、ますます栄光において、より高くされるのであります。

 (昨日に引き続き「聖霊を信ず」の223〜225頁からの引用です。ああ、私たちは何と安易に人の苦しみをになっているつもりで、人を死なしめていることでしょうか。しかし、ここに一人の真実なお方がいらっしゃるのです。エッケ・ホモ「この人を見よ」です。)

2012年6月19日火曜日

ひそかな溜息

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。(新約聖書 ローマ8:26) 

  イエスのとりなしは、天において行われます。御霊のうめきは、祈る者の心から起こってきます。キリスト者が自分の必要なものを知らなくても、御霊はそのうめきをもって主のみ座に進み出るのです。「なぜなら、御霊は聖徒のために、神のみ旨にかなうとりなしをしてくださるからである」。誤った祈りが、御霊の力強いうめきに沈められてしまうことは、キリスト者にとっては誠にさいわいなことであります。

  御霊のうめきは、また神の子らの祈りでは、力でもあります。祈りに翼を与え、それを神の天にまで運び上げるものは、御霊のうめきにほかならないのです。「わたしたちが、自分の溜息をも認めない時にすら、神はわたしたちの叫びを聞かれる」(ロセニウス)

     出エジプト記14章15節に、エホバはモーセに「あなたは、なぜわたしに向かって叫ぶのか」と言っておられます。モーセは、イスラエルの民衆と共に紅海の前に立っています。彼らの背後にはエジプトの軍勢が迫り、前には紅海が行く手をはばんでいるのです。だれが考えても、この二つの事実は死を意味します。敵の手によって切り倒されるか、海の深みにおぼれてしまうか、二つに一つしかないのです。その時、モーセが神に向かって祈ったことは、聖書に書かれていません。他の時に、モーセが窮地に陥ったときには、彼が祈ったと、いつも書かれており、何のため彼が祈ったかもしるされています。しかしこの時には、そうではありません。それにもかかわらず、主はモーセの心からの叫びを聞きたもうたのであります。ひそかなる溜息が、神の耳に達し、それがちょうど、苦しんでいる子供の叫びのように、神に響いたのでした。神の子らの溜息は常に、叫びとなって神のもとに至るものです。まさしく、子らの苦しみそのものは、祈りのように神に響くのです。

     「キリスト者が、魂の静かなる苦悩とか、不安や無力の中にあって、思うがままに祈ることさえできない時にも、神はその人の心からの絶え間のない叫びを聞いておられる。まさしくこの叫びは非常に強いので、神はこの不安な子の叫び以外は、何も聞かれない」(ロセニウス)

 (「聖霊を信ず」フレデリック・ヴィスロフ著名尾耕作訳183〜184頁より引用)

2012年6月15日金曜日

なぜ、キリスト教反対なのか

ペンステモン
「キリスト教反対!」とはキリスト者にとって決して聞き捨てにできない言葉だ。そんな乱暴な、何ということをこの人は言っているのかと思うのが落ちだからである。しかしよく聖書そのもののメッセージに心の耳を澄ませて聞いてみるとまさしくそのものだと言うことが分かる。ロイドジョンズ氏の作品に「山上の説教(上)(下)」という名著がある。私はこの作品を完全に読んだわけではないが、今回彼の「御霊に満たされる意味」という別著を紐解いて初めて彼が「山上の説教」の遂行者は新生した人でないと不可能だということを強調していることを感じた。

 ロイドジョンズ氏は1981年に召されたイギリスの牧師・説教家であるが、「キリスト教反対!」ということばには眉をひそめるかもしれないが、彼が世界大戦、あるいは戦後の風潮の中でいつの間にか教会が福音を離れて行き、世の流れに飲み込まれて行っている現状を憂えてさかんに執筆活動を続けた中には決してそのように眉をひそめる思いだけではなく、心底では共鳴する思いがあったのではないかと思う。

 ひるがえって私の教会時代のプリンシプルはクリスチャンらしくあろうとする自らの行いに帰することがすべてであった。自らが罪人であることは熟知していた。しかし自らのうちに幾分かの良きものがあってそれを磨いてクリスチャンらしく生きようとしていた。到達することのない永遠の課題を重荷として背負っていた。果たしてそのような生き方は可能なのか。ベックさんの「なにものも私たちを神の愛から引き離すことはできない(上)」にははっきり次のようなことが書いてある。(同書124頁)

なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。(20節)しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。(21節)(ローマ3:20〜21)

 20節と21節とは、全くの対照をなしています。つまり20節では「律法」について、21節では、「啓示」について記されているのです。律法は要求し、判決を下します。人間は自分の力で律法を守ったり行おうとしますが、実際はそれをすることができないのです。あらゆる宗教は、律法を成就しようとする人間の試みです。しかし律法を成就しようとする努力の結果は、絶望以外のなにものももたらしません。律法の正反対のものこそまさに福音であり、神の啓示なのです。こういう理由から、パウロは21節で、「しかし、今は」という表現を使ったのです。

 失われた人間、滅びに定められた人間は、自分の力では自分を救うことができず、また逃れ道を見い出すことすらできないのです。ですから、上から神の啓示がなされたのです。第一の道は、律法によって義とされる道でしたが、人間の罪の無力さのゆえにふさがれてしまったのです。20節に記されているとおり「律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないのです」。

 しかし、もうひとつの別の道は、神が拓かれた道であり、神の思いです。律法を守り、神の義を尊び、さばきをも軽んじないで、神の義を提供するのが第二の新しい道です。

 しかしながら、次の事実は変わることなく存続するのです。つまり、律法は聖なるものであり、すべての人間は罪を犯したゆえに神の前に義人として立てる人は一人もいず、神は罪人をそのままの状態で義と認めることはできません。もしもそうしたならば、それはご自身の律法に反するものであり、義も真理もくずれてしまうことになるからです。

 新しい道は、神の義であって、人間の義ではありません。それは神からくるものであって、神の義は、人間の義と何のかかわりもありません。神の義は、神の賜物であり、上からの啓示です。神の義は一つの人格です。すなわち主イエスです。主イエスを信じることによって、神の義が私たちのものとなるのです。

と、ローマ3:20と21はこのように宗教(キリスト教をふくむ)と啓示の違いを明確にする分水嶺としてベックさん、いやパウロは述べているのである。21世紀に処する私たちは、相変わらず「キリスト教反対」というこの革命的な言説に眉をひそめるだけで、自らの神の御前における真の姿に盲目であっていいのであろうか。

2012年6月14日木曜日

「キリスト教に対する反対!」

梅雨入りだが、集会時には晴れ間が見られた。
昨日の家庭集会はこれまでより20名程度来られる方が少なかった。ところが、私の内にはそのように集まる方々の数が減少したにもかかわらず、満たされた思いが今も心を支配している。なぜなら、その前の晩遅くロサンゼルスから帰られたベックさんが昼と夜、野球で言うなら、真っ直ぐな豪速球を矢継ぎ早に投げ込んでくださったことが一つある。何しろ前夜の私の夢の中ではベックさんは老人のため階段を上がるのもやっとという有様だったからである。

 メッセージは、昼はエペソ2:15〜17から「まことの平安の土台」と題し世を支配する君である悪魔に対してイエス様がいかに勝利なさったお方かを解き明かしてくださり、私たちがそれにあずかる必要性を促された。夜は夜でローマ8:15〜30から「主のご目的」と題し、天国への道は決して散歩道ではないとして、主のご計画は試練のうちにそれぞれが主の御姿に変えられることにあるということを軸にして7つの大切な主のご計画の意味を語ってくださった。

 あともう一つはこの一両年来られるように祈っていた方が遠くから初めて来てくださったことがある。その上、朝通りかかられたご近所の方に集会のお誘いをしたら快くこれまた初めて集われた。また、これまで祈られてきた方々がそれぞれその重荷を主イエス様に下ろし喜ばれたことなどもあった。もちろん私自身がメッセージを通して内なる霊が強められたことが大きい。

 ところでベックさんは昭和61年(1986年)に「ローマ人への手紙——なにものも私たちを神の愛から引き離すことはできない——」(上巻)を出版しておられる。その序には次のようなことが書いてある。

 私はこの本に、次のような革命的な題名を付けたいという気持ちを持っています。すなわち、「キリスト教に対する反対!」と。

 なぜなら私たちは、現代のキリスト教のためには宣伝をしたくないからです。現代の組織されたキリスト教というものは、主なる神の望んでおられるようなものではなく、人間が作りあげた産物、一般的な宗教組織になりさがってしまっているからです。

 万物の創造主は、人間が作った宗教とは何の関係もないお方です。神の目から見ると、人間が作りあげた宗教なるものは、子供の遊びのようなものであり、犯罪よりもひどいものであり、無意識のうちに神を冒瀆するものであり、そして真の救いを拒むものです。現代の多くの宗教は、うまみのある商売にすぎません。

 「宗教」は、人間の罪の債務の問題を解決することができません。人間はみな悩んでいます。そして数えきれないほどの多くの人は、いわゆる宗教としてのキリスト教に対して反発します。いったいどうしてでしょうか? 人は束縛されたくないからです。人は自由になりたいからです。生けるまことの神は、人間に向かって、次のように約束してくださっています。

もしわたしがあなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。(ヨハネ8:36)

 それでは人は、どのようにして自由になることができるのでしょうか? 一つの宗教を持つことによってでしょうか? 教会の会員になることによってでしょうか? または洗礼を受けることによって、毎週礼拝に出席することによって、十分の一を献金することによってでしょうか? 決してそうではありません。たしかにそれらによって、人は「宗教的」になるでしょう。しかしその結果は、自己満足、間違った思い込み、そして盲目に陥ることになります。

 あなたは、精神的な拠り所、すなわち生ける真の神を、永遠なる岩として必要としているのではないでしょうか。

 多くの教会は、文字通り「教える会」になってしまっています。そこでは、いわゆる「教え」が宣べ伝えられ、そうして人はその「教え」を良しとして認め教会の会員になれば「クリスチャン」になれる、つまり救われる、と信じ込んでしまっています。こういう風に洗脳された人は、惑わされています。この考え方は間違っています。なぜかというと、どんな人でも、単なる頭の知識を持つことによっては救われることはないからです。

 主イエスは、この地上におられたとき、多くのことを語られました。しかし、いろいろなことを語られたあとで、ただの一度も「どうですか、理解できましたか? 大切なことが分かりましたか? もう一回ゆっくりと説明しましょうか?」とお聞きになったことはなかったのです。どうしてでしょうか? それは大切なことではないからです。重要なのは、次のことだけです。「一つの教えを勉強して、理解し、肯定するようになることではなく、聖書の中心であられる天と地の創造主を個人的に識り、その創造主と交わりを持つこと」です。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)

わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。(ヨハネ6:37)

 今回の家庭集会も結局はこのことの再確認であった。このような家庭集会こそすべての人が真理を知るように望まれている主の良き媒介手段だと思う。そこでは真理は一人の人の独断でなく、互いが神のことばである聖書を生活の現実に検証するようにと、相互の交わりが与えられるからである。

 ふりかえって、あの痛ましいオウム真理教の事件が起こる以前に、キリスト教をふくめて一切の宗教批判のもとにこのような集いが人知れず地道に持たれていたことにどれほど多くの日本人が気がついていたことであろうか。(かく言う私自身がそのころ教会内でせっせと「教え」にどっぷり浸かり、「啓示」を知ろうとはせず、自らの哲学を構築し、「教会ごっこ」をしていたのだから、決して他人事とは言えないが・・・)

 改めて、社会の汚れの自浄作用はキリスト教という宗教の神でなく、生けるまことの神である御子イエス様の御手の中にのみあることを覚えたい。

2012年6月11日月曜日

御霊の力による従順

by Sumiko Gotou

 御霊なる神様は主イエスを信じている一人一人のうちにすでにいらっしゃる。だから「聖霊をいただきとうございます」というポーロ・S・リース氏が紹介しているマイヤー博士の伝記に書かれている個所は私にとって少し首を傾げるところであった。でも恐らくその意味は聖霊に満たされることを求められたと解するのが適当なのでなかろうか。すでに博士は御霊なる神様を信仰によってうちに宿しておられるのは当然であるからである。そのことが気がかりで昨日は聖霊はどのようなお方かと「人格」であることに的をしぼって資料を紹介させていただいた。

 今日は「御霊に満たされることの意味——エペソ5:18〜21——」(D.M.ロイドジョンズ著鈴木英昭訳)から少し引用させていただく。この書でロイドジョンズ氏はキリスト教道徳倫理によって結婚問題、家族問題、産業問題、世界平和問題の抜本的解決が可能であるかのような当時の社会風潮※に対してそれは聖書からして絶対不可能だと言い、その根本原因は人が聖霊によって新生する必要を認めないことにあるとして、パウロのローマ人への手紙の個所を引用しながら、以下のことを指摘する。(引用は同書54頁〜56頁による)

 指摘すべきことは、聖霊に関する聖書的教理の完全な否定ということである。使徒パウロは、すべての人々に「互いに仕え合いなさい」とは命じていない。(略)彼は、まず「御霊に満たされなさい」と言ってから、互いに仕え合うよう求めている。彼はそうした行動が、その欠かすことのできない予備的な状態を抜きにしては、不可能だと言うのである。しかし今日、人々は聖霊を信じない、聖霊の人格を信じない。彼らは「キリスト教の精神」とか、「兄弟愛と善意の精神」などについては語る。しかし、それはキリスト教ではない。それは道徳であり、異教の教えである。

 祝福に満ちた三位一体の第三人格である神の聖霊について、一つの教理がある。聖書的な教えによれば、聖霊から離れて、人には希望がない。聖霊は何をなさるのか。第一に、「世に罪と義と裁きとを自覚させる」。世は罪を信じない、だから罪を自覚させられる必要がある。聖霊はそれをするために遣わされる。キリスト教はこれまで、およそ二千年間にわたって宣べ伝えられたが、世はいまだに罪を信じない。義も信じないし、裁きも信じない。それなら何を信じるのかといえば、世は世自体を信じ、人間を信じ、人間の力と人間の善を信じる。それはキリストの教えと正反対である。

 聖霊はそれ以外に何をなさるか。なぜ聖霊は遣わされたか。祝福に満ちた教えのことを思い出していただこう。聖霊は、私たちに自分の罪を自覚させ、キリストにある「その血による」救いを私たちに示した後で、何をなさるのか。聖霊は私たちに新しいいのち——再生——を与えてくださる。それは私たちの主がニコデモに教えられたことである!彼の語られたことを聞きなさい。彼がニコデモの言われたのは、こういう意味である。

 「話すことはやめなさい。問うこともやめなさい。よくよくあなたに言っておく、人は御霊によって生まれなければ、神の国を見ることはできない。あなたはもう一度生まれなければならない。御霊によって生まれなければならない」(ヨハネ3:3〜8)。わたしはあなたと、わたしの国のことを論ずることはできない。私たちの主は、あの優れた道徳的で宗教的な人、ニコデモにおっしゃった。

 今のままのあなたでは、それを理解することは不可能なので、あなたと論ずることはできない。「あなたはもう一度生まれなければならない、とわたしが言ったからといって、驚くには及ばない。肉によって生まれた者は肉であり、御霊によって生まれた者は霊である。」あなたは理解しようとしているが、できない。あなたが神の国に入る前に、もう一度生まれなければならない。そのようになれば、理解し始める。

 それなのに、人々がいまだにやっていることは、不敬虔で、神を信じない国家にたいし、新しく生まれていない男女、キリスト者でない彼らにたいして、キリスト教の道徳原理の教えを唱道していることである。

 そうした行為は、キリスト教の基盤全体の否定である。聖霊は、人を再生させ、新しい性質を与え、新しい思い、新しい展望、すべて新しいものを与えるために、送られている。それを度外視しているなら、何の望みもない。聖霊はまた、私たちの聖化——「御霊に満たされなさい」——の増進のために送られている。互いに平和に過ごすことができる人々は、神の聖霊によって支配されている人々だけである。

 これが、結婚問題、家族問題、産業問題の解決策である。人々が聖霊に支配され、満たされると、そうした問題のなかに存在している悪がわかってくる。そして、自分自身を抑制し、「主の恵みと知識のうちに成長し」、親密さと一致とが可能になってくる。しかし、そうなるのは、私たちが「御霊に満たされて」いるからである。御霊なしには不可能である。このように、聖霊は私たちの聖化を増進するため、また私たちを支配し、神が私たちにさせようとしておられる生活を可能にするために、遣わされている。

酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。(新約聖書 エペソ5:18、21〜22)

※当時とは1959年のことでその年、米ソの冷戦下でフルシチョフの活躍ぶりが西欧キリスト教社会で喝采を受けるような素地が幾分あったかのようである。(引用者註)

2012年6月10日日曜日

聖霊はどのようなお方か


 6月8日のブログ引用記事「とりなしの祈りの確信とその根拠 (下)」の中で、マイヤー博士の聖霊との関わりについて、ポーロ・S・リース氏の引用文を紹介し、同時に私自身が過去に読んだオズワルド・チェンバーズの同じような聖霊体験について言及した。

 しかし、この記事は少なからず誤解を生じやすい内容だと思っており、何とかそのことをキチンと述べる文献はないかと捜していて二三の適当な文献を読むことができた。今後少しずつそのような視点で二三の文献を紹介して行く。なお表題は引用者が勝手に以下の引用文の要旨をまとめる意味でつけた題であることをご了承願いたい。(引用文献の題名は「聖霊を信ず」フレデリック・ヴィスロフ著名尾耕作訳聖文舎発行6〜8頁)

(では、)わたしは、神を理解しうるのでしょうか。「わたしは年をとればとるほど、神は理解しがたいかたであることを、神に感謝するようになった」(ハレスピー)。

 人間の思想が理解しうる神は、その思想の産物であります。人間が神を理解しうるということによって、人間自ら、たぶん無意識に、小さな神を作るのであります。しかしまことの神は、超越者であり、永遠であり、絶対者であります。わたしは作られたものであり、有限で、はかないものであります。わたしの意識が理解しえないところに、多くのものがあります。わたしが理解しうる状態と異なった状態にある、完全で永遠なる存在があります。その世界で最も簡単なことが、わたしにとっては理解しえない驚異であります。それゆえ、この永遠の世界においてすら最大の驚異である神を、どうしてわたしが理解しうると期待できましょうか。

 永遠の世界において、神が実際にありたもうそのありのままの神ご自身と、顔と顔をあわせて相まみえる時、最も勇敢な人でさえ次のことを認めるでありましょう。この地上の生活において、わたしはいつも、神を理解しようとして、あまりにも小さな基準を用いていた、いったいどんな基準で、永遠を測りうるであろうか、と。
 
 燃えるしばにおいて、モーセは神の名が、「わたしは、『わたしはある。』という者である」との事実を知りました。

 だれも神を名づけた者はありません。だれも神の性格を規定したものはありません。だれも神の限りない心底を測ったものはありません。または神の永遠の知恵を究明したものはありません。彼は、彼がありたもうところのもの、不変で永遠なるおかた、神であります。

 モーセは、神の名を、より簡潔な、より強力な、より不可解で神聖な「わたしはある」との形で聞くことをゆるされました。

 しかしこの永遠の神が、キリストに啓示されているのです。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」(ヨハネ1:18)。またキリストが父をあらわしておられるように、聖霊が子に栄光をあらわしておられます。イエスご自身が聖霊について、「御霊はわたしの栄光を現わします」と言っておられます(ヨハネ16:14)。

 それで、この三位一体の神は、わたしたちと縁遠い、不活動の神ではなく、わたしたちのこの世界にあって、生ける、現在する神であります。何と驚嘆すべき永遠の神の活動ではないでしょうか。神は、その祝福された天に、御自らを閉じ込めることを欲したまわず、自ら彼の御子の中に、人間との交わりを望んでおられるのです。聖霊は、キリストの中に啓示された神の栄光を人間に見せるために、そのとざされた目をあけるのに忙しく、地上において活動しておられるのです。

 わたしたちは、この神聖な謎を、わたしたちの理性によって理解しようと試みてはなりません。(略)ただ信仰により、聖霊の御導きに従うことにしましょう。そうすれば見ることができます。神がヨハネ福音書1:14と16節との意味を、わたしたちに経験させてくださることを祈るものであります。「私たちはこの方の栄光を見た。私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである」

 神を見ることのできない多くの人々がいます。それは、その人たちがあまりにも大きく、神があまりにも小さいからであります。神の栄光は地に照りかがやき、ちりの中の人間にさえ、ゆきわたっているのでありますが、しかし、それは神が、そのまま神であられる場合のみ、つまり神が「わたしはある」とのご自身の名と一致する場合だけ、そしてまた人間が、全能者の前に、小さな有限的被造物である場合のみであります。

 ただのちりの中の謙そんな場所からだけ、人間は、永遠者であり絶対者であるかたを見ることができます。こうして見るとき、全能者は父として啓示され、卑しきちりは創造の最高の場所とあがめられ、父の膝の上の子供となるのであります。これが聖霊の働きであります。

2012年6月9日土曜日

聖書の神はすごい

ホタルブクロが庭のあちらこちらに群生する、でも今日から梅雨入りらしい

 三ヶ月ぶりに伊勢崎の家庭集会に出席した。祈っていた方も集われた。でも、多くの見知らぬ方がおられた。そのようななかで、メッセージ、証しをお聞きした後、時間の経つのも忘れて、交わりを持たせていただいた。二時間程度直ぐ経ってしまったが、皆さん一向に腰を上げそうになさらない。遠くなので、一足先に帰ってきた。

 帰りの電車にゆられながら、それにしても今日の証しは何と素晴らしい主のみわざの証しであったかと繰り返し思わされた。その間、車内で今日の聖書通読個所イザヤ41章から52章を読んだ。圧倒された。Nさんの証しをとおして、主なる神様はこんなふうに人を変えてくださる方であることを知って喜んでいたのだが、イザヤ書に示されている主なる神様の御存在に自分が全く聞き従っていないことがはっきり示され、聖書に示されている主の愛はさらにもっと素晴らしいことを改めて思わされたからである。

耳しいた者よ。聞け。
盲人よ。目をこらして見よ。
わたしのしもべほどの盲目の者が、
だれかほかにいようか。
わたしの送る使者のような耳しいた者が、
ほかにいようか。わたしに買い取られた者のような盲目の者、
主のしもべのような盲目の者が、だれかほかにいようか。
あなたは多くのことを見ながら、心に留めず、
耳を開きながら、聞こうとしない。(イザヤ42:18〜20)

イスラエルの王である主、これを贖う方、
万軍の主はこう仰せられる。
「わたしは初めであり、
わたしは終わりである。
わたしのほかに神はない。(イザヤ44:6)

わたしが主である。ほかにはいない。
わたしのほかに神はいない。
あなたはわたしを知らないが、
わたしはあなたに力を帯びさせる。(イザヤ45:5)

遠い大昔の事を思い出せ。
わたしが神である。ほかにはいない。
わたしのような神はいない。
わたしは、終わりの事を初めから告げ、
まだなされていない事を昔から告げ、
『わたしのはかりごとは成就し、
わたしの望む事をすべて成し遂げる。』と言う。(イザヤ46:9〜10)

良い知らせを伝える者の足は
山々の上にあって、なんと美しいことよ。
平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、
救いを告げ知らせ、
「あなたの神が王となる。」と
シオンに言う者の足は。(イザヤ52:7)

あなたがたはわたしの証人、
――主の御告げ。――
わたしが選んだわたしのしもべである。
これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、
わたしがその者であることを悟るためだ。
わたしより先に造られた神はなく、
わたしより後にもない。
わたし、このわたしが、主であって、
わたしのほかに救い主はいない。
このわたしが、告げ、救い、聞かせたのだ。
あなたがたのうちに、異なる神はなかった。
だから、あなたがたはわたしの証人。
――主の御告げ。――わたしは神だ。
これから後もわたしは神だ。
わたしの手から救い出せる者はなく、
わたしが事を行なえば、
だれがそれをとどめることができよう。」(イザヤ43:10〜13)

 それにしても、最後のこのみことばはNさんの証しにふさわしいみことばだと思わされた。時間をかけ、遠くまで出かける目的はここにあった。良き週末を過ごすことができた。

2012年6月8日金曜日

とりなしの祈りの確信とその根拠(下)


先週金曜日のあの長い一日の帰り道で買い求めたゴールデン・ウィング

 F.B.マイアー博士は、かつて英国の北部のカンバーランド丘陵地帯を一人歩きながら次のような祈りを口にされたという。

 「父なる神様。この丘陵地帯にあって、ペンテコステの賜物をだれよりも必要としている者がいるとすれば、それはこの私です。私は聖霊をいただきとうございます。しかし、どのようにして聖霊をいただくか、私には分かりません。それに、私はもう疲れきっております。一生懸命になって考えたり、思ったり、祈ったりすることができません。」

 すると、内なる御声が答えられたという。「十字架に死なれたキリストの御手から赦しをいただいたのとちょうど同じように、生けるキリストの御手から聖霊をいただきなさい。そして、結果としての喜びがあるかないかに全く関係なく、聖霊の賜物が信仰によってあなたのものとなったと認めるのです。あなたの信仰のとおりになれ!」

 これに対する博士の応答は次のようなものであった。「『主よ、私が暖かな夕べの空気を呼吸するように、私は自分の体全体にあなたの祝福に満ちた御霊を吸い込みます』と答えましたが、私はだれの手も感じませんでしたし、燃える炎も、天からの激しい響きもありませんでした。ただ信仰によって、感情の動きも、興奮もなしに、私は初めての経験として聖霊を受け入れたのです。以来、聖霊をいただき続けています。」

 さて、喜ばしいことに、平静な心の秘訣は、一世紀のパウロに限定されているものではない。それは、どの世紀に生きるクリスチャンにも当てはまるものである。神の豊かな備えの中に「御霊の豊かな供給」があるのであり、それはクリスチャンの友人たちの忠実な祈りと一つになって、人生経験の圧力のもとにくずおれることなく、緊急事態にぶつかってもパニックに陥ることのない堅固さを私たちに与える。くずおれてしまうどころではなく、「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」(21節)と確信をもって言わせるのである。

 かの有名な講解説教者マクラレンが指摘しているように、この確信こそは、「『病をも、いさぎよく笑って受け止めさせ』、いのちから死に移る最後で最も大きな変化さえも何とも思わなくさせる真正の麻酔薬」なのである。

(昨日に引き続く『私を強くしてくださる方によって』の引用文である。 このポーロ・S・リースの文章を読むまではF.B.マイヤーのこの証しは知らなかった。後年オズワルド・チェンバーズはそのF.B.マイヤーズからダヌーン大学で「聖霊」について話を聞く。その時、オズワルド・チェンバーズがまさしくF.B.マイヤーズの霊的状態であった。御霊なる神様はこうしてご自身の聖徒を差別なしにそれぞれのとりなしの祈りを通してパウロ以来導かれることを私たちは知ることができる。そして今突然の事故に会い、いのちの危機とひどい痛みを耐え忍びつつ、ご家族の愛のうちに守られている方のうちに、主の大いなる御霊の満たしがあることを知って、一方ならず慰めを得るものである。さらに我ら、御霊なる神様とともにとりなしの祈りを続ける者でありたい。)

2012年6月7日木曜日

とりなしの祈りの確信とその根拠(上)

カルニアの花を知人からいただいて
あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって、このことが私の救いとなることを私は知っている・・・(新約聖書 ピリピ1:19)

 ポーロ・S・リースは、上述のみことばは、パウロが二重の確信、すなわち、主にある友が祈っているという確信と、主イエスが肉体をとってこの世におられた時に持っておられた、そして今や、栄光の御座から与えられる、その同じ御霊が常に絶え間なく力づけられるという確信の中にいたのだと論じて、さらに次のように述べる。

 パウロほど熱心にとりなしの祈り——他の人のために祈る祈り——の力を信じた人はおそらくほかにいないのではなかろうか。他の人たちのための愛の配慮としてとりなしの祈りを実践した者としてパウロはそれを信じていたし、また、他の人たちのパウロに対する思いの現われとしてのとりなしの祈りによって益を受けた者として、それを信じていた。もし私たちがもっと強くこのとりなしの祈りの力を信じていたら、今よりももっととりなしの祈りをしているはずである。そして、とりなしの祈りをする救い主の教会として、今よりはるかに強力な、祈りと力の織りなす網目模様が形成されていくことであろう。

 私にはよく分からない
 なぜ遠くの友を思わせられるのか
 私の記憶の中にいとも速やかに割り込んでくるのはなぜか
 きっと、私が祈らなければならないことがあるに違いない
 ちょうどその時、友は激しい戦いに直面しているかもしれない
 大変な弱さを経験しているかもしれない
 勇気を失っているかもしれない
 暗黒の中をさまよっているかもしれない
 正しいことが何か、見失っているかもしれない・・・・
 とにかく彼は私の祈りを必要としているのだ
 だから私は祈る

 パウロの確信のよりどころとなっているもう一つの面——それによて彼の平静な心は砕かれずに支えられている——は、聖霊の働きである。英欽定訳聖書はこれを、「イエス・キリストの御霊の供給」※と、訳している。この「供給」と訳される原語は、宴(うたげ)の席を設けて食事の用意をするだけでなく、夕べの楽しみを本当の楽しみとするため歌い手を頼む金持ちの配慮を描くために用いられる。それゆえ、E.F.スコットも言っているように、「イエス・キリストの御霊の豊かな備え」と訳すことができる。

 もしも、「聖霊ご自身が『供給』ということであるのか」とか、「父なる神によって、子なる神を通して与えられる聖霊は、満ち満ちておられるご自身によって、私たちの必要をすべてあふれるばかりに満たしてくださる方であるということなのか」と問われるなら、両方の答が許されるというのが答である。両方の解釈が新約聖書の事実である。

 「御霊の豊かな備え!」それこそ使徒パウロの体験であった。私たちがそれを経験しているかどうかということが問題なのである。

(『私を強くしてくださる方によって——ピリピ人への手紙講解——』ポーロ・S・リース著増田誉雄訳36〜37頁より引用。※For I know that this shall turn to my salvation through your prayer, and the supply of the Spirit of Jesus Christ, 今朝次のような祈りの要請が届いた。Ron called today and asked that I send you all a note asking you to pray extra for him. He has not been feeling well since he arrived in Nigeria. He had some prostate issues that has resulted in a bladder and a kidney infection (unpleasant details omitted). Ronはナイジェリアにいるウイックリフの宣教師である。そして午前もう一つの緊急の祈りの要請が川崎の主にある兄弟から来た。主は今日二つの緊急の祈りの課題を与えられた。表題の聖句はずっとこのところ心に留まっていたものである。)

2012年6月6日水曜日

若き友たちに贈る(下)


 前回、「伝道者の書」について書いたが、実はそれだけでは物足りないので後もう一つ付け加えてみたい。それは『旧約の霊想』(W.G.ムーアヘッド著竹田俊造訳)の「伝道者の書」の最後の二節についての文章(同書237頁)からの引用である。題名は「解決」とある。

結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。(伝道者12:13〜14)

 ここにおいてソロモンは日の上に出て、直ちにもつれを解き放し、清算し始めた。「神を恐れる」ことは新約における「神を愛する」という旧約の叙述である。神を愛せよ、彼に従え、彼に頼れ、彼を信ぜよ。そうすればすべてはあなたにとって良いものとなるだろう。さばきが近いからである。これによってすべての悪が正され、すべての奥義は釈明され、言い尽くせない歓喜によって喜ばされるからである。これがこの書の鍵である。日の下に生き、その上に出ず、したがって疑いと不信仰はこれに伴う。日の上に生き、神とともに日を過ごせ、そうすれば光と平安がみなぎるであろう。

 マッコック博士は鳥ともぐらとの会話を想像する。もぐらのモール氏は土の上に顔を突き出して鳥に呼びかける。「やかましい! なんでそんなに騒ぐんだ」と。鳥は枝から枝へと飛び移り、さえずり歌いながら言う。「おお! 日の光、木々、草むら、そこに輝く流れ、山ぎわの白雲、世界は麗しさに満ちている。」「ばかな!」ともぐらは言った。「ぼくは君よりも長く世界に生き、君よりも深くその中に入り込み、これを縦横に旅行し、その上トンネルも掘った。しかも、ぼくは自分が話すほどのことはすべて知っている。それについて君に話しているんだ。そこには何もない。みみずをあさるほかに何もないのだ。」人よ、「日の下に」生きてみよ。そして、土地に穴を掘り、 糧で自分の魂を満たそうと努力してみるがよい。人はもぐらと同じ経験をするであろう。苦しい時が必ず来る。人は涙にむせび、うめきもだえつつ深い嘆きを言い表すであろう。「私の霊魂には楽しみがない」「私は自分の生命を憎む」と。しかし日の上に起き上がり、神の光とその御顔の光輝を浴びよ。彼は歌うであろう。

 伝道者の書は一つの説教と見ることができる。
表題 1:2、3
一 証言 ⑴伝道者の経験による(1、2章)。⑵ 伝道者の観察による(3、4章)
二 説明 ⑴人生の悲惨。 ⑵人生の虚偽 ⑶人生の不義不正。 ⑷人生の貧富。 ⑸人生の不安定。 ⑹こういう危険な人生を貫く最善の道。 ⑺日の上の生活、健全な幸福。

 以上が、ムーアヘッド氏の「伝道者の書」をめぐる霊想の一部である。ところが前回の『66巻のキリスト 』はこのムーアヘッド氏の前半の部分を引用している。二書は深いつながりがあり、甲乙つけ難い内容となっており、聖書通読者には大いに役立つ内容の著書の感がする。しかも『66巻』の訳者笹尾氏と『霊想』の訳者竹田氏は明治期(1890年)日本にやってきたバックストンの薫陶を受けた同門の人・主にある兄弟同士であった。私は今回三人の青年と出会ったが、奇しくもこの書とも初めて出会ったのであった。不思議な縁(えにし)を覚える。

2012年6月5日火曜日

若き友たちに贈る(上)


 月曜日、三人の若者に、とあるところで、初めて会った。それぞれ別方面に住んでおり、彼ら相互には何らの交流のない青年たちではあるが、私とは本を通して交わりが与えられた。いずれも熱心に主のみことばを求める男子であった。今時、みことばを何とか自分のものにしようと活字に飢えている青年の存在に頼もしさを感じ、家に帰った。果たせるかな、その日の通読個所は「伝道者の書」であった。

 『66巻のキリスト』と言う特徴ある題名の本の中から「伝道者の書」について書いてある最後の個所を紹介する。ちなみにその題名は「わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける」(箴言8:17)であった。

 この書(「伝道者の書」)は青年に対する訓戒をもって結んでいる。「若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。」(伝道者11:9)この書の記者がこのように書いた目的は、明らかに、青年らが神様の御心を顧みないで、自らの心を喜ばせることを奨励したのではなく、このような道を選ぶ結果について警告したのである。「だから、あなたの心から悲しみを除き、あなたの肉体から痛みを取り去れ。若さも、青春も、むなしいからだ。あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲がおおう前に。」(伝道者11:10〜12:2)

 この書は危険信号として立てられたものであって、神様は私たちがこの世の空しいものに惹かれ、それが決して汲むべき水でないことを知るにいたる苦き経験をもって初めて目を覚ますことのないように、かえって自由意志をもって神様の御用を喜んで選ぶようにとのために立てられたのである。

 今日主の御用を勤めている人々の大多数は幼い時に主に仕える決心をした者であることはこの方面の調査をした人々が知るところである。壮年になって悔い改めた人々で主に仕えている人は割合に少ないと言う。そうであるから子どもらをキリストに導き、その最も豊かな土地を主のものとすることは、どれほど大切なことであろうか。主は「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。」(マルコ10:14)とおっしゃったが、私たちは何としても子どもらがこのお招きを受け入れるように導かねばならない。

以上が 『66巻のキリスト』の文章である。笹尾鉄三郎氏の名文をやや現代風に英文(http://www.thebookwurm.com/amh-ecc.htm)をもとに少し手を加えた。

2012年6月3日日曜日

長い長い一日。でも、こんな日もあるのだ!(下)

アート きょうしつ すたじお ダ・ヴィンチ 2012展

 雨がやや緩やかになったとは言え、早く目的地に着きたいと二人とも必死になる。ところがこれが一向に見つからないのだ。東海大学の東京病院の近くにあると言う、その展示会場を前にして、両人とも敢えて討ち死に寸前であった。iPhoneは私の武器。家内はアナログ派である。目的地は目の前にあっても、計器を頼りに何とか行き先を探そうとするのが、私。そこへ行くと家内はゲリラ派である。不思議な嗅覚を使う。ほんの一瞬、家内がわずかの隙間、谷間とも言っていい入り口を見つけた。Yellow Vanilla という画廊と特徴ある案内が目の前に現われた。

 崖下とも思える小さな一角には、すでに先客がおられたが、作品が数点展示されているようだった。主催者の方に名前を名乗る。前から孫が一方ならぬお世話になっていることは聞いていた。もちろんお会いするのは初めてであった。早速作品を見せていただいた。二人の作品がお友達の作品を中にして展示されていた。孫は二人とも石を描いていた。もっと造形のある絵かと期待していたのに拍子抜けがした。しかしよく見ると石を描き切っているのだ。石を絵に描かせる凡庸ならざる指導者を思いもした。

 さらに良く聞いてみると、二人はうちでは(アート教室では)絵を描きたがらないのですよ、絵はばあばの家で描いているから、ここでは工作がいいと言って、いつも粘土などの造型をやっていますよ、と言われて、さらに孫の作品を二点見せ褒めてくださった(上掲の作品は妹のもの)。奥様もご一緒にアート教室を開いておられるようで、孫の教室での活動をふくめ丁寧に作品を解説してくださる。もともと芸術に目のない家内はもうその場から離れられなくなっている。うどん派の私はただその彼らの会話を聞くばかりだった。窓枠が緑に彩られ、窓外の庭の緑と色よく調和していて、こんな素敵な空間があるのかしらと一人考えていた。

 そして次から次に繰り出される展示作品(そこには子どもたちだけでなく、シニアの方の作品もあり、主催者の方の作品もあった)の説明を聞いているだけで造型の奥深さを感ぜざるを得なかった。人とは何者なのでしょうという詩篇の作者の感想が自然と頭をよぎる。神様が創造された人間ならではの世界である。心豊かな表現を求めて愛情を持って子どもたちに接しておられるご夫妻に言い知れぬ尊敬の念を覚えさせられた。しかも午前中偶然のごとく出会うことのできた孫たちの活動が生き生きと再現されたのだから感謝この上もなかった。

 そしてこの夜、主を信ずる者同士で祈り合う会合にも出席できた。アダム以来の(罪ゆえの)働くことの苦悩、また病苦の苦しみが前面に出た祈り会であった。しかし不思議と昼間お聞きした召された方に働かれた主のみわざをともに覚えることができた。創造者である主は我らの罪の贖主であるからだ。この日経験したことはまだ他にも二三あるがそれはすべて省略した。結局この日、4月以来毎日続けていた聖書通読は残念ながら休まざるを得なかった。

神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。(新約聖書 マタイ6:33〜34)

2012年6月2日土曜日

長い長い一日。でも、こんな日もあるのだ!(中)

昨日家内宛に送られて来た手書きの絵、こんな優しい心の持ち主がいるのだろうか。

 葬儀会場には小一時間前に着いた。それよりも前に準備のために来ておられた方には申し訳なかったが・・・。すでに召された方の葬儀は火曜日に栃木県のご自宅で済まされており、この日はかつて住まわれていた八王子市の方のことなどを考え、東京で再び行われたものであった。

 もう何十回となく聞くベックさんの葬儀メッセージだが、聞くたびに新たな発見をさせられる。いつもまだ主を御存知でない方のことを配慮して心の衷心から語られるそのメッセージは、今となっては、その肝心な点が思い出せないのだが、私の霊の最深奥部で受け止めたことがあった。メッセージの前後にはヴァイオリン独奏とアルトの独唱がなされ、終わりにお婿さんと奥様のご挨拶があった。85歳で召されたご主人やお義父さんへの思いは尽きないものがおありだったが、召される前後にご家族が主イエス様から受けられた恵みが直裁に語られた。

 お婿さんはその前日4人で主の前に跪き、祈りをともにしたのは最初で最後だったと言われた。そして召された直後、障害を持つ一粒種の○○君がはっきりとおじいちゃんが天の御国に行ったことを感謝する祈りをささげてくれたとおっしゃった。奥様は58年間連れ添った夫への感謝と尊敬の思いを語られ、8年前70代後半で主イエス様のところに来られた時のことも話してくださった。終わってから式場にかかげられた様々なスナップ写真に多くの方が見とれておられた。その中にはご主人の中学(旧制)の同窓生のお姿もあった。

 司会者としていつもオルガン伴奏でお世話になるお方にお礼を申し上げるともなく、近寄ってお話しする一瞬があった。その時、彼女が主人から聞いたのだが、召された方は8年前、障害を持つお孫さんのことで悩んでおられ、人間には何も出来ませんね、神様に頼るしかありませんと言っておられたということであった。金婚式を記念して、それまで仏教徒として過ごしておられたご主人が、意を決して妻と同じ主イエス様の道を選ばれた背景のことだった。

 その話を紹介して彼女は言った。「真理を求めている人には主イエス様はどんなことを通しても救ってくださるお方なのですね」値千金の言葉だった。司会者としてのいたらなさに心が滅入ろうとしていた時にそのことばは光のように私に臨んだ。

 会場を後にして、再び孫の絵を見に、代々木へと急いだ。ところがこのところ決まって起こる関東地方の夕立が激しく起こり始めた。とてもではないが会場に行くのは気が引ける空模様ではあった。新宿まで出て、山手線で代々木に着く電車に乗っている間も、雨は激しく車体に叩き付けるがごとき案配であった。それでも代々木に降り立つ頃は少し雨脚も緩んでいた。案内の絵はがきとiPhoneを片手に傘を差し差し目的地を目指して出かけた。

神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。(新約聖書 1テモテ2:4〜6)

2012年6月1日金曜日

長い長い一日。でも、こんな日もあるのだ!(上)


 今日は全く思わぬ経験をさせていただいた一日であった。もともとこの日はさしたる予定はなく、夜の祈り会だけで、終日は読書に精出すくらいのいつもと変わりない一日になるはずであった。ところが葬儀が午後行われることが急遽火曜日に決まったため、東京に出かけるはめになった。それなら、三男の子どもの絵の展覧会が代々木で行われているので、序でにそちらの方も観たいと思わされていた。ただ昼間は子どもたちは学校なので孫には会えないものと思っていた。ただ家内は三男家族に渡したいものがあった。それで葬儀に行く前にわざわざ三男の住まいの近くの駅で途中下車することにした。その途中下車は実は私にはそれ以外にもう一つのお目当てがあった。

 それでお互いに朝八時ごろから出かけることにした。駅でお嫁さんと待ち合わせ家から持って来た品物を無事に渡すことができ、彼女とはそこで別れた。これからどうしようかということになったが、まだ10時半ごろであり、午後の葬儀には充分間に合う時間だった。私は前から行きたいと思っていたうどんやに食事に出かけようと勧めた。このうどんやさんはずっと前に三男に招待されたことがあり、それからその美味しさが二人とも忘れられず、一度出かけたことがあった。お目当てとはそのうどんやさんに出かけることだった。家内は葬儀に万が一遅れることがあっては大変と今日は断念するように勧めた。ところが私は折角ここまで来たらどうしても食べに行くと言い張った。うどんやまではまだ歩かねばならず、足の弱い彼女と私は結局、別行動を取り、家内だけ先に葬儀会場に向かわせることにした。

 ところが遠いと思ったが出かけてみるとそれほど遠くはなく、こんなに近いのなら家内も無理にでも連れてくれば良かったと思った。その上いつもは混んでいるうどんやさんも行ってみると、まだ時間が早いせいか、先客は一人であってそんなに仕込みに時間はかからなかった。このうどんやさんはとにかく手が込んでいる。うどんはもちろん手打ちだ。私の注文するのは冷やしきつねだが、これが中々の代物だ。きつねだから、当然油揚はつくがその油揚がわらじとも言って良い大きなもので、しかも何枚もある。その上、何とたっぷりとした卵焼きも中から出てくる、わかめも何枚も。だから当然うどんはそれらを埋めるに十分な量だ。更には別皿で気の効いた菜っ葉ものが鰹節と一緒につきだしとなって控えている。その上おいしいお水がきれいな瓶で用意されている。お水は十分である。至福これに尽きる。だから、もう感謝感激で舌鼓を打つことに専念していた。

 ところが半ば食べ終わった頃だろうか、窓外を小学生が三々五々先生に引率されながら歩いているのが見えた。何か社会科見学のために町を歩いているようだった。ひょっとして○○ちゃんがいたら、こんなところで何しているのと思われるなと、「ばあば」を振り切って自分一人で来たので半分後ろめたさを感じながら、彼らが次々と通りを行くのを眺めながらも口には引っ切りなしにうどんを流し込んでいた。

 ところが何と一番最後に来た女の子が見覚えのある子だった。○○ちゃんだった。でも彼女は気づいていないようだ。外から店内は見えるはずがないから、やむを得ないのだが・・・。そのうち一行はどんどん進んで行く。私は食もそこそこに外へ出て、もう数歩も前に進んでひたすら離れて行く一行に向かって、大声で「○○ちゃん」と呼ぶが、その女の子は立ち止まって後ろ向きに一所懸命画板のようなものに書き込んでいるので、こちらを振り向かない。聞えないのかと思い、さらに二回ほど呼んだが、一向にこちらを向かない。これが最後とばかりさらに一段と大きな声で呼んだら、やっとこちらを振り向いた。びっくりしたようだった。しかし紛うことのない○○ちゃんだった。こうして遠くではあるが、手を振りお互いを認め合うことができた。

 そのまままたうどんやさんに引き返して、事の次第に内心びっくりしながらも、あんなに今日は会えないと思っていたのに、こんな方法で会えるなんて、何と主は粋なことをなさるのかとただひたすら感謝した。席に戻って食べ残しのうどんをすっかり平らげて(汁も残さず)お勘定代750円を支払い、心も腹も満ち足りた思いで外に出た。ところが道の向こう側をまたしても同じ雰囲気の小学生が今度は集団で4組ほど連なりながらこちらの方に上がって来るのが見えた。

 こうなると黙っていられないのが私の質(たち)である。大きな道路を車をよけるように走り寄った。船で対岸にたどり着いた気分だった。歩行する小学生たちを尋ね人よろしく、くまなく捜し始めた。どの子もどの子も見知らぬ子だったが、最後尾に何とまたしても○○ちゃんがいた。声をかけた。さすがに友達の手前、恥ずかしそうだった。まわりの友達が「この人どういう人」と聞く声が聞える。私は葬式に出席するため喪服を着ているから、彼らがそう言うのもやむを得ない。けれども○○ちゃんは半分照れながら、でも嬉しそうに立ち話をすることができた。私も思わず先頭にいらっしゃる担任の先生によろしくお願いしますとばかりお礼をして見送った。あっという間に一行は通り過ぎて行った。私が先程よりさらに満ち足りた思いで葬儀会場にと道を急いだのは言うまでもない。

 こんなふうに私が意図しなかった形で孫と会うことができたのは、余りにも不思議な邂逅と言わざるを得ない。しかしまだこの項は続くのだ。明日その続きを書くことにする。

あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。(新約聖書 コロサイ3:17)