2013年8月30日金曜日

いかにして主イエスとの深い交わりに至るか(結)

 種まきの たとえ読みしは 病める嫁 主の愛満つ 畑の百合のごと(小金井市内 8.29)
さて、イエス様はペテロに「来なさい」と言われました。ペテロは舟から降り、水の上を歩きました。ペテロは水の上を歩きました。水がペテロを浮かしたのではなく、イエス様のことばがペテロを水の上に浮かせたのです。もしイエス様が「お出でなさい」と召されたら、その時に大切なのは実験してみることではなく、 イエス様のことばを信ずることが大切です。

もし、イエス様が「お出でなさい」と言われるならば、ためらってはいけません。待ってはいけません。振り返ってはいけません。環境を気にしてはいけません。もし、イエス様が「お出でなさい」と言われたならば、イエス様だけを見てください。他の人の言うことは気にもとめないことです。「舟に留まっていくべきだ、彼はいつも変わったことをする」などという他人のことばには気をとめないことです。

救い主との生き生きとした交わりを持つことこそがもっとも大切です。これは他の何ものにもまさって大切です。

ペテロは舟から降りました。ペテロは、主のみことばによって水の上を歩きました。その前までは、ペテロは波に悩まされ、同じところを漕ぎまわっていました。しかし、今イエス様のみことばによって、水の上を歩いています。そして、ペテロはイエス様を見ています。

最後に、どうしたら、われわれの救い主であるイエス様との親しい交わり・結びつきに至るなのでしょうか。今まで言ったのは、「主の啓示」によってです。そして、「イエス様の啓示に対するわれわれの答え」によってです。また、「イエス様の召し」によってです。もう一つ、「信仰の従順」によってです。

けど、「信仰の従順」は水を通らねばなりません。もし、私たちがイエス様と親しい交わりに入りたいと思うならば、私たちは水を通らねばなりません。イエス様が「来なさい」と言い、私たちはそれに従うには、水の中を通らねばなりません。攻撃と敵対の中を通らなければなりません。敵がやって来るのは当たり前の話です。悪魔は、ペテロがイエス様のみもとに行くことを欲しませんでした。で、大嵐が来ました。もし、人々がイエス様との深い交わりを持ちたいという憧れを心に深く持っているなら、いつも悪魔の攻撃を、嵐を経験します。聖書は、ペテロが超人間でないことをよーくあらわしています。ペテロはわれわれと同じように全く普通の人間でした。

ペテロは風を見て沈み始めました。ペテロは注意を横に逸らしました。ペテロはイエス様だけを見ませんでした。もし、私たちが環境、人間、自分を顧みるならば、イエス様のみことばの浮力がなくなって沈み始めます。イエス様のみことばにしたがう道は攻撃に続いていますが、イエス様のみことばにしたがう道はイエス様の御手に続いています。すなわち、イエス様に近づく道です。「信仰の従順」の中に私たちが何かを始めれば、たとえ途中で自分の思うように行かなくても、その終わりは必ずイエス様の御手のうちにあります。

「来なさい」というイエス様のみことばに従順であるならば、終わりはイエス様の力強い腕の中にあります。(マタイ伝14章)31節

そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」

ペテロは波の間に飲まれてしまう、当然の刑罰を受けて然るべきでした。けども、イエス様はそうさせませんでした。イエス様はご自身のために、あなたを沈めさせませんし、溺れさせません。それにもイエス様の名誉がかかっているんです。イエス様はあなたに「来なさい」と言われましたから、あなたを沈めさせることはできません。けども、イエス様は、ペテロに一言、言わねばなりませんでした。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」イエス様は、「あなたの信仰は強い、あなたの信じたようになるように」と言えなかったのです。イエス様はペテロを訓戒しなければなりませんでした。

F.ホフマン画(聖書物語より) 
イエス様はご自身の手を差し伸べられました。もし、イエス様がわれわれの方に御手を伸ばされたなら、それは災難のさばきの手であり、救い主の手であり、救いを与える手です。イエス様はペテロを連れ戻さざるを得ませんでした。イエス様はペテロを波の中から引き上げ、しっかりとした場所、すなわちご自身のみことばのうちに置かざるを得ませんでした。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」そこに私たちの思うように行かないことが横たわっています。なぜ、あなたはいろいろなことを見ているの、なぜあなたは主イエス様だけを見ないなのでしょうか。

イエス様との親しい交わりはわれわれの求むるところであるばかりでなく、イエス様ご自身の求めるところでもあります。イエス様はご自身をあきらかにされました。決定(決断)してください。

主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。

「イエス様が来なさい」と言うまで待ちなさい。けど、イエス様があなたを呼ばれたならば、ためらわないでください。他の人を見ないでください。悩みや困難を見ないでください。ただイエス様だけを見てください。

2013年8月29日木曜日

いかにして主イエスとの深い交わりに至るか(転)

枸橘(からたち)前川國男邸玄関先 江戸東京たてもの園内)
私たちはどうしたらイエス様との親しい交わりに近づくことができるなのでしょうか。

主の啓示に対するわれわれの答え方によってです。イエス様が「わたしである」と言って、私たちにご自身をあらわされる時、イエス様はわれわれに決定(決断)を迫ります。

ヨハネはイエス様に答えませんでした。ピリポも答えませんでした。ヤコブも同じであり、黙ったままでした。ペテロだけがイエス様に答えたのです。

すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」

ペテロは自分自身にこのように言い聞かせたでしょう。イエス様がご自身をあらわされる時、ご自身のためではなく私のためにご自身をあらわされるのだと。イエス様は言われたのです。「わたしは道であり、真理であり、いのちであり、光である」 と。これはイエス様のご自身の啓示です。このイエス様の啓示に対するわれわれの答えはどうでしょうか。決定(決断)するなのでしょうか。

ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」

主よ、あなたは父のみもとへ行く道ですか。自由と喜び、罪の赦しへの道ですか。もしそうなら、私にここまで来いとお命じになってください。もし聖書を何も知っていないのでしたら、今日祈ることが出来ます。

主よ、あなたは心からの平和への道ですか。もしそうなら、私にここまで来いとお命じになってください

と、祈ることが出来ます。

主よ、あなたは光ですか。そうなら、私にここまで来いとお命じになってください。私の真っ暗闇を光にしてください。
主よ、あなたはいのちですか。そうなら、私にここまで来いとお命じになってください。私にどうか永遠のいのちを与えてください。
主よ、あなたは真理ですか。もしそうなら、私をみもとに行かせてください。ここまで来いとお命じになってください。真理を私にお示しになってください。

イエス様はご自身を明らかにされました。イエス様は私たちに、「わたしである」と言われたのです。私たちはそれに対する答えを持っていますか。イエス様はわれわれの答えを待っています。今日、私たちは我と我が胸に尋ねてみましょう。イエス様の啓示に対して、いつ私たちは答えたのでしょうか。もしまだ生まれ変わっていないならば、全然お答えしていません。救い主なる神はわれわれひとりひとりを救うために、ご自身の愛する御子を死に渡されました。イエス様の血潮はわれわれの罪をおおうために流されたのです。

どうでしょう。私たちはそれに答えたことがありますか。もし、それに答えていなければ一番大きな罪を犯していることになります。その罪のために永遠に滅びてしまいます。その罪のために喜びもなければ平和もありません。

心から祈ろうではないでしょうか。

「主よ、もしあなたが私のために亡くなられたのでしたら、私をみもとに行かせてください。ここまで来いとお命じになってください。主よ、もしあなたが私のために亡くなられたのでしたら、私に罪の赦しの確信をお与えになってください。主よ、もしあなたが私のために亡くなられたのでしたら、私に新しいいのちをお与えになってください。」

十字架の上で犠牲になり、代わりに死なれた主イエス様の思い出を消そうと思ったパウロは瞬間的に変えられました。いったいどうして、彼はイエス様を信ずるようになったのでしょうか。どうして彼はイエス様を宣べ伝える宣教者になったなのでしょうか。それはイエス様の啓示によってでした。彼について考えると最も大切な箇所の一つはガラテヤ書1章の12節なのではないかと思います。新約聖書の332頁になります。

私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

16節「神が、御子を私のうちに啓示することをよしとされた」と、あります。そしてパウロはこのイエス様の啓示に答えました。使徒行伝26章の19節に「私は、天からの啓示にそむかなかった」と彼は証しするようになりました。

どうしたら、われわれの救い主であるイエス様との深い交わり、結びつきに至るなのでしょうか。「イエス様の啓示」によってです。また「イエス様の啓示に対するわれわれの答え」によってです。

もし私たちが信者ならば、もうすでに私たちはイエス様の啓示に対する答えになったはずです。信ずる者として私たちは、もうすでにしばしばイエス様の啓示に対して答えて来ました。しかし、もしわれわれの生活を振り返るならば、自らを恥ずかしく思わないでしょうか。イエス様はしばしば困難な導きの最中においてご自身を啓示されました。しかし、私たちはそれに対して答えませんでした。そこには反抗、自分を愛すること、自分の思い・自分の計画と考えがありました。それによって私たちは主の愛を退け、踏みにじったのです。

どうしたら、われわれの救い主である主イエス様との深い交わり、結びつきに至るなのでしょうか。今話したように、主の啓示によって、またイエス様の啓示に対するわれわれの答えによって(です)。

もう一つの答えがあります。すなわち、「主の召し」によってです。ペテロはこの主イエス様の召し、イエス様の呼びかけを待たなければならなかったのです。ペテロはイエス様がお呼びになるまで待たなければなりませんでした。けど、イエス様はペテロをお呼びになりました。しかし、その時イエス様はペテロだけをお呼びになったのです。なぜでしょう。なぜなら、ペテロだけが主の啓示に対して答えていたからです。もし私たちがイエス様の啓示に答えないならば、何と大きな恵みがなくなってしまうことでしょう。私たちは多分信仰のうちを歩みたく思っているでしょう。しかし、「ここまで来い」というイエス様のことばが絶えず先になければならないことを忘れてはいけません。イエス様は「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て水の上を歩いてイエスの方に行った。もしヨハネとピリポも、ペテロの出来ることは俺たちもできると言って同じことをやったらどうでしょう。その結果をここに見たくありません。ペテロだけがイエス様に「来なさい」と呼ばれたのです。

イエス様はご自身を私たちにあらわされました。私たちは答えたでしょうか。主よ、もしあなたでしたら、私に水の上を歩いてここまで来いとお命じになってください。ペテロはイエス様がお出でなさいと言われるまで待たなければなりませんでした。私たちも「主の召し」を聞くまで待たなければなりませんけれども、もしイエス様がお呼びになったなら行動を起こす時期です。チャンスです。もしイエス様がお呼びになったなら、私たちは人を見てはならず、うしろを振り返ってはいけません。もしイエス様がお呼びになったなら私たちは周囲に気を使ってはいけません。

2013年8月28日水曜日

いかにして主イエスとの深い交わりに至るか(承)

江戸東京たてもの園 小金井市
私たちはどうしたらイエス様との親しい交わりに近づくことができるなのでしょうか。すなわちイエス様の啓示により、イエス様のことばにより、主をよりよく知ることができ、主との親しい交わりに入ることができるのです。前に読んでもらいましたマルコ伝6章49節、50節をもう一回読みます。

しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた。というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。

このことばをイエス様はわれわれにも言っておられます。イエス様はご自身のことばによってご自身を私たちにあらわそうとしています。私たちはたとえ主の導きがわからないにせよ、人または環境のせいにしてはいけません。イエス様は危険の中に見捨てはしないのです。イエス様は私たちとの深い交わりを持ちたいので、われわれを生活の困難の最中において、またご自身のみことばの中でご自身をあらわして(くださるのです)。イエス様はすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。 「わたしである」というイエス様のみことばを聞くべきです。

イエス様は弟子たちにご自身をあらわしたのです。それまでと全然違ったかたちでご自身をあらわしました。ですから、弟子たちはたいへんびっくりし、恐れのあまり叫んだのです。け(れ)ども、それはイエス様の啓示でした。け(れ)ども、弟子たちとはそれを幽霊と思ったのです。私たちもしばしば弟子たちと同じではないでしょうか。イエス様は当時と同じように、われわれに呼びかけておられます。「わたしだ」、「わたしである」。

わたしの子よ、あなたはあなたを苦しめるもの、またわたしを苦しめることを考えたことがあるのか。

わたしの子よ、もしあなたが周囲にたくさん試みを持っているならば、それはわたしから来た、ということを知ってください。あなたの弱さはわたしの強さを必要としている。

わたしの子よ、あなたは困難と難しい環境の中にいますか。それはわたしから来たのだ。わたしは環境の主です。あなたの環境やまわりの人々は彼らのやりたいことをすることはできません。彼らはわたしの心を行なわなければならない。

わたしの子よ、あなたは金銭的な苦しみのうちにありますか。それを切り抜けるのはむつかしいのでしょうか。それもわたしから来たということを知りなさい。わたしはあなたのお金に責任を持っている。ただわたしは、あなたがわたしの方へ来ることを、わたしに頼ることを願っています。わたしの約束が真理であることをあなたに証明したいのです。

わたしの子よ、あなたは生活の夜を行きますか。それはわたしから出たのです。わたしは苦しみの人、また悲しみの人として困難を知っている。あなたがわたしの方へ来るようになるために、わたしがそれをそうさせたのです。

わたしの子よ、あなたは自分の友に失望しましたか。それはわたしから来たのです。わたしがあなたの最良の友であることを知るためにあなたは友に失望したのです。あなたの計画はくつがえりましたか。あなたは悲観し、疲れましたか。それもわたしから来たのです。あなたは自分で計画し、そのあとで祝福してくださいと祈った。しかしわたしは自分で計画したい。そうすれば、わたしはその責任を取ります。

わたしの子よ、あなたはわたしのために働きたいと願った。しかしあなたは今病気だ。それもわたしから出たのです。あなたが忙しかった時、わたしはあなたに話すことができなかった。しかし、わたしはわたしの秘密を語りたい。あなたはわたしのそばにいる祈る人となりなさい。

わたしの子よ、多分あなたはむつかしい使命を負わされたかも知れない。それもわたしから来たのです。あなたはわたしに頼ってください。

わたしの子よ、わたしの声を聞きますか。「わたしである。それはわたしから来たのです。しっかりするのだ。わたしだ。恐れることはない。」

どうしても覚えるべきなのはそれなんです。すなわち、すべてのうしろにある主イエス様を見てください。それはあなたの環境、まわりの人、あなたの苦しみではありません。主は「あなたにしっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言っておられます。

私たちは、どうしたらイエス様との深い交わりに至ることができるなのでしょうか。生活の困難の最中における主イエス様の啓示によって主との親しい交わりに近づくことができるのです。主イエス様はご自身を明らかにされました。砂嵐と苦しみの理解しがたい導きのなかにおいて。け(れ)ど、弟子たちはイエス様を認めず、幽霊だと言って叫び声を上げました。今直面している問題はわれわれの問題ではありません。うしろには主イエス様が立っておられます。それを信じましょう。

イエス様はご自身を弟子たちにことばによって明らかにされたのです。弟子たちはイエス様の声を聞いた時に幽霊だと思っていたのが、イエス様であることを知りました。暗いうちにあってもまた悩みの中にあってもそれを認めますか。すなわちそれはイエス様なんです、と。弟子たちはイエス様の「しっかりしなさい、わたしだ、恐れることはない」と御声を聞きました。それは聞き慣れた声でした。「わたしたちの主人だ!」と弟子たちは安堵のため息をつきました。どうしたら、われわれの救い主であるイエス様とその親しい交わり、結びつきに至るのでしょうか。今話したようにイエス様の啓示によってです。

二番目の答えはイエス様の啓示に対するわれわれのこたえによってです。

しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。するとペテロが答えて言った。主よ、もしあなたでしたら、私に水の上を歩いてここまで来いとお命じになってください。

イエス様はこのことばを弟子たち、皆に言われたのです。イエス様は「彼らに話しかけた」とあります。イエス様は弟子たち皆にご自身をあらわしました。すなわちイエス様はペテロにだけ「しっかりしなさいよ、ペテロ。わたしだよ、ペテロ。ペテロ、恐れることはない」と言ったのではありません。け(れ)どもイエス様は、すぐに彼ら、結局弟子たち皆に話しかけ、「しっかりしなさい、わたしだよ、恐れることはない」と言われました。け(れ)どもただ一人がイエス様の啓示に対して答えたのですね。

するとペテロが答えて言った。主よ、もしあなたでしたら、わたしに水の上を歩いてここまで来いとお命じになってください。

イエス様のご自身のあらわしに対して答えたのはペテロだけでした。

2013年8月27日火曜日

いかにして主イエスとの深い交わりに至るか(起)

江戸東京たてもの園内の樹木 小金井市
私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。(新約聖書 ヨハネの手紙第一1章3節)

初代教会の兄弟姉妹について、聖書は何と言っているかと言いますと、彼らは確かに当時の社会の中で異分子であり、迫害され、憎まれた者でした。けれどそれと関係なしに喜びと希望に満たされたのです。秘訣とは私たちの交わりは父ならびに御子イエスである(ということです)。われわれも毎日この事実を覚えるべきなのではないでしょうか。そうすると、心配から、不安から、孤独から解放されます。

今朝ひとつの質問についてだけ考えてみたいと思います。すなわち、いかにして主イエス様との深い交わりに至るなのでしょうか。

聖書の良き知らせとは、イエス様ご自身がわれわれ人間との交わりを持ちたく思っておられると言うことです。どうしてであるかわかりません。け(れ)どもほんとうなんです。主イエス様は世界の創造主であり、見えるものも見えざるものもすべて(を)お造りになったお方ですけ(れ)ど、われわれ人間のために悲しんでおられます。われわれ一人一人を思っておられます。私たちと、主イエスは交わりを持ちたく思っておられます。イエス様はただ一つの要求を持っておられます。われわれと交わりを持ちたく思っておられます。私たちも同じ要求を持っているなのでしょうか。

多くの人は「もちろん(持っている)」と言うでしょうけれど、ほんとうにそうでしょうか。

今読んだマタイ伝の14章29節に

イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。

とあります。ペテロはこの要求を持っていたから、舟から出て水の上を歩いてイエスの方に行ったのです。ペテロは自分の信仰を実験しようとしたのではありません。すなわち舟から降り水の上を歩けるかどうか試したのではありません。決してそうではありません。ペテロの心の願いはイエス様のところへ近づくことでした。イエス様をよりよく知るということこそが、いつも変わらないわれわれの願いでなければならないなのではないでしょうか。

主イエス様よ、あなた様との結びつきが増々緊密に親しく完全になりますように。多分他の弟子たちは、考えたことでしょう。「ペテロは何をしようと言うの、舟に残っていたら良いのに。ペテロはいつも変わったことをする。わたくしたちは舟に残っているというのに、なぜペテロは水の中にはいっていくのだろう」 ペテロはイエス様のところへ近づきたいと切に望んだのです。いや、イエス様のところへ近づくこの要求が、ペテロの心の中で強く叫んでいました。ペテロはもっとイエス様に近づきたい、救い主ともっと交わりを持ちたいと切に望んだのです。ペテロはうしろを振り向きませんでした。ペテロは、いまヨハネやヤコブが何を考えているだろうなどとは考えようとはしなかったのです。これはいいことか悪いことかなどとヨハネやヤコブに尋ねません。ペテロはただイエス様を見つめています。

もし私たちが他の人を見たならば決して前進いたしません。イエス様にもっと近づく、これこそわれわれの願いではないでしょうか。もし私たちが神の子であるなら、イエス様にほんとうの意味でしたがおうと思えば、イエス様ご自身をよりよく知りたいと思うでしょう。もし私たちがイエス様を知ったならば、イエス様になおも要求を持つでしょう。なぜならば、イエス様もまたわれわれに要求を持っていたからです。

どうしたらわれわれの救い主イエス様との深い交わり、結びつきに至るなのでしょうか。答えは四つです。第一番目、主イエスの啓示によってです。二番目、イエス様の啓示に対するわれわれのこたえによってです。三番目、イエス様の召しによってです。そして四番目、信仰の従順によってです。

イエス様は「弟子たちに向こう岸へ行きなさい。」と言われたので、弟子たちはしたがって出かけました。け(れ)ども、まもなく強い嵐がやって来ました。風は彼らに逆らって吹いて来ました。イエス様は弟子たちを強いて舟に乗りこませて、向こう岸へ行きなさいと行かせたのです。け(れ)ども、弟子たちは今絶望的な状態にあります。イエス様の行けと命じられた途中に困難があるかも知れない。弟子たちの場合はあったんです。け(れ)どもイエス様はいつもはっきりとした目標を目の前に持っておられます。イエス様は弟子たちにご自身を明らかにされ、それによって弟子たちと親しい交わりを持ちたく思っておられました。イエス様は弟子たちが悩んでいるのをご覧になりました。けど、すぐに彼らのところに来ませんでした。

イエス様は弟子たちと親しい交わりを持ちたいと思いましたが、まだ時が早過ぎたのです。多分私たちは今悩みを持ち、それに対して逃れ道がないかもしれません。たとえ私たちがまだ祈りの答えを聞いていないにしろ、イエス様はわれわれの苦しみを見ておられることを知るべきです。夕方イエス様は祈るために山へ上って行かれました。そして、夜明けの四時ごろ弟子たちのところに来られました。イエス様は父とお語りになるために長い間祈りました。そしてイエス様は弟子たちを長い間苦しみの中にそのままにしておかれたのです。しかしイエス様はご自身をあらわすために弟子たちのところにやって来ました。けど、弟子たちは驚きに打たれ、恐ろしさのあまり、大声で叫んでいました。弟子たちは臆病者ではなく、強い漁師だったはずです。けど、彼らはそのようなことをいまだかつて経験したことはありませんでした。「誰か水の上を歩いて来る。それは幽霊にちがいない」と彼らは思ったのです。

私たちはどうしたらイエス様との親しい交わりに近づくことができるなのでしょうか。イエス様の啓示によってのみ可能です。すなわち生活の困難の最中におけるイエス様の啓示によって主との親しい交わりに近づくことができるのです。

弟子たちはイエス様によって夜中に向こう(岸)へやられました。弟子たちは嵐の中に棄てられました。しかし、これは主の導きでした。そのような困難の中で主イエス様はご自身をあらわしました。けど、弟子たちは恐怖のあまり叫び声をあげました。弟子たちはイエス様がご自身をあらわすためにこのような困難の内に導き、それによって主イエス様とのより深い交わりを持つためであることをまだ知りませんでした。

何と多くの人々は嘆いているでしょう。すなわち、なぜ私は良い働き場所を持っていないの?なぜ私には良い両親がいないのでしょうか?なぜ私の家はこんなに暗いのでしょうか?なぜ私は健康でないなのでしょうか?なぜ私はいつも困難がつきまとうなのでしょうか?なぜ私だけに悩みが降り掛かってくるなのでしょうか?このような質問を持っている方はいっぱいいます。

イエス様は取りも直さず私たちと親しい交わりを持ちたく思っておられます。ですから、イエス様はそのような困難にお導きになったのです。多分私たちはその導きをわかっていないかもしれないけれど、イエス様はわれわれをそのような苦しみ、困難、またそのような理解しがたいことによって、ご自身をあらわしたいので、私たちをイエス様との親しい交わりに導く、それを信ずべきです。

(御代田での8月25日の福音集会のゴットホルド・ベック兄のメッセージの聞き書きである。今日から四部に分けて連載する。なお同趣旨のメッセージは『光よあれ』7集に載せられているが、今回新しい言及がある。「主は生きておられる」の何よりの証である。私ども家族を見舞った困難もこの日曜日でちょうど100日を経過したが、このメッセージをとおして主をますます恐れる者である。)