2019年5月31日金曜日

聖徒メフィボシェテ(下)

麦秋の上州路

サウルの子メフィボシェテは、王を迎えに下って来た。彼は、王が出て行った日から無事に帰って来た日まで、自分の足の手入れもせず、爪も切らず、ひげもそらず、着物も洗っていなかった。・・・王は彼に言った。「・・・私は決めている。あなたとツィバとで、じ地所を分けなければならない。」メフィボシェテは王に言った。「王さまが無事に王室に帰られて後なら、彼が全部でも取ってよいのです」(Ⅱサムエル19・24、29〜30)

 ダビデは危機を乗り越えて帰ってくる。そう信じたメフィボシェテは、とるべき最も聡明な態度を迷わずにとった。ダビデの災難を悲しむ姿勢を一貫した。その、さながら喪に服したような姿でダビデの帰還を待ち、事実ダビデが帰還してきた日にその姿のままで王を迎えたのも彼の賢明さを示す。

 メフィボシェテに先んじてダビデを迎えに出たシムイとツィバの態度(Ⅱ19・16〜20)を、メフィボシェテと比較すると何と卑屈で醜いことよ。

 それに対してメフィボシェテの真実と謙遜とは、まさに光っている。

 軽率にツィバのざん言を信じてしまったダビデの、まの悪さをごまかすような尋問に対するメフィボシェテの返事は、非の打ちどころがないほどりっぱである。明らかに自分の誤りに気づいたダビデは、しかし以前にツィバに与えた約束もほごにできず(この時点でそういうことをすることは政策的に危険であることを、ダビデは知っていた。彼に身をする寄せてくる者たちに寛大でないと、絶望させる結果、再び騒乱になるからである)、いかにもバツが悪いのを必死に押さえて、まことに公正さを欠く妥協的な判決を下した。

 それに対するメフィボシェテの返事が、ダビデにグウの音も出なくさせる。

 「王さまが無事に王室に帰られて後なら、彼が全部でも取ってよいのです」(Ⅱ19・30)。この一言を聞いた時のダビデとツィバの表情を見たいものである。

 この世の地位、権力、富、名声、そういったものの空虚さをメフィボシェテは知り抜いていた。世は彼に対し、また彼も世に対して、もはや十字架につけられてしまった(ガラテヤ6・14)というのが、掛け値無しにこの時のメフィボシェテの心境だったろう。といって、すねて世捨て人になったわけでもあるまい。淡々として、神の御旨にすべてをゆだね、神の愛の中に安住し、死んだ犬という肩書きを唯一のものとして余生を生きたであろうと思われる。

 歴代誌第一、8・35、9・41を見ると、後日談が書けそうである。メフィボシェテの息子ミカは、その家系を伝える良い息子たちを持ち、サウル家の子孫は由緒正しい家柄として後世に残った。主はメフィボシェテの信仰に対して報いられた。

 メフィボシェテの信仰は父ヨナタンの遺産といってよいだろう。ヨナタンこそは〈神の王国〉の本質を正しく理解し、身をもってそれを表明した人だった。すなわちーー

 神の王国の王は主ご自身であること。この国の王としてだれが立てられるかはひとえに主の御旨によること。その王国において自分に与えられた役割が何であれ、忠実にその果たして主の栄光を現わすこと。

 ヨナタンは右のことを、己れに死に切っていることにより実行した。そして彼の息子もーー。

(『乱世の指導者(サムエル記の人々)』239頁より引用)

2019年5月30日木曜日

聖徒メフィボシェテ(中)

彼は礼をして言った。「このしもべが何者だというので、あなたは、この死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか。」(Ⅱサムエル記9・8)

 しかるに二度目に登場した時のメフィボシェテの姿を見ると、その生活歴から予想されるのとはおよそ違ったさわやかさが現わされている。

 王位が確立したダビデは、ヨナタンとの約束を果たそうと考えた(Ⅱ9・1)。このサムエル記第二、9章は単純に読めばすてきな美談である。そういう読み方がまちがいだというのではない。ただ、サムエル記は歴史書であり、しかもその歴史は(特にこのあたりは)政治史であり宮廷史である。そこに描かれているのは権力の世界だという事実も無視すべきではない。権力の世界とは大体においてうさんくさい、ドロドロした、そして血なまぐさいものでさえある。ダビデもまたその世界に生きた人間で、その汚濁にまったく無関係でなかったことを、むしろ聖書は隠さずに描いている。

 この問題に関するダビデの暗黒面を推測させるのは、サウル家の生き残り7人の刑殺事件(21章)だ。うち続く飢饉の原因探求がサウル家の責任追及に進展し、ギブオン人の要求を入れたという形でサウルの子二人と孫五人が処刑された。この事件に関してダビデの作為はまったくなかった、と、ダビデの名誉のために信じたい気持ちもある。が、結果的にはそれだけダビデ王家をおびやかす危険要素が除かれたことになるわけで、政治家としてのダビデならこの事件について完全に受け身なだけだったどうか疑わしい。

 右の七人の所在がわかったというのはどういうことか。ヨナタンの遺児でさえ身を隠していた状況である。前王朝の遺族が身をひそめるというのは命がけのはずだった。ダビデがメフィボシェテを優遇したという美談が国中に流れたことにより、遺族たちの警戒心がゆるんだとも考えうる。(中略)

 美談の内容だが、サウル家の私領(ダビデが没収していた)をメフィボシェテに返したこと、王族(ダビデ王家の)に準ずる待遇を宮廷内で与えたことで、足の不自由なメフィボシェテはこれによって事実上いつでもダビデの目の届く所に置かれることになった(Ⅱ9・10)

 新王朝転覆をはかる前王朝の遺臣の動きを封ずる効果は十分であろう。

 ダビデのこの処遇を、しかしメフィボシェテはすなおに好意として受け取り、謙虚な態度であふれるばかりの感謝を示した。「死んだ犬に等しい無価値な私にこれほどまで・・・」と、おそらく感涙にむせび、しばしば絶句したかも知れぬ。彼は聡明だった。もしそうでなければ、この場合別なことばや態度が出ただろう。そしてそのことは、後日彼の立場を危うくしたはずである。「このぐらい当然だ。もっとしてくれてもいいぐらいだ。」こんな気持ちがあったらダビデに「この男は・・・」と思われ、たぶんサムエル記第二、21章の七人のリストの筆頭にあげられる結果になったろう。

 彼の聡明さからすれば、ダビデの好意の裏にあるものを読み取ることも困難ではあるまい。そういうことにまったく気づかぬかのようにすなおに感謝したのであれば、その聡明さは驚くべきもの(後日の出来事からも推察して)である。ただしその場合、ダビデに対する感謝は”演技”になるおそれが大きい。もし演技の感謝なら、それを見破れぬダビデではないはず。すべてを知る聡明さと、それでも純粋に感謝するすなおさとがこの場合両立できるか。できたと思う。その秘密はメフィボシェテがまったく己れに死んでいたことにある。

 「死んだ犬」とは、まったくの無価値を表わす(伝道9・4を見よ)。これがこの王孫の自己規定であった。

(『乱世の指導者(サムエル記の人々)』千代崎秀雄著233頁より引用。なお「聖徒メフィボシェテ」の副題は[死に切っていた王孫]である。)

2019年5月29日水曜日

聖徒メフィボシェテ(上)


さて、サウルの子ヨナタンに、足の不自由な息子がひとりいた。その子は、サウルとヨナタンの悲報がイズレエルからもたらされたとき5歳であった。

 一人の青年貴族がいたーー。
 祖父は国王、父はその長男だったが、の幼い時に祖父と父とは非業の死をとげ、は家臣によって危うく死を免れた。国王の位は亡き祖父の重臣の一人がうまうまと手に入れ、が成長したころにはその新国王の王座は揺るぎないものとなっており、が新王家の一族に準ずる待遇を与えられただけでも新王の非常な”好意”と感謝せざるをえなかった。ここまではメフィボシェテと同じだが、後がだいぶ違う。

 「彼」とは、名は秀信、姓は織田、幼名を三法師という。祖父が信長、父は信忠。彼は天下をとった秀吉によって美濃国主、岐阜城主とされた。関ヶ原の戦いでは豊臣方につき、敗戦、落城、徳川による刑死は免れたが、5年後、失意のうちに26歳で病死した。

 彼のことを引き合いに出したのは、メフィボシェテの置かれた状況と立場を読者が身近に理解されるためである。しかし、紀元後1605年に死んだ秀信に比べ、その2600年ほど前の”もう一人の王孫”メフィボシェテははるかに聡明であった。のみならず、さわやかな人柄だった。この点はその父ヨナタン譲りであろう。おそらくサムエル記を読んだ人のほとんどは、彼の人柄に対して好感をおぼえるに違いない。その登場場面はわずか三度だが、その聡明さはアブシャロムの乱発生の際に明らかにされ、ダビデの帰還の時に鮮やかに発揮された。このサムエル記第二、19章はまさに聖書中の名場面の一つである。この時のメフィボシェテの清澄な心事の前には、ダビデは惨めなほどに薄汚れて見える。王の前にひざまずく足なえの青年(?)こそ霊の世界では王冠を得た人であり、ダビデのほうは霊の世界ではこの瞬間足なえでしかなかった!

 ボシェテというヘブル語は「恥」を意味する。メフィボシェテの名の意味はいくとおりかあげられているが、筆者はその中の一つ「恥の一掃者」という解釈に特に魅力を感じる。(中略)それは対ペリシテ戦にかけた父子の悲願を反映する。ペリシテに従属させられたイスラエルの恥を一掃したい、という悲願である。(中略)

 だが、この悲願もむなしく、サウル父子は対ペリシテ戦の中途で倒れた。その悲報が伝わった時、メフィボシェテはまだ5歳の幼児だった。すっかり動転したのは乳母である。次の瞬間にはペリシテ軍が留守宅に襲ってくるかのごとくに思い、あまりあわてたのっで抱いて逃げかけたメフィボシェテを腕から落とし、ために彼は終生足なえになってしまった。原文から受ける感じでは、強打して両脚ともに障害を生じ、歩く時には躍るようなかっこうになり、長距離の歩行は不可能だった(Ⅱ19・26)ようである。

(中略)

 足なえということのハンディはメフィボシェテにとって特に大きい。この時代、人々が王として立てるには身体的にも他に抜きんでていることが望ましかった(Ⅰ10・22、23)つまり、彼がサウル王家の後継者たることはまず絶望的だった。それにしても、世が世であれば若様は・・・といったせりふを周囲から何度も聞かされたかも知れぬ。多感な年代を灰色の境遇に過ごしたこの若者がどんな性格に育ったかーー。

(『乱世の指導者(サムエル記の人々)』千代崎秀雄著1981年刊行 230頁から引用。あわせて過去の作品ではありますがhttps://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2016/05/blog-post_29.htmlを併せてご参照ください。)

2019年5月26日日曜日

お登紀さん(続)

1967年までの我が学び舎

新しい歌を主に歌え。全地よ。主に歌え。(詩篇96・1)

 加藤登紀子さんの東京新聞夕刊連載の『この道ーーあなたに捧げる歌ーー』は先週の土曜日で37回を数えた。全く縁遠いとばかり思っていた加藤さんの歩みはやはり同世代ということもあろう。共通点が随分あることに日々驚かされる。

 一番ギクリとしたのは、第27回目の「平戸への旅」の次の文章であった。彼女が生涯をともにする藤本敏夫氏の次のことばであった。「人間は地球の居候だ。地球に土下座して謝らなければならない」という言葉。加藤氏によると、それはそれまで「学生運動のリーダーとして、街頭行動を引っ張って来た彼が、その後の農業を軸にした環境活動家になるまでの新しい道に踏み出す糸口を見つけた。」ことであるらしい。

 この思い切りの良さが1969年の藤本氏の言であることに限りない共鳴を覚える。私もまた、同年当時下宿していた畑の一隅に膝を屈して自らの神様に対する非を衷心から詫びたからである。藤本氏ほど学生運動に身を入れた者ではないが、この時を境に自身の神なしとする自己中心のそれまでの生き方の転機を経験した。

 次に目を見張ったのが、第31回目の「酒は大関」である。確かに彼女がそういうふうに呼ばわっていたのをかすかに記憶している。ところで何が類似しているかと言うと、大学を卒業して田舎の教師として赴任することになった高校の最寄駅はその名も「山前」であったが、その山の頂上近くには「酒は大七」と宣伝よろしく大看板がかかげてあり、どこからでも見通せ、遠くから高校の敷地を否が応でも知ることの大きな目印となっていた。まあ、つまらぬことではあるが・・・

 最後に知らされたのは、第37回目の「花ひらく30歳」であった。これには思わず苦笑せざるを得なかった。冒頭次のように書かれていた。「藤本敏夫との獄中書簡は、全部で141通。1972年5月から74年9月まで約二年半の記録が残った。」もちろん、このご夫妻の必死の往復書簡は決して笑い事で済ませる問題ではない。夫が獄におり、初めての赤ちゃんを抱かせたくても抱かせられない、その苦しみ、悲しみの最中にある書簡であるからである。

 苦笑いと言ってしまったのは、私たちもまた1967年4月から1970年3月まで往復書簡を交さざるを得なかった。事情は異なるが、それだけ互いに書簡に真情をあふれさせずにはおれなかったからである。

 このように37回にわたる彼女の追憶を読ませていただくときに、彼女がいかに泣く人であるかを知り驚いた。彼女の愛がそれだけ強いからであろう。歌手は小手先のことばで生きるのでなく、全身全霊を込めて存在する。遠くの存在であった加藤登紀子という有名人がこうして私たちと同じように悩み苦しむ人であることは当然といえば当然であるが、日々共感しながら読ませていただいている。

 ウオッチマン・ニーのことばを少し記しておく。
「一つの不思議なことがあります。聖書を読むことのできる人はすべて、話を聞くことが非常に速いことです。一度、話すとすぐわかります。あなたがどのように話しても、彼はどのようにでも了解します。主観的でない人は、話を聞くことができ、聖書を読むこともできます。これに反して、多くの人はあなたが一度話しますが、彼には印象がありません。あなたは彼に二度話します。しかし依然として何の印象もありません。これは彼の頭の中のものが非常に多く、思想も多く、意見も多く、主張も多いためです。あなたは彼に一度話し、二度話します。彼は聞いても少しの進歩もありません。わたしたちがもし、自分が主観的な人間であるかどうかを試そうとするのであれば、ただ他の人の話がわかるかどうかを見ればよいのです。人が何気なく言う事を、自分は理解できますか? わたしたちが地上で生きている限られた年数を考えるなら、もし主観的であるとしたら、わたしたちの時間はどれだけの損失を被るかわかりません。客観的な人が聖書を一度読むほうが、主観的な人が十度読むより勝っています。」(『聖書を読む道』ウオッチマン・ニー著42頁の「主観的であってはならない」に関する項目の抜粋引用)

 私の加藤登紀子さんの文章の読み取りは主観的な読み取りで、悪い例でないかと思う。たとえば、加藤氏が獄中書簡で伝えたいものは、私の共鳴ぶりではなく、むしろマタイ11・3や使徒16・25に近づけて読む方がより客観的な読み方と言えるのではなかろうか。そんなことも考えさせられた!

2019年5月18日土曜日

ある日の家庭集会裏話

皆様をお迎えした花々

きょう、救いがこの家に来ました。・・・人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。(ルカの福音書19・9〜10)

 家庭集会なるものを開かせていただいてもう何年になるのだろうか。けれども、すべて物事には始まりがあれば、必ず終わりがある。この家庭集会もそろそろ終活の時期にさしかかってきた。それがいつになるのかはわからない。

 ただ、家庭集会は福音をお伝えするのが目的であるから、体が続く限りやらせていただきたいと思っている。それどころか、私たち夫婦にとり老化防止に大いに役立っている。特に私にとっては。皆さんが帰られた後、どなたが来られたか、お名前をあげて確認する楽しさがある。お顔を思い浮かべ、名前までも確認するのに、結構歳をとり弱くなった私の脳がフル回転させられるからである。

 ところが、今回この作業が意外なところで役立った。それは一人の方がイザ帰られる段になってご自分の履いてこられた靴が見当たらなくなる出来事が生じたことによる。その方は私と一緒に集会が終わってから、病院に一人の方をお見舞いする手筈だった。最後に、靴は二足しか残っていなかったが、もう一人さらに遅くまで残ることになる方がこちらが自分のだと言われる。残された一足を前にして、その方はこれは私の靴じゃないと言われる。止むを得ず、サンダルをお貸しし、取り敢えずは病院にその方の車で出かけることができた。

 帰ってきてから、どなたかから履き違えの電話連絡がなかったか、心頼みにしていたが一向に連絡がない。がっくり来た。主催者として何とお詫びして良いか、困り果てた。その時、一計が思い浮かんだ。そうだ、私は来られた方々の名前を把握しているのだ。それぞれの方にこちらから確認できる。しかも、出席者の大多数の方のメールアドレスを教えていただいているじゃないか、という思いだった。二、三手間取ったが、それでも最終的には文明の利器を利用して絞り込むことができた。

 そして、今朝になってご本人が直接拙宅まで歩いてその靴を返しに来られた。そのあとすぐ、間違えられた方には私の方から靴を持参しお返しすることができた。水曜日の家庭集会から、丸二日間、時間はかかったが、こうして無事、靴はそれぞれの方々の元の鞘に収まった。靴を間違えた方とはまだお会いして二週間足らずだが、二回の礼拝の日、そして先頃の家庭集会の日、そして今朝の拙宅での玄関先の上り框での会話と都合4回を数えることになったが、その方の孤独病は果たして癒されただろうか。

 孤独でない魂は一人として存在しない。主イエス様は私たち一人一人を用いてその孤独な魂に触れなさい、福音を伝え続けなさいと語っておられるのでないだろうか。

 なお、お見舞いした方は、入院先から、朝、その靴を間違えられた方に「(私は入院中だから行けないけれど)今日の家庭集会に行ってくださいね」とお誘いの電話をされたそうだ。でも、こうしてその方の祈りが答えられ、出席されたのだ。

 「家庭集会に私の知人が出席しますように」「靴の取り違えが解決しますように」などなどと、家庭集会は多くの人々の祈りが聞き届けられるように、主ご自身が開いておられることを忘れてはなるまい。次回は6月19日だ。読者諸氏も祈りのうちに覚えてくだされば幸いだ。

2019年5月14日火曜日

お登紀さん


若い男よ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。(伝道者の書11・9)

 東京新聞夕刊に、加藤登紀子さんが、「この道 あなたに捧げる歌」と題して連載している。私は彼女の存在を知らないでいたわけではないが、これまで知ろうとはしていなかった。遠くの存在、私とは次元の違う世界に生きている人との思いが強かった。

 しかし、出発点からしてほぼ同期であり、それゆえ共感を覚える記述も多く、この人は私よりはるかに密度の濃い人生を送ってきたのだなあーという思いにさせられた。と同時に、なぜ自分も彼女のように真剣に生きてこなかったのかな、という悔恨の思いをしばしば抱かされる。

 そのような記述の中で、第26回(5月13日)”ひとり寝の子守唄”と題して次のような文章があった。

 前年の11月7日から巣鴨の東京拘置所に拘留されていた藤本敏夫に、私は、出来る限り面会に行っていた。拘置所は、一日に一人の面会と差し入れ屋からの弁当や衣服、書籍の差し入れが許された。
 暖房のない独房の寒さに耐えられるよう、セーターやマフラー、そして毎回、山ほどの書籍を運んだ。
 三月十二日、東京が麻痺するほどの大雪が降った日。
 私は藤本から届いたハガキを見ていた。
 「朝起きてトイレの蓋を開けると、よくネズミが顔を出す。いうなれば、そのネズミ君が僕の親友だ」
 その文面から、ふっと歌が浮かんだ。
 「ひとり寝の子守唄』
 これこそ自分のための歌、と言ってもいいかな、と嬉しかった。

 三月十二日、加藤登紀子さんの三月十二日があった。私にとって忘れられない日がこの日であることはこのブログでも前々回書いたとおりである。こうして彼女の人生と私の人生に大きな接点があることに今更ながら気づかされた。そう言えば、彼女は第24回(5月10日)”悲しき天使”で1968年の8月20日のプラハでソ連軍が侵入した事件の前後の、彼女自身と藤本氏の関係・動向を書いていた。

 その時、私は東京の本郷だったと記憶するが、40日間ほど当時受講していた中央大学の通信教育のためのスクリーングのため下宿生活を送っていた。それは自らを律するために法律を学びたいと思っていたからである。しかし、現にすでに大学を卒業して教師稼業を身につけている自分にとってはどうしても単位を取得しなければならないという切羽詰まった思いはなかった。

 同宿の通信教育学生には県庁の役人や九州の新聞記者がいた。彼らは大学卒業の肩書きが必要だった。ところが、人は安きにつくと言うか、昼間は一応大教室に行って、様々な科目を履修するが、夜は社会勉強と称しては、4、5人で飲み屋や公園に繰り出したりして勉強そっちのけであったのがその実態であった。

 互いに田舎から東京に出て来てその刺激に酔いしいれていた。まさにデカダンスそのものであった。その夏も終わろうとするときのプラハに対するソ連軍戦車の侵攻の出来事であった。「自由は鳴りやまず」と意気軒高のまま職場に戻ったように記憶する。しかし、それは同時に生けるまことの神の存在を知らぬまま、天に唾する生活の日々であったように思う。こんなことを加藤登紀子さんのこの連載ものをとおして思わず振り返らされている。