2012年11月30日金曜日

あなたは何に支配されていますか

小学校三年の女の子の作品
悪者は自分の悪によって打ち倒され、正しい者は、自分の死の中にものがれ場がある。(旧約聖書 箴言14・32)

「なぜ正しい人は恐れなく死ねるのか、その理由をご存じですか」—青年たちに、そう尋ねたことがあります。

そして、素晴らしい答えを聞くことができました。ひとりがこう言ったのです。「それは、その人が日々の死に慣れているからです。」

主イエスに属する人は、地上にある間、死の修練を積みます。

神が彼らの最愛のものを取り上げてしまわれる—すると、彼らは「どうぞ」と申し上げるのです。神が彼らの願いや計画を、インクで抹消なさる—すると彼らは、つぶやかずに、自分の心を死なせます。

確かに、聖書はイエスの弟子たる者に関して、不気味なほどに大いなることばを語ります。すなわち、「(彼らは)自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまった」と言うのです(ガラテヤ5・24)

我々には、十字架に死なれたひとりの主がおいでです。主に従う者は、「私」を死に渡すことを、日々学びます。彼は死の修練を積みます。

それゆえ、真のクリスチャンにとって、息を引き取ることは、さほどのことではないのです。

さて、しかし、きょうのみことばには、それ以上のことが語られています。ラテン語訳聖書ウルガタには、実に的を得た訳し方がされています。「正しい人は死ぬときにも望みがある。」そうです。主イエスにつく者とは、死よりよみがえった方を主とする人です。それゆえ、彼には生ける望みがあります。そして死に臨んでも、このことを知っています。—「わがふるさとはかしこにあって/そこには御使いの軍団がおり/大いなる主を賛美する・・・」

もうひとつ、付け加えることがあります。泰然と死を迎え得る人は、また泰然と生きる人でもある、ということです。

主よ! あなたの死といのちにあずかり得ることを感謝します。
                         アーメン

(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著岸本綋訳 11月29日の項目から引用。二三日前、小学校1年と3年の女の子がいつも寝る前に祈っていることを知った。姉が言うには妹は随分長いこと祈っている、と言う。聞いてみると「死なないように」と祈っているということであった。このブッシュ氏の記事を読む前は、ほー素晴らしいじゃない、やはり死の恐怖を解決するお方に子どもと言えども祈らざるを得ないのだと得心していた。しかし「死なないように」とは私もふくめて人間すべてがもっている己の欲に支配されている罪そのものであることがわかり、複雑な思いにとらわれた。「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。・・・ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」ヤコブ1・14〜16、21。自分自身をふくめて幼きこどもたちの霊の眼が開かれ、真底イエス様に頼れるように祈り続けるしかないと思わされた。)

2012年11月29日木曜日

つつましく生きたい

 庭の一隅にピンクの椿が蕾を見せ始めた。小ぶりの木に咲くこの椿はこれよりは大きめの木で紅い花を咲かせるもう一本の椿に比べると日陰者のような存在である。しかも咲き方が下に向いていてうつむき加減である。ここ二三日の気の滅入るような寒さの中で、このような彩りを提供する植物の妙と造物主の配慮には感嘆させられる。

 考えてみると、この庭は31年前は隣家の土地であった。それが父が病を得て、一人息子である私のもとに転がり込んで来、父が買い求めた結果私たちのものとなった土地である。そして、今日はその父が31年前に召された日である。忘れることのない一日である。生きていれば100歳ということか。父は今で言う認知症を患っていたのだ。当時、私たちは何もわからず、昼夜逆転するような父の対応に困り、精神病院に連れて行ったり、同時に結核も患っていたので、近くの結核病院でお世話になったりした。しかし、そこでも扱いに困られて、親戚の世話で家からは遠く離れた大学病院に入院させてもらった 。

 近くだと見舞いに行けるが、電車でかれこれ二時間程度かかる場所は心配であったが治療のためやむを得なかった。家内はこの時、五人目の子どもを身ごもっていて、転がり込んで来た父を半年にわたり面倒を見ざるを得ず、一方子どもの育児もあり、それも限界が来ていた。大学病院への転院はやむを得ぬ判断であった。

 その年の11月23日の勤労感謝の日には6月に誕生した末の娘も連れ、家族7人で父の見舞いに出かけた。私たちには忘れられない至福の時となった。明らかに主がともに御臨在してくださったのだ。丘の上の窓越しに手を振る父に私たちはいつまでも手を振って幸せ一杯の思いで丘を下った。子だくさんの私を、父は初めてとも言ってもいい言辞で、ねぎらってくれた。私は私で父をふくめて8人で祈ったとき、「お父さんの病のうちにイエス様がともにいてくださいますように」と祈った。なぜか病を癒してくださるようにとは祈らなかった。

 そしてそれから一週間ほどして29日、この日は31年前は日曜日であった。教会の礼拝を終え、取るものも取りあえず父の大好物の品々をあちらこちらで買い求めて、父を喜ばせようと、その日は私一人で、その大学病院へ急行した。つい一週間前に降りて行った丘に今度は登って行くのだ、病院内を下から見上げる形であった。しかし近づいてみると、何となく病院内があたふたしているように見えた。入るなり、看護士さんが申し訳なさそうに「お父さんは昼前亡くなりました。ご家庭に何回も連絡したのですが・・・」と言われた(教会に家族がいたので連絡がつかなかったのだ)。そして父の変わり果てた亡骸に対面させられた。私にとって生涯これ以上のショックはなかった。

 父は信仰告白をしていず、普段から私の信仰に理解を示そうとしていたが「キリスト教」だけが唯一の宗教でないと反対していたが、なぜか、葬儀は牧師の配慮で教会でさせていただいた。葬儀が終わっても、丸二日泣いていた。どうしてこんなに涙が自分のうちにあるのかと思ったほどだった。家内もともに泣いてくれた。一人息子として父に苦労をかけっぱなしで、事情があったとは言え、同居せず、同居が実現した時にはすでに心が病んでいた父、地上における幸せを何一つ人並みに味わわせてやれなかった無念さも混在していた。

 しかし、涙を流し切ったあとにすがすがしい主の御声を聞いた。それは父は私たちより先に天の御国に凱旋したのだ、という私の内なる魂に直接語りかけられた主のおことばであった(信仰告白をするとか、そういうことだけが絶対的な条件でなく、ぼろぼろになって、主の前に心の底から助けを求めていた父を主は憐れまれたにちがいないという確信であった)。そして父にしてやられた、先を越された、と思った。教会生活をこの通り守っていますと言うパリサイ人的な生活をして、それを何よりも良しとしていた私より先にという思いであった。そして父をあっぱれだと思い始めた。

 口をついで出て来たことばは次の聖書のみことばであった。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画にしたがって召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています 。(新約聖書 ローマ8・28)

 このみことばは私が栃木県に住んでいた時に、礼拝する教会が近くに見当たらず悩み苦しんでいる時に、洗礼を授けてくださった古山洋右牧師(京都福音自由教会)が心配して泊まりに来て下さり、読んでくださったみことばである。牧師は、「神を愛する人々」と書いてあるけれど、私たち一人一人は生まれながら神を愛する者ではないですよ、そういう私たちを一方的に主があわれんでくださった結果、初めてそう言えるんですよ、そしてその私たちのためにはさらに神様はすべてのことを働かせて益としてくださるんですよ、という意味のことをおっしゃっていた。そのみことばが父の死を前にして再び私の心を支配したのである。

 その日から31年が経つ。私はその父と同じ年齢になった。この年齢で父が私恋しさに病に陥ったと思うと切ない。けれども主なる神様は私たちの思いを越えてすべてを支配していてくださることを思う。内外とも身辺一日として心穏やかでない日はない。しかし一たび主イエス様が地上に来てくださり、救いとなってくださり、十字架の死からよみがえられ、今も生きておられ、私たち一人一人のためにとりなし、天の御国を用意してともに住むと言ってくださっている御愛を思うと、そのような沈んだ心も吹き飛んでしまう。

天の父 庭咲く椿 見てゐたり 
日陰にて ピンクの椿 面下げる

 主イエス様を賛美しつつ、ピンクの椿のように沈める人の心を慰めるものでありたい。

2012年11月24日土曜日

平安 ハーマン・ゴッケル

アーサーズ・シートに並走する岩山(エジンバラ郊外)2010.10.3
キリストこそ私たちの平和(新約聖書 エペソ2・14)

わたしのイカリを とこしえにささえる
ゆるぎもしない 礎(いしずえ)を
    わたしは見いだしました

救い主キリストの み傷のうちに
世の創造のさきから おかれ
天と地が 過ぎ去るのちにも
ゆるぎもしない 礎を
    わたしは見いだしました

地上の責め苦が わたしを押しやり
思いわずらいが 日ごとに増しても
むなしいこの世が わたしを悩まして
主にある平安を 奪おうとしても
わたしが ちりにかえってしまっても
    なお主の恵みに
      わたしはたよっていきます

主の大きな愛が
まことにわたしを
喜んでこの人生に耐えさせます
主がわたしの不安な心を お静めになるとき
どうして主のめぐみを 忘れられましょう
試練がたとえ なんであっても
    主の愛だけが
      わたしのいこいです

わたしの内なる安らぎがおかれている土台の「隅(すみ)のかしら石」は、これなのです。わたしは神との平和を持っています。そして神との平和を持つことによって、自分自身との平和を持っています。わたしは、人生のあらゆる変転にも処する内的な力を与えられたのです。

”わたしは、争いのさなかにあっても平和をもつ。もし物事がぐあいよくいかなくなったら、どうするだろう。もしキリストにあまりに忠実であるために、反対のあらしが吹きすさぶことにでもなったらどうだろう。もし人生の川面(も)が、敵意と迫害の猛烈なあらしでもみくちゃにされてしまったら、どうするだろう。しかし、あらしよ、荒れよ! わたしは、神との平和を持っている!”

どんなに大海の表面にあらしが吹きあれ、どんなに大波がのたうち、深い波の谷間ができようとも、海の最も深いところの岩屋は、表面であれ狂っているあらしのことを何も知りません。大海の底では、いっさいが静寂です。いっさいが穏やかです。それと同様なのが、キリストによって神との平和を見いだした人の心なのです。どんなあらしも、この心の内的平安を乱すことは不可能です。

わたしはいろいろな重荷のもとにおかれながらも、平安を得ているのです。キリスト者の人生には、問題は何もないと言ったら、ばかげています。だいいち、それはうそです。心にくい込んでくるような孤独の苦痛、病気の重圧、失望のにがい苦しみ、避けがたい死の冷たい触手—すべてこうしたものは、キリスト者の上にも、他の人同様に起こってきます。しかし、相違はあります。大きな相違です。信仰者は、キリストによって神との平和を持っていることを知っています。そして自分の創造主との平和を持つことによって、かれは悲しみや、病気や、死までが、自分に対する神の「恵み深い」ご計画の一部なのだとわかっているのです。そこでかれは、どんな重荷のもとでも、真実の平安を持って安心していられるのです。

神の御手に、「きのう」のいっさいをゆだねます。恵みによって神が自分をゆるしてくださることを知っているからです。神の御手に「きょう」をゆだねます。きょうもまた、神の恵みの日であることを知っているからです。そして神の御手に「あす」のすべてもゆだねます。いままでも「朝ごとに新しい」ものであった神のいっさいの恵みが(哀歌3・23)、あすもまたきょう同様に新しくなり、同様に確実なものとなって、すべてを満たしてくれることを知っているからです。「キリストとともに神のうちに隠されている」いのちの平安、それが信仰者の平安です(コロサイ3・3)

これが、キリストをわたしの平安と呼ぶ理由なのです。

(『イエスがわたしに意味するもの』柴田千頭男訳26〜30頁より抜粋引用)

2012年11月23日金曜日

自分の十字架を負う

浅間山 2012.11.18
謙遜を身につけたいと思うならば、自分のことを学びの途上にある者と見なすべきです。これまで持っていた考え方とは相反することを、新しく学び取らなければならないからです。自己中心という、わたしたち自身のもともとの性質を捨てるようにしなければならないのです。

わたしたちは生まれつきプライドを持っていますが、それは人間に本来備わっている自己愛から自然に出てくるものです。そのためにキリスト信仰は、新しく生まれること、あるいは新しい霊を受けることと呼ばれることが多いのです。福音の歴史は、キリストがこの世の自己中心的な精神にどのようにして打ち勝ってくださるかという歴史です。そして本当のキリスト者とは、キリストの霊にしたがって、この世の霊と相反する生き方をする人のことと言っていいでしょう。

「・・・キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」(ローマ8・9)

「あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです」(コロサイ3・2〜3)。

これが新約聖書全体の中に流れている考え方です。キリスト信仰の特徴です。わたしたちは(この世の霊に対して)死ぬ者となり、イエス・キリストの霊によって新しいいのちに生きる者となります。しかしこのような教えが聖書の中に明瞭に示されているにもかかわらず、多くのキリスト者はこの世の習慣の奴隷として生き、また死んでいるのではないでしょうか。

ではこの世に対するわたしたちの勝利はどこにあるのでしょうか。それは十字架においてはっきりと描かれています。キリスト信仰とは、十字架上の犠牲において示されたキリストの御心に徹底的にしたがうことにほかなりません。

パウロがガラテヤ人への手紙6章14節で情熱をこめて語ったのは、まさにこのキリストの精神でした。「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」けれどもなぜパウロは「十字架」を「誇り」としたのでしょうか。キリストが彼の代わりに苦しみを受けてくださったので、もう自分は苦しまなくてもよくなったからでしょうか。とんでもありません。それは、パウロがキリストを信じることを告白したとき、そのとき同時にキリストと共に苦しむという栄誉へ召されたからなのです。そしてキリストが十字架の上で死なれたように、彼もまたこの世から非難を受け、世に対して死ぬという栄誉を受けたからです。ですからパウロはそのあとに続けてこう言います。「・・・この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」

そういうわけでキリストの十字架は、パウロの時代のキリスト者にとっては栄光のしるしでした。十字架につけられた主を喜んで受け入れるということを示しただけではありませんでした。十字架の教えに完全にしたがうという、そういう種類の信仰を彼らが誇りとしたということです。キリストが十字架の上で示されたのと同じ自己犠牲、同じ柔和と謙遜、キリストと同じように非難に耐えること、同じようにこの世の幸せに死ぬこと、などを十字架は彼らに呼びかけたのです。

キリスト信仰がどういうものであるかを正しく知るためには、キリストがわたしたちの代わりに苦しみに会われたとだけ考えるなら十分ではありません。わたしたちの苦しみがキリストの苦しみと結び合わされるとき、それが神に受け入れられるものとなるということが、キリストの特別な恵みなのです。もしキリストの犠牲がなければ、わたしたちの自己犠牲は神にふさわしいものではあり得ないでしょう。そしてその反対のことも同様に言うことができます。わたしたちがキリストと共に十字架につけられ、共によみがえらされるのでなければ、キリストの十字架と復活はわたしたちにとって何の役にも立ちません。

新約聖書全体の流れは、このキリストとわたしたちとの結びつきを指し示しています。

「もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。」(2テモテ2・12)「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた・・・」(ローマ6・ 6)「・・・もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。」(2テモテ2・11)「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。」(コロサイ3・1)したがってすべてにおいて、わたしたちの「いのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてある」(コロサイ3・3)ことになります。こうして、人の救いというものはキリストと共に死に、キリストと共によみがえらされることと言わなければならないのは明らかです。

この世の霊がわたしたちの主を十字架に釘づけにしました。ですからキリストの霊を持つ者—つまりキリストと同じようにこの世に反対する者—はだれでも、いろいろな意味で、十字架につけられることになるでしょう。結局のところキリスト者は、イエスを十字架につけたその同じ世界に今も生きているのですから。

「あなたがたは世のものでは」ないと主は言われま した。「それで世はあなたがたを憎むのです」(ヨハネ15・19)。わたしたちがこのことばの意味を見失いがちなのは、これはただあの初代の弟子たちのためだけに言われたのだと考えてしまうからです。けれどもイエスは、やがていつか世は弟子たちを憎むことをやめるだろう、などと言って慰めようとはなさいませんでした。

それにしてもキリストのことばは今日のわたしたちにはあてはまらないのではないか、と疑問に思う人がいるかも知れません。この世がキリスト教を受け入れるようになり、いわゆる”キリスト教国”に住んでいる人たちがたくさんいるから、というわけです。けれどもそのキリスト教国にいる人たちがみなキリストの霊を持っているとはとうてい言えないでしょう。また世がキリスト教を受け入れたということは、むしろ以前よりも危険な敵になったということでもあるのです。この世から好意を受けること、この世の富を得ること、この世の楽しみにふけることのために、迫害によるよりもはるかにたくさんのキリスト者が信仰から離れてしまっています。世がもはや敵に見えないために、より多くのキリスト者は世に支配されながら満足しています。

ある罪を、教会が全くとがめ立てないというただそれだけの理由から、どんなにしばしば良心の声が妨げられてきたことでしょう。キリスト教国が行なっていることだからというので、どんなにたくさんの人が新約聖書の教えを無視していることでしょう。教会の中のほかの人たちもみな自分と同じ生き方をしているという弁解がもしなかったならば、わたしたちのうち何人が初代教会とこれほど相反する生き方をすることができたでしょう。 いわゆる”キリスト教世界”の権威ほど、キリスト者が常に警戒しなければならないものはほかに何もありません。

(『ウィリアム・ローのキリスト者の聖潔』74〜78頁より引用。翻訳文では「キリスト教信仰」とあるところを引用者が「キリスト信仰 」と置き換えた。)

2012年11月22日木曜日

謙遜を祈り求める

西軽井沢国際福音センター 2012.11.18
あなたの祈りの生活が神に喜ばれるかどうかは、ただ単純にどれだけ度々祈るかによってきまるのではありません。しかしたとえば、空の高い所にあなたが座を占めて、この世で起こるあらゆることがらを上から見下ろすことができると仮定してください。すべてのキリスト者が毎日神にささげる祈りを、あなたはひと目で見ることができます。ある人は絶えず神の御名を呼び求めます。自分の生活の中にいつも神がはいってきてくださるようにと祈り求めます。一方、ただ自分に都合のいいときだけ、ごくたまにしか祈らない人たちもいます。

いわば神が見るような見方で地上の光景を見たとすれば、そのときあなたはどのように感じることでしょうか。たまに思い出したようにしか祈らない人が、規則正しく祈る人たちと同じ恵みを受けられると本当に信じることができるでしょうか。この二種類の人のうちどちらが、自分を神のしもべまた奴隷として見ていると言うことができるでしょうか。

聖書は祈ることを勧めますけれども、それとほとんど同じくらい強く、祈り続けること、いつも祈っていることを勧めています。よく祈る人は祈りの真の祝福を受けているとはっきりいうことができます。さらに、よく祈ることはあなたの人生に徳を加えるのに最も効果的な道です。たとえば物欲にとらえられた男が、自分の中にある物質主義の傾向について毎日祈るとしましょう。彼は誘惑が襲う度に祈ります。そしてその誘惑に打ち勝つように神の助けを求めます。祈り続けるうちに彼の良心が呼び覚まされます。そしてこれ以上自分自身の生活を変えることをしないで祈り続けることはむずかしいと思うようになるのです。

もしどの徳をまず先に祈り求めたらいいのかとあなたが考えているのであれば、何よりも謙遜を求めることを勧めたいと思います。それはキリスト者の間であまり求められることのない徳かも知れません。けれどもあらゆる良い考えや行ないは人を傲慢に導きやすいわけですから、特にほかの徳において優れている人はまさに謙遜の点で実際に一番劣っているかも知れないのです。

謙遜であるとは事実ありのままの姿よりも低く自分を見なければならない、ということではありません。そうではなく自分の弱さと罪を正しく理解するということです。わたしたちはあまりにも弱く、自分自身では何ごとも行なうことができません。存在することさえできません。わたしたちが何かをすることができるようにしてくれるのは神の力です。神に近づくようにわたしたちを導いてくれるのも神の力です。そうとすれば、傲慢は盗みと同じです。傲慢な人は神の栄光を盗んで自分のものにしてしまっていることになります。

黙想の中で個人的な謙遜を身につけるために、自分の生活を単純に反省してみましょう。あなたが心の中で考えていることが、突然まわりの人たちに何もかも明らかにされてしまったと考えてみてください。あなたの最も立派な行ないでさえも、その影にどんな隠れた動機があるか、それがどんなにみにくいものかが、みんなにわかってしまったとします。そうすればあなたは、自分の善を尊敬されたいなどとは、もはや決して考えないことでしょう。

罪がどんなに恥ずべき性質のものであるか、そしてその罪を潔めるためにどんなに大きな贖いが必要であったかを考えてください。神の御子の苦しみと死がそのために求められたのです。わたしたちがそのような罪びとであることを思い知らされるとき、自分を誇りに思うなどという余裕がはたしてあり得るでしょうか。

わたしたちはある意味でみな謙遜を愛し、傲慢を憎んでいます。ただしそれはほかの人の謙遜と、傲慢です。

目を天に向けて、自分が天使とはどんなに違うかを考えてください。天使は自分がどれほど完全な存在であるかなどと考えたりしません。けれどもみな同じ喜びにあふれています。あの天使セラフィムが神のみに栄光を帰しているときに、人間のような罪びとが天使と同じ尊敬をかち得ようとするのはなんと愚かなことでしょうか。自分自身に満足している人は、両手を広げて十字架に釘づけられたわたしたちの愛する主を思いみるべきです。そしてあの柔和な十字架の救い主と自分とを比べてみたらいいのです。

(『ウィリアム・ローのキリスト者の聖潔』棚瀬訳71〜73頁より引用。ウィリアム・ローはギボン家の家庭教師であった。その子どもが『ローマ帝国衰亡史』を著した。)

2012年11月10日土曜日

主よ、私に純真な心を与えて下さい!

読者の方々。主イエスへの愛が、真のキリスト信者の行動の源であることを忘れないようにしましょう。主イエスへの愛が私たちに自分自身を忘れさせます。自分を裸にしても、主イエスの誉れを表わしたいとの願いは、信者の心の中にお働きになる神の御業の最もうるわしい実であると言うことができます。

「世の倫理が何でしょうか。
     ああ、血を流された小羊よ。
 あなたへの愛以上に崇高な倫理はありません。」

サウルが、ダビデそのものと彼の働きを見た時の気持ちは、非常に異なっていました。彼は、自分を忘れ、他の者が働きを成し遂げるのを見て喜ぶことを習ったことがありませんでした。このことをすることができるようになるには、恵みの働きが必要です。私たちはすべて、生来、ひとかどの人物になることや、重要な役割を演じることが好きであり、注目されることや、高く評価されることが好きなのです。サウルはそのような人物でした。

彼は自尊心の強い男でした。ですから彼は、「サウルは千人を打ち、ダビデは一万人を打った。」という、イスラエルの女たちの歌に我慢できませんでした。サウルは、自分が一番でなければ気がすまなかったのです。彼は、自分がゴリヤテの声を聞いて、どれほど震え上がったかを忘れていました。少々気が引けましたが、彼は自分が勇敢で雄々しいと思われたかったのです。

「その日以来、サウルは、ダビデを疑いの目で見るようになった。」(18・9)なんと恐ろしい目—ねたみと激しいしっとの目ではないでしょうか。私たち自身の手によって得られた実りを喜ぶのと同様に、他の人々の労力によって得られた実りをも、心から喜ぶことができるためには、まことの純真さと誠実さが必要とされます。もしサウルの心が、神の栄光と神の民の利益を求める思いで満たされていたならば、彼は自分とダビデに当てられた人の数の問題に心が煩わされることはなかったでしょう。

悲しいことに、サウルは自分の栄光を求めたのです。これが彼のねたみとしっとの原因だったのです。心がキリストによって完全に満たされることの結果である自己放棄からは、なんと神聖な休息、なんと真実な気品、なんと完全な心の静けさが流れ出ることでしょう。もし私たちが、キリストの栄光が現わされることを真実に求めているならば、キリストがそのために誰をお用いになっても気にすることはないはずです。

(『ダビデの生涯とその時代』C.H.マッキントシ著90〜92頁より引用。「舌を制御することはだれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています・・・・ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」ヤコブ3・8、4・7

2012年11月9日金曜日

私の心の底を探るお方が私にいのちを与えられた

・・・すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと・・・そのようなことに心を留めなさい。(新約聖書 ピリピ4・8)

なんと深くたましいを探ることばでしょう! 聖書は我々の心の底に、我々の空想にまで届きます。

それは人間の最もプライベートな領域です。こんな民謡があります。—「心で考えるのは自由!/だれにもつかまらない。/いつでも逃げられる、/夜の陰のように・・・/永遠に変わらない。/考えるのは勝手!」

しかし、神のことばは語ります。「そうではない。考えるのは勝手ではない。イエスが十字架にかかられたのは、それによってあなたの空想の領域までもが贖われて、聖霊が心を占領なさるためだ」と。

山上の説教中に、イエスは二、三のたとえをお話しになりました。「兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません」(マタイ5・22)。「そうだ」と我々は言います。—「私にもひそかに恨んでいる人はいるさ。頭の中でもう何十遍となく、徹底的な手紙を書いてみたものだ。でも、ただ考えてみただけさ。別にそれで人を傷つけたことにはならないよ。」でも聖書は「とんでもない。あなたは自分自身を傷つけているのだよ。心をやみにしているのだ」と言います。

イエスはまた言われました。「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」(マタイ5・28)。—「何だって? ちらっと思うだけで、口に出すわけじゃない。行動に移すわけでもなし。いったいそれでだれを害するのか。」聖書は答えます。「あなた自身を汚すのだ。あなたの心に、暗やみが広がるのだ。」「すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと—きよいこと、大いなること—そのようなことに心を留めなさい。」

とすれば、それは可能だろうか? イエスは仰せになります。「人にはできないことが、神にはできるのです」(マタイ19・26参照)。

もう一度言おう。イエスは我々のぶざまな空想を救うために、来て死なれたのです。

主よ! 我らの必要は、あなたがご存じです。  アーメン

(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著岸本綋訳11月8日の項より引用)

2012年11月8日木曜日

ゆるし ハーマン・ゴッケル

この手のわざが
罪あるこの魂を 救えるのではない
この働く肉体の いさおが
わたしの霊を 正しくするのでもない

わたしがふれ わたしがするわざも
神との平和を 与えはしない
わたしの祈りが といきが なみだのすべてが
おそろしい重荷を になうのでもない

ただ あなたのみわざのみが ああキリストよ
罪のこの重荷を やわらげます
ただ あなたの血潮のみが ああ神の小羊よ
わたしに 内なる平和を 与えてくれます

わたしの あなたへの愛ではなく ああ主よ
わたしへの あなたの愛が ああ神よ
この暗黒のおののきを 取りのけて
わたしの魂を 解放してくれます
ただ あなたの恵みのみが ああ神よ
わたしに ゆるしを語ってくれます
ただ あなたの力のみが ああ神の子よ
この痛ましいなわめを 破ってくれます
神のキリストを ほめうたいます
神の愛に 身をゆだねます
くちびると心に ためらいもなく
わたしは救い主を わたしのものと呼びます

(『イエスが私に意味するもの』柴田千頭男訳)

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(新約聖書 ローマ8・1)

2012年11月7日水曜日

三泊四日(結)

イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」 (新約聖書 マルコ2・17)

天に召されたリンデ
 今回の入院は病変があるのに過去五年間ほど放ったらかしにしておいた結果である。それは一つには場所が場所だけに恥ずかしいということと手術は嫌だと言う二つの思いがあったが、その頑固な思いがくつがえされたのは、病人であるのに丈夫な者と偽っている馬鹿さ加減を家人に指摘されたからである。それで、意を決して10月22日に病院に赴いた。お医者さんは触診の後、これは間違いなく鼠蹊ヘルニアですと言われ、手術を望まれるなら日を取りますよ、と言ってくださり、明日にでもと言われたが、10日後の11月1日にしていただいた。


 入院して、病院内でお医者さんを始め様々な分野の人々が一人一人の病を治すためにいかに働いておられることか、その労働の一端に触れることができた。手術室の入り口までは初めからお世話いただいた看護士さんに連れられて歩いて行くが、手術室で外科チームに引き渡される。あとはベッドに乗せられ、様々な機器が天上から階下まで用意されている堅牢な部屋を通過し、麻酔医の先生と対面した。先生から問われるままに受け答えする。患者をリラックスさせるための質問もあり、現場の慌ただしい言葉が飛び交う中「あれーそんなものがまだ用意できていないんだ」とかすかに思いながらも、いつしか全身麻酔が効いてきたのだろう。眠りについた。だから肝心の外科医の先生のお顔は知る由もない。手術が終わると名前を呼ばれ意識が戻ると、ベッドに乗せられたままで、病室に戻された。

 ベッド数が何床あるのか確かめなかったが看護士さんは足早に動き、目一杯働いておられる。その上、厳しい夜勤もある。交替勤務のローテーションは円滑に回転して行く必要がある。鼠蹊ヘルニアのような軽度のものから生死を争う重病人を抱え、細心の注意を払いながら医療体制は組まれている。やはり尊敬せざるを得ない労働の現場の一つだと思う。一方、肉体の瑕疵の治療もさることながら、聖書の次のみことばが示すように心の問題がある。

人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか。(旧約聖書 箴言18・14)

 まことに医療現場におられる方々の気苦労が思いやられる。患者さん方の死からの解放を求める声は怨嗟の声となって集中するであろうからである。

 ひるがえって冒頭の聖句は希代の名言だと思う。なぜなら私は病気を持ちながら逃げ回っていたからである。本当はお医者さんに治療してもらわなければならない存在であったのに、体面をはばかって手術を伸ばしに伸ばしていたからである。だから私が病人であったのに、お医者さんのところに行かなかったように、自らが本当は神様の前で正しくないと知っていながらイエスさまのところに行かない人は自らを偽って正しいと主張していることになる。私の鼠蹊ヘルニアに対する長年の態度がまさしくそうであった。

 まことのお医者さんであるイエスさまこそ、ひしがれた心を癒すことの出来る唯一のお方である。なぜなら、私たちの病の果てである死を十字架刑で甘受されただけでなく、死から三日後によみがえったお方であるからである。

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、 死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(ピリピ2・6〜7) 

 世界全体が大きな病院のようなものだ、と言う。だから、この病院にはまことの医者が必要である。神の前の債務という罪を唯一解決できるお方、その名医はイエスさまだけである。 また、まことの医者を知っている人が必要である。20歳という若さで、死を直視して喜んで召された看護士リンデの「人格者とはなにか」というメモにもう一度耳を傾けたい。(『実を結ぶ命』66頁より)

人格者とは、何のために生き、何のために死ぬかを知っている人。
人格者とは、神に対する自分の罪と債務を認め、それを告白できる人。
人格者とは、単なる人間的なものに動かされず、真理をたずね求める人。
人格者とは、感謝されなくても、へりくだって奉仕できる人。
人格者とは、他の人の中に良いものを見い出す人。
人格者とは、死を直視することのできる人。

2012年11月6日火曜日

三泊四日(転)

 四人部屋はそれぞれカーテンで仕切られている。その場合、最も身近なのはやはり隣のベッドの人である。その隣のベッドからカーテン越しに何やら他国語のような声が時おり聞えてくる。どなたかと携帯で話し中なのか、それとも癒しを求めて何やら呪文を唱えているのか、と思ったくらいだ。それにしても言葉が不鮮明である。ところが昼間、二人の女性が訪ねてきた。その人々の語らいを通して、とたんにその言語が明らかになった。いつもは看護士さんと話しているので日本人だとばかり思っていたが、そうではなかった。

 その方はしきりに看護士さんに頭が痛いと訴えていた。一方、医師は肝臓に針を刺しますが、うまくさせるかわからないがやってみましょうと言われている。時を追うごとにその方がかなり重症なのが分かってきた。でもカーテンで仕切られていて中々その顔を確かめられなかった。けれども第三日目にやっと顔がわかった。明らかに東南アジア系の方であった。

 この方は生死の境目の橋を渡りつつあるように思った。何とかこの方に主イエスさまにある永遠のいのちをお伝えしなければと思い始めた。どんなふうに近づいていいのかも分からないが、とにかくそのことを主に願った。同時にちょうどその夜、祈り会に集まっている方々にも、携帯で祈りを要請した。家内にはみことばの書いた小冊子を持ってきてもらうことにした。私は明日退院である。退院である自分がどのようにしてその方の痛み、苦しみの側に立ってイエスさまのことを伝えることができるのか皆目自信がなかった。しかし、なぜか平安があった。それは朝与えられた、イエスさまと一つなら、その願いは聖なる父が成就してくださるというお約束があったからである。

 ところが、その彼は事もあろうに、突然私たちの病室から別の病室に移されて行ってしまったのである。どこかはわからない。あきらめざるを得なかったが、翌朝早く、9時退院予定の当日ではあったが、三泊四日で少し慣れ親しんだ廊下を一部屋ずつ捜すことにした。何しろ彼の名前はカタカナの長いものであったから容易に見つかると思ったからである。ところが一向に見つからない。そう思って一巡りしたら、何と隣室の四人部屋の表札の上部に彼の名前が見えるではないか。

 ぐずぐずしていると機会を逸すると思ったので検温も終わり、朝食の配膳の前の時間を見計らって隣室に入った。四方向にカーテンばかりが見え、病室は静まり返っている。私は右奥まで一歩、歩を進め、おもむろにカーテンの内側に入った。ところが彼はベッドに寝ていず、椅子に腰掛けて呆然と窓の向こう側の川を眺めていた。私は直ぐ近づき、表札に書いてあった彼の名前で呼びかけ、「イエスさまを知っているでしょう」と言った。彼は「信じているよ」と答えたのだ。私はかまわず彼に以下の祈りの言葉を読んであげた。

愛する主イエスさま

私のわがままのために、代わりに罰せられ死なれたことを感謝いたします。
あなたの流された血によって、すべてのあやまちが赦され忘れられていることも感謝いたします。
あなたを信じますから、死んでからさばかれることがないことも感謝いたします。
あなたを信ずる者は、死んでも生きると約束されていることも感謝いたします。
死ぬことは終わりではありません。あなたと一緒になることです。
私の国籍は天にありますから感謝いたします。
今からのことすべて、あなたにおまかせいたします。
あなたの御名によってお祈りいたします。

アーメン

 彼は私がこのことばを読んでいる間、うなずいたり、眼にはうっすら涙を浮かべているように見えた。そして天を指差し、「信じているよ」と言うのであった。「名前は何?」って聞いたら、「ダニエル」だと言う。すごい名前だ、旧約聖書に登場する王の迫害にあって投ぜられた獅子の穴も恐れなかった信仰の勇者だ。これは表札に書いていなかった。私は思わず主の御名をほめあげずにはおられなかった。よく確かめてみると彼の信仰はフィリピンが母国なのでカトリックであった。しかし、彼の心が直裁にイエスさまの贖罪死を自らのものとしていることだけは確かなように思えた。

 主なる神様は彼と私が地上でこれからも主にあって交わるようにと隣のベッドに置かれたのだろうか。あと一時間足らずで退院しようとしている私に、逆に「元気でね」と彼は言ってくれた。しかも彼と入れ替わりに隣のベッドに入って来た人とも一夜を共にしただけだったが、退院直前には言葉を交わすことができた。歳はほぼ私と同じだが、何も食べられずすべて戻してしまうということでもう三回目の入院だと言うことであった。聞くばかりで慰める言葉もなく、心の中で主にとりなすばかりだった。そうして部屋を後にしようとする頃、今度は先ほどのフィリピン人の方が私の病室に入ってきて、詳しい病状や家族の問題までも話してくれた。私は名刺をわたし、転院しても連絡してね、と言い置いた。頭の痛さはすでに脳に腫瘍ができていてそれによるもので、この病院では手術は出来ず、転院すると言ったからである。

 主のご計画はどうなのか私にはわからない。このような主の恵みのうちに病院生活を送らせていただいて特にお世話になった看護士さんには、同じ看護士として32年前に召されたドイツ人少女リンデの証しの本『実を結ぶ命』を是非渡したかったが、すでに先に帰られており、直接お渡しすることができなかった。しかも彼女は明日は出勤しないと知っていたので、夜勤に入られた看護士さんを通して渡してもらうことにした。その方も入院直後の私の不安を和らげるのに気を配ってくださった方であった。この方には別の薄い本をお渡した。このような知恵や話は自分の力ではとても出来ないことばかりだったが、ごく自然に進行していった事柄である。果たせるかな、その夜、寝入ってしまった私の枕元に「素敵な本をありがとうございました! 大切にします。」という最初の看護士さんからの置き手紙があるのに深夜気づいた。今もって、既に帰られたはずのその方の手にその夜のうちにどのようにして渡ったのかは知る由もないが、この彼女の走り書きのタイミング・ことばほど私を慰めてくれたものはない。

 退院し自宅に戻れば戻るで、昼前、私が入院しているのも知らずに遠来のお客さん(かつての同僚)が訪ねて来てくださり数年ぶりに一時間ほどお交わりを持たせていただいた。それは私たちのお互いにとって全くタイミングの良い必要なお交わりとなった。こうして主は私自身が本当に主のはしため、しもべになるようにとすべてのことを計画しておられることは明らかであった。次回はそのまとめをしてみたい。最後に『実を結ぶ命』に記されているみことばの一つを紹介する。

彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。(新約聖書 ヘブル13・7)

2012年11月5日月曜日

三泊四日(承)

波照間島の暁 by Yuriko.O
 第三日目の早朝、主のご計画は、鈍い私の上に、次のアンドリュー・マーレーの記す『暁の待望』の記事により明らかにされた。

それ(祭壇)に、上面・・・を純金でかぶせる。・・・アロンはその上でかおりの高い香をたく。朝ごとにともしびをととのえるときに、煙を立ち上らせなければならない。(旧約聖書 出エジプト30・3、7)

『かおりの高い香』とは祈祷のことであります。

『私の祈りが、御前への香として、私が手を上げることが、夕べのささげ物として立ち上りますように。』(詩篇141・2)。

『また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。』(黙示8・3)

大いなる祭司長を通して昇り往く祈祷は、神様にとっては馨(かぐわ)しい香です。かの香は祭司たちによって、朝ごとに、焚(た)かるべきでありました。神の家はかくて馨しい芳香をもって満たされたのであります。これはまた私も、神の祭司としてなさなければならないところのことであります—私は神の宮殿であります。

私の心の全部は私が朝ごとに神に献げ奉る祈祷と感謝との馨しい香もて満たさるべきはずであります。この目的のために如何なることにも勝って必要な一事は、私の祈祷は聖父にうけ納れらるるものであると知ることであります。聖霊はこのことの確信を衷(うち)に与え給いましょう。私は信仰によって神の愛と恵とを現実に実感するために、祈祷の前に、また祈祷の中に、また祈祷の後に、ゆっくりと時間をとらなければなりません。

私は真にキリストと一つであるとの信仰を与えられて、彼との結合を意識しなければなりません。この結合の中を歩む目的をもって、私自らを全く献ぐべきであります。わが聖父は 真に私の祈祷をお悦びをもって見ていて下さるとの活々した確信を御聖霊をして私の衷に息吹き込ましめ奉らねばなりません。

かくてこそ私は、毎朝、馨しきかおりの香を焚く力に満たされて、聖霊によって霊感させられた真の祈祷を献げ奉ることができましょう。かくてこそ私は、終日、神の御前を、祭司として歩むために、立ち上がっていでゆくことができるのであります。

 私はこのアンドリュー・マーレーの記事をありがたくいただいた。キリスト者とは別名その名を祭司と言う者であることを示されたからである。だとしたら、私はこの病院内でも祭司であることに変わらない。祭司とはキリストと一つである者として父なる神様の前に侍(はべ)るだけでいいのだと言う確信であった。ゆくりなくも傷口の痛みは峠を越え始めていた。そして無意識のうちに、病室内にいるお隣の患者さんたち、さては病室内で懸命に看病を続けてくださる方々を覚えながら神様の御前に出ることができたのである。

2012年11月4日日曜日

三泊四日(起)

 10月31日から11月3日まで、三泊四日で病院内で過ごした。ほぼ40余年ぶりだった。鼠蹊ヘルニア(脱腸)の手術であった。身近にいる家族が知っているだけで遠くの家族には知らせず、もちろん友人たちにも知らせず最小限に留めた。今までもまわりで何人かの方々が手術され良くなられた話を聞いていたので不安感はなく、不必要な心配をされても申しわけないと思ったからである。

 病院にはここ数年、健康な者として、お見舞いに出かけるばかりで、自身がベッドに横たわる経験をしていなかったので、そういう意味では久しぶりに貴重な経験となった。四人部屋であったがそれぞれカーテンで仕切られており、中々同室の人の姿はわからなかった。ただベッドから響いてくる声で、どういうお方か想像するしかなかった。大体、奥様が付き添われ、話しかけられる。それにベッドの亭主が応答するという構図が四様ともあった。しかしこうなると日頃の亭主関白ぶりもどこかに吹っ飛んで、甲斐甲斐しく優しく見舞う妻たちに頭が上がらないのはいずこも同じだった。

 手術そのものは全身麻酔で多分30分程度で終わったのでないか。眼の覚めた時にはそのまま病室に運ばれ、6時間安静で点滴を24時間受けた。苦痛と言えば術後の傷口の痛みと点滴による排泄作用の調整であった。傷口は体の全く一部に過ぎないのに、全神経を統率するかしらである頭は、痛みを一手に引き受けて、あれやこれやと考える。キリスト者としては月並みな表現になるが、言うまでもなくキリストのからだである教会とかしらであるキリストとの一体性をじっと噛み締める実物教育だった。

キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられる(新約聖書 エペソ5・24)

あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。(1コリント12・27)

しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。(1コリント12・18〜19)

もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。(1コリント12・26)

 そして何よりもどんな痛みも主イエス様が負われた十字架の痛み苦しみに比べれればものかは、しかも主イエス様はこの弱い私のためにもともにいて苦しんでいてくださるという信頼・安心感に満たされた。

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(旧約聖書 イザヤ53・4〜5)

 病室内では二冊の本と聖書と「日々の光」それにiPhoneを持ち込んだ。時間や痛みを持て余す時はメッセージや証しをお陰で何本も聞くことができた。しかし二日間は自身のことで精一杯で、三日目になってようやく同室の患者さんたち(私よりはるかに重度のお苦しみをもって病と闘っておられる方々)を思うことができた。それは何のために今自分がここにいるかという、主なる神様のご計画を思うことができたからである。

 このご計画は三日目、四日目と退院の時間ぎりぎりまで、さらにはそれを越えて文化の日の丸一日へと一気に明らかになって行った。

2012年11月3日土曜日

あなたは何に価値を置くか?

見渡す限り続くぶどう棚 ドイツ国内 2010.10
東京名物神田古本市も間もなく終了することだろう。開催中、一日短時間だが覗いてみた。やはり残念ながら私の欲しい本は一冊もなかった。一軒だけ神田で有名なキリスト教図書を扱う本屋も覗いてみたが、無いことはないが、極めて微々たるものだ。その上、この書店は高いので有名だ。だから手出しはしない。ところがキリスト教古書を目録で送ってくる別の書店のものが今日届いた(内訳1040冊)ので、目を通して見たが、やはり物の見事に一冊も無い。こうなると私が求めているものが間違っているのか、一般にキリスト教徒と言われる人と基準が違うのであろう。

ただ一つだけその間の事情を説明するかのような鍵になることばが聖書にある。

家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった。(新約聖書 1ペテロ2・7)

このみことばは旧約新約にともに出てくる大切な表現である。捨てられた石はイエスさまを指す。多くの方がキリスト教書で求められるのは学問的な裏付けのあるものや、無教会を標榜する内村鑑三関係のものであったりする。こういうものは神田古本市にも存在する。そして需要が多いだけに値段も結構いい値段をつけている。でも普段よりは安いから人々は買って行く。しかし私の求めるものは、学問でもなく、信仰する人たちの社会的立場が信仰の根拠となる書かれた人を当てにする本ではない。あくまでも捨てた石であるイエスさまをはっきり証しする本である。これらは人間が捨てるものである。だから見つからないのは当然と言えば当然だ。見つかる場合にはそれこそ需要は少ないから二束三文の形で手にし、私のような者はその僥倖にあずかることとなる。

数年前、そうして手にした『暁の待望』という小冊子(多分10円か、50円だったと記憶する)の一文を下に紹介する。

一頭の若い雄羊は朝ささげ、他の一頭の若い雄羊は夕暮れにささげなければならない。これは、主の前、会見の天幕の入口で、あなたがたが代々にわたって、絶やすことのない全焼のいけにえである。その所でわたしはあなたがたに会い、その所であなたと語る。(出エジプト29・39、42)

朝に献ぐる常燔祭なる燔祭(民数28・20〜23)のほか献ぐる罪祭はただキリストのみのひな型であります。また、感謝祭は私どもと私どもの神に献ぐる物とに関した意味を持つのでありますが、燔祭はキリストと私どもと両方に関わった意味を持っておるのであります。

燔祭の取り分けきわだった点は、それが全部祭壇の上にのせられ、その全体が火となって神の聖前に昇り往く点にありました。他の祭物は時折携え来られたのでありますが、朝の燔祭は日毎、携え来らるべきでありました。それがその一日の神への奉仕の始めであったのであります。

しかしてクリスチャンもまた、毎朝、その燔祭を携え来るべきはずであります。どういう意味でありますか。即ち、毎朝、己が罪のために献げられし神の小羊に眼をそそぎつつ神に近づき来ります。また、いかにイエスが自らを全き燔祭として神に献げ給いしかを眺めつつ、自らもまたかくなすべきであることを学ぶのであります。

私どもはその死においてキリストと一つであります。また私どもの生涯も主のそれの全き模倣でなければなりません。しかも同じ霊は私どもの衷にも宿り給います。さればこそ私どもは、キリストの功ある壇の上に、神に悦ばるる聖き活ける祭物として自らを横たえて神に献ぐるは当然のことであります。すなわち自らを全く神にまで犠牲となし奉るのであります。

クリスチャンよ! 毎朝この犠牲を成し果たすは大なることであります。栄えあることです。福祉なる一日の秘密であります。御霊の火はかかる犠牲の上にこそ降りたまいます。心を静め、ただ我一人ある中に、充分時を取ってついに内心に確かめられなさい。『わが祭物は壇上にあり、聖父は悦びてこれを受け入れ給う。火はこれを焼き尽くしたまえり』と。

以上が私の価値とする文章である。この小冊子はアンドリュー・マーレー(1827〜1917)が召された後の最初の刊行物The Morning Watchの小島伊助氏による昭和8年(1933年)の邦訳である。文体が古めかしいので、捨てられたのだろう。しかし私は親しいある方から長い文章とともに「私たちに出来ることはただ憐れみを受けること、憐れみを受けることだけです」とメールをいただいた。上述の文章は憐れみを受けた者だけが文体は古めかしくも価値あるものとみなす文章でないだろうか。このような文章が全部で30個ある。おいおい紹介することにしたい。

しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。(1コリント1・27〜28)