2012年11月4日日曜日

三泊四日(起)

 10月31日から11月3日まで、三泊四日で病院内で過ごした。ほぼ40余年ぶりだった。鼠蹊ヘルニア(脱腸)の手術であった。身近にいる家族が知っているだけで遠くの家族には知らせず、もちろん友人たちにも知らせず最小限に留めた。今までもまわりで何人かの方々が手術され良くなられた話を聞いていたので不安感はなく、不必要な心配をされても申しわけないと思ったからである。

 病院にはここ数年、健康な者として、お見舞いに出かけるばかりで、自身がベッドに横たわる経験をしていなかったので、そういう意味では久しぶりに貴重な経験となった。四人部屋であったがそれぞれカーテンで仕切られており、中々同室の人の姿はわからなかった。ただベッドから響いてくる声で、どういうお方か想像するしかなかった。大体、奥様が付き添われ、話しかけられる。それにベッドの亭主が応答するという構図が四様ともあった。しかしこうなると日頃の亭主関白ぶりもどこかに吹っ飛んで、甲斐甲斐しく優しく見舞う妻たちに頭が上がらないのはいずこも同じだった。

 手術そのものは全身麻酔で多分30分程度で終わったのでないか。眼の覚めた時にはそのまま病室に運ばれ、6時間安静で点滴を24時間受けた。苦痛と言えば術後の傷口の痛みと点滴による排泄作用の調整であった。傷口は体の全く一部に過ぎないのに、全神経を統率するかしらである頭は、痛みを一手に引き受けて、あれやこれやと考える。キリスト者としては月並みな表現になるが、言うまでもなくキリストのからだである教会とかしらであるキリストとの一体性をじっと噛み締める実物教育だった。

キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられる(新約聖書 エペソ5・24)

あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。(1コリント12・27)

しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。(1コリント12・18〜19)

もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。(1コリント12・26)

 そして何よりもどんな痛みも主イエス様が負われた十字架の痛み苦しみに比べれればものかは、しかも主イエス様はこの弱い私のためにもともにいて苦しんでいてくださるという信頼・安心感に満たされた。

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(旧約聖書 イザヤ53・4〜5)

 病室内では二冊の本と聖書と「日々の光」それにiPhoneを持ち込んだ。時間や痛みを持て余す時はメッセージや証しをお陰で何本も聞くことができた。しかし二日間は自身のことで精一杯で、三日目になってようやく同室の患者さんたち(私よりはるかに重度のお苦しみをもって病と闘っておられる方々)を思うことができた。それは何のために今自分がここにいるかという、主なる神様のご計画を思うことができたからである。

 このご計画は三日目、四日目と退院の時間ぎりぎりまで、さらにはそれを越えて文化の日の丸一日へと一気に明らかになって行った。

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