2012年11月9日金曜日

私の心の底を探るお方が私にいのちを与えられた

・・・すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと・・・そのようなことに心を留めなさい。(新約聖書 ピリピ4・8)

なんと深くたましいを探ることばでしょう! 聖書は我々の心の底に、我々の空想にまで届きます。

それは人間の最もプライベートな領域です。こんな民謡があります。—「心で考えるのは自由!/だれにもつかまらない。/いつでも逃げられる、/夜の陰のように・・・/永遠に変わらない。/考えるのは勝手!」

しかし、神のことばは語ります。「そうではない。考えるのは勝手ではない。イエスが十字架にかかられたのは、それによってあなたの空想の領域までもが贖われて、聖霊が心を占領なさるためだ」と。

山上の説教中に、イエスは二、三のたとえをお話しになりました。「兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません」(マタイ5・22)。「そうだ」と我々は言います。—「私にもひそかに恨んでいる人はいるさ。頭の中でもう何十遍となく、徹底的な手紙を書いてみたものだ。でも、ただ考えてみただけさ。別にそれで人を傷つけたことにはならないよ。」でも聖書は「とんでもない。あなたは自分自身を傷つけているのだよ。心をやみにしているのだ」と言います。

イエスはまた言われました。「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」(マタイ5・28)。—「何だって? ちらっと思うだけで、口に出すわけじゃない。行動に移すわけでもなし。いったいそれでだれを害するのか。」聖書は答えます。「あなた自身を汚すのだ。あなたの心に、暗やみが広がるのだ。」「すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと—きよいこと、大いなること—そのようなことに心を留めなさい。」

とすれば、それは可能だろうか? イエスは仰せになります。「人にはできないことが、神にはできるのです」(マタイ19・26参照)。

もう一度言おう。イエスは我々のぶざまな空想を救うために、来て死なれたのです。

主よ! 我らの必要は、あなたがご存じです。  アーメン

(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著岸本綋訳11月8日の項より引用)

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