2012年7月12日木曜日

放蕩息子の帰還

絵 ギュスターヴ・ドレ

 昨晩、ある方に、電話で、今日の家庭集会はどうでしたか、と聞かれた。返答に窮した。「良かった」としか言えない自分がいたからである。どういう点が良かったのか説明すると、良かったことの断片・一部分しか伝えることができず、何かそれだけでも、嘘になってしまい、総体を伝えられないもどかしさを覚えたからである。

 一夜開けて、どうだったのかもう一度振り返る機会が与えられた。幸い、今日(こんにち)では集会の様子は収録されていてまた聞き直すことができるからである。午前中友人宅に散髪に出かけたついでにCD二枚を持参して一緒に聞いた。

 メッセージはルカ15:11〜32が引用箇所で「神の変わらない祝福」がその題名であった。いつもは司会させていただいているのだが、この日は最近リタイアされた方にお願いした。その方がその聖書の個所を朗読された。メッセンジャーは開口一番、「朗読が情感がこもっていて、私のメッセージはしなくってもいいですね」とおっしゃったほどだった。確かに何度読んでも身につまされる個所である。

 聖書でももっとも有名な個所の一つだが、メッセージでは放蕩をし身を持ち崩した弟はもちろんのこと、健気に父親に仕えている兄も失われた人であることが明らかにされ、そのどちらも主だけを頼るように、主からだけ祝福をいただくようにと召されているのだと語られた。そのために何が何でもキリストに結びつくことが肝要だとその奥義を明示してくださった(詩篇128:2〜3、民数6:23〜26など)。

 その後、50過ぎの四人のお子さんを持たれている方のお証しをお聞きした。最初のお子さんの召天を通して救われたこと、お母様の救い、ご自身の人間関係の試み、お父様の救いと次々話して下さったが、それまでお父様を批判してばかりいた娘としてお父様の前に謝られた次第が語られたときは自分の経験をも思い出し、涙せざるを得なかった。娘の謝罪の言葉に対してお父様はただ一言「わかっているよ、娘だもの」という意味のことを言われたということだった。私もかつて父に、父に対する罪を謝って告げた時、「わかっていたよ」と短く言った。それ以上何も言わなかった。それが「赦し」のことばの全てであった。

 人間関係に様々な蹉跌はつきものである。しかし「わかっているよ、わかっていたよ」と自らに背く者を決して憎めない心を神様は両親に与えられている。それは神様ご自身が背く罪人を遇して下さる愛のひな形ではないか。米沢弁で「そんぴん」という「つむじまがり」を意味する言葉があるそうだが、そんぴんである父親と娘である自分が今ではともに主を信ずる者となった幸せを、この方は最後にエレミヤ書29:11のみことばに託し次のように語って下さった。

「主がつくられるわざわいは美しくととのえられてプレゼントのように与えられ、その目的は私たちを悩ませ苦しませることなく、その苦しみ悩みを通し、この世にない最高の平安と希望とを与えて下さることを心から感謝します」

終わって見て、主なる神様は全くふたを開けるまで分からなかった真実を二人の方のメッセージと証しを通して集われたお一人お一人に豊かに語って下さったことを覚えることができた。

「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。(新約聖書 ルカ15:18〜20)

2012年7月11日水曜日

彼が私の祈りを必要としています

オンタリオ湖畔 Tatsuko.S絵

 私の主人は、中国語を習得するのが大の苦手でした。毎日、多くの時間をかけてまじめに勉強するものの、気の毒なほどはかどりません。主人は同僚と一緒に、中国語で説教の実習をするため、町の伝道所に定期的に出かけて行きました。ところがミスター・ゴーフォースは、もう一人の宣教師より約一年前に中国に来ているというのに、聴衆はその宣教師に、彼のことばの方がよく分かるから代わりに話すようにと頼む始末でした。

 ある日のこと、いつものように伝道所に出かける前に、主人がこう言いました。「もし主が中国語を話す上で特別な助けを与えてくださらないなら、私は宣教師として失格するのではないかと思うよ。」

 数時間経って主人は帰って来ましたが、その顔は喜びでまばゆいほど輝いていました。主人は、彼の話す番になった時、異常なほどの神様の助けを意識したと語ってくれました。一つ一つのことばが、これまでにないほど、はっきりと頭に浮かんできたと言うのです。しかも、彼の言ったことが理解してもらえただけでなく、何人かの聴衆はかなり心を動かされ、集会の後で、もっと話を聞きたいと言って来たということでした。主人は、この経験がうれしくてたまらなかったらしく、またこのことでずいぶん力づけられたとみえ、日記に詳しく書き記していました。

 それから二ヶ月半ほどしてから、ノックス・カレッジの学生から一通の手紙が届きました。それには、ある特定の日の夕方、何人かの学生が集まって特別にミスター・ゴーフォースのために祈ったと書いてありました。そして、その時の祈りの力がいつになく強く、また神様の御臨在が鮮やかに感じられたため、その時間にミスター・ゴーフォースに何か特別の神様の助けがなかったかどうかを尋ねるためにこの手紙を書いているのだと言うのです。主人が日記を繰ってみると、学生たちの集まった時刻は、彼が中国語を話すのに特別な神様の助けをいただいた時刻と一致することが分かりました。

 別に祈ろうという気持ちがわかないのに
 遠く離れた友の思いが 
 ふとよみがえるのはなぜでしょう。
 私たちは余りにも忙しいので
 遠くにいる友と一緒に過ごした日々を
 ついわすれてしまいがちです。
 きっと神が、そうされるのでしょう。
 だから神のシグナルを
 祈りの合図として受け止めましょう。
 きっとその時、私の友は激しい戦いの中に
 肉体の弱さ、勇気の喪失、暗黒
 道を踏みはずす危険の中にあるのです。
 彼が私の祈りを必要としているので
 私は神に促されて祈るのです。

(『祈りは答えられた』ロザリンド・ゴーフォース著湖浜馨訳26〜28頁より。ゴーフォース夫妻は1888年から約30年間中国河南省、湖南省常徳を中心に働きました。これはその初期の記録です。彼らはカナダ・トロントから派遣されて出かけましたので、恐らく表出の絵の湖はおなじみであったのではないでしょうか。それにしても主のみわざは素晴らしいですね。「私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」ローマ8:26〜27

2012年7月10日火曜日

目的地を目指して

テクテク必死で歩くやどかり 波照間島 by Yuriko.O
「恐れて弱気になっている者はいないか。その者は家に帰れ。戦友たちの心が、彼の心のようにくじけるといけないから。」 (旧約聖書 申命記20:8)

 我らの主イエス・キリストの軍隊では、逃亡は許されます。「弱気になっている者は帰れ」です。

 イエスの弟子の、まことの共同体は、確かにひとつの軍隊です。ツィンツェンドルフ伯はこんな詩を作りました。

 「あなたは我らすべてをご命令に従わせたもう。
  あなたがご命令をなされば、それだけ我々の勝利も多くなる。
  ご命令は完全な約束だから。
  その約束は、塞がれた行く手を切り開く。
  我らは、あなたに祝福された兵士となります。
  伝令となり従者となり、突撃兵となりましょう」

 よみがえられた主を知り、心から信頼する人は、この軍隊に喜んで身を投じます。
 
 が、弱気になっている者は帰れ! なぜなら彼は主を知らず、その復活の力を全く知らないからです。

 自分の力でやり抜こうとするクリスチャン生活は、早晩破綻を来すでしょう。内外からの試練に遭い、世のさげすみと敵対にあわてふためき、弱気な心に取り付かれます。

 そのような弱気は、もちろん、悪です。というのは、きょうのみことばを補足する聖句が、聖書の一番最後に出てくるからです。

 「おくびょう者・・・の受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある」(黙示21:8)。恐ろしいことばではありませんか! これはつまり、臆病とは、天においても地においても一切の権威が与えられた主を、否むことだ、というわけです。

 主とともなる者であることを思い定めましょう。

 「おお、キリスト、勝利者よ/御名を輝かしめたもうお方。/我ら、弱き者、惨めな者を助けたまえ/強きみ手をもって」   アーメン

(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著岸本綋訳7月10日より)

2012年7月9日月曜日

あなたの御前にいます

「窓辺にたたずむハナ子さん」絵は友人のT.Sさんによる
「久しぶり」に家内と電車の旅をした。過去3、4週間の間に彦根に帰り、高山に行き、長野県の御代田に出かけ、とそれぞれ行をともにしているはずなのに、これは一体どうしたことかと振り返って見ると、確かに遠出の行を電車で共にしたのは数日ぶりなのだと思い至った。それもそのはず滋賀に帰る時、御代田に出かける時いずれも一人で出かけ、現地であとから来た家内と合流したのだし、高山への移動往復はバスであったからである。

 遠出と言っても、横川から高崎、高崎から大宮、大宮から家へと乗り継いだに過ぎないのだが、とにかく二人とも車内の家族の姿が目について仕方なかった。私たちはどうしてもそこに親子の信頼の情を読み取ろうとするからである。五人の子どもたちはそれぞれ自立した。私たちにとって、あっと言う間の子育ての期間であった。決して順風満帆な子育てではなかった。若い家族を見ると、かつての自分たちを思い出すが、親に全面的に信頼している子どもたちの姿や、懸命に子どもを何くれと配慮しながら楽しそうに会話を交わしている両親の姿を見ては人間生活の原点を見、もっともっと真剣であるべきだったと思う。

 子どもたちにとって決していい父親でなかった。それに比べ、妻は一生懸命子育てに尽した。それでも悔悟の情は沸き上がるのではないだろうか。電車で様々な人が乗り合わせるが二人とも決まって若い家族の微笑ましい姿を見つけてはほっとした思いで観察するのだ。一人で遠出するときも家族の姿に無感覚ではないのだが、二人でいると決まって目につき何かと二人で話をする。二度と帰って来ない子育ての期間、無我夢中だった期間を声にこそ出さないが懐かしく思い、若いご夫婦が懸命に子育てをされている様子を陰ながら応援したくなる思いにさせられるからだ。

 バスの長旅は長旅でいいものだ。それは窓外の景色を充分堪能できるからだ。しかし乗客は固定している。そこへ行くと電車という移動空間は乗り合わせという、人が入れ替わりする絵模様がある。そして、小なりとは言え人生の縮図を見せつけられる思いがする。以前にも書いたが漱石はいち早くこのような鉄道の導入により文明が日本人の内部をいかに浸食して行くかに着目しながら日本人の新生面を巧みに小説のプロットとして生かしている。『三四郎』だったように記憶する。けれども、そのような思いは漱石だけでなしに、近江兄弟社の創設者一柳米来留(メレル・ヴォーリス)氏にもあることを先年知った。(同氏の『失敗者の自叙伝』216頁参照)

 それはともかく端無くも今回の列車旅行のうちに私たち夫婦が見つけたのはそれぞれの子どもたちの確かな両親への信頼の姿の数々であった。幸いなことに口答えし、反抗的な子どもの姿をなぜか見ることはなかった。それは先頃拝見した一枚の油絵を思わせるものがあった。その絵には「画伯」ご夫妻が愛してやまない一匹の犬が描かれていた。その犬の仕草は子どもたちが親を見上げる姿に近似していると思った。(作者は別の視点で描かれたのかもしれないが・・・)

 これからも鈍行列車に夫婦して乗り続けたい。けれども子育ての苦労、亭主の尻拭いばかりしてきた妻が最近は鈍行は疲れると言い始めてきた。そろそろ夫婦健在で走り続けることの難しさを覚える年代に突入している。しかし、これまでも愚かな夫婦とともに歩いて下さった上なる主は変わらない。愛する主を見上げて、天の御国への旅路をともに歩むことの出来る幸せを心から感謝する。

主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません。まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように御前におります。 イスラエルよ。今よりとこしえまで主を待て。(詩篇131:1〜3)

2012年7月1日日曜日

神のあわれみの泉が湧き出た!


薔薇展 in Paris by Nobuo

神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。(旧約聖書 出エジプト2:24〜25)

 我々の祈りは、実に信じられないほど大きな働きをします。イスラエルは悲惨な奴隷の境遇に身を置いていました。その苦しみは言語に絶するものがあり、その存亡が危ぶまれていました。そこで民は、神が本当に生きておられ、救い主であることに心を留め始めます。「彼らの労役の叫びは神に届いた」ということです。それから、このことが起こったのです。聖書の記事には、あわてふためくような感じが表れています。

 まるで記者は、神のあわれみを描写することばを充分見いだせなかったかのように「神は聞かれ、契約を思い起こされ、ごらんになり、みこころを留められた」と語ります。これは我々の注目をひきます。なぜなら一般に、聖書はことばを切りつめて用いるので、もっと詳しく聞きたいな、と思うことがしばしばあります。例えば、あの十字架上の盗賊がイエスを信じたときの心境を、知りたいと思います。また、木に登ってでもイエスを見たいと思ったザアカイの場合も同様です。しかし聖書はそれを語ろうとはしません。ほんのわずかなことばで、必要最小限を伝えるのです。

 昔、オエインハウゼンで、治療効果のある温泉を求めて、あちらこちらを試掘しておりました。ある日ついに、ひとつの泉を掘り当てます。しかし、それが突然、猛烈に湧き出したので、設備はすべて飛ばされてしまい、人々は驚いて逃げ出しました。

 困窮した心が、呼ばわり、ため息をつき、叫ぶと、神のあわれみの泉は猛然と湧き出ました。神は聞き、契約を思い起こし、ごらんになり、悲惨に心を留めたもうお方です。この泉は、御子の十字架上で残りなく湧きあふれました。パウロも「ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」(ローマ8:32)と語っています。

主よ! あわれみに富むあなたを無視して、自分で人生をやっていこうとした我らを、どうぞおゆるしください。            アーメン

(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著岸本綋訳7月1日の項目より引用)