2015年12月27日日曜日

クリスマスの意味(下)

クリスマスカードその3 M.Goto
  それからこのみことばの中で上に述べた命令はどうすれば従順に従い得るかという奥義が明らかにされていますね。すなわち、「見よ、わたし」「わたしは来る」主がなぜ、私たちがいつも喜ぶことができるかの理由を説明しておられます。それは「見よ、わたし」ということです。結局「わたしを見なさい」。 すなわち自分自身を見たり、他人を見たり、周囲の状況を見たりしないで、ただ主のみを見なさいということです。

 主の命令は同時に主がその力を授けてくださることです。主は決して決して不可能なことをお命じになりません。「見よ、わたしだ」と言われる方はもちろん万物の創造主であり、何でも出来るお方です。 父なる神の本質の完全なあらわれそのものであり、主なる神の右の座に座しておられすべての力を与えられた大能者である。将来のさばきをもゆだねられている方です。目に見えるものから目を離し、ただイエス様だけを見上げることは考えられないほど大切です。

 われわれの喜びの源はただただ主の中にのみあります。本当の喜びの源は決して理解、感情、愛する人、家族、預金、健康、成功などにあるのではありません。ただイエス様の中にだけあります。この事実をはっきりさせるために、ゼカリヤは「見よ、わたしは」と言ったのです。

 同じようなことばをクリスマスの夜、天の御使いが言いましたね。ルカ伝2章10節ですね。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」救い主があなたのために生まれ、あなたのために生きておられるということこそ喜びの源です。イエス様は天の栄光を捨て人間となられ、悪魔の奴隷、どうしようもない人間と一緒に生活するようになりました。そしてご自分のいのちを捨てる備えをしていたのです。父なる神はイエス様をとおしてこの世に来られ、人々を顧み、救いの道を開いてくださいました。「わたしはあなたのただ中に住みたい」とありますね。

 昔から主なる神のご目的は人とともに住むことでした。旧約聖書において神が民を顧みてくださった期間はある程度制限されていたんです。主のご栄光があらわれた所として、先ず第一にいわゆる幕屋、会見の幕屋でした。出エジプト記の40章の35節を見ると次のように書かれていました。「モーセは会見の天幕にはいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。」あとでソロモンの宮の上にも同じような現象が起こったのです。列王紀上の8章542頁ですが、8章11節を見ると次のように書かれています。「祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。」

 同じような体験をベツレヘムの羊飼いたちもしました。今読みましたルカ伝2章9節「主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。」とあります。この野原の上では、主は限られた期間イスラエルの民を顧みられたのではなく、人とともに住むために来られたのです。これこそ御使いのお告げでした。弟子たちもこの栄光をともに体験することが許されました。ヨハネ伝1章14節「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

 聖書の中で私たちは「わたしはただ中に住む」とか「わたしは捨てない」と言ったようなことばを非常に多く見出すことができます。わたしは「あなたとともに」と言うことこそ主の願いです。私たちが召し出されているというのは、わたしたちが主の宮、主の住まいとなったのです。「主の宮」、「主の住まい」としてのみ、私たちはほんとうの証人(あかしびと)、またしもべとなることができます。「わたしは来る、そしてあなたとともに住むことを望む。」このことばはわれわれ一人一人に向けられていることばです。私たち一人一人をとおして大いなる奇跡をあらわさんと主は切に願っておられます。私たち一人一人をとおして主はご自身のご栄光をおあらわしになりたい。

 けれども遠い将来にではなく、まさに今日、それをなさんと主は願っておられます。「わたしは来る、そしてあなたとともに住むことを望む。」と。考えられない、素晴らしい約束なのではないでしょうか。イエス様は来られた。イエス様は生きておられる。聖書の中でイエス様はよく救い主と呼ばれました。数えてみると26回。イエス様は唯一の救い主であるとあります。けれどもイエス様は救い主(だけ)ではなく、「主」とも呼ばれたのです。何回かと言いますと、670回。もう比べられない。私たちはただ単にイエス様がこの世にお出でになったことを振り返ることだけでなく、すべてのことの支配者としてイエス様はまたお出でになるということ、すなわちイエス様が近いうちに再びお出でになることを深く思わなければならないなのではないでしょうか。

 イエス様が来られます。今日かもしれない。毎日待ち望むことこそが主の切なる願いそのものであります。

2015年12月26日土曜日

クリスマスの意味(中)

クリスマスカードその2(子どもたち)

 主は来られた。犠牲になるために。自分自身を無にするために。

 何年前だったか、ちょっと忘れましたけれど、ある奥さんはこの世で生きるのはいや、面白くない、もう死にたい。大きなビルから、11階から飛び降りてしまったけれど、死ぬことができなかった。奇跡的に助かった。けれども、結果として彼女も母親もイエス様を信ずるようになった。「生きててよかった。死ぬことができなかったのはよかった」と言うようになったのです。イエス様が死んだからよかった。そうでないと、もうおしまいだから。

 イエス様は悲しみの人となった。その前に宇宙の創造主であり、何でも知っておられ、何でもおできになったお方です。けれども、イエス様は人となった。このイエス様の人生は苦しみの人生でした。パウロはまた書いたのです。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」(2コリント8・9)

 イエス様をとおして富む者となった者は喜ぶことができます。ですから、主なる神は私たちがどうであるか、どのような状態にあるかにはおかまいなく「喜び歌い楽しめ」と命じ要求しておられます。このことを示すみことばをもう一ヵ所読みます。

  今度は1411頁です。よく引用される個所です。素晴らしい告白です。ハバクク書3章17節。「そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。(もう全部いやになった、のではない)しかし、私は主にあって喜び勇み、 私の救いの神にあって喜ぼう。(意志の問題です。気持ちの問題じゃない。喜ぶ気持ち全然なかった、全部無駄のように見えたのです。けれど)「私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。」(たとえ私たちが何の実も見なくても、それが一見空しいように思われるときでさえも喜び歌い楽しめと主は言っておられます。)

 「私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。」これは当時の預言者であるハバククの断固たる決断でした。自分の魂を失うことがどうしても必要であるということをここでも明らかに知ることができるのじゃないでしょうか。もちろん、この預言者は自分の感情、自分の思い、自分の意志によって支配されていたならば決して喜ぶことができなかったのです。なぜなら、その時の状況は一つの実を結ぶようにもならず、人間的にはすべてが空しいように見えたからです。

 初代教会の人々も同じことを経験したようです。使徒行伝5章を見ると、次のように書かれています。217頁です。使徒行伝5章41節「そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを(泣きながらじゃなくて)喜びながら、議会から出て行った。」とあります。主に従う者はそれが犠牲を払わなければならないようなとき、使徒と同じように信仰のために甘んじて迫害を受けるということはそれほど簡単なことではない。それはただ目に見えるものから目を離し、ただ主を見上げることによってのみ可能です。

 パウロとシラスの経験は結局同じようなものでした。16章。使徒行伝16章23節からちょっとお読み致します。「何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。」パウロとシラスは結局無実の罪で牢獄に入れられたのです。そこで彼らは鞭で打たれたり棒で殴られたりいろいろな拷問を受けました。それによって彼らは肉体的に大きな苦痛を受けなければならなかった。それにもかかわらず真夜中ごろ、すなわち真っ暗で、逃れ道もなく、何の希望もないように思われる時、二人は神に祈りつつ讃美の歌を歌ったとあります。

 パウロもコリント第二の手紙6章10節に書いたのです。「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。」私たちは色々な悲しみや苦しみなどを経験することがあるかも知れないけれど、それにもかかわらずいつも喜ぶことができる。これこそまさに多くの苦しみを受けたパウロの証でした。

 ヘブル書の著者も書いたのです「あなたがたは、捕えられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。」(ヘブル10・34)私たちは色々な思い煩いや誤解あるいは迫害を受ける時、心から喜ぶことが決して簡単ではない。それにもかかわらず、これは主の命令です。そしてまさにハバククという預言者が、使徒たち、またパウロ、あるいはシラスはそのようにいつも喜ぶことができたのです。「喜び歌い楽しめ、見よ、わたしは来て、あなたの中に住む。」どのような状況に置かれてもそうたやすくすることはできないようなこと、すなわち喜び歌い楽しむということに対する命令がなされています。

2015年12月25日金曜日

クリスマスの意味(上)

  クリスマスカードその1(版画 ルカ1:38.46.  K.Yoshioka) 
さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(ルカ2・8〜11)

シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。――主の御告げ。――(ゼカリヤ2・10)

 このことば(ゼカリヤ2・10)は同時にクリスマスのメッセージではないでしょうか。三つの事柄について考えたいと思います。まず第一にどのような状況におかれても、そうたやすくできないことをする、すなわち喜び歌い楽しむということに対する「提案」ではなく、「命令」がなされているということです。二番目、このみことばの中で、上に述べた命令はどうすれば従順に従い得るかという奥義が明らかに示されているということです。すなわち、「見よ。わたしは来る」。結局「わたし」を見なさい(で、あります)。三番目に、主のみ旨を知ることが、それに他ならない。「わたし」はあなたのそのただ中に住みたい、とあります。

 主が喜び歌い、楽しめと命じておられ、かつそのような勧めがなされているということは誰でも理解することができます。誤解することは先ずない。主なる神の言わるることは悲しみ・落胆・敗北感は禁じられています。主はわれわれが喜び歌うべきであると強く言っておられます。このような主の命令に対して不従順な態度を取ることは「罪」です。

 確かに多くの人は言うでしょう。そう言うことは、言うのは簡単ですが、実際にその通り喜ぶことができない、無理だよ。確かに、私たちは自分自身の状態、また状況を見ると本当に喜ぶことができないような場合が数多くあるのではないでしょうか。パウロは主の恵みによって救われたあとで、言ったんです。私は何というみじめな人間なのだろうか。これは決して喜びの叫びではない。私たちが自分自身の内側を見る時、そこには喜ぶべき根拠が何一つないことを認めざるを得ません。
 
 ところがその当時、主はゼカリヤを通して、イスラエルの民に、喜び歌え、楽しめと命じ言われましたが、今日も主はわれわれ一人一人に向かって全く同じように命令しておられるのではないでしょうか。現代人にとって、私たちにとって、もっとも大切なことは静まることです。主の愛を新しく体験することです。

 私たちは色々なことを考えたり心配したりします。またどうしてもしなければならないことが余りにも多いので、どうしたらいいかさっぱりわかりません。けれども大切なのは今話したように静まることです。主によって愛されているとつかむこと、新しく知ることこそ大切です。主に愛されているとは、確かに理性でもってつかめない事実です。けれども、もっとも素晴らしい「奇跡」です。

 旧約聖書のイザヤ書、大体クリスマスの時引用される個所です。イザヤ書9章6節、1045頁です。6節。「ひとりのみどり子が私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」とあります。パウロはこの素晴らしい事実について言ったのであります。「ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。」(2コリント9・15)

 礼拝のないクリスマスはほんとうはあり得ない。もう一回前に読んでもらいました個所を読みますか。ルカ伝2章。「すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(期待された救いの神である、メサイアです。)「あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

 パウロもこの想像出来ない事実について書いたのです。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた」とあります。また、パウロは愛弟子であるテモテにも書いたのです。「確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。『キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。』(1テモテ3・16)

 パウロはまとめて喜んで書いたのです。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(ローマ8・32)

 イエス様御自身が最もすばらしい贈り物であり、主なる神の愛のあらわれそのものです。この救いの神を経験した者の証とは次のようなものです。

  ダビデは「主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。」(詩篇118・14)と告白したのであります。イザヤは「見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。」(イザヤ12・2)とあります。マリヤの告白も素晴らしい告白です。ルカ伝1章ですね。1章45節。「『主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。』マリヤは言った。 『わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。』」

(今週火曜日吉祥寺でなされたベック兄のメッセージの聞き書きである。)

2015年12月24日木曜日

「和解」のものがたりの始まり

葬儀のあと談笑する兄弟たち


 何年前のことであったろうか。恐らく10年くらい前のことであったと記憶する。今しも家庭集会が開かれんとする時であった。三人の方が乗り込んで来られ、その集会が解散されざるを得なくなったことがあった。しかも、その三人の方は、家庭集会を開こうとされていた当のご主人のご両親と妹さんであったから異常であった。

 そこには私だけでなく何人もの方々が集会があると言うので集まっていたので、それぞれの心に強烈にその時のことが刻印されているはずだ。もちろん事前にそのことは知らされていたので、私達はその集会が無事に持たれますように祈って参加していた。しかし、三人の方は、私達を大向こうにまわし、その場に居座り、キリスト(信仰)によって自分たちの親子関係が全く駄目になったことを指弾し、今から即刻キリストから離れろというすさまじい剣幕だった。私達は家族間の争いなので、恐怖心を覚えながらも遠巻きに見守るしかなかった。

 逆に家族間の愛情がいかに深いものであるかの片鱗を垣間みた思いだった。ところがその三人の方は今いずれもおられない。と言うより、天の御国に凱旋された。一番早く召されたのは妹さん、次に昨年のお母さん、そしてこの12月11日にお父さんが召された。そしてそのご葬儀が今週の日曜日に行われた。

 葬儀は無宗教の聖書に基づく葬儀であった。私はこの葬儀を前にして、しばしこの葬儀は「奇跡」だと、何度も思わずにはおられなかった。一家は韓国人であったが日本で生を受け、一旦は韓国へ帰りながら、1955年12月24日のクリスマスイブの日、ちょうど今から60年前日本に来られたのであった。そして7人のお子さん方をそれぞれ最高学府にまで学ばせ、立派に育て上げられた。

 ところが、お父さんは何よりも日本人が嫌いであった。長年日本人から差別されひどい仕打ちを受けた心の傷がそうさせた。そのご長男が日本人と結婚された。ご両親は烈火の如く怒られた。その上、お嫁さんはその後キリスト信仰に導かれた。ご両親の迫害はますます激しくなった。

 果てることのない争いの中でご夫妻が祈っておられたことは家族の救いであった。私達はこのご夫妻とはかれこれ20数年のご交誼をいただいているが、もともとは奥様が信仰をもたれたことによる。その時、ご主人は頑として福音を拒まれていた。いかなる説得も無理であった。その後ご主人があっという間に信仰をいただかれた。このことも奇跡であった。そして冒頭の出来事はそのご夫妻が家庭集会を開かれようとされている最中に起きたことであった。

 今週の日曜日に行われた、お父さんの葬儀の中でご長男は遺族を代表して概略次のように述べられた。 「父は家族を何よりも愛していました。困難な中で自分たち子どもを育て上げるのに精魂傾けてくれました。その愛が自分たちの結婚により裏切られたと思い、迫害を加えてきました。子どもたち皆んなから背かれた父は、晩年自分が加えた迫害を悔い改め何とか和解したいと思っていました。もう身を起こすこともできなく弱り果てた父を抱きしめたとき、『おまえは一番の親孝行者だ、世界一の親孝行者だ』と言ってくれました。自分は何一つ親孝行らしきことはできませんでした。でもかつて自分たちがキリスト信仰を持った時、一番の親不幸者だとののしっていた父がこのように変えられたのはただ主イエス様の愛のお陰だと心から感謝しています。今は父になりかわって、父からひどい仕打ちを受けた弟たちに謝ります」

 主イエス様は民族間の対立、家族間の争い、すべての人間の罪に終止符を打つべく神の御子であったが人となって来られた。その生きた証を受け入れられた一家の証を短くまとめさせたいただいた。

やみと死の陰に座す者、悩みと鉄のかせとに縛られている者、彼らは、神のことばに逆らい、いと高き方のさとしを侮ったのである。それゆえ主は苦役をもって彼らの心を低くされた。彼らはよろけたが、だれも助けなかった。この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。主は彼らをやみと死の陰から連れ出し、彼らのかせを打ち砕かれた。彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。まことに主は青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきを粉々に砕かれた。(詩篇107・10〜16)

2015年12月21日月曜日

犬も歩けば棒に当たる

 思いをば 字を連ねる 喜びよ 時経つままに 媼語りき 

 郵便ポストは近くに三ヵ所。5、6分の距離だ。本局は少し離れているが、20分ほど歩けばたどり着く。散歩にはいい距離だ。しかし、このところ寒くなって来て、余り遠くまで行きたくない。ために近くを利用した。三ヵ所のうちどれにするかは自由だが、それぞれ集荷時間は異なる。「エーィッ、儘(まま)よ」とばかりに、普段余り行かないところを今日は選んだ。ところが、ポストに近づくと同時に郵便局の赤い車が向こう側から集荷に来た。こちらはお客様、投函するのを見届けるかのように丁寧に礼をされた。グッドタイミングだった。一体何時に集荷に来られるんだろうとポストの横掲示を見たら、15時38分ごろと明記してあった。腕時計を確かめてみるとまさしくその時間だった。一分でも遅かったら、手紙は暗いポスト内で一晩過ごすところだった。今更ラブレターではないので少々遅れても、どうと言うことはないが、早く届けたいのは人情ではないか。

 私は、一般に外出する先で、思わぬ人と遭遇することが多い。それも大体がグッドタイミングである。しかも一度や二度ではないので、外出し帰宅するや早々、私の口から出ることばの一つに、「今日、誰と会ったか、わかる?」というなぞかけがある。これには私よりはるかに外に出る機会の多い家内の方が舌を巻く。犬も歩けば棒に当たると言うが、比較的人に会う確率が高い私は何と言えばいいのだろうか。私は犬なのだろうか?犬は犬でもどんな犬なのか、家内と二人で分析をするが、結論が出ない。ただ人一倍、私が人を見分ける力を主からいただいているところにあるようだと言うのが当面の互いの結論であった。つい先だっても、銀行でお金を下ろし、いったん左側に自転車を振り向けながら、思わず別の用事を思い出し、右側に振り向けた途端に向こう側からやってきた目深に帽子をかぶった方とすれ違った。

 紛れもない、K氏であった。K氏とは数年来同じ町にいながら、引っ越しされたこともあり、またお忙しい方であったのでお会いすることはなかった。声をかけたら、先方も気づかれ、「オッ」とばかりに自転車を脇に差し置いて道路の端で互いに立ち話を始めてしまった。K氏の近況と数年前に出版された本の事などをお伺いした。昨年の四月からは慣れないパソコンの練習を兼ね、週一回程度ブログをとおして雑感を書いているという話もされた。何十年も前のこと、初対面の際、私の卒論のテーマとK氏の学問領域が重なるところがあり、互いに興味関心を覚えたものだ。それ以来お会いしたのは数えるほどしかない。その方と路上でお会いしたのだ。

 その数日後、K氏の御母堂が103歳で召されたことを知った。早速、新しいK氏のお宅を探し弔問に出かけた。御母堂は100歳にしてイエス様が第一と言われるようなったとは、K氏の奥様からお聞きし驚かされたことだが、大変な生命力のあるお方だった。もし数日前の出会いがなかったら、このように即刻お訪ねする気にもならなかったかもしれない。しかし、それだけでなくその後数日足らずのある日、郵便局の窓口で切手を買っていたら、隣の方から肩を叩かれた。誰かと振り向けば、当のK氏であった。御母堂の召天のため、急遽喪中の葉書を作成し投函に来られたということだった。この場合はK氏が私を見当てられたのだ。少し年来の謎が解けたように思う。なぜなら、K氏は大学の先生で、私は高校の教師、ひょっとすると教師稼業が人様を識別する力を与えるのかも知れないと思うたからである。

 12月になってから勘定してみたら、私はこのK氏をふくめ、すでに数名の方々と路上やスーパーや図書館でお会いしていた。この他、私にとってもっとも出会いの多い稼ぎどころの場所は何と言っても電車内である。今回は10月、11月 の新幹線内での劇的な出会いがあったせいか、週一回吉祥寺へ出かける電車内でも不思議と出会いはない。しかし、結局のところ、このようにして、今年もかつてお交わりを親しくいただいた方々とお出会いすることができたが、これは、一重に、本来寂しがりやの私を良く知っておられる主なる神様が、様々に過去出会った方々を忘れないようにと出会わせてくださった摂理にあるのでなないかとも思う。

 考えてみたら、今年は私の干支の「羊」の年であった。私はまぎれもなく犬でなく、羊である。羊は羊飼いに飼われて初めて一人前だ。それゆえ羊が当たるのは決して「棒」ではない。いつも牧草を羊飼いによって与えられているからだ。その羊が同じ羊と出会って飼い主をあがめればこれほど幸いなことはない。もっともっと多くの羊に会いたい。私が今年新しく知遇を得た方はご自身のことを親鸞にあやかって「愚石」と称される。私は飼い主イエス様に導かれるstraysheepだと思い、数年前からこのブログ(泉あるところ1、Ⅱ、Ⅲ)を展開しているが、語呂がよくないことを承知で、最近その方の真似をして「迷羊」と名乗っている。羊年も残り少なくなった。昨日お交わりできた老婦人は孤独の中、字を書くことにより励ましを得ておられる。そこに出会いの根源のお方を一筆「イエス様」と書き込まれた。私もまた彼女のごとく、羊飼いから目を離さず生きたいものだ。

主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。(エレミヤ31・3) 

2015年12月17日木曜日

亀井勝一郎とその年譜

「春」吉岡賢一作

 亀井勝一郎のことについて書いてみたい。そもそも亀井勝一郎のことを思い出したのは、栃木県の足利にいる友人がJR彦根駅から一枚のはがきを寄越した奇縁によるものだった。駅頭は私の好む場所の一つである。なぜかと言えば、そこで思わぬ人と出会うことができるからである。ましてその友人が降り立ったその日、私も故郷の彦根駅を乗り降りしていたからである。別々の計画をもって、関東くんだりから彦根駅にたどりついた二人が出会ったとしたらこれ以上の奇遇はなかったであろう。しかしそうはならなかったのはまさしく天の配剤であった。天の配剤は友人がそのあと、大阪フィルのショスタコーヴィチの演奏会に無事に出席することであり、私にとっては一人降りたった友人を想い、遠い昔高校時代に駅頭に佇んでいた亀井勝一郎氏の存在を思い出させることにあったのだ。

 それが何年のいつごろか、定かではなかった。しかし、春ではなかった。コートを着ておられた長身の同氏の印象からすると、晩秋から初冬にかけてではないかと思っていた。しかし確たる自信はなかった。むしろ幻想ではないかという思いもなきにしもあらずだった。このことを思い出して以来、自分でも本当なのか確かめてみたくなり、県立図書館から亀井勝一郎全集補巻三を取り寄せていた。果たせるかな、次の記録を見つけることができた。

昭和35年(1960) 53歳
11月、彦根、多治見、木曽福島などで講演。「続歴史の旅」(人物往来社)を監修。この年、「安保批判の会」世話人となり、安保反対運動にも参加するなど多忙をきわめた。

 彦根駅の上りホームで見かけたのは、私の高校三年の11月であったことがこれではっきりした。しかも下りホームでなく上りホームと言うのも、多治見、木曽福島というコースと一致している。幻想でなく、まさしく事実であった。それと同時に意外な事実も新たに知った。それは彼が安保反対運動に熱心だったことだ。してみると、彼の精神は高揚していたはずだ。しかし私の印象は静謐そのものだったことは「天の配剤」(11/29のブログ)で書いた通りである。それを裏付けるかのような記述があった。桶谷秀昭の評だ。

 亀井勝一郎ほど不良少年になる可能性の少ない人間は、昭和の文士の中でもあまりいないのではあるまいか。あの端正な風貌は、優等生の冷たさはないが、身を持ち崩すという可能性を想像する余地はない。ただあの温和な端正な風貌に一つ感じられるのは、身の置きどころのないような含羞の翳であり、自分のもって生まれた長所にきわめて鋭敏につまずく人の困惑の表情である。(『日本人の自伝』18巻平凡社473頁より)

 さらに年譜を見ると、函館生まれだと言うことも初めて知った。

 母の先夫は函館商業の出身であり、私は幼い時からその先夫のアルバムを見て育っていた。函館の近くの森町は、滋賀県に家を持ちながら、その地でも米屋という商売をしていた近江商人の端くれとしての生家の土地でもあった。先夫の残した書物は内地に引き上げた母が持ち帰り、高校時代の私の好奇心を満たすに十分な数冊の思想書であった。母は私に先夫は軍に殺されたと言っていた(実際は戦死であったが)。

 一方、私にとって亀井勝一郎は青春のほろ苦い思い出(「運動」から意識的に離れた時期)と連動している。彼の『我が精神の遍歴』は私にとって気になる著書であったからである。今回、時代錯誤を覚悟の上、その本を読んでみた。

 そして意外なことを発見した。彼における左翼思想との出会いは自らが裕福であるという罪障が出発点であり、その根本問題はいかにしてその後生じた諸々の罪障を解決するかという「信仰」がテーマであったからである。最終的には親鸞の歎異抄が彼の拠り所であることには変わりないが、それに並行して聖書の伝えるイエス・キリストの存在は絶えず意識され、無関心でいられないということにあった。残念ながら、亀井氏は十字架の死を受けとめても、三日後の復活を受け入れるまでにはいたっておられないのではないかと思った。

 けれども、そういう信仰上のこともさることながら、私が更に大変興味を覚えたのは、戦中から、敗戦を経て戦後の世界に入る中で、いかに人々が偽善の世界に足をすくわれたかが、自身の文士の生活をふくめ、ジャーナリズムの罪として描かれている点であった。題して「偽態の悲劇」の中で次のように語る一節がある。

 人間を傀儡化する近代の有力な手段はジャーナリズムである。強権の圧迫というが、圧迫を加える独裁者自身も、自己の投じた言葉の無限大に拡大された反作用によって傀儡となる。近代戦は宣伝戦なりと言われたことのうちには、笑えない喜劇があるのだ。宣伝は言葉を阿片と化す。宣伝したものは、無数の活字と電波の交叉との反射によって、逆に宣伝され、自己疎外の状態のもとに途方もない幻影をみ、妄想を抱くに至るのである。故に、更に中毒性のある言葉をはかざるをえなくなる。宣伝は非人間的な呪文と化す。古代人に甚だ近似した魔術にかかった人間、これが戦時中鮮明になった「文明」日本人のすがたではなかったろうか。指導者とはその誇張された演劇的現象に他ならない。(『日本人の自伝』362頁より引用)

 この文章が本になってあらわれたのは昭和25年(1950)であるから、今から65年前の文章である。しかし昨今の官邸とジャーナリズムのあり方を考えるとうそ寒いものを感じさせられた。

 とまれ、年譜によると、彼の終焉の土地は昭和14年に移り住んだ吉祥寺のようであるし、昭和23年の6月15日の太宰入水自殺のおりは翌日から亀井宅が記者団の共同待合所となると記してあった。最初は今更亀井勝一郎もないものだ、大変な時代錯誤だとばかり思っていたが、『遍歴』を読み終えて、今の時代、一向に変っていない日本社会を思うて、彼の考えたことをもう一度問うてみるのも意義があるのではないかと思うようになった。

私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。(1コリント15・3〜8)

2015年12月11日金曜日

ああ!高校新聞史(下)

高校時代の友人N氏の座敷の欄間に架けられていた扁額

 私にとって、「何よ、今更。高校時代! あなた、あの高校時代がそんなに良かったの!」の言はまことに貴重であった。かつて20年ほど前、高校時代に互いに気を許していたと思っていた方を訪ねたことがある。その方はすでに町のお医者さんになっていた。その時、この友人はにべもなく言い退けた。「高校時代は思い出したくもない。お互いがライバルで、人を蹴落としてでも這い上がろうと懸命でなかったか。高校時代、誰にも心を許せなかった。それにくらべ大学時代は全く異なった。自由だった。私はここでほんとうに心の友を持った」

 恐らく、この友人は同期会には出席していないだろう。私とてもこの友人の気持ちがわからなくもない。しかし、同期会の常連である先の友人はそう言い(冒頭の言)ながらも、この同期会運営のためにいつも骨を折って労を惜しまないでおられる。むしろ年老いてからの互いの交流を楽しんで集っておられるようだ。

 同期会が終ってから大部な高校新聞を再び読み返し、新たな発見をした。それは二年生の時の新聞である。同じクラスの一人の方が生徒会長に立候補したおりの挨拶、またやめた時の挨拶文であった。そこにはその方がお父様を高校に入ってから亡くした悲しみが綴られていた。確かにその文章は当時読んだ記憶がある。しかし、そのおり恐らく、彼の境涯に一片の同情を持ちつつも、そのような公の挨拶に個人的な消息を書くことは慎まねばならないと批判的に見ていたのではないか。

 50数年を経て、再読し、ふつふつと彼の心情が伝わって来て、何と自分は薄情だったのかと思い至った。私も高校を卒業して間もなく母を亡くした(彼のお母さんは私の母と女学校の同級生であったように記憶する)。高校時代の自分はすでに病臥中の母を抱えていたが、我利我利亡者として彼の苦しみ悲しみに寄り添うことはなかった。今にして慚愧の思いがする。その後彼がどうなったかは知らぬ。

 そう思っていたら、今回の同期会に出席した一人の方から長文のメールをいただいた。一年生の時の同じクラスであった方である。控えめに見えた彼の内面に大きな葛藤があったことを初めて知らされた。そして15年間眠っていたと言う彼は、同期会を大切にして元気な顔を見せて三六会を励ましてくださっている。

 人生の多感な時期に同じ学び舎で様々なことを考えながら、私達は今日に到っている。つい先だっても、改めて一年生の秋の新聞に「原水爆実験禁止をめぐって」と題する座談会での先生とAFS留学を終えて帰られた二年生の方との記事を読み、感慨を覚えさせられた(※)。この方は他の号にも「アメリカの印象」と題した投稿や「アメリカに学んで」という座談会でご自身の意見を積極的に表明されていた。時は安保反対運動が盛んで高校生ならずとも無関心ではおれなかった時である。

 その方が長じて『朽ちていった命ー被爆治療83日間の記録ー』NHK「東海村臨界事故」取材班(新潮文庫)にとことんまでつきあわれた医学者で、責任者であることを知ったのはこの我流の「高校新聞史」の編纂の作業を通してであった。早速、図書館を通して取り寄せてもらったが、私はこの本を涙なしに読めなかった。もちろん、被爆し亡くなられた大内久さんの悲惨な死を思うてであった。一方、その治療の陣頭指揮を取られた同窓生でもあるM氏の苦渋を追体験しながら、この方が高校時代考えられたことがその後の人生の歩みに生かされているのでないかと思った。そしてその貴重なお働きの上に主イエス様の導きがあればどんなに素晴らしいことであろうかと考えさせられた。

 46枚のブランケット版の新聞は大部であった。しかも、私が要約しようとしたA4版でわずか四頁の「高校新聞史」は果たしてどれだけそれらを正確に反映できたか心もとなかった。まして、その高校時代の評価はこれまで述べて来たように、自らの体験をふくめて人によってまちまちであることも知った。

 にもかかわらず、私にとって「高校新聞史」を考えたことは無駄でなかった。たとえどんなに恥多き高校時代、逆に栄光の高校時代であろうと、リタイアして人生の最終局面にさしかかっている今、お互いにかつて学び舎を共にした事実には変りない。その同窓の誼みをもとに新たな人間関係を持たせていただいていることには大きな意味があると思い至ったからである。

(※そこでその方は次のように語っておられる「もし我々が黙っていたら即ち無関心でいたら世論はどうなるんです。独裁政治になってしまうんじゃないですか。世論を無視しての政治は現在不可能でしょう。この原水爆禁止を米、英、ソに要求するのは確かに岸首相であり藤山さんです。しかしその首相を支持するのが我々の世論なんですよ」)

どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。(詩篇119・9)

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。(ピリピ2・13〜14)

2015年12月6日日曜日

ああ!高校新聞史(上)

高校校舎、道路に面した校門は伊勢湾台風で壊れた

 昨日、一年ぶりに高校の同窓生と会うことが出来た。先日新幹線車内でお会いしたIk君も元気な姿を見せてくださった。総勢25名で一夕をともにした。関西からわざわざ二名の方がお見えになったが、あとは東京、横浜、千葉、埼玉に在住する者が集まった。昨年は37名集ったので、10名強の不参加者になった。この一年間に二名の方が亡くなられ、欠席者の三分の一はご病気のゆえであった。

 毎年12月の第一土曜日に招集される同期会は実に根気強く持たれ、今年で32回目を数える。私は同期会の中では新参者の部類に属し、過去三年間続いて出席できたが、それ以前は散発的に二、三回 参加した程度に過ぎなかった。ところが昨年と今年と名簿順の幹事の役がまわってきた。そして幹事は同姓同名の二人であったことも以前このブログhttp://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2013/12/blog-post_9.htmlで書いた通りである。

 同期会は初めに前座のようなものがあり、出席者の中から一人が何か気の利いた話をしてくださる。一昨年は「道中記」の紹介、昨年は珍しい苗字の紹介とそれぞれ工夫を凝らして話をしてくださる方がおられた。今年はめぼしい方が思いつかなかった。そこで思い立ったのが三年間の高校新聞に描かれている誌面の紹介だった。

 たまたま、帰省時に家で見つけた赤茶けて破れかかっている新聞が三号ほどあり、内容がすばらしかったのでその他の号も見たくなり、高校に出かけて縮刷版のコピーをいただいて帰って来た(※)。年間5号、三年間で15号、ブランケット判で46枚の大部の資料であった。縮刷版のため文字は細かく読むのもままならなかったが、何かこれを追求すれば、皆さんに喜んでいただける話ができると思うようになった。それで我流でもあり、氷山の一角のものにすぎないとは思ったが、各学年の特徴を追ったA4版で4頁にまとめた資料を名簿と一緒に出席者に配布した。

 ただ、もともと懇親が目的だから、当方が用意した資料は必ずしも必要なものではないとは承知していた。ただ準備に何日もかかり仕上げたものなので披露しないでこのままみすみす帰ってくるのも惜しいので機会をうかがっていた。ところが参加者の一人の方が資料を見て、「何よ、今更。高校時代! あなた、あの高校時代がそんなに良かったの!」と一蹴された。この一言は鮮やかだった。私は瞬間自らの作業の無意味を悟った。

 結局、皆さんの前でこの「高校新聞史」を話すのは、当初私が考えていたものの三分の一程度に削減せざるを得なかった。結果的にはこれはこれで良かった。以降、24人の方々がこもごも近況報告をなさり、現在の自分(史)を語られ、校歌斉唱のあと、会はあっと言う間に散会の時を迎えることができたからである。その自分(史)の大半は闘病経験であったり、健康法であったり、老後や死後の身の処し方が中心であった。

(※この内容については今年の5月の二つのブログで紹介した。http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2015/05/blog-post_26.html http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2015/05/blog-post_28.html )

そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「主はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。』」(2列王紀20・1)