2015年12月26日土曜日

クリスマスの意味(中)

クリスマスカードその2(子どもたち)

 主は来られた。犠牲になるために。自分自身を無にするために。

 何年前だったか、ちょっと忘れましたけれど、ある奥さんはこの世で生きるのはいや、面白くない、もう死にたい。大きなビルから、11階から飛び降りてしまったけれど、死ぬことができなかった。奇跡的に助かった。けれども、結果として彼女も母親もイエス様を信ずるようになった。「生きててよかった。死ぬことができなかったのはよかった」と言うようになったのです。イエス様が死んだからよかった。そうでないと、もうおしまいだから。

 イエス様は悲しみの人となった。その前に宇宙の創造主であり、何でも知っておられ、何でもおできになったお方です。けれども、イエス様は人となった。このイエス様の人生は苦しみの人生でした。パウロはまた書いたのです。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」(2コリント8・9)

 イエス様をとおして富む者となった者は喜ぶことができます。ですから、主なる神は私たちがどうであるか、どのような状態にあるかにはおかまいなく「喜び歌い楽しめ」と命じ要求しておられます。このことを示すみことばをもう一ヵ所読みます。

  今度は1411頁です。よく引用される個所です。素晴らしい告白です。ハバクク書3章17節。「そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。(もう全部いやになった、のではない)しかし、私は主にあって喜び勇み、 私の救いの神にあって喜ぼう。(意志の問題です。気持ちの問題じゃない。喜ぶ気持ち全然なかった、全部無駄のように見えたのです。けれど)「私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。」(たとえ私たちが何の実も見なくても、それが一見空しいように思われるときでさえも喜び歌い楽しめと主は言っておられます。)

 「私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。」これは当時の預言者であるハバククの断固たる決断でした。自分の魂を失うことがどうしても必要であるということをここでも明らかに知ることができるのじゃないでしょうか。もちろん、この預言者は自分の感情、自分の思い、自分の意志によって支配されていたならば決して喜ぶことができなかったのです。なぜなら、その時の状況は一つの実を結ぶようにもならず、人間的にはすべてが空しいように見えたからです。

 初代教会の人々も同じことを経験したようです。使徒行伝5章を見ると、次のように書かれています。217頁です。使徒行伝5章41節「そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを(泣きながらじゃなくて)喜びながら、議会から出て行った。」とあります。主に従う者はそれが犠牲を払わなければならないようなとき、使徒と同じように信仰のために甘んじて迫害を受けるということはそれほど簡単なことではない。それはただ目に見えるものから目を離し、ただ主を見上げることによってのみ可能です。

 パウロとシラスの経験は結局同じようなものでした。16章。使徒行伝16章23節からちょっとお読み致します。「何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。」パウロとシラスは結局無実の罪で牢獄に入れられたのです。そこで彼らは鞭で打たれたり棒で殴られたりいろいろな拷問を受けました。それによって彼らは肉体的に大きな苦痛を受けなければならなかった。それにもかかわらず真夜中ごろ、すなわち真っ暗で、逃れ道もなく、何の希望もないように思われる時、二人は神に祈りつつ讃美の歌を歌ったとあります。

 パウロもコリント第二の手紙6章10節に書いたのです。「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。」私たちは色々な悲しみや苦しみなどを経験することがあるかも知れないけれど、それにもかかわらずいつも喜ぶことができる。これこそまさに多くの苦しみを受けたパウロの証でした。

 ヘブル書の著者も書いたのです「あなたがたは、捕えられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。」(ヘブル10・34)私たちは色々な思い煩いや誤解あるいは迫害を受ける時、心から喜ぶことが決して簡単ではない。それにもかかわらず、これは主の命令です。そしてまさにハバククという預言者が、使徒たち、またパウロ、あるいはシラスはそのようにいつも喜ぶことができたのです。「喜び歌い楽しめ、見よ、わたしは来て、あなたの中に住む。」どのような状況に置かれてもそうたやすくすることはできないようなこと、すなわち喜び歌い楽しむということに対する命令がなされています。

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