2018年2月28日水曜日

天国(上)

 昨日は一人の友を、皆さんと一緒に病院にお訪ねした。月曜日、緩和ケアの病室に入られたばかりであった。昨夏以来、数ヶ月ぶりにお会いした。病のために痩せられたが、私たちを前にしてご自身の日記を読み上げられた。2月7日のものは、「私は天国へ行きます」という内容の心を打つ文章であった。過去自分は不真実なところがあったが、それにもかかわらず、主イエス様はよくしてくださったというものであった。その後、ウェスレーのお好きなメッセージも読んでくださった。そのあと、皆さんで讃美し、ともにお祈りして帰って来た。

 今日は家庭集会であった。メッセージは「永遠のいのち」に至る道そのものであるイエス様の紹介を十分してくださった。証は先年召されたご主人がどのようにして主に導かれて「天国」へと旅立たれたかの話であった。

 そこで、今日と明日二回に分けてA.ドーフラーという方が書かれた「天国」についての文章を引用することにする。

「キリストは、ほんとうのものの模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。」(ヘブル人への手紙9章24節)

 聖書の中で天(heaven)ということばは、二つの意味に用いられています。一つは、わたしたちの目で見ることができる天をさしています。創世記1章8節には、「神はその大空を天と名づけられた」と書いてあります。ペテロの第二の手紙3章10節に、「しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消えさり」とあるように、この天は過ぎ去るものです。

 聖書に用いられているもう一つの意味は、キリストが、信じる者をすべてお連れになる神の永遠の住まいをさしています。「わたしの父の家には、たくさんのすまいがある。・・・そして行って場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」とヨハネによる福音書14章23節に述べられています。

 この永遠の天国は、過ぎ去ったり、消えたりするものではありません。テサロニケ人への第一の手紙4章17節には、「こうして、いつも主と共にいるであろう」としるされています。この永遠の天国をじゅうぶんに説明することは、人のことばではできません。それについて、コリント人への第二の手紙の12章2、4節には、「わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた・・・。この人がパラダイスに引き上げられ、そして口に言い表せない、人間が語ってはならないことばを聞いたのをわたしは知っている」としるされています。

 それにもかかわらず、天国について多くのことが言われています。わたしたちが患難に会い、病気で苦しんでいる時は、ことに天国への関心が強まります。この時こそ、わたしたちは信じる者すべてに約束された永遠の住みかについて、喜んで学ぼうとします。

 天国はどこにあるのでしょうか。聖書ははっきり言っておりません。しかし、ヨハネによる福音書にしるされた、「わたしは行って、あなたがたのために場所を用意する」というイエスのことばによって、天国があることは確かです。

 どうすれば天国に行くことができるのでしょうか。聖書は、イエス・キリストという唯一の道を通してのみ可能であると教えています。ヨハネによる福音書14章6節には、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」としるされています。天国に行くことができる人たちは、イエスが流された血によって自分たちの罪が洗われ、清められたことを信じる人たちです。ヨハネの黙示録5章9節には、「あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない」としるしています。イエス・キリストこそ自分を罪から救ってくださる救い主であると信じる者すべてに、天国は約束されています。「それは、み子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」とヨハネによる福音書3章16節にしるされています。

2018年2月26日月曜日

イエス様の知恵 イエス様の力

先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず・・・。(ヨハネ4・11

  私たちは、イエス・キリストのすばらしさに触れる時、こう考える。「主イエスの理想は高く、私に深い印象を与える。しかし、実生活においては、それが実現するはずはない。」これは、謙遜の顔をした傲慢である。このような誤った見解は、私たちが神に自己を明け渡そうとする時の、「おまえはどのようにして生活の保障をしてもらうつもりか」という疑問から起こる。あるいは、私たちの抱えている問題が、イエスの手には負えないと思う気持ちから起こる。「主によりたのめ、というのは結構だ。しかし、人は現実に生きなければならない。しかもイエスは、くむ物を持っておられない。私に必要な物を与えるための、何の手段も持っておられない。」

 私たちは自分にできないことをよく知っている。しかし、イエスについてはよく知らない。私たちに不可能なことが主には可能であるという考えが著しく傷つけられている。私たちの不安は、自分の知恵によって、主のなさることを探ろうとするところから生じる。私たちの疑問は、私たちの弱さの深みからわき上がる。イエスへの誤解の原因が私自身にあるとわかったら、主の前に出て、こう告白しよう。「主よ、私はあなたについて誤解していました。自分の知恵から目を離して、あなたの知恵を信じようとしませんでした。自分の限りある理解力を離れて、あなたの大能の力を信じようとはしませんでした」と。

( 『いと高き方のもとに』オズワルド・チェンバーズ著2月26日の項より引用。毎日胸ふさぐ日が続いている。昨日もその胸の内を友に訴えていたら、あなたはイエス様に頼っているのでしょう。それで十分じゃないですか、と言われてハッとした。そして今朝このチェンバーズの霊想を紐解いた。さらに紹介はできないが、スポルジョンの朝ごとは「救いは主にある」ヨナ2・9を全面的に紹介していた。交わりを通して、みことばと過去の聖徒たちの言葉を通して励ましをいただいた。)

2018年2月24日土曜日

祝福の雨

三頭山から眺めた富士山(2011.11) by Kawa

わたしは季節にしたがって雨を降らす。これは祝福の雨となる。(エゼキエル34・26)

 「季節にしたがって雨を降らす。」これは主権者のいつくしみである。それは主権者である神のいつくしみではないだろうか。なぜなら「わたしは雨を降らす」と言い得るものが神のほかにあるだろうか。雲に向かって語り、雨を降らすことを命ずることができるのはただ神おひとりである。

 地上に雨を降らす者はだれか。野菜の上に雨をそそぐ者はだれか。それは主ではないか。あわれみは神の賜物であり、人の造り得るものではない。それはまた必要な恵みである。土地は雨がなければどうすることもできない。あなたは土くれを砕き、種をまく。しかし、雨がなければどうだろう。神の祝福はどうしても必要である。神が豊かな雨を降らし、救いをくだされるまでは、あなたはむだな働きをしている。

 さらにまたこれは豊かな恵みである。「わたしは雨を降らす」とある。「しずくをこぼす」ではなく「雨を降らす」である。神が祝福を与えられる時には、いつも受け切れないほど多く与えられる。豊かな恵みよ。私たちは、謙そんであるため、祈り深くあるため、また聖潔であるために、豊かな恵みを必要としている。熱心であるために、生涯救いより離れることのないため、また天国に達するために、豊かな恵みが必要である。

 さらに、それは時に応じた恵みである。「わたしは季節にしたがって雨を降らす。」今朝のあなたの時はどうであるか。かんばつの時であろうか。それならば雨を要する時である。重苦しい黒雲のただよう時であるか。それも雨を要する時である。

 「あなたの力は、あなたの年と共に続くであろう。」ここにもまた種々の祝福がある。「わたしは雨を降らす」の雨は複数である。神はあらゆる種類の祝福を送られる。すべての神の祝福は、黄金のくさりの輪のように群をなして与えられる。神が回心の恵みを与えられる時には、慰めの恵みも与えられる。

 神は「祝福の雨」を送られるのである。しおれた草木であるあなたは、今日、上を見上げ、あなたの葉と花を開いて天よりの慈雨を受けねばならぬ。

(『朝ごとに』C.H.スポルジョン著 2月24日の項より引用。毎日、市の広報課から気象情報が携帯に入る。今朝は「乾燥注意報」であった。そしてすっかりその情報に慣れっ子になっている自分がいる。そんな私に今朝のスポルジョンの引用聖句とその解き明かしは新鮮な「祝福の雨」となった。昨年もよんごとなき事情によって四十日四十夜流動食で通さなければならなくなった時、「水」のありがたさを痛感した。水がなければ生命は保たれない。もちろん、空気もだ。そしてこれらはすべて創造主が私たち人間に与えてくださる一つ一つの恵みだ。いつの間にか、何もかも自分で獲得できるように思い込んでいる傲慢な自分を見せつけられた思いがした。今日の写真は、季節外れであるが美しいので撮影者の承諾を得て載せさせていただいた。)

2018年2月22日木曜日

偉大なる神の御力

主は怒ることおそく、力強き者。(ナホム1・3)

 エホバは「怒ることおそく」います。あわれみはこの世に来る時、翼のある天馬をかって来る。その車軸は速力のために赤く熱しきっている。しかし、怒りは重い足どりでゆっくりとやって来る。なぜなら、神は罪人の死を喜ばれないから。

 神のあわれみのつえは、いつも広げられた御手の中にあるが、その義のつるぎはさやにおさめられ、人類の罪のために血を流し、刺し貫かれた愛の手によって押さえられている。主は大いなる御力を持ちたもうゆえに「怒ることおそく」あられる。

 みずからを支配する力を持つ者こそ、真に偉大なのである。神がご自分の力を抑制されればこそ、それは真の力である。その全能を駆使される力こそ、たぐいなき全能の力であると言える。強固な精神力を持った人にして、はじめて長く侮辱を忍び得、正義の意識が彼の活動を促す時に、悪に対して怒ることができる。精神力の弱い人は小事にもいらだつ。しかし強い精神力を持つ人は岩のようにそれに耐え、多くの者が攻撃し、いやしむべき敵意の雨が頭から注がれても動ずることがない。神はその敵に目をとめておられる。しかし、軽々しく立ち上がらず、怒りを押さえておられるのである。

 もし神に徳が欠けていたならば、はるか昔に、天の庫がからになるまでにご自分のすべての雷を下されたであろう。またはるか以前に、驚くべき火を下してこの地を爆破され、人類は全く絶滅していたであろう。しかし、神の御力が偉大なるがゆえに、私たちにあわれみがもたらされた。

 愛する友よ、こよいあなたの霊的状態はどうか。へりくだった信仰をもってイエスを見上げて「あなたはわたしの身代わりとなられた。あなたはわが岩、わがたのみです」と言うことができるか。では愛する友よ、神の御力を恐れるな。なぜならあなたは今ゆるされ、受け入れられているから。今や信仰によってあなたは避け所なるキリストに逃げ込んだから。あたかも戦士の盾と剣が愛する者をおびやかさないように、神の御力はもはやあなたをおびやかす必要がない。むしろ「力強き者」なるおかたが、あなたの父であり友であることを喜べ。

(『夕ごとに』C.H.スポルジョン著 2月22日より このところ朝夕スポルジョン三昧である。いつも折にかなった勧めをいただく。今日は特に「さばき」を強く思わされる一日だったから余計そのことを思わされた。)

2018年2月20日火曜日

誘惑は尽きない

さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。(マタイ4・1)

 誘惑は、聖なる人物をも襲う。イエスは誘惑を受けられた。サタンが私たちをいざなう時、彼は火の子を燃料の上に落す。しかしキリストの場合には、サタンの投ずる火は水の中に投げ込むようであった。

 しかし敵はその邪悪な働きを続けた。悪魔が徒労であっても努力を続けるとすれば、私たちの心がどんなに燃えやすいものかを彼が知った時は、どういうことになろうか。たとえあなたが聖霊によって高度にきよめられていても、地獄の猛火はやはりあなたにつく。

 人の中にいる時、私たちは誘惑される。しかし孤独の中にいても同じ誘惑を受けないのではない。イエス・キリストは人間社会から荒野に導かれ、悪魔にこころみられた。孤独には魅力も利点もある。そして目の欲や持ち物の誇りを抑制するのに役だつかもしれない。しかし、私たちのどんな静かな隠れ家にも悪魔は来る。恐ろしい考えを持ち、神をけがす誘惑に会うのは、世的な人たちばかりであると思ってはならない。霊的な人々にも同様なことが起こるのであり、最も神聖な位置にあっても、最も暗黒な誘惑にさらされるのである。いかに霊がきよめられていても、サタンの誘惑に会わぬという保証はない。

 キリストは完全にきよめられておられた。彼を送られた御父のみこころを行なうことは彼の食物であり飲物であった。しかるに彼は誘惑を受けられた。あなたの心はイエスへの愛のゆえに、セラピムのほのおのごとく燃え上がるかもしれない。しかしながら、悪魔はあなたをラオデキヤ教会のなまぬるさにまで引きずりおろそうとする。

 もしあなたが、神がいつクリスチャンに武装解除を許されるかを告げるならば、私はサタンが誘惑を断念する時を告げよう。戦国時代の騎士のように、私たちは眠る時にも、かぶとをかぶり胸当をつけていなければならない。なぜなら、敵は私たちのすきをうかがい、私たちをえじきにしようとしているから。主は、私たちに常に警戒を与え、ついには、ししの牙とくまの爪よりのがれさせてくださる。

(『夕ごとに』C.H.スポルジョン著 2月20日の項より)

2018年2月16日金曜日

主の備えられし学びの最高学府

地上の花は美しい。それなら、天国の花はさらにどんなであろう?

わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。(ピリピ4・11)

 この言葉によって、私たちには足ることを知るということが決して生まれつきの性質ではないことがわかる。「雑草ははやく伸びる。」むさぼり、不平、つぶやきなどは、地にいばらがあるように、人間が生れながら持っているものである。私たちはあざみやいばらの種をまく必要はない。それは土壌には固有のものであるから自然に生え出す。それと同じように、人間は不平を言うことを教えられなくても一人前に不平を言う。しかし地に生ずる値うちのあるものは、手をかけて育てなければならない。麦を得ようとするならば地を耕して種をまき、花がほしければ花園を作って世話をしなければならぬ。

 さて、足ることを知るのは天国の花の一つである。そしてもし私たちがそれを得ようとするなら、育てなければならない。それは、私たちのうちに自然に生えることはない。生まれ変わった新しい心の畑にのみそれは生えるのであって、神がまかれた恵みを受け、それを育てるためには特別の注意が必要である。

 パウロが「わたしは足ることを学んだ」と言っているのは、彼が以前にはそれを知らなかったことを意味している。彼がこの大真理の奥義に達するまでには相当な苦しみを経験したのであった。たしかに彼はある時はそれを知ったと思って、また失敗したことであろう。そしてついに彼がその奥義に達し、「わたしはどんな境遇にあっても、足ることを学んだ」と言い得るようになった時、彼は白髪の老人となって墓場のかたわらに立っており、ローマにあるネロの牢獄につながれたあわれな囚人であった。

 私たちも、パウロの信仰の程度にまで達することができるなら、喜んでパウロの持病を持ち、彼と共に寒い牢獄で暮らすだろう。学ばずして足ることを知り得ると思ったり、訓練なしに学べるというような安易な考えを持ってはならぬ。それは持前の力ではなく、訓練によって少しずつ得られる技術である。私たちは経験によってそのことを知る。

 兄弟よ、あなたがつぶやくのは無理もないが、つぶやきをやめて足ることを学ぶ大学の勤勉な学生であれ。

(『朝ごとに』スポルジョン著 2月16日の項目より引用。パウロが冒頭の言葉をしたためたのが、牢獄であったことを覚えさせられた。日曜日には「ヨセフの生涯と遺言」というテーマでヨセフの生涯を少し学んだが、ヨセフにも二年余りの牢獄生活があった。牢獄を通しても、主は私たちに必要不可欠なことを学ばせてくださるのだ。この学びの門に恐れず参入させられたい。)

2018年2月15日木曜日

永遠の主

栄光が、今も、また永遠の日に至るまでも、主にあるように。(第二ペテロ3・18)

 天にはイエスを讃美する声がたえず満ちている。永遠よ! おまえの無数の年月は不断に流れてゆくことであろう。しかし「栄光が永遠の日に至るまで主にある」だろう。彼は「メルキゼデクに等しい大祭司」ではないか。「栄光が主にあるように」、彼は永遠の王ー王の王、主の主、永遠の父ではないか。「栄光が永遠に至るまでも、主にあるように」、彼の讃美は決して途絶えることがない。血をもって買われたものは永遠に存続する価値がある。十字架の栄光は決して曇ってはならず、墓と復活の輝きは決しておぼろになってはならない。

 ああイエスよ、あなたは永遠に讃美されるでしょう。不朽の魂の生きる限り、父の御座が続く限り、栄光は永遠にあなたの上にあります。

 主にある友よ、あなたは天上の聖徒の群に加わって、すべての栄光をイエスに帰する日の来ることを期待している。しかし今あなたは主の栄光を現わしているか。使徒は「栄光が今も、また永遠の日に至るまでも主にあるように」と言っている。今日あなたはこのことを祈らないか。

「主よ、私を助けてあなたをあがめさせてください。私は貧しいですが、足ることを知り、あなたをあがめ得ますように。私は病気です。しかし忍耐してあなたをたたえ得ますように。主よ、私には時間があります。この時間をあなたのために用い、あなたに仕えることができますように。主よ、私には心があって感じることができます。どうかあなたに対してのみ愛を感じ、その愛のみを燃やすことができますように。私は考える頭を持っています。どうかあなたのみを、あなたのためにのみ考えることができますように。主よ、あなたは何事かをなさせるため私をこの世に置かれました。主よそれが何であるか示してください。私がその生涯の目的を達し得るよう助けてください。私は多くをなし得ません。しかし生活費のすべてなるレプタ二つを献げたやもめのように私の時と永遠をあなたの倉にささげます。私のすべてはあなたのものです。今私を用い、語る所なす所、持てるすべてによって、栄光をあなたに帰さしめてください。」

(『朝ごとに』スポルジョン著 2月15日より引用。昨日は一日中悩みに悩み抜いた。それゆえに、ほとんどすべてを忘れて床につきたかった。今朝起きてみると、昨日の煩悶を他所に朝陽は我が家屋を明るく照らしていた。思わず、主なる神様はこうしてすべての者に、たとえどんなに苦しんでいても、それを忘れていいよと言わんばかりに溢れるばかりの陽光を惜しげもなく与えてくださることに気づき心から感謝した。そして朝食の前にこの文章を読んだ。さらなる感謝を主にささげた。私にとって生きるに主が与えてくださるもので何不自由なるもの何不足なるものがあろうか。)

2018年2月9日金曜日

天恵ここに実りたる



空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。(マタイ6:26)

 久しぶりに、友を訪ねた。数ヶ月ぶりである。途中、川辺に十数羽のかわいいカモの子が土手にたむろしているのを見かけた。慌てて自転車を降りて、iPhoneを構える。カモの子は一斉に川へと移動する。もれなく飛び立ち、川面に思い思いの姿で、もはや人を恐れる必要もなく、それぞれがスイスイと川の中を泳ぐ。彼らの天下だ。

 友人のうちはまだ先だが、今日は暖かく、ゆっくり自転車を走らせる。途中、闘病中の別の知人の側を通り彼のことを思い出す。人間、薄情なもので遠ざかるといつしか忘れる。その方のことを思い出すことができただけでも幸いだ。帰りに寄ろうと思った。

 さて、友は元気だった。でもお互いに喋らない。その辺は心得たものである。その内に友人はベッドにあるボロボロになりかけている紙切れを振りかざして何やら話した。手繰り寄せてみると、それは彼の故郷の同窓生の住所録のようなものだった。何十年前であろうか、彼がいた小平市で塾を始めたようで、塾の広告を出している。私の知らない彼の過去があった。と、そこに町歌が掲載してあるのに気づいた。

 ひなを抱え  うみねこの
 愛のさけびに 朝明けて
 埠頭に鉱山に 生気満つ
 心も踊る   この歩み
 我らは誇る  我が田老

 海には海の  なりわいを
 天恵ここに  実りたる
 新興の旗   うち振りて
 我らは讃えん 我が田老

 手をとり共に 幾度か
 津波の中に  起ち上り
 いま楽園を  築きたる
 世紀の偉業  仰ぎ見よ
 我らは愛す  我が田老

 実はこの歌は三番もあるのだが、それは省かせていただいたが、早速、彼に歌ってもらった。望郷の念止みがたい中で、今は心身の自由を奪われてしまった友人だが、最後に冒頭の聖句を読んで共にお祈りして辞去することにした。けれども、彼は必ず祈りの後アーメンと言う。感謝これにまさるものはない。

 昨日のスポルジョンの文章のわかりにくい部分の「人を他よりすぐれたものとしない恵みは、価値なきにせ物である。」はひょっとしてこの間の事情をも言っているのではなかろうか。ちなみに原文を以下に掲げておく。
 The grace which does not make a man better than others is a worthless counterfeit.

 帰りに最初申し上げた別の知人の家を訪ねたが生憎お留守であった。

2018年2月8日木曜日

「救いとは何か」

一年前の今ごろ。今年はこのような日溜まりは少ない。

彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となる。(マタイ1・21)

 「救いとは何か」と問うならば、多くの人は「地獄から救われ、天国に移されることです」と答えるであろう。これは救いの一つの結果であるが、救いという恵みの十分の一も表わしていない。私たちの主イエス・キリストが、すべての彼の民を来たるべき怒りからあがなわれるのは真実である。彼は、その民がみずからの上に招いた恐るべき刑罰から彼らを救いたもう。しかし彼の勝利は、以上述べたことよりもはるかに完全なものである。彼はその民を「そのもろもろの罪から」救いたもう。おお、最悪の敵より救う妙なる救いよ!

 キリストは救いのみわざをなされるとき、サタンをその位から落としてサタンの支配を根絶される。もし罪が朽つべき肉体を支配しているならば、その人は真のクリスチャンではない。罪は私たちのうちにある。その罪は私たちの霊が栄光の世界にはいるまでは、決して完全に駆逐することはできない。だが罪は決して支配権を持つことはない。支配に対する戦いはあるだろう。すなわち、神が打ち立てられた新しいおきてと精神に対する反抗があろう。しかし罪が勝利を得て、絶対的に私たちの性質を支配することは決してない。キリストが心の支配者となられ、罪は克服されねばならない。ユダ族のししは勝利を得、龍は投げ落とされるでであろう。

 信仰を告白せる者よ、あなたの罪は征服されているか。もし、あなたの生活がきよくないならば、あなたの心は変化していない。あなたの心が変化していないとすれば、あなたは救われていない。救い主があなたをきよめず、新たにせず、罪に対する憎悪と聖さに対する愛を与えておられないならば、彼はあなたのうちに、いささかも救いのみわざをなしてはおられない。人を他よりすぐれたものとしない恵みは、価値なきにせ物である。

 キリストはその民を罪あるままに救われたのではなく、罪から救いたもうた。「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。」「主の名を呼ぶ者は、すべて不義から離れよ。」もし罪から救われなかったならば、どうして神の民の中に数えられることができよう。主よ、今この瞬間にも、私をすべての悪より救い、救い主をあがめさせたまえ。

(『夕ごとに』C.H.スポルジョン著松代幸太郎訳 2月8日の項。昨日はブログ氏にとって新たなスタートの日であった。ところが今日は今日で知人の誕生日と先ほどお聞きした。その方に祝意を表して、昨日に引き続いてスポルジョン氏のこの高名な著書からの引用となった。安直な「救い」が横行していないか。内外にそのことを問われる思いがした。)

2018年2月7日水曜日

天からのプレゼント

蠟梅に 嫗と祈る 至福あり

その時、天から大きな声がして、「ここに上ってきなさい」と言うのを、彼らは聞いた。(黙示録11:12)
 この言葉を預言的に考えず、私たちの偉大な先駆者がきよめられた民を招かれるものとして考えよう。時至れば、すべての信者に「天から大きな声が」聞こえ、「ここに上ってきなさい」と言うであろう。これは聖徒にとっては、喜ばしき期待の題目でなければならない。私たちが父なる神のみもとに行くために、この世を去る時が来るのを恐れるのではなく、むしろ解放の時を待ち望むべきである。
   我が心は御座にいますかたと共にありて
   時のいたるをひたすらに待ちわぶ
   「立ちて来たれ」との御声を聞くを
   かたときだにも待たぬ日はなし
 私たちは墓の中に呼びくだされるのではなく、空中に呼び上げられる。天で生まれた私たちの霊は、当然ふるさとなる空をなつかしむ。しかし天からの招きは忍耐深く待たねばならない。神は私たちに、「ここに登ってきなさい」と言う最善の時を知りたもう。私たちは強き愛に迫られて、次のように叫ぶであろう。
  「万軍の主よ、波は今あなたとの間をへだてるが
   やがて私たちすべてを、天に運び行かん」

 しかし、あくまでも忍耐しなければならない。神は精密な知恵をもって、あがなわれた者たちがいつまでこの地上にとどまるのが最もよいかを、定めておられる。実に、天に「後悔」が存在するとすれば、天の聖徒らはこの地上にもっと長く生き、もっと多くの善行をなさなかったことを嘆くであろう。ああ主の穀倉にさらに多くの収穫を積みたい。さらに多くの宝石を彼の冠に加えたい。しかしもっと長く働かないで、どうしてできよう。短く生きれば犯す罪も少ないという面もある。しかし私たちが心をつくして神に仕え、神が私たちにとうとい種をまかせられ、百倍もの収穫を得させられる時、私たちは地上にとどまるのはよいことですとさえ言うであろう。主の言葉が「行け」であろうと「とどまれ」であろうと、神の臨在が私たちとともにあるかぎり、喜びをもって受けよう。

(『夕ごとに』C.H.スポルジョン著松代幸太郎訳いのちのことば社1960年刊行より引用。今日から後期高齢者のお仲間入り、スポルジョンのこの勧めは私を喜ばせた。久しぶりにブログに掲載する気になった。)