2018年2月24日土曜日

祝福の雨

三頭山から眺めた富士山(2011.11) by Kawa

わたしは季節にしたがって雨を降らす。これは祝福の雨となる。(エゼキエル34・26)

 「季節にしたがって雨を降らす。」これは主権者のいつくしみである。それは主権者である神のいつくしみではないだろうか。なぜなら「わたしは雨を降らす」と言い得るものが神のほかにあるだろうか。雲に向かって語り、雨を降らすことを命ずることができるのはただ神おひとりである。

 地上に雨を降らす者はだれか。野菜の上に雨をそそぐ者はだれか。それは主ではないか。あわれみは神の賜物であり、人の造り得るものではない。それはまた必要な恵みである。土地は雨がなければどうすることもできない。あなたは土くれを砕き、種をまく。しかし、雨がなければどうだろう。神の祝福はどうしても必要である。神が豊かな雨を降らし、救いをくだされるまでは、あなたはむだな働きをしている。

 さらにまたこれは豊かな恵みである。「わたしは雨を降らす」とある。「しずくをこぼす」ではなく「雨を降らす」である。神が祝福を与えられる時には、いつも受け切れないほど多く与えられる。豊かな恵みよ。私たちは、謙そんであるため、祈り深くあるため、また聖潔であるために、豊かな恵みを必要としている。熱心であるために、生涯救いより離れることのないため、また天国に達するために、豊かな恵みが必要である。

 さらに、それは時に応じた恵みである。「わたしは季節にしたがって雨を降らす。」今朝のあなたの時はどうであるか。かんばつの時であろうか。それならば雨を要する時である。重苦しい黒雲のただよう時であるか。それも雨を要する時である。

 「あなたの力は、あなたの年と共に続くであろう。」ここにもまた種々の祝福がある。「わたしは雨を降らす」の雨は複数である。神はあらゆる種類の祝福を送られる。すべての神の祝福は、黄金のくさりの輪のように群をなして与えられる。神が回心の恵みを与えられる時には、慰めの恵みも与えられる。

 神は「祝福の雨」を送られるのである。しおれた草木であるあなたは、今日、上を見上げ、あなたの葉と花を開いて天よりの慈雨を受けねばならぬ。

(『朝ごとに』C.H.スポルジョン著 2月24日の項より引用。毎日、市の広報課から気象情報が携帯に入る。今朝は「乾燥注意報」であった。そしてすっかりその情報に慣れっ子になっている自分がいる。そんな私に今朝のスポルジョンの引用聖句とその解き明かしは新鮮な「祝福の雨」となった。昨年もよんごとなき事情によって四十日四十夜流動食で通さなければならなくなった時、「水」のありがたさを痛感した。水がなければ生命は保たれない。もちろん、空気もだ。そしてこれらはすべて創造主が私たち人間に与えてくださる一つ一つの恵みだ。いつの間にか、何もかも自分で獲得できるように思い込んでいる傲慢な自分を見せつけられた思いがした。今日の写真は、季節外れであるが美しいので撮影者の承諾を得て載せさせていただいた。)

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