2013年7月23日火曜日

主はすばらしい(下)

時期遅れの紫陽花(小金井市立第二中学の植え込み内)
次の年も感謝の日(でした)。そして、また次の年もみことばを読みました。でも、その時は何か(昨年読んだ時のみことばは)自分勝手に解釈しているような、間違っているような気がしました。もう一度最初からみことばを読み直していきました。

キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。(1ペテロ3・18)

「悪い人の身代わり」。悪い人とは私自身ではないか、私の罪の身代わりとなって死なれたイエス様がそこにおられました。私は自分の罪と向き合って来なかったのです。自分勝手に生きて来た私のために十字架にかかって贖ってくださったイエス様に悔い改めることをしてこなかった、救われていなかったと思わされました。悔い改めることなく、イエス様をお伝えすることはできない、お証にもならない。イエス様にお会いすることすらできない。悔い改めの時をいただきました。

さらに、みことばは、

私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。悪いなまけ者のしもべだ。(マタイ25・25〜26)

「悪いなまけ者」心に突き刺さりました。一タラント、イエス様からいただいたいのちのタラントを地の中に隠している。自分だけのものにしている。救われて自分だけ喜んでいていいのだろうか。そして、あなたの家、あなたの家族のところに帰り、「知らせなさい」。「知らせなさい」とイエス様は言われている。夫や子どもたちに謝っていないことをイエス様はご存知でした。私には何もできないことも、イエス様がしてくださることも事実です。家族の救いは約束されていること、これも確かな約束です。宣べ伝えなかったら、私はわざわいにあいます。もう逃げも隠れもできません。

さらに、

主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。(エレミヤ20・9)

イエス様ごめんなさい。私はイエス様のたいせつなみことばを閉じ込めています。

名古屋にいる長男に会いに行きました。日曜礼拝、若者の交わり会へとイエス様が運んでくださり、聖書のことばを、証を聞くことができました。二週間後に帰って来た息子は、突然お母さんに何があったのと聞いて来ました。みことばを伝えました。

またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。(ヨハネ9・1〜3)

長男は生後三日目に心臓に異常があると言われました。出産してホッとしたところを突然突き落とされたようでした。私のお腹の中で何が起きたのだろう、何がいけなかったのだろう、この子の病気は一生治らないのだろうか。医者からは具合が悪くなったらすぐ病院へ。○○が一番恐いからといつも言われ続け、この子を一生守ってあげることはできない、不安の消える日はありませんでした。健康志向に走っていきました。

お互いの心の正直な思いを話する時が与えられました。 「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。」このことばがずっと欲しかったと言いました。自分で自分の心を責めていたからです。お母さんはずっとぼくのことを負っていくんだろうな、と思っていた。だから心配かけないように、迷惑かけないようにがんばってきたと言いました。

息子の心にも負担をかけていた、そんなふうに思わせてしまったこと、今までのことを心から謝りました。

「神のわざがこの人に現われるためです。」
息子にしっかり伝えました。

「うれしいね」

と感謝しました。

イエス様はすべて、すべてご存知でした。私の手帳に始めて書いたみことば、ヨハネ9・1〜3、主のあわれみに感謝いたします。
みことばをいただいて重荷から解放されたこと、病気をいただいて、弱さもいただいて良かったねとも話しました。「あなたは天国の特別の子どもらしいよ」と伝えました。

イエス様を信じて罪が赦されてすべてが忘れられていることを、ゆいが天国にいることを、永遠のいのちをいただいて家族が一つとなって天国に導かれていきたいと、

それが

何よりの私の願いだと伝えました。

私たち家族はやっと一歩を踏み出したところです。いつもともにいてくださるイエス様に信頼しきって、たいせつな方々にイエス様のいのちのみことばをお伝えしていきたいと祈り願っています。みことばをお読みして結びます。

「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。(黙示22・20〜21) 

(いったいこの方の証のどこが私の心を惹きつけるのか考えてみました。そしてみことばと証をする方が一体となっておられることに気づかされました。私に必要なのはそうした素直さなのだと思わされました。読者の皆さんはいかが感じられたでしょうか。)

2013年7月22日月曜日

主はすばらしい(上)

小金井付近を流れる野川、なぜかここからは水が見えない
(先週火曜日、一人のご婦人のお証をお聞きし大変感銘を受けましたので、ご本人の了解も得て聞き書きをさせていただきましたが、以下、引用者の手で少し文章を変えて編集させていただきました。ご了承ください。 )

主の御名を賛美いたします。イエス様のしてくださったひとつひとつの「恵み」を思い起こすときをいただき、感謝いたします。

あわれみゆたかな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過のなかに死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、あなたがたが救われたのはただ恵みによるのです(エペソ2・4〜5)

イエス様に出会う前は恵まれない子だとばかり思っていました。けれども私の生まれた日の2月27日の(「日々の光」に書かれていた)みことばは「恵み」、「恵み」と「恵み」のみことばであふれています。イエス様がはじめて「恵み」の子だよと言ってくださったようで、とてもうれしい日となりました。今は毎日が「恵み」の日です。

私は東京世田谷で生まれ、今は田無に住んでいます。結婚して三人の子育てに追われながらも何不自由なく楽しく充実した日々を過ごしていました。そんなとき四人目の子どもが授かり子どもたちはとても喜んでくれて男の子でも女の子でもいいようにと「ゆい」と名前をつけてくれました。一ヵ月後夫の職場の移転で松戸に移り、少し落ち着いた時、突然破水し私の手のひらの上には小さな、小さな、ほんとうに小さなわが子がおりました。「ごめんね」「ごめんね」「お母さんはあなたのことは守ってあげることはできなかった、ほんとうにごめんね」と謝ることしかできませんでした。「私のこと忘れないでね」と言っているようでした。あの子はどこへいってしまったのだろう。あの子は私たちに何を伝えたかったのだろう。そればかりズッと考えていました。

私たち夫婦は信仰と言う土台のないところに家を建てて暮らしていました。フッと風が吹いただけで簡単に家は崩れ、瓦礫の中で苦しい、苦しい、誰か助けて欲しいともがいていました。聖書の中にからしだねほどの信仰があったらとあります。私たちはその十分の一、百分の一の信仰もありませんでした。私は勝手に家を壊し、かたくなに心を閉ざし人を赦すことができず、家族のことなど考えもせず愛もやさしさも全くない自分勝手で何とか逃げたい、自分のことばかり考える者でした。父が一人になり、二人の娘の進学を期に、田無で同居することにしました。夫や子どもたちを深く、深く傷つけました。そのことの謝罪もまだできていないことを今思わされています。

次女が中学三年になった日に転入生が入って来ました。彼はとてもやさしくふたりは気が合うようでした。高校に入った八月、彼から軽井沢にキャンプに行きませんか、お母さんも一緒に来てくださいとお誘いを受けました。どこへでも行きたいという心境でしたから喜んで行きました。着いたところはなぜか御代田の食堂でした。こんなたくさんの人とキャンプするのかなと(思いました)。泊めていただいたお宅ではみんながとても暖かく迎えてくださり、何年ぶりだろう、こんなに笑ったのは。とても楽しく過ごさせていただきました。そのとき心に残ったことばは、宗教は人を救えないでしょう、宗教ではない、クリスチャンの方がいらっしゃることを知りました。ぼくのこどもは三人は今天国だよ。「天国だよ。」とはっきり言われたこと(でした)。自分の子どもはどこにいるのだろうと思いながら帰って来ました。

そのあと中高生会に誘われお証があり、クリスチャンホームで育ち聖書を読みおつき合いをしてはいけないことを知ってはいるけれども、どうしてもつき合いたくてつき合ったけど両親に従い、みことばに従い、やめましたという内容でした。どんな気持ちで聞いていらっしゃるのだろう。ふたりのことはどう思われているのですか、と聞くと、とにかく祈ろうとあの日から今日までずっと祈って来ました。ずっと祈って来ました(と言われました)。

なんとも言えない暖かいやさしさが心に染み込むようでした。イエス様を信じているご家族の姿を知りました。イエス様のやさしさとご愛をいただいて帰りました。

それから礼拝に行くようになり、家庭集会にも行くようになりました。隣に座られたご婦人から、どうして来られたのですかと聞かれ、今までのことを話し、子どもがどこにいるのかわからない、あの子が伝えたかった答えがまだ見つからないと言うと、「子どもはみんな天国ですよ」と言ってくださり、「みんなって、私の子どももですか」そのご婦人はやさしくうなづいてくださいました。私もイエス様を信じて会えるなら会いたい、あの子が伝えたかったことは、イエス様でした。

次の日、礼拝に行くとそのご婦人が外で待っていてくださり、私の手にみことばのカードをくださいました。

女が自分の乳飲み子を忘れようか。
自分の胎の子をあわれまないだろうか。
たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを
忘れない。
見よ。わたしは
手のひらに
あなたを刻んだ。」(イザヤ49・15)

あの日、私の手のひらに、わが子の代わりにこのみことばが刻まれています。

救われた喜びで満たされ久しぶりで家族と過ごす時があり、笑いながら話している自分が不思議でした。(笑いながら)話している、夫と話している私を見て、娘はイエス様はすごいと思ったようです。イエス様と出会ったときでした。その時から娘は礼拝に行く者へと変えられました。主が、みことばを送って、これらを溶かし、ご自分の風を吹かせると、水は流れる(詩篇147・18)。あの日から10年と言う月日が流れていました。

「日々の光」をいただき、はじめての4月19日、この日はゆいの召天した日です。

そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら私はわざわいにあいます。あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったか、知らせなさい。

イエス様を伝えてくれてありがとう。みことばをありがとう。主がしてくださったことをお伝えして行かなければと救われたことを感謝しました。(明日に続く)

2013年7月18日木曜日

天に愛の目あり


怠慢のため聖句書けず※
月曜日は暑かった。水曜日に開かれる家庭集会のことが思いやられた。ところが火曜日、水曜日となぜか気温は低下し、しのぎやすくなった。家庭集会当日は涼しく、冷房もそれほど要らない天気となった。ところが今日はまたしても暑くなって来た。いったい火曜、水曜のあの涼しさは何だったのかと思い、我田引水的だけれど、そうだ、主なる神様があわれんでくださったのだと思い至った。準備の火曜日も当日の水曜日も、すなわち私たちが行動しやすい天気を与えてくださったからだ。

集会の朝、夢を見ていた。一人の男性の方が家庭集会に来て挨拶をなさっている。その方は療養中なのにすっかり元気になって、私たちを励ましにやってきてくださったのだ。風の便りに聞いていたその人とは打って違い、その人は元気であった。なぜか、私たち夫婦は隅の方に引っ込んでいた。その姿こそ今の私にふさわしいありようであった。気分が塞ぎ、滅入り、自らの信仰が死んでいるかのようであるからである。そのうちその方が大きな声で「○○○さん」「○○○さん」と呼ぶ。○○○とはその方と同じ病で闘病中の家のお嫁さんの名前であった。彼女がどこにいるかわからない、だからその方は何度も「○○○さん」と呼ぶ。最後の一声で階下から家内が名前を呼んでいるように思えたのでハッと目が覚めた。明け方寒く寝られなかったので、ふとんをかけやっと熟睡の域に達したのだが、夢はその間の夢であった。目ざめたのは8時近かったので慌てて階下に降りた。

階下に降りると家内が、今日の家庭集会のメッセンジャーの方が急病で来れなくなった旨7時半ごろ電話があったと伝えた。道理でと思った。家内が大慌てで階下から私の名を呼んだのだ、さてはその呼び声だったのだなと話すと、家内は全然呼ばなかったと言う。むしろ、ぐっすり寝込んでいるので可愛そうなので起こさなかったと言う。してみると、あの呼び声は何なのだ、主が私を目覚めさすために起こされたのかと一瞬思った。今更代わりのメッセンジャーを頼むわけに行かない。ここは自家発電しか仕方がない。私は何も話せないよとこればかりは変な確信を持っていたのに。約二時間弱猶予はあるにはある。時間は主がくださる賜物である。何とか語るべきみことばを瞑想する。

かくして家庭集会は始まった。遠来から来られるメッセンジャーを想定して新来者の方も来られる、またはるばる東京、宇都宮、柏、上尾からも皆さん来てくださっていた。この日は証もお願いしていた。80歳の高齢の方だから、私はむしろこの方の健康を案じていた。しかしこの方は元気に来てくださった。二人でそれぞれみことばとお証を伝えて無事に集会は終わった。とくに二人とも気負うこともなく、淡々と語った。家庭集会の良さである。みなさんもそれぞれ三々五々ゆっくり交わって帰られた。あとで「今日の集会も感謝と喜びに満たされ清らかな空気の中に居させてくださり有難うございました」とわざわざメールを寄越してくださった方もおられた。

家庭集会を開かせていただいて23年目になる。よくも今日まで続けられたと思う。主イエス様のあわれみと背後のみなさんの祈りとご奉仕があってこそだと思う。この日証してくださった方は次のみことばを結びの聖句として紹介してくださった。

何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。(あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです)。ピリピ2・3〜5

最愛の奥様を膵臓癌で13年前なくされ、その後男やもめとして数年病気がちであり不運をかこっておられたかのようにお見受けしたが、最近元気になられ、青年のように目ざめられ私たちとともに礼拝をしておられる方である。この方がこのみことばを読んでくださったことは何よりも嬉しかった。一方メッセージを終えた私に録音CD作成の方が今日の題を教えて下さいと言われた。しばし考え、「わたしはあなたを愛している」とつけた。わたしと言われるのは主イエス様ご自身である。下記の主題聖句からそのまま引用したものである。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ(イザヤ43・4)

「わたしはあなたを愛している」たとえ前途に希望が見出せなくなったとしてもこの方の愛は変わらない。めげないで、困難な中、主イエス様を頼りに歩みたい。叱咤激励してくださる主の愛をこれからも○○○の闘病とともに家族一同経験して行きたい。あわただしかった一日を終え夜になり、来られるはずであったメッセンジャーの奥様にお電話した。幸い大事にはいたらなかったことをお聞きし一安心した。

(※いつも書いてある聖句が書いてないため心を痛められた方もあったようだ。でも主イエス様が一番心を痛められたことであろう。ごめんなさい。次回は9月11日(水)午後二時半からである。)

2013年7月8日月曜日

すべて益になる(結)ゴットホルド・ベック

ペテロはほんとうにすべて失敗してしまいました。 彼は最後の土壇場に立たされたのです。そこにはもはや一条の希望の光も射し込まず、すべての望みが消え失せた全く絶望的な状態が支配しました。けれどもこの訓練はどうしても必要でした。ペテロはもはや自分の力により頼むことができなくなってしまいました。そこからはじめて主はペテロをお用いになることができたのです。その良い例が五旬節ですが、その時にペテロをとおして何時間かの間に3000人以上の人々が救われたのです。

ペテロだけではなく、パウロも似ていることを経験しました。ちょっとパウロについて考えてみることにしましょうか。パウロもペテロと同じように深みを通って来ました。すなわち三日間暗闇の中にいたのです(使徒9・9)。そのことをあとになってパウロは次のように証しました。今度はコリント第二の手紙の中で次のことばが出て来ます。318頁です。コリント第二の手紙3章の5節と6節。

何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。

私たちはみな実を結ぶ秘訣を知っています。すなわち自分自身を否定して自分に対して死ぬことです。ヨハネ伝の12章。皆暗記していることばですけれども、ヨハネ伝12章24節を見るとイエス様は次のように「実を結ぶ」秘訣について語ってくださいました。ヨハネ伝12章24節

まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

どこにも多くの重荷に喘いでいる人、いかなる逃れ道も見出さず絶望的な状態になっている人がいます。どうして私はこんなにたくさんの困難を経験しなくっちゃならないの、どうして私は失敗してしまうのでしょうか。恐らくそれはまだはっきりとした救いの確信をもたず、イエス様こそ私のもの、かけがえのないものということができないからではないでしょうか。もしかするとそれはあなたの救い主があなたをご自分に似た者に造り変えようとしておられるからではないでしょうか。大切なのは救われることだけじゃない。聖められることです。あるいはそれはあなたが今までに主を利用しようとしていたけれど、今や主があなたを主の御手の中でご自分の器としてお用いになろうとしているからではないでしょうか。もう一ヵ所、旧約聖書から読みます。292頁です。いわゆる申命記8章の15節です。

燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ、堅い岩から、あなたのために水を流れ出させ(る主、とあります)

道をふさぐ岩、すなわち障害物から、あるいは理解できない困難や私たちが甘受しなければならない心痛、すなわち心の痛み、それらのものから主は水を湧かせようとしておられるのです。このような経験を通して私たちは主のみもとに行くのであり、このような経験をとおして祝福され得るために祝され、またいのちを与えられるのです。生ける水は川となってわれらより出(いず)るべしと書いてあります(※)。旧約時代に主はご自身の民に向かって次のように言わなければならなかったんです。今度はエレミヤ記の2章、1137頁になります。エレミヤ記の2章13節。

わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。

エレミヤ記17章の13節

イスラエルの望みである主よ。あなたを捨てる者は、みな恥を見ます。「わたしから離れ去る者は、地にその名がしるされる。いのちの水の泉、主を捨てたからだ。」

わが民は、二つの罪を犯す。一つは「湧き水の泉であるわたしを」捨てたこと。第二は「水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘った」。このようにして主は悔い改めて立ち返ることを呼ばわれました。

イエス様を知らない人々は悔い改めて主のみもとに立ち返らなければなりません。救われるため。そしてイエス様を知るようになった人々はイエス様のうちにとどまるため、また用いられる器・道具となるために悔い改めて立ち返らなければなりません。

イエス様のうちにとどまる者だけが、主と結びついているのであり、このいのちの泉の通り良き管となることによってイエス様はご自身を現わすことがおできになります。今のこの時の試練はまさに死後の世界に至るための準備期間のものに他ならない。主はなにものも御手から失いません。主はとこしえにすべてを支配なさるお方です。暗闇の時にも困難の涙の時にも主の御手はわれわれを守ってくださいます。失望落胆した心も慰められ、喜ぶことができます。なぜなら主はとこしえに主であられるお方です。そして主は決してあやまちを犯しません。私たちには理解できないことがたくさんあるとしても、主はわれわれにとっても最も益となることを考えていてくださるのです。ロマ書8章の、前に28節を読みました。今度は8章18節です。

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

もう一ヵ所、最後に(読みます)。コリント第二の手紙。初代教会の一つの証ですネ。319頁になりますが、コリント第二の手紙4章の8節から

私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。

16節

ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。 

( ※「我を信ずる者は、聖書に言えるごとく、その腹より活ける水、川となりて流れ出ずべし」ヨハネ7・38とある。この一人のドイツ人宣教師は私たちがとっくの昔に捨てて顧みない文語体の聖書のこの箇所を記憶にとどめておられる。何と有難いことでしょうか。)

2013年7月7日日曜日

すべて益になる(転)ゴットホルド・ベック

われわれの人生の中に偶然と言うものは何一つありません。すべての背後に主なる神が立っておられ、主がそれぞれの場合に応じて適切な導きをなしておられます。すべてが益となる。このことを私たちはつねに新たに覚えるべきなのではないでしょうか。良いことやもっとも良きことは私たちが造り変えられることなのではないでしょうか。

造り変えられること、主の御手によって練られることは確かに面白くない、痛みをともなうことでしょう。すなわちそれは自らが砕かれることなしにはあり得ないことだからです。人はその時、失望落胆し、力を失い、自暴自棄に陥りがちです。このようなことは自分の思いどおりにならないとき、目先のことしか考えない時に起こる事柄です。29節はほんとうに大切な絶えず覚えるべき箇所でしょうね。

なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

主は御子の姿に似た者となるようにあらかじめ定めておられるのです。主があらかじめ目指しておられるご目的は何というすばらしいものでしょうか。この目的からつねに目を離さないことは非常に大切なのではないかと思います。主はご自分に属しておられる者を限りなく愛してくださるから、まさにそのために私たちを懲らしめ教育なさるのです。主の教育は私たちが主の聖さにあずかるように、ご自身のみもとに引き寄せたく思っておられることです。 私たちの主は完全であり、言うまでもなく、主の導きも完全です。おそらく私たちはすべてを理解することができず、挫折してしまう危険に直面し、また自分自身に同情してしまうというような場合も多くあるのではないでしょうか。

どうして私はこんなことを経験しなくてはならないの、どうして次から次へとこんなことが私に起こるのでしょうか。どうして私はこんなにたくさんの困難や理解できないことを経験しなければならないのでしょうか。

すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます(ヘブル12・11)

と、聖書はハッキリ言っているのです。ここで大切なことはそのときは一時的に悲しく思われるものですけれども、しかし後になると、それが結果的に幸いになるということです。

次に私たちは次のことを覚えましょう。すなわち、私たちはけっして主のための実験用モルモットなのではない。主がつねに最善のみを考えておられる、最愛の子であるということです。たとえ実際にすべてのことが失敗したとしても、私たちは主によって愛されているということを知ることができます。まさに主の試練やいわゆる懲らしめこそ愛されている証拠です。私たちは今そのことを理解することができなくても、しかし後になるとそのことを必ず主に感謝し礼拝することでしょう。

ダビデは次のように告白したことがあります。一番長い詩篇ですけれども、詩篇119篇の67節、945頁です。詩篇119篇67節を見ると次のように書かれています。一つの告白でもあります。

苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。

結局、苦しんだのは良かった、とダビデは言えたのです。

なぜか、あるいは何のためかという問いについて今考えてまいりました。すなわち、答えは三つです。今まで二つのことについて考えました。第一番目の答えは支配したもう主なる神は人が救われるために、まことの救いを自分のものにするために、罪の赦しを得るためにそれらの多くの事柄を起こるがままにさせておかれる。二番目の答えは支配したもう主なる神は信ずる者が変えられるために、それらの多くの事柄を起こるがままにさせておられるということです。三番目の答えは支配したもう主なる神は救われた人々がほんとうに主に仕える者として用いられるためにそれらの多くの出来事を起こるがままにされるのです。

多くの信者は実を結ばない木のようなものじゃないでしょうか。主は彼らを用いることができない。その原因は何でしょうか。彼らはイエス様なしでも、何とかやれると思い、自分自身の力と自分自身の知恵により頼んでいる。確かに多くの信ずる者は、主のために何かをやりたい、主のために一生懸命に何かをやりたいと思い、またこのことやあのことをしたいと主に願ったりするのです。しかし結局彼らはこのことやあのことを自分がしたいために主を利用しようとしてしまっているのです。しかし実際は主が信者をお用いになりたいと思っておられるのであり、ご自分の器として信者を用いたく思っておられます。永遠の残る実を結ぶご奉仕は主のためのわれわれの努力ではない。われわれをとおして主がなさるみわざでなければならない。これこそ多くのものがわれわれに逆らっているように思われたり、主が私たちを厳しく取り扱われなければならなかったり、私たちが砕かれなければならないことの原因です。

そこで簡単に二つの例をちょっと考えてみましょうか。まずイエス様の一人の弟子ペテロ。ペテロというイエス様の弟子とは自信と独立心が彼の特徴でした。彼は自分自身の能力に自信をもっていました。一ヵ所見てみましょうか。ルカ伝の22章、149頁になります。ルカによる福音書の22章の31節から34節までお読み致します。イエス様の言われたことばです。

シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました(わたしはOKと言った、反対しなかった)。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」(すごい、自信ですね。ひどい思い込み)しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう(何時間あと)鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」

シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけられることを願って聞き届けられました。そしてわたしはそれに反対しません。それはまことに厳しく辛いことでしょうが、あなたが破産してほんとうに自分自身に絶望するためにはどうしても必要なことなんです。

ここで注意していただきたいことは色々な人格の順番あるいは順序ですね。ここの聖句によると、悪魔、それから「わたし」すなわちイエス様、そしてあなたすなわちシモン・ペテロ。主はペテロを通して彼の兄弟たちを強めようと思われましたけれど、そのためにはペテロは砕かれることがどうしても必要でした。そのために悪魔がペテロを攻撃することになるのですが、けれどもこの時も主は絶えずペテロ のために祈ってくださいました。したがって悪魔は自分がしたいことを何でもするということはできません。私たちは完全に主の御手の中にいるのであり、それは永遠の安全を意味しているのです。それですから主は悪魔とペテロの間にお立ちになっておられるのです。

(一週間前、私は自ら今回の経験していることの根底の意味を主に問うていた。その時、自らが神のみこころを求める思いに支配されていないのでは何も始まらないことを自覚した。このメッセージのポイントの一つに「支配したもう主なる神」をあなたはほんとうに経験していますかという問いがあることに気づく。ちなみに私に与えられたみことばはコロサイ1・9の後半であった。)

2013年7月6日土曜日

すべて益になる(承)ゴットホルド・ベック

なぜか、どうしてか、何のためかと考えると、今話したように、まず言えることは支配したもう主なる神は、悩んでいる人々、苦しんでいる人々、孤独になっている人々が救われるためにそれらの多くの出来事を起こるがままにされておかれます。大切なことは人間が真理に、真理の認識に至ること、すなわちイエス様に出会うことです。どれほど多くの人間が(イエス様に)関心もなく、そして自分たちが真理を知らないのだということに気がつかないでいることでしょうか。

ですから、次のように言うことがまったく正当でしょう。人間は救われる前にひとたび失われた状態になければならない。すなわち人間は主なる神が人間を救ってくださる前に、まず自分の失われた状態を認めなければなりません。物質的なものが満ちあふれ、目に見えるものにがんじがらめとなってしまっているため、永遠のものや生けるまことの神について深く考える時間がない。このことが現代の特徴なのではないでしょうか。多くの人は救い主を持つ必要性に対して盲目ですが、たとえそのことを認めざるを得なくなったとしても依然として逃げようとするのです。その方々は静かになって人生の意味を考えたり、死後の世界を深く考えたりすることをしたがらない。このことこそ主なる神が多くの不愉快なこと、困難なこと、理解することができないことをわれわれの上に来らせることの理由です。

このような主の導きの目的はご自身のもとに引き寄せること、また赦しと人生の内容を与えてくださることに他ならない。聖書の中から一つの実例を見てみましょうか。ルカ伝15章、有名な放蕩息子の話なんです。ルカ伝15章の中で色々なこと書いていますけれど、いわゆる放蕩息子は自信に満ちて両親の家を去りました。意識して彼は自分が選んだ道へ行ったのです。彼は何ものからも束縛されず自由に自分の人生を楽しもうとしました。自分自身の道を行きたいと思う者に対しては主は反対しない、好きなようにされます。たとえ最初はすべてのことが望み通りうまく行くように見えたとしてもやがてすべてのことが失敗に向かうときがやってまいります。そして、その結果、突然すべてのものが自分に反対しているように思われるのです。お金は間もなく使いはたして、それまで友だちと思われた人々からは捨てられることになりました。すべてのものが失敗してしまったのです。ちょっと二、三節読みましょうか。ルカ伝の15章の14節から

何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり(これも偶然じゃない、大飢饉が起こり)、彼は食べるにも困り始めた(主のせいでした)。それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた(ユダヤ人にとって一番嫌な仕事です。乞食した方が簡単ではないでしょうか、豚の世話をさせた)。(そして)彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。(ルカ15・14〜16)

けれど、この導きによって、すなわちこの深みへと導かれたことによって、彼はただ単に自分自身に立ち返っただけではなく、そのことによって父の住まいへ戻ることになり、まことに満ち足りた幸いな人生へ入ることができたのです。多くの場合、人生の途上には恐ろしくたくさんの困難が横たわっています。しかし主はつねに一つの目的をもっておられます。すなわち私たちどうしようもないものをゼロの点にまで低くすること、あるいは破産することをそれが主の取られる方法であり、その限りにおいてすべてのものは自分自身の助けになるものを失い、心から悔い改めることにより、また主を信ずることにより、主なる神のみもとに行くことが可能となるのです。

なぜか、どうしてか、何のためか、と考えると、今まで見て来たように支配したもう主なる神は罪人が救われるためにそれらの多くの出来事を起こるがままさせておかれます。主が人間に正しい理解と悔い改めを得させるために、確かに多くの事柄を失敗するがままにさせておかれることを見てまいりました。

次になぜか、あるいは何のためかという問いについて、もう少し考えてみましょうか。答えは三つです。今話したように、まず支配したもう主なる神は人が救われるために、まことの救いを自分のものにするために、それらの多くの出来事を起こるがままにさせておられるということです。第二番目の答えは支配したもう主なる神は今度は信ずる者が変えられるためにそれらの多くの出来事を起こるがままにさせておられます。しかし救われていない人々だけでなく、信ずる者もまたいわゆる運命のなすわざを経験するのです。信ずる者もまた同じように失望落胆し、なぜこんなことが起こるのか、どうしても理解することができない場合に遭遇いたします。

なぜ主は信ずる者が厳しい試練に会うことを許されるのでしょうか。それは彼らの教育のためです。彼らの聖めのためです。また彼らは主の御姿に変えられるためです。それを証明するために聖書から二ヵ所ばかりちょっと読んでいただきたいと思います。もう一回ロマ書8章初めに読んだ箇所ですが、もう一節読みます。277頁でしたね。ロマ書8章28節

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

これは初代教会の人々の確信です。ここで「知っている」と書いています。原語を見ると「確信する」と書いています。「すべて益になる」 29節

なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

とあります。われわれの人生の途上に横たわっているものすべて、またわれわれの人生の中に入り込んで来るものすべては主によって用いられており、したがって無価値なもの、無目的なるものは何一つありません。大切なことは私たちが新しく造り変えられること、主イエス様に似た者になることです。

(ある方は試練のなかにある私たちに対して「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る」とみことばを送ってくださった。ベック兄のメッセージもまた同一のものであることを思わされる。考えてみると今日はあの青天霹靂の出来事から50日目になる。七週が経過した五旬節の日に相当する。主は確かなご計画をもって私たちを訓練されている。)

2013年7月5日金曜日

すべて益になる(起)ゴットホルド・ベック

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8・28)

九十九パーセントだけじゃなくて、すべて。「すべて」は「すべて」です。すべてが益になる。ほんとうは考えられない。ほんとうかなと思う人もいっぱいいると思うけれども、聖書はそう言っているから、まちがいなく「すべて益になる」。生きている間にわからないかも知らない。けれども遅くとも永遠の世界に入ってきてから、主なる神は完全ですし、したがって主なる神の導きも完全です(とわかります)。

確かに人間は誰でもいろいろな問題、あるいは悩みや苦しみに出会う者です。そこで多くの場合、そのようないろいろな問題に直面した時に、私たちはいかなる答えをも見出すことができない場合があります。多くの人々は山のような問題の前になす術を知らないで悩んでいます。

ドイツの親しい人だったんですけれども、彼は自分から金持ちになろうとしたのではなく、財産に恵まれた境遇の中で、イエス様のご栄光のためにすべてをささげていました。けれどもある日突然、色々な出来事をとおして・・・。二つのデパートを持っていたんです。ちょっと考えられない。あの家で何回も泊まったことがありますし、家の中に大きなスウイミングプールがあって夜昼いつも同じ温度で泳ぎながらテレビを見たりして云々と。けれども、ある時彼は全部失くしちゃった。おもに自分の親戚、自分の子どもに裏切られてしまいました。つらかったけれど、彼はいつもほんとうのことを言ったんです。すなわち人間はみな必要なものを持つ。ほしいものは与えられないかも知れないけれど、必要なものを持つ。ですから、全財産失ったときも、彼は別にがっかりしなかったんです。必要だと思ったんです。この態度を取るとやっぱり楽になるし、安心して前向きに生活することができます。

確かに人間はしばしばいろいろな状況の前になすべき術を知らないで、またどうしたら逃れることができるのかその逃れ道を見つけることができません。絶望的な状態に陥ってしまうというようなことが実際にありはしないでしょうか。

旧約聖書の中の大切な人物の一人はそれを経験しました。すなわちヤコブという男です。創世記42章の中で、1節だけ読みますけれども、彼の気持ちをあらわす箇所があります。旧約聖書の72頁です。創世記42章の36節

父ヤコブは彼らに言った。「あなたがたはもう、私に子を失わせている。ヨセフはいなくなった。シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンをも取ろうとしている。こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。」

喜びの叫びではなかった。彼のそれまでの生涯においては、自分自身の意志、また力によって行なったことがたくさんありました。また彼は長い間、ずるがしこさ、また卑劣さでもってただ自分の利益ばっかりを考えたわけです。けれどもそのような、人を欺く者が欺かれました。主なる神は罪を見過ごしにされないお方です。これはヤコブが知らなかったけれど、学ばなければならなかったものでした。彼の場合のように、すべてが失敗に終わりそうに思える時、いったい何をなすべきか、どうしたらいいか、いかなる態度が取られるべきかなどとまったくわからない。

まず最初に私たちが注意すべきことは、すべてのことが失敗に終わるということはただそのように見えるに過ぎないということです。ヤコブの場合もそうでした。 なぜならば、ヨセフは確かに今はいないけれども、いつかは必ず会える、シモンもまた確かに今ここにいないけれども、いつか必ず会うことができるということです。私たちは人間的な見方をする場合多くのものを正しく見ることができない。次のように言うでしょう。すべてのものが私に反対している。すべてのものが失敗に終わる。けれども、ほんとうはその反対が真実です。すなわち、これらの事柄はわれわれに反対しているのではない。われわれのためにある、と言うことです。けれども、私たちは今はそのようなものとして認識することができないような性質のものですから、「隠された祝福 」と言ってもいいものではないでしょうか。

なぜ私はこんなことを経験しなければならないのでしょうか。なぜこんなことが私に降りかかってくるのでしょうか。このように苦しみながら、悩みながらいくら自問自答しても何の解決も見出せないような事柄が実際には数えきれないほどたくさんあるのではないでしょうか。なぜか、あるいは何のためかという質問についてちょっとだけ一緒に考えてみたいと思います。答えは三つです。

第一番目、すべての背後に支配したもう主なる神は人を救われるためにそれらの多くの出来事を起こるがままにされておかれる、と言うことです。第二番目の答えは支配したもう主なる神は信ずる者が変えられるために多くの出来事を起こるがままにさせておられる、と言うことです。そして三番目の答えは支配したもう主なる神は救われた者がほんとうに主なる神に仕える者として、用いられるために、それらの多くの出来事を起こるがままにさせておられるのです。

(昨晩浦和で行なわれた家庭集会でのメッセージの聞き書きである。「隠された祝福」とは何と恵みに満ちたことばではないでしょうか。)

2013年7月3日水曜日

『壊れかけた記憶、持続する自我』山田規畝子著(中央法規)


 『「やっかいな友人」としての高次脳機能障害』という副題を持つ本を手にした。著者自身がその障害を持ちながら、医師として働き、今は休業しながら執筆活動や講演に打ち込んでおられる方である。

 この本の冒頭部分で高次脳機能障害者の存在について次にように書いておられる。

 近年の救急搬送システム、救急医療技術、生命維持技術の目覚ましい発達が、それまで問題にならなかった高次脳機能障害者という生命ある人間のグループを作り出した。命を救う医学が発達した時代であるからこそ、この世界に生きているのが高次脳機能障害者である。生命の危険にさらされている時点では、脳損傷患者はたいていはまだ病院にいて医学的処置を受けているのであるが、医学の進歩はこういった患者たちにも、元いた家庭に帰って生活することを可能にした。

 医学的管理のもとで、危険な時期を越えた患者たちは、病状が落ち着けば急変して死に至ることは少なくなった。そこで自宅での生活の中で後遺症としての機能障害(高次機能障害)と闘いながら、自立した第二の人生を模索する人々が増えてきたわけである。(同書13頁)

そして、彼女は次のように言う。

 脳の回復は生きている限り続くのだと思っている。人間の体は傷がついても、元の形に戻ろうとするものだと子どものころ亡き父に習った。深くえぐったようにすりむいたひざの傷を、前に父はそう言っていた。同じ形に戻ろうとするのだと、父は筆者と同じ整形外科医だったが、皮膚も骨も、医者は治りやすく助けをするだけで、体は自分で勝手に元の形に戻ると習った。脳の傷は治らないといわれた時代があり、筆者も大学に入ったころはそれが常識だった。近年では脳には柔軟な可塑性があり、機能的にも器質的にも傷は治っていくというのが定説となってきた。筆者もその例の一人である。(同書84頁)

 彼女は認知機能異常、構成失行、記憶の障害、左半身麻ひ、嚥下障害の症状などを持ちながら、すでに何冊かの本を書いている。そしてこのような障害を持つ者が生きる上で、どうしても必要な家族や介護者の深い理解を求めている。そして自身の患者としての経験を赤裸々に俎上に載せた上で、同時に医師としての目を保ちながら164頁にわたる文章は続く。

 読んでいて、高次脳機能障害者への回復への定則は存在しない。一人一人異なる人生があるように、一人一人の回復への足取りも違うことに気づく。障害者自身が自らの弱さをどのように受け入れて行くか、また健常者が障害者の傷ついている心にどのようにして手を伸ばし続けることができるのか、そこに鍵があることを著者の言辞からうかがい知ることができた。

だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。(ピリピ2・21)

「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」(ルカ10・25〜28)