2013年7月3日水曜日

『壊れかけた記憶、持続する自我』山田規畝子著(中央法規)


 『「やっかいな友人」としての高次脳機能障害』という副題を持つ本を手にした。著者自身がその障害を持ちながら、医師として働き、今は休業しながら執筆活動や講演に打ち込んでおられる方である。

 この本の冒頭部分で高次脳機能障害者の存在について次にように書いておられる。

 近年の救急搬送システム、救急医療技術、生命維持技術の目覚ましい発達が、それまで問題にならなかった高次脳機能障害者という生命ある人間のグループを作り出した。命を救う医学が発達した時代であるからこそ、この世界に生きているのが高次脳機能障害者である。生命の危険にさらされている時点では、脳損傷患者はたいていはまだ病院にいて医学的処置を受けているのであるが、医学の進歩はこういった患者たちにも、元いた家庭に帰って生活することを可能にした。

 医学的管理のもとで、危険な時期を越えた患者たちは、病状が落ち着けば急変して死に至ることは少なくなった。そこで自宅での生活の中で後遺症としての機能障害(高次機能障害)と闘いながら、自立した第二の人生を模索する人々が増えてきたわけである。(同書13頁)

そして、彼女は次のように言う。

 脳の回復は生きている限り続くのだと思っている。人間の体は傷がついても、元の形に戻ろうとするものだと子どものころ亡き父に習った。深くえぐったようにすりむいたひざの傷を、前に父はそう言っていた。同じ形に戻ろうとするのだと、父は筆者と同じ整形外科医だったが、皮膚も骨も、医者は治りやすく助けをするだけで、体は自分で勝手に元の形に戻ると習った。脳の傷は治らないといわれた時代があり、筆者も大学に入ったころはそれが常識だった。近年では脳には柔軟な可塑性があり、機能的にも器質的にも傷は治っていくというのが定説となってきた。筆者もその例の一人である。(同書84頁)

 彼女は認知機能異常、構成失行、記憶の障害、左半身麻ひ、嚥下障害の症状などを持ちながら、すでに何冊かの本を書いている。そしてこのような障害を持つ者が生きる上で、どうしても必要な家族や介護者の深い理解を求めている。そして自身の患者としての経験を赤裸々に俎上に載せた上で、同時に医師としての目を保ちながら164頁にわたる文章は続く。

 読んでいて、高次脳機能障害者への回復への定則は存在しない。一人一人異なる人生があるように、一人一人の回復への足取りも違うことに気づく。障害者自身が自らの弱さをどのように受け入れて行くか、また健常者が障害者の傷ついている心にどのようにして手を伸ばし続けることができるのか、そこに鍵があることを著者の言辞からうかがい知ることができた。

だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。(ピリピ2・21)

「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」(ルカ10・25〜28)

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