2011年12月31日土曜日

新しい主のいのちに預かろう!

最後の審判 ギュスターヴ・ドレ絵
私は・・・ラッパの音のような大きな声を聞いた。・・・「恐れるな。わたしは、最初であり、最後である。」(新約聖書 黙示1:10、17)

一年の終わりの日が来ました。

「終わりの日」と言うとき、私の心に憂いが広がります。年の初めには、三百六十五の大きな可能性が目の前に置かれていました。それが今ではことごとく過ぎ去り、ついに「終わり」の日を迎えてしまったのです。

そう思い巡らしている私に、突然、「ラッパのような声」が聞こえてきました。「わたしは、最後である!」そう仰せになるのは、よみがえられた主です。

「あなたは、最後のお方ですって? それはどういうことですか」と私は尋ねます。

すると、主はお答えになります。「一年の終わりの日が過ぎ去っても、わたしはなおここにいるのです。また、あなたの一生の終わりの日が過ぎて行っても、なおわたしはいるのです。たといこの世の終わりの日が過ぎ去っても、わたしはなお、いるのです。そして新しい世界が始まり、天の軍勢の賛美に、わたしが血をもって買い取った人々の声が和する時——その時、わたしは再び、最初になるのです。」

「ああ主よ! 私は今、信仰をもって、あなたの御体の一部分となりました。私自身のすべては過ぎ去ります。それでも、あなたはご自分の体の各部分をお捨てにはなりません」

主は言われます。「そのとおり。それゆえ、わたしに属する人々には、もう、終わりの日はなく、常に、わたしにあって新しいいのちがあるばかりです。」

 主よ! 我らを時間の流れから引き出してくださって、
ありがとうございます。あなたが我らを、血をもって、
神のものとして買い取り、我らに永遠のいのちをお与えくださいました。
それゆえ、新しい年を前にして、御手にすがり、こう申し上げます。
「主イエスに導かれ/永遠へと進みます。/
ただ主イエスがいますのみです」と。   アーメン

(『365日の主』ヴィヘルム・ブッシュ著岸本訳12月31日より。)

2011年12月30日金曜日

一年が終わろうとしています

「子よ。あなたの罪は赦されました。」(新約聖書 マルコ2:5)

一年が終わろうとしています。我々はどういう思いで一年を閉じましょうか。

ある人たちは、喜びも悲しみも飛び越えて行きます。また、新年に向かって、先のことだけを考える人もいるでしょう。

クリスチャンは、神の光の中に自分を置いて見ます。そうすると、過ぐる一年、いかに多くの罪、咎、背反を重ねてきたかがわかります。そして、もう一度新たに罪のゆるしを確認することが、最も大切だと思うようになります。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」(1ヨハネ1:7)と聖書は語っているのです。

これが最も重要であることを、かつて主イエスはこのうえなく明らかにお示しになりました。それは、数人の人たちが、中風の男をかつぎ込んだ時のことです。彼らはそのことのために、実に心を砕き、男が直ちにいやされることを切に期待しておりました。

ところが、イエスはまず、「あなたの罪は赦されました」と仰せになります。こんなに偉大なことは、主だけが仰せになれるのです。罪のゆるしを与えること、それは主だけがおできになれることです。

おそらく我々には、新しい年に対する多くの願い、大切なプラン、課題などがあることでしょう。しかし、まず主イエスに思いを傾けましょう。すなわち、最も大切なことは、古い罪を新年に持ち込まないこと、古い良心の重荷を閉じ込め続けないことです。

旧約聖書に、「あなたの神に会う備えをせよ」(アモス4:12)とあります。そうしようではありませんか。主の御光の中に立つ備えをしましょう。主とともに、過ぎ去った一年をたどりましょう。多くの咎を覚えるでしょう。しかし、主イエスは、そのような我々のためにも、釘あとのある御手を広げて、「あなたの罪は赦されました」と仰せになるのです。

主よ! 我らの生涯を整えるために、我らをお助けください。
アーメン

(『365日の主』ヴィヘルム・ブッシュ著岸本訳12月30日より。)

2011年12月29日木曜日

あなたの「クリスマス」は終わってはいませんか?

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。(新約聖書 1ヨハネ4:9)

 楽しいクリスマスももう終わります。ツリーの飾りも、商店のウインドーの飾りも片付けられます。

 さて私たちはどうしましょうか。

 子供たちがまだ小さかったころ、私は旅行の帰りには必ず、彼らに何かを買って来るようにしていました。

 ある日、そのような旅行から帰って来ると、子供たちは庭で遊んでいました。彼らは、スコップでブリキのふたを叩いて歌いながら、ぐるぐる回っていました。

 そして私を見つけると、大歓声をあげました。何よりもお土産が気になったのです。私が包みを開いて、中身を見せると、それは残念ながら彼らの気に入らなかったようです。つまらなそうにプレゼントを見つめていましたが、やがて男の子が叫びました。「おいで、ハンナ。太鼓たたきをしよう!」

 我々も同じことを、神のクリスマス・プレゼントに対してするのではないでしょうか。神はひとり子をお与えになりました。我々は、お祝いのシーズン中は、それに心を留めます。しかし、やがて、「太鼓たたきをしよう!」ということになります。そして、あたかもクリスマスのニュースなど聞かなかったかのように、子供の太鼓遊びほどにも重要と思えない、日常の喧噪に戻っていくのです。

 そんなことがあってよいはずがありません。神の愛がイエスにあって示されたというのです。このお方によって、我々は「生きる」ことができるのです。植物のように、あるいは石のようにではなく、真に生きることができます。この救い主によって、我々は、神からのいのちを持つことができます。

 そうです。クリスマスは「終わって」はなりません。この愛の光の中を歩み続けましょう!

 主よ! 我らを、祝福された民であり続けさせてください。アーメン

(『365日の主』ヴィヘルム・ブッシュ著岸本訳12月29日より。)

2011年12月28日水曜日

恵みの国に来れ!

クリスマスのものがたり フェリクス・ホフマン作から
そして急いで行って、・・・飼葉おけに寝ておられるみどりご(と)を捜し当てた。(新約聖書 ルカ2:16)

 羊飼たちは馬小屋の戸口にたどり着きました。息せき切って駆けつけたのです。胸は高鳴ります。ついに目的地に着いたのです。あとは戸を開くばかりです。

 この戸! 聖書には行間に記されるばかりです。が、実に重大な戸ではありませんか。

 我々が、この世の大物を訪ねようとするなら、まず門から入ります。それから、いくつもいくつもドアを通って行きます。そしてようやく——秘書嬢に会えたと思うと、彼女は言います。「先生は、ただ今、執務中です。」

 それにひきかえ、ベツレヘムの馬小屋の戸は! 羊飼たちは、事もなげに押し開けました。だれにも邪魔されずに。そして、もうそこが救い主の御前です。なんと簡単にお会いできることでしょう。こんにちもそうなのです。我々の人生の救い主、その御前までは、ただの一歩です!

 なんとみすぼらしいドアでしょう。しかし、それが、ふたつの世界を分かちます。外側は律法の世界。我々は——好むと好まざるとにかかわらず——神の律法のもとに生きています。そして律法が我々を告発します。我々は、自分が罪人であることを、充分に承知しています。神の律法を押しやって、絶えず自己弁護をし続けねばなりません。それでもなお、神の律法は、我らの良心に訴え続けるのです。

 羊飼たちは、しかし、戸を押して入りました。それだけで、彼らはもうひとつの世界、新しい、神の恵みの世界に入ったのです。彼らとともに、我らも、みどりごを拝し、賛美することができます。「恵みによる! もはやいかなる功績も/自分のわざも役立たず/ただ、愛のゆえに人となられた/このお方のいさおにより/彼の死が我らの救いとなった。」

 主よ! 恵みの国の王よ! 
 我らはあなたのものとされたく願います。 アーメン

(『365日の主』ヴィヘルム・ブッシュ著岸本訳12月28日より。)

2011年12月25日日曜日

喜びの知らせ

クリスマスものがたり フェリクス・ホフマン さくから
きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。(新約聖書 ルカ2:11)

 「きょう、救い主がお生まれになった!」—こんな素晴らしい知らせを伝える役を仰せつかった御使いは、どんな喜びをおぼえたことでしょう。

 喜びの知らせをもたらすことほど楽しいことはないからです。

 また、その知らせをどれほど簡単に語ったとしても、驚き怪しむに足りません。御使いは、退屈な、めんどうな説教はしません。彼の語ったことは、子供にもわかります。が、同時に、学者が一生を費やしても、そのことばの深みを窮め尽くすことはできないでしょう。

 「きょう、あなたがたのために、救い主がお生まれになった」—あなたがた!「神の正しいさばきに服すべきあなたがた。死に定められるべきあなたがた。多くの罪に埋もれてしまうべきあなたがた。善をなそうと願いつつ、悪を行なってしまうあなたがた。そのあなたがたのために、救い主がお生まれになった!」

 「救い主」—ギリシヤ語に即して訳すなら、「救助者」ということです。失われた世界の真っただ中に、力強い神の御腕が伸ばされ、我らを滅びから引き上げ、いのち、喜び、平和の岸辺、神の岸辺に携え行ってくださるのです。

 さらに、「きょう」、それは起こります! 先祖たちは、この日を待ち焦がれていました。が、ついにその日が来たのです。

 この知らせの偉大さを、だれが計り知ることができるでしょう!

 マティアス・クラウディウスはこう語っています。「これは奥義であり、我々はこれを窮め尽くすことができません。しかし、神から来たものであることは確かです。なぜなら、この知らせは、天の印を帯びており、神のあわれみにあふれているからです。」

 「人として生まれた方/主イエスよ、あなたをたたえます。」
                         アーメン

(『365日の主』ヴィヘルム・ブッシュ著岸本訳12月25日より。)

2011年12月21日水曜日

羊飼いダビデの裔(すえ)

聖書物語 ホフマン絵から
ヨセフも・・・ユダヤのベツレヘムという町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。(新約聖書 ルカ2:4、5)

 学生時代、私は哲学の講義に出ました。教授は最初の時間に、『哲学理解のプロレゴメナ』という題の本を紹介しました。それによって、哲学の大筋をつかむように、ということでした。「プロレゴメナ」とは「序説」という意味です。

 さて、きょうのみことばは、クリスマスのニュースに関する、そのような「序説」を含んでいます。これを知らなければ、クリスマスは、愛らしいおとぎ話になってしまうでしょう。

 ここには「ダビデの家系」、「ベツレヘム」ということが、明示されています。それによって、我々は偉大なこと、すなわち、神の救いのご計画に思い至るのです。

 ベツレヘムの野でダビデは羊の世話をしていました。そして「主は私の羊飼い」と歌ったのです。やがて主イエスは、「わたしが、この良き羊飼いだ」と仰せになります(ヨハネ10:11)。

 このダビデが、王となり、神の友となります。神は彼に約束して、彼の家系は「とこしえの王座」となる、と仰せになりました(2サムエル7:13)。「とこしえ」とは? いったいそんなものがどこにあるでしょう。

 しかし神はダビデに「永遠の王」をこの世に与えること、すべての権力はやがてこの王に服するようになること、など、ご自分のご計画をお示しになりました。このお約束が「ダビデの子」イエスにおいて成就したことを、我々は知るのです。

 それゆえ、クリスマスの記事の、この最初の数節は、我々の救いに関する神の大いなるご計画を語っています。このご計画が、我々の祝福を目的としていることを知るのは、なんと素晴らしいことでしょう。

 主よ! 救いのご計画を理解するばかりか、
 その中に加えられる者としてください。   アーメン

(『365日の主』ヴィヘルム・ブッシュ著岸本訳12月2Ⅰ日より。スポルジョンは今日の「朝ごとに」の箇所で、そのダビデの最後のことばを紹介している。「まことにわが家は、このように神とともにある。とこしえの契約が私に立てられているからだ」2サムエル23:5。永遠の王が私にとこしえの契約を結ばれる。ただ一つ主への信頼があれば、これが「クリスマス」だと私たちは理解でき主を心から崇められるのでないか。) 

2011年12月20日火曜日

主のあわれみにより目的地に!

土曜日、月曜日と同じ轍を踏む経験をした。

 土曜日は、はるばる関東から一人の滋賀県にお住まいの老人の方を尋ねた。一週間前、「近江八幡喜びの集い」で初めてお会いした方だった。ちょうど娘さんも一緒であり、お二人と話している間にその方が駅前の比較的近い所に住んでいらっしゃると聞いた。独り住いをなさっていることもあり、イエス様を中心にしたお交わりがいただけないかと思い、日曜日近江八幡の礼拝に出席することもあり、お訪ねしたかったのだ。

 幸い字名「垣見」という名称を承っていた。最寄りの駅も一度降りたことがあるし、地名番地も承っているのでてっきり楽勝だと勢い込んで、文明の利器iPhoneを片手にスタートした。ただ朝に出立った鈍行列車の旅だったので、現地に降り立ったときはすでに夕闇が迫っていた。その上、件(くだん)の場所は私が当初想像していたよりは意外に遠かった。そして、ほぼiPhoneの示す地点についてそのあたりの人家を捜したが容易に見つからなかった。

 やむを得ずご本人に事の次第を話して電話して尋ねた。ところが私の探しまわったのは駅の反対側であった。結果的には番地入力が私の操作ミスで反対側の「垣見」を捜す羽目になったのだ。聞いてみると、もう一度駅まで引き返し、向こう側に出るということだった。道々教えていただいたお店の屋号をお聞きしたので、時間はかかったがそれを頼りに結局ほどならず、お宅に伺うことができた。「垣見」は散在していて私が頭の描いていたのとちがい、駅前の一区画だけでなく遠くまで広がっていたのだ。福音を紹介しともに祈ることができ、その上日曜日には一緒に近江八幡へ行こうということになった。幸いな交わりであった。

 これが土曜日の経験であった。ところが月曜日にまたまた同じ経験をしてしまった。

 今度は滋賀から関東に帰るのに、東海道線を使うのをやめて、名古屋から中央線に入り両側の山々に抱かれながらのコースを選んだ。もちろん時間はかかるのだが、今度は友人の奥様であり私の中学時代の先輩でもある方の住まう神奈川県の「寸沢嵐」を訪ねたい思いがあったからである。

 この地は全く初めてで最寄りの駅も降り立つのは初めてであった。ただもうここ数年心の中では何度も行きたい、行きたいと思い先輩と交わりたいと思っていた土地だった。時刻表を調べて早朝滋賀を出たのだが、目的地に着いたのは四時を過ぎていた。山間に囲まれていたその地は、平地の町にくらべより一層時間の割には夕闇が迫っていた。駅前に観光案内所があって「寸沢嵐」のバスを使っての行き方を尋ねてみると意外に簡単に行けることがわかった。「寸沢嵐」は「すあらし」と読むこともついでにわかった。時間も遅くなったので、ご機嫌うかがいの挨拶だけをして帰るつもりで、あらかじめ電話もしないことにした。

 10数分バスに乗ってその停留所に着いた。暗がりの中iPhoneで操作するのだが目立つ建物が見つけられず弱った。幸い目の前の交番が目に入り、飛び込んだ。ところが交番は生憎その時間は無人で何かあれば電話で尋ねるようにと言うメモ書きがあった。早速、番地と友人の家の苗字を言ったが、電話の向こう側で警察の方が説明するのに手間取っておられることが伝わって来た。

 ちょうどその時、一人の方が交番に入って来られ、私が「寸沢嵐」の人家を捜しているのを聞いておられた。土地の人の様子でその方は自宅の前に放置している自転車の扱いを相談に交番に来られたのだが、それも出来ず代わりに自分が案内してあげようと言われた。それも乗って来た車に乗せてあげようという申し出であった。恐縮して辞退を申し上げるのだが、その方は遠慮するなと強く言われるので、お言葉に甘える羽目になった。ところがいざ車に乗せてもらうと、警官の方の説明を聞いた感じではすぐ目的地に着けるはずであるのに随分遠いことに気づいた。その上かなりの坂道であ る。こんな道を歩いて、しかも夜道を歩いてはとても上れないことに気づかされ、自分の無鉄砲さが恥ずかしかった。

 その方は私の説明が要領を得ず、心当たりの方の家に行って聞いてくださった。ますます身も知らない方々のお手を煩わせるばかりで恐縮しっぱなしであった。新しいその方はお風呂に入浴中にもかかわらずお風呂場から説明をしてくださるのだが、結局わからず仕舞いで車に帰り、今度は別の方の家に連れていってくださった。ところが次の方は私の友人の名前と家の所在地を知っておられたのだ。

 ところが小高い丘陵のようなところで道が入り組んでおりたどるのが難しいと言われ、ご自分が同乗して案内してあげると言われる。全く見ず知らずの私をこうして二人の方が二人掛かりで案内して下さったのだ。もう私は穴があったら入りたいくらい恐縮しっぱなしであった。やっと玄関先にたどり着き友人の奥様に挨拶し、場所が分かったからまた出直して来ますと言って這々(ほうほう)の体(てい)で辞去した。

 下の道路にはその方が車で待っていてくださり、タクシー並みに駅まで送ってやると言われる。そんなにしていただくのは申しわけないと断ると遠慮すること無い、自分もひまだったし何かの縁だから、 と言われるのだ。こうして駅まで4キロほどの道を山地を降り、湖岸へと車を走らせてくださった。

 道々、この町の大雑把な特徴やご自身の出身地水戸のことも話してくださり、簡単になぜこの町に住んだかまで話してくださり、駅に戻って来た。降りる時、お名前を教えてください、と言うと、いいじゃないか、と言われる。それでは困ると言うので、やっと名前を教えていただいた。今までいろんな親切を人様からいただいているが、こんなに親切にされたのは生まれて初めてのような気がする。どうしてこのように人々が名も知らない私のために働いてくださったのか不思議でこの地の人々がそのようにして生きておられるのかと感激さえした。

 あわせて自分のいい加減さをこの二つの経験を通して知った。地名と番地を知っていてもその土地には広がりがあること、「垣見」がそうだった。駅を挟んで両側を離れた地域をふくんでいるとは思いもしなかった。一方、地名と番地を知っただけでその土地の性状を知ったことにならぬと言うこと、すなわち丘陵地であるかどうかまで知るべきことを知った。帰って来てから地形図を見て「寸沢嵐」が「垣見」と同じく他の字と入り組みながら反対方向に広がっており、その上、海抜高度250m前後の丘陵地で道路から5、60m上がらねばならないことを知った。

 しかし、そのような私の側の轍にもかかわらず、主が働かれるとこれはまた全く主を知らない人々も目的のためには動かされるのだということを体験的に知らされた思いであった。

ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜わった。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神、主がその者とともにおられるように。その者は上って行くようにせよ。』」(旧約聖書 2歴代誌36:22〜23)

恐るべき方がどうして見ばえもないお方に?

二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。
そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」(新約聖書 マタイ21:9)

 我々は、イエスのエルサレム入城の際の大群衆にたまたま巻き込まれた、ローマの大新聞の記者がいた、と想像してみました。さて、彼はこの事件をぜひとも報道したいと考えたことでしょう。しかし、残念ながら、まるでわからないことだらけでした。「ろばに乗っておられる方が、神から遣わされた世の救い主だ、と預言されていたお方ですよ」とだれかが教えてくれた以上、何もわかりませんでした。

 さて、私は想像するのですが、記者は、喜び叫ぶ人々のひとりをつかまえて、そっと尋ねます。「この、世界の救い主は、少し哀れすぎはしませんか。」

 すると、イスラエルの人は笑いながら答えます。「でも、それがあの方の一番素晴らしいところです。神は偉大で恐るべきお方です。シナイの山で我々の先祖たちと話そうとされたとき、彼らは逃げ出したほどです。その大いなる神が、ご自分を低くされ、このイエスにあって地上にお見えになってくださったのです。私は、自分の子供たちをイエスのみもとに連れて行きました。イエスは彼らを祝福してくださいました。よくお考えなさい。こんなにご自分を低くされることこそが、イエスの一番素晴らしいところなんです。」

 記者はさらに尋ねます。「いったいなぜ、あなたがたはそんなに喜ぶのですか。あなたがたの境遇は、イエスのおかげでどれほどかよくなったというわけでもないでしょう。」「とんでもない。まるで変わりました」と男は叫びます。「私は、神から遠い者で、しかもその御怒りのもとにあった者です。しかし今は—このイエスが、私を神の子供としてくださったのです。さあ、では私は、イエスのあとについて行かなければなりませんので。さようなら。」
 
 ローマ人は、よくわからないというような顔つきで、あとに残されます。

  主よ! あなたを知り、あなたに知られて、あなたを喜ぶ群衆の中に、
  我らをもお加えください。アーメン

(『365日の主』ヴィヘルム・ブッシュ著岸本訳12月20日より)

2011年12月16日金曜日

主よ、あなたを愛します!

この花の上にお乗りください!
そこで、弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにした。そして、ろばと、ろばの子とを連れて来て・・・イエスはそれに乗られた。すると、群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き・・・。(新約聖書 マタイ21:6〜8)

主イエスがエルサレムに入城されたさまは、アドベントの行列と言えるでしょう。こんにちも、このような行列を見ることができるでしょう。けれども、そのほとんどの場合に、肝心の方、主イエスご自身は不在です。きょうのみことばでは、主はその真っただ中におられました。彼をたたえるために、人々は最大のことをしました。自分の上着を道に敷いたのです。オリエント世界で、上着とは、大きな、美しく、織られた布だったので、こういうことができたのです。

さて、金持ちの素晴らしい衣も、貧乏人の粗末な着物も、同じように地面に敷き詰められました。若者たちの色とりどりの着物も、馬追いの、粗末な着物も同じにです。みな等しく、「主イエスよ! あなたを愛します」と口をそろえて賛美します。ルターは、あるみことばをこう訳しています。「キリストを愛することは、すべての知識にまさる」と。

ある婦人が、隣の主婦との争いについて私に打ち明けました。そのとき、こう言いました。「先生。私はとてもクリスチャンらしく育てられました。けれどもお隣の奥さんは、まるで何もお信じになっていないのですよ。」私はいやな気がしました。「クリスチャンらしく育てられる」なんて! それでいて、救い主に対する燃えるような愛は、跡形もないのです。もしそうであったら「隣人」を愛したでしょうに。

主イエスへの愛をあらわそうと、自分の上着を道に広げた人たちを前にして、我々は恥じなければならない、と私は思います。彼らより我々のほうが、主を愛すべき理由を、はるかに多く持っているはずです。なぜなら我々は、この人々がまだ知り得なかったこと、主が「世の罪を取り除く神の小羊」であることを知っているからです。我らの心に、アドベントの賛美がわき起こるならどんなに素晴らしいでしょう。—「主を愛そう。主がまず我らを愛されたから」と。

主よ! 我らの冷淡さをおゆるしください。アーメン

(『365日の主』ヴィヘルム・ブッシュ著岸本訳12月16日より。水曜日の家庭集会で一人のご婦人が証してくださいました。「三人目の赤ちゃんをみごもったが流産の恐れが生じた。安静にしているべきだったのに、胎内のいのちより、コンサート行きたさの余り、出かけ、結果的に翌日婦人科に行き、堕ろさざるを得なくなった。何とも言えない後ろめたさ、私はいのちを殺めたとの自覚のもと苦しまされた。この時、はじめてイエス様の十字架は私のこの罪の身代わりであったことがわかった。それまでは十字架は全人類の罪の身代わりの死だとしか受け止めていなかった。私の罪のためであった、と知り、主の前に悔い改めた。赦しの愛が自分のうちにどっと注ぎ込んできた。主はこんな私を愛してくださった。その主の愛から離れることはありません」と。)

2011年12月15日木曜日

シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。

沼津から国府津までの御殿場線車中から見た富士山です。(12/12)
「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。・・・』」(新約聖書 マタイ21:5)

 新約聖書の記事には、注目すべき一貫性があります。それらの記事はいずれも、ある一回限りの歴史的事実を伝えています。すなわち、ほぼ二千年昔に起こった事件を語っているのです。しかし、大切なことは、たとい、聖書の記事が、ある一回限りの過去の出来事を伝えているとしても、それらは繰り返し、こんにちでさえも起こることなのです。

 主イエスは一度だけゴルゴダの十字架につかれました。が、それ以来、世界は繰り返し、主を釘付けにしています。主は一度だけ葬られました。が、それ以来、どの世紀も、主を葬り去らなかったことはありません。そしてまた、すべての世代が、主がいかに力強くよみがえりたもうかを、新たに経験しました。

 一度だけ、主はナインの町の門で、涙にくれる母親に、「泣くな!」※と仰せになりました(ルカ7:13)が、こんにちに至るまで、主は悲しむ人々に、慰めをもって声をおかけになります。主は一度だけナインの若者を生き返らせなさいました。が、それ以来、何百万という人が、「我らは、死からいのちに移されたことを知っている」とあかししてきました。

 イエスのエルサレム入城についても同じことが言えます。これは古い出来事です。全くそうです。けれどもまた、こんにち、我々の騒がしい、刺激的な、支離滅裂な世界で、毎日起こっていることでもあるのです。「見よ。あなたの王がおいでになる。」これは事実です。実際に起こることです。我々がそれを認めるかどうかに、すべてはかかっています。

 我々の心には、多くの疑問、悩み、問題が満ち満ちていることでしょう。が、「主は来られた、主は来られた。/愛と歓喜に満ち満ちて/すべての悩み、不安をしずめるために/あなたのことをすべて知る主は来られた」という賛美を聞くなら、すべての問題の上に、すべてを全く変える光が投ぜられます。

 主よ!
 エルサレムへの入城を、きょう我らのうちに
 再現してください。そうすれば我らの心は喜びにあふれます。
                                                                       アーメン

(『365日の主』ヴィヘルム・ブッシュ著岸本訳12月15日より。※現行の新改訳聖書では「泣かなくてもよい」とやややさしげな言い回しになっている。昨日も家庭集会でベック兄からクリスマスメッセージをお聞きしたが、様々な問題悩み困難がある中で、気持ちに奪われることなく、意志でもって主を喜ぶことです、とハバクク3:17を引用され奨励されたのだが、根源は同じだろう。王を迎えるためには、たましいを失って主の来臨を喜んだ博士、羊飼い、シメオン、マリヤ、ヨセフ、エリサベツに見習うべきで、たましいを失うのを恐れて主の来臨を無視した宿屋の主人、ヘロデ王、大多数の主の来臨に無関心な人々は惨めであることが示された。ゼカリヤ書2:10「シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。」

2011年12月14日水曜日

「私」の王はこの季節、お姿をあらわしてくださった!

琵琶湖岸のホテルから対岸の比良山系を仰ぎ見て(12/11)
『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。・・・』(新約聖書 マタイ21:5)

 願わくは、我らがこのみことばを見過ごしにしませんように!

 ノルウェーの首都オスロで、かつて私は愚かなことをしました。私は王宮のほうへ散歩に出かけました。ちょうどそこにたどり着くと将校が走り回り、兵士らが整列しているのが見えました。尋ねてみると、王さまが、議会の開会式に着飾ってご出発だということです。若い人たちが物珍しげにたむろしていました。私はしめたと思いました。「ひとつ、近くで王さまを見よう。」

 突然、若い人たちが駆け出しました。私もあとを追いました。すると彼らは、やたら塗ったくり、着飾ったひとりの女性のまわりに押しかけていました。見ると、その女性はめんどうくさそうにサインをしていました。「あれはだれですか。」そう尋ねると、「あれは、有名な映画女優のだれだれですよ」ということでした。三十年前には有名であったが、今ではもうすっかり忘れられた女優でした。私はあわてて引き返しました。王さまを見たいと思ってです! ところが—驚いたことに—王さまはその間に出発してしまったあとでした。私は王を見過ごしてしまったのです。

 さて、みことばは、きょう、「見よ。あなたの王がお見えになる—見過ごしにするな。王はあなたのところへおいでになる!」と語っています。地上の王ではなく、天地の王なるお方について語られているのです。彼は、我々が思う以上のことを、我々のためにしてくださいました。ご自分のいのちを我らにお与えになったのです。彼は、すべての罪から良心を解き放ち、いのち、喜び、神との平和、永遠の救い、その他ありとあらゆるものをくださいます。

 王がおいでになる! が、オスロで私が経験したようなことは簡単に起こります。我々を誘惑するものがたくさんあるからです。それゆえ、「見よ!」と言われるのです。止まりなさい! 注目しなさい! このお方を見過ごさないように!

  主よ! いったい何が重要であるかを、はっきりと悟るように、
我らを覚ましてください。             アーメン 

(『365日の主』ヴィヘルム・ブッシュ著岸本訳12月14日より。私たちが気づかないだけで、いつも「私たち」の王は私たちが王を認め、王のところに帰ってくることを待っておられる。鈍い私にも王は42年前のクリスマスの季節に姿をあらわしてくださった。それまで、私の王は「私」であり、私の信奉する様々な「思想家」—夏目漱石、吉本隆明、森有正、マルクス、ウェーバーたち—であった。その彼らを一目見ようと走って行って、まことの王は見逸れてばかりだった。その私に、まことの王は「わたし」が王だよとご自身をあらわしてくださった。)

2011年12月13日火曜日

クリスマスはなぜ喜びなのか

日の出前の湖東の山並み、左正面は近江富士と称す三上山(12/11朝)
これは、預言者を通して言われたことが成就するために起こったのである。「・・・『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。』」(新約聖書 マタイ21:4、5)

 『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。』—これこそまさしく、ご来臨(アドベント)の知らせです。

 しかし、この待降のシーズンに、もし我々がこの時機を本気で受け止めるなら、恐らく我々は苦悩に直面するでしょう。

 神の御子はすでに、この人間の世界においでになりました。そして十字架上で「すべては完了した」と叫ばれました。それから御父のご栄光のみもとにお帰りになりました。これらすべてを、我々は信仰をもって受け入れることができ、全生涯を救いの事実という、この確かな土台の上に築くことができます。

 それであるなら、「あなたの王がおいでになる」というご来臨のニュースが、我々になお、何を語らんとするのでしょうか。このアドベントのシーズンは、ただ、あの信仰の父祖らが、救い主のおいでを待っていた過去の時代を、鏡にうつすごとく再現するだけのことなのでしょうか。それ以上の意味はないのでしょうか。

 そうではありません。「あなたの王がおいでになる」と、毎年我々に告知される、という事実は、すなわち、福音がいかにダイナミックな事柄であるかを示しています。福音は人を動かすいのちです。いちど確かにこの世に来られたように、主は確かに、絶えず来たりたもうお方です。主は、飢え渇いて救いを待ち望む心に来られます。主は、信じる人の生涯に絶えず新たに介入するお方です。ですから、アドベント・シーズンは主イエス・キリストの、力に満ちたいのちを示します。常に新たに、繰り返し、「見よ。あなたの王がお見えになる」という叫びは、この世と、信じる者たちの群れとに、恐怖と喜びとをもたらすのです。

  主よ! あなたの御国こそ、もっともいのちに満ちた
  ものであることを、喜び感謝します。    アーメン

(『365日の主』ヴィヘルム・ブッシュ著岸本訳12月13日より。今日の吉祥寺でのベック兄のメッセージは「主は私たちに何を語っておられるか」がその題名であった。主は死んでおられない、永遠に生きておられるお方であり、私たち一人一人に今日も語りかけておられる。だから私たちは真剣に主が語られる真理を求めねばならない。求めた者には必ず平和と喜びと安らぎが来、礼拝せざるを得なくなる。2000年前の降誕のおりの博士しかり、羊飼いしかり、老聖徒シメオンしかりであった。しかし今も昔も真剣に求めようとしない中途半端な生き方をする者にクリスマスの喜びはない。というのが話の趣旨であったように聞いたが、改めて己が姿を顧みざるを得なかった。今日のブッシュ氏と一脈相通ずるものを感じた。)

2011年12月9日金曜日

向こうの村へ行きなさい

St. Girgen(Wolfgangseeの北西に位置する)から見た湖岸と山並み by Keiko.A
それから、彼らはエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのペテパゲまで来た。そのとき、イエスは、弟子をふたり使いに出して、言われた。「向こうの村へ行きなさい。・・・」(新約聖書 マタイ21:1〜2)

 この事件の結末は、エルサレム全市が興奮に巻き込まれることになります。主イエスに対する歓呼の声が町中をうずめ尽くします。人々がこぞって、この方をたたえるのです。そうです。この事件の結末は壮大なものです。

 けれども、その発端は、取るに足りない、たわいないものです。ふたりの弟子が、向こうの村に行ってろばを捜すようにと、命令される、それだけのことです。

 しかし、このような発端は、主イエスにかかわる場合の、典型的なものだと言えるでしょう。全くひそやかに、静かに、事が始まるのです。主がこの世においでになったとき、それは非公開のようにして起こりました。ほんの二三人の羊飼いに知らされたにすぎません。また、よみがえられたのも、全く内密にさりげなく起こったのです。

 神の御国のすべてのみわざは、世界宣教も国内宣教も、ごくささいな目立たない発端から始まったものです。

 主イエスも、こうおっしゃいました。「天の御国は、からし種のようなものです。・・・どんな種よりも小さいのですが」、やがて、驚くほどの力を持ち、大きな木にまで成長する、というのです※。

 この世の、ほとんどのことは、この逆を行きます。鳴り物入りの幕開けが、早晩、悲しい結末を迎えるのです。

 神の知恵を知ろうとする人にとって、これは大切なことです。彼らは、にぎやかさにだまされないで、小さな事柄の中に働きたもう、主イエスの御手に目を注ぐべきです。

  主よ! あなたのみわざをさやかに見定める目を、
  我らにお与えください。          アーメン

(『365日の主』ヴィヘルム・ブッシュ著岸本訳12月9日より。※一般にはからし種をこのように取る方が多いが、聖書全巻の用法から「からし種」を悪魔の働きとする考え方もある。)

2011年12月8日木曜日

この方は正しい方、救いを賜わる方!

イエスとサマリヤの女(ギュスターヴ・ドレ画 )
見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、・・・。(旧約聖書 ゼカリヤ9:9)

 旧約聖書中の、このご降誕の約束には、注目すべき点があります。それは、「正しい」「救いを賜わる」という、相反するふたつの概念が並んでいることです。そして、まさにそのことは、主イエス・キリストがどんなお方であるかを、あらわしています。

 「正しい方」—ある殺人事件の裁判について、あるジャーナリストが、こう語っています。「最もひどい罪は、人間が人間をさばこうとすることだ」と。彼の言い分は全く正しいものです。人間に正しいさばきができるでしょうか! しかし今や神の御子がこの世に来られました。「正しい方」と聖書は言います。そうです。このお方には、さばく権利があり、さばくことができます。そして、事実さばきたもうのです。

 新約聖書は、イエスのみそばに近づいた人たちが、真相をあらわにされ、それを認めさせられる、という事件に満ちています。あの富める青年に対し、主イエスは、金が神になっていることを指摘したまいます。我々にも当てはまるのではないでしょうか。ペテロに対しては、彼が神のことよりも自分のことを考えている、とイエスははっきり仰せになります。我々もそうではないでしょうか。あのサマリヤの女は、その放埒な生活が、大変に恥ずかしいものであったことを悟ります。我々にも言えることではありませんか。サウロは、主イエスの光に照らして、この非の打ちどころなき自分が、実は人殺しであることに気づきます。

 まさにイエスは「正しい方」です。主は我々の義を完膚なきまでに打ち叩かれます。

 この経験をした人は、恐れおののきつつ尋ねます。「私はどうすればよいのでしょう」と。答えは、この正しい方にあります。なぜなら、この方は同時に「救いを賜わる」方でもあるからです。この方が十字架につかれた、あのゴルゴタへ行きましょう。我ら罪人をゆるして、神の御前に立ち得る義人とするため、主は死なれたのです。

  主よ! あなたのものとされて、救われるため、
  我らを助けてください。          アーメン

 (『365日の主』ヴィヘルム・ブッシュ著岸本訳12月8日より。)

2011年12月7日水曜日

救いを賜わる王が来られる!

クリスマスリース(知人の作品)
見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、・・・。(旧約聖書 ゼカリヤ9:9)

 街頭の広告柱の傍らに立って、考えこんだことがあります。そこには、コンサート、ダンスパーティー、ウインタースポーツ、洗濯機、たばこ、と、ありとあらゆるポスターが貼ってありました。

 私は思いました。「人々はアドベント(待降節)のことなど、気にかけていないのだ。『見よ。あなたの王があなたのところに来られる』という知らせが満ち満ちているのに、それをキャッチするアンテナがないのだろうか。」「戸よ、上がれ。門よ、開け。/栄光の王がおいでになる。/王の王なる方が/救いといのちを携えて。/そのために、叫べ、喜んで歌え!」

 しかし人間は、そう簡単に感動しません。天国の王がおいでになる! 「それがどうした?」というくらいです。「それがどうした?」—言い換えれば、「そうしたら、我々にいったい何をしろ、というのだ?」ということです。

 それに対して、きょうのみことばが何の解答も与えないことは、注目に値します。ただ、「見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わる方」と言うばかりです。それ以上、一言も語りません。

 「いかにして、あなたを迎えるべきでしょう。/いかにして、お会いすべきでしょう」と、待降の賛美に歌い込んだ、あのパウル・ゲルハルト※も、同じ当惑を覚えたかのようです。

 しかし、彼はその答えを知っていました。願わくは我々も、それをはっきり知る者でありたいものです。答えはこうです—ただ、王であり、救い主であるイエスを、受け入れること。これは、教理や議論にとどまってはなりません。実際に我々にかかわることなり、この方を受け入れるのです。哲学者ハーマンはこう言いました。—「イエスなく生きるくらいなら、頭と心なしに生きるほうがましだ。」

 それゆえ、我々は「それがどうした?」と言わない者になりましょう。そして次のように祈りましょう。

  「我が心に/あなたへの道を作りたまえ。」アーメン

(『365日の主』ヴィヘルム・ブッシュ著岸本訳12月7日より。※パウル・ゲルハルト〈1607〜76〉は賛美歌107番 、136番「血潮したたる」などの賛美歌作者としても著名。)

2011年12月6日火曜日

主であるキリストを見る幸い、ここにあり!

死を前にして、書かれたことば「これで十分だ」※
(シメオンは)主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。(新約聖書 ルカ2:26)

 このみことばには、全く驚かされます。

 なぜなら、主キリストにお会いしないまま死を迎えるということが、起こり得るからです。神の御怒り、罪、永遠の滅びから救い出す方を知らないで死ぬ—それはなんと恐ろしいことでしょう。

 死は子供だましではありません。人間は幾たびも、死は自然の成り行きだと思い込もうとしてきました。しかし、死の恐怖を追い払うことは成功しませんでした。

 それは無理もないことです。死は生物学的な成り行き以上のことだからです。聖書は、「死は罪から来る報酬だ」と言っています(ローマ6:23)。死は、我々が罪人であり、神の御怒りが罪の世界にのしかかっていることの、動かせないしるしなのです。

 それゆえ、死には恐れが伴います。

 そして、死のあとに何が来るでしょう。一生涯、死の餌食を奪い返すために戦った、ひとりの医者が、こう言いました。「死はすべてのものを終わらせるピリオドであったならどんなによいだろう!しかし、やつは死にゆく人の傍らで不気味に笑い、『これからどうなるのだ』と尋ねる、疑問符なのだ」と。

 しかしながら死は、終止符でも疑問符でもなく、コロン(:)のしるしのように、あとにこう続きます。すなわち、死:「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)。

 そして、救い主、贖(あがな)い主もなく、罪のゆるしも、生ける望みもなく、すべての人がこれに遭遇するとしたなら! それはなんと恐ろしいことでしょう。

 シメオンとともに「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。 私の目があなたの御救いを見たからです」(ルカ2:29、30)と言うことのできる人は、幸いです。

  主よ! 冷たい死の手につかまらないうちに、我らをいのちへ
  導いてください。
                         アーメン

(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著岸本訳12月6日より。※10月28日、一人のご老人が天に召された。その二日前病院を見舞った宣教師ベックさんから、福音をお聞きになった。しかしその方は生憎、耳がご不自由であった。同行した私は、一枚の紙にベックさんの言われたことば「イエス様、ごめん。それで十分だ」と書いてさしあげた。ご老人はその文句に一々うなずかれ、それだけでなく深々と感謝の意を表するために何度も何度もベッドの上で私たちに礼をされた。そして今度はご自分で、私の筆を取り上げて「これで十分だ」と書かれた。この方の死を前にした生き方はまさしくシメオンそのものであった、と言えよう。)