2011年12月6日火曜日

主であるキリストを見る幸い、ここにあり!

死を前にして、書かれたことば「これで十分だ」※
(シメオンは)主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。(新約聖書 ルカ2:26)

 このみことばには、全く驚かされます。

 なぜなら、主キリストにお会いしないまま死を迎えるということが、起こり得るからです。神の御怒り、罪、永遠の滅びから救い出す方を知らないで死ぬ—それはなんと恐ろしいことでしょう。

 死は子供だましではありません。人間は幾たびも、死は自然の成り行きだと思い込もうとしてきました。しかし、死の恐怖を追い払うことは成功しませんでした。

 それは無理もないことです。死は生物学的な成り行き以上のことだからです。聖書は、「死は罪から来る報酬だ」と言っています(ローマ6:23)。死は、我々が罪人であり、神の御怒りが罪の世界にのしかかっていることの、動かせないしるしなのです。

 それゆえ、死には恐れが伴います。

 そして、死のあとに何が来るでしょう。一生涯、死の餌食を奪い返すために戦った、ひとりの医者が、こう言いました。「死はすべてのものを終わらせるピリオドであったならどんなによいだろう!しかし、やつは死にゆく人の傍らで不気味に笑い、『これからどうなるのだ』と尋ねる、疑問符なのだ」と。

 しかしながら死は、終止符でも疑問符でもなく、コロン(:)のしるしのように、あとにこう続きます。すなわち、死:「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)。

 そして、救い主、贖(あがな)い主もなく、罪のゆるしも、生ける望みもなく、すべての人がこれに遭遇するとしたなら! それはなんと恐ろしいことでしょう。

 シメオンとともに「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。 私の目があなたの御救いを見たからです」(ルカ2:29、30)と言うことのできる人は、幸いです。

  主よ! 冷たい死の手につかまらないうちに、我らをいのちへ
  導いてください。
                         アーメン

(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著岸本訳12月6日より。※10月28日、一人のご老人が天に召された。その二日前病院を見舞った宣教師ベックさんから、福音をお聞きになった。しかしその方は生憎、耳がご不自由であった。同行した私は、一枚の紙にベックさんの言われたことば「イエス様、ごめん。それで十分だ」と書いてさしあげた。ご老人はその文句に一々うなずかれ、それだけでなく深々と感謝の意を表するために何度も何度もベッドの上で私たちに礼をされた。そして今度はご自分で、私の筆を取り上げて「これで十分だ」と書かれた。この方の死を前にした生き方はまさしくシメオンそのものであった、と言えよう。)

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