2011年12月31日土曜日

新しい主のいのちに預かろう!

最後の審判 ギュスターヴ・ドレ絵
私は・・・ラッパの音のような大きな声を聞いた。・・・「恐れるな。わたしは、最初であり、最後である。」(新約聖書 黙示1:10、17)

一年の終わりの日が来ました。

「終わりの日」と言うとき、私の心に憂いが広がります。年の初めには、三百六十五の大きな可能性が目の前に置かれていました。それが今ではことごとく過ぎ去り、ついに「終わり」の日を迎えてしまったのです。

そう思い巡らしている私に、突然、「ラッパのような声」が聞こえてきました。「わたしは、最後である!」そう仰せになるのは、よみがえられた主です。

「あなたは、最後のお方ですって? それはどういうことですか」と私は尋ねます。

すると、主はお答えになります。「一年の終わりの日が過ぎ去っても、わたしはなおここにいるのです。また、あなたの一生の終わりの日が過ぎて行っても、なおわたしはいるのです。たといこの世の終わりの日が過ぎ去っても、わたしはなお、いるのです。そして新しい世界が始まり、天の軍勢の賛美に、わたしが血をもって買い取った人々の声が和する時——その時、わたしは再び、最初になるのです。」

「ああ主よ! 私は今、信仰をもって、あなたの御体の一部分となりました。私自身のすべては過ぎ去ります。それでも、あなたはご自分の体の各部分をお捨てにはなりません」

主は言われます。「そのとおり。それゆえ、わたしに属する人々には、もう、終わりの日はなく、常に、わたしにあって新しいいのちがあるばかりです。」

 主よ! 我らを時間の流れから引き出してくださって、
ありがとうございます。あなたが我らを、血をもって、
神のものとして買い取り、我らに永遠のいのちをお与えくださいました。
それゆえ、新しい年を前にして、御手にすがり、こう申し上げます。
「主イエスに導かれ/永遠へと進みます。/
ただ主イエスがいますのみです」と。   アーメン

(『365日の主』ヴィヘルム・ブッシュ著岸本訳12月31日より。)

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