2010年3月31日水曜日

それは水曜日のことだった


さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンがはいった。ユダは出かけて行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにしてイエ スを彼らに引き渡そうかと相談した。彼らは喜んで、ユダに金をやる約束をした。(新約聖書 ルカ22・3~6)

 今週は今年の受難週に入っている。受難週は主イエス様の十字架の死を思い、私たちそれぞれが自分の罪を思うのにもっともふさわしい時であろう。ジェームズ・ストーカーの『キリスト伝』(村岡崇光訳156頁)から以下引用する。

 イスカリオテのユダは、人類の物笑いの種である。ダンテはその作品「地獄の異象」の中で、サタン自身と一緒に最も苦しい刑罰を受けるただ一人の者として、地獄におちた亡者どもの中で彼を一番低い位置に置いている。そしてこの詩人の評定は、同時に人類の評定でもある。

 とはいっても、彼は全く理解や同情すらないような極悪非道の男ではなかった。彼の下劣な驚くべき堕落の歴史は、完全に理解できる。他の使徒たちと同じように、政治革命に参画して、地上の王国では名誉ある地位を占めることを期待して、イエスの弟子に加わったのだった。かつて、ユダのどこかに、ある高潔な熱心とイエスへの愛着があったからこそ、イエスは彼を使徒に選ばれたのであろう。彼が人並みすぐれた精力家で、金銭の管理がうまかったということは、彼が使徒団の会計係に選ばれたという事実から察せられよう。

 しかし彼の性格の根底にはガン腫病ができていた。それが徐々に、彼に備わっていた一切の優秀なものを吸収していって、暴虐な激情と変わった。金に対する愛がそれだった。彼は、イエスが弟子たちの必要のためや、日々接しておられた貧者に施すために友人から受けられた小額の献金を、少しずつ着服してこの菌を養った。彼は、新しい国の大蔵大臣になった暁には、その菌に思う存分ふるまってやれることを夢みていた。

 他の使徒の考えも、初めは彼と同じように世的なものであったろう。しかし彼らと主との交わりの歴史は、まるっきり異なっていた。彼らはますます霊的になり、彼はますます世俗的になっていった。もっとも彼らとても、イエスの在世中は、地上の国を離れて、霊的な意味での天国の概念にまでは達し得なかった。しかし主がその物質的考えに加えるように教えられた霊的な要素は、いよいよ目立ってきて、ついに地上的なものを駆逐し、あとには殻のみが残り、それも時がくれば、潰されて吹き飛ばされるべきものであった。

 だがユダの現世的な考えはいよいよひどくなり、霊的な面は、一つ一つと除かれていった。自分の思っている天国がいっこうに来ないのが、もどかしかった。説教やいやしは、時間の浪費のように思えた。イエスの清純さ、脱俗的態度がはがゆかった。どうしてイエスは、いますぐ天国をもたらされないのだろう。説教なら、それからでも好きなだけできるのに、と思った。

 最後には、自分が望んでいるような天国は、来ないのではないのかと疑いだした。だまされたと思って、主を侮るばかりか、憎むことさえしだした。しゅろの聖日に民衆の気持ちを利用しようとしてイエスが失敗された時(※)、彼はこんな夢にいつまでもしがみついているのは無用だということをはっきりと知った。彼は船が沈没しつつあることを見てとって、脱出を決意した。

 自分の金銭欲をも満足させ、権力者たちのひいきをも得られるようなやりかたで、それを実行した。彼の申し出は、全く時機にかなっていた。彼らはそれに意地汚く飛びついて、この卑しむべき男と値段を取りきめ、裏切りにつごうのいい機会をさがさせにやった。機会は彼らの予想以上に早く見つかった。―それは、あの低劣な取引が結ばれた翌々晩のことだった。

※聖書を読むときこの部分は事情が違うのではないかと思う。すなわちイエス様が民衆の気持ちを利用しようとされたところは一切見当たらないからである。ストーカー氏がなぜこう書いたのか疑問に思う箇所ではある。ひいき目に考えればそうユダは考えたという叙述になるだろうか。

(写真は一昨日用事で出かけた街中で見かけた「白モクレン」。天候の変わりやすい一日であったが、この時ばかりは空が青かった。この日も日ごろ祈っていて住所を失念し、こちらから連絡が取りえず中々会えなかった人と街路でばったり出会えた。主は私たちの声に出さない叫びをいつもチャンと聞いておられる、と思った。昨日は珍しく、朝から晴れ渡っていた。「空の青 ユダの心を  持つか我」)

2010年3月30日火曜日

11章 THE GOSPEL IN SONG (4) 補遺 聖歌476番のこと 


 以下は以前のブログ記事「泉あるところ」で記した「一つの賛美歌の誕生の舞台裏」(2008.11.25)と題して述べたものの再録である。

 35、6年前、私は教会で一人の良き信仰の先輩を亡くした。中学校を出てすぐ家具製造職人として働いていた人だった。当時私は足利に住んでいて電車で時間をかけて春日部の教会まで通っていた。帰りが遅くなり電車がなくなると、彼が気前良く車に乗せて私の家まで送ってくれた。気さくでどんな人も愛する人であった。その彼が癌で亡くなったのであった。葬儀の席上で彼の愛唱歌(聖歌476番賛美歌520番)を歌った。

 安けさが 川のごとくに心を浸すとき
 悲しみが 波のごとくにわが胸を満たすとき
 道がいかなるときにても なんじは教えて言わ しむ
 安し 安し 心安しと

 まだ、主を信じていてもイエス様のよみがえりを心の底で受け入れていなかった私にとって彼の死は悲しみの方が多かったように思う。爾来この歌を歌 うたびに35、6年前の彼の葬儀を思い出す。ところが昨日ある本を読んでいたらこの歌の出典が書いてあった。それで少しインターネットで調べてみた。

 この歌詞の作者はH.G.スパッフォード(1828-1888)である。彼はシカゴの裕福な実業家であり、十四歳年下の奥様との間に四人の女の子 が与えられ何不自由もない幸せな生活を送っていた。その彼が二つの衝撃的な出来事に遭遇したことがきっかけでこの歌詞は生まれたと言う。

 先ず第一は1871年にシカゴの大火に見舞われ、彼が投資していた不動産が全部灰燼に帰したできごとである。それから2年して彼は奥様の健康を気遣い、一家でヨーロッパへ休暇に出かけようと計画を立てた。汽船で大西洋を横断してパリへと行く予定だった。ところがいざ出発となって彼の仕事が入り、奥様とお子さんが先に行くことになった。

 惨事はその大西洋航路で起きてしまった。これが第二の出来事だ。イギリスの帆船が奥様お子さん方を乗せていた「ル・アーブル市号」というその汽船に衝突し乗客は冷たい海に投げ出され、226人の人々が犠牲になったのだ。その中に彼の子どもたち全部がふくまれていた。奇跡的に奥様は救い出される。9日間後に別のイギリス貨物船でカージフに上陸した彼女は夫に打電する。「ヒトリスクワレタ」。

 報せを受けてスパッフォードは妻を迎えに大西洋航路に乗り込む。船長より海難の場所を通過する際に説明を受け、深さ3マイルの深海を見つめる。悲 しみが海の波のように彼の心を浸したのだ。しかしその時、彼の心には先ほどの歌詞が天啓のごとくわきあがってきたと言う。(くわしくは http://www.loc.gov/exhibits/americancolony/amcolony-home.htmlを見られると良い。その サイトには奥様の打たれた電文、彼の用いた聖書などがネットで見られる。)

 「昔、ペット殺され」。昨日の東京新聞の朝刊の見出しであった。34年前の出来事が今もトラウマのように彼の心を縛り、信じられないような殺害がなされた。スタッフォードにとって二つの大きなトラウマがあった。そのトラウマがトラウマとならなかったのは

 道がいかなるときにても なんじは教えて言わしむ
 安し 安し 心安しと

言われる、「なんじ」であるイエス様に対する信頼であった。娘たちは深海にいるのではない。彼らとまた天の御国で再会できると彼は思い定めていた。 彼はその後与えられた長男をまたしても病気で幼くして失う。波乱万丈、しかし彼の主への思いは尽きなかったようだ。後年イスラエルに移住しアメリカ・コロ ニーを創設し、エルサレムで亡くなる。(なおこの讃美歌を作曲した方もその後列車事故で亡くなる。不思議な作品ではある。)

私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。(新約聖書 ピリピ4・11)

 ここまでが以前のブログの再録である。ところで今回私たちの敬愛する若くして有能なる医師Tさんが45歳で召され、その葬儀がつい二週間前持たれた。最初に歌われた歌はやはりこの歌であった。歌詞は以下のものであった。

 安けさは 川のごとく 心ひたす時
 悲しみは 波のごとく わが胸 満たす時
 すべて 安し 御神 ともにませば

 悪しきもの 迫りくとも 試みありとも
 御子イエスの血の いさおし ただ頼む わが身は
 すべて 安し 御神 ともにませば

 見よ わが罪は 十字架に 釘づけられたり
 この安き この喜び たれも 損ないえじ
 すべて 安し 御神 ともにませば

 よし天地(あめつち)崩れ去り ラッパの音とともに
 御子イエス あらわるるとも などて 恐るべしや
 すべて 安し 御神 ともにませば

 遺された4人のお子様、奥様が別離の悲しみがある中で、天国での再会の約束をしっかり握っておられた。奥様は最後の御挨拶で医師としての御主人の働きがいかに人のいのちを守るための血みどろの戦いであったかを主にある尊敬をもって話され、御主人の病のためにいただかれたさまざまな人々の愛に感謝し「私たちはこんなに神様に愛されています、幸せです」と証された。私自身もあの30数年前とは異なり、なぜか最後のフ レーズが今回繰り返し思わされた。それは主イエス様が再び来られることを心から信じられる平安である。げにD.L.Moody By C.R.Erdmanが描くごとく、福音賛美歌は私たちの心の中にまことの信仰を植えつけるものだ。

 大黒柱を失ったTさん御一家の今後のために祈り続ける者でありたい。

(写真は庭先の椿の花。知人は先日部屋に入って来るなり、この椿を見て「優雅ですね、優雅ですね」と感にいっておられた。家人によるとかつて所属した教会の母の日にプレゼントしていただいた丈2、30センチ足らずのものが始まりだということだ。さて本日の記事は、受難週のユダの裏切りの曜日を間違えて記してしまい、いったん本日分として載せたが、途中で間違いに気づき、明日の分として載せることにした。実は内心自信がなかっ たので気になっていたが、パスカルの『要約イエス・キリスト伝』の叙述で、間違いを確かめた。彼の書き方は独特なのだが「その翌日3月12日火曜日、朝、弟子たちはまた、いちじくの木のそばを・・・、3月13日水曜日、朝、イエスは、ふつかの後には過ぎ越しの祭りになることを告げられた。・・・、その日、イスカリオテ・ユダにサタンがはいった・・・」と記している。日時の限定は当時のフランスの聖書知識によるものだと思うが、曜日はほぼこの通りだと思う。申し訳ありませんでした。

2010年3月29日月曜日

春場所終わる


 中々天気が良くならない。しかし、木々や草花はそれぞれ健気にこの寒天下で装いも新たに生きている。今朝も、写真の「あせび」に小鳥が二羽、三羽と餌をついばみにやってきた。庭の草木が静かにしている中で、あせびだけが揺らいでいる。風でもなく、何なのかと窓越しに目を見やると、小さなメジロが見えた。綱渡りよろしく、小さな小枝に乗りながらせっせと花に顔を突っ込んでは食探しに余念がない。

あせびには 馬酔わす木と 当てるのに メジロ二三羽 お構いなしよ

メジロ色 あせびの中で 動きたり

 昨日の千秋楽、久しぶりに大相撲を観戦した。ひいきの魁皇は何とか勝ち越しで千秋楽を迎えた。でもこの日、目の前で腰が折れるように崩れて心配した。年端は37歳でわが息子と歳は変わらないのに、それ以上に見えるのは不思議な力士の世界だ。朝青龍が引退して、一時どうなるかと危ぶまれた大相撲だが、救世主のごとく「バルト」が現れた。まだ漢字変換では「バルト」が漢字で出てこない、そんな御仁だ。あわよくば優勝を狙いかねない勝ちっぷりだった。

 優勝力士のインタビューでは白鵬がしきりに「疲れた」と連発していた。その中で面白いやり取りがあった。

アナウンサー 「今場所は負けないつもりで土俵に上がったのですか」
白鵬      「勝つつもりで上がりました」
アナウンサー 「勝つことだけを考えていたのですね」
白鵬      「いや、勝たないことを考えていました」
アナウンサー 「勝たないことですか?」
白鵬      「深い意味でね・・・」

 正確でないが、大方こんなやり取りが合ったような気がする。解説をしていた北の富士も15戦全勝した白鵬に敬意を表したか、いささか感心した様子で、「深い意味があるんですね」と珍しく辛口批評を控えて、後輩の活躍に期待感を示した。向こう正面の舞の海も朝青龍なきあとの大相撲の復興振りに安堵したのか、語り口がさわやかであった。

 あせびの木 春場所とて メジロ乗せ ゆらりゆらりと 15日経ちたり

 ちなみにこの写真は三月中旬のものだ。早く本格的な春が来て欲しい。

天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。(旧約聖書 伝道3・1~2)

2010年3月28日日曜日

まちがってはいけない クララ


 「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる」(ガラテヤ6・7)「まちがってはけない。悪い交わりは、良いならわしをそこなう」(1コリント15・33)

 ある有名な説教者がその晩年、もはや余生も短くなったある日、つくづくと述懐し「もしも神が再び私を世に遣わして下さるならわたしは生涯をかけて、人は自分のまいたものを刈りとるとの聖言の真理を叫びつづけるであろう」と言いました。わたしもこの晩年、歳月を重ねた目をもって見る世界の歴史も個人の生涯も、この真理を厳かにもの語っていることに気づきます。一日一日蒔きつづけて行く種はよかれあしかれやがて私共銘々の心の蔵に収穫されるようになるのです。「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない」のです。

 アダムとエバは神のお言葉を曲げて自分の欲を成しました。彼らは夕風涼しい園に神の足音を聞いて木かげに身をかくしましたが、神の御目からかくれる事は出来ませんでした。そして彼等は自らの蒔いた反逆の実を刈り取りました。ヤコブは兄の衣を着て父イサクを欺き、兄の祝福を横取りしましたが、神を欺くことは出来ませんでした。彼は伯父ラバンの許にあった日、幾度だまされたことでしょう。そればかりではなく、自分の子供達から、愛するヨセフが野の獣に喰い殺されたと、血で色どった衣をもってだまされ、涙の谷につき落とされるような刈り入れをしなければなりませんでした。

 イスラエルの悪王アハブは一人の農夫の美しい葡萄畑を欲しくなり、彼を殺して畑を奪いました。神は見のがし給いません。ある戦場で彼は王衣をぬいで変装して戦車の中にいましたが、神よりの流れ矢は間違いなく彼の胸を射ぬきました。

 世の歴史が始まって以来、どんな知者でもいまだかつて神をだまし得た者はありません。「人は自分のまいたものを、刈り取る」とは神の定めであり事実です。

 さらにわたしどもが注意しなければならないことは、「まちがってはけない。悪い交わりは、良いならわしをそこなう」という人類への教えです。悪しき交わりの結果をわすれてはならないことです。日本の古語にも朱に交われば赤くなるとあり、詳訳には「思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ良い習慣がそこなわれます」「悪い友だち関係は良い道徳的品性をそこないます」とあります。自分勝手な神を恐れないこの途を歩む人々がいかに恐ろしい窂に陥ったことでしょう。主はある盲人の目を開かれる時、彼を群衆から引き離されました。ザアカイは自らの低い身の丈を知って桑の木に登り群衆の思考や流行から離れて自分の在り方を新しくし、真実な存在と変えられました。

 お互いにこの世の群衆にだまされてはいけない。開かれた目をもって錯覚に狂わせられず、だまされず、やがての刈り入れをまちつつ目さめた途を歩みましょう。

(文章は『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著89頁より引用。写真は先週日曜日のM新夫妻の結婚式のおり、お庭で拝見したボケの花。日本はこの春かつて経験したことのない寒い日々となっている。「庭先に 彩り添える ボケの花 新婚夫婦 寿ぎの宴」「ボケの花 朱に染めたり 庭園に 花婿語り 花嫁答う」)

2010年3月27日土曜日

服従の学課 


 昨日、某大学病院で集会の方と出会った。ご主人の手術のために待機されているところだった。ご主人のお兄さんお姉さんが傍にすわっておられた。弟さんのことを聞きつけて心配のあまり駆けつけて来られたのだろう。「兄弟姉妹」とはかく麗しいものだ。

 先日、高校の同級生にご親戚の吉田悦蔵氏(「近江の兄弟」の著者である)について電話でお聞きしたいと思ったが、生憎不在であった。後ほど私宛てに丁寧な手紙とご本が送られてきた。私がてっきりその本を持っていないのではないかと思い、わざわざ新版を送ってくれたのだが、その扉に彼の字で次の聖句が書きとめられてあった。

天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。(マタイ12・50)

 彼はどんな思いでそれを書きとめたのだろう。数年前彼といっしょに鎌倉を散歩しながら聞かされたのは名ばかりのキリスト者の存在に対する批難とも何とも言えない彼の怒りであった。彼が幼い時から体験してきたのはヴォーリズさんをとおして示された主の愛であったのに・・・。キリスト教に理想と期待を抱きながら未だに心傷ついている人が私の身辺にはたくさんいらっしゃる。

 以下に掲げる一中国人の証は、あの日中戦争のさなか1936年10月福建省で証されたものである。国家がどうあろうとも脈々と生き続けている「キリストのいのち」の流れを見ることができる。それはもはや「キリスト教」という宗派に堕したものからは窺い知ることのできない一キリスト者の証である。「兄弟愛」とはかくしてこそ成り立つのか。「近江の兄弟」では知り得ぬもう一方の「中国の兄弟」の証をしるす。

 1923年に、わたしたちのうち7人が、ともに主のために働きました。わたしともう一人の五歳年上の同労者が、先頭に立っていました。わたしたちは毎週金曜日に同労者の集会を持ちましたが、しばしば他の五人が、わたしたち二人の争うのを聞かされました。

 当時わたしたちはみな若く、それぞれ自分なりの考え方を持っていました。わたしはその同労者の間違いを責め、彼もまたわたしを責めたりしていました。その当時、わたしの血気はまだ対処されていませんでしたから、すぐにかっとなりました。今日(1936年)、わたしは笑うことができますが、その時は、笑うどころではありませんでした。二人の論争で、多くの場合、わたしが間違っていたことを認めます。しかし彼も、時には間違いました。

 自分の間違いを赦すのは容易であっても、相手の間違いを赦すのは容易ではありません。金曜日に争って、土曜日にはバーバー姉妹のところへ行き、その五歳年上の同労者のことを訴えました。わたしは言いました、「この同労者にこの方法でするべきだと言った時、彼は聞こうとしません。どうか彼に言ってください」。バーバー姉妹は答えました、「彼はあなたより五歳も年上です。あなたは彼の言うことを聞き、彼に従うべきです」。わたしが「理屈に合っても合わなくっても、彼に従うのですか?」と言うと、彼女は「そうです。若い人は年上の人に従うようにと、聖書は言っていますよ」と言うのでした。わたしは言いました、「そんなことはわたしにはできません。クリスチャンとはいえ、道理にかなって事をなすべきです」。彼女は言いました、「理由があるかないとかは問題にするべきではなく、聖書は、年下の者は年上の者に従うべきだと言っています」。わたしは心の中で怒って、聖書はそのようなことを言っているのだろうか、と言いました。憤りをぶちまけたいと思いましたが、それもできませんでした。

 毎週金曜日の論争の後、わたしは彼女のところへ行って、やるせない気持ちを訴えました。ところが彼女はいつも聖書を引用しては、わたしが年上の人に従うべきである、と言いました。時には、金曜日の午後、論争し、夜になって泣けてきました。そこで次の日、自分を弁護してくれることを期待して、バーバー姉妹のところへ行って、自分の気持ちを訴えました。しかし土曜日の夜、彼女の答えを聞くと、また家に帰って泣きました。わたしは、どうして彼よりももう少し早く生まれなかったのかと悔やみました。

 ある時の論争では、自分が理にかなっていることは、あまりにも明らかでした。そこであの同労者がいかに間違っているか、自分がいかに正しいかを指摘しました。ところが姉妹は言いました、「その同労者が間違っているかどうかは別の問題です。あなたは今わたしの前で、兄弟を訴えました。あなたは十字架を負っている人のようでしょうか?あなたは小羊のようでしょうか?」。彼女がこのように尋ねると、わたしは本当に恥ずかしく感じました。それを今でも決して忘れることができません。その日のわたしの言葉と態度は確かに、決して十字架を負った人のようでも、小羊のようでもありませんでした。

 このような状況の中で、わたしは年上の同労者に服することを学びました。その一年半に、わたしは生涯のうちで最も貴重な学課を学んだのです。わたしの頭にはさまざまな理想が詰まっていましたが、神はわたしに霊の訓練を受け入れるようにさせたかったのです。その一年半で、わたしは十字架を負うとは何かを、認識するようになりました。今日(1936年)、わたしには五十数人の同労者がいますが、もしあの一年半に服従の学課を学んでいなかったなら、今どんな人とも主のためにともに働くことはできなかったと思います。神がわたしをあのような環境に置かれたのは、わたしに聖霊の管理を受けさせるためでした。この18ヶ月の間、わたしは自分の提案を主張する機会が全くなく、ただ涙を流して、苦しみを耐え忍ぶだけでした。しかしもしこのようでなかったなら、わたしは自己がこんなにも対処しにくいものであることを知らなかったでしょう。神はわたしの性格上の出っ張りを削り取り、鋭い角を取り去ろうとされました。これは容易なことではありません。しかし神に感謝し、賛美します、神の恵みによって、彼はわたしを通らせてくださいました!

 今わたしは、若い同労者たちに言うことができます。もしあなたが十字架の試練に立つことができないのでしたら、役に立つ器にはなれません。ただ小羊の霊だけを、すなわち、柔和、謙そん、平和の霊を、神は喜ばれるのです。あなたの野心、大志、才能も、神の前にはみな無用です。わたしはこの道を歩んできて、自分の短所を告白しないわけにはいきません。すべての持てるものは、神の手の中にあります。問題は、正しいか間違っているかではなく、十字架を負う人のようであるかどうか、ということです。集会の中では、正しいか間違っているかは問題でなく、重要なのは十字架を負い、その砕きを受け入れることです。このようにしてはじめて、神のいのちを流し出し、神のみこころを成就することができるのです。

(引用文はウオッチマン・ニー兄弟の証より。一部表現を変えたところがある。バーバー姉妹が指し示した聖句の中には次のようなものもあったのではなかろうか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」(ローマ8・36)写真は東武線路脇で見かけた自生(?)せる「スノードロップ」の花。)

2010年3月25日木曜日

五、バイブル・クラス


 『M先生と、ヴォーリズさんが同居をしたそうやなあ、君』
 『うん、昨夜、僕がなあ、ポリスさん所へいったら、僕と君とに宿替えして、うちへ来いというてたぜ、どうしよう』
 商業学校の二階廊下でOとよばれるデブ青年で、機械体操の金棒にぶら下がると、金棒が湾曲するので有名な体重十九貫の本科二年生と、Iとよばるる棹竹のようにヒョロ長い、子供子供した同級生が話していた。
 『春休みが来たら、それじゃ、宿替えして異人さんと同居しようか』
 『うん、しかし、ポリスさんて、妙な人やぜ、入る部屋もないのに同宿するというのやからなあ、それ、入り口の上の六畳は片目のコックがいるやろう、その次の間は玄関の隣で、靴のままポリさんがどしどし上がってくるし、奥は主人公の占有する所、その隣はM先生とくる。僕等は差し詰め何処においてくれるつもりかしらんて』
 『そいつは聞かなかった。しかし来いというからには場所があるに違いはあるまいぞ』

 明治三十八年の三月が来た、学年試験もすんで、ホッと重荷を下ろしたように感じた。OとIはある日、ヴォーリズさんの暗い借家に出かけていった。
 『カム、イン』とニコニコのヴォーリズさんが、ムッとするほど暖かくした部屋から出てきて、両人を手を取るばかりにして、自分の部屋に案内する。
 英語でヴォーリズさんは、新しい部屋ができた旨を話してくれたが、その要領は次の通りであった。

 『日本人が家をたてると、屋根裏の利用と、煙突を作ることを考えないらしいです、この私の借家には屋根裏が大きく明いていますから、街道の方に硝子窓を二つ大工につけさせました。君たち両人は表の屋根裏に住むことにしてください。私は明日君達といっしょに屋根裏の、煤けた梁や柱に新聞紙をはってあげる。壁は白い洋紙一枚二銭のを二重張りにすると、白壁の代用になるから、早速、明日は部屋の準備に二人から朝早くからきてください』

 OとIは度肝を取られてしまった。何しろ、異人さんは、建築の趣味があるというので、無暗に屋根裏へ靴のままガサガサ上っていって、柴やら炭俵の古いものを積みあげてある湖畔地方の、ツシと呼んでいる物置に我等を親切にもいれてくれる考えであるらしい。てっきり、鼠と合住居をやらされるのだ。デブにヒョロの二人が、縦にも横にも屋根裏の柱とに衝突することなんかお構いないらしい。

 『おい、O、どうしよう。僕は生まれてから、あんな屋根裏に上がった事もない。鼠の糞が1斗位あるぜ』
 『I君、僕等は辛抱して今のうちに異人さん所の書生になって、英語をうんとたたきこんどくと、将来の力になるからな、辛抱して宿替えしてくることにしょうや』

 その翌日、OとIがヴォーリズさんの借家にくると、大きな西洋皿に姫糊がいっぱい、大はけ二つに、古新聞と洋紙の、材料が整っていた。二人は屋根裏にのぼった。煤と、塵と、鼠の糞の異臭のなかに、ヴォーリズさんは総指揮官で三人は表具屋とも、掃除屋ともしれぬ仕事に一日を暮らして部屋を作った。そして畳屋がきて、床には新しい上敷きをしいてくれた。
 それからOとIの二人は屋根裏ではあったが、ヴォーリズさんと同居することになった。
 しばらくしてその他にはM先生の部屋に割り込んできたKと、コックさんに頼んで同居を許してもらったYがあった。そしてヴォーリズさんは、学生四人とM先生を同居させたわけである。

 その頃、学生は絶えずヴォーリズさんを訪問した。ヴォーリズさんはバイブルクラスをしてやろうとその学生達に話したから、好奇心にかられて、クラスに来ますと約束すると、ヴォーリズさんが戸棚の中から立派な一冊五十銭もする、五号活字略註附新約全書を幾冊でも出してきて、惜しげもなく学生にくれてやるばかりか、表紙をひろげて、一々美しい英文で、

 「この律法の書を汝の口より離すべからず。夜も昼もこれを思いて、その中にしるしたる所をことごとく守りて行え。然らば汝の途、福利を得、汝かならず勝利を得べし」

 と書いてウィリアム・メレル・ヴォーリズと、日本字で言えば上手な髯題目、南妙法蓮華経とハネ上げた字風を横にしたような、シグネチュアー(自署名)をして一人一人に、ロハでくれた。それで大勢の学生は大喜びで聖書研究会にくることになった。

 人生意気に感ずるという事がある。若いアメリカの青年ヴォーリズさんが太平洋を渡るにも借金をして旅費を作ってきておりながら、八幡に到着するなり、第一ヶ月目の月給から惜しげもなく大金五十幾円を割愛して、聖書を百幾十冊も買い込んで、戸棚にいれておいて、学生にロハでくれてやった程、綺麗サッパリした気前には、隠れたるもの顕われざるはなしで、引きつけられ、吸いつけられ、遂には学生連の愛慕の的とまで変じていった。実にヴォーリズさんは、金ばなれのよい切れ手であった。

 聖書研究会の最初の夕は四十五名であったが、度かさなるに従って、その来会者の数はまし、一週二晩二組として、出席者二百十二名となった商業学生の全数は三百余であるから約三分の二強は喜んで出席している有様になったのである。そしていよいよ宗教運動がヴォーリズさんを中心として捲き起こることとなった。

 以上が第五章「バイブルクラス」(『近江の兄弟』吉田悦蔵著15~19頁より引用)である。読めば読むほど驚くばかりだ。昨日高校の同級生で悦蔵氏の親戚に当たる方からお手紙と同書が送られてきた。私はヴォーリズさんに会ったことはないが、彼は生前のヴォーリズさんに会っているし、今は惜しいことに壊されてしまったようだがヴォーリズさん設計の家だった、と聞いている。今日も絵(「シロの話」連作7枚のうち二枚目のもの)を拝借させていただいている谷口幸三郎さんの父君も先年主イエス様を信じて召されたが、この商業学校の出身である。こうして考えてみると意外に近江にもたくさんの兄弟がいることに気づく。ヴォーリズさんが美しい英文を書いた聖書の箇所はヨシュア記1・8である。ヴォーリズさんに敬意を表して、以下欽定訳聖書の同箇所を写し取っておく。

This book of the law shall not depart out of thy mouth; but thou shalt meditate therein day and night, that thou mayest observe to do according to all that is written therein: for then thou shalt make thy way prosperous, and then thou shalt have good success

 

2010年3月24日水曜日

四、世界の中心


 その頃は明治三十八年の春である。滋賀商業学校に名物男があった。それはボーィと綽名された、助教諭で背の高くない、身体の割合に首から上が重そうに大きくみえ、歩行の時にユラユラと前後にその頭をふるので学生の注意を、一身に集中したM君である。

 紀州和歌山の人で、大阪の書籍店の小僧をしていたが、近江商人の風をしたって八幡まで勉強にきたのだそうだ。比較的年がふけていたのと、堅実な努力主義の人であるので同級生の尊敬を受けていた。優等で卒業すると、直ちに校長Y氏の勧誘で母校にいすわり、英語科の助教諭となったのだ。
 M君の机の上には、バイブル、内村鑑三著求安録、同基督教信徒のなぐさめ、木下尚江著火の柱、平民新聞、聖書の研究、新人等の書物や雑誌が常にのっていた。
 M君は前英語教師アボット時代からキリスト教に帰依して、土地の組合キリスト教会の信者になっていたのだ。

 ヴォーリズさんは、学生達の倶楽部として、その一ヶ月家賃三円の暗い家を提供して、腕白連を歓迎し「おとなし屋」連に英語の課外授業をしているうちにM君を発見した。
 『ユー、カム、エンド、リヴ、ウイズ 、ミ』
 『ウム・・・』
 M君は頭の中で日本語で文句を考えた。英文典、上、中、下編の公式を定義として、和文英訳しかも美文?を作って後、口外に発表する人であった。
 『なるほど、ヴォーリズ君は俺と同居したいんだな、どう返事をしようかしら、「川止めに渡し舟」はちょっと英語にならんし、「待ってました」は露骨すぎるし、無難間違いなしは「サンキュー」だなあ』と考えたかどうかは保証の限りでないが『サンキュー、ありがとう』と彼は直ちに一決に及んだ。

 M君はその頃寝てもさめても太平洋の波の音、星とダンダラ染の三色旗の国を夢みていた。その友人は既にヨルダンの彼方―乳と蜜のしたたる北米の天地に青雲の志を遂行しつつあるのだもの。
 M君は実力実力と、己によくいい聞かせて努力した人だ。そして人なき森に、寄宿舎の舎監室に、学校の当直室に、熱い涙を湛えながら祈ったそうだ。

 『天地の神、我等のお父様、湖畔の天地は暗黒です。学生は性欲の奴隷です。酒と汚れと金のために、サタンのものとなりつつあります。外国からでもよろしいから、精神界の巨人をこの八幡に遣わしてください』と。

 M君の手荷物や夜具類全部は、ただ一回の手車で、ヴォーリズさんの家に運ばれてしまった。宿替えは簡単であった。
 ヴォーリズさんの当時の筆記を今になって出してみると、
 『私の八幡町に落ちつくようになったのはM君の祈りと神の計画から、そうなったのです。最早日本―近江―八幡町は世界の中心です』

 著者は往年、英京ロンドンの中心トラファルガー・スクェアーのグランド・ホテルの一室に、一英国紳士と話したことがある。その時、その人の話はこうであった。
 『君の友人のヴォーリズ君は、先年ロンドンにきて、私の教会で演説をたのんだ時に「世界の中心は近江八幡マチにある」といっていたよ。私達はそれだから、世界の中心は、ずいぶん探すのに骨が折れる筈だというて笑ったのさ』

 地球が完全球であれば、どの点でも、ある中心になることができる道理である。学者が地球は球形ではない、みかん形であって両極が引っ込んでいるというても大体は球で通用する。紺碧の大空に輝く大熊星座のつくる大柄杓の先は、北極星をさすと極まったものである。綿密に計算して、真直線にさしていないと、揚げ足をとるのも変なものだし、閑もかかるわけである。

 ヴォーリズさんは、よく諧謔を談話に交える人である。その語呂合わせ、日米混淆は天下一品である。
 『飲み水は蚤水です。日本の西洋料理屋では、サイダーを売るために少しばかり、蚤の飲み水ほどしか持って来てくれないです。蚤は英語でFleaだが、日本ではFreeと発音するから日本では飲み水を、ただくれそうなものですね』といったような事に笑い興じることがある、が然し、この世界中心説は丹波綾部の世界中心説より、慥に確実で宗教的に真面目である。

 ヴォーリズさんは明治三十八年から、今に至る三十数年近江八幡を動かない。そして今後死に至るまで永住する、そして自身の墓地もすでに選定して、美しい湖岸で昔の代官屋敷を二反歩買い込んである始末。
 何故近江八幡がヴォーリズさんの世界の中心であるかは、この物語が回を重ねて説明するところであらねばならぬ。
 とにかくM君とヴォーリズさんは同居することとなった。

 以上が第四章「世界の中心」(『近江の兄弟』吉田悦蔵著11~15頁より引用)である。文中のM君の祈りは、聖書中のマケドニア人の嘆願を思い出させる。

ある夜、パウロは、幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。(新約聖書 使徒16・9~10)

 今日の写真は現在展示開館中の谷口幸三郎氏の作品である。題は忘れた。

2010年3月23日火曜日

私の不思議な友



 ほぼ全盲に近い友人がいる。先日、この方とお話している時、「目が見えない人は、目が見えない人が多いのですよ、依怙地になったり、偏屈になったりして、そしてそのことを知ろうとされないから、悲しいですよ」と言われた。かなり激烈なこの方のことばにたじろいだ。晴眼者の自分はどうなのだろう、見えているのだろうか、とても見えていないと思わざるを得なかったからである。もちろんこの方の言わんとされたことばの後半の意味、すなわち、目が見えないという意味は、霊的な眼が閉じている、神様のみわざを知ろうとしない、見ていない、という意味である。

 彼女の息子さんも同じように目が見えない。このことを息子さんに話すると、「それは、お母さん無理だよ、われわれはもともと光というものを知らないのだから」と言われたそうだ。どうすればいいんですかね、と私に相談するように言われた。晴眼者である私はこの彼女のことばに返答しようがなかった。祈るしかないな、と心の中で思っていた。ところが聖書を読んでいたら次のことばに出会った。

わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り、あなたを民の契約とし、国々の光とする。こうして、盲人の目を開き、囚人を牢獄から、やみの中に住む者を獄屋から連れ出す。(旧約聖書 イザヤ42・6)

 主は義をもって、私たちの目を開いてくださると知った。そして次のみことばを思い出した。

ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。(新約聖書 ガラテヤ3・1)

 だ、とすれば、はたして私たちはひかりを知らないと言えるだろうか。それは主イエス様が私の罪の身代わりに死なれたことを心から信ずる時、霊の眼が開かれる、と思った。その全盲の知人の方に、私たちは私たちの霊の眼がいつも開かれるように祈ろうと言おうと思った。

 その知人とそのような会話を10日ほど前に交わしたのもすっかり忘れてしまいそうになっていたが、今朝、吉祥寺に出かける電車内で読んでいたみことばがさらに私に語りかけてきた。

光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(新約聖書 ヨハネ1・5)

 この光とはイエス様だ。そうだ、この方の前にやみはないのだ、と勇気づけられた。そして火曜日定例の学び会に出た。二つの引用聖句のうち一つは次の箇所であった。

そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。(新約聖書 マルコ10・51~52)

 再び主の御名をあがめた。ほぼ10日ほど前に全盲の知人と冒頭の会話をしたばかりだった。それがこのように次々とみことばによって真理が示されようとしていることを思ったからである。ついでに言うなら私と彼女はほぼ同年である。何十年か前は彼女は盲学校、私は普通の学校。全く数十年お互いの存在を知らなかった。ところが二三年前、彼女が悩みの末、私たちと交わりの信仰が与えられ親しくなった。

 しかも彼女の彦根盲学校の先生が例の「盲導犬チャンピイ」の河相先生であり、その方の授業を通して、生き方を考えるようになり、究極には主イエス様を信ずるようになられたことをお聞きした。いやが上にも親しみを感ずるようになった。彼女とは主イエス様にあって盲人、晴眼者を越えた交わりを経験させていただき、いつもその信仰に教えられることばかりである。もっとも私は彼女の経験した辛酸の生活からはほど遠いものだが、イエス様を愛する思いだけが、お互いに共通なのだ。これが具体的な私の「近江の兄弟」である。いや「姉妹」かな。

(写真はもう一人の「近江の兄弟」谷口幸三郎氏の個展のもの。ご本人の承諾を得た。御茶ノ水画廊は彼の個展が最終個展になる。ほぼ30年間ここで彼の画作が無名の時から紹介されてきたのでなかろうか。会期は今週土曜日まで。住所は千代田区神田淡路町2-11 電話03-3251-1762。最寄り駅は御茶ノ水駅。大正6年の蔵が画廊になっている。残念ながら都市開発というのか、この辺一帯がビル街になろうとしている。)

2010年3月22日月曜日

三、英語教師


 『今度の毛唐はポリスという奴やなア』
 『ポリスなら巡査という事やけんど、ポリスとは何や、君』
 近江八幡の南隅にある粗末な二階建二棟と、平屋の寄宿舎と、講堂と、生徒控室と、運動場と、学生三百、教師二十人余人が、滋賀商業学校である。
 その柿の渋をぬった板の香いのする二階の廊下で、腕白連が右のような会話をしておった。

 当時二十四歳のヴォーリズさんはY校長K教頭先生達にみちびかれて二年甲組とかいた木札のかかった教室に近づいてきた。
 二年生の生徒等はドヤドヤと教室にはいった。
 『気をつけ』『礼』と、級長がどなった。
 ガタガタと音をたてて席につくと、教壇の上、汚れた黒板を後にして、若いアメリカ人が田舎でみられない純白のカラー、派手なネクタイに、舶来の背広でニコニコして立っていた。
 教頭K氏の紹介があって、いよいよヴォーリズさんは教師になった。

 『ボーイズ、私は君達を指導することを無上の光栄とする、英語の研究は発音が第一、会話が第二、読書が第三、文典第四です。私は発音と会話を教えに遠いアメリカから海を渡ってきました』
 と、はっきり、一つ一つ言葉を区切りながら話したが、三十余名の学生は二三人をのぞいて解ったような顔をしたものが絶えてない、白墨をとって言葉のうちにあった単語を、一々黒板に書いた上、生徒の名を出席簿でひろいながら、吉田をヨシヤイダ、高橋をテケヘシ、塚本をツケモトと一人一人立たせて、黒板の字を読ませて見たりした。

 やがて四十五分もすんだ。そして生徒達は本をとじて、運動場に飛出す準備をし始めると、突然ヴォーリズさんは白墨をチョーク・ボックスの中にしまって、
 『アイ、アム、ローンリ。カム、エンド、シー、ミー、アフタ、スクール』
 というて軽く会釈をして出ていってしまった。
 『アイ、アム、ローンリて何やろう君』
 『ローンリは淋しいというこっちゃ』
 『放課後遊びに来いというたぜ』
 『行ったろか、ワードやグラントの時、上級生の尻について毛唐の所にいったら、ヤソの本を読ましやがって、センベを食わせよったが、今度のは若そうな異人やから、面白いかもしれんぜ』
 『教師のくせに淋しいから遊びにきてくれなんて、・・・そんなことを毛唐からきくのは今が始めやな』
 『今夜偵察にゆくものは集まれ』
 『行ってやれ、ゆってやれ』
 ワイワイ批評している生徒の中にこんな話があった。そしてその晩ヴォーリズさんの借りている、暗い家に数名の学生が訪問した。

 『お前から行け』
 『いやお前は英語が十八番やから先にいってくれ』
 『グット、イブニングと言うたらよいやないか』
 片目のコックさんに案内されて茶の間から奥の十二畳をのぞくと、ランプの薄暗い光の下に一人ボッチで、フォークとナイフを動かしている影が、間仕切りの紙障子にうつっている。誰かが思いきって「グッド、イベニング」と下手に大きくどなると、影が動いて、障子がスッと中からあいた。
 『ハロー、カムイン』と迎えたのは、赤色のスェッターを着けて上着を脱いだヴォーリズさんで、ニコニコしていた。
 食卓の食器が片付けられると、その上にアメリカの風景写真がつまれた。そして珍しがる生徒達に一々面白い説明があった。さあ、アメリカのゲームをやろうというので、数字合わせになった、カルタ、フリンチ、ドミノ等が持出された。

 生徒達はこのアメリカの先生が、先生らしく上座から見下すような事をしないのに全く引きつけられてしまった。
 三百の学生は、その当時よくもあんなにヴォーリズさんに引きつけられたものである。上級生はもちろん予科の生徒でABCしか知らないものまで、ヴォーリズさんの処に遊びにゆくようになった。

 ヴォーリズさんの胸中には、如何にして湖畔の住民八十万に、天地に唯一の神あり、ただ一人の救い主イエス・キリストがある事を伝える事ができるであろうかという大問題が、潜んでいたのである。
 その当時の事を書きとめたヴォーリズさんの手記のうちには次のようなものがある。
 『私は帰るに帰られぬこととなりこの近江にふみ止まる事となったからには、私の教えている生徒達を目当てに「神の国の拡張戦争を」せねばならぬ。第一、私は学生の信頼と、友情を手の内に握って始めて彼等の内心に忠言を徹底せしむる事ができるのである。それで私は私の家を放課後の学生クラブに提供した。そして来る者には、出来うる限り歓待することにした。』

 以上が第三章「英語教師」(『近江の兄弟』吉田悦蔵著7~11頁より引用)である。読んでいて、永遠に変わらない教師と生徒の信頼関係の絆を見る思いがした。その根底にはイエス・キリストが私たちに示してくださった「へりくだり」の愛があるのではないだろうか。

あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名・・・この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。(使徒4・10、12)

 昨日は東京のホテルで行われた西荻の従兄の姻戚である方のご子息の結婚式に招待された。祖母である九十に近い方は、かつて取った杵柄である謡をご披露され、謡の言葉を通して主の愛をお孫さんに伝えられた。お父様の最後のご挨拶もまた親子関係、夫婦関係にこの主の愛の絆をしっかり打ち込もうとするものだった。商業ベースに流されそうなホテルでの結婚式ではあったが、新郎新婦が随所に工夫をこらされ、良心的でセンスに満ちた式であった。しかし振り返って、最後に「いのち」を与えたのはやはり、このお父様の挨拶であった気がした。夫婦の様々な問題を自分たち親が主イエス様によって平和をいただいた、その主をともに見上げて欲しいという真情に裏打ちされていたからである。

 式終了後、高校時代の友人と吉祥寺で待ち合わせ、夜の礼拝に参加した。友人は私より早く福音を聞いていた。大学二年の時だったそうだ。彼もまた湖畔の大学に通って来たたどたどしい日本語を話す宣教師から福音を聞いて、それが忘れられないらしい。半世紀近く離れていた福音を今思い出そうとしている。高校一年以来それほど面識のない私との再会を約束してくれ、昨晩の礼拝出席となった。二人で礼拝を終えて帰ろうとして、フト会場内を見たら、今日結婚式を終えたばかりのご子息のお母様とお祖母様の姿が見えた。心豊かにされた。友人とは中野で別れ、そのまま東西線、日比谷線で帰ってきたが、11時過ぎていた。しかし、そんな日曜の夜遅くに、主は駅構内でもう一人の方と10数年ぶりの再会を用意しておられた。

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。・・・しかし、人は神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。(伝道者3・11)

(写真は結婚式場のお庭にあった椿、鮮やかであったので式終了後撮影した。)

2010年3月21日日曜日

まことの弟子たち 


「あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう」(ヨハネ15・8)

 多くの実を結ばない者はキリストの弟子になれないのだろうか。おそらくそういうことはないとは思うが、そのような人はまだ未熟な段階にあるということだ。多くの実を結ぶ人については、キリストは、「わたしの弟子であり、まことの弟子である」と言っておられる。私たちが男らしい男を見て、「あれがほんとうの男だ」と言うように、主は主のみこころにかなった、弟子の名にふさわしい人を、「多くの実を結ぶ者」と呼んでおられるのである。福音書の中の「弟子」ということばには二つの意味があることがわかる。ある時はキリストの教えを受け入れたすべての人を指している。ある時はキリストに全面的に従い、キリストの訓練を受けたより親しい仲間だけを指している。その相違はどんな時代にもあったということだ。心を全くささげ尽くして神に仕えようとした比較的少数の神の人がいつもいたと同時に、大多数の人々は神の恵みとみこころについて、ごくわずかな知識を得るだけで満足して来たのである。

 この少数のより親しい仲間と、この仲間に加わろうとしない多数の人々との間にどのような相違があるのだろうか。私たちはその違いを「多くの実」ということばの中に見いだすのである。多くのクリスチャンにとって、最初の新生の時には個人的な安全を願うことは正当なことではあったのだが、最後までそれが信仰のただ一つの目的になってしまうことがある。そこには奉仕の観念、つまり「実」は、いつも第二義的な、そしてごく従属的なものであるという考えがあり、多くの実を結びたいという正しい欲求は全然関心の的となっていない。主のためにのみ生きよとの叫び声を聞いた魂は、これではけっして満足できるわけがない。

 「多くの実を結び、わたしの弟子となる」というみことばを最も厳粛に考えてみることを、私は本書の読者の一人一人にお願いしたい。「多くの実を結ぶ」というみことばを、私たちがそうならなければならぬ、そうなることができるという、私たちへの天のぶどうの木の啓示として受け取ろうではないか。そして自分の力だけでこれを試みることが、全く不可能であり、愚かなことであることを十分に悟ることだ。このみことばにより、新しい目でぶどうの木を見て、私たちは天のぶどうの木に満ち満ちた豊かな人生を生き抜く決心をしようではないか。私たちはもう一度、「私はまことのぶどうの木です。私は父の栄光のために多くの実を結ぶことができます」という信仰と告白とをしようではないか。

 私たちは他人をとやかく言うことはない。しかし私たちは至るところに神のみことばの二種類の弟子を見ることができる。私たちがどちらの種類に属すべきかについては今さら言うべきことはない。神にすべてをささげる生活を神がどのように希望しておられるか、私たちが聖霊に満たされることを神がどのように希望しておられるかを、私たちにお示しくださるように神にお願いしようではないか。私たちの望みは、全ききよめ、切れることのない主とのつながり、最も密接な霊の交わり、豊かな実り、つまりまことのぶどうの木のまことの枝となること以外であってはならないのだ。

 世界は滅びに向かいつつある。教会は力を失ってはいないか。キリストの道はより困難であるように見える。キリストは心のすべてをささげ切った、多くの実を結ぶクリスチャンが少ないことを嘆き悲しんでおられる。私たちはそれがどのような意味を持ち、またどのようにして起ったか知ることは難しいことではあるが、ただ私たちはキリストに向かって多くの実を結ぶキリストの枝であることを告げようではないか。私たちは今すぐにでもキリストのみことばが意味するとおりの弟子となろうとしていることを告げようではないか。

 祈り
「『わたしの弟子』とあなたはお呼びになります。聖なる主よ。私が多くの実を結ぶことは、まことのぶどうの木であるあなたが、まことの枝であり、いつもあなたのみこころに従う弟子を持っておられる証拠です。私が多くの実を結べば、あなたがそれを数えてお喜びになることを、幼子のような無心な思いで私が感じ取ることができるようにしてください。アーメン」。

(文章は『まことのぶどうの木』アンドリュー・マーレー著安部赳夫訳80~84頁より引用。「道端に 咲き満ちる群れ 水仙の 黄色鮮やか 主の御旨よ」「道端に 十二弟子の 水仙か」 )

2010年3月20日土曜日

二、暗い住居


 近江八幡の町は近江商人の町である。旧家というのが二百年以前から主人顔をしていて、番頭たちが長年勤めた報酬で暖簾分けをしてもらった分家が、街の全 体に散在している。旧式で、保守で、カール・マルクスが喜んで引用する実例の多くにありそうな金―商品―金の町だ。湖畔の町かと思うてきてみると湖水は山 に上らなければ見えない、一里も遠方にある。湖水と町とを絶縁する山が、その昔高野山に逃げこんだ近江宰相豊臣秀次を困らしぬいた山だ。秀次は井戸をほっ たが、掘ってもほっても水が出ないので碧水を湛えている湖水をみながら『往生』したと言い伝えられている鶴翼山である。五里も向こうの山から見なければ鶴 らしい姿はしていないから町の人は八幡山という。そして歌人の外は美文めいた名をよぶものがない。

 本願寺派の別院が二つ、黄壁に白線をいれて町の西南に堀深く、塀高く割拠している。山に登ると寺の棟が十八も目の下にみえる位、仏教熱心な町である。

 何でも信長の安土城下の人々が落城のときに移住した町であると伝えられ、また近江源氏佐々木氏滅亡後その家臣達が士魂商才で、日本六十余州に近江屋と名 乗って近江泥棒と言われるほどに金儲けして廻った、その根拠地であるそうだ。

 町は小京都とでもいうことのできる、碁盤面の縦横十字街で、雨がふっても泥のつかぬ蒲鉾道があって、日のてった時よりも雨の降ったときによい感じをあた えてくれる町である。即ち下水が雨の日は美しくなって、道をゆくとき都大路よりも気持ちがよい。

 ヴォーリズさんと片目のコックさんは魚屋町の下通り東向きの暗い大きな家にすんだ。

 採光の悪い六畳四室、十二畳一室の家で、中二階は鼠の住家で開けずの間になっていた。庭には二抱えもある松の大木が三四本石山の上にあり、後に土蔵二棟、前の空井戸は茶人めいて粗石の四つ井げたになっている。その前に竹の縁につづいて入り口二尺幅の便所がある。飛び石があって夜は気持ちのよくない庭だ。家主さんは喜六さんという盆栽好きの温順な方だ。お隣にすんでおられて、時々アメリカの人はストーヴの煙突穴を無闇にあけて雨漏りを作ってくれるから困ります、とその腰の低い善良な姿をあらわしてくれる。

 座敷十二畳の天井や柱と欄間はキズだらけである。何でも喜六さんの先代が維新の時の勤皇家凝りで、井伊掃部に狙われて京都より落ちのびた志士をかくまった事があった。それとしった彦根藩士が大挙してこの暗い家をとり囲んだ。そして抜き身の槍と白刃をもって斬捨御免の捕縛に向かったものだそうだ。喜六さんの先代は志士を裏口から彦根の膝下多賀神社に落としてやって、同士の神主が神体の御厨子のなかにその人を隠し通したそうだ。

 そんな騒ぎがあって四〇幾年もしてからヴォーリズさんは、槍や刀に斬りつかれた座敷十二畳を書斎兼食堂、兼寝室、兼応接室、兼柔道の稽古場及び薬局にしたのだ。前住の英語教師ワード君から、古い木框に鶏の囲いにでもしてよい赤鰯のように錆びた、金網がスプリングのかわりになっている、まん中の無闇にヅリ下がるベットと、二寸も厚い四角の板に四本足をつけたテーブル、グラグラ椅子、泥まみれの鍛通、ガラス製の安物ランプと薄汚れたストーヴをゆづりうけた。

 暗い家にひとりで座りこんだヴォーリスさんは淋しかった、堪らなかったと追懐談を時々することがある。

『私は、金があったらすぐ帰るところでした。世間の手前も何もかまうことはない。失敗してにげ返ったといわれても甘んじて受けよう。極東の日本の片田舎にひとりで暮らすのはたまらない。ホーム・シックネスだ。しかし有難いことには其のとき金がなかった。私は借金してまで旅費をこしらえて出てきたのだから』と。

 手荷物をいれたトランクは鉄道院の手違いから、八幡到着後三日も何処かにいって行方がしれなかった事もヴォーリズさんの打撃であった。

『私は小さい手カバン二つで、初めの三日を暮らしました。せめて荷ほどきでもして気を晴らしたいと思うても荷物はなし、学校の方は親切に三日の後より出勤してくださいと言うてくれるから出かけるわけはなし、する事もなく話す友もなく、淋しさにおわれて、聖書を手にし、祈祷をしたのです。そして、私の一生にかつて経験したことのないほど深く、神と交わりを結びました』

 露西亜のクロポトキン公爵はペトロパウルスクの要塞監獄の独房に幽閉されたときつくづく感じたことを次のように手記している。

 『墓場のように寂寞たる獄中の空気には遂にたえられなくなった。苦しさのあまり私は壁を叩いたり足で床を突いたりして他の独房から応える微かな音をきこうとしたが四辺は寂として更に応えがなかった。呼吸の音一つだってもれ聞こえなかった。一ヶ月すぎ二ヶ月すぎた・・・。
 教育のある人でさえ一人無為に幽閉されていることが苦しいならば、四肢の労働にばかりなれて、読み書きもしらぬ農夫にとっては無限の苦痛である。だから私の下の独房の農夫は悲惨極まる状態に陥った・・・。
 彼は最早心身ともに滅茶苦茶に乱れていた。私は彼の精神がしばらくの平安もなく動揺していることを知って驚いた。彼の頭はますます狂乱して刻一刻日一日とその理性がなくなり、遂に怖ろしい声と野獣のような叫びが、下の室から聞こえてきた、・・・人の精神が打ち壊されるのを見るのは戦慄すべきことであった・・・』

 精神的修養のないものが絶対孤独になると、小人閑居して不善をなす以上にその身と心を破壊してしまう。しかしヴォーリズさんはこの孤独の時を神とともに暮らしてホーム・シックネスを追い出し、力の人となったのです。

 以上が第二章「暗い住居」(『近江の兄弟』3~6頁より引用)である。ヴォーリズさんの異郷の地で旅装を解いた時の心細さが身に染みる。パウロは十分弱さ・また牢獄を経験した人だ。そのパウロの以下の証は有名である。

真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。(使徒16・25)

 そのパウロは弟子テモテに次のように書き送り、励ました。

神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。

 吉田悦蔵氏はヴォーリズの神との交わりを記録し、力の人となったと結ばれた。一体ヴォーリズは聖書のどこを読んだのであろうか。しかし、このような箇所も読んだとするなら、想像するだけだが、楽しい。力を神様からいただいたヴォーリズ氏もまたわが「兄弟」である。

(写真はほぼ一年前に撮影した彦根藩主井伊家の下屋敷楽々園。解体修理の前で公開されていた。これは殿様の屋敷。ヴォーリズさんが十二畳に居所を構えたところは近江商人の屋敷というが、彼の来日四〇年前には吉田氏によると井伊家の家臣がその座敷に刀槍で乗り込んだということになる。)

2010年3月19日金曜日

一、琵琶湖畔へ 

 日曜日、近江八幡のTさん宅で持たれる礼拝に出席した。当日はちょうど左義長祭で駅はいつもより人が多かった。私は滋賀県人だが今は他郷にいる。けれども、ここ数年三十数名の方々と、年に4、5回のペースで礼拝をご一緒させていただいているので、何度となく行き帰りには駅頭に立つ。

 日曜日の礼拝は主イエス様を信ずる方々のうち男性(互いに「兄弟」と呼びあっているのだが)が自主的に聖書を朗読しそれに基づいて祈る。また皆で自由に賛美をする。その繰り返しが礼拝である。みことばと賛美が中心であるのだ。礼拝は集う一人一人にまかせられていてあらかじめ決められたプログラムはない。各人がみことばを通して主イエス様を仰ぎ見、心から賛美する。ムーディーの項で考えたように賛美はそれぞれの主なる神様への思いを歌を通してあらわすものだ。だから、通常の教会で行われる牧師によるメッセージは礼拝の中では一切ない。メッセージは礼拝の後の福音集会という時間になされ、それも牧師でない普通の人がそれにたずさわる特徴を持つ。

 ところで、この日曜日T宅で持たれた礼拝は次々と兄弟方が聖書を読み祈られた。また賛美曲も次々リクエストされ、間が空かず流れるような礼拝であった。お一人お一人が朗読してくださるみことばは、どのみことばも生きていて、飢え渇く礼拝者の心を生き返らせるものだった。このような礼拝は誰が中心でもなく、目には見えないが、御霊なる神様が王座を占めておられるとしか表現しようがない。その中でなされた一人の方の聖書朗読を次に記させていただく。

あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分のものではないことを、知らないのですか。(1コリント6・15、19)

 集いをあらわすにふさわしいみことばと思った。集いを終えて、また関東まで戻る鈍行列車の中で、ああ、あすこにはいのちがある。左義長祭に集まる人々の目からすれば虫けらに等しい者の集まりに過ぎない。しかし、たとえ一握りの存在であっても一つの絆で結び合わされた神の家族があすこにはある。そして、自分もそこに加えられていたのだという喜びだった。そして、私はいつしか遥かな時代へと思いを馳せていた。それは「近江兄弟社」という一風変わった群れを生み出した一人のアメリカ人の存在である。家に帰って何年ぶりかでその本を紐解いた。本の題名は『近江の兄弟』(吉田悦蔵著大正12年〔1923年〕初版)である。これから折々にこの本を紹介して行きたいと思う。先ずは第一章 「琵琶湖畔へ」、である。

 日露戦争の真っ最中、旅順口が落城して血生臭いお正月を迎えた、あの年の二月、思い出せば明治三十八年(註:1905年)である。その二月の二日は、北風のふく厭な日であった。午後の四時過ぎにはすでに太陽が比良山の彼方に、雲がくれしていて、薄どんよりした空は、安土の城址と、湖上に突き出た奥島半島の隙間より一陣も二陣も、イヤ間断なしの寒風は、野中に淋しくたっている、上り下りのプラットを連絡する陸橋もない、小ぼけな八幡ステーションにふきつけていた。その時列車到着、僅かばかりの旅客の乗り降りの混雑中に、立襟した濃紺色格子縞の着古びた外套、山高帽、肩よりななめにかけた写真器も古そうな姿に、白色人種特有の美しい歯を出して淋しく微笑しながらたっている、年の頃は十八とも二十とも判断できぬ、若さをもったアメリカ人がいた。それがヴォーリズさんである。

 ボリスという人もある、ヴォリスという人もあるが、本人はまさにヴォーリズですから間違わないでください、特に語尾はスでなくズですと訂正するほど小さいところまで気を配る青年で、名前からみても、和蘭訛の匂いがするように、元は和蘭種と英国とフランスの血が混淆したアメリカ人である。国の中央カンザスに生まれ、熱帯と砂漠で有名なアリゾナに育ち、後、中学時代より大学生活を終わるまで、海抜一マイルの高原、ロッキー山脈の東麓コロラドに暮らしてきたヤンキーなのである。

『私はとうとう日の出る国へきた。湖畔の商業学校と中学校に教鞭をとるのだ。日本語はまだ三日前に横浜に上陸したばかりだから、オハヨー、サヨナラ、だけしか知らない。きて見ればコンナ田舎、寒い、淋しい、孤独だ。近江の国は人口八十万ときいてきたが、アメリカ人は私の外に一人もいない。英語を話す人もありそうでない。日本は日の出る国ではない、日の入る国のようだ。イッソ次の列車で横浜へ行って、船に乗って帰ってしまった方がよい』

 と回顧録に書いてあるほど、ヴォーリズさんは八幡駅のプラットで感じたのである。

 それは東海道近江八幡駅に、夜中または朝早く下車した日本人の誰もが実感することである。八幡町はその姿を見せないで森のかげにあるし、ステーションから町まで、両側田圃の一筋道を半里以上ゆかねば町の入り口につけないのだもの。

 A先生が学校からお迎えにこられた。先生は薩摩人で、発音に薩摩土音の混じる人であった。 ヴォーリズさんはA先生の案内で始めて八幡町の土をふんだ。そして前任のワードという三十男の借りていた家賃三円の、ダダッ広い家に、片目のコックさんとともに住み込むことになった。

(写真は数年前に近江八幡の人たちと町並みを見て歩いたときの写真である。画面の下に4名がいたのだが、カットしての編集である。正面の山が鶴翼山・八幡山である。)

2010年3月18日木曜日

11章 THE GOSPEL IN SONG (5)


 彼(ブリス氏)は永らくシカゴの教会で聖歌隊の指揮者やまた日曜学校の責任者として奉仕しておりました。この教会の牧師はムーディー氏の親友であり助言者でもあった神学博士のE.P.グッドウィン氏でした。彼は伝道者の下で自分の全生涯を福音聖歌を歌うことに専念しようと決心しておりました。その結果ムーディー氏の同労者の一人であるD.W.ホイットル少佐と組むようになり、ソロで歌ったり聖歌隊の指揮をしたりしていました。1876年(明治9年)のシカゴ伝道が終わるころ、ムーディー氏はホイットル少佐とブリス氏に引き続いてボストンでの伝道集会でも奉仕をして欲しいと要請しました。

 ところが、ブリス氏と彼の奥さんはこの要請を受けて出発する途中、オハイオ州のアッシュタブラで列車事故に会い、亡くなりました。彼らの乗り合わせた列車が走行中、橋にぶつかり75フィート下の川へ転落したのです。彼の死はムーディ氏とホイットル少佐にとって肝をつぶさしめる大きな衝撃となってしまいました。

 ホイットル少佐は、当時もっとも信頼され愛される伝道者の一人でした。少佐が戦争で負傷して戻ってきたとき初めてムーディー氏と出会い、ムーディー氏は最大級の暖かさをもって彼を受け入れ面倒を見たのでした。彼は本当に勇敢でかつ優しく愛すべき男でした。彼は華々しい実業上の実績を捨てて、それ以後生涯を福音伝道のためにささげました。

 彼は純粋な福音を恐れることなく信仰に満ち溢れて語る聖書講読で広く知られていました。それだけでなく、彼は聖歌作詞者としての才能を持っていました。それは「エル ナタン(El Nathan)」という名前を引き継ぐにふさわしいものでした。以下のものが広く受け入れられたものです。「私は私の信じてきた方をよく知っている(I Know Whom I Have Believed)」「私は満ちたりている(I Shall Be Satisfied)」「いつかは分かる(Sometime We'll Understand)」「雨をふりそそぎ(There Shall Be Showers of Blessing)」「主の時は近づけり(The Crowning Day is Coming)」そしてこれら聖歌のすべては彼の伝道上の仲間であるジェームズ・マックグラナハンによって作曲されました。その他の聖歌は彼の娘であるW.R.ムーディー夫人によって「いちど死にしわれをも(Moment by Moment)」と題して曲がつけられました。

 ブリス氏が亡くなって10年間の間に、マックグラナハン氏がホイットル少佐とともに福音歌手として奉仕しました。彼らはあのアシュタブラの列車事故の現場で初めて相見えることになったのでした。二人は現場へお互いの親友であったブリス氏を探しに出かけたのでありました。マックグラナハン氏はそれからすぐ亡くなったブリス氏に代わりムーディー氏が主宰していた伝道の働きに加わることを決心したのです。彼はすぐに聖歌を書き始めましたが、彼の最大の奉仕は恐らくサンキー氏とシュティブン氏と提携して取り組んだ「ムーディーとサンキーの聖歌」としてよく知られるようになった福音聖歌の編集でしょう。

 この特別な働きに従事した人々の中で最も才能に恵まれた歌い手であり、多年ムーディー氏の友としてもっとも緊密にまた信頼された人々の一人がジョージ・C・シュティブン氏でした。彼は熟練した音楽家でいつの間にか、ソリストや指揮者として教会の働きに従事していました。それはムーディー氏によって招聘されサンキー氏とともに伝道の働きに参画したものでした。彼の最初の仕事は1876年のシカゴにおける伝道会のために大聖歌隊を指導することでした。伝道期間中彼はホイットル少佐と協力して近隣の町々での奉仕に当たりました。ムーディー氏の指揮下、彼は続いてジョージ・C・ニーダム氏と、後にはジョージ・F・ペンテコスト氏とともにソリストや指揮者として働きました。彼は何度何度もム-ディー氏と一緒にイギリスに行き、多年ノースフィールドの大会の音楽の指揮に従事しました。

 以上、文章は『D.L.Moody』by C.R.Erdman の112~114頁の意訳である。いささか文章は冗長をきわめ、無味乾燥な文章が続く。しかし、このような様々なアメリカの音楽家を通して今日私たちがなじんでいる聖歌が作詞・作曲され、今も生き生きとした信仰が言葉として伝えらていることはもっと注目していいのではないか、と訳しながら思わされた。

 なお、ブリス氏の聖歌は日本の聖歌集では9曲が収められている。キリスト集会で歌われている「日々の歌」所収では113、148、172、203がそれである。それに対してホイットル少佐の歌は作詞として聖歌集に5曲収められているが、「日々の歌」所収のものの中にはそのうち二曲が収められている。そして、「日々の歌」では著作権の関係で、もはや原作詞家である彼の名前はどこにも載せられていない。その代わりに177番「恵み降り注ぐ」には彼の作詞の専従作曲者でもあったジェームズ・マックグラナハン氏(James McGranahan)の名前を見ることができる。また138番「罪に滅ぶわれをば」には作曲者として彼のお嬢さんの名前W.R.ムーディー夫人(May Whittle Moody)が載っている。最後に「いちど死にしわれをも(Moment by Moment)」聖歌609番(日々の歌138番)の引用聖句を以下に掲げておく。

その日、麗しいぶどう畑、これについて歌え。わたし、主はそれを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている。(旧約聖書 イザヤ27・3)

(写真は今週日曜日の近江八幡の風景である。道路を挟んで両側に田畑が展開している。画面奥に住宅が散見できる。T宅はその住宅の右画面に位置している。「家の教会」に人々は集まり、主イエス様を証しておられる。奥手の山々は琵琶湖対岸の比良山系。わずか一角白くなっているところが望見できる。残雪であろう。さしもの比良山にも春は確実に忍び寄ってきている。「近江路に 残雪の比良 かすかなり 湖越えし風 土筆(つくし)芽吹かせ」)

2010年3月17日水曜日

11章 THE GOSPEL IN SONG (4)


 月曜日、吉祥寺で夕方葬儀がありました。若き有能なるドクターの召天でした。その時、歌われた聖歌は確か日々の歌148番「露にぬれるあさまだき」であったように記憶します。私が40年近く前、教会で尊敬する三つ上の信仰の先輩を癌で失ったとき葬儀で歌ったのも同じ歌、聖歌476番「やすけさは川のごとく」でありました。駆け出しの信仰者である私にはまだ天国への確信がなく、死が怖かった覚えがあります。その時以来この曲を何度も聴き自身で歌いもしました。この曲はP.P.Bliss氏の作曲です。彼について書いた文章を少し連載します。

 ムーディー氏の名前と分かちがたく結びついているもう一人の歌い手はフィリップ・パウル・ブリスです。彼は才能ある音楽家で、同時に詩作の賜物を持っていたので、詩を書き、かつ聖歌を作曲することが二つながらできることにおいて有名でした。

 彼はムーディー氏が伝道者として有名になる以前にすでに二巻の聖歌集を発行しておりました。その聖歌のいくつかはムーディー氏がイギリスで初めて大伝道会を行ったときに特別に用意されたものです。たとえば、「鎧持ちでしかない(Only an Armour-Bearer)」がそのキャンペーンの期間中、恐らく最もなじみとなったことでもわかるでしょう。それからまた「掟から離れて(Free from the Low)」がサンキ-氏によって歌われたとき、スコットランドでムーディー氏がメッセージし、サンキー氏が「飾られた棺(kist o' whistles)」を歌い反感をもたれた時を取り戻し、それをはるかに凌駕したとさえ言われています。

 これらの当初年代において少なくとも「ダニエル」はムーディー氏のお気に入りの「聖書人物伝」の一人でした。その彼の説教にあわせて歌われたのがブリス氏の二つの聖歌「君よ、ダニエルたれ(Dare to Be a Daniel)」と「あなたの窓はエルサレムに向かって開け放たれているか(Are Your Windows Open Toward Jerusalem)」でした。

 ムーディー氏は何度も何度も「種蒔きと刈り入れ」についてメッセージしたものです。そのときサンキー氏も「あなたの収穫はどうなっていますか(What Shall the Harvest Be?)」を歌ったものです。ムーディー氏はキリストへの決心をうながすとき、よく続いてなされる「私は承服しました(Almost Persuaded)」の歌で勇気づけられました。恐らくブリス氏が一番良く知られるようになった聖歌は「持ち場を離れなさんな(Hold the Fort)」でしょう。しかし彼はまだまだもっと芸術性のあるたくさんの他の作品を作曲しています。彼の作曲作品には次のようなものがあります。「われに聖潔を与えたまえ(More Holiness Give Me)」「話されざるもの(The Half Was Never Told)」「灯りを燃やそう(Let the Lower Lights)「ハレルヤ、主が上げられる(Hallelujah, He is Risen)」「汝の悲しみを捨て去れ(Go Bury Thy Sorrow)」「岸辺に向かって引け(Pull for the Shore)」「世の光イエス(The Light of the World is Jesus)」「イエスが来られるとき(When Jesus Comes)」

 彼は他の作詞家の言葉に音楽を合わせ書くことができました。たとえばスパッフォード氏の作詞「わが魂に平安満ちて(It is well with my soul)」※に対して書かれた彼の美しい調べがあります。
 
 しかし、ブリス氏の才能の本領は彼が聖歌を歌ったり、自らの作曲になる音楽を歌ったりする時に現われました。サンキー氏のように彼はいつも小さなオルガン台に腰掛けては伴奏していましたが、背丈もあり、魅力的な風貌の持ち主でありました。彼の声はバリトンで音域が広く共鳴する声質を備えておる音感の正確な歌いっぷりで、その特徴は霊的に輝いており情熱的でさえありました。彼の顔は喜びで輝いており、彼の歌を聴いた者は誰もその歌に表された感情と喜びを忘れることがないでしょう。彼は胸をときめかせながら次のフレーズを歌ったのでした。

 辱めを受け、嘲弄に耐え、罪業を訴えられる私の代わりに主は立たれた
 ご自身の血潮で私の赦しを確かなものとしてくださった
 ハレルヤ、ああ、あなたは何という救い主でいらっしゃることでしょうか

 Bearing shame and scoffing rude In my place condemned He stood; Sealed my pardon with His blood; Hallelujah, what a Saviour!

ダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。―彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。―彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、神の前に祈り、感謝していた。(旧約聖書 ダニエル6・10)

(文章は最初の数行の文章と最後の聖句を除き『D.L.Moody』by C.R.Erdmanの110~112頁の意訳である。意訳であるので怪しいものは英文を連記した。なお文章中※をしるしたのが日々の歌148番、聖歌476番だと思う。写真は先週土曜日彦根の家庭集会に出かけたおり、彦根城内堀近く母校彦根東高校の北端の一角で見つけた梅の木である。)

2010年3月12日金曜日

寿ぐ人へのお礼


 過日、親しい方の結婚式に招待されたことはすでにお話したとおりである。結婚式では結婚式のメッセージ、結婚する二人の証(どうしてイエス様を信じたか、またどうして結婚に導かれたかの話)が中心であるが、最後に親族代表の挨拶というのがある。親の立場からお礼を言うものだ。

 過日の親族代表の挨拶は大胆なものであったが、その方の真情が吐露されていて大変感銘深いものであった。何しろ結婚式の締めくくりの挨拶で、その方が最近経験された妻を亡くされた方の葬儀の話をされたからである。結婚する二人、また圧倒的多数のお祝い客を前にその方は「死が終わりではない」夫婦のあり方を話されたからである。その方は私の出身高校の後輩になる方であった。もう一度拝聴したい思いでいる。さて、以下に掲げるのは、その時の挨拶ではなく、別のある人の親族代表の挨拶である。

 大変遅くまで披露茶話会におつきあい下さって心から御礼申し上げます。

 二人の証を聞いている中で、恐らくMさんのお父様のK様またお母様のC様も小さいころのMちゃんがいつの間にか大きくなり、こうして一人の男子のところにとつぐ決心にいたったことを皆さんの前で話し、その上イエス様ご自身の愛をはっきり証しておられることを見てさぞかし感無量でなかろうかと思います。
 
 私自身もあのNが今こうして結婚するんだと思うと本当に感慨深いものがございます。Nと私の関係は決してよくありませんでした。お互いに感情に任せ取っ組み合いの喧嘩をし、なぐりなぐられ(5人も子供が与えられるとそれぞれ思い出がありますが・・・)たこともあり、本当にNとはお互いに傷をつけあった間柄であります。けれどもただ一人、というよりも主なる神様、イエス様が私たち二人の間に入ってくださり、私たちに真の和解と平和を与えてくださいました。それからは私は安心して彼のことを見られるようになりました。

 けれども今回の結婚式についてはすでに三人目なのですが、前回、前々回とはまた違った意味で準備の点で大いに試みられました。二人の間に何かがあったということではないのです。準備の過程で「暴風雨」が吹き荒れた思いをしました。現在、世界経済・日本経済ともに大変な状況にあり、企業の責任を負っておられる方々にとり、その環境はやはり一種の「暴風雨」というべきものではないでしょうか。限られた準備の中で不意に訪れた想定外の出来事は短期間でしたが私たちを不安に陥れました。何よりも結婚式の当事者の二人がこのことにつまずかないようにと祈るばかりでした。

 しかし、主は勝利してくださいました。今日の結婚式がその答えであります。誰の勝利でもない。主イエス様が嘉(よみ)してくださったとしか言いようがありません。もし私たちが完全であり、私たちの努力が成功を収めたのなら、私たちが有頂天になるだけです。しかし私たちは駄目でしたが、それがこのように祝福されたとなるとそれは主イエス様のお陰としか言えないのであります。今となっては、暴風雨と思われたことも、それを通して私たち自身の思いが練り清められるのが目的だったとはっきり言えます。

 そしてこの二人の結婚のためには何よりも多くの方がお祈りし、具体的に犠牲を払って様々な準備をしてくださいました。また二人を祝福するために祝日にもかかわらず、遠方からわざわざ駆けつけてくださいました。二人にとって何と心強い支援であったことでしょうか。二人はそのことを決して忘れないでしょう。改めて厚く御礼を申し上げます。

 だから、今回の結婚式もまた私は次のみことばを体験させていただいたと言いたいです。

主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。(箴言10・22)

 明日はクリスマス・イヴであります。

あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。(2コリント8・9)

と、聖書は語っています。イエス様は私たち一人一人を愛して十字架にかかってくださいました。神であられるイエス様が人となって来てくださるだけでなく、挙句の果てには私たちの罪の身代わりに十字架にかかってくださったのです。クリスマスはそのことの始まりであります。私たちは生まれながら自己中心の性質を持っております。それが罪です。けれどもこのイエス様の十字架の愛を見上げるときに、お互いが「自己中心」の思いから解放され、許しあうことができるのであります。そして許しあうだけでなく、もっともっとイエス様に仕えたいという思いが与えられるのではないでしょうか。今日二人はそのことを証してくれたのではないでしょうか。

 私はこれからが本番である結婚生活という実生活の中で二人が主の力を借りてそのことが日々できるように(結婚式の誓約のことばにあったように)祈りたいですし、皆様にも引き続いてお祈りいただきたいと思います。二人が生活するパリの生活は決して楽なものでないでしょう。確かにパリと言うと私たちは華やかさをイメージしますし、様々な芸術文化を持ち、洗練された面だけを見ています。しかし、私は、福音に根ざさない文化が、いかに空しいかまた結局は滅びるものでしかないことを、聖書を通して教えられてきました。どうか、この二人がパリの生活に流されることなく、しっかりと福音に根ざした歩みができますようにお祈りいただきたいと思います。

 また最後に二人に希望します。日本にいる今日列席してくださった方を始めとして、お世話になった方々、多くの友人、それぞれの両親、兄弟たちのために忘れずに祈っていただきたいということであります。どうも変な形のお礼になりました。皆様から多くの祝福をいただいたことを心から感謝いたします。

(写真はパリのオデオン座の天蓋。「三月の この日忘れじ 鉄槌を 神より受けし 往年の雪」「今頃は パリに着けるか 花嫁の 神より受けし 祝福なり」)

2010年3月11日木曜日

読んだことがないのか 小原十三司


「あなたがたは、この聖書の句を読んだことがないのか・・・」(マルコ12・10) 「あなたがたは主の書をつまびらかにたずねて、これを読め。これらのものは一つも欠けることなく、また一つもその連れ合いを欠くものはない。これは主の口がこれを命じ、その霊が彼らを集められたからである」(イザヤ34・16)

 今年は新たな意味において聖書を読むことを始めている。昨年は不思議な導きと刺激とを受けて聖書を読むことに専念した。特に詩篇を選んで11か月間に12回通読した。誠に粗雑なことであったが、しかしそれでも収穫は多かった。今年は「その恵みをもて年の冠とされる。あなたの道には油がしたたる」(詩篇65・11)との聖言に励まされて、聖書を読むときに、何と言うお恵みだろうとしみじみ感謝している。

 年一回の聖書通読暦は、創世記と歴代志下とマタイ福音書から始められている。福音書を読み続けて、冒頭の聖言にぶつかった。主イエスの何と言うチャレンジだろう。わたしも何かの問題にぶつかって、それが神のみ心をいためるような事を言ったり、したりする時、主は同じような事を仰せられるのではないだろうか? と自問して止まない。キットそうだろう。なぜなれば・・・今までもっと聖書を読めばよいのだ、更に深く、そして聖霊によって熟読玩味して、神のみ旨とみ心を学んでおれば・・・と、いくど教えられ感じたか知れない。それなのに、何と言う不十分なことであったろう。

 そこで新しい決意をもって始めている。すべての事に先んじて、先ず聖書を読め!! 信じて祈れ、今聖霊に満たしたまえと・・・かく信じて立ち上がる時に、全く不思議なように、恵みがその冠である事を自覚する。そして真実「わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに」(エペソ3・20)日々栄光を帰することができるのである。

 「あなたがたは、この聖書の句を読んだことがないのか・・・神がモーセに仰せられた言葉を読んだことがないのか」(マルコ12・10、26)と、神には力があり、知恵があり、また恵みがある。更に同情とあわれみとに満ち、「時機を得た助け」を与えるために待ち受けておられる。主イエスは仰せられる、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」(マルコ10・27)と。

 そこで、もう一度出直そう。「汝等勉め励みて主の書の中を探りつつ読め」(イザヤ34・16ヴルガータ訳)今に予言の一つ一つもみな成就するであろう。パウロの「わたしがそちらに行く時まで、聖書を朗読すること・・・に心を用いなさい」(1テモテ4・13)との勧めに従って、主イエスの来たるを待ち望みつつ、聖書をつまびらかにたずねて読む者にしていただきたい。そうすれば、ウエスレーやミューラーや、ムーデーの受けた祝福が私たちにも与えられるに相違ない。お互いに勉め励みて前進しよう。

(文章は『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著74頁より引用。写真はロダン作「パンセ」。40数年前に東京の美術館で初めて見た。偉く感動して、その前から動けなくなった記憶がある。当時無神論者であった私は「精神」はそのようにしてしか形成されないと思っていたからだ。それからしばらくして勤めていた学校図書館で一冊のパスカルによる『イエス・キリスト小伝』を読んだ。主を信じようと思った。爾来無神論者変じて40年間主を信ずる信仰者に変わった。今から6年前、ルーヴル美術館で再び対面した。あの若き時の感動はすっかり薄れてしまっていた。しかし何の造作もなくそこらへんに転がっている感じで展示されていたのには、内心驚かされた。「罪咎も イエスの血にて 贖われ  新創造と パンセ語りし」「聖言に 従いたしと 変えられし みわざ思えば 懐かしロダン」 )

2010年3月8日月曜日

11章 THE GOSPEL IN SONG (3)


 サンキー氏はスコットランドを訪れるまでは礼拝に必要な賛美歌を作曲したことはなかった。彼の処女作はボナー博士の美しい詩「Yet There is Room(まだ部屋があります)」のための作曲であった。二作目の賛美歌は「I’m Praying for You(わたしはあなたのために祈っています)」であり、すぐに広がり、今でも世界のあらゆる地域で、特に福音集会で演奏され歌われている。彼は多くの賛美歌を書き続けたが、そのうちの数曲は明らかに様々な形で用いられている。これらの中には次のようなものを上げることができる。「汝のうちに隠れて」「イエスに信頼せよ、それがすべてだ」「靄が過ぎ去るとき」「嵐の時の避難所」「時が過ぎ去りつつあるのに」「御翼の下で」「信仰は勝利」「もはや暗き谷はない」である。

 彼は偉大な作曲家でもなかった、また指揮者として傑出していたわけでもなかった。しかし、ソリストとしては音楽と音楽家を二つながらつかみ、聴衆に真実で明確な印象に残るメッセージを届け、かつそのメッセージを各自の心に植えつけることに成功した。サンキーの歌声に耳を傾けると人々は歌い手のことを考えずして、歌だけを考えることができた。何千という人々が彼の賛美歌のおかげで心をキリストに明け渡すことができた。多くの人がサンキーが歌うのを聞きたさにやって来ては、結果的にムーディーの説教を聴いたのだ。そして説教では動かされなかった多くの人々が歌によって心動かされた。様々な人々から構成されている群集は音楽をとおして心が耕され、引き続いてなされる聖書のメッセージに心を開いて耳を傾けることができた。

 サンキー氏はムーディー氏のあらゆる計画に協力を惜しまなかった。求道室で皆と一緒に奉仕したり、歌手たちの働きに参加し、ボランティアとしてはクワイアの指揮もやった。彼は大柄の体格の持ち主であったが、同時に大聴衆を直ちにひきつける特別な賜物を持っていた。ムーディー氏のようにユーモアのセンスを持ち、話好きであった。彼は話すのが好きだったので、よく自分のソロには前置きの話をしたものだ。それでムーディー氏は氏の話が長くなりすぎるのを心配して、聴衆に次のように言って楽しませたことがある。それは彼が各自に与えられている「賜物」に関する説教をし、めいめいがそれぞれの賜物を用いるようにと勧めた時のことだ。サンキー氏の長所に言及しながら、「世の中には説教できる人もいれば、歌を歌える人もいるものだ。たとえば、私は良く歌を歌えないが、説教はする。サンキーは説教はしないが、歌を上手に歌う人だ」という具合に。

 サンキー氏はイギリスの大きな集会のすべてや、またアメリカの最も重要な伝道に必ずムーディー氏と一緒だった。彼は「福音聖歌」を次から次へ編纂し発行するのに貢献した。それらは印刷に回されては何百万冊も販売された。これらの本からあがってくる印税からかなりのお金を彼は受け取ったが、彼の自伝によると、彼は自分の故郷の町ニューカッスルにAssociation(協会?)の建物を建設し、「昔の教会」のために「美しい一帯」を購入した。
 
 彼はムーディー氏より九年長生きしたが晩年は体をすっかり弱くし、完全に失明する暗黒も経験した。彼が眠りにつき、自らの歌の示すとおりの「靄が過ぎ去る時」という幻を抱いて召されたのは1908年の8月であった。彼が始めたころは福音聖歌を歌ったり書いたりする方法は全然なかったが、彼のおかげで世界中に福音聖歌がはやり、もっとも広範囲の人々に影響を与えたのであった。

 ムーディー氏とサンキー氏は二人三脚であったのでないだろうか。彼らの友情を思って、今日は旧約聖書中に記されている、次のダビデのことばを掲げる。

あなたのために私は悲しむ。私の兄弟ヨナタンよ。あなたは私を大いに喜ばせ、あなたの私への愛は、女の愛にもまさって、すばらしかった。(2サムエル1・26)

(上記主文章は『D.L.Moody』by C.R.Erdmanの109~110頁の意訳である。写真はサンキー〔1840-1908〕氏である。彼の作曲になるものは日本の聖歌には全部で7曲収められている。243、405、429、463、490、514、606がそれである。この中で606番が彼の二作目の作曲「I’m Praying for You(わたしはあなたのために祈っています)」である。旧版聖歌集は「すくいぬしにましませど」と題しているが、この最後の4小節が「われいのれり」「われいのれり」「われいのれり」と三度繰り返され最後の小節あたりに「ながために」で結ばれている。これも490番の「九十九ひきの羊は」と同様にサンキーの心を今に伝えるものだ。なお、キリスト集会が使用している「日々の歌」では2曲収められており、140番〔救い主イエスは私を〕が同じ聖歌606番であり、あと163番〔われは幼く〕である。この原題は「Trusting Jesus, That is All」である。上の文章中で「イエスに信頼せよ、それがすべてだ」と訳したのがそれにあたる。)

2010年3月7日日曜日

ご結婚おめでとうございます


 土曜、日曜と西軽井沢福音センターで行われた結婚式のための出席を兼ねて長野県の御代田に出かけた。金曜日は全国的に気温が上昇して信州もその影響下にあったが、夜からは気温が低下したようだ。ちょうどこちらを出かけるころは曇りであったが碓氷峠に差し掛かるころから濃霧に覆われた。

 前日が天気が良かっただけに、急変する天気に内心びっくりさせられた。できれば結婚式は晴れやかな晴天の下でさせてあげたいなと思っていた。しかし、いざ終わってみると、そんなことはどうでもよいことに気づかされた。何よりも結婚されたお二人が主イエス様にあって結び合わされたことがはっきりしていた。それだけでなく、式に始まり、披露宴までが、すべて聖霊なる神様がご支配されるさわやかな結婚式であったからである。

 私は二人の結婚式のお証をとおして次の聖書の箇所を示された。それは族長アブラハムが妻サラの死後、一人息子であるイサクのお嫁さん探しに、遠く離れた生まれ故郷まで、しもべを派遣する場面である。

しもべは主人のらくだの中から十頭のらくだを取り、そして出かけた。また主人のあらゆる貴重な品々を持って行った。彼は立ってアラム・ナハライムのナホルの町へ行った。彼は夕暮れ時、女たちが水を汲みに出て来るころ、町の外の井戸のところに、らくだを伏させた。そうして言った。「私の主人アブラハムの神、主よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。・・・(創世記24・10~12)

 しもべは、一体だれが主人の大切な息子イサクの結婚相手がふさわしいか知らない。またたとえ見つかったとしても、どのようにしてその女性を説得して、その娘さんにとっては異郷の地である主人アブラハムの地まで連れて来ることができるのだろうか。その祈りが前出の記事である。

 しかし、しもべのこの祈りは長い旅路の末、目的地に着き、まず件の娘さんに出会い、叶えられる。祈りは答えられたのだ。

そこでその人は、ひざまずき、主を礼拝して、言った。「私の主人アブラハムの神、主がほめたたえられますように。主は私の主人に対する恵みとまこととをお捨てにならなかった。主はこの私をも途中つつがなく、私の主人の兄弟の家に導かれた。」(創世記24・26~27)

 しもべははからずもアブラハムの兄弟ナホムの孫にあたる娘リベカを主君の息子であるイサクのお嫁さんとして探すことに成功したのであった。そしてこのリベカもまた果敢にも、まだ相手がどんな男であるかも知らずに、生けるまことの神様を信頼して、しもべと一緒に行をともにし、将来の夫君の下へと急ぐのであった。

イサクは夕暮れ近く、野に散歩に出かけた。彼がふと目を上げ、見ると、らくだが近づいて来た。リベカも目を上げ、イサクを見ると、らくだから降り、そして、しもべに尋ねた。「野を歩いてこちらのほうに、私たちを迎えに来るあの人はだれですか。」しもべは答えた。「あの方が主人です。」そこでリベカはベールを取って身をおおった。しもべは自分がしてきたことを残らずイサクに告げた。イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカをめとり、彼女は彼の妻となった。彼は彼女を愛した。イサクは、母のなきあと、慰めを得た。(創世記24・63~67)

 お証を通して、結婚されるお二人のそれぞれが人生の辛酸をこれまで十分経験されてきたことがわかった。新郎は生まれられたご家庭の中で幼き時から翻弄されながらも、しっかりと人生を生きてこられた。しかも何年か前、最愛のお母さんを亡くされ今や孤独の身であった。一方、新婦は恵まれた家庭に育たれたが、帰国子女として悩まれた。真剣に生きてきたつもりの人生も、のちに勝手気ままなる自らの人生の歩みと断ぜざるを得なかった。そのような彷徨の生活で傷つきながら、真の愛を求めておられた。そして主イエス様の救いにあずかられたのであった。全く環境の異なるお二人がもし主がおられなければ決して一つには結び合わされることはありえなかった。ここまで思い至ったとき前出の聖書の場面を思い出したのであった。

 新郎はその証の中で「私は新婦を通して、いのちのパンを食べることを知りました。Mさんは私よりすでにたくさんこのパンを食べておられ、私よりはるかに聖霊に満ちあふれる生活を経験されていますが、これからは二人してこのいのちのパンを一緒に食べられますので感謝です。そしてだれよりもまだそのパンを食べる喜びにあずかっておられない方々にイエス様をご紹介したいです」という意味のことを言われた。

 多くの方がこのお二人の結婚のために祈られ奉仕された。(私も新婦が家内の高校時代の親友の娘さんであったこともあり、祈らせていただいていた。)しかし主の祝福は二人だけでなく、招待されたご友人方130名余の方をふくめ当日集ったすべての人々に及んだ。

 今朝は土曜日の結婚式当日とまた打って変わり、長野県御代田地方は朝から雪だった。一夜にして顕われた白銀の世界に私は再び目を見張らされた。

たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。(イザヤ1・18)

(写真は今朝の西軽井沢福音センターの車寄せの景色。「白雪の ヴェールなりき 主の愛」「二人して 雪忘れまじ 結び合い」)

2010年3月6日土曜日

沈丁花本番


 何回でも書きたいと思う。それだけ主の祝福が大きいのだ。昨日も闘病中の愛するAさんをお見舞いして、お交わりをいただいて喜んで帰ってくることができた。

 Aさんは段々体が動かなくなってきた。食事も消化の良いものを食べるようにしているが、最近ではもどすことがある、とおっしゃった。そのような彼と男同士で延々と二時間程度話しをする。歴史から今の政治状況や未来の日本の行く末を知って慨嘆されるAさん。私はもっぱら聞き役である。

 中国の撫順で生まれ、お父様は戦後復員される。生きて虜囚の辱めを受けず、との戦陣訓にもかかわらず生き延びるために日本に帰ってきたとき、日本の敗残兵を迎える視線は冷たかったと言う。長男として彼もまたその戦争の傷跡を受けて育った。しかし、自身の成長に合わせるかのように、世はもはや戦後は終わったと称し始めていた。何よりも彼自身が父親と違って今度は高度経済成長の企業戦士として大いに活躍した。

 その彼が定年後に経験したのは一昨年の癌の発病であった。爾来、押し迫る病苦との闘いが続く。彼の負わされた十字架である。友人を通してイエス・キリストの救いを受けられたことは全くもって僥倖であった。しかしにわか仕立てのキリスト者として、様々なこれまで歩んできた人生の残滓がある。そんなものが今もAさんを捉えて離さない。お嬢さんに五木さんの「親鸞」を買ってきて欲しいと所望したということである。彼の飽くなき知識欲は今も衰えていない。

 今日は私の出身地彦根の話から、井伊直弼論が飛び出し、それから話は発展して徳川慶喜論まで聞かされた。エンジニアーとして生きてきた彼だが、つねに彼の念頭を離れないのは原爆投下を行った人々を始めとする悪への断罪の言葉である。しかし所詮それは自分自身を含めて人間は罪人であることと同義であることに気づいている。そんな人間への鎮魂の思いが彼を捉えている。

 頃合を見計らって、私は聖書を取り上げる。神の言葉である聖書が何と語っているか、それが私と彼との共同作業でもあるからである。今日はローマ8章を取り上げた。ほとんど解説抜きである。互いに一節ずつ輪読する。彼は寝たままの姿勢で重い聖書を持ち上げつつ、老眼鏡もつけずほとんどつかえることなく、声に出して読み上げる。私は彼のベッドの脇で老眼鏡に頼りながらリードしていく。本当言って、途中(25節)で打ち切るつもりでいた。しかし委細構わず、彼の熱意は終わりに向かって疾駆した。とうとう39節まで全て読み終えた。

 病床にいる彼を誰が慰めることができようか。しかし聖書の生きた言葉は彼の衰えようとする精神を再び生き返らせる。まさしく次のみことばのとおりである。

私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。・・・ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(2コリント4・11、16~18)

 病床で朽ち果てんばかりの病苦においやられていく彼と、こうしておよそ一年になんなんとする、聖書読みが続いている。彼はまさか私のたましいを救うためにも自分が生かされているとは思っていないかもしれない。しかし私にとってこの彼の存在はこの上もなく尊い。ましてや主イエス様は彼を高価で尊いと言われる。晩年に闖入した私という存在を彼もまたやさしく受け留めてくれている。

 ただ主に感謝するだけだ。

(写真はAさん宅の庭の沈丁花。生き生きとして威勢が良い。この窓の奥にAさんは病臥している。「ひとめぐり 沈丁花の 香新たに」「愛するは 沈丁花に 向かう人」)

2010年3月5日金曜日

愛は深い―昨日の家庭集会から―


 20年前良く泣いた。それは通勤途上でもそうであった。もっとも私の通勤は30分程度の自転車通勤であったのだが。その原因はウォークマンをとおして聞こえて来る吉祥寺キリスト集会という群れにいる人々の聖書のメッセージや証にあった。20年前の今頃、我が家は毎日毎晩それまで集っていた教会を出る出ないで家族内が引き裂かれるように混乱していた。その委細は省略するが、数ヶ月の葛藤苦しみの末、5月には私自身20年間集っていた教会、しかも自らが自主的に選んだ教会を退会した。私の人生でもっとも大きな決断であり、地殻変動とも言うべき出来事だった。

 私が泣いたのは、他でもない。自分が全く自己中心の生き方しかしていなかったことの悔い改めであった。今朝読んだ聖書のみことばに次のものがあった。

私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。(ローマ14・7~9)

このみことばは私にとって死語であった。「私は主のものです。」とこれっぽちも思ったことはなかった。だからこのパウロのことばは当時の私には、何のことを言わんとしているかわからなかった。

 教会20年の生活で、最初こそみことばを真剣に求めていたのに、いつの間にかそれがなくなってしまっていた。それは教会役員としてみことばに聞き従うより、組織としての教会を建設することに一生懸命にならざるを得なかったからである。教会のかしらであるイエス様の存在は教理として頭で理解していた。しかし、現実の自分は、今も生きて働いておられる主イエス様のみわざを信じていなかった。それを知ろうとも、もちろん目に見えない今も臨在される主イエス様を愛そうなんて、そんな意識はまるでなかった。要するに、生き生きとした、主イエス様に対する信頼がなかったのである。

 ところが教会を出て、今出席している集会に出た時、通勤途上のウォークマンを通して絶えず聞かされたのは赤裸々な自らの悪行を臆面もなく語ることばであり、その罪を赦された主イエス様に対する限りない感謝と愛の告白のことばであった。そのようにしてひたすら主イエス様に向かう人々の思いが20年前の私には極めて新鮮であった。鉛のように、また澱のように淀んでいた主イエス様から離れて罪を罪とも思わなくなっていた私の心に、それらの人々の言葉をとおして主イエス様の愛は再び怒涛のごとく流れ込んできた。私がその愛に対してお返しするのはただ悔い改めの涙以外しかなかった。

 それからまた20年が経過している。昨日は拙宅で家庭集会を開かせていただいた。多くの方が集ってくださった。お一人お一人のお顔を見て嬉しくなり、励まされた。八王子から来てくださる方のメッセージは一時間を越えた。その後、一人の私と同年代のご夫人の証をいただいた。メッセージと証は一体であった。なぜかとめどもなく涙が出てきた。できれば人目もはばからずそこでずっと泣いていたかった。

 その方はお寺の深窓でお生まれになり育たれた。本堂の仏像に囲まれた生活が彼女の生育環境であった。しかし、なぜか彼女はお堂の太い柱を回りながら、「ここには何もない」「ここには何もない」と独言(ひとりごち)したそうである。一方、そんなお寺で育った幼子である彼女が小さいころから耳にしていたのはラジオから流れ出る「ルーテルアワー」のテーマソングの曲だった。なぜか彼女はその世界に心惹かれるものを感じた、と言う。

 同世代の私にもその記憶がある。テレビっ子の今の世代と違い、私たちはラジオですべてを吸収した。ラジオは私たちに無限の夢を与えてくれた。小説、文学、音楽、相撲、野球、科学いずれの分野もすべてラジオが私たちの想像と独創への翼となってくれた。その中に確かにルーテルアワーのようなキリスト教の番組があった。その一齣がお寺の境内を取り囲んでいた豊かに展開した自然の風物とともに幼きときから彼女がひそかに憧れた世界であった。長ずるに及んで、夫君に連れられ教会を訪れることになる彼女はそこでまことの生き方を知る。二度と帰ることのない暗闇の世界でなく、光輝く世界であった。

光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ1・5)

 そして、ご家族全員が主イエス様の救いに預かられる。それだけでなく、お寺のお父様もお母様もそれぞれの人生の苦しみ悩みの現実を一手に引き受ける生活の中で主の十字架の贖いの愛を体感され召されて行かれた。わずか20数分のお話であった。しかし私は再び滂沱(ぼうだ)の涙に明け暮れたのだ。それは彼女が言われた二つの言葉と一つの事実であった。臨終の時であったか、いつであったか、お父様が、彼女が洗礼を受けたことを報告したとき、病の床から起き上がり、居住まいを正して「それはよかった」と言われたことである。

 あともうひとつはあのラジオの存在である。4歳の自分、幼子である自分の手の届かないところにあったラジオからどうしてあのルーテルアワーがスイッチも切られずお寺のお堂の中を流れていたのか、と彼女は不思議なことであったと回顧する。そうだ、あのラジオは父が聞いていたのだ、そして自分もその恩恵にあずかったのだ、ということであった。

 光はたしかにやみの中に輝く。そのことに思い至ったときに私の主イエス様に対する不信仰さを改めて思わされたのであった。しかもこの日のメッセージはその悔い改めは、個人個人の問題にとどまるのでなく、主イエス様を愛する人々の集まり、交わりの中で生み出されるのだ、と語られていた。そしてこれが今私たちが建設しようとしている教会(エクレシア)であると結ばれていた。

互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。(新約聖書 ヘブル10・24~25)

 ここまで書き終えて、大切な彼女の証の核心部を抜かしていたことに気づいた。それは彼女が言わんとした「やみ」は単なる仏教寺院の堂内の暗さではなかった(のではないということである)。彼女がお寺の出にもかかわらず、主イエス様を求め家族で喜んで集ってい た教会をあとにせざるを得なくなった事情が語られたからである。それは、その教会が、いつの間にか、人間が中心になった組織に堕してしまったからである。その「やみ」をも照らされるのは主イエス様ただお一人であった。それは冒頭に述べたほろ苦い私自身の経験と涙を思い出させ るものであった。あだやおろそかに主イエス様のきよめのみわざを私たち自身が否定することのないようにと、切に祈る思いでお聞きせざるを得なかった。

(写真は今朝のクリスマスローズ。久しぶりに晴天である。)

2010年3月4日木曜日

父は栄光を受ける 


 旧ブログ「泉あるところ」(http://livingwaterinchrist.cocolog-nifty.com/blog/)の10月4日以来中断していたアンドリュー・マーレーの「まことのぶどうの木」の再開である。通算17回目になる。あと16回ほど続く。

「あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう」(ヨハネ15・8)

 私たちはどのようにすれば神の栄光を輝かすことができるであろうか。それは神の栄光を増そうとするのでもなく、栄光を新しく加えようというのでもない。ただ神の栄光が、私たちの中に、そして私たちをとおして世に現れることによって、光り輝くようにすればよいのである。多くの実を結んだぶどう畑の農夫は多くの称賛を受ける。というのは、それは農夫の技術と手入れのよいことを物語っているからである。それと同じように、弟子が豊かな実を結べば、父なる神はあがめられる。人と天使との前で神の恵みと力との証拠が示されて、神の栄光はその弟子をとおして輝くからである。

 ペテロが、「奉仕する者は、神から賜る力による者にふさわしく奉仕すべきである。それは、すべてのことにおいてイエス・キリストによって、神があがめられるためである」(1ペテロ4・11)と書いているのはこのことを意味するのである。人が神だけから来る力によって働き、奉仕する時、神はすべての栄光を受けられる。私たちがすべての力が神だけから来たことを告白するとき、その働きをする人も、これを見る人も等しく神の栄光を輝かすことができる。なぜなら、それをされたのは神ご自身だからである。人は畑になっている果実を見て、栽培人の腕前を判断するものだ。そのように、人は神の植えられたぶどうの木に実る果実によって神を判断するのである。わずかな実りはぶどうの木にも農夫にもけっして栄光をもたらさない。

 私たちは時々、実りの少ないことを私たち自身や仲間の損失として嘆き、その原因は私たちの弱さによると訴えてきた。しかし実りの少ないことから生じる罪や恥は、むしろ神が私たちから当然受けるべき栄光を、私たちが神から盗み取ったことにあると考えるべきである。神が与えられる力を役立て、神に栄光をもたらす秘訣を学ぼうではないか。「あなたがたは何一つできない」というみことばを全面的に受け入れること、神がすべてをされるという素直な信仰を持つこと、そしてキリストにとどまること(神はキリストをとおしてみわざを行われるからだ)、これが神に栄光をもたらす人生である。

 神は多くの実を求められ、私たちが神に多くの実を差し出すかどうかを見ておられる。神は少しの実では満足なさらないのだ。私たちも少しの実で満足してはならない。キリストの「実」、「もっと多くの実」、「豊かな実り」というみことばを、キリストが考えられるとおりに私たちも考えることができるようになるまで、そしてキリストが私たちのために結ばれた実を、いつでも受け取ることができるようになるまで、私たちの心にとどめようではないか。そうしてこそ父は栄光を受けられるのだ。ご命令の最高まで実を結ぶことが私たちの義務である。それは私たちの能力をはるかに超えたことであるだけに、キリストの上に私たちのすべてを投げ出さねばならない。主は私たちの中にそれを実現させることができるし、また必ず実現されるに違いないのだ。

 神が多くの実を求められるのは、神がその力を示すためではない。実は人の救いのために必要なのである。それによって神は栄光を受けられるのである。私たちのぶどうの木と農夫に多くの祈りをささげようではないか。父なる神に人の糧である果実を私たちにくださるように一生けんめい願い求めようではないか。キリストがあわれみの心を動かされて重荷を負われたように、私たちも飢えている人や死にかかっている人の重荷を負ってあげようではないか。そうすれば、私たちの祈りの力と、私たちがキリストにつながっていることと、父の栄光のために多くの実を結ぶこととは、私たちが今まで考えることもできなかったほどの現実性と確実性とを持つようになるに違いない。

祈り
「『父は栄光をお受けになる』とあなたは言われます。何という恵まれたお見通しでしょうか。神は私の中でご自身の栄光を現わされます。神は私の中で、そして私をとおしてみわざを行われることによって、慈愛と力との栄光を示されます。神が私の中で多くのみわざを行われるように、私にも多くの実を結べと命じられるのは、何という恵まれた尊いみ教えでしょう。父よ、私の中であなたの栄光を現わしてください。アーメン」。

(文章は『まことのぶどうの木』安部赳夫訳の引用である。「稟として 沈丁花の 薫香よ」 「待ち焦がれ 沈丁花の 来る春」)

2010年3月3日水曜日

病床にあった妻の夫への手紙(3)


 一人の異国の病床にあった方の手紙を紹介してきたが、ずっと中断してしまった。その後の彼女はどうしたのだろうか。間を抜かして1月26日以降の手紙を抜粋させていただく。

(ジュネーヴにて 1931年1月26日)
 いつもいつも、御自分の脈を見ておいでになってはいけません。「自分は信仰的に進歩したのだらうか、それともしないのだらうか」と、繰り返し御自分におたずねになってはいけません。わたくし共自身がそれを少しも感じないといふことこそ、信仰の本質でございます。わたくし共は本たうに単純に、その日その日を送らなければいけないと存じます。目前の務めを出来るだけよく果たして、余のことは皆―信仰の進歩も含めて―神様の御手におまかせしなければいけないと存じます。わたくし共自身ではなしに、神様だけがわたくし共の魂と生命の支配者なのでございます。神様は、お望みのものをお望みの時に、わたくし共からお創りになります。

 わたくし共のただ一つの努力は、神様の愛と全能の御手の中に身を置いて、静かに、さうして喜んで、神様に身をゆだね切るといふことでなければならないと、存じます。ああ、それにはわたくしはまだまだ、だめでございます。今でもやはりわたくしの心は、最初の一吹きでもう、怖れと気後れで一杯になってしまひます。・・・あなたは、わたくしの信仰上の進歩といふことをおっしゃいます。もし信仰上の進歩といふものが、わたくし共が自分をだんだん小さなもの、不安なもの、無用なものと感じることでございますなら―「自分は、神様がこんなものでも用ひようと思召しになる、使ひ古した銹びた道具のやうなものだ」と、思ふことでございますなら―わたくしも、ほんの少しは進歩いたしましたのかも知れません。けれども、それだけでございます。そして本たうにへり下った思ひで申し上げますけれども、皆さまがわたくしについておっしゃいますことを聞きますと、わたくしは大へん恥しうございます。忠実な証人(あかしびと)になりますことは、わたくしの一番大きな望みなのでございますから、それは嬉しいのでございますけれど、自分が相変わらず、神様の婢(はしため)となるには余り相応しいものではないといふことは、やはり恥しうございます。

(ローザンヌにて 1931年2月8日)
 わたくしも×夫人のやうに「もし私の病気が治ったら、それはお祈りで治ったのです」とは、申せませんでせうか。わたくしのためにお祈り下さったのは、一人ではなく大勢の方でございますもの。それはともかくも、わたくしは、神様がもしさうしようと思召すならば、わたくしをお治しになれるといふことを知って居ります。また、良かれ悪しかれ、今後起りますことは、神様の御意(みこころ)であることを知ってをります。

(ローザンヌにて 1931年2月16日)
 わたくしの容態についてお尋ね下さいましたけれど、容態は大へんよろしうございます。このことについてお尋ね下さる皆さまに、左様お伝え下さいませ。二三ヶ月前と同じやうに幸福な健康状態にいるといふだけではございません。その言葉の本たうの意味で幸福なのでございます。わたくし共の結婚の最初の数年と同じやうに幸福なのでございます。ですから、この数年の間よりも、ずっと幸福なのでございます。一月後には自分がどのやうになるか、またロンドンに帰りましたらどのやうになるか、わたくしにはわかりません。ただ、只今の一時は、わたくしは大へん元気でございます。

(ローザンヌにて 1931年2月22日)
 魂の救ひについておっしゃいますこと、わたくしにはよくよくわかります。結局それだけが、努力する値うちのあることでございます。そして信仰といふ点からも、全くの心理といふ点からも、それは強くわたくし共の心をとらえます。一つの魂をその深みにまで究めるといふことは、なんといふ驚異でございませう。そして、この魂を助けることが出来るといふことは、更になんといふ大きな驚異でございませう。わたくしは誰か人と接触いたしますと、その人を究め尽くして懺悔に導きたいと、あまり熱望いたしますので、人に「召しによる悪指導」と言はれかねないくらいでございます。けれども、もし愛をもっていたしますならば、それは良い行ひと信じます。いえ、良い行ひであることを、わたくしは知ってをります。自分に出会ふ人々の外面しか見ない人を、わたくしは本たうに気の毒な方と存じます。

(以上は『その故は神知り給ふ』井上良雄訳65~67頁の引用である。旧かなをなるべく残した。いつも同じことを言うが、この手紙文は女性らしさが出ていていつも感動する。ところが一方「婢」の字を印字するために女扁の漢字を探していたら、実に様々な女扁の字が出てきた。まさしくエバそのものだった。その中で「婢」はエバの末裔マリヤのことばだと思い至った。「人はうわべを見るが、主は心を見る。」〔1サムエル16・7〕。久しぶりに晴れ間が出た。庭のバラもやっと蕾を開いた。かくして、花瓶におさまる記念写真と相成った。)

2010年3月2日火曜日

11章 THE GOSPEL IN SONG (2) 聖歌429番『九十九ひきの羊は』


 サンキー氏は続いて物語を続けている。「ノースフィールドの新しいコングリゲーショナル教会のために隅石を置こうとしていた時、ムーディー氏が私に隅石に立ってオルガンの伴奏なしに「九十九ひきの羊」を歌ってくれと言った。彼はこの教会の使命は失われた魂を捜し求めることにあると切に望んでいたからであった。私が歌っている間、ムーディー氏の家の近くの小さな小屋で死の床にあったカルドウエル氏は川沿いで歌を聴いた。ちょうどその時、彼は妻をベットサイドに呼んで南の窓を開けてくれと言ったのだった。彼は誰かが歌っているように思ったからであった。二人は一緒になって彼をいのちに導くために用いられてきたあの歌を聴いた。しばらくして彼は息を引き取ったが、天国の大牧者のもとへと凱旋していった。」

 この特別な賛美歌の始まりに関して(もっともこれもサンキー氏自身が語ることによるのだが)、その述べていることを信ずることはそんなに難しいことではない。彼が初めてスコットランドに行った時、グラスゴーからエジンバラまでムーディー氏と一緒に旅していたが、たまたまアメリカの新聞に載っていたエリザベス・クレファンの詩を読んでいた。その詩を切り取り、賛美歌の間に挟んでおいた。

 翌日伝道者たちはエジンバラの大きなフリー・アセッンブリー・ホールで集まりを持っていた。ムーディー氏は「良き羊飼い」について話をしていて話の終わりにサンキー氏にソロで歌って欲しいと頼んだ。その瞬間、汽車で読んだ言葉が心に浮かんできた。サンキー氏は目の前にその詩を置いて小さなオルガンに座り、二三のコードを鳴らしていたが、それから無意識のうちに次から次へ浮かび上がってくる音調で詩を歌ったのだった。彼の声だけが全聴衆に聞こえるほどであり、凛とした静けさが場内を覆っていた。

九十九ひきの羊は檻にあれども
戻らざりし一匹はいずこに行きし
飼い主より離れて奥山に迷えり

九十九ひきもあるなり、主よ良からずや
主は答えぬ「迷いし者もわがもの
いかに深き山をも分け行きて見い出さん」

主は越え行き給えり、深き流れを
主は過ぎ行き給えり、暗き夜道を
死に臨める羊の泣き声をたよりに

「主よ山道をたどる血潮は何ぞ」
「そは一ぴきの迷いしもののためなり」
「御手の傷は何ゆえ」「茨にて裂かれぬ」

谷底より空まで御声ぞひびく

 それから大きなクライマックスの部分

「失われし羊は見い出されたり」
御使いらは答えぬ「いざともに喜べ、いざともに喜べ」
There arose a glad cry to the gates of heav'n, ‘Rejoice, I have found my sheep.’

に達した時、感動が場内を覆った。

 以来この歌詞が歌われ聴かれるたびに何十万人という人々の心が一様に感じる感動である。この音調は決して高い質の音楽ではない。サンキー氏の他の作曲にくらべ見劣りさえする。だがまさしく単純そのもののメロディーが特別な目的をもたらすためにいかに有用であるか、それにくらべて、もっと完全な作品がうまく行かなかったりするかの例証である。音楽自身は注目されないかも知れないがそれに対してメッセージを運ぶのに充分な力を持っていることを証明しているのだ。(D.L.Moody By CHARLES R. ERDMANの107~108頁をもとに)

あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。・・・ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。(新約聖書 ルカ15・4、7)

(昨日今日の文章は音楽の専門家からすると首をひねる部分があるかもしれない。この聖歌は良く歌われた。最近はどうなのだろう。私も最近歌っていないが、歌詞を読むだけでなく、やはり歌を歌う時に、よりこの詩の意味するところがリアルに迫ってくる。)

2010年3月1日月曜日

11章 THE GOSPEL IN SONG (1) ドレミファソラシド


 東京新聞の夕刊(2月19日)の「あの人に迫る」は下垣真希さんという一人のソプラノ歌手を紹介していた。私も親戚に歌い手さんがいるので、思わず読んでしまった。ところがこの記事を読んでいてこちらの心まで豊かにされた。それはこの方が技術的な訓練もさることながら、思想の大切さを指摘されていたからである。彼女は何度か喉を痛め、歌えなくなる。その都度歌うことの原点に立ち返って危機を乗り越えらている。そのような間にドミンゴ氏から言われた次の励ましのことばが忘れられないと言う。

「声は神様からの贈り物だよ。声の出る限り感謝して歌い続けなさい」

 このインタビュー記事をまとめるに当たって編集氏は次の彼女のことばを載せていた。「日本の昔の歌の素晴らしさって、理想を歌っていることだと思うんです。自然の美しさや命を貴ぶこと。今の時代で忘れられかけているのではないでしょうか。」昨今の日本の経済不況は歌い手さんたちをも直撃している。全国何人おられるかわからない歌い手さんが今日もそのような中で訓練を積み重ねられている。

 ところで以下に紹介するのはムーディー氏の評伝の11章のTHE GOSPEL IN SONGである。前からこの項は紹介したいと思っていて中々出来なかった。この機会に紹介しておく。(以下はD.L.Moody By CHARLES R. ERDMAN の104頁~106頁の引用である。この項目は旧版「泉あるところ」のD.L.Moody の三番目に位置する。興味ある方はhttp://livingwaterinchrist.cocolog-nifty.com/blog/の昨年の3月24日をご参照ください。)

 歌が歌えない、旋律のちがいがわからない男が当代のいかなる作曲家や音楽家よりもたくさんの聖歌を歌わせ、はやらせていると知ったらあなたは驚くのでないだろうか。こんなことをムーディー氏はやってのけたのだ。それは賛美歌の指揮者や作詞家に協力し、またその作曲が知られるようにたくさんの聴衆者を集め、本を発行し頒布して全世界に「ことばとメロディー」を広めることによってであった。

 洗練された趣味を持ち、疑い得ない才能を持っている人の中には「福音賛美歌」は貧弱な歌詞や質のよくない音楽だと言って軽蔑する人がいるのは事実だ。そのような賛美歌に関しては二、三の事実が心に留められる必要がある。第一は明らかにこの手のすべての賛美歌は全部が全部同じものではないということ。あるものは感傷的な感情を産み出し、もはや「鈴のように聞こえるシンバル」以上のメロディーをもたないものもある。しかし他のものは真実な感情を伝え、キリスト教会の賛美歌として永久に残るものもあるということだ。

 それに世は音楽自身が必ずしも人の気持ちを高めたり、霊感を与えたり、気高くするものではないということを学ばねばならない。万事は音と組み合わされている思想によるのだ。音楽はいかなる他の芸術よりも感情を速やかにかつ深く震撼させるものだ。しかし引き立てられた感情が取る方向は旋律と結び合わされるようになったことばや思想と一緒になるのだ。

 たとえばその歌の誕生地ではつまらない愛の歌にすぎない音符があらゆる英語圏の礼拝者に「血潮したたる主の犠牲」のメッセージを伝え、私たちを十字架の足もとにひざまずかせるという場合がある。このようにして、いくつかの福音賛美歌の単純で芸術味のない旋律が、私たちに私たちの神である主に関する何にも代えがたい真理をもたらす道具となっている。

 また聖歌や福音賛美歌およびすべての教会音楽は厳密な面でなく応用芸術の分野であり、抽象的な基準でなく求められている目的を遂行するにあたって役にたつか、また結果がどうかで評価されねばならないということを頭にとめる必要がある。音楽的な作曲は純粋芸術のカノンによって判断される時、賞賛に値するであろう、しかし様々な階層をふくみ種々雑多な人々と使徒信条が賛美に際し一つになる点では完全に役に立たないかもしれない。一方で数曲の控えめでつつましやかな賛美歌が非常に多くのキリスト者の信仰を形作り、かつ調子の良いメロディーと大層一体となっている。それはそれらの賛美歌が何千という人々のくちびるだけでなく心にまで歌を浸透させ、海の果てにまで朝の翼のようになって急速にひろがっていくほどだ。

 ムーディー氏の働きとつながりのあるもっとも有名な歌い手はイラ・ディ・サンキーであった。彼は専門的な音楽家でなくペンジルヴァニア州のニューカッスルに住んでいる税務署勤めの役人であったが、宗教的なまた政治がらみの集まりで歌を歌う人のリーダーとして名声を勝ち得ていた。この二人が最初に会ったのは1870年でインディアナポリスでのコンベンション大会での席上だった。ムーディー氏は直ちにサンキー氏の才能を認め、強引にも彼に仕事をやめ、当時シカゴでムーディ氏が主催していたミッションに入り、大会の働きを助けてくれるように要請した。

 しばらくの間、この歌い手は躊躇していたが、半年経たない間に彼は招聘を受け、爾来その名前がムーディ氏とは切っても切れない関係で固く結びつけられるようになった。1873年にサンキー氏はムーディー氏をイギリスに伴った。彼の名前は音楽の世界では全く知られていなかった。二年して彼がイギリスから母国に帰ってきたがその時はもう当代の最も有名な歌い手になっていた。

 彼の影響の下、新しい種類の賛美歌が世界的に流行るようになり、「福音賛美歌」、すなわち聖歌の新手の歌が集められ発行されるようになった。その結果12ヶ国語に翻訳され、500万冊が全地球の各国に頒布されたほどだ。サンキー氏は音楽や歌唱の訓練を受けていなかったが、天性の非常に高い賜物を持っていた。彼は音域の狭いバリトンの声の持ち主であったが、並外れた感情と声量をもっていた。彼の賛美歌解釈や彼の言い回しは常に音楽芸術の常道によらず、歌の心を捉えそのメッセージを聴衆に完全にはっきりと伝え得た。彼が明らかにしたことは音楽はそれ自身が目的でなく常に他の人々の心や意識に真理を伝えるつつましやかな手段であることだった。

 彼は深い感情をもって歌い、また歌いぶりは明確な目的のもと、聴衆に確信を与えるものであった。彼は自らの口調を大変正確にすることを会得していた。かなり遠くにまで言葉尻がはっきりととられるようにしていたので、各音節は遠くの広範囲にわたる聴衆が聞いて理解できた。たとえば次に紹介するできごとは彼自身が書いている人生の物語によっているが疑う余地のないものである。ある静かな夏の夕べ野外の礼拝で彼は「99匹の羊」を大変はっきりとかなりな声量で歌い上げた。その場所はノースフィールドのコングリゲーショナル教会で木造家屋の前面が共鳴版として働いたこともあって、それで完全に一マイル離れたちょうどコネチカット川沿いにいた一人の男に聞こえたということだ。その男はその賛美歌を聞いて改心し、「それまで甘い歌しか歌っていなかった生活から教会の正式のメンバーとして歌う生活になった」(と書いてある)                 続く

(写真は二月の下旬、古利根川を散策していた時目にした雀の一団。明らかに彼らは「合唱」していた。歌声に聞きほれていればよかったのに、ついこちらの下心が芽生えてしまい、カメラを構えた。途端に彼らは飛び去った。イエス様はこんな雀の一羽も無視されない。「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。」マタイの福音書10・29