2010年3月28日日曜日

まちがってはいけない クララ


 「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる」(ガラテヤ6・7)「まちがってはけない。悪い交わりは、良いならわしをそこなう」(1コリント15・33)

 ある有名な説教者がその晩年、もはや余生も短くなったある日、つくづくと述懐し「もしも神が再び私を世に遣わして下さるならわたしは生涯をかけて、人は自分のまいたものを刈りとるとの聖言の真理を叫びつづけるであろう」と言いました。わたしもこの晩年、歳月を重ねた目をもって見る世界の歴史も個人の生涯も、この真理を厳かにもの語っていることに気づきます。一日一日蒔きつづけて行く種はよかれあしかれやがて私共銘々の心の蔵に収穫されるようになるのです。「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない」のです。

 アダムとエバは神のお言葉を曲げて自分の欲を成しました。彼らは夕風涼しい園に神の足音を聞いて木かげに身をかくしましたが、神の御目からかくれる事は出来ませんでした。そして彼等は自らの蒔いた反逆の実を刈り取りました。ヤコブは兄の衣を着て父イサクを欺き、兄の祝福を横取りしましたが、神を欺くことは出来ませんでした。彼は伯父ラバンの許にあった日、幾度だまされたことでしょう。そればかりではなく、自分の子供達から、愛するヨセフが野の獣に喰い殺されたと、血で色どった衣をもってだまされ、涙の谷につき落とされるような刈り入れをしなければなりませんでした。

 イスラエルの悪王アハブは一人の農夫の美しい葡萄畑を欲しくなり、彼を殺して畑を奪いました。神は見のがし給いません。ある戦場で彼は王衣をぬいで変装して戦車の中にいましたが、神よりの流れ矢は間違いなく彼の胸を射ぬきました。

 世の歴史が始まって以来、どんな知者でもいまだかつて神をだまし得た者はありません。「人は自分のまいたものを、刈り取る」とは神の定めであり事実です。

 さらにわたしどもが注意しなければならないことは、「まちがってはけない。悪い交わりは、良いならわしをそこなう」という人類への教えです。悪しき交わりの結果をわすれてはならないことです。日本の古語にも朱に交われば赤くなるとあり、詳訳には「思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ良い習慣がそこなわれます」「悪い友だち関係は良い道徳的品性をそこないます」とあります。自分勝手な神を恐れないこの途を歩む人々がいかに恐ろしい窂に陥ったことでしょう。主はある盲人の目を開かれる時、彼を群衆から引き離されました。ザアカイは自らの低い身の丈を知って桑の木に登り群衆の思考や流行から離れて自分の在り方を新しくし、真実な存在と変えられました。

 お互いにこの世の群衆にだまされてはいけない。開かれた目をもって錯覚に狂わせられず、だまされず、やがての刈り入れをまちつつ目さめた途を歩みましょう。

(文章は『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著89頁より引用。写真は先週日曜日のM新夫妻の結婚式のおり、お庭で拝見したボケの花。日本はこの春かつて経験したことのない寒い日々となっている。「庭先に 彩り添える ボケの花 新婚夫婦 寿ぎの宴」「ボケの花 朱に染めたり 庭園に 花婿語り 花嫁答う」)

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