2010年3月1日月曜日

11章 THE GOSPEL IN SONG (1) ドレミファソラシド


 東京新聞の夕刊(2月19日)の「あの人に迫る」は下垣真希さんという一人のソプラノ歌手を紹介していた。私も親戚に歌い手さんがいるので、思わず読んでしまった。ところがこの記事を読んでいてこちらの心まで豊かにされた。それはこの方が技術的な訓練もさることながら、思想の大切さを指摘されていたからである。彼女は何度か喉を痛め、歌えなくなる。その都度歌うことの原点に立ち返って危機を乗り越えらている。そのような間にドミンゴ氏から言われた次の励ましのことばが忘れられないと言う。

「声は神様からの贈り物だよ。声の出る限り感謝して歌い続けなさい」

 このインタビュー記事をまとめるに当たって編集氏は次の彼女のことばを載せていた。「日本の昔の歌の素晴らしさって、理想を歌っていることだと思うんです。自然の美しさや命を貴ぶこと。今の時代で忘れられかけているのではないでしょうか。」昨今の日本の経済不況は歌い手さんたちをも直撃している。全国何人おられるかわからない歌い手さんが今日もそのような中で訓練を積み重ねられている。

 ところで以下に紹介するのはムーディー氏の評伝の11章のTHE GOSPEL IN SONGである。前からこの項は紹介したいと思っていて中々出来なかった。この機会に紹介しておく。(以下はD.L.Moody By CHARLES R. ERDMAN の104頁~106頁の引用である。この項目は旧版「泉あるところ」のD.L.Moody の三番目に位置する。興味ある方はhttp://livingwaterinchrist.cocolog-nifty.com/blog/の昨年の3月24日をご参照ください。)

 歌が歌えない、旋律のちがいがわからない男が当代のいかなる作曲家や音楽家よりもたくさんの聖歌を歌わせ、はやらせていると知ったらあなたは驚くのでないだろうか。こんなことをムーディー氏はやってのけたのだ。それは賛美歌の指揮者や作詞家に協力し、またその作曲が知られるようにたくさんの聴衆者を集め、本を発行し頒布して全世界に「ことばとメロディー」を広めることによってであった。

 洗練された趣味を持ち、疑い得ない才能を持っている人の中には「福音賛美歌」は貧弱な歌詞や質のよくない音楽だと言って軽蔑する人がいるのは事実だ。そのような賛美歌に関しては二、三の事実が心に留められる必要がある。第一は明らかにこの手のすべての賛美歌は全部が全部同じものではないということ。あるものは感傷的な感情を産み出し、もはや「鈴のように聞こえるシンバル」以上のメロディーをもたないものもある。しかし他のものは真実な感情を伝え、キリスト教会の賛美歌として永久に残るものもあるということだ。

 それに世は音楽自身が必ずしも人の気持ちを高めたり、霊感を与えたり、気高くするものではないということを学ばねばならない。万事は音と組み合わされている思想によるのだ。音楽はいかなる他の芸術よりも感情を速やかにかつ深く震撼させるものだ。しかし引き立てられた感情が取る方向は旋律と結び合わされるようになったことばや思想と一緒になるのだ。

 たとえばその歌の誕生地ではつまらない愛の歌にすぎない音符があらゆる英語圏の礼拝者に「血潮したたる主の犠牲」のメッセージを伝え、私たちを十字架の足もとにひざまずかせるという場合がある。このようにして、いくつかの福音賛美歌の単純で芸術味のない旋律が、私たちに私たちの神である主に関する何にも代えがたい真理をもたらす道具となっている。

 また聖歌や福音賛美歌およびすべての教会音楽は厳密な面でなく応用芸術の分野であり、抽象的な基準でなく求められている目的を遂行するにあたって役にたつか、また結果がどうかで評価されねばならないということを頭にとめる必要がある。音楽的な作曲は純粋芸術のカノンによって判断される時、賞賛に値するであろう、しかし様々な階層をふくみ種々雑多な人々と使徒信条が賛美に際し一つになる点では完全に役に立たないかもしれない。一方で数曲の控えめでつつましやかな賛美歌が非常に多くのキリスト者の信仰を形作り、かつ調子の良いメロディーと大層一体となっている。それはそれらの賛美歌が何千という人々のくちびるだけでなく心にまで歌を浸透させ、海の果てにまで朝の翼のようになって急速にひろがっていくほどだ。

 ムーディー氏の働きとつながりのあるもっとも有名な歌い手はイラ・ディ・サンキーであった。彼は専門的な音楽家でなくペンジルヴァニア州のニューカッスルに住んでいる税務署勤めの役人であったが、宗教的なまた政治がらみの集まりで歌を歌う人のリーダーとして名声を勝ち得ていた。この二人が最初に会ったのは1870年でインディアナポリスでのコンベンション大会での席上だった。ムーディー氏は直ちにサンキー氏の才能を認め、強引にも彼に仕事をやめ、当時シカゴでムーディ氏が主催していたミッションに入り、大会の働きを助けてくれるように要請した。

 しばらくの間、この歌い手は躊躇していたが、半年経たない間に彼は招聘を受け、爾来その名前がムーディ氏とは切っても切れない関係で固く結びつけられるようになった。1873年にサンキー氏はムーディー氏をイギリスに伴った。彼の名前は音楽の世界では全く知られていなかった。二年して彼がイギリスから母国に帰ってきたがその時はもう当代の最も有名な歌い手になっていた。

 彼の影響の下、新しい種類の賛美歌が世界的に流行るようになり、「福音賛美歌」、すなわち聖歌の新手の歌が集められ発行されるようになった。その結果12ヶ国語に翻訳され、500万冊が全地球の各国に頒布されたほどだ。サンキー氏は音楽や歌唱の訓練を受けていなかったが、天性の非常に高い賜物を持っていた。彼は音域の狭いバリトンの声の持ち主であったが、並外れた感情と声量をもっていた。彼の賛美歌解釈や彼の言い回しは常に音楽芸術の常道によらず、歌の心を捉えそのメッセージを聴衆に完全にはっきりと伝え得た。彼が明らかにしたことは音楽はそれ自身が目的でなく常に他の人々の心や意識に真理を伝えるつつましやかな手段であることだった。

 彼は深い感情をもって歌い、また歌いぶりは明確な目的のもと、聴衆に確信を与えるものであった。彼は自らの口調を大変正確にすることを会得していた。かなり遠くにまで言葉尻がはっきりととられるようにしていたので、各音節は遠くの広範囲にわたる聴衆が聞いて理解できた。たとえば次に紹介するできごとは彼自身が書いている人生の物語によっているが疑う余地のないものである。ある静かな夏の夕べ野外の礼拝で彼は「99匹の羊」を大変はっきりとかなりな声量で歌い上げた。その場所はノースフィールドのコングリゲーショナル教会で木造家屋の前面が共鳴版として働いたこともあって、それで完全に一マイル離れたちょうどコネチカット川沿いにいた一人の男に聞こえたということだ。その男はその賛美歌を聞いて改心し、「それまで甘い歌しか歌っていなかった生活から教会の正式のメンバーとして歌う生活になった」(と書いてある)                 続く

(写真は二月の下旬、古利根川を散策していた時目にした雀の一団。明らかに彼らは「合唱」していた。歌声に聞きほれていればよかったのに、ついこちらの下心が芽生えてしまい、カメラを構えた。途端に彼らは飛び去った。イエス様はこんな雀の一羽も無視されない。「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。」マタイの福音書10・29

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