2016年7月31日日曜日

王の恵み

やさしきは ムクゲの花の 笑顔なり(西軽井沢国際福音センターにて)

「わたしはここだ、わたしはここだ。」と言った。(イザヤ65:1)

  全宇宙の中心テーマを見なさい。それは世界歴史だけでなく、永遠の中心の時であります。救い主を見なさい、この方は「自分から十字架の上で、私たちの罪を その身に負われました(1ペテロ2:24)。」 その恐ろしい罪の重荷のもと、血を流しながら頭を垂れたお方です。なぜなら主の誠実さは死に向かうものであり、主の愛は死より強かったからです。

  あなたが主のことを聞き、その忍耐と完全な宣教の年月を通して主を観察するまで、善事に取り組まれた主のこの上なく見事な勝利の方法のすべてを探し出しな さい。 そして「わたしのところに来なさい(マタイ11:28)。」とあなたに言われるのは主であることを四六時中思い起こしなさい。主は人としてのキリスト・イ エスであり、同情のかたまり、その上やさしくも王の恵みに満ちているお方です。

見よ あなたの王を 
悲しみを冠せられた方
谷間をひとりでただひとりで歩まれるお方
死のかげがまわりに集まって来る

十字架がゲッセマネにつづかねばならない 
段々暗く闇は落ちねばならぬ
杯は満たされる
彼は杯を飲みほさねばならない

おお 主の悲しみを思え
私たちは知ることができますように
主の驚くべき苦悩のうちにある
驚くべき愛を
 

2016年7月30日土曜日

誰があなたの主人ですか

見なさい。サタンが、(あなたがたを麦のようにふるいにかけることを)願って聞き届けられました。(ルカ22:31) 
だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。(マタイ6:24)

 悪魔は私たち主を信ずる者の使用権を持っているでしょうか。おお、もちろん持っていません。私たちは高度に不必要な質問としてこのことに戻ります。 しかし、もしイエス様が持っていないのならサタンが持ちます。なぜなら、すべてはいのちの君かこの世の君かに仕えるように、どの人間も二人の主人に仕えることができないように、当然もし私たちがどちらかに仕えないのなら、もう一方に仕えていることになるからです。

 そしてサタンはこの世の目立たない形やさらに自身の目立たない形におけるこの奉仕を偽ることをこの上もなく喜びます。「イエス様のために保た」れないことはすべて自身のためか、それとも世のためか、それゆえにサタンのためです。

イエス様 あなたのいのちは私のものです 
私のうちにとこしえに住んでください
そして私にわからせてください
何物も私のいのちをあなたのものから戻すことはできないということを 
私のうちにあるあなたのいのちが示されますように 
主よ 私はそれゆえに あなたのお考えを
あなたのおことばだけを もはや自分自身のものでなく
考え話すことを願いたいのです。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/july-30-who-is-your-master/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97376です。

マライア・ハヴァガルの伝記 3章 家庭での生活(4)

 少女のクラスが私に与えられた。私は日曜学校の学びのために大変熱心に準備した。最初は主題を学び、スコットとマシュー・ヘンリーの注釈書を調べ、それから私が言いたかったことばを書き記した〈これらの「小さい子どものためのしおり」の中の幾篇かは匿名で雑誌に投稿したので、推薦をともなって出版された〉。

 日曜日に、夏の午後すべての長椅子が私たちの果樹園や芝地に運び込まれた。戸外での時間はいつも自ずといつしかもっと大きい学校と同じものを採用するように導かれた。夏と冬二回お茶のおもてなしをした。何人かの田舎の教区牧師がアシュトレー計画を実行する手助けになるように。一年に一回お菓子を贈ることはあらゆる居住者や農家にとっては慣習だった。これは費用を公正に教区牧師とともに分け合った。聖書のテキストはキチンキチンと与えられ、良き学びとなった。それらは学生の小さな鞄に保管され、完全に学ばれた時には12課が一ペニーのチケットと交換された。

 学校の特別な楽しみでこういうものはもう一度聖書、祈りの本、当時現存していた数冊の子どもの本に交換された。私たちの教会年の大きな行事は「教会宣教サンデー」であった。愛する父は最初のアシュトレーでの「教会宣教サンデー」の説教は1823年にウォーセスターの聖クレメント教会のジョン・デーヴィス牧師によってなされたと記録している。父は小教区にとってアシュトレー・ウエイクは人々が集まる時期だと知って、賢明にもそのサンデーを何人かの見知らぬ人が語り、特別な賛美と生き生きした父の作曲の曲とともに魅力あるものにした。宣教かごも全部開けられ、非常に興味あることに小農たちの名前と彼らの月ごと、三ヵ月ごとのペンスが回想される。)

2016年7月29日金曜日

神様がなさることであって私たちがすることではない


あなたは、箱舟にはいりなさい。(創世記6:18)

 あなたは危険から安全へのこの大事な第一歩を踏み出したいことでしょう。しかし、あなたはそのことが大変容易に見えても大変難しいことを知ります。まるで霊的な悪夢、危険を見てそこから逃れるために手足を動かせないというような悪夢を見ているかのように感ずるのです。恐らくキリストのところに来る人はそれについてこの完全な絶望感を持っていることでしょう。

 これが、聖霊が私たちにすべてのことは神様がなさり、私たちの力ではできないということを確信させなければならないことです。その結果聖霊は始めから終りまで私たちを救うすべての栄光をお持ちになることができるのです。

 それは主が私たちを助けるご意志がないからということでは全然なく、ただ主が私たちに気づかさせようと目論んでいらっしゃるからです。 私たち自身の意志は大変麻痺しているので、主の愛と恵みの火なしには起こされも動かされもしないということです。

 さあ、主のお約束「あなたは箱舟に入りなさい」を信頼しましょう。別のことばでいうなら、主の力と愛は今でもあなたに与えられていることを信じなさい。そしてあなたの絶望感はあなたをイエス様のところに引き出す主の素晴らしい道の一部に過ぎないということです。

さあ 用意されているロープに信頼しなさい
さあ 壊れたマストから離れなさい
安全の望みがとこしえに過ぎ去って行く前に
主の簡素なおことばに信頼することを恐れてはいけません
おことばは余りにも甘美で余りにも練り上げられていて余りにも真実です
だからあなたがたはいつまでも安全です あなたもです

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/july-29-gods-doing-and-not-ours/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97375です。

マライア・ハヴァガルの伝記 3章 家庭での生活(3)

 私の窓に帰ろう。その日は七月のある日曜の夕べだった。私が家に戻ってすぐのことだった。午後眠気眼で時を過ごしていたが、夕拝のための鐘が鳴っていた。人々が集まって来て、墓のあちらこちらに、立っているのが見えた。生と死。墓の沈黙に引き換え、生きている人々の墓の上でのガヤガヤという話し声が聞こえた瞬間、私にパッと、そこに立っている誰もが、また私も死者として横たわり沈黙しなければならないという厳粛な思いにさせた。

 そしてまさしく永遠の一瞥、確かな場所としてある天国と地獄の現実性、そこに私たちの誰もが永遠にいなければならないことを思い、少なくとも誰かに私が信じている主イエス様を見出してもらうように手助けしたいという新しい力にあふれた願いに燃やされた。

私は愛する父が誠実に説教していることを知っていた。また愛する母が体は弱かったが、貧しい人を訪ねていたことを知っていた。〈昔のモリーの家に母のことば「私たちはイエス・キリストの血潮によって、その功しを通してだけで救われた」があったことを決して忘れられない〉私は姉のミリアムが日曜学校の最初のクラスを教え、トラクトを出し、貸し与えたことを知っていたが、私は何もしなかったし、イエス様についても決して話したことがなかった。

 主が栄光を携えて来られた時、「あなたは私を訪ねなかった」と言われませんように。
そのことが原動力となった。へりくだって言えることはまさしく生活の情熱となった。近くの小屋を訪ねるだけでなく、めったに人のいかない野原をトラクトや聖書を持って探しまわり、〈弱い声ではあったが〉私の主であるイエス・キリストについて語った。)

2016年7月28日木曜日

The Only Alternative


まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。(1サムエル15:23) 
彼らは、大胆不敵な、尊大な者たちで、栄誉ある人たちをそしって、恐れるところがありません。(2ペテロ2:10)

 私たちは「私の思いと意志の最初の泉を守って下さい」とどれほど大きな願いをもって歌っていたかも恐らく忘れて何度も求めてきました。その意志はもうすでに主に明け渡されたことを示唆するにすぎず、それゆえに完全に維持され守られるということが物事の根底に迫ることなのです。それが私たちが唯一の代わりとなる罪を十分悟らなかったことなのでしょう。

 私たちの意志は自己にも神にも属しています。人の目には尊大であることは小さなむしろ言い訳の立つ罪のように見えるかも知れませんが、神はそれを邪悪なこととして見られます。確かに私たちは「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです(ピリピ2:13)。」というように邁進する約束を持っている時には弁解はしません。
 
「あなたがたのうちに働いて志を立てさせ」ということは私たちの非常にもっとも奥深い絶望にどれほど立派にかなうことでしょうか。おお、私たちは、自分自身のために、また互いのために「私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるか(ピリピ1:19)」を知ることができるように祈りましょう。

 というのは、もし私たちが信じないのなら、私たちの信仰は確固としたものとはされないでしょう。もし私たちが神ができると仰ることを信じないのなら、私たちは自分の目でそれを見ても、それが原因でみことばをそれ以上味わうことをしないでしょう。「彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであった(ヘブル3:19)」とあります。

平和 平和
遠く離れている主に 向きを変えよ 
おお 彷徨える者
なぜ汝は死のうとするのか
あなたを近寄せる平和が実現する時
聞け おお 反抗せる者よ 
使者が宣べ伝えている 
救い主の御名による 王ご自身の平和を
さすれば 今日 汝を明け渡せ

(今日の箇所はhttps://bibletruthpublishers.com/july-28-the-only-alternative/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97374です。

マライア・ハヴァガルの伝記 3章 家庭での生活(2)

 私の父がアストレーに来る随分前に、アストレーは大きな費用をかけて拡張され美しくされた。アストレーには値うちのある油絵のための画廊があったが、油絵はいまだに荷箱にあり、難を免れた。一台の大きなオルガンも救われ、その後不思議な一致でウォーセスターの聖ニコラスの父の教会に置かれた。

 宴会が作業員のために催されたが、大酒盛りのあとのパイプの残り灰が鉋屑に引火し、全屋敷は完全に駄目にされ、決して二度と再建されなかった。昔の家の一枚の印画はナッシュのウォーセスターシャーにある。直ぐ後に、D.J.クッキー牧師が新しい持ち主、修復者として、煙っている廃墟を調査していた時、大工さんの一人が何枚かの厚板の上に座ってギリシヤ語の本を読んでいるのを見た。当然驚かされ、会話がなされたが、それによってクークス氏は彼の名前はジョン・リーで彼の道具全部が火事で燃やされたことを知ったが、少年の時、シュロプシャーの学校にいて大工の見習いだったが、コルベット大執事が彼の言語能力を見つけ彼にラテン語とギリシヤ語の手ほどきをしたということだった。

 一見、道具が燃やされるという不慮のできごとを通して、彼にもっぱらさらに古典学を追求したいという決心を起こさせた。そしてシュルースベリーの近くのボウドラー・スクールのマイスターとなり、その後ケンブリッジ大学に入学し、そこで著名なリー教授となったのだ。

 ※ジョン・リーの腹違いの弟のことであろうか同じような話しが以下のサイトに書いてある。http://shrewsburylocalhistory.org.uk/lee.htmこれはこれでまた訳者の飛んでもない脱線だが・・・好学の諸子は読まれたし。)

2016年7月27日水曜日

とこしえに続くきよめのわざ

王の顔の光にはいのちがある。(箴言16:15)

 「あなたは、私たちの秘めごとを御顔の光の中に置かれます(詩篇90:8)。 」このように、まず厳粛なおことばが下りました。それが私たちがみことばの輝きについて知ったことでした。ある人にとってはその啓示は大変恐ろしいので、主がどのように悪しき者を「来臨の輝きをもって」「滅ぼしてしまわれ(2テサロニケ2:8)」るかをさらに理解できます。

 けれども、私たちが「その目は、燃える炎のようであった(黙示1:14)」と感じても、私たちは私たちの「さばきの座に着く王は、自分の目ですべての悪をふるい分ける(箴言20:8)。」ということもまた知ったのです。すなわち、私たちがイエス様、油注がれたお方の尊い血潮の力が私たちをあらゆる罪から聖めるためだと知ったのはその光の中に私たちが立った時でした。

 このことは「主よ。彼らは、あなたの御顔の光の中を歩みます(詩篇89:15)」という約束に新しい価値を与えるものです。なぜなら私たちがその力と尊さの満たしを経験し認識できるのは私たちがその光の中を歩く時だからです。それは決して気まぐれな不定期的なきよめではなく、あらゆる罪からの栄光ある永遠に続く現在のきよめなのです。

主の臨在のうちにとどまり 光のうちを歩み
神に喜ばれることを必ずなせる(1ヨハネ3:22)」ように求めて
私たちは主に目を向けます
私たちが「奥にいて栄華を窮め(詩篇45:13)」られますように
なぜなら 「イエス様の血こそあらゆる罪からきよめる」からです 
(今日の箇所はhttps://bibletruthpublishers.com/july-27-perpetual-cleansing/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97373です。

マライア・ハヴァガルの伝記 3章 家庭での生活(1)

 神様の「永遠の愛(エレミヤ31:3)」が幸せな日々の輝けるモットーであったろう。日常の誘惑からも守られ、美しい近隣のあらゆる魅惑を心ゆくまで楽しんだ。父は決して厳し過ぎるでもなく、かと言って甘過ぎもせず、母は私たちにつつましく優雅な装いを教え、自助の習慣、秩序、陽気さを身につけさせてくれた。私たちはほんとうに陽気で幸せな家族であった。

 私の寝室は白いディミティ生地のカーテンがつるされ、母の趣味のいい手でかわいいピンク色の縁取りがされていた。机用のテーブルもあり、私が大変楽しんだ本の奇妙な仕分けもされていた。窓はつるが巻き付き、下には幾つかの花床、草地、教会用地との仕切りのための簡単な柵の備わった母の庭があった。父によって植えられた小さな樅の木、今では私の最も近しい人、愛する人の眠っている聖なる墓を覆い歩哨のように立っている。向こう側には樅の木とニレの木に縁取られるようにして牧草地が起伏していて、道は急勾配のツート・ヒルにまで通じていた。渓谷と丘から離れてヤルーンにまで上るとエリザベス朝時代の農場、双子の丸い丘、そびえる石灰採石場があった。これらの向こうにはアバーレーの放牧場、樅の木の樹幹や古風なイギリス野営地を持つウッドベリーがあった。南方には教会の土手あるいは私たちがアッダー・バンクと呼んでいる、かつて若いロード卿が二匹の大きな爬虫類をアイルランド人の無垢さでもって見つけ生きたままで連れて来たところ、父にとっては幸運にも首根っこごとつかんでだったが、そのようなところもあった。アッダー・バンクは急な傾斜地で下には波立つ小川があった。

 私たちは古い厚板の側を横切ってグレーシャンプトン公園に入った。そこには未だにマツユキ草の木、ラッパ水仙、水仙畑があった。ただ一軒の大きな家畜小屋が残っていて、そこにはサイス未亡人がかわいい雌猫たちとともに生活していた。私の部屋の窓からはちょうど立派な樅の木が見えた。その樅の木は昔の貴族の館が完成直前に全部燃えて灰塵に帰したその廃墟に根づいたものだ。脱線するが、このグレーシャンプトン物語は神様の道と神様がどのようにして悪から善をもたらされるかに光を当てるものだ。)

2016年7月26日火曜日

進むことと成長すること


あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。(マラキ4:2)

 私たちにとって進歩にともなう自然な喜びのすべては、以下の点、つまり停滞がなく、死の水準にはいたらないというところに満足を見出す。私たちは絶えざる進歩の原因と深く関係がある常勝の側にある。この点に関する典型的な光はダビデの物語のなかに輝いている。彼は「ますます大いなる者となり(2サムエル5:10)」あるいは欄外註が示しているように、「出て行くことと成長すること」である。そのことを私たちは自分自身に対する約束と簡単に結びつけやすい。

 けれど、その時、ダビデは「ますます大いなる者となった(1歴代11:9)」と語られている。欄外註は「進み増し加わり続けた」とある。しかし私たちは単に傍観者であってはいけない。まず私たちの心の主の王国のうちに増大する繁栄があることを覚えたい。主が治めるだけでなくその統治範囲が広くあるように祈ろう。次に私たちがまわりにあるすべてのことにおいて主の繁栄を促進することができる限りなしていることを覚えよう。私たちの「あなたの御国が来ますように」という日ごとの祈りを、その繁栄を求めて日ごとに燃えあがり熱くなる行動へと移そう。

あの「それよりもさらに大きなこと(ヨハネ1:50)」 
はるかに大きなことを
私たちの待望する目は見ることであろう 
私たちはどんなに「さらに大きなこと」がなるかを
待ち驚嘆する以外に何もできない
けれども栄光ある達成感を喜びをもって勝ちうるのだ
すべてにまさる御名の力を嘆願しながら 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/july-26-going-and-growing/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97372です。

マライア・ハヴァガルの伝記 2章 学校生活(15)

 私はテード夫人の神ご自身のおことばに根ざした信仰ある祈りと信頼に対するもっとたくさんの答えを思い起こすことができる。様々な場合に夫人の愛する学生たちは共感を示さず、むしろ反対して家に戻って行った。 こういうことに対して彼女は服従と快活で敬虔な家庭を助言した。友だちと深い仲になることを妨げられた人が心強いメッセージを寄越した。「神を全く無視する私の家庭ですが、主は私と永遠に続く契約を結んでくださり、あらゆることに秩序と確証をくださった」
 テード夫人の私に対する影響は有益であり終生続いたものだった。彼女の逝去の日(1858年の1月5日)は輝ける確固とした信仰のうちに真の日没を迎え、代わりに罪滅ぼしをされた血に基づく喜びあふれる期待の日となった。彼女の臨終のことばは次のようだった。「私は家路を急ぎます。けれども私にはイエス様の血潮が私の必要をすべてみたしてくださることを知っています」
 そしてとうとう1838年6月の17日に私はキャンプデン・ハウスの生活に別れを告げた。さようなら、王立の教室、チャペル、テラス、散歩道よ。さようなら、聖なる教え、祈り、賛美歌。さようなら、私が地上でいつまでも尊敬しもっとも愛する友よ。さようなら、賢い先生方のみなさん。さようなら、少女らしい美しさと愛くるしさを兼ね備えていた85人の友よ。さようなら、キャンプデンのコーラスよ、ああ、おまえのこだまはとこしえに響き続けよう。

     ”栄光、誉れ、賛美と力は
     とこしえに子羊にあれ
     私たちの贖い主イエス・キリスト
     ハレルヤ 主を讃えよ”                ) 

2016年7月25日月曜日

何事にもふさわしいお方キリスト

その名前 長老喜と呼ぶ 草花よ※

私たちはこの神に対して弁明をするのです。(ヘブル4:13) 
私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。(使徒17:28)
 
 こういうことばは励ましを必要としているあらゆる種類の要請にぴったり合うようにみえる。もし、私たちが物事を見通すことができないで、どうしたらよいか困惑したり、厳しい問題を抱えているなら、あるいはもし他の人たちにあなた自身を説明できなかったり、このことから生ずる試みや困難な事態を説明できなかったら、「私たちが弁明する」方、その目にはすべてが裸でさらけ出されている方を当てにせよ。神はあなたの導き手である。なぜ、戸惑う必要があろうか。彼はあなたの盾である。なぜ、自分自身を説明したり正当化するために一生懸命に試みたり、意欲を示す必要があろうか。


 もし、あなたに愉快になれない罪意識があるなら、ただちに向きを「あなたが弁明する方」へと変えよ。覚えていよ。あなたがしなければならないことはサタンとともにでなく、またあなたを非難する良心と一緒でもなく、イエス様と一緒であることを。イエス様はあらゆる安息をもってあなたに対して下さるだろう。あなたはイエス様と事を構えさえすれば良い。そして彼はあなたの偉大な大祭司である。彼はあなたのために十分な罪滅ぼしをなさった。それは今あなたの上に重荷となっているまさしく数々の罪のためだった。

 もし、あなたを休ませないような誘惑があるなら、そのまさしく最中から抜け出て来い。それはあなたを突き刺す火の投げ矢を伴うものかもしれない。まるであなたがそうであるかのように、あなたが弁明するお方にあなたが憎む忍び寄るすべての考えをもって来い。あなたは他の誰にもその誘惑を話したくないし、話しすることもできないであろう。しかし、その時あなたはそのことのために他の誰かと一緒ではいけない。ただイエス様とだけ一緒であるべきだ。主は「試みを受けて苦しまれた(ヘブル2:18)」からだ。

 もし、肉体上の弱さや病や苦痛であるなら、私たちが「私たちの弱さに同情できる(ヘブル4:15)」イエス様と一緒にいることを知るのはどんなに大きくすばらしいことであろうか。(infirmitiesということばはほかのところではsicknessと訳されているものと同じだ。ヨハネ11:2〜4)時々あなたのお医者さんにさえ痛みがどんなようであるかを理解させることはたいへんむつかしいと思わないか。そしてあなたができるだけベストを尽くし試練や弱くなっている感情を説明したあとで、そう感じなかった人はあなたは理解していないと確信するだろう。しかし、主は理解してくださるのだ。

ただ主の愛する御手のうちに小さな事どもをまかせ
すべてを私たちは理解できない 刺のささることもすべて

ひどくのしかかってくる心配をただ主にしてもらい
私たちが主に負わせるすべては祝福に変えられることを知る

これが全部だ 

しかしあなたをもっとも良く愛される主によって印された道だ 
これこそ幸福な日の秘訣 主のお約束くださった安息の秘訣だ

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/july-25-the-adequacy-of-christ/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97371です 。

マライア・ハヴァガルの伝記 2章 学校生活(14)

 私が一人で散歩する特権は依然として私のものだった。それで私はイエス様に今私のたましいをにらみつけているすべての罪を泣きじゃくり叫び声を上げながら告白することができた。その半年間の残りは非常に悲しい時となった。私は神様の御霊が私に自分自身の心には悪の根しかないことを示して下さったと信じている。ただ依然としてかつての偽りの信仰告白をテード夫人に打ち明ける時は来なかった。しかし私はますます友を愛するようになった。私は私の庭にテード夫人のために咲く最初の薔薇がないか捜し求めていたのを覚えている。そしてノートに次のように書いたことを。「 私は全く無価値な者であなたを悲しませましたが、私はあなたの愛する子どもマライアです」
 私の罪意識は一つの厳粛な一人の友の死という警告によって深められていった。級友の一人で、この半年間愛する両親としぶしぶ別れて学校に入ってきていた一人っ子のM.Lであったが、彼女が病気になった。その彼女の回復のために祈りがなされた。年長の少女たちはこの女の子のたましいの救い、いのちのために熱心な祈りに集まった。ある真夜中のこと、馬車の軋みが聞こえた。翌日、年長の者たちはロンドンの医者が到着したことを知った。あの当時は大きな印刷された文書はなかった。死に向かっているその子は生ける救い主、イエス様だけを必要としていた。「御父が御子を世の救い主として遣わされた〈1ヨハネ4:14〉」というみことばが大きい文字ではっきり書かれ、そのカードはメリーがその喜びのメッセージを読みとることのできるところにすぐ置かれた。さらにテード夫人の信仰に導かれた祈りは主ご自身のみことばによっていのちと光が子どもの心を照らしますようにというものだった。
 「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持つ〈ヨハネ5:24〉」は主ご自身が「まことに、まことに」と言われたことであり、ご自身による「タリタ・クミ〈マルコ5:41〉少女よ。あなたに言う。起きなさい。」であった。そしてそのように薄明かりの中で喜ばしくも自発的にすすんで信仰告白がなされた。「メリーは救い主を求めます。イエス様は私の救い主です。神様は私を救うためにイエス様を遣わしてくださいました。そうです。それは全部ほんとうです、全部私のものです。」
 両親がやって来た。再びその死にかけている子どもはその聖書箇所を示して、熱心になって父にも信じてくれるように懇願した。再び神様はそれらのみことばを確証された。これまで眠っていた耳が開かれ信じられた。両親の一人娘と別れねばならないというあらゆる苦しみとともにイエス様が両親にとってもまた大切なお方であるという新しい喜びがやって来た。娘のために開かれた御国への真珠の門と同様に両親にもそうなったのだ。
 全員が静かに彼女の臨終の床のまわりに跪いた。そしてもう一人のお方は静かなうちにより近くへより近くへと人々を引き寄せられた。世の救い主でもあるお方はご自分のみわざを完成なさったのだ。それはご自身のうちに娘を受け入れ、ご自身の羊飼いの御腕に安全に集め、ご自身のふところにいだき天国へと連れて行かれた。迷える羊のための「肩」は今やくずおれた子羊のための「ふところ」となられた〈イザヤ40:11〉。The "shoulder" for the straying sheep-the "bosom" for the folded lamb.

※昨日、珍しく二人で古利根川を散歩した。目ざとくも見つけた家内を助け、川縁に降りて撮影。家に帰り、早速『牧野図鑑』を探索、数十分の後この草花が「イヌゴマ」別名「チョロギ(長老喜)」http://www.ootk.net/cgi/shikihtml/shiki_80.htmと知る。家内は幼いとき両親に連れられてよく植物採集に行ったと言う。そのお陰で野辺に咲くどんな花にも愛を寄せる。絵も描く。パリ在住の美術史専攻の嫁がその花の絵をほめてくれ今回持って帰ってくれたと喜んでいる。豊かな人生は両親の教育の賜物。ひるがえって、私たちははたしてどれだけ子どもたちに豊かな人生を与えたかと越し方を振り返ってみる。けれども、私たちにはなくてならぬイエス様を子どもたちに紹介するのが今もって最大の責務だと思う。上述のマライア・ハヴァガルの証言は時代を越えて民族を超えて私の胸を打つ。なおこの伝記の前々回の誤訳を読者の指摘により改訳した。その文章を読んでいただくとうれしい。)

2016年7月24日日曜日

「きょう」という日

西村明芳さんの作品※

きょう、主に身をささげよ。主が、きょう、あなたがたに祝福をお与えになるために。(出エジプト32:29)
 
 これから先、随分時が経ってからでない、また明日でもない、「きょう」だ。あなたは祝福が欲しくないのか。あなたのいただく答えはあなたの父なる神様が「わたしに何をしてほしいのか。」と言われることに対するものではないのか。アクサの「私に祝いの品を下さい(ヨシュア15:19)。」と同じだ。

 ここにはあなたが求めているものの主のお約束がある。あなたは主の条件を喜んで満たさないのか。祝福はただちについてくる。主は祝福がどうなるのかは明確に述べておられない。主は明らかになるのを待っておられる。

 あなたは想定しなかった祝福が、あなたをほんとうに豊かにする祝福があなたのために今日悲しみなしに加えられる祝福があり得ることを知ることだろう。

神の玉座の泉から 深くして広い運河なるお方
救い主なるキリスト 神の御子 
祝福は御子を通してのみ流れる
信仰ある方 真理そのものなる方  主は 
とこしえに 恵みを 新たに私たちにもたらされる
私たちが 高きにある主の家にたどり着くまで
神はあなたがたの必要をすべて与えられる 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/july-24-this-day/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97370です。

マライア・ハヴァガルの伝記 2章 学校生活(13)

 それから私たちの園内牧師である善良なジェイムズ・パーカー師は若者の指導を気高くも負ってくださった。聖書クラス、堅信礼準備、陪餐会員の教育はすべて有益だった。彼の説教は四つに区分され、それぞれがおそらく八つ九つの「小見出し」だったが、記憶するのに良い止め釘となり、私たちが日曜学校の説教を書き留めるのに役立った。それは私にとって人生の手助けであった。63歳までいくつかの説教を簡略化することなしにまずまずのレポートを正確にできたほどだった。
 悲しいことに私は神様が永続的な愛により、あのイエスを信ずる偽りの信仰告白のあと一年以上、深い悔い改めとほんとうの自らのプライドが傷つけられるようになった道について記録せねばなるまい。もちろん私の愛する家庭教師は私を信じてくれていた。だから私を神の子として大切に扱ってくれた。私は、見かけの上で示した従順さや正確な課業の修得や神様にあっての応答ゆえに、彼女にほんとうに気に入られていたと思う。ただ疑いもなく、私は、学校の中で神様の律法に何らか違反していないか疑いの目で見られ得る最後の生徒であったのではないかと思う。
 そう、いくつかのケーキが応接間からなくなった時、彼女はひどく心を痛め傷ついた。「愚か者は心の中で、『神はいない。』と言っている(詩篇14:1)。」「主の御目はどこにでもあり(箴言15:3」が厳粛に祈りの内に問われた。またも応接間で肖像画や美しいものをじっと見つめていたいたずら好きの尊大な行為が彼女のケーキを盗むという恐ろしい堕落へと道を開いたのだった。この時はリジーが見張っていた。その晩、私は愛する場所に喚問された。そこは大変やさしい愛と、大変聖い訴えが私のためになされた。そして私は今や容疑者として立った。
 賢明にして誠実に彼女は私を告白へと引き出してくれた。今でも私は愛する顔が骨の髄まで悲しんでいるのを思い出すことができる。かつて大層な信仰告白をした者が大変悲しむべき罪を犯したのかというのが悲しみのすべてであった。彼女は私の愛する、また聖なる両親を思い浮かべた。それは教師たちにとって私がもはや手に負えないという、また高い評価が消えたという失望でもあった。賢明にも彼女は全生徒の前で私が折檻を受ける恥ずかしめは手控えた。しかしいくつかの特別な奨励賞は剥奪された。そしてそれから、主を悲しませる主に対する罪〈が明らかになっていった〉。私はその時もまた数年間、信仰告白において最初から偽りで歩みだしたことは、テード夫人が誘惑にかかりやすく、堕落する神の子として私を扱っていたほどだが、私が悪魔の声に耳を傾け、キリストを捨ててしまったことをはっきり悟っていたとは思えない。

※今日は茨城県の牛久市中央生涯学習児童センターに出かけた。そこにこのオブジェが公開されていた。そこに作者のことばも書かれていた。「わたしは無限の中でひとりぼっち だから自己表現したい なんらかの意味があると 自分に言いきかせながら」聖書には「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである」〈ヨハネ1:16〉とイエス様を紹介し、「神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ(コロサイ1:19)」たとパウロをとおして述べられている。「無限の中でひとぼっちじゃない」とは私のひとりよがりの叫びだろうか。)

2016年7月23日土曜日

いのちあるところによみがえりあり


私のおしえは、雨のように下り、私のことばは、露のようにしたたる。若草の上の小雨のように。青草の上の夕立のように。(申命記32:2)

 時々神の露は夜通し降り続けます。けれどもそのうちの何も失われません。あるものはすでに隠された働きをなします。ちょうど私たちの存在のまさしく根のまわりに落ちるように。またあるものは夜が終わる時に朝日の光のうちにあらわれるように用意されています。物影の間で学ばれた訓練は日の光のうちに生き延びられるのです。露の目的は乾いた地と季節の中でいのちを維持することにあります。露は石のために何もしません。もしあなたが砂利道を見さえするなら、かつて何か少しでもあったと知ることはなかったでしょう。

 そして死んだ葉にとっても全然異ならないのです。しかし、もし七月の日の光の日々を通じてほとんど生きられなかった小さな朽ちていく植物の上に露が降りるなら、弱い小さな茎は強くせられ、葉はいのちをよみがえらせる水分を吸収し、閉じていた花は再び以前よりさらに新鮮な芳香をもって花開かせることができます。そのように神様は私たちの弱い霊のいのちにご自身のことばを染み通らせてくださるのです。さもなければすぐにしぼんでしまうことでしょう。乾きは暗黒よりもはるかに恐ろしいものです。
  

主よ お話しください たとえどんなに少しでも どんなに低くても
私が軌道から離れて 聞こえないことがないようにしてください
主よ お話しください あなたは私の心が願っていることをすべて 
もっとも真実な必要をすべて  ご存知ですから
お話しください そして私を祝福してください
 
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/july-23-where-theres-life-theres-renewing/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97369です。

マライア・ハヴァガルの伝記 2章 学校生活(12)

 私が初めて聖餐に連なったのはベイズウォーターのC.スマレー牧師の教会だった。私はそのことについての特別な記憶はないが、長年の間私の聖餐の時は涙にあふれる願いであり、多くの喜ばしい経験よりもむしろキリストに従いたいという強い渇望であった。そのように今日でも私は、主イエス・キリストとの聖餐を主のテーブルよりもむしろ主のみことばにあって、もっとも生き生きとした大切な時として振り返る者である。
 ある時期、キャンプデン・ハウスはヴィクトリア王女のマスターが教えてくれると言うのでダンスで注目された。学校の休暇中の夜の舞踏会は優雅な人々に私たちの地方の貴族とともにある学校の人気を高める機会を与えた。
 しかし、主がこの学校の校長自身を引き止められる時が来た。私は彼女の方針転換を明確に記録することはできないが、死からいのちへのもっとも完全な変わり目となった。古いものが過ぎ去りすべてが新しくなる。この新生活の試練は生徒の救いにとって当然の心配となり、学校の魅力であり呼び物であった芸事を捨てるという決定となった。なぜなら、校長はその潜んでいる悪とダンスが世的なわき道に導くに違いないと知ったからである。それは学校を分断するリスクを伴っていたが、勇敢な決断はその完全な報いをもたらした。しばらく人数は減ったが、高い志を持つ両親の要望の内省的な動きが始まった。神様は楽しみと平和の道を自分自身で選び、キリストのうちに豊かな喜びと人々のいのちを満足させる喜び〈その喜びは主の臨在に帰し、そこには喜びの満たしがあるのだが〉を見出す多くの若い人々の歩みにさらに輝かしい祝福をお与えになった。
 なぜなら、それはあきらめることでなく、自分のものにすることである。あなたのたましいを愛されるお方を喜ばせることは決して自己否定することではない。婚約者であればどんな課題、目的であれ、婚約指環や微笑みを失くすことになりかねないのであれば喜んで見送るものだ〈※このところの原文はA betrothed one joyfully foregoes any pursuit that would risk the loss of her engagement ring or the smile of approval.で当初当方のぎこちない訳婚約者は婚約指環か賛同の微笑みを失う危険を冒すかもしれない、いかなる追求にも喜んで先んじるものだであったが、一読者である知人よりうれしい改訳をいただいたので全面的にこのように改めた。これで文章はすっきりする。
 おお、その両親たちと学校の責任者たちはこのことを永遠の光のうちに見た。これまで「私の家庭教師が賛同した、彼女はキリスト者であるが、踊ることは何の害もありえない」というまさしくその事実がこの世の玄関口に入る人生の蝶番の役割を果たしてきた。それに反して「私の両親と家庭教師は賛同しなかった。私は神の栄光のために踊れない。私は舞踏会で死にたくないのだ」という単純な事実が予防手段となる。「感謝なことに私は踊りを学ばなかった」が多くの美しい足を誘惑の罠から解放する。
 同じジェンキンズ氏によって教えられた、私たちの立ち居振る舞い、私たちの歩行、私たちの規則的なお辞儀、健康体操はぎこちない動きやのろのろとした姿勢に対抗する十分な防御となった。
 時々私たちは全員が代わる代わるテード夫人やお嬢さんとの朝食に招待された。私はボサンケットによる大きなMS本から、こういう時のテード夫人の古風な趣のある、ピリッとした役に立つ多くの所見を書き写した。

※訳者注 途中から読まれる読者のために。長い長い伝記ですが、これは本主テーマである日々の霊想の著者フランシス・リドレー・ハヴァガルの15歳年上の姉のマライア・ハヴァガルの伝記です。この学校生活には当然のごとくフランシスが登場するはずはありませんが、彼女たちがどのような生活を送ったか、当時の事情を知るためには有益かと思います。我慢してお読みくだされば感謝です。)

2016年7月22日金曜日

主のご命令のままに


私たち、あなたの家来どもは、王さまの選ばれるままにいたします。(2サムエル15:15)

 これが私たちが「神の宮の宝物倉(26:20)」であろうと「イスラエルに関する外の仕事(26:29)」であろうと 「すべての主の仕事、王への奉仕(1歴代26:30)」における揺らぐことのない落ち着いた喜びの秘訣です。この秘訣がすべてのものに違いをもたらすのです。

 もし私たちがまことの王なるお方が命じることはどんなことでもほんとうにいつも等しく行なう用意があるなら、大きなことであれ小さなことであれ、王の命令がどんなに変わっても、そこから生ずるすべての試みやいらだちは断じてありません。

 もし王が私にそこで働くように命令されるなら、私がここで働けなくなることを悲しく思うでしょうか。もし王が今日、室内で待っているように命令されるなら、私は戸外で働けないからというのでいらいらしていいのでしょうか。もし今朝王のメッセージを書くつもりがあったのなら、王が金持ちであれ貧乏人であれ、仕事を中断しなければならない訪問者を送られたからといっていらいらするでしょうか。その人たちに私は話をしたり、あるいは王のために親切を示したり、少なくとも王の命令「謙遜でありなさい(1ペテロ3:8)」という命令に従うのです。

 もし私の器官全部がほんとうに王なる方の意のままに行動するのなら、私は今日の命令が、頭や舌がなすもっと重要に思われる幾つかの代わりに、私の手を必要とする簡単な仕事であれ私の足を必要とする用足しであったとしたら、なぜ心を害するでしょうか。

 「どんなことでも」というのは必ずしも積極的な働きだけではありません。それは半時間であろうと人生の半時であろうと待つことであり、学ぶことであり、苦しむことであり、静かに座っていることであるかも知れないのです。しかし、敬愛する「王である主」のしもべであるみなさん。私たちはそれらの何かが今日の主のご命令であるなら、こういうことのために少し用意していないでしょうか。「王のしたことはすべて、民を満足させた(2サムエル3:36)。」

 「用意」というのは突然に奪われることのない準備のことをふくんでいます。そのように主に、主が私たちのために準備されているすべてのことのために準備してくださるように求めましょう。そして「神の御手が」臨み、私たちをして「心を一つにして、王の命令を行なわせてくださいますように(2歴代30:12)」

お話しください 私に名前で
おお主よ そのことを私に知らせてください
お話しください 私がもっと早くついていけますように
もっと力強く 自由に歩を進め
羊飼いが 群れを巌の陰のうちに 導かれるところへ 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/july-22-prepared-for-his-appointments/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97368です。

マライア・ハヴァガルの伝記 2章 学校生活(11)

 堅信礼の時がやって来た。私は志願者の一人だった。私は真心から身を低くして私のたましいにとって祝福の時となるように願った。私には赦しの確信がなく、ぼんやりとした望みと夢のような満足しかなかった。キリストに対する「飢え渇き」、みことばを喜ぶこと、主の御名にあることのときめき、祈りの交わりにおいて聖なる会話からくるほんとうの喜びを望んでいた。私の返答、私の堅信の書類はすべて満足のいくものであり、また私たちの善良なチャプレンとのインタビューでもあった。そう私はチャプレンの賢いまた聖なる助言を思い出す。それは彼と一緒に庭を歩いている時だった。不思議なことにその時でさえ私のごまかしの告白による信仰告白は決して思い浮かばなかった。
 私は再度いかなるうその表明もしなかったことに感謝した。そのように私はまったく正しいのは当然だと思われた。随分前、私は涙ながらにあらゆる罪の赦しを乞い願った。一つの願い、一つの善い意欲が私の心の内にあった。それは神の永遠に続く愛の実であったが、堅信礼において神様聖霊様によってまことに確信させられたいというものであった。
 大きな古い様式の馬車に乗せられて私たちはパディントンの聖ジェイムズ教会へ行った。ベールも帽子もかぶらないの当時の通常で唯一簡素な白のドレスとケープを身に着け、ちょうどほとんど現在の花嫁衣装のようなものだった。高いところにある信者席が効果的に私たちを遮断し、私は御霊を求めて熱心に祈り、心から「私は従います」と言ったのを覚えている。聖なるテーブルに向かって長い側廊を歩いて行き、そこに跪いたとき、一つの叫びが起こった。「今 、私に聖霊を与えてください。与えてください。」と。その時神の永遠に続く愛が私〈そこにいるすべての者のうち最も無価値な者〉を以前よりももっと近く引き寄せた。長くも静かな馬車に揺られながら、キャンプデン・ハウスに戻ったが、間違いなく聖霊は私に心強いみことば「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの〈雅歌2:16〉」を思い起こさせてくれた。)

2016年7月21日木曜日

輝かしき真の安息

信じた私たちは安息にはいるのです。(ヘブル4:3)

 主は私たちにご自身の痛み、いのち、死によって安息をお与えになりました。「あなたの痛み、あなたへの激しい怒りを除き、あなたに負わせた過酷な労役を解いてあなたをいこわせる (イザヤ14:3)」来てその贈り物を受け取りなさい。それは輝かしい真実なものです。それは単なる軽い一時的な安心感ではありません。

 主は私たちにあらゆる面での安息をお与えになります。完全な安息、あらゆる点で防御され保護されます。それはあらゆる弱さや重荷から解放される安息だけでなく、主ご自身のうちにある安息です。イエスは「安息の人」としての型で語られ、「彼のいこう所は栄光に輝く(イザヤ11:10)」のです。主がお与えになるのはこれ、すなわちご自身の神の安息です。「ここにいこいがある。疲れた者をいこわせよ(イザヤ28:12)。」とあります。

 それは持つ価値がありますか。あなたはそれを求め、出て来ないのですか。イエス様のところに来ることなしには安息を得ることはできません。しかし、ただ来るだけでいいのです。そうすれば安息はあなたのものになります。なぜならみことばが生きているからです。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ(イザヤ30:15)」ます、とあるとおりです。

そうです 「今なお」 だから私たちは
赦され 愛され 祝福されるのです
さらに神の御手の陰に覆われています
信ずることが安息です
一つの大きな道がたましいから引き上げられています
これ以降私たちはあらゆる重荷を
主の上に転がすことができるのです。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/july-21-rest-glorious-and-real/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97367です。

マライア・ハヴァガルの伝記 2章 学校生活(10)

 キャンプデン・ハウスに戻るまでそれからの数ヶ月間何も特別記す出来事はなかった。戻って嬉しかった。私はテード夫人を大層愛していたし尊敬もしていた。また多くの級友たちがいた。お人好しの私はよく何人かの級友の手助けをした。彼らにとって教会の教義や聖句引証やまた年代学はむしろ悩みだったからである。寝室には聖書以外のどんな本も持ち込むことは許されていなかった。このことはどんな早朝の勉強も防いだが、口頭試問の指導は級友たちを助けた。私たちの中で三人は教師なしの寝室での特権を持っていた。私たちは話すことができた。それはアン女王の部屋や、アン女王のチャペルやLong Roomのようなはるかに大きな寝室、そこには見張っている教師が静けさと秩序を保証していたのだが、そのとおり「あなたの部屋には一語たりとも聞こえない」という賢い掟があった。
 私はどんなに仲間の人たちを称賛していただろうか。アネッテ・マリア・フランチェスカ・セレスティーナ、彼女のスペイン語といったら愛くるしいことこの上なかった。黒髪のロシア娘ソフィア、西インド諸島の美しい人たち。それに奇抜なスイスの帽子をかぶってやってきたC.L婦人の四人のチャーミングな娘たち。セイロンからもスコットランドからもアイルランドからもやって来た人たちがいて私たちの国籍はバラエティーに富んでいた。
 テード夫人の洞察力ある目は各人の性格をもっともよく見分けた。「夫人は天使、いや魔女だ」といううわさはしばしば本当だとわかった。もちろん陽気な女の子たちの何人かは夫人を好きではなかった。地上のためはむろんのこと天国のための教育を好まなかったからである。けれども、最後に群勢が集められる時は、疑いもなく、キャンプデンからの多くの宝石が、主の宝石の小箱の中に見出されるにちがいない。)

2016年7月20日水曜日

主は覚えていてくださる・・・私たちはどうするのか

この夏も ブッドレア咲く ドイツ産

わたしは、あなたの若かったころの誠実、婚約時代の愛、荒野の種も蒔かれていない地でのわたしへの従順を覚えている(エレミヤ2:2)

 主は、あらゆる罪、あらゆる信仰の後退、あらゆる私たちの心の冷やかさを忘れて、それら全部を海のもはやもとにもどることのない深みにまで投げ込んで、私たちが最初に「私の愛を受け取ってください」と言ったその時のことを覚えているとおっしゃる。主は今も、この瞬間も覚えていてくださる。主はご自身の計り知れない記憶、そこには過去が現在のようにあるのだが、その記憶にそのことを書かれた。

 主ご自身の愛は変らざる愛であり、そのように私たちがかくして主から心が離れることはその願いや意志からしてあり得ない。「さあ、主に立ち返ろう(ホセア6:1)。」けれども、このように立ち返っても、私たちの徐々に消えて行く愛が再び駄目になることから守られる望みが少しでもあるのだろうか。

 主が仰ることを聞け。「わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ(ホセア2:19)。」そして再び、「これから長く、私のところにとどまって、(もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはならない。)私も、あなたにそうしよう(ホセア3:3)。」

 私たちはこの主のおことばに信頼できないのか。そのおことばは私たちが受け入れるに価する価値があるのかないのか。おお、王なる方のこのおことばにとどまれ、そしてこの日から、主にあなたの愛を守っていただこう。そうすれば主は守って下さる。
 

主が召される 主が維持される その彼らは主の栄光を見る
主はあなたを召された誠実な方 主はそのことをなさる 
恐れるな そなたたちよ だから 聖なる兄弟 進め 
かくして そなたは その召しを 確かなものとするのだ
この高き召しのご褒美を求めて 終りまで勇敢に耐え忍べ 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/july-20-he-remembers-shall-we/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97366です。

マライア・ハヴァガルの伝記 2章 学校生活(9)

 「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです(1ペテロ1:23)。」「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです(ヨハネ15:3)。」同じことばが、聖霊の力によって、たましいの内に新しい霊のいのちの目に見えない種と胚芽となるが、その結果、いのちは同じ手段、みことばによって養われ、成長しなければならない。
 『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』(マタイ4:4)私たちの主はこのことを確証される。「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです(ヨハネ6:63)。」そして主の最後の祈りでは「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました(ヨハネ17:14)。」と言われた。
 これ以後、それぞれの経験に不平を言い、自らの短所に悲しむ信仰のこどもや巨人とともに、問いがやって来る。それはあなたは正直に純粋で簡潔な聖句を「求め」、「探し」、瞑想しているかという問いだ。)

2016年7月19日火曜日

Our Ever

九段下 百日紅 仰ぐ刻

その名は不思議な助言者と呼ばれる。(イザヤ9:6) 
あなたの議官は滅びうせたのか。(ミカ4:9)

 若いキリスト者にとって、その準備の時は全く終わってはいないし、恐らくその時はひどく制限されているのだろうが、何がもっとも学ぶに値することなのか、また何がほんとうに黄金の時間の最善の投資なのか知ることほど実際的に困惑するものは何物もない。それに反して時は活動的な働きの分野が完全に参入されるためにやって来ないし、心が「十分に整えられる(2テモテ3:17)」のは現在の義務の明らかな道である。

 主の名前は「 助言者」と呼ばれないだろうか。そして主は他のすべてのことにおいてはむろんのことこのことにおいても主の名前の約束に忠実なお方ではないのか。同じことがあらゆるそれに続く局面に適用される。

 私たちの知性は、育てるためにも、使用するためにも、楽しむためにも、私たちのものでなく、イエス・キリストが私たちの真の変わることのない助言者であるという原則について完全に明確にするだけにしよう。そうすれば何を読もうか、どれだけ読むべきか、人が教養や言葉遣いや「主義」を持ち続けるかどうかをもうそれ以上悩むことはない。

 もし主がそれらを必要とされるなら、私たちに示されるだろう。もし主が必要とされないなら、どんな必要を私たちはそれらのうちに持っているのだろうか。もし私たちが主の導きなしに進むなら私たちはいくつかの能力を投げ捨てるかもしれないし、あるいは使用するためにはあまりにもすり減らし過ぎにするかもしれない。その使用は他のできごとが起こったり異なる働きが与えられた時、もっとも価値あるものとなったであろう。私たちは「守る(1コリント7:19)」は全然不使用を意味すると思ってはいけない。私たちが求めることはあらゆる私たちの力が主の御用のために用いられることである。

 ここにおいてそれらはおそらく、いかなる他の種類の使用においてよりもはるかに高い進展を見出すことだろう。私は様々な場合を知っている。その場合、単なる精神的な発展における真の聖別の効果ががあらゆる面で明白であり驚くべきことであった。しかしそれは私が偉大な原則であると信じていることの確認に過ぎない。つまり、主は主に対して率直に引き渡されるものはどんなものでも最高のことをなさるということだ。私たちが自分自身のために取り除こうとすることには必ずたくさんの無駄遣いがあるだろう。しかし主は一物と言えども決して無駄にはなさらない。 

私たちの初期の課題は
どこにあるのか
私たちの若い日の教えは
無数のことばは 
知識・真理について
忘れらた

しかし何も失われていないのだ

なぜなら 
それらは今も生きている
考え 
実行し 
意欲する力のように

どこに 
どこに 
あらゆる神の課題はあるのか
主の教えは暗いのか明るいのか

何も失われていない
 
けれども 
隠されているだけだ
永遠の光の中で 
主の足もとに膝を屈して 
すべての理由(わけ)と
すべての結果を 
私たちが見るまで

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/july-19-our-ever/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97365です。今日の箇所は何度読んでも意味がわからない。訳し方に問題があるのだろう。読者が原文に直接当たられたい。

マライア・ハヴァガルの伝記 2章 学校生活(8)

 私は海上でもやを報せる鐘が鳴り、真夜中ふるえる旅人を静かにさせた時、途方に暮れて聖書を読んだ。荒れ地で人っ子一人いないアイルランドの沼地で司祭かスパイにあとをつけられた時、スイスの山の中で向こう見ずにも足跡を見失ってしまった時、さびしい城内ですさまじい雷が落ち、光とともに松を引き裂いた時、聖書のことばはいつも力であった。エレミヤ書にそれらの聖句を見つけるまで長くかかった。
 しかし、私に最初に聖書が与えられた時、私は聖書に注意しなかった。家に着いて、過ぎ去ったことを忘れた。依然として体が弱かったので、看病を受け大事にされた。尊敬するテード夫人は私に美しい手紙を下さった。手紙には私が神の子どもである幸せに触れてあった。
 私はその手紙を姉のミリアムに見せた。ミリアムは私に賢明に厳しい話をした。あなたにはどんな良い変化も見えないし、「あなたが聖書を読んでいるのを見たことがない」とも言った。そのことは全く真実であった。神様の聖なることばで養われているか、それとも無視しているかのテストほど確かなものはどこにもない。聖ペテロは同じテストを与えている。「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです〈1ペテロ2:2〉。」たとえは完璧であるのだ。)

2016年7月18日月曜日

神のみわざがなされる神の理由

彼らは、わたしが主であることを知ろう。 (エゼキエル6:10)

 主を喜ぶ人の心からする願いを満たすことは聖書を貫ぬく輝かしい話しの筋の一つである。それを与えることは決して視界やさばきや恵みから長くはずれてはいない。恵みはこの偉大な目的のために同様に送られるものだ。このために紅海の海水は退き、再びもとに戻った。このためにヨルダン川の水は干上がった。このためにゴリアテはダビデの手に引き渡された。このためにアッシリヤの185000人は神の御使いに殺された。まだまだたくさんの例がある。

 エゼキエルをとおして彼らが 「わたしが主であることを知ろう」ということは神のみわざがなされる神の理由として75回繰り返されている、まさしく鍵になることばのように見える。このことに特別な慰めはないのだろうか。

支配する 導く すべてに命令をする
多種多様な光の世界を 統治する 
今あがめ 今へりくだり 
誰もあなたの権能ある御手を
とどめることはできない

あなたの御力により あなたの御心の助言により
万事は動かされる あなたは神である
やめよ。(わたしこそ神であることを知れ。詩篇46:10))」
というおことばを知り 聞くだけで十分だ  

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/july-18-divine-reason-for-divine-doings/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97364です。

マライア・ハヴァガルの伝記 2章 学校生活(7)

 あの愛する友が再び現われて、一枚の小さなトラクト「かわいそうなヨセフ」を持って来た。この間抜けな男はカラミーが私がかつてつかんだみことば〈1テモテ1:15〉からの説教をたまたま聞くという内容だった。「ヨセフは一人の罪人です。キリストイエスは罪人を救うためにこの世に来られました。なぜヨセフはかわいそうではないのでしょうか。」
 私は何も言わなかった。そしてはっきり覚えているが、私は決して二度と言うべきことを持っていなかったし、信ずることが真実であるとき自然に滲み出る幸せな思いも持っていなかったのだ。私が段々体が回復するにつれ鈍い後悔の念がやって来た。しかし自分の過ちを認めるだけの勇気がなかった。あらゆるこれらの思いやりのある励ましや祈りも力なく聞こえた。イエス・キリストは私にとって何物でもなかった。私はイエス・キリストを信じていなかった。だから、私は彼について聞こうとする気遣いさえ見せなかった。
 すぐにかわいいピンクの三つのコーナーがあるノートが級友から二階に届いた。「私たちはあなたがイエス様を信じて大変嬉しいわ。そのような救い主を見出したなんてとってもとってもしあわせじゃないの」そしてその時、級友たちは私に目が開かれたら真珠のように輝く〈みことばの〉約束の束を贈ってくれた。
 両親は私の幸せな信仰告白について知らされた。しかしその告白は別の面では偽りのベールが私のまわりを益々暗く厚くしていたものだった。〈私は完全にテード夫人の潔白を証明する。主だけが人にあるものを知っておられる。〉病気上がりの患者であるまま家に戻った。旅の思いやりにあふれた詳細は覚えているのだが、別れの祈りは無視され〈記憶から〉抜け落ちた。テード夫人のお別れの贈り物はモロッコ革製のポケット聖書であった。最初の頁に夫人は消せないことばで「羊飼いが羊の守り手です」と書いてくれた。簡潔なことばだった。けれども私にとっては生涯続く財産であった。)

2016年7月17日日曜日

壮大な喜びの一瞥

レタス畑 浅間サンライン道路沿い

私は眠っていましたが、心はさめていました。戸をたたいている愛する方の声。「わが妹、わが愛する者よ。戸をあけておくれ。私の鳩よ。汚れのないものよ。私の頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれている。」(雅歌5:2) 

 それは十字架上で「あなたのために」孤独な叫びを発せられた主イエス様の文字どおりの声だった。そしてそれはあなたに対して将来「さあ、わたしの父に祝福された人たち(マタイ25:34)。」と言われる主ご自身のまさしくその声でもあろう。そしてその同じやさしい栄光ある声がすでに歌われたのであり、さらに将来あなたのために歌われるものとなろう。


 私が思うに、主は私たちのために歌を聖別され、その歌をとこしえに美しい聖なるものとされた。その時主ご自身は、私たちのために苦しみを受けるために出発する前に「賛美の歌(マタイ26:30)」をまさしく最後のものとして歌われた。しかしそれが主の最後の歌ではなかった。「あなたの神、主は、・・・高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる(ゼパニヤ3:17)。」

 そして 、主が「あなたのために」あるいは「あなたのことを」歌われるだけでなく、あなたとともに歌われる時がやって来ている。主は言われる、わたしは歌うと。「教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう(ヘブル2:12)。」さあ、これは何という喜びの壮大なる一瞥となろうか。

 「イエス様御自身が兄弟たちの賛美の導き手となられ」、私たち自身は単にそのような合唱にはいるだけでなく、そのような方、導き手と一緒に讃美するのだ。 もし「イエス様のために賛美すること」がそれほどのよろこびであるなら、この「イエス様と一緒に賛美すること」とは何という喜びであろうか。確かにこれ以降、賛美が聖なることとなるのは当然であろう。

とうとう時はやって来た 
しかし彼らが恐怖に会う以前
しかしもう一回 
彼らの声は主の声と調和する
主の声は以前とこしえに誰にも
歌われなかったように歌われた

なぜ彼らはそのことに関して
ダラダラするのか
なぜこのようにその声が延びるのか
ああ 最後だった 
今やその不思議な儀式張った歌は終わった

そして彼らは出発する 
その歌は終ったが
薔薇の葉っぱのように未だに
その香りが消え去らない 
その柔らかな低いこだまが震える
多くのたましいをとおして
主に対する新しい輝く賛美の旋律が目ざめた
主は十字架の前夜に 
最後の美しい賛美歌をよみがえらされた

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/july-17-a-magnificent-glimpse-of-joy/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97363です。

マライア・ハヴァガルの伝記 2章 学校生活(6)

 リジーは私のところに来て、深刻なふうだった。そして言った。「メリマン博士がすぐこられるからね」何と感じのいい名前で、感じのいいお医者さんであろうか。お医者さんの診断が終り、リジーとお手伝いさんが来て私を毛布に包み正真正銘のCats' Galleryを通って運んで行った。ベーズのドアーが開き、私は奥の部屋、もっとも白いベッドの中に入れられた。そこに私はいなくなった級友たちを見た。それが猩紅熱病院への愉快な入院の始まりとなった。
 記憶が続く限り私は次のことは決して忘れることはないだろう。一時間経って、私の尊敬するやさしいテード夫人がおいしい冷たいラズベリーのビネガーと水をタンブラーに入れて入って来られた。夫人は私の側に座って非常にやさしく話してくださった。そして多くはないが尋ねられた。「かわいいマライアは主イエス様を信じているの」と。ああ、悲しいかな、私は「はい」と答えたのだ。それは突然でもなく申し訳の立たない「はい」ではなかった。私は何日間か頭の中で考えていた。「もしテード夫人が私にまたあなたは信じているの」と尋ねられたら、はいと言おう。夫人は喜ばせることができるから」
 「けれどマライア、あなたがほんとうにイエス様を信じていると言えるのはどのみことばなの」
 「はい。『キリスト・イエスは罪人を救うために来られた』です」 ああ、悲しいかな。このことばはあらかじめ自分でまったくやさしい先生を欺き、もっと先生によい印象を持ってもらおうと準備していた答えであった。愛らしい笑顔をもって先生は私のところを離れた。私の偽った告白によって騙されたのだ。)

2016年7月16日土曜日

王に似ているとはっきり知られていますか

天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。(マタイ12:50)

 「キリストの小さい姉妹であるとはどんなに麗しいことでしょう」と一人の若い弟子が言いました。もちろんキリストがほんとうにそう思っておられるからです。このことは私たちの祈りをもっと熱心なものとしないでしょうか。「あなたのみこころを行なうことを教えてください(詩篇143:10)。」

 もし、王なる方がまことに親族の近さにあるなら、王に似ていることははっきりとわかることでしょう。果たして「あの人たちは、あなたのような人でした。どの人も王の子たちに似ていました(士師記8:18)。」と言われうるでしょうか。またはるかに高い標準「王の娘は奥にいて栄華を窮め(詩篇45:13)る。」を目ざすことに尻込みしないようにしましょう。

 私たちは一方的な親族関係にだけ安住していてはいけません。もし王が私たちを兄弟と呼ぶことを恥とされないなら、いったい私たちは主を主人と呼ぶことを恥としていられるでしょうか。もし主が私たちに近い親族関係にふくまれまた示唆されるものを全部与える用意があるなら、その結びつきが私たちの側に求めるすべての愛や同情や誠実で報いることに失敗していいでしょうか。

 また私たちの忠誠の愛を主の来臨を「待ち望み、その日の来るのを早め(2ペテロ3:12)」ることによって証明しましょう。「あなたがたは、私の兄弟、私の骨肉だ。それなのに、なぜ王を連れ戻すのをためらっているのか(2サムエル19:12)。」といじらしい非難を招かないようにしましょう。

不思議な結びつきのうちに
キリストに加えられた
私たちはあなたの器官 
あなたは私たちのかしら
深くして真実なる交わりによって
証印を捺され
かつて死んでいた者が
あなたともによみがえらされた

救い主であるあなた
私たちはへりくだって
このあなた様のお名前のすべての御力を
主張したいのです

すべてを輝かす直ぐなる同情
弱さも苦悩もすべて
恵みを照らす道へ導き 
あなたの愛する一人一人は知ることでしょう
すべての悲しみをあなたは耐えられた
それゆえにあなたの喜びにあずかります

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/july-16-is-royal-likeness-recognizable/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97362です。

マライア・ハヴァガルの伝記 2章 学校生活(5)

 私の美しい女性についての愛はほとんど私をやっかいな状況に導いた。しかし、かつて応接間にある何枚かの美しい肖像画を見たことがあるので、もう一つのものを盗んだ。ところがある顔が思い浮かんだ。それはジュリアーナ・ハウワード嬢の顔だった。私は理想の作品を眺めようと禁じられていた入場を思い切ってやってみた。私は彼女は天国にいるに違いない、さもなければ描かれることはないだろう、だからジュリアーナ嬢は天使の間にいるにちがいないと思った。
 もう一つの喜ばれない願いは秘密の「Cat's Gallery」を見つけることだった。それは年上の少女の数人は見たものだった。のどをごろごろ鳴らしている猫や子猫の画像。彼らの入っているかごは確かにそこで生きているにちがいない。大胆にも私は五階にまで足を伸ばした。それはたんすの収納庫のギャラリーや家の箱だけを見つけるためであった。しかし猫は全然いなかった。私は不思議な風体をしている緑のベーズのドアーをいくつか認めたがあえて試してみようとはしなかった。
 私たちが級友が一人二人また一人の女性家庭教師がいなくなったのに気づいたのは1834年の10月のことだった。ある朝、私は病気にかかり熱があるように感じた。それで先生は私にリジーが来るまでじっとしていなさいと話された。リジーは女性の召使であらゆる頭痛持ちの良き聞き役であった。11時きっかりにリジーと黒い薬と小さなパンの皮を持った給仕人が教室に入って来て、全員の文句を言う者に向かって同じ処置をした。)

2016年7月15日金曜日

すっかり用意ができました


さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから。(ルカ14:17)

 もうすっかり! 父なる神様はあなたを救う用意をなさいました。イエス・キリストはあなたを受け入れなさいました。聖霊なる神様はあなたのうちに住む用意をなさいました。

 あなたは用意しましたか。もうすっかり。「すばらしい救い(ヘブル2:3)」があなたのために用意されたのです。完全な油注ぎがあなたのためになされているのです。永遠の贖いがあなたのために獲得されているのです。義の衣はあなたのためにあつらえられました。聖きに至る道はあなたのために聖別されているのです。

 あなたは用意できましたか。もうすっかり。いのちと敬虔にあずかるすべてのものは神の御力によって与えられています。すぐれてすばらしく大切なお約束があなたに与えられています。すべてのあなたの必要の供給があなたに保証されています。力と導き、教えと維持はあなたのために用意されています。

 父なるお方の愛、顧み、そして救い主なるお方の平和の贈り物はあなたを待っています。祝宴はあなたのために広げられています。すべてのものがあなたのために用意されています。あなたはそれらを受け取る用意ができましたか。 

あなたは主のところにすべてを求めて来ないのですか
あなたは「味わい、これを見つめ(詩篇34:8)」ないのですか
主はあなたにそれを全部与えようと待っておれれます
贈り物はただです みことばは真実です
イエス様は呼んでおられます 「わたしのところに来なさい(マタイ11:28。)」

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/july-15-all-things-are-ready/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97361です。

マライヤ・ハヴァガルの伝記 2章 学校生活(4)

 私は妹の洗礼式の日を覚えている。美しいキャンブリック生地の帽子、それはリドレー嬢によって作られたのだが、それと小さい記念式用の衣が私の大きなF.R.Hのアルバムの宝物の中に納められている。ジョン・カウード牧師が〈50年間ベウドレーで福音とプロテスタント信仰の標準を守って来られた〉が妹をキリストの教会に受け入れた。妹の洗礼親のW.H.リドレー牧師もルーシー・エムラも出席していなかったが、妹のもう一人の洗礼親のエリザベス・カウードが赤ちゃんを抱いていた。この方が〈フランシスがまだこどもでしかなかった時に〉「F.R.H は今や天使の一人です。彼女は天の御国で何をするのでしょうか。私は彼女が主を賛美しながら召されることを信じていますよ」と言われたのが目立つことだった。
 愛する父は当時まだ不慮の出来事の結果患っていて、音楽が父の痛みを和らげた。この小さな赤ちゃんは話し始める遥か以前に、幼稚園のリズムに合わせてキャーキャー歌ったものだ。弟のフランクは現に一歳になるまでに歌っていたが。父の腕や背中は彼らの最初のピアノの椅子であり、そこで父のメロデーで「Twinkle, twinkle, little star」「Thank you, pretty cow」などを歌った。だから私たちのかわいい妹の最初にして最後の思い出はこういう幸せな歌である。訳注 いよいよ本霊想の著者フランシス・リドレー・ハヴァガル〈F.R.H〉が前回に続き登場する場面である。) 

2016年7月14日木曜日

王なる神はすべてご存知である

数珠なる 珊瑚次々 鮮やかに

王には、何も隠すことはできません。(2サムエル18:13)

 王の敵にとり恐れで一杯である特徴はまさに王の友にとっては慰めであります。このように主が全てを知っておられることはエジプト人には「真暗な雲であった(出エジプト14:20)」がイスラエル人にとっては「暗黒の中での光(同)」でありました。

 王の将軍は自分が行動したようには正確に行動しなかったひとりの男に不平を言いました。それに対してその男は次の言葉を用います。「王には、何も隠すことはできません。」その訴えは最後的であった。ヨアブはもうそれ以上何も言いませんでした。

 ヨアブのように「なぜあなたはそうしなかったのか」と他の人々が言い、そして私たちには完全な理性が与えられえていないことや理解できないことを知ったり気づくとき、私たちのまことの王であるお方がそれについて全部知っていることが確かであるとあてにすることはどんなに心が休まることでしょうか。

 私たちは人々に理解させようとつとめてへとへとになる時、私たちが主に話しにくる時、どんな説明も求められないということはどれほどリラックスできることでしょうか。「神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです(ヘブル4:13)。」そして私たちが主と結びつけば結びつくほど、まことの王から隠れるものは何もないという喜びと感謝がますますあふれることでしょう。

おお 私たちの主がなされたすべてのことに対する崇拝を
神の星々にわたって鳴り響かせましょう 声といのちが一つになって
そして 私たちの献身をして まことなるもの 深いもの 
真なるものと していただきましょう
おお 今でも私たちの心はひざまずき 
喜びの誓いは 新たにされます 

私をそんなにまでして助けてくださった主に対して
そんなにまで祝福してくださった主に対して
私の心を知っておられるただ一人の友なるお方
もっとも近く もっともすばらしいお方
 
Oh, let our adoration for all that He hath done
Peal out beyond the stars of God, while voice and life are one!
And let our consecration be real, and deep, and true;
Oh, even now our hearts shall bow, and joyful vows renew!
=============================
To Thee who hast so helped me, to Thee who hat so blessed,
The only Friend who knows my heart, the nearest and the beat.※

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/july-14-the-king-knows/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97360です。※多分bestの誤りだと思い、そのように訳した。

マライア・ハヴァガルの伝記 2章 学校生活

 はるかに深かったのはテード夫人の私たちの良心に対する訴えであった。彼女は救いの道を生き生きと説明してくれた。部屋に入ることを許された時、彼女はもっとも機嫌良く私を抱きしめて、私にイエス様の愛を話してくれた。それはイエス様が私を招いておられること、イエス様がまず私を愛してくださったことであった。しかし、それに応答しようとするいかなる感情もまだ眠っている私の心には起こされなかった。 同年の他の者たちは「イエス様を信じていた」そして、その間違えようのない笑顔は彼らのものだった。額にしるされた約束の証印〈黙示7:3〉は神の子が身につけている外面的な平安な笑顔を意味するものかと不思議に思っていた。私はもう学校にほぼ12ヵ月いた。姉のミリアムは最初のクラスで一番になり、図画教師であるデ・リヴィエ先生から銀メダルをもらい卒業した。
 私はクラスでかなり前の方で、いつも暗唱で点数を取った。音楽演奏をしたことはなかったが、音楽の先生が他の少女たちに私の「やわらかいタッチ」と、12歳にふさわしい和音をどのように弾いているかをに注意するように勧めたことを覚えている。
 1836年の12月、家庭旅行の準備がやって来た時、私は先ず、ロンドンにいるいとこのアスボーン夫人のところに送られた。そこで、私は愛するストラットン伯母に会った。美しい応接間で伯母といとこが私にすばらしい家で起きている秘密について話してくれた。可愛い赤ちゃんである妹〈フランシス・リドレー・ハヴァガル〉が12月14日に生まれて来たのだ。小ちゃな妹。永遠が決して使い尽くすことのない新しい愛の鼓動が目ざめたのだ。私は15歳で一番下の弟が7歳だった。そのようにして目新しいこのできごとは飛び抜けて快かった。 )

2016年7月13日水曜日

反射する光


いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。(詩篇36:9)

 私たちは無限の宇宙空間を眩む思いで凝視しようとする時、神様の無限の偉大さと英知について悟ります。しかし、顕微鏡の驚異に目を転ずる時、主の極微の手のみわざの完成を見つめることによって、これらの特性をより明瞭にかつより明確に把握します。

 ちょうどそのように、私たちは永遠を満たす無限の愛を認識できず、そして信仰というもっとも強い望遠鏡にとってでさえ偉大な未来の無限である眺めは「光の過剰によって暗く」なっているのに対して、瞬間という顕微鏡に拡大されている愛は私たちにふさわしい近づきを与え、私たちの驚嘆する見方にとって詳細で、口で説明できない完成を啓示していることを知るのです。

 しかし、その瞬間が私たち自身の手にある限りこのことはわかりません。私たちはダイヤモンドをしっかり握っている小さな子どものようです。子どもたちがダイヤモンドを汚い小さな手にしっかり握り閉じているのに、どのようにして、ダイヤモンドを取ってプリズマの美しさのあらゆるすばらしさを分析するように、光線を反射できるでしょうか。

 ダイヤモンドを手放しなさい。私たちの父にそれれを私たちのために維持して、それらの上にご自身の偉大な光を投げてもらいましょう。そうすれば、私たちは主の多様な愛あるやさしさの美しい色合いをたっぷり見ることができるでしょう。そのようにいつも主に私たちのためにそうしてもらいましょう。そうすれば、私たちは必ず主の光と主の愛がそれらのうちに反映しているのを見ることができます。

イエス様 恵んでください あふれる恵みを
私にいつもお示しください さらにすぐれたことを
私をもっと高く引き上げてください 太陽に向かって
鷲の翼に乗るように 高く上って
あなたのお顔の輝きによって
イエス様 私を恵みにおいて成長させてください

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/july-13-reflecting-light/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97359です 。

マライア・ハヴァガルの伝記 2章 学校生活(3)

 なぜ先生たちは、逍遙するクラス、私たちの父なる神様が私たちに息を吸うようにと意図された純な大気の中に設けられないのだろうか。なぜ女教師たちは健康に良い刺激を見越して朝の授業の最中に教室から窓を全開にしないのか。20分間で無気力なもやもやや不機嫌さは吹き去られ、そうすればもっと実のある働きがなされたのに。雨の日は決して悲しくなかった。長椅子やテーブルがゲームや演習の良い時間の練習のために綺麗に片付けられた。テンポの速い軍隊調の音楽はジャンプのステップに趣を与えた。私と他の者たちは真剣にし賞金を得た。
 テード夫人により私たちに与えられる宗教的な教育は並みのものではなかった。朝夕の祈りについては短く要点を示した註釈や質問、一貫した主題に基づく週ごとのバイブルクラスが行なわれた。旧新約を比較した人物や預言、完全に学ばれた聖句の引証つきの教会信条など。章節が必ず与えられ、まことのCampdeniteは夫人自身のコンコーダンスであったことだろう。
 感謝なことに私は後年に全聖句を覚え価値ある証しを身につけることができたのだ。テード夫人に向かって出エジプト記25章から32章までのこれらの章節を銀製の留め金、輪、台座についてまで暗唱することは決定的なテストであった。年長クラスはアーモンド、節、枝を暗唱することに失敗すると、テード夫人の威厳ある退出命令がなされわずか二つのライトしかともされない暗闇の中に悔い改めのために放置されたことを覚えているだろう。

訳者注:これら文章もきわめて訳出が難しくまちがいがたくさんあると思うが、全部を読むうちにマライアの学校生活の様子がわかると思う。ただ本ブログの中心記事である妹のフランシス・リドレー・ハヴァガルの文章を見ると、姉が受けた教育は妹も恐らく同じように受けたのだと思う。何しろ、フランシスの英文は聖句が随所に散りばめられているからである。)

2016年7月12日火曜日

どちらに向かっていますか


その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。(1ペテロ2:21)

 さて、この足跡とは何でしょうか。その足跡に従うということは、人がその道筋の一般的な方向を求めて自分自身の考えに従おうと考えることとは全く異なる事柄であります。もしあなたが一つの福音を取り上げ、聖霊のお導きによって熱心に書き留める目的をもってイエス様の足跡がどんなものであるかを読み通すことだけをするのなら、あなたがすぐに従っているのか従っていないかどうかをはっきりと悟ることでしょう。それはそのことについていかにたくさんの本を読んだり、いかにたくさんの人間のカウンセラーに相談するよりもはるかに明確にわかることです。

 今日、その人の足跡がどんなものであったかの一つの指図だけを受け取りなさい。どの方が「巡り歩いて良いわざをなし(使徒10:38)」ましたか。あなたの歩みはその方と調和しているでしょうか。それは「害を加えない」のでなく、活発に積極的に「良いわざをなす」ことです。

主よ お話しください
私が あなたの語調の生きるこだまのうちに
話せますように

あなたが探し求められたと同じように
私に探し求めさせてください
道を踏みはずしたあなたの子たちを
彼らは 失われ寂しいのです

おお 主よ 私を導いてください
私が 導けますように
さまよいぐらついている足の持ち主を

おお 主よ 食べさせてください
私が 与えることができますように
餓えている方々に
すばらしいマナを携えて

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/july-12-which-shall-it-be/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97358です。

マライア・ハヴァガルの伝記 2章 学校生活(2)

 母性を導入しての計画は良かった。年長の少女が親切に課業の用意の責任を受け持ちながら二三人の小さい者を指図した。私の姉のミリアムはシャルロッテ・ロング(今のグレイストウク城のハウワード夫人だが)、M.A.イエソップや私にとって母の役割をしてくれた。
 私たちの勉強は当時の詰め込み教育よりはもっと単純だった。暗唱練習は夏には七時、朝食前に行われた。その時、道幅の広い砂利道を様々な先生が側について、マグナルの問答集、ガイの地理、リンドレー・マレーの文法書、そして週に一回は詩の暗唱などあちこち歩きまわってしたものだ。カウパーの課題、ワーズワース、ミルトン、それにシェイクスピアからの抜粋。私たちはビショップ・ハーバーの「パレスチナ」それにヘルマン夫人のもの、またエマの詩をふくむ、「オックスフォード入賞詩集」にある様々なものを持って来た。
 80行が平均的な課題だった。私はテード夫人にミリアム・ハヴァガルは500行を、マライアは300行を誤りなくそれぞれ一朝に暗唱したと報告されたところでのその場での皆の興奮ぶりを今も覚えている。スチュアートさんはよく言ったものだ。「マライア、a bonne bouche〈ごちそう〉をいただく前にもう一回あなたの暗唱を聞きたいわ」
 冬にはこういう暗唱を長い教室を歩きまわってした。そのため八時の祈りの時は体が温まっていた。朝食過ぎに朝の散歩は九時から十時になされた。広い砂利道、アン女王のチャペルの側のテラス、夏の樹陰、それに私たちの庭はヴァライエティーたっぷりだった。年長の少女たちは週に二回ケンジントン・ガーデンズの中や、当時ノッティングヒルは荒れ地で何も建てられていない土地だったがその砂利道の窪地へ散歩するために連れられて行った。こういう散歩中は英語が話されて当然かもしれないが、フランス語会話の唯一の例外はまるまる半年間あった。二時に食事をし、食後一時間以上は庭で過ごした。)

2016年7月11日月曜日

今や一切が変わった

Asako Iimori Afternoon tea Concert 2016.7.10. Sun 15:00~※

ああ。反逆の子ら。――主の御告げ。・・・彼らはエジプトに下って行こうとする(イザヤ30:1〜2)

 しかし、私たちはエジプトにあって何が欲しいのか。エジプトでの奴隷状態と昔からの奴隷頭がいる家の何が魅力なのか。私たちは十分それらのことを体験したのでなかったのか。だから、私たちは喜んで「国々(2サムエル7:23)」「から(2列王記10:28)」出て、「 国々の民のならわし(エレミヤ10:3)」や「むなしい生き方(1ペテロ1:18)」の暴政から贖いを受け入れ、それゆえ「あなたの民は私の民(ルツ1:16)」と言うのではないだろうか。

 神ご自身が私を神々から贖い出してくださった時「もう、わたしは偶像と何のかかわりもない。(ホセア14:8)」そうだ、私を贖い出されたのだ、主は言われる。「天よ。喜び歌え。主がこれを成し遂げられたから(イザヤ44:23)。」キリストが「私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い(テトス2:14)」出すためであった。 

ながらく別の神々が権勢をふるっていました
今では耐えられるのはあなたのお名前だけ
あなたの敬愛するお声だけに従い
それが私の日ごとの、毎時間の祈りです
私は天においてあなた以外に誰を持つのでしょうか
私の喜びはあなた以外に何物もあり得ません。 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/july-11-its-all-different-now/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97357です。

マライア・ハヴァガルの伝記 2章 学校生活(1)

 1833年の8月、ほぼ12歳になった時、私はグレート・キャンプデン・ハウスの姉のミリアムと一緒になった。静かな田舎の教区からロンドンの学校へ60人から80人の少女たちと一緒になるという変わりようだった。
 〈私はかつてそこでの生活について詳細を書いたことがある。1863年の「家庭における日曜日」に印刷された。私は昔のキャンプデンの学友やカーナーヴォンのダウジャー・カウンテスからのたくさんの親切な手紙をいただいた。〉
 いくつかのもっと詳細なことが私の頭に思い浮かんでいる。ひとつのすぐれた考えは特権としての申し出がなされたことにあった。ほんとうに読書と祈りを求めていた数人にとって静かに半時間だけ教室から退出できることであった。そのことは差し出がましくなく行なわれた。私たちの敬愛するテード夫人のテーブルの上に、夫人の部屋で面談を保証する鉛筆書きのノートがあった。彼女の部屋は良き羊飼いであるお方がよく小さき者に会われ、覆われるまさにうってつけの書斎、聖なる場所であった。
 もし私たちの願いが真剣なもののようであったら、私たちの名前、時間、部屋の名前がカードに記入され、私たちの聖書には私たちのパスポートとして静かに教室を退出するために挟まれていた。私のものを拡大すると

         MARIA            HAVERGAL
                                11:30  to 12 o'clock
               Queen Anne's Room.
                                         ----------------------

                                        "Grow in Grace."

で、これは主に年長の少女のためのものであったが、年少の少女たちは先生や年上の少女たちの一人二人の者と「幸せな時」を過ごしたのだ。

※昨日吉祥寺で礼拝の後、狛江まで高校時代の同級生H君と一緒にHご夫妻の車に乗せていただいて非公開の室内コンサートに連れて行っていただいた。初めて聞く、シマノフスキ、ヴィエニャフスキ、プーランクを前半お聞きし、後半にはバッハ、モーツアルト、シェーンベルク、シューベルト、クライスラーの同じみの曲をお聴かせいただいた。アンコールもありタイスの瞑想曲まで披露してくださり、感謝・感激であった。何か上述のマライア・ハヴァガルの学園での静謐な時間の過ごし方と共通するものを感ずる。なおカードの下にあるGrow in Grace.は「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい(2ペテロ3:18)。」である)

2016年7月10日日曜日

祝福される必要性


収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。(ルカ10:2)

 十中八九私たちは生活において宣教の集まりに出かけたことはないが、その働きのために祈るように話されたことはあるだろう。私たちはそのことに全く慣れっこになっている。そのことを当然のこと、言われることは正しいし、ふさわしいことだと受け取っている。誰もそのことはキリスト者の責務であることを直ちに疑わない。しかし、私たちはそうしているだろうか。

 
 主イエス・キリストを愛すると告白しているすべての者にとって主の命令に従わねばならないということは広く認められた義務であるように、この命令に従うことは明らかに私たちにとって、あなたと私にとってほんとうの義務である。そしてもし私たちがそうしないのなら、私たちは私たちの主に服従せず、主が裏切られたと同じ夜に私たちに与えられたご自身を個人的に愛する一つのテストに同等に、明確に、直接的に失敗することである。

 そうだ、私たちは同じことをしているのか。あなたは今朝主があなたに祈るように命令されたことを祈ったか。昨日はどうだったか。あるいは先週はどうだったか。確かに私たちがなさねばならぬこと、主ご自身の唇で最も明確な方向を与えられたことについて何もしないままで、日々を過ごしていることは決して軽いことではない。どれほどしばしば私たちは「私たちは、どのように祈ったらよいかわからない(ローマ8:26)」ということを悲しくも感じてきたことだろう。

 さて、ここに私たちが祈るようにされていることを知っていることがある。それは主のご意志によるのであるか、それとも主が私たちにそれを求めるように命令されなかったことなのか、私たちは知っている。そして「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださる(1ヨハネ5:14)」そしてもし私たちが主に求めることはどんなことでも聞いてくださると知れば、私たちは主に願う訴えを持つと知る。

 見よ、何というすばらしい結論に私たちは到達することか。おお、「祈りなさい」そして、もし、かくして私たちが小さな子どもたちのようにイエス様が私たちに祈るように命令することを正確に祈るなら、たとえ私たちがまさしくその行為にあってほんとうに、そして恐らくは意識的に、直接の祝福を見出さなくても、はけ口が開き、恵みと懇願の御霊が注がれ、干上がった舌は祈りと感謝で一杯になったことを見よう。

隠された喜びを持つ以外に聖い奉仕はない
しかし あらゆる祝福される聖職者の中で
これほど敬愛する者はいるか 

彷徨するセラファの才能も持ち得ない聖職者
御使いの力よりももっと多くの死すべき弱さを授けられ
しかし いかなる恐怖によっても
もっとも純粋な愛を持つ聖職者は妨げられない

そのことは私たちに主の御足に出会うように
私たちがもっとも近くにいるように命令する

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/july-10-a-blessed-necessity/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97356です。

マライア・ハヴァガルの伝記 1章 幼年時代(14)

 そのウイコンベの訪問は繰り返された。そして私の尊敬する祖母とのひんぱんな文通も導かれた。万事において祖母の賢明な判断は後年の私の人生の大変な砦となった。
 家に戻ると、女性の家庭教師のバルギン嬢が次に話題となった。もちろん妹のエレンは優秀だった。いつもそうだった。そして私もそうなろうと努めた。それでバルギン先生は善行賞のほうびを二つ私にくれた。
 私の家庭教師はほんとうに幸せで丁寧に遇された。父は彼女が歳を取っても助けた。家庭教師の生活においてはどれほど少ししか日がささなかったことか。
 私の姉のミリアムは当時ケンシングトンのグレート・キャンプデン・ハウスに寄宿していた。父は言った。「私はおまえに幸運を授けることはできないが、おまえにいい教育なら与えることができる」姉の学校の話しは私を引きつけた。シグノア・ガッツァローニが若いビクトリア王女にイタリア語を教えたこと、それからグレート・キャンプデン・ハウスにやってきて姉を教えたことを知り大変素晴らしいように思えた。〈この項、今日で終り、明日からは2章 学校生活 に入る。〉)

2016年7月9日土曜日

ふさわしい答え

次々と アゲハチョウの 花歩き※

「わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。」(雅歌2:10)

 さらに深い謙遜と強い信仰をもって愛する方の声を聞きましょう。愛する方が理解できない謙遜と愛ある名前をささやかれる時。私たちはここで神の愛をもっともやさしく注ぎだしておられる神に反論し、「主よ滅相もありません」と言うのでしょうか。

 私たちはむしろ崇拝の思いで聞き、主に全く無価値な深みの中にいる私たちにまで、「私の妹、私の連れ合い、私の愛、私の鳩、私の汚れなきもの」と言っていただき、驚きながら、しかし疑わず「私はあなたのもの」「私はあなたが私のものであると言って選ばれたすべてです。」と答えないでしょうか。こだまは変化し口ごもるかもしれないが(たとえそれが恐ろしく恩知らずで不信仰なものに他ならずとも)、主の御声は決して変わらず、口ごもらないのです。

 主は今日「あなたは私のもの」と言って、明日は前言を取り替えたり弱めたりなさりません。私たちは「とこしえまでもあなたの民(2サムエル7:24)」でありますのに、なぜ主のことばを疑い、不信仰の最たる落ち着かない姿に道を譲って主の愛を悲しませるのでしょうか。とこしえに続く愛は一日限りのものではあり得ません。その愛はとこしえに続きます。私たちはこれ以上何を言うことができましょうか。
 
エホバの愛と恵みの無限のほとばしりゆえに
主の顔の輝きは果てしなく覆いなし
すばらしき主のご意志の果てしなき広がり
未だに限りある魂は最強の延長とひとつとされ 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/july-9-the-proper-answer/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97355です。

マライア・ハヴァガルの伝記 1章 幼年時代(13)

 日曜日、祖母は教会の日曜学校の責任があったので、朝早く家を出た。祖母は英国の日曜学校教師の最初の一人であった。72歳になるまで午前九時きっかりに持ち場についていた。彼女はチャールズ・ブラッドレー牧師https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Bradley_(preacher)の光栄ある友人だった。この牧師は「説教家の王子」と言われた人であったが、十二人以上のブラッドレー家の子どもたちがやって来ては手に負えない世界となっていたが、年長の赤ちゃんたちは数日間も彼女の世話の下で駆け回ることができたのだ。後任の牧師のG.W.氏もまた同様に子供部屋の助けが必要だった。祖母がテーブルに配布するために大きなカゴに鶏肉やハムをつめているのを見た覚えがよくある。〈なぜ土曜日のカゴは大地主や金持ちからすべて私たちの作業する助祭にいたるまでその道を見つけてはいけなかったのだろうか〉
  ナニーは良き老女中の典型であった。家族と六十年生活し、やめてからは救貧院の年金生活に入った。ナニーは私に「ウイリアム旦那さま」当時の私の父だったが、どのようにして「赤縮れ毛のウイリー・ハヴァガル」と呼ばれたかについて話をした。その縮れ毛は私にあるが、もっともぴったりなのは娘フランシスだ〈父の髪の毛は後年黒くなったが〉ナニーは「ウイリー旦那様がかつてなさった最大のいたずらは猫をベッドに連れ込んだことだった」と話した。その同じウイリーがウイコンベ教会の大オルガンを演奏したのはこれまたどれだけ驚くべきことであっただろうか。
 部屋備えのオルガンは祖父Hの娯楽であった。祖父についての私の主な記憶は彼が歌いながらオルガンを弾いていたことだ。それから市の立つ日にはジンジャーブレッドを買うために私に数ペニーくれたことである。私は気位高く聞こえる「ハヴァガル参事会員」だと思っていた。一度彼は私をギグという馬車に乗せてウインドソ—にまで連れて行ってくれた。私の記憶は良いものであったにちがいない。なぜなら私は全部そのとおり説明することができたからである。銀製の応接間、テーブルそしてセントジョージ教会の旗がもっとも印象的であった。そこで私は初めて本格的なアンセム(聖歌隊による合唱曲)を聞き、「天国こそかくあれかし」とは私の子どもとしての判断であった。

訳者注:初めて姉のマライアが自らの伝記に妹フランシス、すなわち今年の一月から連載している霊想の作者フランシス・リドレー・ハヴァガルについて記した個所である。注意を引くために青色で際出たせた。

※何物かが目の前を緑の茂みの中へと飛び行った。果てはとかげか、鳥か。辺りを見まわすが何もいない。そのうちあらぬ方からふと立ち現れたのがこのアゲハチョウであった。アゲハチョウのように薄い胴体を持つ者も老人である当方の目には大変な存在感を持ってあらわれたのだ。暑さの中、花から花へと飛び歩く。見るとアゲハチョウだけでなく、他の名も知れぬ蝶も様々な昆虫が行き交っている。あわててiPhoneを取り出し、狙いを定めて撮影した。考えてみると、青息吐息の人間様の向こうを張って花は開き、昆虫はせっせと行き交う。「なまけ者よ。蟻のところへ行き、そのやり方を見て、知恵を得よ。蟻には首領もつかさも支配者もいないが、夏のうちに食物を確保し、刈り入れ時に食糧を集める。」〈箴言6:6〜8〉と聖書にはあった。)

2016年7月8日金曜日

信仰から信仰へ

麗しき 瑠璃玉薊(るりたまあざみ) 勢揃い

なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。(ローマ1:17)

 私たちが信仰から忘恩へと進むと、それに対する助けはないように見えます。私たち自身のうちにもありません。しかし「だれがあなたを助けよう(ホセア13:9)」と言われるイエスご自身はお約束を与えられる以前にこれに対抗する用意をしておられました。主は言われました。聖霊はあらゆることを私たちに思い出させてくれるであろう(訳者注ヨハネ14:26)と。

 全能の聖霊がイエス様により力づけようと遣わされるとき、私たちの貧弱な記憶に責めを置くことは無駄です。この約束をほんとうに活用しましょう。そしてそれが直面する必要のために聖霊が確かに十分であると知りましょう。

 聖霊はできるのです。そして聖霊は私たちにその聖なる祝福された想起を与えてくださいます。 それは主の御存在とお約束を思い起こす雰囲気のうちに私たちを住まわせることがおできになるのです。それらをとおしてすべての他のことは想起を取り除かないで通り過ぎていくことができますように(through which all other things may pass and move without removing it.)。

おお 彼女の心はお見通しだ 
彼女の心はお見通しだ
その視力は強く素早く自由だ 
決して死すべき者の目による知識ではない

大変深く遠くまでまた高きところまで
見通すことができる
わしの眼力のように 
非常に高い、太陽の照らされる要塞に住み
世を凌駕する信仰 

望みと喜びの旗をひるがえして 
神様の完全な平安をもって駐屯し
決して終わることのない
歓喜の歌を鳴り響かせて
すばらしい輝きと広さをもって
神の愛という栄光の光を
あふれさせる 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/july-8-from-faith-to-faith/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97354です。

マライア・ハヴァガルの伝記 1章 幼年時代(12)

 祖母は早起きだった。私もそうした。六時から七時まで彼女はいつも、窓近くのベーズのクロスを敷いた丸いテーブルで聖書を読むために腰かけていた。私は何度も駆け出して行っては覗いたものだ。「おばあちゃんはなせいつも目を閉じているの。眠っているの。」とそう尋ねた。すると「いいや、おばあちゃんはmeditating〈瞑想〉しているのよ。早く行って遊んで来なさい。」
 「meditating」ということばは私の単語帳にはなかった。ナニー婆やも知らなかった。ある日祖母は私に「meditating」について話ししてくれた。それで私は祖母が詩篇やそれぞれの章句を読んでいる時、神様は祖母に大変近くにおられるに違いないし、のちにはその「meditation」は神様とおばあさんが話しをしているのだと思うようになった。
 私は赤いレザーが見返しについている数冊の褐色の本、ハーヴェイのmeditationsに見入ったが、言葉が余りにも難しかった。
 父は長く滞在しないで、大きな幾冊かの本を残して置いた。祖母は人生の大半偉大な読み手の一人だった。祖母は私にフランス語の手ほどきをし、私にフランスの修道院での彼女の学校生活や、さらには大革命が起きた時、カレーから無甲板船で脱出したことについて話してくれた。The Lady Abbess and the Sistersが英国にやって来た。
 祖母の手紙は美しく、ポール・ロワイヤル修道院の精神に満ちていた。しかし祖母をプロテスタントの信仰に力強くさせたのは修道院生活であった。彼女は本物を見てしまったので、私たちの教会が「冒瀆的な寓話や危険なペテン師」だと呼ぶものを大層嫌った。私は確信を持って言うが、一人の女性に向かって決して祈りたくないし、いったい処女マリヤがどのようにして世界中のすべてのことを聞くことができると言えようか。私のために死なれたのはイエスのやさしさであって、私は処女マリヤがそのことあのことを私のためにしたとは認められなかった。私は決してローマ・カトリックの信徒となるまいと決めたのだった。
 私の初期のプロテスタントの考えはアイルランドやフランスに滞在した後の生活によると確信している。)