2016年7月18日月曜日

神のみわざがなされる神の理由

彼らは、わたしが主であることを知ろう。 (エゼキエル6:10)

 主を喜ぶ人の心からする願いを満たすことは聖書を貫ぬく輝かしい話しの筋の一つである。それを与えることは決して視界やさばきや恵みから長くはずれてはいない。恵みはこの偉大な目的のために同様に送られるものだ。このために紅海の海水は退き、再びもとに戻った。このためにヨルダン川の水は干上がった。このためにゴリアテはダビデの手に引き渡された。このためにアッシリヤの185000人は神の御使いに殺された。まだまだたくさんの例がある。

 エゼキエルをとおして彼らが 「わたしが主であることを知ろう」ということは神のみわざがなされる神の理由として75回繰り返されている、まさしく鍵になることばのように見える。このことに特別な慰めはないのだろうか。

支配する 導く すべてに命令をする
多種多様な光の世界を 統治する 
今あがめ 今へりくだり 
誰もあなたの権能ある御手を
とどめることはできない

あなたの御力により あなたの御心の助言により
万事は動かされる あなたは神である
やめよ。(わたしこそ神であることを知れ。詩篇46:10))」
というおことばを知り 聞くだけで十分だ  

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/july-18-divine-reason-for-divine-doings/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97364です。

マライア・ハヴァガルの伝記 2章 学校生活(7)

 あの愛する友が再び現われて、一枚の小さなトラクト「かわいそうなヨセフ」を持って来た。この間抜けな男はカラミーが私がかつてつかんだみことば〈1テモテ1:15〉からの説教をたまたま聞くという内容だった。「ヨセフは一人の罪人です。キリストイエスは罪人を救うためにこの世に来られました。なぜヨセフはかわいそうではないのでしょうか。」
 私は何も言わなかった。そしてはっきり覚えているが、私は決して二度と言うべきことを持っていなかったし、信ずることが真実であるとき自然に滲み出る幸せな思いも持っていなかったのだ。私が段々体が回復するにつれ鈍い後悔の念がやって来た。しかし自分の過ちを認めるだけの勇気がなかった。あらゆるこれらの思いやりのある励ましや祈りも力なく聞こえた。イエス・キリストは私にとって何物でもなかった。私はイエス・キリストを信じていなかった。だから、私は彼について聞こうとする気遣いさえ見せなかった。
 すぐにかわいいピンクの三つのコーナーがあるノートが級友から二階に届いた。「私たちはあなたがイエス様を信じて大変嬉しいわ。そのような救い主を見出したなんてとってもとってもしあわせじゃないの」そしてその時、級友たちは私に目が開かれたら真珠のように輝く〈みことばの〉約束の束を贈ってくれた。
 両親は私の幸せな信仰告白について知らされた。しかしその告白は別の面では偽りのベールが私のまわりを益々暗く厚くしていたものだった。〈私は完全にテード夫人の潔白を証明する。主だけが人にあるものを知っておられる。〉病気上がりの患者であるまま家に戻った。旅の思いやりにあふれた詳細は覚えているのだが、別れの祈りは無視され〈記憶から〉抜け落ちた。テード夫人のお別れの贈り物はモロッコ革製のポケット聖書であった。最初の頁に夫人は消せないことばで「羊飼いが羊の守り手です」と書いてくれた。簡潔なことばだった。けれども私にとっては生涯続く財産であった。)

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