2016年7月13日水曜日

反射する光


いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。(詩篇36:9)

 私たちは無限の宇宙空間を眩む思いで凝視しようとする時、神様の無限の偉大さと英知について悟ります。しかし、顕微鏡の驚異に目を転ずる時、主の極微の手のみわざの完成を見つめることによって、これらの特性をより明瞭にかつより明確に把握します。

 ちょうどそのように、私たちは永遠を満たす無限の愛を認識できず、そして信仰というもっとも強い望遠鏡にとってでさえ偉大な未来の無限である眺めは「光の過剰によって暗く」なっているのに対して、瞬間という顕微鏡に拡大されている愛は私たちにふさわしい近づきを与え、私たちの驚嘆する見方にとって詳細で、口で説明できない完成を啓示していることを知るのです。

 しかし、その瞬間が私たち自身の手にある限りこのことはわかりません。私たちはダイヤモンドをしっかり握っている小さな子どものようです。子どもたちがダイヤモンドを汚い小さな手にしっかり握り閉じているのに、どのようにして、ダイヤモンドを取ってプリズマの美しさのあらゆるすばらしさを分析するように、光線を反射できるでしょうか。

 ダイヤモンドを手放しなさい。私たちの父にそれれを私たちのために維持して、それらの上にご自身の偉大な光を投げてもらいましょう。そうすれば、私たちは主の多様な愛あるやさしさの美しい色合いをたっぷり見ることができるでしょう。そのようにいつも主に私たちのためにそうしてもらいましょう。そうすれば、私たちは必ず主の光と主の愛がそれらのうちに反映しているのを見ることができます。

イエス様 恵んでください あふれる恵みを
私にいつもお示しください さらにすぐれたことを
私をもっと高く引き上げてください 太陽に向かって
鷲の翼に乗るように 高く上って
あなたのお顔の輝きによって
イエス様 私を恵みにおいて成長させてください

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/july-13-reflecting-light/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97359です 。

マライア・ハヴァガルの伝記 2章 学校生活(3)

 なぜ先生たちは、逍遙するクラス、私たちの父なる神様が私たちに息を吸うようにと意図された純な大気の中に設けられないのだろうか。なぜ女教師たちは健康に良い刺激を見越して朝の授業の最中に教室から窓を全開にしないのか。20分間で無気力なもやもやや不機嫌さは吹き去られ、そうすればもっと実のある働きがなされたのに。雨の日は決して悲しくなかった。長椅子やテーブルがゲームや演習の良い時間の練習のために綺麗に片付けられた。テンポの速い軍隊調の音楽はジャンプのステップに趣を与えた。私と他の者たちは真剣にし賞金を得た。
 テード夫人により私たちに与えられる宗教的な教育は並みのものではなかった。朝夕の祈りについては短く要点を示した註釈や質問、一貫した主題に基づく週ごとのバイブルクラスが行なわれた。旧新約を比較した人物や預言、完全に学ばれた聖句の引証つきの教会信条など。章節が必ず与えられ、まことのCampdeniteは夫人自身のコンコーダンスであったことだろう。
 感謝なことに私は後年に全聖句を覚え価値ある証しを身につけることができたのだ。テード夫人に向かって出エジプト記25章から32章までのこれらの章節を銀製の留め金、輪、台座についてまで暗唱することは決定的なテストであった。年長クラスはアーモンド、節、枝を暗唱することに失敗すると、テード夫人の威厳ある退出命令がなされわずか二つのライトしかともされない暗闇の中に悔い改めのために放置されたことを覚えているだろう。

訳者注:これら文章もきわめて訳出が難しくまちがいがたくさんあると思うが、全部を読むうちにマライアの学校生活の様子がわかると思う。ただ本ブログの中心記事である妹のフランシス・リドレー・ハヴァガルの文章を見ると、姉が受けた教育は妹も恐らく同じように受けたのだと思う。何しろ、フランシスの英文は聖句が随所に散りばめられているからである。)

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