2018年12月26日水曜日

ナザレから何の良いものが出るだろう

ある日の福音伝道の場 1982.11.14

ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」(ヨハネ1・46)

 昨日の酒枝氏の『クリスマスとスカルの井戸』のクリスマス・メッセージ(1962年12月)を読んでいて、疑問を持たれた方も多かったのではないだろうか。それは御子イエスがガリラヤに生まれたと書いてあったからである。引用者としても疑問を持たざるを得なかった。言うまでもなく、イエス様はエルサレム近郊のベツレヘムにお生まれになっているからであって、エルサレムから160㎞北方のガリラヤ地方・ナザレではないからである。それでは酒枝氏はなぜそのように書かれたのであろうか。何冊かの本を調べてみたが、以下の鍋谷堯爾氏の記事が参考になるのではないかと思う。

 私たちがイエスの生涯を理解する場合に持っている錯覚の一つは、イエスの生涯をエルサレムを中心にした地域を背景にして考えがちなことです。福音書は、イエスの三十数年の生涯のうち、最後の一週間の受難と死に三分の一もの頁をさいているので、そのような錯覚が生じるのです。また、約二年の公生涯に三分の二頁がさかれており、それまでの私的な生涯については全体の数パーセントの頁がさかれているのみです。

 私たちがパレスチナの地図を開いてまず知っておくべきことは四国ほどの広さのパレスチナがエスドラエロンの平野で二分され、南のサマリヤからユダにかけての山岳地域と、北のゼブルン、ナフタリの地域とは風土が全く異なっていることです。イエスがその生涯の大部分を過ごされたナザレは、気候温暖で、緑したたる風光明媚の地であり、北にはヘルモンの雪を眺め、東にガリラヤ湖、西には地中海、南にはタボル山を越えてエスドラエロンの平野を望む南面の地でありました。野心や使命がなければ誠実な大工として生涯を送るためにナザレの村はもっとも恵まれた環境の一つだったのです。

 私たちは聖書が十分な紙面をさいていないだけに、ナザレに育ち、山野をかけめぐる少年イエスを、そこで村人に愛されつつ誠実な大工業に励む青年イエスの日常生活を、たとえば、ルカの福音書二章五二節の背後に読み取るのです。バプテスマのヨハネに次いで、宣教を開始され、約二年の公生涯に入られたイエスの活動の中心も、南のエルサレムではなく、ナザレ村からは北東にあるガリラヤ湖畔のカペナウムでした(マタイ4・13)。それはイザヤの預言が成就するためでした(イザヤ9・14〜16)

 (中略)ゼブルンとナフタリの地は極度の辱めを受け、人々はやみと死の淵に投げ込まれたのです。(略)しかし、イザヤは絶望とやみの中から、不思議な預言を残しました。イエスの宣教開始においてその真意は明らかにされたのです。

(『鷲のように翼をかって』鍋谷堯爾著1984年刊行60〜61頁より抜粋引用。今日の冒頭の写真はキャプションに少し書いたが、山中為三氏が福音宣教のために貸家を提供された家族三人に福音を伝えておられる場面である。かつて若き日「ナザレから何の良いものが出るだろう」と思っておられたであろう京都の神官の家の出である山中氏は「来て、そして、見なさい」とのクリスチャンの方の勧めに素直に従われたのではないだろうか。このようにして福音は山中氏に根づき、その後、半世紀の時を経て遠く日本海の沿岸の山形県酒田の地に住んでおられたT氏家族にまで伝わり、根を下ろした。そのT氏が東京に出られ、30数年が経つと言う。そして先週信じられない私との出会いとなった。山中氏はその後米国に帰られたらしい。詳細はわからないが、T氏からそのように先週教えていただいた、そして一週間のちの昨日、今度はこの写真を拝借できた。誌上ではあるがT氏に感謝したい。)

2018年12月25日火曜日

クリスマスとスカルの井戸


しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、のちには海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。(イザヤ9・1〜2)

 神の御子がユダヤの国のガリラヤに生まれたもうたことは、神とこの世の勢力とを結びつけて考えがちな人間の思いを、根底からくつがえす出来事であります。

 福音がこの世の中に力づよく広がるという点からみれば、ローマ皇帝の世つぎとして生まれるこそ、もっともふさわしかったことでしょう。福音は国家権力の背景と支持を受け、強力にローマ世界に伝播されたにちがいないからです。また、もしも神の御子が、アテネ市の学者の家に生まれたならば、福音は当時の世界の知識人の間に、急速に広がっていったことでしょう。しかし神の御子は、ローマの属領として、政治的にはなんらの権威もないユダヤ、ユダヤの中でも、異邦人の雑居する北辺の地方”暗黒の地”(イザヤ9・2)とよばれたガリラヤに生まれたもうたのです。

 神の御子が、ローマにあらずアテネにもあらず、まさにガリラヤに生まれたもうたという事実は、福音の真理は、けっして政治的権力や学問的知識と結びつき、それらこの世の勢力によって支持されるものでなく、ただ神の導きと、人々の信仰のみの上に立つことを示します。ユダヤは弱小の国ではあっても、いやしくも神に対する信仰のことについては、いずれの国民よりも熱心かつ誠実でありました。神の御子を迎えるにふさわしいのは、この世の権力や智力ではなく、ただ信仰のみであるという真理が、クリスマスの出来事を通して、証されたのであります。

 しかし、これだけではありません。神の御子は、ユダヤのガリラヤに生まれたもうたのです。同じユダヤでも、たとえばエルサレムの大祭司の家に生まれたというのだったら、おそらく当時のユダヤ人の多くが合点もし、信じもしたことでしょう。ところが”暗黒の地”ガリラヤの片田舎で、神の御子が呱々の声をあげるなどとは、まったく思いもよらぬことだったにちがいありません。しかしこのことによって、福音の真理は、ただこの世の権力や智力ばかりでなく、いわゆる宗教的勢力によっても支持されるものでないことが明らかにされたのです。

 主は後年、スカルの井戸のそばで、サマリヤの女に向かい、”あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。・・・まことの礼拝をする者たちが、霊と真実とをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今来ている。父はこのような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も霊と真実とをもって礼拝すべきである”(ヨハネ4・21〜24)と語られました。この永遠の真理は、クリスマスの出来事の中に、すでに輝きわたっているのであります。

(酒枝義旗著作集第9巻148〜150頁より引用)

2018年12月23日日曜日

わが心の王 A・ドーフラー

寒空に 真紅輝く 薔薇の花 造り主をぞ ほめあげまつる
天は喜び、地は楽しみ、海とその中に満ちるものとは鳴りどよめき、田畑とその中のすべての物は大いに喜べ。そのとき、林のもろもろの木も主のみ前に喜び歌うであろう。主は来られる、地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、まことをもってもろもろの民をさばかれる。(詩篇96・11〜13)

「主は来られる」ということは、旧約聖書の中を流れる喜びのしらせです。「きょうダビデの町に、あなたがたの救い主がお生まれになった。このかたこそ主なるイエス・キリストである」という喜びのしらせが、世界の果てまでのべ伝えられる日を、神の民たちはどんなに待ちのぞんだことでしょう。この主は、おとめマリヤより生まれたイエスとして現われたのです。このかたこそは「その翼には、いやしの力を備えて」救いのためにこの世においでになったのですから、すべての人々は喜ぶべきです。

 すべての造られたものたちは喜び歌って、「地は楽しみ、海とその中に満ちるものとは鳴りどよめき、田畑とその中のすべての物は大いに喜べ」と叫ぶのです。すべての造られたものは、喜びに歌わなければなりません。なぜなら、彼らの王がこの世の救い主として地にくだり、ヘビのかしらをふみにじって、サタンの力を砕かれたからです。

 主を信じる者たちに、イエスは真理をもって来られます。「わたしの父から聞いたことをみなあなたがたに知らせた」。わたしたちはイエス・キリストのうちに、神の完全な、また最後の啓示を見ることができます。わたしたちはもうこれ以上に、神からの霊的な新しい真理を待ち望むことはありません。生けることばであるイエス・キリストによって、聖書の中にことばとして完全な真理を与えられています。魂の救いにわたしたちをかしこく目ざめさせるすべての必要なことが、はつきりとわたしたちに知らされているのですから、わたしたちは心から喜ばなければなりません。

 一方、イエスはまた、この世をさばくために来られたのです。この世の中は不義と不正にあふれています。国々も王国も、正義を行なっていません。不道徳がますます栄え、ついには罪が勝ち誇るのでしょうか。いいえ、イエスが王なのです。イエスが正義と力によって、この世をすべられるのです。イエスが国々の境を定め、この世の王たちや、為政者を導かれ、この世の民を導かれるのです。ですから、たとえ戦争の危険がせまっても、四方に悪が横行しても、恐れおののくことはありません。キリストは王であり、キリストを信じる者たちを、お守りになるのです。地獄のとびらは、キリストの教会に逆らうことはできません。また、なにものといえども、信じる者から福音を奪うことはできません。

祈り

 いつくしみの救い主、イエスよ。わたしはあなたを、わが主、わが神、この世の王、あなたの教会の祭司長とあがめまつります。人類の唯一の救い主、天と地の唯一の王として、あなたをおそれ敬います。わたしたちの心の中におはいりになり、あなたの愛とあわれみをもって治めてください。わたしのあやまちをおゆるしください。そしてどんな苦しいときにも、わたしをささえてくださるあなたに、忍耐づよくお仕えできるようお教えください。

 あなたがおえらびになった者たちとともにみ座に近く生きて、み名をたたえ、いけにえとなった小羊なる神の子の栄光をたたえることができますよう、また終わりの時まで忠実な者となることができますよう恵みをお与えください。 アーメン 主をたたえます。 アーメン

(『いこいのみぎわ』A・ドーフラー著松尾紀子訳97〜99頁より引用)

2018年12月21日金曜日

不思議なことがあるもんだ!


人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。(ルカ19・10)

 先日12月18日火曜日のこと、一人の方と隣り合わせになってお話ししていた。その方は私より一回り上の1930年生まれの88歳の方であった。たまたま、私はその時、『預言通覧』と『スコフィールドの聖書研究』を持っており、それぞれの本をその方に紹介していた。そして「スコフィールドの聖書研究」の冒頭のヨハネ3章16節の「神の愛」に触れ、互いにその広さ、長さ、深さ、高さを確認し始めたら、その方が「ためぞう(さん)が私にこの話をしてくれたんだ」と言われた。私は思わず、口走った。「その方は、山中為三さんですか」と尋ねると「そうだ」と言われる。私はまさに飛び上がらんばかりにびっくりした。

 山中為三氏が戦後どのように生活し、どのようにして召されたのか、手がかりがなく、辛うじて国会図書館にまで出かけて何とか想像しながら過去5回にわたって書き続けたが、目の前にその山中為三氏と会った方がおられたのだ。しかも私が4年前から知己をいただいていた方がすでに36年前の1982年に出会って、為三さんを通して救いを体験しておられたというのだから、私が驚くのも無理はないだろう。早速その方に山中為三さんの思い出を語っていただいた。以下はその聞き書きである。

 山中為三さんという方は山形県の酒田にお出でになったことがあるんです。で、マツダの自動車に乗ってスピーカーで町内(まちうち)を走ったのね。だからそれは酒田大火の後でした。大火の後でね、それでね、夜、私と妻と子ども(三男)と三人で、夜行ったのね(会場へ)、そしたら、誰かいっぱいいるのかなあと思って行ったのが、私ぐらいだけだった。三人しかいなかった。で、山中為三さんにヨハネ3章16節の言葉から「神の愛」について一時間教えてもらった。それで初めて、今までは何回も聖書の言葉は、説教は聞いていたけど、なかなかこれは、もっと、わかったようでわからないで、いい話だくらいだったけど、この山中為三さんの話を聞いて初めて人間の宗教ではないんだ、神様の方から、上からお出でになった、降られた方なんだ。罪人を救うためにお出でになった方だと、それ聞きました。

 それを聞いた時にね、はじめて、ああ何て神様の愛というものは(すばらしいものだろう)。上から、救うために、罪人を救うために捜してきたと言うんだから、これはありがたい、涙流して、いいはなしだぐらいではないの、感動して涙流した。今でも原点はそこなんだね。山中為三さんはその後アメリカに帰った(※)という話を聞きましたけど、そのみことば聖書のヨハネ3章16節の言葉で私は信仰を決心してすぐバプテスマを受ける心に変えられました。

 福音を伝える方法はみなちがうが、今聞いているのは、簡単なものを難しく教えているからなかなか最近救われる人は少ない。(為三さんは)反対なんだ。むつかしいことを簡単にわかりやすくほんとうのこと、ポイントそこだけ強調して教えてもらってそれから深みに入るようになれば、もっともっと福音は多くの人に結ぶんじゃないでしょうかね。そんなこと感じますよ、わたしは。

 酒田では、町内の神社の、その当時わたしは町内会長をつとめていましたから、神社の代表ですわ。神社の神主さんたちが、宮司さんたちといろんなつきあいありました、ずっと。でも、だれも神様のことはわからない、いざ神様のことになるというとわからない。お神輿一所懸命町中かついで歩いても中に何が入っているかわからない。おふだ一枚はいっているだけ。まあ宮司さんは、「たいよう」さんは、田舎ではたいようさんというが、宮司さんは、祭司だね。でも、先祖から伝わって流れの職業的にやっているだけで、ほんとうのことは何にもわからない。

 「主は生きておられる」44号のわたしの証に(あるでしょう)。(最初)タイトルがわからないと言われたが、私が言ったことが、それはルカの福音書のタイトルですよ、それはなんだかというと「失われた人を捜す」これがルカの福音書のタイトルですよね。だからわたしなんかまったくそういうことがなかったんだけれど。でも神様はわたしを救ってくださった。神様はどんなことでもできるの。できないことはないの。全知全能の方だから。不思議だね。

(※私にとって為三さんの履歴が1905年〜?と書いてあり、なぜ山中氏の最後がわからないのかと疑問に思っていたところ、この方の話を聞いてわかった。為三さんの奥様はアメリカ人でアメリカに帰られたという。だとすればアメリカで召されたのだろうか。わからないのも当然だと思った。

 その上、私が国会図書館デジタルライブラリーで見た、美濃ミッションで講義中の山中氏の若き日の姿は、まさに「神の愛」ヨハネ3・16について「スコフィールド」 を使っての講義そのものであった。それから50年ほど後に、日本海沿岸の酒田で一家三人の方がその山中氏から一時間にわたって熱心に福音を伝えられていたのだ。

 そしてさらにその36年後に何も知らない二人の者で、互いにスコフィールドの解きあかしを分かち合っていたのだ。その時、ご家族と一緒に撮られた写真があると言われるから、今度はとうとう私も山中氏の実像を見られそうだ。77歳晩年の山中為三さんだろうが・・・。それにしてもその方の救いのためにわざわざアメリカから来られたとは、まさに冒頭のみことばのとおりでないか。絵はザアカイである。)

2018年12月20日木曜日

神の限りない恵み(下)


わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。・・・わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者になる。(エゼキエル34・16、22)

 病気に苦しむとき、わたしたちは、神がわたしたちのことをお忘れになったのではないか、わたしがどんなに絶望していても、かえりみてくださらないのではないかというような気がいたします。痛みと苦しみに耐えて幾日も幾日も横たわっていると、心も暗くなり、傷ついたようになります。そしてこのときサタンが来て、神はもうあなたを愛してはおられないぞとささやき、そそのかしはじめます。このように、悪魔がわたしたちの心の中に汚らわしい思いをささやくときにこそ、神がわたしたちひとりひとり、信じる者におっしゃった、「すべての人を救う神の恵みが現われた」ということばを思い出しましょう。そして信じる心で「わたしもこのすべての人のひとりであり、神は限りない愛でわたしをいとしんでくださる」と言いましょう。

祈り

 おお主よ、あなたはきょう、わたしがどんなに弱りきって、力ないかを知っておられます。わたしはこの苦しみのために、暗い思いに沈んでいます。重荷が絶えまなくのしかかり、この人生の歩みはむずかしくてなりません。けれども主なる神よ、あなたは、あなたの牧場にあるすべての羊を愛してくださると約束なさいました。それゆえに、わたしはみ手にすべてをゆだねます。すべての困難にうちかつ力をお与えください。あなたの限りない愛がわたしとともにあり、福音を通じて救いがすべての人々に与えられることを思い起こさせてください。

 わたしが心のまどいと罪によって、あなたに逆らいましたことを、どうぞおゆるしください。あなたの愛が限りなく、日々新しくわたしのうちに豊かに注がれることをお教えください。わたしのからだが病気の床にあるときにも、あなたの恵みが豊かにあることを、わたしの目を開いてお教えください。あなたはわたしの心に平安と、希望と、永遠の命をお与えくださいました。イエス・キリストによってわたしの救いを確かにしてくださった神よ、日ごとにあなたとともに歩む恵みをお与えくださいますように。

 わたしと、この家族が、心さわがすことなくあなたとあなたの約束とを信じて、救いの信仰のうちに堅く生きることができますよう祝福してください。あなたの愛を示されたわが主イエス・キリストによって、これらのことをお祈りいたします。 アーメン

(『いこいのみぎわ』94〜95頁より引用)

2018年12月19日水曜日

神の限りない恵み(上)

すべての人を救う神の恵みが現われた(テトス2・11)

 よく命を二足三文にあつかうことがあります。エジプト人たちの間では、どれいたちはハエのように死んでいきました。ピラミッドに積み上げるための巨大な石を、十万というどれいたちがむちを持つ監督のもとに働かせられました。そして何千もの命が、疲労と暑さと酷使のために死にましたが、だれも気にかける者さえいませんでした。

 わたしたちの主なる神は、けっして人の命を、こんなふうに軽々とお考えにはなりません。神の目には、ひとりびとりがたいせつなものであり、一つ一つの魂は尊いものなのです。人間が罪を犯して、神の聖なるみこころに逆らうことがあっても、それでもなお神は、恵みと愛とを、忍耐つよくお示しになるのです。たとえ神が人間のあやまちを正すために、きびしくなさることがあっても、悔い改める余地を残しておかれます。アダムとエバとを楽園から追放するとき、彼らを助け出す救い主をお約束になりましたし、ノアの時代にさえも、百二十年という恵みの歳をこの世にお与えになっています。神が人間のする悪いことを、じっと忍耐づよくこらえてくださるのは、一つ一つの魂をたいせつにお考えになり、いつくしみ深い神がすべての人間を悔い改めに導きたいと願っておられるからです。このように救いに導く神の恵みは、すべての人に現われたのです。

 神の恵みは、すべての人に与えられます。この世に生まれて来た人には、ひとりとして例外なく、この恵みは与えられるものです。楽園から落ちたアダムにも、ウリヤを殺してその妻を取るという二重の罪を犯したダビデにも、自分のことばかり考え、どん欲で人のものをかすめ取ったザアカイにも、また主を否定したペテロにも、悪いことをして報いを受けて死にかけていた盗人にも、神の恵みは与えられるのです。

 神のこの限りない恵みは、失われた者たちにも与えられています。神はその恵みから、ひとりものけ者にはなさいません。神の愛は、弟アベルを殺したカインを救おうとしましたし、長子の特権を売ってしまったエサウを助けようと、心をくだかれました。また幾度も神に従わなかったサウル王を救うことを拒まれませんでした。「主はひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(2ペテロ3・9)。このように、神の愛は限りないのです。

 神の恵みが救いをもたらすのです。この救いは、イエス・キリストによってわたしたちにもたらされました。神はイエスを通して愛を表わされたのです。神は、わたしたちがひとりでも滅びるのを望まれませんでした。それで、み子をこの世におくだしになり、わたしたちの犯した罪の報いをみ子イエスがわたしたちにかわってつぐない、神の法の前に立つようにおはかりになったのです。みどり子のときから死にいたるまで、イエスは思いと、行ないと、ことばにおいて、父なる神のみこころに従われました。主はわたしたちの罪に傷つき、わたしたちのあやまちがゆるされるようにと、血を流して、神の求められるさばきをわたしたちにかわってお受けになったのです。そしてこのつぐないは、主なる神を満足させることができました。なぜならば、神はイエスを死から天に引き上げられたからです。イエスの死と復活によって、わたしたちの救いは確かなものとされたのです。

 この救いは、すべての人々にのべ伝えられるべき福音を通してもたらされます。救いをもたらす神のこの恵みは、またゆるしと永遠の命とを与えます。このことを、はじめにかかげた聖句が強調しているのです。

(『いこいのみぎわ』A・ドーフラー著松尾紀子訳92〜94頁より引用。前回の記事で監察医の方のご本を紹介したが、今日のこの文章をとおして「監察医制度」は主の例外なき愛にその原点を求めるべきでないかと思った。)

2018年12月17日月曜日

『死体が教えてくれたこと』上野正彦著 河出書房新社

見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。(黙示21・3〜4)

 上野さんは「監察医」であった。世の著名人の一人である。しかし、私はこの歳になるまで、この方のご存在を知らなかった。一月ほど前、図書館で何となくこの本を手に取り、読みたくなった。でも実際は、死体について書いてある本など気持ち悪く、ほったからしにしておいた。そのうちに貸出期限がとっくに過ぎてしまった。かと言って、読まないで返すのは口惜しい。そこで、この二、三日読み始めた。

 読み終えて、死に対してさらに正しい考えを持つことができた気がする。この監察医制度がGHQの占領期の1947年に創設され、日本では初めて制度化されたことを知った。敗戦直後の食糧危機の中で多くの人が死んでいったが、それは十把一絡げに「餓死」として扱われた。時のアメリカ大統領トルーマンは自国の占領政策を恥じて、日本にトウモロコシや脱脂粉乳を取り寄せて配給すると同時に、死因はなぜなのかを厳密に問う、監察医制度を始めたのである。戦後民主主義の別の面の原点を見る思いがする。なぜなら、国家のためにささげる消耗品としての命から、一人一人の命が初めて大切に扱われる大転換が行われたからである。

 上野さんはお父さんがこの人の命を大切にする「赤ひげ」先生として日夜働いてきたのを身近に見ておられて、後年自身も医者の道を選ばれたが、さらに法医学を専攻し、この珍しい監察医の道を選ばれた。2万体と言う物言わぬ死体を前に一人一人のいのちの尊厳を思いながら、仕事をして来られた。その一切がここで少年少女に分かりやすい形で語られていく。そしてそれは同時に平成の日本の世相を大きく裁断する警告の書となっている。

 ご自身の家庭の蹉跌のことも語られ、最後にはそれまで死は「ナッシング」だと考えられていたが、46年連れ添われた奥様に先立たれて、あの世での再会を希望されるように変わってきたことまで正直に述べられている。そしてこんなふうにも書かれている。

 人間の体の構造は、このうえなくよくできている。人の脳みそは頭蓋骨で守られている。心臓も肺も胸のあばら骨によって保護されている。しかし、胃袋や腸のある腹部には背骨はあるが、前をおおう骨はない。
 なぜだろうか。ここで体が折りまげられるようにできているのである。もしも腹部も全部、骨でおおわれていたなら、人間の体はカニの甲羅のようにかたく、ロボットのような動きになってしまう。
 こんなことを誰が考え出したものだろうか。私はここに、神の領域をみるのである。
 私自身は無宗教で、神というのはひとつの概念としてとらえているのではあるが、人体の構造をみると、もはや神秘といえるだろう。そういう素晴らしい体を、ひとりひとり与えられているのである。(同書181〜182頁)

 退職してから、もう何十年もたった。監察医たちはあいかわらずいそがしく飛びまわっている。重い責任のある仕事をうけおってくれていることを、心強く思う。だがその反面、私は思うのだ。監察医がいらない世の中になったら、どんなにかいいだろうかと。それは犯罪で亡くなったり、せつない理由で死んだりする人たちがいなくなるということだ。そんな世の中になったら、なんともうれしいことだ。(同書187頁) 

 もともと少年少女向きに語られている本だがこの他にも教えられることがたくさんあった。特に真実が明らかにされねば止まない著者の情熱が伝わり大いに襟を正された。その上で最後の著者の偽らざる感想・願望は冒頭の聖書のことばとして神様が私たちに約束しておられることを著者に是非知っていただき、信じていただきたいと思った。

2018年12月16日日曜日

要約イエス・キリスト伝 前文 パスカル

X'mas tree by Y.K
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。(ヨハネ1・14)

 今日は、伊勢崎に出かけた。そこには50キロ離れた群馬県板倉町から車で出席されたご夫妻も来ておられた。9月に産まれたばかりの赤ちゃんも一緒で、夫婦揃っての子育ての様子を話してくださった。お聞きするうちに、新生児を育てることの恭しさ、初々しさのようなものを感じ、聖家族に幸あれと祈らざるを得なかった。

 と同時に半世紀前に、伊勢崎と同じ沿線の足利に住んでいた頃、イエス様を信じ、新生するに至る一つのきっかけになった一冊の本の存在を思い出すことができた。パスカル著『要約イエス・キリスト伝』である。その前文を以下に書き写す。

 ことばは、永遠のむかしから存在していた。ことばは、神の中の神であり、これによって、すべてのものが、見えるもの〔また、見えないもの〕(コロサイ1・16)すらが造られた。そのことばが、人となり、時が満ちて、世にきた。世を救うためであった。世を造ったのはかれであったが、かれは世から受けいれられなかった。しかし、かれを受けいれた者には、かれは、神の子となる力を与えた。それらの人々は、神のみ心によって聖霊により新しく生まれたのであって、人の欲によって肉と血から生まれたのではなかった。(ヨハネ1・1〜9)。

 かれは、ご自分の栄光をぬぎすて、しもべのかたちをまとい、人間の中へはいってこられた。そして、死にいたるまで、しかも十字架の死にいたるまで、多くの苦しみの中を通ってこられた(ピリピ2・6〜8)。十字架の上にまで、わたしたちの弱きと病とを負い、ご自分の死によってわたしたちの死をうち破り、たましいを捨てることもとり返すこともできる力を持っておられたから(ヨハネ10・18)、すすんでご自分のたましいをお捨てになったあと、三日目にご自分の力で、よみがえられた。

 アダムは、自分によって生まれたすべての者に死をもたらしたが、キリストは、ご自分によってあたらしく生まれたすべての者に、そのあたらしいいのちをお与えになった。そしてさいごに、すべてのものに満ち溢れるために、陰府の底からもろもろの天の上へとのぼり、父なる神の右にすわられた(エペソ4・10)。そこからおいでになって、生きている者と死んだ者とをさばき(2テモテ4・1)、ご自分とひとつからだになった選ばれた者たちを神のふところへ連れもどしてくださるであろう。かれは神とひとつであり、つねに一体をなしておられる。

 神のいつくしみが明らかとなり、この大いなることどもが地上に成就されたとき、多くの人々が名のり出て、かれの生涯の物語を書きあらわそうとした(ルカ1・1)。この聖にして聖なる生涯の動きや変化はどんな細部にいたるまでも語り伝えられるにあたいする。しかし、この生涯を書きとめることができるのは、これを生みだしたのと同じ霊の持ち主しかないのであるから(ヨハネ3・6)多くの人々はこのことに成功しなかった。自分自身の霊に従う者であったからである。

 そこで神は、イエス・キリストと同時代の人々の中から、四人の聖なる人々を起こされた。この人々は、神の霊感を受けて、イエス・キリストのいわれたこと、なさったことを書きとどめた。この人々はすべてを書きつけたわけではない。もしそんなことをしたとすれば、全世界にも収めきれないほどの冊数を要したであろうから(ヨハネ21・25)。なぜなら、ここには委曲をつくして書きとめておくにあたいしないような動き、行ない、思想はひとつとしてなかったからである。というのは、すべてが父なる神の栄光をあらわすようにし向けられ、聖霊の内なる働きに導かれていたからである。

 しかし書かれたものはすべて、わたしたちがイエスは神の子であると信じ、そう信じることによってかれのみ名により永遠のいのちを受けることができるようになるためのものであった(ヨハネ5・24)。

 さて、その理由のすべてはどうも明らかではないが、聖なる福音書記者たちが、必ずしも年代順を守らずに書いたものを、わたしたちは今ここで年代順に、すなわち、各福音書記者のひとつびとつの章句を、力弱き身であるわたしたちにできるかぎり、そこに書かれた出来事が起こったとおりの順に組み直してみようとした。

 もし読者がこの中に少しでもさいわいなものを見いだされるならば、すべて善なるものを造られた唯一のかたである神に感謝をささげてくださるように。もしわざわいなものを見いだされるならば、わたしの力足りなさゆえと、ゆるしてくださるように。

(パスカル著作集第1巻田辺保訳教文館269頁より引用。私が手にしたのは松浪信三郎氏の訳による人文書院版であったと思う。勤務先の図書館でこの分厚な本の中に納められていた簡潔な文章をひたすら追って行った。読み終えて全く新しくされていた。その時恐らくこの前文は無視して読んでいたと思う。今読んでみて、改めて時代、民族、能力のちがいを越える神様の御愛に心が満たされる。それだけでなく、半世紀前に誰もいないうす暗い図書館の書架からこの重い書物を取り出すことのできた僥倖に感謝し、あわせてパスカルのやさしさに胸が迫る。)

2018年12月15日土曜日

山中氏を尋ねて(完)

鞍手の家の軒先のツバメ※
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。(ヨハネ1・3)

 山中氏の存在は、こうして、1961、2年の月刊「いのちのことば」誌の座談会での発言や執筆なさった記事によってうかがい知ることができた。最後にもう一冊の記事について触れたい。それは1961年の4月号の『「詳訳ヨハネによる福音書」の産室』という題名で山中氏が一頁にわたって書かれている記事である。

 もうかれこれ40年ほど経っているであろうか、私は『詳訳聖書 新約』(1976年8刷版)を購入したきり、書架の片隅に眠らしておいた。けれども今年になって、一、二回のぞいてみたような気がする。この四十年間もおそらく忘れてしまっているだけで、そのようにして時々私が頁を繰る書物だったのかもしれない。新約聖書はもともとギリシア語で書かれている。それを日本語に翻訳するのには様々な困難がある。1960年代には文語訳、口語訳の聖書があるのみで、その他は個人訳に限られていた。そのような中で1962年に詳訳新約聖書刊行会の手により『詳訳聖書 新約』が出版されている。

 その詳訳聖書の一つヨハネによる福音書が、いかにして生まれたのか、産みの苦しみと喜びとを、その誕生の”産室”に出入りした一人として山中氏が証言しておられるのである。内容はやや専門的すぎて一般にはなじまないように思ったので国会図書館のデジタルライブラリーから書き写すのをやめた。むしろ私としては、そのような聖書の翻訳事業に山中氏が携わっていたことが驚きであった。ちなみに1970年に新改訳聖書が出版されている。私事だが、私は1970年に主イエス様を信じ、同時に結婚の恵みにもあずかった。それはともかく、この『詳訳聖書』は『新改訳聖書』への橋渡しの役割を果たしているのでないかと思った。(あくまでも推測だから、間違いかもしれない、その辺の事情をご存知の方がこのブログを読んでくださり教えて下されば幸いである。)ただ以下に私がそのように考える根拠を書き連ねたい。ヨハネの福音書1章3節〜4節はそれぞれ次のように訳されている。

文語訳 萬の物これによりて成り、成りたる物に一つとしてこれによらで成りたるはなし。これに生命あり、この生命は人の光なりき

口語訳 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。

詳訳  すべてのものはによって〈を通して〉つくられた〈存在するに至った〉。存在しているもので、によらないでつくられたものは何一つない。彼にいのちがあった。そのいのちは人のであった。

新改訳 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

 定評ある文語訳も、イエス様を「これ」と訳している。口語訳も似ている。ところが「詳訳」は一歩踏み込んで「これ」でなく、「彼」とした。ここまで来れば一瀉千里、新改訳は「この方」と訳したのである。このような聖書翻訳事業は一人の手によっては不可能だし、何年もかけて多くの主にあるキリスト者が祈りをとおし喧々諤々の議論をして、邦訳聖書は私たちの手に渡っているのだ。あだやおろそかにしてはならない。

 京都の由緒ある神社の跡取りとして生まれたであろう山中氏がどのようにしてイエス・キリストの福音を受け入れたのかはわからない。しかし、今日私たちの手にする聖書の言葉の中には私たちが知らないだけで、たくさんの翻訳者の労苦が積み重ねられていることを忘れてはなるまい。そしてその一人にこの山中氏も加えられるのでないだろうか。すでに戦前、定評あるスコフィールドの「聖書研究」の本が1928年(昭和3年)、1937年(昭和12年)と相次いで美濃ミッション編集部訳の名前で名古屋の少数気鋭の一出版社である一粒社から出版されているが、これこそ山中氏の若き日の研鑽の跡ではなかろうかと思う。この間、彼は30代そこそこの歳であったが、美濃ミッションの聖書学校の校長であり、またミッションを代表する一人としてよく神社参拝拒否を主イエス様に対する忠誠と信教の自由の証として戦った人であるからである。山中氏を尋ねての旅はまだまだ尽きないが、一先ず今日で終わりとしなければならない。

(※昨日いただいたクリスマスカードにこの写真と以下の文章が添えてあった。「今年は鞍手の家の軒先で、かわいい4羽のツバメが生まれました。ひながかえると親鳥だけではなく、仲間のツバメたちがかわるがわる餌を運んできます。ひなたちは大きな口を開けて待っています。(略)ひなの巣立ちの日、玄関前の電線に、20羽ぐらいの仲間のツバメたちが、勢ぞろいして、巣立ちを見守っていたそうです。(略)」)

2018年12月14日金曜日

山中氏を尋ねて(4)

子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。(1ヨハネ5・21)

 以下は雑誌「いのちのことば」1962年3月号に載っていた座談会の記録の抜粋である。座談会は「死と死後の問題」というテーマで山中氏をふくむ二人の有識者に三人の方(教師、神学生※、大学生)が日頃の疑問をぶっつけるという形で展開している。話はそれぞれ、「死とはどんなものか」、「信者の死後と未信者の死後」、「葬式・祖先崇拝に対する態度」と進んでいく。その中で主に山中氏が助言しているのは「葬式・祖先崇拝に対する態度」の項目だ。「 」の部分が山中氏の発言記録である。

身内のだれかがなくなって、お葬式に行かなければならないことにぶつかりますが、いろいろな問題があると思うのです。おじぎ、焼香、お供え物など、こういう儀式に参加していいかしらと。

「私どもは、死んだ人の中には何かがあるような気持ちになりがちです。だから死体の前に行って『だれだれ先生あなたは私を導いて下さいました』とか言っておじぎをしたり、もう食べられないものを供えたりしますが、魂が肉体から去って行ったもの、これが死んだからだです。空き家になった家へはいって『やあ先生、きょうは先生にお別れにまいりました』と言ったり、食べものを置いて行ったりするのはへんではないでしょうか。」

私どもなんか、ご父兄にご不幸がありますと、告別式とかお葬式に出席しなければなりません。私はクリスチャンだから行きませんというわけにはいかないので、非常に困ります。

「キリスト教のお葬式に出席する場合は別ですが、問題なのは、仏教のお葬式に行く場合ですね。
 香をたくことは、偶像に対することです。そのことは、旧約聖書のエレミヤ書第44章の5節に『彼らは聞かず、耳を傾けず、ほかの神々に香をたいて・・・』、また8節にも『なぜあなたがたはその手のわざをもってわたしを怒らせ、あなたがたが行って住まうエジプトの地でほかの神々に香をたいて自分の身を滅ぼし』、あるいは17節に『わたしたちは誓ったことをみな行ない、わたしたちがもと行なっていたように香を天后にたき、また酒をそのまえに注ぎます』とあります。この天后とは天のクイン、月のことであり、月をおがみました。酒を注ぐとか、香をたくとか、その他いろいろなことは偶像にするところのものです。」

偶像というのは

「唯一の真の生ける神のほかに人間が何かを神とするものであり、また神に並べて何かをつくるものです(出エジプト20・3、23)偶像礼拝というのは造り主の神のほかに、この造られたものをおがむことです。これに対して神は明らかに『あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。・・・それらを拝んではならない』(出エジプト20・3〜5、申命記5・7〜9)とおおせになっています。『ひれ伏す』という原語を英語訳聖書では『頭をさげる、敬礼する』と訳しています。ですから、偶像に対して礼拝はもとより、いかなる奉仕、行事もしてはならないのです。」

祖先崇拝は、どうして偶像礼拝になるのでしょうか。

「祖先を拝することは、被造物をおがむことで、これは偶像礼拝なのです。ローマ人への手紙1章23、25節を見てもわかりますように。」

「私どもは仏教の葬式には出席しないことにしております。むろん親しい関係の者が死にました時にはおくやみにもまいりますし、遺族のかたを慰めたりして、できるだけお手伝いはいたしております。しかし、やはり近い身内の者とか友人関係になりますと、葬式に列席しなければならないこともあります。けれども仏教の葬式に列席しても、決して仏教の儀式には関係しません。聖書に明らかに『汝、偶像に遠ざかれ』と書いてありますから」

「いつでも、その時その時にどうすべきかは、やはり祈りをもって神様の導きを待つほかありません。ただはっきり保っていきたいのは、どこまでもこの世に対してあかしすべき立場にあるということです。キリストにつける者だということです。ここ4、5年ほど前だったと思いますが、私の家は京都の非常に古い家で、本家、総本家など軒を並べているのですが、総本家のおばあさんがなくなったのです。本家分家の関係で私もどうしても行かねばならなくなって、弟といろいろ相談しまして、薬のほうの専門の弟が全部湯灌をしてやりまして、ちゃんと着物を着せ、それからふたりで棺に入れて母屋のほうへ移しておいて、『私どもはクリスチャンですから、そういう仏教の葬式または儀式にかかわることはできませんから』と言って帰ってきたわけですけれども、葬式の日には出ないということもできないものですから、未信者のいとこたちに『ぼくはクリスチャンだから表であいさつだけはするから、他のことはきみがやってくれ』とたのんで表から来る五百人ばかりの人にあいさつをしました。」


 こうして、読んでいくと、京都の神官の出である山中氏が生涯、守り通し、証した生活の実際がどんなものであったかがよくわかる。なお編集者は、山中先生には「キリスト者の昇天の前後」および「キリスト教信仰と異教的習慣」という著書があります。と書き加えている。お目にかかりたいものだが、もはや無理だろう。でもこの座談会で私の願い「山中氏を尋ねて三千里の旅」は了としたい。

※実はこの座談会に出席している神学生は田辺正隆さんであった。田辺さんは2016年8月23日に召されたドイツ人宣教師ベックさんから、ベックさんの来日当時ドイツ語の手ほどきと信仰を受け継いだ。一方、ベックさんは田辺さんから日本語を教わったと言う。ベックさんの流暢な日本語の言い回しには田辺節もあるのだろう。『光よあれ』4集332〜333頁にそのことが触れられている。

2018年12月13日木曜日

山中氏を尋ねて(3)

人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊です。(マタイ10・19〜20)

 なお、この『神社参拝拒否事件記録 復刻版』には、美濃ミッションの関係者として、虚偽の情報で、警察につかまり、取り調べを受けたときの山中氏の陳述書(?)も載っていた。文章全体はもっと長いのだが、最後の要点だけを転写する。


  一、余は旧新約聖書に基づくキリスト教を信ずる者なり
 二、余は神社を宗教なりと認む
 三、余はキリスト教の立場より神社に参拝せず

 1933年(昭和8年)8月22日 
    京都市上京区下立売日暮東入浮田町603番地 山中為三

 極めてリアルな陳述書である。我が身に照らし合わせて、私にこれほどはっきりとした陳述ができるのか、と思わされた。私たちは一地点に居を構え、一地点で主なる神を拝する者でそれ以外の何者でもあり得ない。

 この山中為三氏について『世界平和人物大事典』なる本がある。この本も国会図書館に備えてあった。そこからの書き写しを以下に紹介する。

1905〜?(明治38〜?)
キリスト者。京都生まれ。同志社大学在学中に無教会主義のプリマス・ブレズレンの伝道師に学び受洗。同志社大学神学部に進んだが中退し、ホーリネス教会の聖書学院に学んで伝道師となり、日本聖書学校の講師を経て美濃ミッションの聖書学校校長となった。1938年校長を辞任し40年まで渡米。帰国後東京でプリマス・ブレズレンの伝道を行ない、神社崇拝や宮城遥拝を偶像崇拝として拒否したため42年に検挙、獄中で病を得て出所した。戦後も伝道師として活動を続けた。著訳書『神の黙示たる聖書』(編、1931)、ウィリアム・エバンズ『聖書の重要教理』(共訳、1955)

 この短い評伝は山中氏の戦前の姿、40歳までの姿を描いて余りある。ただしこの叙述には1933年の美濃ミッションの神社参拝拒否事件で当事者として強く関わったことは省略されている。彼は美濃ミッションの設立認可のために文部省にまで足を運んでいるのに。その彼が1938年美濃ミッションの聖書学校校長を辞任し渡米、1940年帰国する。渡米の目的は何であったのだろうか。その上、帰国後、大垣でなく、東京で活動し、治安維持法違反で検束されているのだ。

 しかし、それに比べると、戦後いったい何年生きられたか、どこでどのように活動して、いつ召されたのか、これ以上知る由はない。何名か、交際のあった方々は今もご存命であろうと思う。その方々にお話をお聞きしたい思いもなくはない。しかし、それを知って何になろう。キリスト者として最後まで全うされたことは間違いない。その戦後の姿を再び「死と死後の問題」という座談会に参加して発言されているものの記録(雑誌「いのちのことば」1962年3月号所収)がある。明日はそのことを紹介しよう。

2018年12月12日水曜日

山中氏を尋ねて(2)

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3・16)

 昨日は山中氏の横顔の話をさせていただいたが、実はその直後、別の本(神社参拝拒否事件記録 復刻版を繰っていたら、何と山中氏の全身像をしかと見させていただく僥倖に出会った。

 その一枚の写真は、美濃ミッションで山中氏が聖書の講義をなさっている場面である。受講生8名の後ろ姿とともに、黒板を背にして正面に羽織袴の山中氏の姿が見えた。こちらの方は昨日触れた55歳の時の姿でなく、一見してまだお若い時の山中氏の姿であった。黒板には大きな字で「神の愛」と書かれていて、五項目がやはり大書してあった。小さな写真であるので判別がつきにくいので、国会図書館の受付の方からルーペをお借りして書かれている字を想像し、次のように読み込んだ。

 一、神の愛の量度※
 二、神の愛の対象
 三、神はいかに愛するか
 四、神の愛・・・・・
 五、神の愛は我らのために何をするか

 残念ながら、四番目の項目の板書は「・・・・」部分が山中氏の姿が邪魔になって判読できなかった。キャプションは「美濃ミッション聖書学校授業風景(山中為三校長講義中)」と書いてあった。その講義室の柱にはそれぞれ聖書の言葉が書かれていて、後ろ隅にあるストーヴも見え、八人の方もそれぞれ着物姿で真剣に受講されている姿が見てとれる。正面に見える山中氏の机上には何やら参考書ごときものが置かれている。
 山中氏が美濃ミッションの聖書学校の校長であったことはすでに12月4日のブログで紹介したように1977年当時に過去を回想してご本人が書いておられたことで知っていたが、このように写真を通して知ることができるとは全く予想外で「山中氏を尋ねて三千里の旅」のしがいがあったとも言える。そして、それだけでなく、四、五日前に私は国会図書館のデジタルライブラリーで、美濃ミッション発行の『聖書研究』(スコフィールド著美濃ミッション訳昭和3年8月発行)を見つけ、自宅でダウンロードし、プリンターで印刷していた。その最初に書いてあったのが、「神の愛」であったことを思い出したのだ。

 ひょっとしてこの講義はそのテキストを用いてではないかと睨んだのである。豈図らんやまさにそうであった。そして判読不能であった四は「神の愛は我らのために何をなしたるか」であることがわかった。このようにして20代後半に差し掛っていた山中氏の姿が一挙に明らかになった次第である。

 それにしても、日本人の救いのためにその一身を投げ打ったワイドナー宣教師は「記録」を重視された方だと言う。そのような彼女の姿勢が『神社参拝拒否事件記録 復刻版』で大いに用いられている。そして編者は、このような記録はもし日本に置かれたままであったら、官憲に取り上げられたり、戦災で焼け出されて永久に見られなくなったであろう、しかし奇跡的にアメリカに移されていて今私たちはその「神社参拝拒否事件」の真相を知ることができるのは神の摂理だと述べている。

 その本の写真にはもう一枚印象深いものがあった。それはあの迫害下、『美濃ミッション』の看板を下ろさざるを得なかったのだが、そのまさに今にも看板をはずそうとしているワイドナー宣教師(ミッションの創設者)の姿、そしてそのまわりに他の信者が数人おられての姿が写っていたのだ。しかも暗い雰囲気もなく、こちらを向いて笑っておられるようにさえ見える。もちろん、彼らのうちの一人がこの写真を撮影したに違いない。真実はこのようにして明らかにされるのかと思った。


 神の愛の「量度」とは聞きなれないと思う。この冊子にはそのことが次のように書き加えられている。参考のために書き写す。(これらはすべて校長山中氏が訳によると、ブログ氏は推量している)

ヨハネ3・16ーー『ほどに』スポルジョン氏曰く『いかなる言語の中にても、ヨハネ3・16の「ほどに」なる英文字ほど、意味深長なるものはない』と。
エペソ3・18、19
 広さ ヨハネ3・15、16 『すべて』・・・誰にでも
 長さ エレミヤ31・3 『窮まりなき』・・・永遠の
 深さ ガラテヤ2・20 『我を』
 高さ エペソ2・6 『彼の中』
ヨハネ17・23 『なんじ我を愛するごとく』

2018年12月11日火曜日

山中氏を尋ねて(1)

ブログ氏の生誕地です(最近この看板に変わったようです)

わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。(イザヤ43・7)

 やっとお会いできました。山中為三氏と。それは今時、ノーベル医学生理学賞を受賞された本庶氏を全く見も知らない、私どもがテレビなどでその勇姿を拝見して、なんとなく親しみを感ずるのと似ていなくはありません。

 母を尋ねて三千里、ということばがありましたが、山中為三氏とはいったいどのようなお方なのか生年もわからず、探しあぐねておりましたが、今日は国会図書館に出かけてあらん限りの本を閲覧してわかりました。以下はそのご報告です。

 先ず、1961年の「いのちのことば」という月刊誌の3月号のコラム記事山中為三氏による「私の失敗談」を紹介します。

 写真ではおわかりになりにくいでしょうが、わたしは顔のまん中にぶさいくな鼻をくっつけています(55年間)。米国にいたとき、よくユダヤ人から、「きみはユダヤ人なのに、なぜクリスチャンになったのか」と攻撃されました。「ぼくは日本人だよ」と言っても、「いやいや、きみの鼻がユダヤ人だ」と言って聞いてくれません。さるユダヤ人研究家に、「あなたはユダヤの大祭司の鼻だ」と言われたことがあります。しかしわたしは「イスラエルの国籍がなく」異邦人で、その上、偶像の神官の長男に生まれましたが、「恵みによって救われた」のであります。(エペソ2・5、12)
 4、5年前でしょうか、あるいなかの町の子供の集会で、例のへたな話をしたことがあります。あとで子供たちから、「先生の話はわからへん(わからない)。鼻の高い異人さんやから(だから)な」と言われたのにはがっかりしました。
 そそっかしいわたしは、ショーウインドに鼻をうちつけたり、シュークリームを食べて鼻の先に白いものをつけたり、ひげをそるときに鼻の頭を切ったりします。全くのところ、高い鼻をおられて鼻べちゃというわけです。
 山高きがゆえに尊からず、鼻高きがゆえによいということはありません。しかし、これも神さまが私に与えてくださったものであり、この鼻によって低くされています。
 はなはだ妙な鼻の話になりましたがこれも失敗談の一つであります。

 言うまでもなく、この冊子は国会図書館でデジタル化されていて、お写真を拝見することができたのです。しかもこの文章を読むと、何となく、山中為三氏の生年がわかります。55年間鼻がくっついています、とおっしゃっておられますから。1961から55を引きますと、ずばり1906年(明治39年)という年がわかるというものです。私の父は1911年で明治44年でしたから、私にとっては父の世代ということで山中像ははっきりしてきました。何よりも、その冊子には山中氏の美しい横顔が写っていました。まさに日本人離れした面長な西洋人のような顔です。皆さんにお見せできないのが残念です。ちなみにブログ氏は本庶さんとほぼ同年です。手前味噌ですが、ブログ氏に少しは親しみを感じていただけたでしょうか。

2018年12月6日木曜日

純粋な信仰とは何か

私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにした・・・しかし、・・・万が一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。(2コリント11・2、3)

 山中為三氏については、いつどこで生まれ、何歳で召されたか一切わからなかった。ネットで可能な限り調べたら、京都府の出身であること、また、彼が柏木の聖書学院で学び、外国語が堪能であり、翻訳書をふくむ二、三の著書があることまではわかった。詳細については現在調査中であり、次の機会に譲りたい。その代りに、彼が深く関わった「美濃ミッション事件」を通して知ることのできる、それぞれの信仰者の証を探ってみる。

 その筆頭は4名の子どもたちの一途な信仰である。学校行事として神社参拝に全員が赴いた時に、自らの信仰ゆえに(偶像崇拝はできないという)参拝に参加せず、早退を申し出た行為である。次に、学校から、あくまでも国民教育の一環であるから、キリスト者と言えども、参拝すべしと強要がなされた時に、それに抗議すべく、校長に面談に行った美濃ミッションの責任者セディ・リー・ワイドナー宣教師の行動である。

 これらはいずれも1929年9月のできごとであるが、その半年後の1930年3月にはこの行為を問題視する大垣市議会の様子を新聞が報じ、非難が美濃ミッションに集中する。その中には別の現職校長でありかつキリスト教会員である人物からの非難の声も新聞には載せられた。「自分たちは神社参拝をする。ワイドナー宣教師の信仰は狭量であり、クリスチャンとして迷惑千万である」という趣旨であった。

 その後、1933年の「伊勢神宮参拝拒否事件」が起こる。これも美濃ミッションに出席する人たちの子弟が関与する同様の事件であり、ますます美濃ミッションを主催するワイドナー宣教師は苦境に立たされる。美濃ミッションが反国家的であるとして、路傍伝道をする信者に対する殴打・投石、挙げ句の果てには集会所の焼き討ちにまで向かう恐れも生ずる不穏状態に陥った。さながら使徒23章のようであった。

 このような騒動の只中で信仰を守り通したのが、ワイドナー宣教師、山中為三氏をはじめとする当時の美濃ミッションに関わる人たちであった。ある時は集会で賛美歌を歌うことも禁止された時があったようだ。その時、ワイドナー宣教師は「来日以来賛美歌を禁止されたのは大正天皇崩御の時だけであった。今日はそれ以来の重苦しい暗い1日であった」と禁止させた警察に述べた所、警察はいたく恐縮し、それ以来禁止が解かれたそうである。類まれなるワイドナー宣教師の知恵である。

 その後、天皇崇拝は外国人であるワイドナーにはわからない、われわれは日本人クリスチャンだから、天皇を尊崇するあまり、イエス・キリストは第二順位になるのだと言わんばかりだったキリスト教指導者に対して「あなたのその天皇に対する熱情を、あなたのために命を与えてくださったイエス様に対して持ってください」と言ったそうである。それだけでなく、9月1日読売新聞が「美濃ミッション 聖書の”神”以外は一切排撃 危険な思想に対する警告」と全国版で報じた時、意気消沈している人たちを前にして、「みなさん、主を賛美しましょう。我らには日本全国にこのような広告を出すお金はありませんから!」と喜びと確信に満ちて言ったそうである。

 一方、このワイドナー宣教師の明確な態度表明について行けず、8名の主にある教役者が美濃ミッションを去って行ったが、ワイドナー宣教師は「葬式よりもつらい」気持ちで見送ったということである。『預言通覧』に「教会は神の『めぐみのすぐれて豊かならんことをあらわさんため』〈エペソ2・7〉の者にてあり、かつまた小羊の伴侶なるがゆえに、その配下に対する途は、正義をもって応報すること、能力をもって悪を圧倒することよりも、むしろ愛と情けとにおいて神の祝福を持ち運ぶことにあるべし」(『預言通覧』首藤著127頁)とあったがまさにワイドナー宣教師の心はそうであった。

 多くの宣教師が日本での宣教活動を続けるために時の政府・国家の方針(宮城遥拝、天皇崇拝)に膝を屈し、妥協して行った。また日本国内のキリスト教指導者たちも同じ態度を取った中で、ワイドナー宣教師、山中為三氏たちのとった態度はまさに冒頭の聖句の示すところに従ったまでである。山中為三氏が戦後、自由を得た中で小さなパンフ記事(多分彼の最後の作品ともいうべき)『クリスチャンの希望(キリストの再臨)』を書いたのもその彼の覚悟を遺したものでないかと密かに思う。

 さて、当のワイドナー宣教師は女性であった。そして1939年、脳内出血を患い米国への帰国を決意し、傷心のうちに日本を離れざるを得なかった。しかし、日本出港の翌日12月24日、太平洋上より天に召されたということである。

 そして、その後1942年3月26日、山中為三氏らは「治安維持法違反」で検束、留置、1943年9月より投獄され、1年半ほどの獄中生活を余儀なくされる。

(この項はいずれもhttp://www.cty-net.ne.jp/~mmi/pdf/minojiken/pdf_minojiken.pdf を参考にまとめました。)

2018年12月4日火曜日

山中為三氏の生き方

確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。しかし、悪人や詐欺師たちはだましたりだまされたりしながら、ますます悪に落ちていくのです。けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。(2テモテ3・12〜14)

 ここ数日間、山中為三氏の『クリスチャンの希望(副題 キリストの再臨)』をご一緒にお読みした。特に著者の記した三篇の詩歌は時を越え、私どもの心を打つものでなかろうか。私はこの三篇の詩歌を通して著者の心の琴線に触れ得る喜びを味わうことができた。

 今の時代は情報過多の時代である。したがって、ネットを通じて山中為三氏についてもある程度調べることができる。しかし、私は今回さらに彼の肉声を聞く思いのする文章を偶然に手にすることができた。それは、彼が『キリスト者の勝利(横井憲太郎と一粒社の軌跡)』と題する本に寄せた文章である。この本は、故人ではあるが、名古屋でキリト者として特色ある出版事業(一粒社)に献身され、49歳で召された横井憲太郎氏を偲ぶものである。その本に「神社参拝拒否問題」と題した以下の彼の文章が載っている。

 横井兄のこと思い出がつきません。お手紙など全部1942年(昭和17年)の初め検挙にあった時、押収されてしまいました。美濃ミッションの戦前の人達に問い合わせたのですが、いずれも検挙の時、すべての書類、書籍を押収されて詳しいことは解りません。皆さんが「横井さん」なつかしいな、よく大垣にあの迫害当時来て下さったと語っています。
 昭和7〜8年の頃、当時私は牧師でなく美濃ミッション聖書学校の校長でしたが、大垣市の美濃ミッションの神社参拝拒否問題で大迫害を受けていた時、ー日本基督教団の牧師達からも反対運動と迫害を受けた時ー大垣に度々来られ共に戦ってくださったこと、印刷物などを引き受けてくださったことを心から感謝いたします。思い出はつきませんが、御上京の時あるいは思い出の座談会でもあれば寄せていただきたいです。(1977.3.7)

 さらに別の資料(http://www.cty-net.ne.jp/~mmi/pdf/minojiken/pdf_minojiken.pdf)によると、山中為三氏は1943年(昭和18年)9月より投獄、1945年(昭和20年)1月栄養失調にて危篤となり、2月に刑の執行停止を受け療養所に移されて敗戦を迎えるとある。このすべての迫害生活を支えたのが、彼の「キリスト再臨」についての聖書知識であったことを覚えさせられずにおれなかった。ところが、一月ほど前に入手した『預言通覧』(首藤新蔵編)という明治39年出版の書物(総頁474頁)を昨日からひもときはじめたが、まさに山中為三氏の40数頁の本とその内容が同じであった。為三氏がこの本をルーツにしたのでないかとさえ思った。これも単なる偶然の出来事と言ってすませる問題であろうか。そこにはキリスト者の内に働かれる連綿とした聖霊の御働きを覚えるからだ。

 参考までに『預言通覧』の章立てを以下転写する。(『預言通覧』はブレザレンの創始者とも言うべきJ.N.ダービー氏の英文を主体に首藤氏が翻訳し、まとめたものである。文語体ではあるが、キビキビとした小気味良い文章からなる名文だと思う。)
第1章 預言を学ぶこと
第2章 我らの望み
第3章 世の運命
第4章 千年時代の到来
第5章 キリストと教会
第6章 過去および現在のイスラエル
第7章 イスラエル将来の回復
第8章 基督の再臨は千年時代の前
第9章 基督教の腐敗およびその結果
第10章 異邦人の時、滅亡期の異邦人帝国
第11章 末日のイスラエル、諸国
第12章 遺残者
第13章 イスラエルの回復は千年時代の発端
第14章 第一の復活
第15章 基督の千年の御宇
第16章 黙示録略解

2018年12月3日月曜日

クリスチャンの希望(最終回)

『クリスチャンの希望』39頁
これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。(黙示22・20〜21)

今日掲載した写真は『クリスチャンの希望』のものである。いったいこの図は何をあらわすか、以下は著者山中為三氏がつけられた注釈である。

(A)イスラエルがキリストを殺すまでの歴史をしめします。(使徒2・22、23、使徒3・13〜15、使徒10・36〜39、使徒13・16〜29など)

(B)キリストのご昇天をしめします。(ルカ24・51、使徒1・9、10、使徒2・33など)

(C)いまのめぐみの時代、すなわち神が教会をあつめていられる時代をしめします。その前に、アベル、ノア、アブラハムなどの信者はありましたが、これらはいずれも個人的に救われた聖徒であって、御霊によってキリストと一つからだにされた教会ではありません。(第1コリント12・12、13、エペソ1・22、23、エペソ3・6など)

(D)めぐみの時代のおわりに、キリストが空中までくだって、教会をとりあげなさることを示します。(第1テサロニケ1・10、1テサロニケ4・16、17)

(E)刑罰の時期、すなわち、この地上にさまざまのおそろしい事件がおこる時をしめします。(黙示録第6章以下)ダニエル書にある70週の最後の1週、7年がこの時代にあたります。後半の3年半は「大きな患難」のときです。(マタイ24・21、エレミヤ30・7など)

(F)黙示録第4、5章にあるように、教会がとりあげられたのち、キリストと共にふたたび地上にあらわれるまで、天において礼拝讃美しているときをしめします。「小羊の婚姻」(黙示19・7)もこの時におこなわれます。

(G)主が雲にのり、権威と栄光とをもって、聖徒とともにこの地上にあらわれなさることをしめします。(ゼカリヤ14・4、5、マタイ24・30、マタイ26・64、黙示1・7、黙示19・11〜16など)

(H)千年王国時代です。(イザヤ60〜62章、黙示20・2〜6など)

(I)千年ののち、サタンがしばらく解き放されることをしめします。(黙示20・7〜10)そして天地はうせ去り、最後の大審判(大きな白い御座の前における)が行なわれます。(黙示20・11〜15など)

(J)新天新地をしめします。(第2ペテロ3・13、黙示21・1〜4)

 以上キリストの再臨についてすこしばかり聖書に基づいて書きました。もちろんその教理を知ったばかりでなく、実際に主の御愛心を知らされ、神のご計画を示されて、いまかいまかと主のおいでを待つべきです。現在のユダヤ人の行動、ヨーロッパの動静、世界のうごきは聖書のみことばを成しとげつつあります。わたしたちはこれを知らされて、おごそかな感にうたれます。しかしそれにも勝って「見よ、わたしはすぐに来る」という愛する主のみことばを信じ、目をさまして、そのおいでをまちのぞむべきであります。どうか、日夜このみことばを思って「アァメン、主イエスよ、きたりませ」と心の底からお答え申しあげたいものです。

(『クリスチャンの希望』39〜42頁より引用。明日から山中為三氏にちなむ話を展開したい。乞う、ご期待。)

2018年12月2日日曜日

クリスチャンの希望(7)

聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。(1コリント15・51)

 すでに書きましたように、教会のための「空中携挙」は奥義(第一コリント15・51)で旧約聖書には示されていません。「地上顕現」は預言の問題で旧約にはかず多く記されていますが、いま創世記第24章から、キリストと教会のこと、そして空中でお目にかかるところをにおいて学ぶことにします。

 ここはアブラハムがそのひとり子イサクのためによめを求めるところです。これは父神がひとり子キリストのために教会(新婦)を召しなさることを教えています。リベカ(教会の型)がアブラハムのしもべ(聖霊の型)につれられて、荒野を通ってイサク(キリストの型)のもとにいく、この章の最後の美しい光景(天然色映画にでもすればすばらしいでしょう)を見ることにします。(61節以下)
 
 「リベカは立って彼女たちと共にらくだに乗り、その人に従って行った。しもべはリベカを連れて立ち去った。さてイサクはベエル・ラハイ・ロイからきて、ネゲブの地に住んでいた。イサクは夕暮れ、野に出て歩いていた(黙想していた)が、目をあげて、らくだの来るのを見た。リベカは目をあげてイサクを見、らくだからおりて、しもべに言った、『わたしたちに向かって、野を歩いて来るあの人はだれでしょう』。しもべは言った、『あれはわたしの主人です』。するとリベカは、ヴェールで身をおおった。しもべは自分がしたことのすべてをイサクに話した。イサクはリベカを天幕に連れて行き、リベカをめとって妻とし、彼女を愛した。こうしてイサクは母の死後、慰めを得た。」

 わたしはこれを説明しません。説明の要がないのです。聖霊が兄姉の心に、キリストのご愛を示してくださるように、主イエスがわたしたちがみ許にいたるのをどんなにお待ちになっているかを知らされて、その心が燃やされますように祈ります。

  一、くらきやあらし うれいのなか
    ひとつのひかり われぞみる
    あすはいかにか さちなるらん
    わがためキリスト きたまいなん
  二、ひかりややすき さかえのなか
    ちちのいえにて キリストは
    わがため目さめ まちたもう
    わがいたるまで まちたもう
  三、あまつほめうた かこえども
    きみがみみには あらのなる
    あしおと日々に ちかよるを
    なおたのしとぞ ききたもう
  四、かがやきひかる うるわしき
    さかえのなかに ましますも
    ちちのあたえし はなよめぞ
    いまだそこには かぐるなる
  五、きみとわれとは さかえにて
    おなじくふかき よろこびせん
    われ主よきみと きみわれと
    ともなるともに よろこびなん

 クリスチャンのただ一つの希望は、主にお目にかかることです。主イエスこそ「わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子」でおいでになるのです。この御方にお目にかかるのです。しかも主イエスのほうでご自身のものをみそばに迎えることを待っていてくださるのです。クリスチャンの希望は空中携挙であります。

 しかし地上顕現とその預言を学ぶことによって、すでに働いている不法の秘密の力がいかなるものであるかを知り、わたしたちの心がさばかるべきこの世より離れて、ひたすら主につかえるようにされます。さらにわたしたちが主と共にうくべき栄えがいかにすばらしいかを知らされると同時に、王の王、主の主のみ栄えのあらわれを讃美せずにはいられません。地の民イスラエルはこの栄えを現実に見せられて驚きますが、わたしたち天の民は信仰によって、暗きの中に主の勝利を見せられます。イエスを殺したこの世にクリスチャンの分はありません。わたしたちは主のみ足跡をふみつつ、滅び行く世人に、めぐみの福音を宣べ伝えて、主のおいでをお待ちしているのです。

 実際にこのキリストの再臨の希望は、あらゆる困難にあってもたえ忍ぶ力をあたえ、かなしみのときに慰めをうけることができます。またこの「悪しき世」にとらわれず、クリスチャンにきよい生活を送らせるのであります。「彼についてこの望みをいだいている者はみな、彼がきよくあられるように、自らをきよくする」とヨハネ第一の手紙3章3節に記されてあるとおりです。

  一、まもなく主きます われら野におらじ
    まずゆきたまいし ちちのいえにすみ
    主のみかおはいし めぐみのさかえほめん
  二、まもなく主きます よく時をもちいん
    みこころいためず したがいつかえて
    主にまみえんとまつ これよろこびなり
  三、まもなくすぎさらん いかで十字架さけん
    すべてをそんとして みあとをぞいそがん
    しばしのくるしみ むくいは主のえみ
  四、まもなくきませよ はなよめまちいぬ
    たびびと取りあげ みすがたにかえよ
    みさかえみまつり にい歌をぞうたわん

(『クリスチャンの希望』山中為三著33〜39頁より引用)

2018年12月1日土曜日

クリスチャンの希望(6)


わたし、イエスはみ使いを遣わして、諸教会についてこれらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。(黙示22・16)

 キリストの再臨に二段階のあることは、すでに繰り返して書きました。すなわち教会のための「空中携挙」と世に対する「地上顕現」との区別であります。このことがはっきりしないと、聖書にある「主の日」も「キリストの日」も同じように思い、混雑を来します。(聖書はすべてクリスチャンのために書かれたものですが、クリスチャンについてすべて書かれてあるというのではありません。真理のことばを正しく区分することが大切であります。)

 さて「主の日」のことは、テサロニケ人への第一の手紙第5章に書かれてあります。「あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る」(2、3節)このことは主イエスも「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであろう・・・人の子が現われる日も、ちょうどそれと同様であろう」(ルカ17・24、30)とおっしゃっています。この「主の日」とは主が力をあらわしなさる時です。いまは人間が勝手放題なことをしていますが、ついに「主の日」が来ます。

 主の日(エホバの日)という語は旧約にしばしば見られます。その一例としてヨエル書をあげましょう。「ああ、その日はわざわいだ、主の日は近く、全能者からの滅びのように来るからである」「国の民はみな、ふるいわななけ、主の日が来るからである」「主の日は大いにして、はなはだ恐ろしいゆえ、だれがこれに耐えることができよう」「主の日がさばきの谷に近い」(1・15、2・1、11、3・14)このように主の日の来ることは、この世にとって恐ろしいわざわいであり、しかも突然で、ちょうど盗人が夜来るようにきます。

 ところがこの「主の日」を「キリストの日」とごっちゃにして、主の日が教会に臨むように思う人があります。そのためにおそれを持ちます。しかし主イエスが新郎として、新婦なる教会をむかえにおいでになるのと、盗人が夜突然やって来るのとは大変なちがいです。主は貴い御血で教会をご自身のものとされました。その愛するものを御許に集めるためにおいでになる日は、主の日ではありません。さきに記しましたテサロニケ人への第一の手紙第5章の「主の日」のことは、同じ手紙の第4章のおわりに記されている空中携挙のあとに書かれてあるのです。第5章の「主の日」の前に、教会はすでに天にあげられて主と共にいるのです。

 さらに第5章の2、3節につづいて「しかし兄弟たちよ(信者に対して)、あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日(主の日)が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。あなたがたはみな光の子であり昼の子なのである。・・・神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救いを得るように定められたのである」と書いてあります。きわめてはっきりしているではありませんか。

 次に「キリストの日」というのは、コリント人への第一の手紙第1章8節に「主もまた、あなたがたを最後まで堅くささえて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、責められるところのない者にして下さるであろう」とあります。またピリピ人への手紙第2章16節に「キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだでなかったと誇ることができる」と使徒パウロは書いています。しかも彼が、この世を去る前に「今や義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けてくださるであろう」(第二テモテ4・8)と記しています。「キリストの日」は信者によっては、その信仰のおこないの報いをたまわるときであります。このみことばはわたしたちに責任を告げ、その良心にいましめをあたえます。サタンの支配しているこの世にならわず、主の権威によろこんでしたがい、主につかえて、キリストの日に冠をいただくのです。ああ何と光栄ある日ではありませんか。

 なお「空中携挙」と「地上顕現」との区別をあきらかにするために、次のことを学びましょう。新約のおわりの黙示録第22章16節に「わたしは輝く明けの明星である」と主イエスは教会にご自身を示していられます。ところが旧約のおわりのマラキ書第4章2節には「わが名を恐れるあなたがた(ユダヤ人の忠実なのこりの人たち)には、義の太陽がのぼり・・・」とあります。これはキリストが地上にあらわれなさる時は、すなわち主の日で、この暗黒の世が光にてらされ、ユダヤ人はこの義の太陽ののぼるのをよろこびます。しかし教会は、それよりさきに、主が空中まで迎えに来てくださるのを暗黒の世にまっているのです。日の出の前に、あけの明星のでるのをまっているのです。教会は義の太陽のあらわれるときに、栄光を共にしますが、世の明けぬ前にあらわれる明星をまつのです。

  一、こいしたえる目をあげ
      あけの明星いずるまつ
    いこう(威光)もて日のてるまえに
      きたもう見るうれしさよ
  二、やみよ(闇夜)とおしなぐさめし
      あいのみかおあおぎみて
    ささやくをよろこびし
      よくしれるみこえきかん
  三、まのあたりみんみさかえ
      みちたれるあいはいかに
    みまえにうとうハレルヤ
      ときわのほめごえなり

(『クリスチャンの希望』山中為三著27〜32頁より引用)

2018年11月30日金曜日

クリスチャンの希望(5)


時がついに満ちて、その時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。(エペソ1・10)

 主はなおマタイによる福音書第25章31節以下にあるように、万国民をその栄光のくらいの前にあつめてさばきなさるのです。しかし、この万国民の審判と、黙示録第20章11節以下の最後の大審判とをあわせて、「天地の終わりのときに、キリストの再臨があって死人はすべてよみがえらされ、そして総審判がある」ようにいう人がありますが、これはまったくの間違いであります。

 主の再臨のときによみがえるのは、ただ主にあるものだけです。不信者が「さばきを受けるためによみがえる」のは、千年時代ののちで、この黙示録第20章11節以下の死者の大審判で罰せられて、火の池(第二の死)に投げ込まれるのであります。ところがこのマタイによる福音書第25章は生きている万国民の審判です。千年時代の前にこの審判が地上で行われるのです。そして千年時代ののち、天地がうせ去ってのちに不信者の審判があります。

 信者は千年時代の前に、もっとはっきり言えば「きたるべき怒り」、大患難の前に、主が空中までおいでになって、取りあげて下さって、「いつまでも主と共にいる」のです。信者はいずれの審判にもあうことがありません。(すでにキリストは十字架上でわたしたちの罪のために審判をうけて下さったのです。)さてこの生ける諸国民の審判ですが、「王はその右にいる人に言うであろう。・・・御国を受けなさい」、すなわちこれからはじまる王国(千年王国)に入るのです。この王国は信者の心を支配する霊の国ではなく、この地上にキリストご自身が政権をにぎり、直接政治をなさる地上王国であります。(ダニエル書2・34〜45などを見てください。)

 さてこのキリストの王国でありますが、その人民は、イスラエルの十二支族(部族)であります。イスラエル全体の将来の回復についてはかず多く預言がありますが、その中の一つ、エレミヤ書第30章3〜22節をよくお読みください。異邦人はエルサレムに服し、エルサレムは世界の中央政府となり(マタイ5・35、詩篇48・2、エレミヤ3・17)、政治、宗教の中心となって、万国はみな政令をうけるためにあつまり、仮庵のいわいを守るためにのぼってきます。全世界はみな、真の神にしたがい、偶像はまったくあとをたち、また世に戦争というものがなくなり、武器はみな農具にかわります。地の産物はきわめて豊かになり、動物の性質などもかわってしまいます。(イザヤ2章、11章、35章、60〜62章など)まことに王なるキリストの栄光のあらわれる時であります。

 しかしクリスチャンは王の王、主の主であるキリストとともに現われて、この地上を支配するのです。ローマ人への手紙第8章17節に「もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって・・・キリストと共同の相続人なのである」とあり、黙示録第5章10節に「彼らは地上を支配するに至るでしょう」とあり、同じく第21章9節以下には「小羊の妻なる花嫁」として千年時代における教会の特別な栄光(キリストと共なる)がしるされています。

 これはわたしたちの幸福だけではなく、何より神の栄光のあらわれることであります。神のご計画の大目的は、キリストにあってご自身をあらわしなさることです。千年時代にイスラエルが地上で最高の祝福をうけることによって、神がいかに約束をなしとげるに誠実なお方であるかがあきらかにされ、また教会が天のところにキリストとともにあることによって神のめぐみの栄光があらわれます。エペソ人への手紙第1章10節に「それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの、地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである」と書かれてあるとおりです。キリストは、はじめてこの世においでになったとき、十字架の死をもってその土台をおき、ふたたびきて力をもってそれをなしとげなさるのです。

 さて千年王国がおわって、とじこめられていたサタンはしばらくの間解き放され、そのために地の四方の国々はサタンにまどわされ、エルサレムに攻めよせます。しかし天から火がくだって彼らは焼きつくされ、サタンは火と硫黄との池に投げこまれます。(黙示20・7〜10)それから今の天地はやけくずれ(第二ペテロ3・12)世のはじめよりの不信者ーーかれらの霊はいま黄泉にいますがーーはさばきを受けるためによみがえり、「大きな白い御座」によびだされて審判をうけます。(黙示20・11〜15)そしてキリストは国を父なる神にわたし、すべてあがなわれた者は新天新地で永遠かぎりなく、救い主と共にたのしむのです。(黙示21・1〜4)コリント人への第一の手紙第15章23、24節に「それぞれの順序」が書かれています。すなわち「最初はキリスト」(キリストが死人の中からよみがえりなさったこと)「次に主の来臨に際してキリストに属する者たち」(キリスト者がよみがえらされて主のみ許にいくこと)「それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである」と記されてあるのです。

(『キリスト者の希望』山中為三著22〜27頁より引用)

2018年11月29日木曜日

クリスチャンの希望(4)


私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。(コロサイ3・4)

 さてここですこしばかりユダヤ人と教会との区別を書いてみましょう。この区別はキリストの再臨を学ぶ上にきわめて大切であります。ユダヤ人はキリストの人民で、教会はキリストのからだであり新婦です。ユダヤ人は地につける者ですが、教会は天につける者であります。ユダヤ人はキリストので地上のめぐみをうけるものですが、教会はキリストにあって天上のめぐみをこうむるものです。(これについては申命記第28章とエペソ人への手紙第1章とを対照してお学びください。)神はアブラハムを偶像につかえている諸国民の中からお召しになり、その子孫をめぐむとのお約束をお与えになりました。(このお約束は決して変わりません、どんなに彼らが不信仰であっても。)

 いまイスラエルの歴史をくわしく記しませんが、アブラハムから約二千年主イエスがこの世にお生まれになった当時は、ユダヤの国はローマの属国となっていたのです。もちろんこれは彼らが神に従わなかった結果であります。しかし神がおちぶれたユダヤ人を救い、世界第一の国となさることは、旧約聖書にしばしば預言されています。主イエスはそのお約束によってかれらの救い主、メシヤ、王としてあらわれなさいました。しかし悲しいことには、ユダヤ人は、この自分たちの王をにくんで殺してしまったのです。しかし神はこのイエスをよみがえらせて天にあげ、その右に座らせられたのです。主は天において教会のかしらとなり、天のキリストのからだ(教会)を全世界(ユダヤ人、異邦人の区別なく)のなかから呼びあつめるお働きがはじまったのです。これがめぐみの時代であります。そこでわたしたちのような「希望もなく神もない者」(エペソ2・12)が、お救いにあずかったばかりでなく、キリストのからだの肢とされたというのは、なんという大きなめぐみではありませんか。

 キリストを殺したユダヤ人は、また神にすてられることになり、神殿はこわされ、民はちらされて今日のありさまになってしまいました。「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。わたしは言っておく『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』とおまえたちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう」との主イエスの御言葉どおりです。(マタイ23・37〜39)主が今にも空中までくだって、教会を取りあげなさるとき、教会を集めるお働きはおわり、ふたたびユダヤ人についてのお働きがはじまります。ダニエル書にある70週、すなわち490年のうち、69週はキリストの死までにおわり、ただ最後の一週、7年がのこっています。(この70週は「あなたの民ーーユダヤ人と、あなたの聖なる町ーーエルサレムについて」定められているのです。)

 さてキリストの死と最後の一週とのあいだに、今のめぐみの時代(教会時代)がはさまっています。(教会は奥義であって、預言の問題でなく、旧約には示されてはいません。どうかこのことについて、エペソ人への手紙の第3章2〜11節によってお学び下さい。)教会が天にとりあげられて、めぐみの時代がおわれば、この最後の一週(7年)がはじまります。このときユダヤにいる一般のユダヤ人たちは、ローマの君(ローマ帝国は、今日西ヨーロッパ諸国に分裂していますが、そのうちに一つとなって、ふたたびローマ帝国をかたち造ります)と7年間の契約をとりむすび、その保護のもとにたち、宗教の自由をえて一時好都合のように見えますが、その後半(7年のなかば)になって、ローマの君は契約を無視し、犠牲と供え物を禁止して、偶像を神殿に立てることになります。この3年半のあいだユダヤ人にとって「世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難」(マタイ24・21)のときです。主が、ダニエル書の聖句をひいて「荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば」といましめなさったのはこの時のことです。(マタイ24・15)一般は神にそむき、にせキリストに従いますが、神に選ばれた少数のユダヤ人(のこりの人)は、非常な困難のなかに神に忠実につかえます。

 ついにエルサレムが万国の軍隊にかこまれ、どうすることもできなくなった時に、突然、キリストは聖徒たちをひきつれて、天から現われ、彼らに敵する悪人をたおして、救いなさいます。このことは前に記したゼカリヤ書第14章2〜4節に記されています。そして5節に「あなたがたの神、主はこられる、もろもろの聖者(聖徒)と共にこられる」とありますが、さきに取りあげられた聖徒たちは「キリストと共に栄光のうちに現われる」(コロサイ3・4)のであります。黙示録第19章を見ますと、新郎のキリストと新婦の教会との婚姻すなわち「小羊の婚姻」が天でおこなわれます。(教会はいまはキリストと婚約している処女です。)さらに天が開いて、キリストは天からあらわれて戦い、さばきなさるのです。そのとき、すべての聖徒たちはそのあとにしたがって現われます。そしてローマの君(けもの)、偽預言者、および地の諸王とその軍勢とはたちまちほろぼされるのです。このようにキリストが王国をお建てになるのは、そのしもべたちを用い、キリスト教の伝道によるのではなく、ご自身があらわれて、みずからお建てになるのです。権威とちからとをもって悪人を罰してお建てになるのであります。

(『クリスチャンの希望』山中為三著17〜22頁より引用)

2018年11月28日水曜日

クリスチャンの希望(3)

今日の散歩道から
こうして、あなたがたは恵みの賜物にいささかも欠けることがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れるのを待ち望んでいる。主もまた、あなたがたを最後まで堅くささえて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、責められるところのない者にして下さるであろう。(1コリント1・7〜8口語訳)

 さて、このめぐみの時代に、聖霊は、この地上でこの世から教会を集めていられますが、すべての真の信者は取り出され、教会がととのったとき、主はふたたびきて、それをみ許にに迎えて下さるのです。ーー(主のご昇天ののちペンテコステの日に聖霊は天からおくだりになって、真のクリスチャンのうちに宿り、一つのキリストのからだになさったのですが、これが教会です。栄光のキリストが教会のかしらであり、教会がキリストのからだであります。(第一コリント12・12〜13、コロサイ1・18)またキリストは新郎であり、教会は新婦であります(黙示21・9、同22・17)ーー

 いまに、主ご自身が父の御座を立ちあがって空中までくだりなさいます。今にラッパがなりひびきます。そのとき死んでいる信者はよみがえり(もちろん、この人たちのたましいはすでに主と共にいるのです)生きて残っているわたしたちも、またたくまに、この卑しいからだが、主イエスご自身の栄光のからだと同じかたちに変えられて、一同雲の上にたずさえられ、空中で主にお目にかかるのです。

 コリント人への第一の手紙第15章51〜52節には「ここであなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終わりのラッパのひびきと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパがひびいて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである」とあります。申すまでもなく、聖徒たちの復活のからだは、くちない、栄光の、強いからだ、霊のちからによって生きるからだであります。(第一コリント15・42〜44)キリストを死人の中からよみがえらせた神は、信じる者のうちに宿っている御霊によって、死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

 これがわたしたちの待つからだの救い、すなわちからだのあがないであります。(ローマ8・11、23)そしてこのキリストの再臨(信者のための)は今かもしれません。実に「祝福にみちた望み」であり、なんという「大きな救い」ではありませんか。

 もちろん、心からキリストを信じ、その御血で罪をゆるされ、聖霊で印された者でなければ(エペソ1・7、13、14)天にゆくことはできません。いわゆるキリスト教信者で、宗教儀式を守り、表面上のりっぱな行ないがある人でも、まことの信者でなければのこされます。そしてのこされた名のみの信者は、キリストが雲に乗ってこの世に現われなさるときに、たいへんな目にあいます。それは実におごそかなことです。

 さて教会を天に取りあげなさることは、キリストの再臨の第一段階です。第二段階はさきにお取りあげになった聖徒たちを引きつれて、世にあらわれなさることであります。この世は救い主として来られた神の御子を受けずに、かえって十字架につけてしまいました。その結果、神の刑罰をうけねばなりません。主が「今はこの世がさばかれる時である」(ヨハネ12・31)とおっしゃったとおり、すでに世は罪に定められています。それで教会がこの世から天にとりあげられたのちには、世に神の刑罰がくだり、ついにキリストご自身が世のさばき主として現われなさるのです。

 黙示録を見ましょう。第4、5章には教会が地上からとりあげられて、天で礼拝感謝しているさまが記されてあります。ところが第6章以下には、ききん、疫病、戦争、そのほかさまざまなおそろしい出来ごとが起こることが書かれてあって、第19章になると、主イエスご自身が聖徒たちを引きつれて世にあらわれ、悪人をほろぼしなさることが示されています。主イエスは無法の手をもって殺そうとする者たちにむかって「人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗ってくるのを見るであろう」(マタイ26・64)と告げられていますが、これはまことにおごそかな言葉です。また黙示録第1章7節には「見よ、彼は雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう」とあります。しかもこの御方は、さきに馬槽に生まれ、十字架にすてられたイエスであるのです。
(『クリスチャンの希望』山中為三著13〜16頁より引用)

2018年11月27日火曜日

クリスチャンの希望(2)

久しぶりの散歩道で見つけた草花
 ところが「キリストの再臨は、だんだんとキリスト教が伝わり、世界にキリストの王国が実現して、そのあとであるのだ」という人たちがあります。しかしこれは人間のこしらえた説で、聖書に示された神の教えとまったく違っています。まずテサロニケ人への第二の手紙第2章3〜8節を見ましょう。「だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。まず背教のことが起こり、不法の者、すなわち、滅びの子が現われるにちがいない。彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する・・・不法の秘密の力が、すでに働いているのである。ただそれは、いま阻止している者が取り除かれる時までのことである。その時になると、不法の者が現われる。この者を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう」とあります。

 キリスト教が行きわたって全世界がキリストに従うのではなく、反対に、すでに使徒時代からキリスト教のなかに、秘密に不法の主義が働いていて、ついに不法の者が公然とあらわれます。すなわち大悪人があらわれて、自分を神とするようになるのです。そして主の再臨の結果、この悪人は滅ぼされます。以上のように、主の再臨は、全世界がキリストに従ってからでなく、反対に、偽キリストが勢力をもっている時代です。

 さらに使徒行伝を開いて、使徒ペテロが宣べたところを読みましょう。「このイエスは、神が聖なる預言者たちの口をとおして、昔から預言しておられた万物更新の時まで、天にとどめておかれねばならなかった」(使徒行伝3・21)。この万物更新の時とは、キリストが直接この地上をご統治なさる千年の王国時代(黙示録20・3〜7)のことです。この時代の来るまでキリストは天におられるのです。すなわちキリストの再臨によって千年王国時代がはじまります

 またルカによる福音書第17章26〜30節に、主イエスのみことばが記されてあります。「ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起こるであろう。ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。ロトの時にも同じようなことが起こった。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。人の子が現われる日も、ちょうどそれと同様である。」文明は進歩しても、この世は決してよくなりません。ますます悪くなって主の再臨のときには、ノアの時の世界のように、ロトの時のソドムのようになってしまいます。そして主がふたたびおいでになって、この世は刑罰を受けるのです。神はその日を定めていられるのです。(使徒行伝17・31)

 さらにゼカリヤ書第14章を見れば、はじめのほうに主の再臨がしるされています。「その時、主は出てきて、いくさの日にみずから戦われる時のように、それらの国びとと戦われる。その日には彼の足が、東の方エルサレムの前にあるオリブ山の上に立つ。・・・あなたがたの神、主はこられる」(3〜5節)そしてこの主の再臨ののち、この世界は王国となります。9節に「主は全地の王となられる。その日には、主ひとり、その名一つのみとなる」とあるとおりです。

 もう一箇所、ローマ人への手紙第8章19〜22節を見ましょう。今の時代はすべての造られたものが、ともになげき、ともに苦しんでいて、そのほろびのなわめから解かれて、神の子たちの光栄の自由に入れられることをのぞんでいます。造られたものは、神の子たちのあらわれるのを切に慕いもとめているのです。キリストの再臨のときに、神の子たちとともに栄光のうちにあらわれ、すべての造られたものの栄光の自由にいれられて「おおかみは小羊とともにやどる」(イザヤ11・6以下)時代となるのです。この再臨の前には決してこのような幸福時代はありません。

 たしかにキリストの再臨は、この世にとって、おそろしいことです。なぜならば「主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現われる時に実現する。その時、主は神を認めない者たちや、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者たちに報復し、そして、彼らは主の御顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受ける」からであります。(第二テサロニケ1・7〜9)主イエスは「そのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう」とおっしゃっています。(マタイ24・30)

 しかしほんとうに救い主を信じている者(真のクリスチャン)にはおそろしいどころか、なによりうれしいことです。主の再臨には信者のためと不信者に関することとの区別があります。すなわち主が空中までくだって信者をお取りあげくださることと、世にあらわれて世をおさばきになることとの区別(段階)があります。これがはっきりわかると、まことの信者であれば、主のおいでを、今か今かとまちのぞむようになります。それならば、主がご自身のものを迎えにおいでになるということは、どういうことでしょうか。

 主イエスがこの世をお去りになさる前に、次のように弟子たちにおおせになっています。「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。・・・あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(ヨハネ14・2〜3)信者はキリストの十字架のあがないで、その罪はまったくゆるされて、神の刑罰をまぬがれましたが、そればかりでなく、主は父の家に迎えいれられるものとしてくださったのです。そしてふたたび来て、わたしたちを取りあげ、みそばにいつまでもおいてくださるのです。

(『クリスチャンの希望』山中為三著7〜13頁より引用。山中為三氏はもちろん、故人であり、資料もなく中々その人物像はつかめないものと思っていたが、ひょんなことに手持ちの『キリスト者の勝利ーー横井憲太郎と一粒社の軌跡』という本の中に同氏が寄稿されている文章を発見した。それによると昭和7〜8年の頃、美濃ミッション聖書学校の校長であった。)

2018年11月26日月曜日

クリスチャンの希望(1)

往年の福音ポケットブック※
クリスチャンの希望なるキリストの再臨を聖書に基づいて書きますが、引用聖句は一々聖書を開いて、祈り深くお学び下さい。

 わたしたちの救い主イエス・キリストのふたたびおいでになるのは、どんなにさいわいなことでしょうか。これこそクリスチャンの「祝福に満ちた望み」(テトス2・13)です。この希望によってクリスチャン生活がいとなまれるのです。「私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んで」いるのです。(ピリピ3・20)

 ヨハネの第一の手紙の第3章のはじめの「 私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」とは、なんというすばらしいことではありませんか。

 初代のキリスト教会の信者たちは、「神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むように」なっていました。(第一テサロニケ1・10)

 ところが、今日多くの人は、クリスチャンが死ぬときに主がいらっしゃるように思っています。それは大きな間違いです。信者の死は「肉体を離れて主とともに住むこと」です。(第二コリント5・8)いまわたしが死ねば、この「幕屋(肉体)を脱ぎ捨て」て(第二ペテロ1・14)、主のみもとにゆき、主とともに住むのです。主イエスと共に十字架につけられた、あの救われた悪人に対して、主が「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」とおっしゃったとおりです。(ルカ23・43)死んだ信者は、たましいで主のもとにいくのであって、主がこられるのではありません。あの殉教者ステパノは、死の直前に「主イエスよ。私の霊をお受けください」と祈っています。(使徒7・59)

 さて、主イエスが天におのぼりになったとき、天をあおいで見ていた弟子たちに、天のつかいは「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様でまたおいでになります」とつげています。(使徒1・11)このとき天におのぼりになった「このイエス」は、いま栄光のからだをもって神の右にすわっていられますが、まもなく、このイエスご自身が天からおいでになるのです。「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです(第一テサロニケ4・16〜17)と記されているキリストの再臨は、決して信者の死ぬときのことではありません。

 なおキリストを霊のように思うと、その再臨もわからなくなります。主は霊ではなく、いま肉と骨をそなえていられることは、ルカによる福音書24章36節以下に、はっきり示されているとおりです。すなわち、お甦りになった主イエスは、弟子たちに「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」と言われて、手と足とをお見せになり、みんなの前で食事をなさったのであります。

 もちろん主は霊において、いつも地上にいるわたしたちと共に世(時代)の終わりまでいてくださいます。(マタイ28・20)また御名によって集まるところに主はその中においでになるのです。(マタイ18・20)しかしわたしたちは「肉体を宿としている間は主から離れている。それでわたしたちは、見えるもの(現に見るところ)によらないで、信仰によって歩いている」のです。(第二コリント5・6〜7)

 「いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています」(第一ペテロ1・8)が、すぐにも「顔と顔とを合わせて見る」(第一コリント13・12)「そのまことの御姿を見る」ときをお待ちしています。それは「肉体から離れて」ではなく、わたしたちの卑しいからだが、主イエスご自身の栄光のからだと同じかたちに変えられて(ピリピ3・21)、「しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会」が主ご自身に迎えられることであります。(エペソ5・27)これはどんなにすばらしい光景(事実)でしょうか。これこそクリスチャンの希望であります。

 キリストの再臨といえば、なにかむずかしい教理のように思い、わたしのような者は、ただ救い主を信じているだけでたくさんだという人もありますが、これはもっともさいわいな神の御約束であって、信者は聖書のみことばを文字通り信じ、「キリストに対する純情(無心)と貞操と」(2コリント11・3)をもって、今か今かと主のおいでをお待ちすべきです。

(※『クリスチャンの希望』山中為三著1957年刊行1〜7頁より引用。引用文のうちに著者が傍点が記されているところは青字で示した。本書は手のひらに入る小さなポケットブックだがそれでも総頁は45頁におよぶ。写真でお分かりのように、もはやボロボロになり、捨てられても同然の代物であったが、数年前に古本市で拾い上げたものである。しかし、中身は読んでいず、今日まで月日が経過した。なりは小さくとも、この文章を残された山中為三氏に関心を持ち、散逸するのを恐れて、ネット上で、同書を転写することにした。根気強くおつきあいいただきたい。著者についてもわかる範囲でご紹介していきたい。)

2018年11月24日土曜日

主が教えてくださったこと(下)

年少の友人小川洋子さんの絵
すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。(マタイ9・2)

 私は自らの内にある愛が条件付きの愛であったことをみことばを通して示されて、初めてその方に謝らねばならないと思わされ、示されてから一日は経っていたが、早速実行に及んだというわけであった。相手の方は、私のうちに起こった悔い改めの情はご存じなかったと思うが、私の思いをありがたく受け取ってくださった。これで一件落着した思いであった。ところが、主は続いて素晴らしい恵みを私にくださった。

 それはその方のダイニングで行なわれた葬儀に立ち会うことになった経緯である。もともとダイニングではカナダからの遠来のお客さんをお迎えして食事が提供されていた。ちょうどお昼時でもあり、私もその謝りが縁で、その場に急遽招かれ、お相伴にあずかったのだ。おいしいお料理に舌鼓を打ちつつ、その遠来のお客さんともお互いに旧交を温めるひと時となった。私は遠来の方は遠くからお見受けしていてその御存在は知っていたが、その方も意外や私のことを知っておられ、私に話を合わせてくださり、楽しい歓談の時を持たせていただいた。

 その時、どなたかが一枚の額入りの男性のにこやかな写真をダイニングに持ち込まれた。その後、たくさんの方が室内に入ってこられ、食事の終わった私たちは他の方と交代すべく引き下がった。その内に新たに入ってこられた方々がいずれも喪服の姿であったので、これからどこかで葬儀があり、その待合のために入ってこられたものとばかり思っていた。

 ところが、そのうちに、一人の方から、「葬儀の終わりのお祈りをしてください」と依頼を受けた。私はどなたの葬儀かも知らないし、第一、平服でいたので、それを理由にお断りしたが、その方は「いや、そのままでいいから、お願いします」と言われ、葬儀がこのダイニングで行なわれることをいつの間にか納得していた。

 葬儀の直前に喪主らしき御婦人と、葬儀の段取りや集われた親族友人の紹介が同じテーブル内でなされ、私も遠巻きではあるが自然とその輪の中に入って行った。その内に少しずつどなたの葬儀か知るように導かれて行った。そして不図、その御婦人の横顔を拝見して、びっくりした。何年か前、私どもの家庭集会にお見えになったこともあり、その後もお会いするごとに親しく声をかけられる方であったからである。

 決して健康とは言えず、心の病をかかえて苦しんでおられる御婦人を思い出し、その方のご主人が召されたことを即座に了解させられた。そして、その葬儀がこれからこのダイニングで行なわれることを完全に納得させられたのである。私は思わず、この場面はあの中風の人がイエス様の面前に引き出すために、愛する人々が屋根を剥がし、つり降ろした場面を思い出した。その場面でイエス様は何よりも「あなたの罪は赦されました」という宣言をなさった。

 そしてその葬儀は集われた方々の讃美と聖書からのメッセージ、またヴァイオリンの讃美も加えてなごやかに行なわれた。私はそのような主の恵みの場に立ち会えたのであった。もちろん、その御婦人は突然ご主人を亡くされたのだからその悲しみは大きく尽きないと思うが、ご主人が主を信じられたことを証してくださった。皆さんの祈りに支えられ、愛に支えられたこの葬儀こそ、すべての形式にとらわれない「愛」の賜物であることを、この日、主は確と私に刻印されたのであった。

2018年11月23日金曜日

主が教えてくださったこと(上)

二紀会出展作品 吉岡賢一画
愛は結びの帯として完全なものです。(コロサイ3・14)

 久しぶりにブログを更新している。それは火曜日に経験したことがきっかけである。中々自分自身の性格は変わらないが、少し違ったステージに踏み込みそうな気がすると思うからである。

 学生時代、森有正のファンだった。彼の書く文章に触れるのが新鮮であった。その中で確か『バビロンの流れのほとりにて』だったか、彼の日本での生活を哲学的に回想し、東京の屋敷を振り返る場面だったと思うが、そこに「娘を愛さない。娘が自分なしに生きられないとなると大変だから。」というような意味の文章が突然のごとく差し込まれていて、痛く感銘を受けた。一方、私は当時、マックス・ウエーバーの学問に心酔しようとしていた。そこでは「客観的自己認識」というテーマを求め、それが私にとっての最大のテーマであった。ところが今週の火曜日に、キリスト者になっても、長年、その彼らの虜として行動していたことがわかり、悔い改めさせられたからである。

 それはどういうことかと言うと、一人の方の過去が許せず、その過去がどうであったかの事実認識を自他ともに課して、そのような客観的認識を前提としてその方を愛そうとしている自己の姿を知ったからである。それは決して愛に値しない、やはり律法学者の愛と何ら変わらない愛であることに気づかされたからである。

 そのことをはっきり気づかしてくれたのが、昨日のスタンレー・ジョンズの一文である。彼はパウロが、イエス・キリストにより救い出されて、新しいいのちを主からいただき、その新しいいのちをもって同胞のところに遣わされて行った、その時には、かつての人々の人間観、価値判断から離れて、愛のかたまりとして恐れずして、人々に福音を伝えることができたと述べていたからである。ポイントは新しいいのちをいただき、そのいのちでもって初めて私たちは人を愛することができる存在であるということである。

 もちろん、そのようなことを意識せず、私は火曜日その方に謝らねばならないと、上から示されて、その方に謝った。先方の方はかえって恐縮された。でも、そのことは私にとって革命的な出来事であった。私のうちにはその方を愛している自覚があったが、その方の過去に拘泥している姿は、決してその方を愛していないことがわかり、それを悔い改めたからである。

 ところが、このようにして私の身の上に起こったことは、それが終わりではなかった。そのことについては明日書くことにする。
 

2018年11月22日木曜日

『社会的でしかも単独に』 スタンレー・ジョンズ

長野県御代田町大浅間ゴルフセンター(11月4日)

わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、あらためてあなたを彼らのところに遣わす(使徒26・17)

 (すでに今まで申してきた通り、)人間は群衆から逃れるわけにはいかない。肉体的にも精神的にも、内外ともに、またその中に止まって、これと戦うといっても、不断に守勢にあって、すべてそのもたらすところに消極的、否定的に暮らすこともできない。そうかといって、これに屈服してしまっては、全く群衆のなかに一把ひとからげの存在でしかなくなる、それもできない。結局私どもはクリスチャンとして神に捧棄してのみ群衆本能の問題は解決し得るのである。

 それではそれは世から離れて神のうちに住むことであろうか? 否、むしろ私どもはもっと深く群衆の中に入ることであるがただ解放されたものとして入るのである。私どもの衷心の魂が群衆の支配から解放され、神の支配の下に入り、神が主で、群衆が主でない。群衆から解放されると、そこで私どもは群衆を愛することができるようになる。すなわち群衆以上のものを愛する、その愛にあって群衆を愛するからである。だから一面社会的であって、一面単独で、独立独歩であって、しかも社会的になるのである。

 これがパウロに対する命令にある。「わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、あらためてあなたを彼らのところに遣わす」(使徒26・17口語訳、新改訳)彼は彼らに遣わされたのであるから社会的であるが、すでに国民と異邦人から救い出されているから単独である。人々に仕えようとすれば先ず自らがその人々から解放されねばならぬ。例えば牧師が群衆の支配の下にあって彼に対する批判や、感情を恐れていたら、人々に対して何ら貢献しこれを助けることはできない。ただ彼が見えざる神の前に跪いて祈る密室から出て来てのみ人々の前にうちとけた気持ちで、しかも権威をもってこれに対することができるのである。先ず上を見上げてから、はじめて水平に他を見ることができるのである。その衷心に唯一人、至上の神の前に跪く心の宮をもってこそ人々に対して愛を注いで何らこれに支配されることなきに至るのである。自由人のみが人々を自由ならしめ得るのである。

 使徒行伝におけるキリスト者たちは衷心に自由を得ていた、群衆の支配から解放されていた。故にこそ群衆を新たにし、これに与えることができたのである。では、その方法は?

 お父様、真に単独になり切って、はじめて社会的になり得る、八方美人的存在から解放されて、私は今や本当に、自由な気持ちで与え得るものとなりました。ありがとう御礼申し上げます。アーメン。

今日の確認 世間は何というだろうかと人々は言う。何なりと言わして置けばよいさ。

(このところ、かつて、と言っても10年ほど前になろうか、古本市で二束三文で買っていた『日々の勝利』E.スタンレー・ジョンズのデボーションを読み始めた。1956年に邦訳が出、次々に版を重ねた本のようだ。このような本を人々は今や見向きもしない。しかし、読み進めてみて次々色褪せない聖書の真理が明らかにされていることに目を見開かされる思いだ。久しぶりの投稿だが、一読あられたし。同書159〜160頁より引用)

2018年9月8日土曜日

優先席の妙(下)

玄関上部(黒塗りは戦争中に強制的に塗らされた外壁)

神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。(使徒17・26)

 熱海でその方とお別れしての長旅のネット検索で、この女性宣教師は東北のその地では有名人で、1976年に召されたが、2012年に彼女の85年の生涯が本となって公刊されていることを、知った。いずれその本『みちのくの道の先』を読みたいと思っている。

 しかし、関西の家に帰ったのは午後8時ごろになった。暗い中、玄関の惨状と庇が落ちている現場を確認した。昼間のあの不思議な感謝に満ちた出会いにもかかわらず、再び現実に帰って気が重くなった。早速、知り合いの大工さんに電話を入れ、対応をお願いした。

 翌朝(9月6日)テレビでまさかの北海道の震災を知る。早速、札幌の知人にお見舞いの打電をした。段々、様子が明らかになるにつれ、北海道全域が大変な惨状に見舞われていることを知った。そう言えば昨日ご一緒したご婦人のお嬢さんは函館にいらっしゃると聞いたばかりである。さぞかし、その方も不思議な車中の出会いや同窓会の楽しい思い出の中で今では娘さんの安否を思い心を痛めておられるのだろうと想像した。

 その函館は実母が生前、さんざん私にその地名を聞かせた都市である。実母は私の父と再婚する前、関西から函館の近くの森町に嫁いだからであった。そして先夫が戦死したため、北海道から引き上げ、今の私の家を建てたのであった。考えてみると玄関のガラスはそれ以来、無傷で戦時中も問題なく、今回の台風の結果78年ぶりに壊れたことになる。これまた不思議な巡り合わせである。

 テレビはこれまでは関西における台風21号の惨状を報道していたが、6日からは北海道の震災に重点を移さざるを得なくなっており、死者のニュースに全国民が心を痛めている。かつて、2011年の3月11日の東日本の震災の時は「泉あるところⅢ(現在のOpen Windows 私訳)」を展開していたが、さすがにこの時はブログを更新する気になれなかった。そんなことをしている暇があったら現地の苦悩を思えと神様から問われている思いがしたからである。

 今回は東日本大震災ほどの壊滅的な影響をなさそうであるが、夏以来頻発に起こる災害が身辺に例外なく襲ってくることへの教訓は大きなものがある。台風の被害は周辺の家で私の家だけであった。東風をもろに受けて必死になってガラス戸は耐えたことだろう。しかし、詮方なかった。これは運が悪かったからであろうか。

 生けるまことの神様はすべてのことをご存知で事を起こされている。誰もが未来のことはわからない。しかし創造主である神様は私たち一人一人に「わたしを知りなさい」と「雨が降っても、雨が降らなくとも」一人一人に教えておられることを忘れないようにしたい。主なる神様は私たち一人一人に「優先席」を用意なさっているのである。それこそ、弱った者、気落ちした者に対する「優先席」である。いやそれだけでない。素敵な出会いを演出してくださる席でもある。

 最後に冒頭のみことばの次の言葉を写しておく。これはほぼ2000年前パウロがギリシヤのアテネで人々に語った一節である。

これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。

2018年9月7日金曜日

優先席の妙(中)

ふるさとの玄関引き戸(左側半分がガラスが台風のため破損)
わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇103・1〜2)

 東京から熱海まで快速アクティーの所要時間は1時間半ほどである。そのようにして優先席でたまたま相席になった私たちはとうとうその全時間を一緒に過ごすこととなった。双方とも最初は全くそのようにお話をしてお交わりする意志はなかったと思う。お互いに全く素性も何もわからない同士であり、まして異性同士であるから当然と言えば当然だ。

 ところが、豈図らんや、意外なところから双方の話が噛み合い始めたのである。そもそもそのご婦人は熱海での大学の同窓会出席のため、東北から上京され東京を経由しアクティに乗られた。私は故郷の家が台風で大変な目にあっているので、関西へと帰る旅路であった。家の管理がままならぬことをその理由をふくめて語っていた。それは私たち夫婦が結婚する時、両親に反対されたため、中々故郷に帰る機会が縁遠くなってしまい、とうとう両親も他界し今やこの歳になったのだと話していた。

 そのご婦人はなぜ私たちの両親が結婚に反対したかを聞きたがられた。私は正直にありのままを話した。それは私たちが仏教徒の家に産まれながら、主イエスを信じてしまったことに端を発し、家にキリスト教を持ち込むなと言う反対であった、と説明した。

 ところが、そのご婦人はそのことをきっかけに御自身が日曜学校に通ったことや、幼稚園も、小学校も中学校も宣教師が設立した学校に通ったことを思い出されたようだった。戦後間もなく、アメリカからお見えになったその女性宣教師は学校、医療事業、酪農とキリスト教精神に基づく活動を行ない、母が家は仏教であるが、仏教では精神性が養えない、どうしてもキリスト教が必要と考え、自分だけでなく兄妹四人全員が同じコースを歩まされたと言われた。

 その頃は一日の朝の始まり、また食事のとき、また寝るときと四六時中、神様への「祈りの生活」があり、毎日感謝し、一日の終わりは反省の時であった。あのような生活はもう今ではすっかりなくなってしまっている。あの精神性は母が行かせてくれなかったら不可能であった。そして、そう言えば、自分は三人の子供を全部公立に進ませた。母のようなことは考えなかったのだなと感慨深げに述懐された。

 私はお聞きしながら、その女性宣教師の生き方に瞑目させられ、さぞかし「あなたはその宣教師に愛されたでしょうね」と申し上げると、「そうじゃないのですよ。私はしょっちゅう叱られていたのです。もっとも私は兄たちと違って落ち着きがなかったからです。」と恥じらいながらも話してくださった。その学校は少人数教育で十人足らずだという。私は勝手に『二十四の瞳』を思い出しながら、その方の幼き頃を想像して聞くことに熱中した。

 そう言えば、私は今も余技にお習字をやっていますが、その宣教師の建てられたミッションの学校での教育の賜物なんですねと改めてその宣教師との出会いを感謝された。私は本来はその席でゆっくり昼飯を食べるつもりでいたが、とうとうあきらめ、そのご婦人から聞かされる話に魅了されっぱなしであった。熱海でお別れする時、お互いに氏名を交換しあった。私の名前をいい覚えやすい名前ですねと言ってくださった。私にもそのご婦人の名前はそれに劣らず覚えやすかった。でも私は口に出さず、心にお名前を銘記した。その方は1949年生まれ、私は1943年生まれであった。

 関西へ暗い気持ちで長時間列車を乗り継いでの「青春十八切符」を使用しての帰省は最初気が重かった。でも、こんな素晴らしい出会いがあるのはきっと何か意味があるのだと思った。

2018年9月6日木曜日

優先席の妙(上)

ある結婚式の受付
目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神が備えてくださったものは、みなそうである。(1コリント2・9)

久しぶりに、18切符を使った。ちょうど折悪く、当初予定の日は台風21号の西日本上陸とぶつかってしまい、一日延期した。延期せざるを得なかったその日の夕方、故郷から電話があった。胸騒ぎがした。案の定、家が台風襲撃をもろに受けたようだ。庇(ひさし)は飛ばされ、玄関の引き戸はガラスが割れた、という連絡であった。

 「取るものも取り敢えず帰る」とはこのことだ。もはや18切符などを使っている余裕はない。新幹線ならものの二、三時間で故郷に帰れる。しかし在来線は運転見込みがないという情報だった。散々迷った挙句、結局折角購入した18切符で昼ごろ出発した。東京11時37分発熱海行きアクティがその最初の電車であった。こういう場合、いつも優先席を利用することにしている。ところが生憎その席は外人観光客が座っていた。日本人なら気を利かして譲ってくれるのにと思いながら諦め、別の席に座った。その時、列車を待つ間に私の後ろに一人の年配のご婦人がいたことに気づいていたが、彼女は席がなくつり革につかまっていた。ところが何駅か通過する内に外人が降りるのが見えた。

 私はすかさず、優先席に移動し、つり革にすがっていたご婦人に私のその席を勧め譲った。ところがしばらくして、そのご婦人ものこのこ優先席にやって来て、私の隣に座った。ちなみにこの優先席は座席が二つ切りである。いつもは家内と旅をするので大抵家内とその優先席を利用している。その席に見知らぬとは言え、先ほど席をお譲りしたばかりのそのご婦人が隣に来られたのである。この優先席は車両の隅にあり余り目立たない場所にあるのでこっそり食事をするのに打ってつけの席である。昼時であり、中々食事を取る時間がない時死角とも言える優先席は格好の席なのだ。彼女がどのような算段をして来たのか、今思い出したが手荷物が多く優先席はそれを置くのに便利なようにつくられているので何となく優先席に移って来られたようだった。

 さて、この方と隣り合わせになったのは以上のような次第であるが、そこには主なる神のすぐれたご計画があったのである。その委細は明日に譲る。

2018年7月7日土曜日

父と子

カルミア 仙台駅頭にて(5.27)

人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。(1ペテロ1・17)

 東京新聞の夕刊に『この道 小松政夫』と題して自叙伝が連載されている。その第四回目は「釣り」という題で小松氏が幼い時お父さんに一緒に連れて行ってもらった思い出話が書かれている。そこに次のような数節がある。

 河口近くの鉄橋の橋げたが父の釣りポイントでした。橋には砂利と線路があるだけで、手すりも何もない。風がビュービュー吹いている。父はゲートルと地下足袋をはき荷物を持ってひょいひょい先へ行く。私は「怖い、怖い」と腹ばいになっていると、父は「おまえは遅いからうちの子じゃない」と言って、どんどん離れていく。「はよこんかーい(早く来いよ」と叫ばれても動けない。すると父がびゅーっと全速力で戻ってきた。「ああ、くらさるる(なぐられる)」と覚悟したら、父は私をぱっと脇に抱えて近くの橋げたにぽーんと飛び降りました。その上を電車がギュワーンと走り抜けていく。汽笛も鳴らさない。父は震えながら「こん(この)バカが」と言いました。

 私は人一人しか渡れない一本橋を渡るのが怖くって、先に渡った友達と一緒に遊べなかった記憶がある。今でも苦手である。小松氏は私よりは腹が据わっていらっしゃるようだから、そんな一本橋は難なく渡られると思うが・・・。それにしても父親について述べておられるくだりは一つ一つ父親の厳しい姿と愛を見いだすことができる。小学生の頃だったか、父と一緒に船に乗って琵琶湖を航行したことがある。湖が荒れ、今にも転覆しそうな勢いであった。私の小さい心は縮み上がっていた。そこへ行くと父は酒を飲んでいたせいもあるが、「もっと揺れよ、もっと揺れよ」と楽しんでいた。そんな父がうらめしかったが、彼我の違いを感じた時でもあった。父がどうあるべきか小松氏の自叙伝を通して多く教えられる。

 さて、そんなことを思っていたら、冒頭のみことばについて笹尾鉄三郎氏の講義録(『笹尾鉄三郎全集第4巻264頁)を読む機会があった。彼は述べる。

人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら」、神はこの民はイスラエルなのだから、こればかりの罪は大目に見、これは異邦人だから遠慮なく罰するというようなことはなさらない。罪であればどこまでも憎み、信者、未信者にかかわらず、悔い改めて血潮※を受けたかどうかにおいて、それぞれの行いに従って報いをなされる義しき神である。※引用者注 イエス・キリストが十字架上で私たち罪人の身代わりに死なれ流された血潮、いのちを意味することば。
 「父」とは大変自分に近いもので、愛の方面から言えば実になれなれしいが、彼は私どもの畏るべきお方である。だから、一方に非常に恵みを感じ、一方では非常に畏敬戦慄を生じるものである。この二者は単に衝突しないというだけではなく、この畏れと安息とは常に伴うのである。だからもし一方に偏している者は、どちらに偏しているのであっても、両者とも救いを全うするものではない。

 まさしく至言である。それにしても鉄橋上でいのちを落としそうになった小松政夫氏のいのちを救ったお父さんの愛は父なる神様のひながたではないか。

あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。(出エジプト19・4)

2018年7月6日金曜日

蜜の一滴であろうとはつゆ知らず

谷口幸三郎 展 『こどもの絵』 西荻・数寄和
わたしは傷つけ、またいやす(申命記32・39)

 みなさん、恩寵があなた方とともにありますように! アァメン。私は、いま、あなた方の目の前から連れ去られて囚われの身になっているので、あなた方の徳をすすめて信仰や聖潔をさらに築き上げるために、あなた方を守るよう、神から課せられた私の務めを果たすことができない。だが、私の魂が父親らしい心遣いをもってあなた方の魂の永遠の幸福を願い求めていることは、みなさまにもお判りであろう。私は、以前と同じように、いまもう一度、セニルとヘルモンの山頂からあなた方を見守るとともに、さらにいまは、「獅子のほら穴、ひょうの山」(雅歌4・8)から見守って、あなた方が無事に目指す港へつくよう心から願っている。

 あなた方のことを思うたびに私は神に感謝している。私は荒野で獅子の歯にくわえられている時でさえ、神が溢れるほどの信仰と愛とをもって、あなた方に授けたもうた救い主キリストの恩寵と憐憫と知識と、御子のうちに父なる神をさらに深く知り親しもうとしているあなた方の飢えと渇きとを見て嬉しく思っている。あなた方の心の優しさ、罪に対する恐れおののき、そして神の前でも人々の前でも真面目で聖い態度を持っていることなども私にとって大きな慰めである。「あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです」(1テサロニケ2・20)

 私は獅子の屍から採った蜜の一滴を、ここに封じて、あなた方におくる(士師記14・5〜8)。私もそれをなめて、たいへん元気づいた。(試練は、はじめて出会った時には、サムソンに向かってほえかかった獅子のようなものだが、それに打ち勝ってから、もう一度見直すと、その中にみつばちの巣があるのに気づく。)

ペリシテ人たちには私の言う意味はわかるまい。それは、そもそもの初めから、今でもなお、私の魂に対する神のわざに関することであって、あなた方にもお判りのように、私は幾度も打ち倒されてはまた起き上がったのである。というのは、神が私を傷つけ給い、そしてその御手で私を癒し給うたからである。聖書の中のイザヤ書第38章19節には「父は子らにあなたのまことについて知らせます」と書かれている。しかり、このゆえに、私はシナイで長い間横たわり(レビ記4・10〜11)焔と雲と暗黒とをみて、「我が世にあらん限りはエホバを畏れ、そのなし給える奇しきみわざを子孫に語り伝え」たいものだと思った(詩篇78・3〜5)。

(『罪人らの首長に恩寵溢る(キリストにおける神の広大な御恵みが、その貧しいしもべジョン・バンヤンに与えられた短い物語)』バンヤン著小野武雄訳 新教出版社1951年版13〜14頁より引用。一部新改訳版の聖書に変えたところがあり、また文中の「試練」は原文は「誘惑」だが、あえて昨日の柳田氏にならって「試練」に置き換えた。これはバンヤンが入獄中執筆したもので、その冒頭の箇所である。1666年にイギリスで発行された。名誉革命の2年前である。青字の部分を柳田氏は『ペテロの手紙の研究』の末尾の方で、「苦難」について説明するために引用されていたので掲載してみた。)

2018年7月5日木曜日

苦難の意味

谷口幸三郎 展 『こどもの絵』 西荻・数寄和

あなたがたが召されたのは、実に(苦しみを受け、しかもそれを耐え忍ぶようにと)そのためです。(1ペテロ2・21)

 苦難は、いつもわたしたちを、なにかの形で、意地悪く、死の前に立たせる。この意味で、苦難とは、わたしたちが、生のただ中で、意地悪く押しつけられる、なんらかの死の体験である、と言えよう。「意地悪く」というのは、苦難においてわたしたちに語りかけてくるのは、いつも悪魔だからである。悪魔は、苦難において、わたしたちの生の唯中になんらかの問の形で死の恐怖を持ち込む。そして、わたしたちをまごつかせた末、まんまとこの恐怖のとりことすることによって、わたしたちに信仰の確信を放棄させ、わたしたち自身を進んで死の支配に委ねさせるように仕向ける。

 たとえば、わたしが病床で、肉体の耐えがたい苦痛をとおして、「あなたの罪は本当に赦されているのか」と問いかけられる場合、この問いは、否定の答を期待しているのである。だから、悪魔のいじわるな問なのである。そこでわたしが、かりに深刻な表情で、「いや、わたしの罪は本当に赦されてはいない」と答えれば、それこそ悪魔の思うつぼにはまったことになる。

 こう答えた瞬間に、わたしの肉体の耐え難い苦痛は、文字通り、わたしの犯した罪に対する神の怒りの火となって、わたしの上に降りかかってきて、わたしを責めさいなみ、のろわれた絶望感と、孤独感とに突き落としてしまう。この時、わたしはもはや信仰の確信を放棄してしまっている。わたしの全生涯をかけた信仰の努力は、水泡に帰してしまい、わたしは敗残者として死につかなければならない。この唯一つの失答によって、いっさいは終わりを告げる。

 けれども、この場合、わたしが真実に、キリストにあって病苦を耐え忍んでいるとすれば、わたしはかならず、悪魔のいじわるな問にさからって、こう答えるにちがいない。「そうだ、キリストはこのわたしの罪のために死んでくださったのだから、わたしの罪は本当に赦されているのだ。今、わたしがもっともみじめな者に見える、この死の苦しみのただ中でさえ、真実に、完全に、赦されているのだ。悪魔よ、キリストが御父の御旨に従って、お前が彼に押しつけた死の苦しみを従順に耐え忍ばれたように、わたしもキリストの御足の跡に従って、今お前が押しつける同じ苦しみを、従順に耐え忍ぶ。それは、キリストとともに死人の中からよみがえるためである」。

 こう答えた瞬間、わたしは、無数の天使の軍勢の吹きならす勝利のらっぱと、さんびとほまれの歌とに、かこまれているのに気がつく。死の苦しみを乗り越えて、わたしの信仰は、疲れ果てた魂の中に生き生きとよみがえり、天からの喜びにみたされて、いよいよ高揚する。キリストの血が、わたしを死の支配からあがない出したことを、いよいよ固く確信する。わたしの外なる人は、死の床にあえぎ苦しんでいるが、内なる人は、復活の大気を呼吸している。わたしは悪魔の試練に打ち勝った。勝利の喜びは、全身全霊に浸透し、わたしを救った神への感謝は、高まるばかりである。神の守り、キリストの臨在、インマヌエル、契約の民であることの確信は、死の苦しみを貫いて、いよいよ固くされる。

(『ペテロの手紙の研究』柳田友信著 1960年 聖書図書刊行会発行 209頁より引用。引用者はかつて柳田友信氏から日本文化史だったか、ルツ記だったかの講義を受けたことがある。それは1980年前後だと記憶するが、その時の氏の熱弁ぶりは今も鮮やかに思い出すことができる。確か、着物姿で現れ、風呂敷包みにたっぷり本を忍ばせておられたように思う。最近縁あってこの書物を熟読・再読しているが、柳田氏の信仰が紙面から飛び出さんばかりの勢いをもって迫ってくる。それでいて引用文献も豊富正確でキリスト者必読の文献の一つであると思う。)

2018年7月4日水曜日

紫陽花のひとりごと



わたしに聞け。・・・胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。(イザヤ46・2)

 すっかり暑い夏になってしまいましたね。連日のサッカーフィーバーも日本チームの善戦による惜しい敗戦の挙句あっけなく幕を閉じましたね。さて、今日は10日ほど前に私が見聞きしたことをお話ししましょう。
 その日、私は店主の方がとっておきのお客様にと花瓶に活けられたのです。もちろん、私とて畑でのびのびと羽根を伸ばして生きている方が良いに決まっています。そこで人知れず枯れていくのが私の使命ですから。でも、この時は切られながらも何となく待ち構えている僥倖に心がときめいたのです。
 その日、室内にお客さんが六人入ってこられました。皆さん、立席のテーブルに誰がどこに座るかお互いに譲り合いながら、庭の緑滴る木々に一同で見とれておられ、部屋の隅にある私に目を留めておられなかったようです。かえってそれは私にとって好都合でした。皆さんのお話をゆっくりお聞きできたからです。
 こういう席に立ち会うのはもちろん私はこれが最初で最後になりましたが、私にとって幸いでした。この六人の方の語らいが自然に進んでいる中で、30年以上前の両者の共通の知人の話になったからです。

「Kさんには大変お世話になり、一緒に学年を持ちました。その縁で結婚式※にも招待されました」
「ヘー、結婚式には私たちもまだ当時7ヶ月だったこの子を連れて出席しましたよ」
「すると、あの結婚式にいらっしゃったのですか。確か新郎の恩師が中野孝次さんで、のちに『清貧の思想』を著されましたよね。」
「そうです。私たちはKさんご夫妻が結婚されるにあたりキューピット役だったんですよ。それから、私たちの結婚式では逆にKさんに司会をしていただいた間柄なんです」
「そうですか、不思議ですね。(私はお二方とお会いするのが随分と遅れたので内心心配していたのですが、それこそもう随分前からお互いに結ばれていたのですね)」

 こんなふうに話が弾むなんて珍しいと皆さんが思われたのでしょう。その後、六人の方々の間でさらに親しみの感情が増し加わり、室内の空気がより濃密になりました。私の肌にもそれが何だかじかに伝わってきた思いでした。宴も終わり、ほっとした皆さん方が私のそばで写真をお互いに撮られました。それはそれはいい晩でしたよ。私はその晩花瓶から出されましたが、神様の摂理を思いどこにいようとも、神様にお従いすることが私たち被造物にとって最大の幸せだと思ったことです。

※家に帰って探してみたら、当日の結婚式の資料が『御列席者御芳名 1986.11.22 於 日比谷松本楼』として私のファイルに大事にしまわれており、当日の出席者の名前とプロフィールが紹介されていた。ちなみに差し障りのないところで前述の中野孝次氏の紹介文は「作家。元国学院大学ドイツ語教授。同山岳部部長。新郎を始め山岳部の者が公私とも、本当にお世話になった先生」とある。もちろん私たちのプロフィールももそこに載せられていた。