2015年12月27日日曜日

クリスマスの意味(下)

クリスマスカードその3 M.Goto
  それからこのみことばの中で上に述べた命令はどうすれば従順に従い得るかという奥義が明らかにされていますね。すなわち、「見よ、わたし」「わたしは来る」主がなぜ、私たちがいつも喜ぶことができるかの理由を説明しておられます。それは「見よ、わたし」ということです。結局「わたしを見なさい」。 すなわち自分自身を見たり、他人を見たり、周囲の状況を見たりしないで、ただ主のみを見なさいということです。

 主の命令は同時に主がその力を授けてくださることです。主は決して決して不可能なことをお命じになりません。「見よ、わたしだ」と言われる方はもちろん万物の創造主であり、何でも出来るお方です。 父なる神の本質の完全なあらわれそのものであり、主なる神の右の座に座しておられすべての力を与えられた大能者である。将来のさばきをもゆだねられている方です。目に見えるものから目を離し、ただイエス様だけを見上げることは考えられないほど大切です。

 われわれの喜びの源はただただ主の中にのみあります。本当の喜びの源は決して理解、感情、愛する人、家族、預金、健康、成功などにあるのではありません。ただイエス様の中にだけあります。この事実をはっきりさせるために、ゼカリヤは「見よ、わたしは」と言ったのです。

 同じようなことばをクリスマスの夜、天の御使いが言いましたね。ルカ伝2章10節ですね。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」救い主があなたのために生まれ、あなたのために生きておられるということこそ喜びの源です。イエス様は天の栄光を捨て人間となられ、悪魔の奴隷、どうしようもない人間と一緒に生活するようになりました。そしてご自分のいのちを捨てる備えをしていたのです。父なる神はイエス様をとおしてこの世に来られ、人々を顧み、救いの道を開いてくださいました。「わたしはあなたのただ中に住みたい」とありますね。

 昔から主なる神のご目的は人とともに住むことでした。旧約聖書において神が民を顧みてくださった期間はある程度制限されていたんです。主のご栄光があらわれた所として、先ず第一にいわゆる幕屋、会見の幕屋でした。出エジプト記の40章の35節を見ると次のように書かれていました。「モーセは会見の天幕にはいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。」あとでソロモンの宮の上にも同じような現象が起こったのです。列王紀上の8章542頁ですが、8章11節を見ると次のように書かれています。「祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。」

 同じような体験をベツレヘムの羊飼いたちもしました。今読みましたルカ伝2章9節「主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。」とあります。この野原の上では、主は限られた期間イスラエルの民を顧みられたのではなく、人とともに住むために来られたのです。これこそ御使いのお告げでした。弟子たちもこの栄光をともに体験することが許されました。ヨハネ伝1章14節「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

 聖書の中で私たちは「わたしはただ中に住む」とか「わたしは捨てない」と言ったようなことばを非常に多く見出すことができます。わたしは「あなたとともに」と言うことこそ主の願いです。私たちが召し出されているというのは、わたしたちが主の宮、主の住まいとなったのです。「主の宮」、「主の住まい」としてのみ、私たちはほんとうの証人(あかしびと)、またしもべとなることができます。「わたしは来る、そしてあなたとともに住むことを望む。」このことばはわれわれ一人一人に向けられていることばです。私たち一人一人をとおして大いなる奇跡をあらわさんと主は切に願っておられます。私たち一人一人をとおして主はご自身のご栄光をおあらわしになりたい。

 けれども遠い将来にではなく、まさに今日、それをなさんと主は願っておられます。「わたしは来る、そしてあなたとともに住むことを望む。」と。考えられない、素晴らしい約束なのではないでしょうか。イエス様は来られた。イエス様は生きておられる。聖書の中でイエス様はよく救い主と呼ばれました。数えてみると26回。イエス様は唯一の救い主であるとあります。けれどもイエス様は救い主(だけ)ではなく、「主」とも呼ばれたのです。何回かと言いますと、670回。もう比べられない。私たちはただ単にイエス様がこの世にお出でになったことを振り返ることだけでなく、すべてのことの支配者としてイエス様はまたお出でになるということ、すなわちイエス様が近いうちに再びお出でになることを深く思わなければならないなのではないでしょうか。

 イエス様が来られます。今日かもしれない。毎日待ち望むことこそが主の切なる願いそのものであります。

2015年12月26日土曜日

クリスマスの意味(中)

クリスマスカードその2(子どもたち)

 主は来られた。犠牲になるために。自分自身を無にするために。

 何年前だったか、ちょっと忘れましたけれど、ある奥さんはこの世で生きるのはいや、面白くない、もう死にたい。大きなビルから、11階から飛び降りてしまったけれど、死ぬことができなかった。奇跡的に助かった。けれども、結果として彼女も母親もイエス様を信ずるようになった。「生きててよかった。死ぬことができなかったのはよかった」と言うようになったのです。イエス様が死んだからよかった。そうでないと、もうおしまいだから。

 イエス様は悲しみの人となった。その前に宇宙の創造主であり、何でも知っておられ、何でもおできになったお方です。けれども、イエス様は人となった。このイエス様の人生は苦しみの人生でした。パウロはまた書いたのです。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」(2コリント8・9)

 イエス様をとおして富む者となった者は喜ぶことができます。ですから、主なる神は私たちがどうであるか、どのような状態にあるかにはおかまいなく「喜び歌い楽しめ」と命じ要求しておられます。このことを示すみことばをもう一ヵ所読みます。

  今度は1411頁です。よく引用される個所です。素晴らしい告白です。ハバクク書3章17節。「そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。(もう全部いやになった、のではない)しかし、私は主にあって喜び勇み、 私の救いの神にあって喜ぼう。(意志の問題です。気持ちの問題じゃない。喜ぶ気持ち全然なかった、全部無駄のように見えたのです。けれど)「私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。」(たとえ私たちが何の実も見なくても、それが一見空しいように思われるときでさえも喜び歌い楽しめと主は言っておられます。)

 「私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。」これは当時の預言者であるハバククの断固たる決断でした。自分の魂を失うことがどうしても必要であるということをここでも明らかに知ることができるのじゃないでしょうか。もちろん、この預言者は自分の感情、自分の思い、自分の意志によって支配されていたならば決して喜ぶことができなかったのです。なぜなら、その時の状況は一つの実を結ぶようにもならず、人間的にはすべてが空しいように見えたからです。

 初代教会の人々も同じことを経験したようです。使徒行伝5章を見ると、次のように書かれています。217頁です。使徒行伝5章41節「そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを(泣きながらじゃなくて)喜びながら、議会から出て行った。」とあります。主に従う者はそれが犠牲を払わなければならないようなとき、使徒と同じように信仰のために甘んじて迫害を受けるということはそれほど簡単なことではない。それはただ目に見えるものから目を離し、ただ主を見上げることによってのみ可能です。

 パウロとシラスの経験は結局同じようなものでした。16章。使徒行伝16章23節からちょっとお読み致します。「何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。」パウロとシラスは結局無実の罪で牢獄に入れられたのです。そこで彼らは鞭で打たれたり棒で殴られたりいろいろな拷問を受けました。それによって彼らは肉体的に大きな苦痛を受けなければならなかった。それにもかかわらず真夜中ごろ、すなわち真っ暗で、逃れ道もなく、何の希望もないように思われる時、二人は神に祈りつつ讃美の歌を歌ったとあります。

 パウロもコリント第二の手紙6章10節に書いたのです。「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。」私たちは色々な悲しみや苦しみなどを経験することがあるかも知れないけれど、それにもかかわらずいつも喜ぶことができる。これこそまさに多くの苦しみを受けたパウロの証でした。

 ヘブル書の著者も書いたのです「あなたがたは、捕えられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。」(ヘブル10・34)私たちは色々な思い煩いや誤解あるいは迫害を受ける時、心から喜ぶことが決して簡単ではない。それにもかかわらず、これは主の命令です。そしてまさにハバククという預言者が、使徒たち、またパウロ、あるいはシラスはそのようにいつも喜ぶことができたのです。「喜び歌い楽しめ、見よ、わたしは来て、あなたの中に住む。」どのような状況に置かれてもそうたやすくすることはできないようなこと、すなわち喜び歌い楽しむということに対する命令がなされています。

2015年12月25日金曜日

クリスマスの意味(上)

  クリスマスカードその1(版画 ルカ1:38.46.  K.Yoshioka) 
さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(ルカ2・8〜11)

シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。――主の御告げ。――(ゼカリヤ2・10)

 このことば(ゼカリヤ2・10)は同時にクリスマスのメッセージではないでしょうか。三つの事柄について考えたいと思います。まず第一にどのような状況におかれても、そうたやすくできないことをする、すなわち喜び歌い楽しむということに対する「提案」ではなく、「命令」がなされているということです。二番目、このみことばの中で、上に述べた命令はどうすれば従順に従い得るかという奥義が明らかに示されているということです。すなわち、「見よ。わたしは来る」。結局「わたし」を見なさい(で、あります)。三番目に、主のみ旨を知ることが、それに他ならない。「わたし」はあなたのそのただ中に住みたい、とあります。

 主が喜び歌い、楽しめと命じておられ、かつそのような勧めがなされているということは誰でも理解することができます。誤解することは先ずない。主なる神の言わるることは悲しみ・落胆・敗北感は禁じられています。主はわれわれが喜び歌うべきであると強く言っておられます。このような主の命令に対して不従順な態度を取ることは「罪」です。

 確かに多くの人は言うでしょう。そう言うことは、言うのは簡単ですが、実際にその通り喜ぶことができない、無理だよ。確かに、私たちは自分自身の状態、また状況を見ると本当に喜ぶことができないような場合が数多くあるのではないでしょうか。パウロは主の恵みによって救われたあとで、言ったんです。私は何というみじめな人間なのだろうか。これは決して喜びの叫びではない。私たちが自分自身の内側を見る時、そこには喜ぶべき根拠が何一つないことを認めざるを得ません。
 
 ところがその当時、主はゼカリヤを通して、イスラエルの民に、喜び歌え、楽しめと命じ言われましたが、今日も主はわれわれ一人一人に向かって全く同じように命令しておられるのではないでしょうか。現代人にとって、私たちにとって、もっとも大切なことは静まることです。主の愛を新しく体験することです。

 私たちは色々なことを考えたり心配したりします。またどうしてもしなければならないことが余りにも多いので、どうしたらいいかさっぱりわかりません。けれども大切なのは今話したように静まることです。主によって愛されているとつかむこと、新しく知ることこそ大切です。主に愛されているとは、確かに理性でもってつかめない事実です。けれども、もっとも素晴らしい「奇跡」です。

 旧約聖書のイザヤ書、大体クリスマスの時引用される個所です。イザヤ書9章6節、1045頁です。6節。「ひとりのみどり子が私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」とあります。パウロはこの素晴らしい事実について言ったのであります。「ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。」(2コリント9・15)

 礼拝のないクリスマスはほんとうはあり得ない。もう一回前に読んでもらいました個所を読みますか。ルカ伝2章。「すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(期待された救いの神である、メサイアです。)「あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

 パウロもこの想像出来ない事実について書いたのです。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた」とあります。また、パウロは愛弟子であるテモテにも書いたのです。「確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。『キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。』(1テモテ3・16)

 パウロはまとめて喜んで書いたのです。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(ローマ8・32)

 イエス様御自身が最もすばらしい贈り物であり、主なる神の愛のあらわれそのものです。この救いの神を経験した者の証とは次のようなものです。

  ダビデは「主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。」(詩篇118・14)と告白したのであります。イザヤは「見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。」(イザヤ12・2)とあります。マリヤの告白も素晴らしい告白です。ルカ伝1章ですね。1章45節。「『主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。』マリヤは言った。 『わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。』」

(今週火曜日吉祥寺でなされたベック兄のメッセージの聞き書きである。)

2015年12月24日木曜日

「和解」のものがたりの始まり

葬儀のあと談笑する兄弟たち


 何年前のことであったろうか。恐らく10年くらい前のことであったと記憶する。今しも家庭集会が開かれんとする時であった。三人の方が乗り込んで来られ、その集会が解散されざるを得なくなったことがあった。しかも、その三人の方は、家庭集会を開こうとされていた当のご主人のご両親と妹さんであったから異常であった。

 そこには私だけでなく何人もの方々が集会があると言うので集まっていたので、それぞれの心に強烈にその時のことが刻印されているはずだ。もちろん事前にそのことは知らされていたので、私達はその集会が無事に持たれますように祈って参加していた。しかし、三人の方は、私達を大向こうにまわし、その場に居座り、キリスト(信仰)によって自分たちの親子関係が全く駄目になったことを指弾し、今から即刻キリストから離れろというすさまじい剣幕だった。私達は家族間の争いなので、恐怖心を覚えながらも遠巻きに見守るしかなかった。

 逆に家族間の愛情がいかに深いものであるかの片鱗を垣間みた思いだった。ところがその三人の方は今いずれもおられない。と言うより、天の御国に凱旋された。一番早く召されたのは妹さん、次に昨年のお母さん、そしてこの12月11日にお父さんが召された。そしてそのご葬儀が今週の日曜日に行われた。

 葬儀は無宗教の聖書に基づく葬儀であった。私はこの葬儀を前にして、しばしこの葬儀は「奇跡」だと、何度も思わずにはおられなかった。一家は韓国人であったが日本で生を受け、一旦は韓国へ帰りながら、1955年12月24日のクリスマスイブの日、ちょうど今から60年前日本に来られたのであった。そして7人のお子さん方をそれぞれ最高学府にまで学ばせ、立派に育て上げられた。

 ところが、お父さんは何よりも日本人が嫌いであった。長年日本人から差別されひどい仕打ちを受けた心の傷がそうさせた。そのご長男が日本人と結婚された。ご両親は烈火の如く怒られた。その上、お嫁さんはその後キリスト信仰に導かれた。ご両親の迫害はますます激しくなった。

 果てることのない争いの中でご夫妻が祈っておられたことは家族の救いであった。私達はこのご夫妻とはかれこれ20数年のご交誼をいただいているが、もともとは奥様が信仰をもたれたことによる。その時、ご主人は頑として福音を拒まれていた。いかなる説得も無理であった。その後ご主人があっという間に信仰をいただかれた。このことも奇跡であった。そして冒頭の出来事はそのご夫妻が家庭集会を開かれようとされている最中に起きたことであった。

 今週の日曜日に行われた、お父さんの葬儀の中でご長男は遺族を代表して概略次のように述べられた。 「父は家族を何よりも愛していました。困難な中で自分たち子どもを育て上げるのに精魂傾けてくれました。その愛が自分たちの結婚により裏切られたと思い、迫害を加えてきました。子どもたち皆んなから背かれた父は、晩年自分が加えた迫害を悔い改め何とか和解したいと思っていました。もう身を起こすこともできなく弱り果てた父を抱きしめたとき、『おまえは一番の親孝行者だ、世界一の親孝行者だ』と言ってくれました。自分は何一つ親孝行らしきことはできませんでした。でもかつて自分たちがキリスト信仰を持った時、一番の親不幸者だとののしっていた父がこのように変えられたのはただ主イエス様の愛のお陰だと心から感謝しています。今は父になりかわって、父からひどい仕打ちを受けた弟たちに謝ります」

 主イエス様は民族間の対立、家族間の争い、すべての人間の罪に終止符を打つべく神の御子であったが人となって来られた。その生きた証を受け入れられた一家の証を短くまとめさせたいただいた。

やみと死の陰に座す者、悩みと鉄のかせとに縛られている者、彼らは、神のことばに逆らい、いと高き方のさとしを侮ったのである。それゆえ主は苦役をもって彼らの心を低くされた。彼らはよろけたが、だれも助けなかった。この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。主は彼らをやみと死の陰から連れ出し、彼らのかせを打ち砕かれた。彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。まことに主は青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきを粉々に砕かれた。(詩篇107・10〜16)

2015年12月21日月曜日

犬も歩けば棒に当たる

 思いをば 字を連ねる 喜びよ 時経つままに 媼語りき 

 郵便ポストは近くに三ヵ所。5、6分の距離だ。本局は少し離れているが、20分ほど歩けばたどり着く。散歩にはいい距離だ。しかし、このところ寒くなって来て、余り遠くまで行きたくない。ために近くを利用した。三ヵ所のうちどれにするかは自由だが、それぞれ集荷時間は異なる。「エーィッ、儘(まま)よ」とばかりに、普段余り行かないところを今日は選んだ。ところが、ポストに近づくと同時に郵便局の赤い車が向こう側から集荷に来た。こちらはお客様、投函するのを見届けるかのように丁寧に礼をされた。グッドタイミングだった。一体何時に集荷に来られるんだろうとポストの横掲示を見たら、15時38分ごろと明記してあった。腕時計を確かめてみるとまさしくその時間だった。一分でも遅かったら、手紙は暗いポスト内で一晩過ごすところだった。今更ラブレターではないので少々遅れても、どうと言うことはないが、早く届けたいのは人情ではないか。

 私は、一般に外出する先で、思わぬ人と遭遇することが多い。それも大体がグッドタイミングである。しかも一度や二度ではないので、外出し帰宅するや早々、私の口から出ることばの一つに、「今日、誰と会ったか、わかる?」というなぞかけがある。これには私よりはるかに外に出る機会の多い家内の方が舌を巻く。犬も歩けば棒に当たると言うが、比較的人に会う確率が高い私は何と言えばいいのだろうか。私は犬なのだろうか?犬は犬でもどんな犬なのか、家内と二人で分析をするが、結論が出ない。ただ人一倍、私が人を見分ける力を主からいただいているところにあるようだと言うのが当面の互いの結論であった。つい先だっても、銀行でお金を下ろし、いったん左側に自転車を振り向けながら、思わず別の用事を思い出し、右側に振り向けた途端に向こう側からやってきた目深に帽子をかぶった方とすれ違った。

 紛れもない、K氏であった。K氏とは数年来同じ町にいながら、引っ越しされたこともあり、またお忙しい方であったのでお会いすることはなかった。声をかけたら、先方も気づかれ、「オッ」とばかりに自転車を脇に差し置いて道路の端で互いに立ち話を始めてしまった。K氏の近況と数年前に出版された本の事などをお伺いした。昨年の四月からは慣れないパソコンの練習を兼ね、週一回程度ブログをとおして雑感を書いているという話もされた。何十年も前のこと、初対面の際、私の卒論のテーマとK氏の学問領域が重なるところがあり、互いに興味関心を覚えたものだ。それ以来お会いしたのは数えるほどしかない。その方と路上でお会いしたのだ。

 その数日後、K氏の御母堂が103歳で召されたことを知った。早速、新しいK氏のお宅を探し弔問に出かけた。御母堂は100歳にしてイエス様が第一と言われるようなったとは、K氏の奥様からお聞きし驚かされたことだが、大変な生命力のあるお方だった。もし数日前の出会いがなかったら、このように即刻お訪ねする気にもならなかったかもしれない。しかし、それだけでなくその後数日足らずのある日、郵便局の窓口で切手を買っていたら、隣の方から肩を叩かれた。誰かと振り向けば、当のK氏であった。御母堂の召天のため、急遽喪中の葉書を作成し投函に来られたということだった。この場合はK氏が私を見当てられたのだ。少し年来の謎が解けたように思う。なぜなら、K氏は大学の先生で、私は高校の教師、ひょっとすると教師稼業が人様を識別する力を与えるのかも知れないと思うたからである。

 12月になってから勘定してみたら、私はこのK氏をふくめ、すでに数名の方々と路上やスーパーや図書館でお会いしていた。この他、私にとってもっとも出会いの多い稼ぎどころの場所は何と言っても電車内である。今回は10月、11月 の新幹線内での劇的な出会いがあったせいか、週一回吉祥寺へ出かける電車内でも不思議と出会いはない。しかし、結局のところ、このようにして、今年もかつてお交わりを親しくいただいた方々とお出会いすることができたが、これは、一重に、本来寂しがりやの私を良く知っておられる主なる神様が、様々に過去出会った方々を忘れないようにと出会わせてくださった摂理にあるのでなないかとも思う。

 考えてみたら、今年は私の干支の「羊」の年であった。私はまぎれもなく犬でなく、羊である。羊は羊飼いに飼われて初めて一人前だ。それゆえ羊が当たるのは決して「棒」ではない。いつも牧草を羊飼いによって与えられているからだ。その羊が同じ羊と出会って飼い主をあがめればこれほど幸いなことはない。もっともっと多くの羊に会いたい。私が今年新しく知遇を得た方はご自身のことを親鸞にあやかって「愚石」と称される。私は飼い主イエス様に導かれるstraysheepだと思い、数年前からこのブログ(泉あるところ1、Ⅱ、Ⅲ)を展開しているが、語呂がよくないことを承知で、最近その方の真似をして「迷羊」と名乗っている。羊年も残り少なくなった。昨日お交わりできた老婦人は孤独の中、字を書くことにより励ましを得ておられる。そこに出会いの根源のお方を一筆「イエス様」と書き込まれた。私もまた彼女のごとく、羊飼いから目を離さず生きたいものだ。

主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。(エレミヤ31・3) 

2015年12月17日木曜日

亀井勝一郎とその年譜

「春」吉岡賢一作

 亀井勝一郎のことについて書いてみたい。そもそも亀井勝一郎のことを思い出したのは、栃木県の足利にいる友人がJR彦根駅から一枚のはがきを寄越した奇縁によるものだった。駅頭は私の好む場所の一つである。なぜかと言えば、そこで思わぬ人と出会うことができるからである。ましてその友人が降り立ったその日、私も故郷の彦根駅を乗り降りしていたからである。別々の計画をもって、関東くんだりから彦根駅にたどりついた二人が出会ったとしたらこれ以上の奇遇はなかったであろう。しかしそうはならなかったのはまさしく天の配剤であった。天の配剤は友人がそのあと、大阪フィルのショスタコーヴィチの演奏会に無事に出席することであり、私にとっては一人降りたった友人を想い、遠い昔高校時代に駅頭に佇んでいた亀井勝一郎氏の存在を思い出させることにあったのだ。

 それが何年のいつごろか、定かではなかった。しかし、春ではなかった。コートを着ておられた長身の同氏の印象からすると、晩秋から初冬にかけてではないかと思っていた。しかし確たる自信はなかった。むしろ幻想ではないかという思いもなきにしもあらずだった。このことを思い出して以来、自分でも本当なのか確かめてみたくなり、県立図書館から亀井勝一郎全集補巻三を取り寄せていた。果たせるかな、次の記録を見つけることができた。

昭和35年(1960) 53歳
11月、彦根、多治見、木曽福島などで講演。「続歴史の旅」(人物往来社)を監修。この年、「安保批判の会」世話人となり、安保反対運動にも参加するなど多忙をきわめた。

 彦根駅の上りホームで見かけたのは、私の高校三年の11月であったことがこれではっきりした。しかも下りホームでなく上りホームと言うのも、多治見、木曽福島というコースと一致している。幻想でなく、まさしく事実であった。それと同時に意外な事実も新たに知った。それは彼が安保反対運動に熱心だったことだ。してみると、彼の精神は高揚していたはずだ。しかし私の印象は静謐そのものだったことは「天の配剤」(11/29のブログ)で書いた通りである。それを裏付けるかのような記述があった。桶谷秀昭の評だ。

 亀井勝一郎ほど不良少年になる可能性の少ない人間は、昭和の文士の中でもあまりいないのではあるまいか。あの端正な風貌は、優等生の冷たさはないが、身を持ち崩すという可能性を想像する余地はない。ただあの温和な端正な風貌に一つ感じられるのは、身の置きどころのないような含羞の翳であり、自分のもって生まれた長所にきわめて鋭敏につまずく人の困惑の表情である。(『日本人の自伝』18巻平凡社473頁より)

 さらに年譜を見ると、函館生まれだと言うことも初めて知った。

 母の先夫は函館商業の出身であり、私は幼い時からその先夫のアルバムを見て育っていた。函館の近くの森町は、滋賀県に家を持ちながら、その地でも米屋という商売をしていた近江商人の端くれとしての生家の土地でもあった。先夫の残した書物は内地に引き上げた母が持ち帰り、高校時代の私の好奇心を満たすに十分な数冊の思想書であった。母は私に先夫は軍に殺されたと言っていた(実際は戦死であったが)。

 一方、私にとって亀井勝一郎は青春のほろ苦い思い出(「運動」から意識的に離れた時期)と連動している。彼の『我が精神の遍歴』は私にとって気になる著書であったからである。今回、時代錯誤を覚悟の上、その本を読んでみた。

 そして意外なことを発見した。彼における左翼思想との出会いは自らが裕福であるという罪障が出発点であり、その根本問題はいかにしてその後生じた諸々の罪障を解決するかという「信仰」がテーマであったからである。最終的には親鸞の歎異抄が彼の拠り所であることには変わりないが、それに並行して聖書の伝えるイエス・キリストの存在は絶えず意識され、無関心でいられないということにあった。残念ながら、亀井氏は十字架の死を受けとめても、三日後の復活を受け入れるまでにはいたっておられないのではないかと思った。

 けれども、そういう信仰上のこともさることながら、私が更に大変興味を覚えたのは、戦中から、敗戦を経て戦後の世界に入る中で、いかに人々が偽善の世界に足をすくわれたかが、自身の文士の生活をふくめ、ジャーナリズムの罪として描かれている点であった。題して「偽態の悲劇」の中で次のように語る一節がある。

 人間を傀儡化する近代の有力な手段はジャーナリズムである。強権の圧迫というが、圧迫を加える独裁者自身も、自己の投じた言葉の無限大に拡大された反作用によって傀儡となる。近代戦は宣伝戦なりと言われたことのうちには、笑えない喜劇があるのだ。宣伝は言葉を阿片と化す。宣伝したものは、無数の活字と電波の交叉との反射によって、逆に宣伝され、自己疎外の状態のもとに途方もない幻影をみ、妄想を抱くに至るのである。故に、更に中毒性のある言葉をはかざるをえなくなる。宣伝は非人間的な呪文と化す。古代人に甚だ近似した魔術にかかった人間、これが戦時中鮮明になった「文明」日本人のすがたではなかったろうか。指導者とはその誇張された演劇的現象に他ならない。(『日本人の自伝』362頁より引用)

 この文章が本になってあらわれたのは昭和25年(1950)であるから、今から65年前の文章である。しかし昨今の官邸とジャーナリズムのあり方を考えるとうそ寒いものを感じさせられた。

 とまれ、年譜によると、彼の終焉の土地は昭和14年に移り住んだ吉祥寺のようであるし、昭和23年の6月15日の太宰入水自殺のおりは翌日から亀井宅が記者団の共同待合所となると記してあった。最初は今更亀井勝一郎もないものだ、大変な時代錯誤だとばかり思っていたが、『遍歴』を読み終えて、今の時代、一向に変っていない日本社会を思うて、彼の考えたことをもう一度問うてみるのも意義があるのではないかと思うようになった。

私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。(1コリント15・3〜8)

2015年12月11日金曜日

ああ!高校新聞史(下)

高校時代の友人N氏の座敷の欄間に架けられていた扁額

 私にとって、「何よ、今更。高校時代! あなた、あの高校時代がそんなに良かったの!」の言はまことに貴重であった。かつて20年ほど前、高校時代に互いに気を許していたと思っていた方を訪ねたことがある。その方はすでに町のお医者さんになっていた。その時、この友人はにべもなく言い退けた。「高校時代は思い出したくもない。お互いがライバルで、人を蹴落としてでも這い上がろうと懸命でなかったか。高校時代、誰にも心を許せなかった。それにくらべ大学時代は全く異なった。自由だった。私はここでほんとうに心の友を持った」

 恐らく、この友人は同期会には出席していないだろう。私とてもこの友人の気持ちがわからなくもない。しかし、同期会の常連である先の友人はそう言い(冒頭の言)ながらも、この同期会運営のためにいつも骨を折って労を惜しまないでおられる。むしろ年老いてからの互いの交流を楽しんで集っておられるようだ。

 同期会が終ってから大部な高校新聞を再び読み返し、新たな発見をした。それは二年生の時の新聞である。同じクラスの一人の方が生徒会長に立候補したおりの挨拶、またやめた時の挨拶文であった。そこにはその方がお父様を高校に入ってから亡くした悲しみが綴られていた。確かにその文章は当時読んだ記憶がある。しかし、そのおり恐らく、彼の境涯に一片の同情を持ちつつも、そのような公の挨拶に個人的な消息を書くことは慎まねばならないと批判的に見ていたのではないか。

 50数年を経て、再読し、ふつふつと彼の心情が伝わって来て、何と自分は薄情だったのかと思い至った。私も高校を卒業して間もなく母を亡くした(彼のお母さんは私の母と女学校の同級生であったように記憶する)。高校時代の自分はすでに病臥中の母を抱えていたが、我利我利亡者として彼の苦しみ悲しみに寄り添うことはなかった。今にして慚愧の思いがする。その後彼がどうなったかは知らぬ。

 そう思っていたら、今回の同期会に出席した一人の方から長文のメールをいただいた。一年生の時の同じクラスであった方である。控えめに見えた彼の内面に大きな葛藤があったことを初めて知らされた。そして15年間眠っていたと言う彼は、同期会を大切にして元気な顔を見せて三六会を励ましてくださっている。

 人生の多感な時期に同じ学び舎で様々なことを考えながら、私達は今日に到っている。つい先だっても、改めて一年生の秋の新聞に「原水爆実験禁止をめぐって」と題する座談会での先生とAFS留学を終えて帰られた二年生の方との記事を読み、感慨を覚えさせられた(※)。この方は他の号にも「アメリカの印象」と題した投稿や「アメリカに学んで」という座談会でご自身の意見を積極的に表明されていた。時は安保反対運動が盛んで高校生ならずとも無関心ではおれなかった時である。

 その方が長じて『朽ちていった命ー被爆治療83日間の記録ー』NHK「東海村臨界事故」取材班(新潮文庫)にとことんまでつきあわれた医学者で、責任者であることを知ったのはこの我流の「高校新聞史」の編纂の作業を通してであった。早速、図書館を通して取り寄せてもらったが、私はこの本を涙なしに読めなかった。もちろん、被爆し亡くなられた大内久さんの悲惨な死を思うてであった。一方、その治療の陣頭指揮を取られた同窓生でもあるM氏の苦渋を追体験しながら、この方が高校時代考えられたことがその後の人生の歩みに生かされているのでないかと思った。そしてその貴重なお働きの上に主イエス様の導きがあればどんなに素晴らしいことであろうかと考えさせられた。

 46枚のブランケット版の新聞は大部であった。しかも、私が要約しようとしたA4版でわずか四頁の「高校新聞史」は果たしてどれだけそれらを正確に反映できたか心もとなかった。まして、その高校時代の評価はこれまで述べて来たように、自らの体験をふくめて人によってまちまちであることも知った。

 にもかかわらず、私にとって「高校新聞史」を考えたことは無駄でなかった。たとえどんなに恥多き高校時代、逆に栄光の高校時代であろうと、リタイアして人生の最終局面にさしかかっている今、お互いにかつて学び舎を共にした事実には変りない。その同窓の誼みをもとに新たな人間関係を持たせていただいていることには大きな意味があると思い至ったからである。

(※そこでその方は次のように語っておられる「もし我々が黙っていたら即ち無関心でいたら世論はどうなるんです。独裁政治になってしまうんじゃないですか。世論を無視しての政治は現在不可能でしょう。この原水爆禁止を米、英、ソに要求するのは確かに岸首相であり藤山さんです。しかしその首相を支持するのが我々の世論なんですよ」)

どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。(詩篇119・9)

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。(ピリピ2・13〜14)

2015年12月6日日曜日

ああ!高校新聞史(上)

高校校舎、道路に面した校門は伊勢湾台風で壊れた

 昨日、一年ぶりに高校の同窓生と会うことが出来た。先日新幹線車内でお会いしたIk君も元気な姿を見せてくださった。総勢25名で一夕をともにした。関西からわざわざ二名の方がお見えになったが、あとは東京、横浜、千葉、埼玉に在住する者が集まった。昨年は37名集ったので、10名強の不参加者になった。この一年間に二名の方が亡くなられ、欠席者の三分の一はご病気のゆえであった。

 毎年12月の第一土曜日に招集される同期会は実に根気強く持たれ、今年で32回目を数える。私は同期会の中では新参者の部類に属し、過去三年間続いて出席できたが、それ以前は散発的に二、三回 参加した程度に過ぎなかった。ところが昨年と今年と名簿順の幹事の役がまわってきた。そして幹事は同姓同名の二人であったことも以前このブログhttp://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2013/12/blog-post_9.htmlで書いた通りである。

 同期会は初めに前座のようなものがあり、出席者の中から一人が何か気の利いた話をしてくださる。一昨年は「道中記」の紹介、昨年は珍しい苗字の紹介とそれぞれ工夫を凝らして話をしてくださる方がおられた。今年はめぼしい方が思いつかなかった。そこで思い立ったのが三年間の高校新聞に描かれている誌面の紹介だった。

 たまたま、帰省時に家で見つけた赤茶けて破れかかっている新聞が三号ほどあり、内容がすばらしかったのでその他の号も見たくなり、高校に出かけて縮刷版のコピーをいただいて帰って来た(※)。年間5号、三年間で15号、ブランケット判で46枚の大部の資料であった。縮刷版のため文字は細かく読むのもままならなかったが、何かこれを追求すれば、皆さんに喜んでいただける話ができると思うようになった。それで我流でもあり、氷山の一角のものにすぎないとは思ったが、各学年の特徴を追ったA4版で4頁にまとめた資料を名簿と一緒に出席者に配布した。

 ただ、もともと懇親が目的だから、当方が用意した資料は必ずしも必要なものではないとは承知していた。ただ準備に何日もかかり仕上げたものなので披露しないでこのままみすみす帰ってくるのも惜しいので機会をうかがっていた。ところが参加者の一人の方が資料を見て、「何よ、今更。高校時代! あなた、あの高校時代がそんなに良かったの!」と一蹴された。この一言は鮮やかだった。私は瞬間自らの作業の無意味を悟った。

 結局、皆さんの前でこの「高校新聞史」を話すのは、当初私が考えていたものの三分の一程度に削減せざるを得なかった。結果的にはこれはこれで良かった。以降、24人の方々がこもごも近況報告をなさり、現在の自分(史)を語られ、校歌斉唱のあと、会はあっと言う間に散会の時を迎えることができたからである。その自分(史)の大半は闘病経験であったり、健康法であったり、老後や死後の身の処し方が中心であった。

(※この内容については今年の5月の二つのブログで紹介した。http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2015/05/blog-post_26.html http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2015/05/blog-post_28.html )

そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「主はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。』」(2列王紀20・1) 

2015年11月29日日曜日

天の配剤

彦根城中堀から石垣内の母校を眺めて(11/6)

 昨日、一枚の葉書が届いた。初めて社会人になった時の同僚でかれこれ50年来の親交をともにしている友人からであった。ここ数年ご無沙汰していたが、今年は珍しく夏に二度ほどお会いした。葉書には、「11月26日(木)JR彦根駅で」と記されていた。例の茶目っ気たっぷりの心情を思い遣った。ところが、日付を見て驚いた。

 実は、その日、私も知人の葬儀で彦根に帰り、同日、彦根駅で乗り降りしていたからである。文面には、北関東に住んでいるその友人がいつもは通り過ぎてしまう駅だが、今回は途中下車し、少し城周辺を歩きながら、私のことを思ったと書いてあった。

 ちょうど一月前、家内の友人が召されたので、急遽帰ったことは先のブログで書いた通りである。その上、その帰りには高校時代の友人夫妻とたまたま米原駅頭で出会い、新幹線車内をご夫妻と仲良く談笑しながら帰ったことも書いておいた。

 ところがこの一月ばかり、私は四回ほど関東と彦根を往復した。先の椿事(友人と出会ったこと)はその劈頭を飾る出来事であった。それからの出来事は私の想像を絶する出来事と多くの友人との出会いがあった。そしてその動き回った一月間の最後を締めくくるかのような冒頭の葉書の出現であった。

 私は彼への返書に次のように書いた。「天の配剤は、あわよくば、君と私とを彦根で再会させられる手はずであった。(ところが、そうはならなかった)思えば、高校時代、私は自らの幻想かも知れないが、彦根駅の上りホームに佇む亀井勝一郎を見かけたことがある。私は心の中で目礼をして通り過ぎざるを得なかった(※)、とつい最近知遇を得た北海道在住で高校の三年先輩の方に書き送ったばかりである。”駅頭に 行き交いしは 悲しきか” 」

 天の配剤は今回ばかりは私とこの友人が駅頭で会うことを許されなかったが、時刻はどうかわからぬが、同日に友人は大阪へ「ショスタコーヴィチ」を聴くための旅路へ、私は東京への帰路という形で双方思いは異なったが、彦根駅でのニアミスを秘かに計画されていたのだ。

 冒頭の新幹線車内でお会いした高校時代の友人とは今週末の土曜日には東京で行う同期会で再会する。そして再来週の日曜日には北関東のその友人の住まう足利駅を通過して伊勢崎まで行く予定がすでに三ヵ月以上前から決まっている。この友人のひそみに習って私も途中下車して「12月12日 東武線足利市駅前で」と記して葉書を投函するか、いや、それとも彼の家を三度訪ねるとするか。

天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。(伝道3・1)

(※私が同氏を見たのは多分晩秋の季節だったと思う。長身の亀井勝一郎氏はあのきれいな白髪をコートであったか、オーバーであったかに、身を包み、鋭敏でかつ柔和な眼差しを宙に向けておられた。いかにも孤高という感じを受けた。どうして田舎の彦根くんだりにあの時代、昭和34、35年ごろだと思うが、あらわれたのか、今もって謎である。だから「幻想」と書いた。こんなことは彼の年譜を見れば明らかなのだが、私の一方的な片思いが破れるのも恐いものだ。)

2015年11月4日水曜日

召された友のこと(尊い一語)(下)

「待望」H.H作

 ところで、召された友は、家内の高校・短大の同級生でごく親しかった。そして彼女のご主人は学科こそ違うが同じ短大で、ともに美術部の仲間で、互いに相見知っている間柄であった。だから家内はご主人と50年ぶりに会っても違和感はなく、ご主人も普段から奥さんを通して家内のことも聞かされていたであろうから、懐かしい再会であったに違いない。こんなことなら、ご主人ともっと早く会っていれば良かったと、家内は言ったがこれも後の祭りである。でも、このようにかけがえのない方を失った悲しみを共有し、主イエス様の復活にあずかる希望を持つことで、これからは私も加わっての新たなご主人と私たちとの関係が始まったと言えなくもない。

 朝早く、当地を出たが、火葬も終え、米原駅に向かった時にはすっかり日も暮れ始めていた。新幹線の中で、二人してひとしきり故人の思い出を語り合おうと思っていた。ところが、駅頭で椿事が発生した。自由席の列で待ち、すでに10人近い人が私たちのあとに並んでいたが、列の前を急いで歩いてくる私より背の高い人がいた。見覚えのある顔だった。高校二年の時に一緒のクラスになったことのあるIk君であった。思わず声をかけた。こちらの呼びかけにびっくりして、「よーく、見つけてくれたね」と言いながら、「オーイ、同級生がいるからこっちへ」と先にすたこら歩いていた奥さんを呼び戻された。

 私たち夫妻は先頭に並んでいたからいいものの、彼らは他の列車に乗ろうと移動していたのを私が呼び止めた形になり、おまけに懐かしさのあまり、並んでいる他の方には申し訳なかったが会った勢いに任せて四人で一団となって新幹線に乗り込んだ。その上、最初こそ通路を挟んで三人席と二人席に四人が並んで話し合っていたが、まわりの方の迷惑になるので、そのうち主人は主人同士、奥さんは奥さん同士で話し合えるように席を移動した。

 話し合うと言ってもIk君と私は高校時代、席が氏名の関係で端と端同士であったのでほとんど話したことはなかった。実質的にはこの時が初めての話しになったのではないか。まして家内同士は全くの初対面であった。ところが東京駅で別れる際には奥様が「またお会いしたいです。」と言われた。だから私たちが二時間余互いに話が弾んだことは言うまでもない。しかも彼らも実は葬儀の帰り道だった。私たちは日帰りの往復で喪服だから一見してそれとわかるが、彼らは平服に着替えていたので気づかなかったが、お聞きすると奥様のお母様が94歳で亡くなられ、やはりその葬儀の帰り道だと言われた。

 家内同士は「死」の問題、「介護」の問題を話し合ったようだ。私たち主人の方は高校卒業以来の互いの歩みを語り合うことになり、畢竟、私がなぜイエス様を信ずるに至ったのか詳しい説明を求められる羽目になってしまった。私はこれまで青春18切符の愛用者で、車内で初見の方と会い親しくなることはあったが、同級生に会うことはなかった。ところが今年は新幹線に乗る機会が増え、どういうわけかこれで今年三度目の同級生との出会いを経験している。これはどういうことなのだろうと思う。

 それやこれやで先週は日曜日から土曜日まで一日として落ち着いた日が過ごせなかった。途中の金曜日には家庭を開放させていただいてたくさんの方が集まられた集会もあった。でも、すべて恵みの日々であった。ところが幕締めの土曜日にとんでもないアクシデントに見舞われた。それは町田喜びの集いに日帰りで参加し、帰り電車は小田急多摩センターを8時半過ぎに出たのだが、家に着いたのは何と明くる日、日曜日の朝4時半であった。途中先行する電車と車の衝突の事故があったようで、各電車とも動かなくなってしまい、事故現場での復旧が捗らず大幅に時間を喰ったわけである。とんだ災難であった。気の短い私は情報が十分伝わらないもどかしさに、何度も車掌にかけあって「どうしているんだ」と言いたくなり、とうとう我慢できず、詰問に出かけた。家内は家内で「日本人はどうしてこう忍耐強いのだろうか」と半分あきらめ切っていた。

 たくさんの人を巻き込んだ騒動であったが、私の信頼する東京新聞も地方版の片隅に翌朝ほんの少し申し訳程度に掲載しただけであった。当日は日本はあげて私にとっては何が何だかわけのわからないハロウィーンに人々が血眼になっていたからであろう。ただ「警察は事故か自殺か慎重に捜査している」と記されていた。改めて人身事故であることを知るに及んで複雑な思いに捕われざるを得なかった。一人の人間の命がかかっての大混乱であったからである。

 ほとんど寝不足で臨んだ日曜日の礼拝であったが、礼拝の後、一人の方が小さい時自立を危ぶまれたご自分の息子さんが 、今日も一人で町田の集いに泊りがけで出かけていることを感謝の思いで報告し、ある時、御代田の会堂に虻が入ってきたが、「虻もイエス様の許しなしに刺せません」と言い、人々を安心させたその信仰にいつも自分たちは親だけれども脱帽していることを喜んで紹介された。その途端私も了解した。恵み多い一週間の歩みにもかかわらず、昨晩から今朝にかけて経験した出来事はいったいどういう意味があるのだろうかと考えていたが、このこともやはりイエス様の許しのもとで起きたのだ、と。そもそも主イエス様のご支配なしに人に何が出来るのだろうか。

 召された友はこのこともまた私たちに問いかけて召されたに違いない。もう一度彼女の言葉を記しておきたい。

 遅かったけど、私は生きたイエス様に会った

人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか。(箴言20・24)

2015年11月3日火曜日

召された友のこと(尊い一語)(中)

27日当地で行われた別の方の葬儀で喪主からいただいたお花

  葬儀の日、ご主人やお子様方にお会いした。棺に納められた彼女は、出席された多くの会葬者の手により美しいお花で飾られた。三人のお子様方、ご主人の涙はひとしおであった。何度かうめき声に似た嗚咽も聞かれた。その中でも一段と大きな声でその死を悼み嘆かれたお方があった。それは一団の男性の中から聞こえてきた。彼女の兄弟である方の声のようであった。71歳と言う死はやはり今日では早すぎると言ってもいいだろう。

 火葬を待つ間、私は彼女の次兄に当たる方とたまたま隣席になった。私は前回の記事の内容をその方にお話した。その方は葬儀で初めて妹がキリスト者であることを知ったと言われた。兄弟も多く六つも歳が離れておられたからそれもやむを得ないことかも知れない。ところが、その方が私のいとこ※と中学・高校が同じであることを知って互いに驚き合った。その上、今も親交のある間柄であることが話の端々から窺い知れた。

 その奇遇さに驚いたが、彼女からはそのお兄さんの存在は一度も伺ったことはなく、微かに家内が、お兄さんの中で一人だけ過去に教会に行っていた人がいるという話を聞かされていた程度であったが、どんなお兄さんでどこにお住まいの方かも私たちには知らされていなかった。私たちは地団駄踏んで悔しがった。でもこれも彼女がイエス様にあって私たちに遺して行ってくれた真実のような気がし、過去を振り返るのでなく、召されて行った彼女と同じように将来のこと、主イエス様と皆でお会いする日を待ち望むようにと彼女が語っているように思い、胸は新たな喜びで満たされ始めた。

 帰って来てその方が書かれた御本を読んだ。それは『世界が友達(定年からの海外留学)』(朝日新聞社2005年刊行)という本である。前回、私は彼女のことを天女のようだと書いたが、お兄さんもまたざっくばらんな、何ごとも包み隠しなく話されるお方だったが、この本を読んでなお一層お兄様の人柄に接し、彼女が私たちの間で示してくれたあの印象深い有り様の共通点をより深く知る思いだった。

 そして、この本にも短いが、しかし痛切な叫びが記されていることに心を打たれずにはおれなかった。こんな件(くだり)の文章だ。

 長男の昌介が精神病院に入院したのは、高校に入学して間もなくのこと。函館の病院だった。その後、妻が主治医に相談して、1986(昭和61)年12月、児童部のある札幌のS病院に転院した。
 札幌の病院に昌介を預けての帰り道、閉鎖病棟の鍵がガチャンと掛かったとき、病棟の中から「お母さん! お母さーん!」と叫ぶ昌介の声がした・・・と妻がたどたどしく話し始めた。暗く重い口調だった。話を聞きながら私は、言いようもなく悲しく情けなくて、地獄に落ちるとはこういう気分か、と思った。あのときの絶望感は今も忘れられない。(同書196頁「閉鎖病棟の恐怖」より引用)

 このような心の痛みを経験されているお方が、召された彼女のお兄さんであった。彼女はもちろんお兄さんのこの苦しみを知っていたことだろう。それだけでなく、彼女自身の苦しみ悩みも一部を私は彦根で車に乗せてもらった中でもお聞きしたが、更に内面的に様々な自己矛盾を感じ悩んでいたことを私たちは死後、葬儀の席上で他の方から知らされた。彼女はそれらを封印して、ただ全てをご存知であるイエス様を信じて召されて行ったのだと改めて思わざるを得ない。

 それにしても家族の救いは主の約束なのだと思いを新たにした。果たせるかな、スポルジョンの今週の日曜日の「朝ごとに」のことばは次の引用聖句であった。

"The church in thy house." Philemon2
あなたの家にある教会 ピレモン2

彼は問うている。
Is there a Church in this house? Are parents,children,friends,servants,all members of it? or are some still unconverted? Let us pause here and let the question go roundーAm I a member of the Church in this house?

(※このいとこのことは以前書いたことがある。http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2011/08/blog-post.html

2015年11月2日月曜日

召された友のこと(尊い一語)(上)


 様々な一語がある。有名なのは「クレオパトラの鼻、それがもう少し低かったら、地球の全表面は変っていただろう。」言わずと知れた、パスカルの警句だ。しかし、私たちは、というのは家内と私のことだが、ここ数週間、学生時代から親交のあった友達が家内宛に寄越した一枚の葉書に記されていた言葉に魅せられている。

 それは10月5日の消印のある、「主は生きておられる」という冊子を家内がお送りしたお礼を兼ね、近況を記された葉書の末尾にあった文句である。

 遅かったけど、私は生きたイエス様に会った。貴女のお陰です。

 その葉書を受け取ってしばらくして、寒くなり衣替えの準備をするため、家内が押し入れを整理するうちに、一冊の古ぼけたサイン帳を見つけた。それは1966年当時のものだから、かれこれ50年経ったものだ。当時女子学生の間では卒業記念にお互いに書き合う習慣があったのだろう。嫁入りし、あっちこっち住まいが変ったにもかかわらず、未だに残っていたのは、普段はすっかり忘れてはいるが、それなりに大切にしていた心の宝物だったにちがいない。10数人の乙女がそれぞれ書き連ねているサイン帳の冒頭に同じ方が家内に寄せた次の文句があった。

 何処までも、何時までも、貴女と共に。そして、貴女が其処にいる限り、私は貴女について行く。S41.2.22

 短いが、この言葉の重大な意味を量りかねて、私と家内は、彼女は皆んなのサイン帳に多分同じ文面を書き連ねたのだろうと結論づけた。

 ところが、先週の月曜日10月26日に、近江八幡の主にある兄弟から、その彼女が心筋梗塞で突然召されたことを知らされた。私たちは呆然とした。特に家内は「どうして」「来週の近江八幡喜びの集い(11月7日〜8日)で会うことを楽しみにしていたのに」「どうして」と叫んでいた。

 私はここ10数年、3ヵ月に一回のペースで近江八幡の礼拝に出席しているが、遠方故に、大抵は一人で出席し、家に帰ってから、集会の様子を家内にも話すのを常としていた。その折り、家内の学友である彼女が特にここ一年ほどの間にすっかり変ったことを報告していた。彼女がそれまでの長い信仰生活の果てに最近「私は長い間眠っていました。今目ざめました」と皆さんの前で言われたとお聞きしていたからである。

 確かに彼女はもともと天女とも言うべきパーソナリティーの持ち主であったが、主イエス様の救いを自己のものとしてからの彼女の一挙手一投足はさらに磨きがかかり、座談のおりなど、みんなの心が自由になり、心置きなく互いの胸襟を開くことの出来る一服の清涼剤の如き感がした。

 8月23日、私は近江八幡の礼拝に出席し、帰りは私をふくめ三人の者が車で安土城見学というので送っていただいた。その中に彼女もいた。その後、お一人は安土駅から茨木に帰られ、彼女と私は一緒に彦根まで帰って来た。彦根に降り着いてからは、アルプラザの駐車場に停めてあるという彼女の車で、彦根市内の別の友人をともに訪ねた。その時、少し体がフラフラしているようで車の運転は大丈夫なのかなと一瞬思うことがあったが、そんなに気にはとめていなかった。振り返って見ると後にも先にも彼女と一対一で行動を共にしたことはこれが最初で最後になってしまった。

 10月28日 、葬儀があった。私たちも急遽新幹線で米原まで直行し出席した。その前日27日、こちらでの知人の葬儀を終えたばかりであったが、取るものも取りあえずという形での出席になった。家内は弔辞を読み、茨木の方は終りの祈りをしてくださった。そこには大きな祝福が待っていた。浄土真宗の中で生まれ育まれたご主人は奥様の信仰を尊重され、遺族代表のご挨拶の中で何度も

 キリストでやって良かった

と言われた。真実は短い一語に尽きる。

すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。(マタイ9・2)

(写真は、火葬場に移動する際にマイクロバスから眺めた湖北の佇まい。雲に隠れているのは伊吹山。)

2015年10月24日土曜日

心ありき 干し柿並ぶ 軒先に 

奥に見えるのが雨天用のビニール覆い、苦心の作

  あちらこちらで柿の木がたわわに実を稔らせている。外国からやってきた人がその光景を見て、「どうして日本人は柿の実を採(盗)らないの、さすが公徳心の発達している国だ」と言ったとか言わないとかの話をどこかで聞いた気がする。柿の木に近づくと、「とるな」と紙札がぶらさげられていたりする。10月、郷里に帰り、柿の木を楽しみに帰ったところ、実はほんのわずかばかりだった。来年は紙札をぶらさげねばなるまいと今考えている。

 けれども、今そこかしこで見かける柿は無事であろう。それもそのはず、そのほとんどが渋柿であるからだ。ひょっとして、外人さんもその辺の事情を知らなかったのかも知れない。それはそうと家内はここ二三日の間にものの見事に吊るし柿を作った。何しろ家内の実家には柿の木が何本もあり、その上、種類も多種類にまたがっているという。その点、郷里を同じくするとは言え、私の実家の柿は、富有柿一本である。これでは家内と私とでは勝負にならない。序の口と横綱のちがいだ。もちろん家内の家が横綱である。そんな柿に造詣の深い家内は待ってましたとばかり、造作に取りかかった。写真はその労作の一端である。

 これから三四週間が勝負だと言っている。雨にさらさないのがその条件だからだ。その防止法もご近所の吊るし柿の様子を観察して、見よう見まねで考えてビニールをかぶせるためと言い、工夫をしている。工作人間の家内と思索人間の私ではこれまた勝負にならない。互いに環境、育ちが違う者同士が一つになる。結婚とは考えてみると摩訶不思議なものだ。最近家内がそんな私の無知を指摘する殺し文句は「それでも『物理志望』なんだから」と冷やかし半分に言う。とにかく縦のものを横にしたり、逆に横のものを縦にしたり、物を造作するには様々な臨機応変の工夫が必要なのだが、私がそれができないくせに「物理」とか言ってきたからだ。

 家内にしてみれば、物の理がつかめなくってどうして「物理志望」と言えるのかという素朴な疑問である。これには私もグーの音が出ない。早々に降参するばかりである。だから吊るし柿を物の見事に、購入から製品仕上げに至るまで一切やる家内に頭が上がらない。そして出来たは出来たで「あんたが食べて喜ぶのを見たい」と宣う。このような犠牲の精神はひとえに家内のうちにおられるイエス様のみわざだと思わざるを得ない。今朝のスポルジョンの『朝ごと』には次の聖句が掲げられていた。

"The trees of the Lord are full of sap." Psalm 104:16

 主の木々は樹液で満ち満ちている、と訳せた。しかもその本文には、その樹液こそキリスト者生活を支える、イエス様のいのちそのものであると記されていた。主なる神様が与えて下さった柿の木、そこに実る柿の実を人は様々な方法で味わい楽しむ。主が与えて下さるものを地上の人間は味わわせていただいているに過ぎない。主イエス様は工作人間、思索人間、その他もろもろの属性を備えられたまことの人であり、神である。主への感謝こそ、平和の道を知る唯一の秘訣である。家庭においても、国家においても・・・

 主は泉を谷に送り、山々の間を流れさせ、
 野のすべての獣に飲ませられます。
 野ろばも渇きをいやします。
 そのかたわらには空の鳥が住み、
 枝の間でさえずっています。
 主はその高殿から山々に水を注ぎ、
 地はあなたのみわざの実によって
 満ち足りています。

 主の栄光が、とこしえにありますように。
 主がそのみわざを喜ばれますように。
(詩篇104・10〜12、31)

2015年10月22日木曜日

聖書と小説


 行きつけの図書館からリクエスト本が入りましたと連絡があった。その図書館の方針だろうか、書名は明記していなかった。希望した本は小熊氏の今評判の本だったが、随分早く私の番が来たと思い、喜んで図書館に赴いた。ところが受け取った本は『終戦のマグノリア』と言う私の見覚えのない題名の小説だった。思わず、「この本は私のリクエストした本ではないです。あれー、岩波新書でなかったですか?」と問うた。係の方は怪訝そうに、「いえ、九月二十六日に予約されました本ですよ。あと一冊はまだ来ていませんが、新書ではないですよ」と言われた。

 私の頭はますます混乱した。リクエストしていない本が私の本だと言われている。係の方がうそを言われるはずがない。手許に取り、中身をパラパラめくってみたが、どう考えても私がリクエストした本とは思えなかったが、ここは先方の手前、借りるしかないと思い、持ち帰った。 最初からして、私には中々入り込むのがむつかしい本であった。しかし、作中『木蓮文書』なるものが紹介され、その文書が終戦工作の委細を記したもので、官憲とのせめぎ合いの末結局破れるあたりを読むに及んで、おぼろげながら、新聞の読書欄※で紹介があり、矢も盾もなく、ネットで予約したことを微かに思い出した。(※http://89865721.at.webry.info/201509/article_3.html

 予約した当時はまだ安保法案の国会での採決の余塵もさめやらぬ時であった。鬱屈した思いでこの本を予約したに違いない。しかしいつの間にか自分の脳裏から消え去っていた。だから、この推理小説もどきの、不思議な本との出会いをかかえながら、昨日一日がかりで、家の手伝いもせず、読み切った。

 小説は出だしからして、不思議な出来事が次々起こる正真正銘の推理小説であった。考えてみると、推理小説を読むのは高校一年の時に多岐川恭という作家のものを読んだ記憶があるだけでそれ以来であった。漱石の『明暗』はこれまで三、四回は読んでいる。何日か前、その『明暗』が読んでみたくなり、途中まで読み、新たな感慨を持って読み始めたばかりであった。漱石の作品には生活感覚がある、たとえば台所の後始末をする茶碗の音すら聞こえる気がするし、それは私の中の生活時間と完全にマッチしている。

 それにくらべて『終戦のマグノリア』の舞台は私にとってはやや高級な生活感覚のある世界が舞台であった。お屋敷が舞台であり、そこには二人ほどの家司が住み込み、家族の食事や庭の世話などをする裕福な家という設定であったからである。驚いたのは、その家にニューヨークから甥としてやってきた篠井恭一という男が、実は全く別人の柏原遙であったことが三百数頁にわたる作品の最終段階で明らかにされるというサスペンスであった。

 その上、この小説のプロットは、終戦工作を行なう人物の子孫がアメリカ大統領予備選挙の民主党の副大統領候補であるという大変な日米がらみの、話となって展開するし、個人的には屋敷の女主人悠花(ゆうか)が見かけは丈夫に見えるが「進行性筋ジストロフィー」の病を発症しており、秘かに二人の子ども(中学生と高校生)の成長のために尽くしている一部始終が終末ではじめて明らかにされる。

 小説という表現手段を用いて人間の内側に宿る様々な葛藤が何人もの登場人物を通して明らかにされていく。そのような中で次のセリフは作中の人物の言葉に仮託して伝えるひょっとしてこの作者の本音の一部のような気がした。それは女主人悠花がドイツにいる夫静雄と離婚を決意して長女の菜々花に説明し、会話を交わす場面だ。

 「あなた、ハリール・ジプラーンの『結婚について』という詩、知ってる?」
 ママは目を細めて、水平線を見つめながらいった。
 「知らない。結婚なんかするつもりないし」
 「レバノンの有名な詩人なの。結婚する若い二人に贈った詩でね、そのなかにこんな一節があるのよ。『愛しあっていなさい。しかし、愛が足枷にならないように』『おたがいの杯を満たしあいなさい。しかし、同じひとつの杯からは飲まないように』『お互いに心を与えあいなさい。しかし、自分を預けきってしまわないように』・・・こういうフレーズがいくつも続く詩なんだけれど、わかるでしょ? 最良のパートナー同士はもたれあったり、おたがいの欠けたところを埋めあったりはしないの」
 (『終戦のマグノリア』戸松淳矩著 東京創元社339頁より引用)

 長く、複雑なストリー性を持つ小説は読者もまたそれぞれの思いを仮託して読み継いでいくのでないか。私はこの小説に接する二日前の日曜日午後、天城山からの帰り道小田原で途中下車し、家内と一緒に昨年夫を亡くしたばかりの知人と出会った。その交わりの中で、その方は、夫が結婚するときも、結婚してからも死ぬまで、自分のこと(つまり妻の素性)は一切聞かなかったと言われた。そこには、それほど夫は私のことに無関心だったという半ば恨みがましい思いが表出されているかのようだった。しかし、私はそのことばを聞いて逆に痛く感動させられた。それは亡くなったご主人が無条件にその方を愛され、その愛はイエス様が私たちに示される愛の態度と全く同じだと思ったからである。そのことを率直に申しあげた。その方もハッとされたようであった。だからこの作品のこの場面のセリフに注目せざるを得なかった。

 聖書を日頃読み慣れている者にとって、何と小説はフィクションに満ちているものかと思う。聖書をご存知ない方にとって、聖書もまたフィクションだと思われるかも知れない。しかし、聖書はこれまで何千年も様々な人々に読み継がれた真実なノンフィクションの書である。聖書を通して、人間の描いた小説はその真価があぶり出されるように思えてならない。難しい世相の中でフィクションとは言え、作者が懸命に昭和と平成という時代の真実をノンフィクションばりに描こうとされたその熱意に敬意を表したいが、根底にある人間観のちがいは作者と私とでは上に述べたように大いに異なる。とすれば、時代状況の見方も異なるのでないか。そんなことも考えさせられた。

主は遠くから、私に現われた。
「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」(エレミヤ31・3)

(一昨日火曜日、二紀展に出品されている方の絵を見に、国立新美術館に行った。生憎その日は休館日であった。ところが、その界隈をうろついていたら、この建物に出会った。その室内の展示の案内のポスターであろうか、その中の包括ディレクターに別の知人の名前を見つけてびっくりした。偶然は一つとしてないことを思い、記念に撮影したのが上の写真である。)

2015年6月18日木曜日

われもまた百合のごとくあれかし


 今朝、百合が一斉に6つも花を咲かせた。あっと言うまであった。昨日は家庭集会があり、私たち夫婦は秘かに、来れられた皆さんのお目をも喜ばせることができればと期待していた。ところが全く蕾は閉じたままであった。ところが、である。今朝起きてみたら、室内から花が開いているのが見えた。しかし、花弁は室内からは見えない。それぞれ一様に空に向かってその花びらを開けているからだ。外はどんよりした曇り空なのに。

 昨日は余りにも沢山の方々が来られたので、きっと恥ずかしさを感じて、蕾を閉じていたのだろう。しかし、今朝はもう我慢し切れなくなって、曇り空の上にある太陽に向かって花を咲かせたのだ。胸一杯に空気を吸うごとく、全面的に空に向かっている。われらもまた太陽ならぬ主イエス様の前にかくあれかしと思っていたら、スポルジョン氏はまたしても今晩次のようなメッセージを書いていた(『朝ごとに、夕ごとに』松代幸太郎訳6月18日より引用)。

わが妹、わが花嫁よ。わたしはわが園にはいって・・・(雅歌5・1)

 信者の心はキリストの園である。信者の心を、キリストはとうとい血をもって買い、そこにはいられ、それが御自分のものだと主張される。

 園は分離を意味する。それは開放された共有地でも荒野でもなく「へい」か「いけがき」で囲った所である。私たちの願いは、教会とこの世を隔てる「へい」が、さらに広く、さらにがんじょうになることである。クリスチャンが「なあに、これぐらいなら何も悪くない」と言って、できるだけこの世に近づこうとするのは悲しいことである。どの程度までこの世と妥協していいのかと聞く魂の中では、恵みの働きは低調である。

 手を入れぬ荒れ果てた土地に比すれば、園ははるかに美しい。真のクリスチャンは、その生活において、最上の道徳家よりもすぐれているようにつとめなければならない。なぜなら、キリストの花園は、世界で最上の花を咲かすべきであるから。キリストの御いさおしに比すれば、最上の花であっても貧弱である。私たちは、しおれた育ちの悪い花を咲かせてキリストを追い出すようであってはならぬ。最も珍しい、りっぱな、すぐれたゆりとバラは、イエスがわが園と呼びたもう所で開かねばならない。

 The garden is a place of growth. (※)聖徒は発育不全であってはならず、つぼみや花で終ってはならぬ。ますます私たちの主なる救い主イエス・キリストの恵みと、主を知る知識に進まなければならない。イエスが農夫であられ、聖霊が天来の露となられるところでは、成長は急速でなければならない。

 園はまた隠退の所である。主は世に対しては御自身を顕現されない。しかし私たちが、自分の魂を主が御自身を顕現される場所として残しておくことを望まれる。おお、クリスチャンがさらに世を離れ、彼らの心をキリストのために、さらに厳重に閉ざしておくことができるように。私たちはしばしば、マルタのように多くの奉仕をしようとして心を乱し、マリヤのごとく、キリストのために心のゆとりを残しておかない。そして、彼の御足もとに座して教えを受けようとはしない。

 主よ、この日、あなたの園をうるおす恵みの雨を降らせたまえ。

(※訳者はこの英文の訳を省かれた。次の文があるので、くどいと思われたのであろうか。でも引用に当たっては簡単な英文であるので補った。)

2015年6月12日金曜日

続『色覚異常』—「翻弄」からの離別

赤レンガ造りの近代化産業遺産「倉松落大口逆除」を前にして

 前回、平本氏の小説『色覚異常』を紹介した。しかし、この小説は副題として「家族、翻弄の昭和史」と銘打っている。確かに、全編を通して描かれているのは、遺伝により、様々な場面で不利益を被らなければならない運命に対して、個人(長女冴子)と家族(杉村浩平・夏子夫妻、弟克彦)がいかに抗って行くかの姿である。それは余りにも痛々しく読む者の心を打たずにはおかない。

 それにしても作者が「翻弄の昭和史」と言わざるを得ない、この「翻弄」をもたらしたそもそもの元凶は何なのか。この小説の主題の一つでもある、日本人の間にある、愚かとも言うべき、謂われなき差別感情(それは昭和史で終り、もはや平成の御代には妥当しないということかも知れないが・・・)や昨今の安保法制をめぐる政治状況を思いながら、私は考えるともなく考えていた。そうした時に以下のスポルジョンの文章(6月7日 松代幸太郎訳)に出会った。

 主を愛する者よ、悪を憎め。(詩篇97・10 英訳)

 あなたは、悪がいかなる害をあなたに与えてきたかを考えるならば、悪を憎むべき十分な理由を持っている。ああ、なんという災いの世界を、罪があなたの心に持ち込んだことか。罪はあなたが救い主の美を見ることができないようにあなたを盲目にし、あがない主の招きを聞くことができないように、あなたをみみしいにする。

 罪はあなたの足を死の道に向けさせ、あなたの心の泉に毒を流し込む。それはあなたの心を腐敗させ、「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている」(エレミヤ17・9)と評せられるまでにした。

 ああ、神の恵みによる御干渉の前に、悪がほしいままにあなたを翻弄したならば、一体あなたはどうなっていたことか。あなたは他の人のように怒りの子であり、多くの人々と共に悪に走っていた。私たちのすべてはそうであった。しかし、パウロは私たちに告げている。「あなたがたは主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われきよめられ、義とされたのである」(1コリント6・11)と。

 私たちが過去を顧み、悪のなした惨害を思うならば、悪を憎む理由は十分にある。悪の与えた害毒はこのようにひどかった。ゆえにもし全能の愛が干渉し、私たちをあがない出されなければ、当然魂は滅んでいたであろう。それゆえ、おお主にある友よ、苦悩を欲しないならば「悪を憎め。」

 以上が私がハッとさせられた文章である。人々が我が身可愛さの余りに、様々な理由をつけて、「愛」「真実」よりも自己保身を優先させる(冴子の求婚を父親の意見を重視して断念することになる順一の論理にその一端を覚えた)。その結果、悪が勝ち誇る。もちろん、私たちは決してそのような人々を指弾できる立場にはない。立場が変われば私たちもそうなる恐れがあるからだ。そこに目を向けるとき、思わず「翻弄」ということばが出て来るのではなかろうか。現在、日本の政治、経済、社会の各分野で「悪」は猛威を振るっている。上は総理大臣から、下はいたいけな幼子に至るまでその例外なしとしない。

 しかし、主イエスの愛はその人が悪に「翻弄」されている様を、見るに忍びず、自らを十字架に釘づけられた犠牲の愛である。そこにこそ唯一の希望がある。スポルジョンは続いて次のように言っている。

 もしあなたが真実に救い主を愛し、彼を崇めんとするならば、「悪を憎め。」悪を愛するクリスチャンをいやす道は、主イエスと親しき交わりに入ることのほかにはない。彼と共に住め、そうすれば罪と親しくすることはできまい。

 主よ、御言葉によりわが歩みを整え
 わがこころを真実ならしめ
 罪をして支配せしめず
 わが良心をきよく保ちたまえ

 小説の最終章は「別離」で締めくられている。振り返って見ると、その最後は象徴的でさえある。

 季節は間もなく初夏に向かう。夏子が一年じゅうで、いちばん気にいっている数週間だ。この季節に合わせて、夏子は上京の準備をはじめていた。暫くぶりに会うことになる冴子に、そろそろ親として強引にでも手を差しのべる時機がきているのではないか。浩平ともじっくり話し合った。二、三日滞在して心ゆくまで語り合うことにしよう。
 夏子には成算があった。(『色覚異常』213頁)

 しかし、作者はあとがきで、「幾度か目の当たりにした不合理な社会の現実を、人権問題と重ね合わせて筆を進めるのは比較的容易ではあったが、それは本来作者の意図するところではない。挫けては這い上がり、たとえ這い上がれなくても生き続けざるを得ない。訪れた束の間の平穏を、むさぼるように確かめあうーそんな家族一人ひとりの起伏にみちた心の連鎖を、生きる側の視点から紡ぎだしてみたかったのである。さて、作品は母親の夏子が上京の準備をはじめるところで終っている。報われない娘の冴子に、何を語りかけどんな提案をしようとしているのか。次のステージが求められそうな予感がしている。」と文章を閉じている。

 この夏子の「成算」には当然「翻弄」に終止符を打つ何かが作者の胸中にはあるのだろう。次のステージとは何なのか著者ならぬ一読者としてお聞きしてみたい気がする。しかし、私は人間の悪は昭和、平成を越えて、人が生きている限り絶えないものと考える。私がこのような人倫を越えた神の愛に感嘆するのは、結局その神との絆こそ「冴子」に代表される悩める人間が持つべき確かな「絆」でないかと考えるからである。

2015年6月5日金曜日

『色覚異常』(平本勝章著 文芸社)


 私は、この本を今年の四月に知り、これまで三回読み返した。なぜこの本が私をそんなにも魅了するのかうまく説明はできない。しかし、この本の中に登場する一人一人は、大きく言えば、歴史に翻弄されるしかないのだが、その姿に注ぐ作者の愛情のようなものを感ずるからである。

 話は、瀬戸内海に面する山陽の一都市(加古川あたり?)の杉村浩平・夏子夫妻の長女冴子が小学校入学とともに受けた身体検査の結果明らかになった色弱について専門の眼科医に相談に出かけるところから始まる。

 全編は213頁あり、診断、遺伝、事件、治療、異動、新天地、検査、栄転、進路、別離と10の小項目の物語が手ぎわ良く続く。文章全体に誇張はなく、時代描写も正確で、副題の「家族、翻弄の昭和史」の名に恥じない。

 と言っても、私にとってこの本の内容は読めば読むほど、自らに現在進行形の形で悔恨を迫るものである。長女冴子が入学して進級するたびに待ち受けている身体検査によってどれほど心を傷つけられたかが原点になっているが、その原因は心ない教師のことばにあったからである。そのことは三番目の項目「事件」の中で詳細に述べられる。

 年中行事のように毎年繰り返される健康診断の時、一日がかりで体重、身長を始め様々な分野を教師が分担して行なう。私も教師の現役時代、毎年、視力検査に当たっていた。ワイワイガヤガヤと騒ぎがちな生徒を手際良く、時には冗談を交えながら効率よくやらねばならず、割合しんどい仕事であったことを思い出す。(さすがに色弱検査は素人である普通の教師には任せられていなかったが)だから一人一人が持っている体の微妙な点を考慮しなければならないのに、そのことが疎かであった覚えがあるからである。

 色弱検査はこの本によると意外なところにその出発点があるようだ。戦時、優秀な兵士を徴用するために考案されたのが「石原式色覚検査表」であり、それがそのまま学校教育の現場で用いられるようになったからだ。しかも残念ながらこの方式は身体上のハンデを差別として固定化する役割を担った。創案者は「異常者に不適当なのは軍将校をはじめ医師、薬剤師、教師、船舶・鉄道従事者および、その他すべて色をとりあつかう職業」と規定していた(『色覚異常』65頁)。

 このような圧倒的なハンデはもともと父親である浩平が色弱、母親である夏子が保因者であり、遺伝の結果、長女の冴子にまた3歳下の弟の克彦にそのまま受け継がれたものである。一方浩平は色弱が問題にならない鉄鋼メーカーの計数管理者として忠実な仕事を重ね、戦後復興から高度成長経済へと右肩上がりの時代に様々な問題を抱えながらも順調に会社組織の階段を一歩一歩登って行く。妻であり母親である夏子が内助の功を示しながらこの家族を覆う「色弱」にどのように立ち向かって行くのかが、詳細に語られる。異動、新天地、栄転などにそれらのことが二つながら巧みに描かれて行く。

 思いあまった夏子は、ある時治療施設を探すことに成功し、子どもたちを遠く大阪まで汽車に乗り継ぎ熱心に通わす。けれども、それは結局「石原式色覚検査表」をいかに読みとるかの訓練に過ぎず、色弱の子を持つ親の藁をもすがる気持ちを逆手に取って一儲けしようとしたものに過ぎないことが明らかになり、施設が解散するという悲劇が待っていた。しかし、不思議なことに長女冴子はそこで得た「石原式色覚検査表」を読み取る力を身につけ、以後、通知表からは色弱者と書かれず、彼女の進路目標である、「子どもの心を傷つけない教師」の道を目ざすべく一路邁進する。

 しかし、こうした逞しさを持つ冴子の前面に立ちはだかるかのように、色弱検査の方法はアノマロスコープというドイツで開発されたレンズを覗き込むという新方式に変っていた。あえなくも再び大学入学試験の願書を提出する段階で「色弱」と判定され、彼女の教師志望は門前払いされ、やむなく文学部に進路を変えざるを得なくなる。その後の彼女の充実した学生生活、また父親浩平の本社部長職への栄転と息づくばかりの家族の生活の激変ぶりが次々と描かれて行く。そして終幕「別離」が描かれる。この「別離」こそ、成長した冴子を襲う、幼い時に襲った「事件」につぐ二度目の「事件」となる。

 それは同じ大学の先輩との婚約を前提に、自らが打ち明けた「色弱」が、相手の男性の父親から反対され婚約が破綻となる出来事である。「遺伝」という、人にはどうすることもできない問題を抱え、悩みぬく家族の苦悩が再び身に迫ってくる。私はこの小説を通していかなる事態が起ころうとも、人間には深い絆が必要であると作者が何にもまして希求しているように思えてならなかった。そしてその絆に必要なのは人間同士が相手の立場を思いやる想像力をいかに養うしかないのではないかと思った。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4・15〜16)

 ここまで書いて、私はこの不完全な文章による紹介は没にしようと思ったが、念のため著者にそのまま読んでいただくことにした。著者は好意的に受け取って下さり、没にしない方が良いとおっしゃってくださった。一方、私はこの文章を書いた二日後にスポルジョンの「朝ごとに」の文章を読み、ハッとさせられた。それについては稿を新たにして書かせていただきたい。

2015年5月30日土曜日

「国家と宗教のあいだ」(吉本隆明講演集〈6〉)雑感

彦根城中堀に面する旧彦根高商講堂※

 以前、吉本隆明氏について書いたことがある。http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2012/03/blog-post_16.html その折りの講演記録が、今回出版された本の中に収録されているのを知った。早速、図書館に講読を申し込んで先頃手にすることができた。

 講演の題名は『「ナショナリズム」について』で、1965年11月30日がその講演日であった。あれから今日半世紀が経とうとしている。なし崩し的に進む、今日の暴力的とも言える政権側の安保法制に唯々諾々と従っているとしか見えない私ども日本国民の姿は一体どうしたことか。これが日本のアイデンティティー確立の唯一の正しい道なのだろうか、悲しくなってくる。

 50年前、学園に、「吉本氏現われる」のニュースは燎原の火のごとく広まって行った。弱小の地方の大学にどうして吉本隆明氏が来てくれるのだろうか、半信半疑であった私はそれでも興奮の面持ちでその講演会に臨んだ。再録された記録によると、まぎれもないその時の熱気が伝わってくる。冒頭と末尾のセリフだ。

「ただいま紹介のあった吉本です」

「現在でいえば、新憲法みたいな形で国家の幻想の共同性は法的に守られているのですが、これを越えてなにか知らないけれども世界の最高の段階に上昇せざるをえないという課題で共同性をむすぶのでなく、この上昇したところから再び大衆の原像にもどってくるところに課題を考えるのが僕らの立場です。(略)
 こういう考えは、戦争体験とか、さまざまの思考の径路が錯綜して、自分の中に形成されてきたのですが、しかし僕の考えているナショナリズムの基本的な問題は、そういうところにあるのであって、それが思想の問題であって、たんなる自然過程は思想の問題でないというのは、それは、啓蒙の問題で、カタライザーとしてどう媒介できるかにすぎないということで、本当の思想の問題はそんなところに存在しないということを申しあげれば私としては、皆さんにお伝えすることの具体的なことはすべて終わるわけです。
 これからは質疑とか討論の過程でもっとこまかいこと、もっと別のことについても話しあっていきたいと思います。せっかく来たんですからできるだけおつきあいして帰りたいと思います。これで・・・・。」

 このような吉本隆明氏の言明は、当時私たち左翼学生からは保守派論客としか見えていなかった江藤淳や福田恆存に対する新評価とあいまって新鮮な驚きとなって私は一挙にその思想の虜となっていった。たまたま今回の出身校の恩師の卒業生にあててのことばやAFS留学生の外から見た日本のありかたを古い新聞から捜し当てて読んだのだが、いみじくもこの講演に裏から光を当てている感じがした。

 恩師の言はある意味で知識人が大衆をリードすべき存在であるという視点に貫かれていた。しかし吉本氏はそのようなことはおぞましいと考えたのでないか。各人が生活の中で思想を持つのは極めて自然過程であって各人がそれぞれ自らどのように思想を構築するかその競いあいだと考えたのでないか。 AFS留学生の4名からなる座談会の見出しは「実践力に欠ける日本人 理論づくめでは駄目」とあった。きわめて具体的な提言である。もし吉本氏がこの高校新聞の記事を読むとすれば、どう言ったのだろうか。

 主イエス様に出会うまで、私は熱狂的な吉本シンパであった。その吉本氏の実像は後生の人々を通じて明らかになっていく。講演集の月報に三浦雅士氏が書き連ねていることもその一つかも知れない。

 結局、吉本氏も当然時代の子であって、新しい世代の代弁者であったのだ、と今にして思い知る。

しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。(ヘブル7・24〜26)

(※この講堂を沿って進み右側に位置した階段教室で半世紀前吉本氏は講演した。私の叔父はこの講堂に何度となく出入りしたことであろう。叔父も私もこの学園にお世話になったが、昨日叔父が亡くなったという知らせを聞いた。不覚にも叔父には余りこの学園のことを聞かず仕舞いであった。今となっては、生意気盛りで身の程知らずであった高校3年生の私に諄々と「衣食足りて礼節を知る」と経済学の効用を解き、諌めてくれた叔父がひとえに懐かしい。http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2015/04/blog-post_17.html

2015年5月28日木曜日

キリスト教とその疑問(私の宗教迷論) 

表門橋に向かう中堀の沿道の松並木、「いろは松」通学路の一つであった

 前回、出身校の64、65合併号の新聞に載っていた先生の卒業生に贈ることばを載せさせていただいた。ところがこの合併号は56年後の今日読んでも大変読み応えのある記事が満載されていて驚かされる。同誌にはさらに四人のAFS留学生の紙上座談会なるものが掲載されていて、その中味は結構な日本文化批判になっているからだ。そしてそれに並行するかのように、同じ紙面に書かれている標題の署名記事があった。6段にわたるかなりな分量の記事である。以下、その一部を書き写してみる。

 「宗教」この言葉は我々にとって一種独得な異様なひびきをもっている。そして宗教、信仰には無関心、必要性認めずと頭からこれを否定する人また少なからずといったところか。
 私はここでいわゆる「宗教私論」なるものを述べようとは毛頭思わない。否私にはその資格もない。しかし以前からこの宗教に対しては一応の関心というか、ある未知に対する興味というものを少なからず持っていたところ、ある偶然の機会から更に一歩その関心の度合というものが高まった故をもっていろいろな方面から再確認してみた。
 宣教師として八年前来日され現在滋賀大学講師をしておられるジョン・マッソン氏(スコットランド人)に会見する機会が与えられたことは幸いであった。彼はいう。

「日本人は大変良い国民だ。しかし彼らはいわゆる物質的に成功さえすればそれで満足している。快楽、金というもので満足しているのが大多数の日本国民だ。しかし彼らは迷っている。精神的安定、ゆとりがない。それは信仰していないからだ。不信仰であることは決して救われない。神に立ち返るまでは救われない。私はすべての日本国民がクリスチャンになることを望んでいる」さらに彼の話は続く。
 「キリスト教を信仰してみて『ああよかった。何故もっと早く信仰しなかったのだろう』と誰もがきっと言います」

 「どうすれば信仰することができるのか」

 「聖書だ、聖書さえ読めばよい。聖書は”心のともしび”だ。聖書は”鏡”だ。読めば自分自身がよくわかる。実に力強い書物だ」と。更に彼は「聖書を信じることだ。 Seeing is believing といわれている。(しかし)Believing is seeing 聖書においてはこれだ。まず頭から信じ切って読んでみることだ。そうすれば自分自身がもっとよくわかるだろう」

 マッソン先生との会話の一端を紹介してみた。私は延々四時間余りにわたる彼との会話で大いなる影響を受けたことは事実だ。大いに動かされた。少なくとも今までとは違った目でキリスト教を再確認したとでもいおうか。そして「自分はキリスト教を信仰する必要がある」と思わざるを得なくなる立場におし迫られた。これは単なる”未知へのあこがれ”という言葉ですましてしまいたくない気持ちだ。

 「信仰して何になる。キリスト教を信仰しなくったって精神的安定は得られるではないか。いわゆるモラル道徳というものがある」ある人(あえて無神論者とは言わない)はこう言うだろう。確かにその通りである。

 思うに一つの定義を下すならば宗教を信仰するということは”死”というものがあらゆる根源になっているということである。人間は必ず死ぬ運命にある。我々(宗教を信仰していないもの)が思うことはこの”死”という一つの事実によってすべてが終るということであろう。「死んだらすべておしまいだ」ということだ。それ故我々は大いに死を恐れる。信者と不信者との考えの相違、宗教必要の是非論はこの観点から生ずるのではなかろうか。

 すなわちキリスト教では「死後の世界」を肯定している。この死後の世界がある証拠として、イエス・キリストの復活がある。神の子であるイエスが人間のためにゲッセマネにて、血の汗を流し十字架の上で処刑された。彼がそのまま死んだままだとしたらキリスト教というものが起こり得なかったかも知れない。しかしキリストは死後三日目に復活、すなわち人間の体として生き返った。これは彼が死に打ち勝った事ではないか。ところがこのイエスの復活を信じない人があるだろう。私もそうだった。しかし、彼の死を、そして復活を現に見た人たちによって聖書が書かれたのであるから、この復活は信ずるに値するのではなかろうか。

 こう述べて、論者はさらにパスカル、ルソーを援用しながら最後にある方の著書からの引用だと言って次のように締めくくる。

 神を対象にした「信じる」と言う言葉に反感をおぼえる人があるらしいがしかし、我々の日常生活において最もひんぱんに用いられている言葉の一つは「信じる」である。
A. たとえば我々はアウグストス皇帝が実際に存在したことを信じている。すなわちこういう歴史的実在をこの目で見なくとも信ずるに足る証拠があるからこそ「確実に納得する」のである。これと同様に母の料理には毒が入っていないと信じる。そういうことは想像さえもしない。信じるということには疑いをはさまぬ確実さがある。

B. 信じるという行為の対象は一つの真理であるから従って理性の行為である。すなわち「理性的な納得」である。理性の納得は広義に見れば二つに分けられる。一つは自明性に基づく納得であり、例えば四プラス四が八になるというようなことである。(もう一つは)例えば私のポケットに千円入っていると私が言ってあなたがそうだと思うなら、あなたは私の言葉を信じたことになる。しかしこの場合には理性で納得するより先に話す相手の権威と真実さとを調べることになる。冗談や嘘をつき慣れている人の言葉ならすぐに信じないだろう。結局信じるためには二つの要素がいる。一つの真理を認めることとその真理を言う人の権威にもとづくこと、この二つである。

C. これを宗教的な信仰に応用すれば次のようになる。
(1)啓示された真理
(2)この真理をあやまることもなく人をだますこともない神の権威に基づいて信じる。

 要するに宗教の信仰は神の権威にもとづく確実な納得である。(滝本)

 私は、今回帰省中に反古にしても同然の母校の新聞から、このような記事があるのを知った。署名を手がかりに私はこの方が一年先輩の当時二年生の方であり、その後、新聞記者になられ、最後は大学の外国語学部の先生になられたことを知った。残念ながらこの方は12年前に召されておりお会いすることがもはや叶わなくなった。高校時代、この記事については読んだ記憶が全然ない。それほど私は福音とは縁遠かった。その私が56年後、この滝本さんの記事に深い感銘を覚えさせら、拝読させていただいている。

あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲がおおう前に。(伝道者12・1〜2)

2015年5月26日火曜日

ヨカ、ヨカ、零点たっちゃ飯は喰わるる

彦根東高校新聞(64、65合併号 71号

   それは私の中学三年の時のことでした。定期試験で数学の先生からクラス一同、みんなひどい点数をもらって愕然と色を失い、生徒控え所である雨天体操場で、そのことについて皆でワイワイ話し合っていました。丁度日華事変の始まった頃で、雨天体操場の真中からむこう側半分には、近日中に中国の野戦に出かける兵士が沢山泊っていました。彼らは出動するまでのひとときを半ば持て余し気味に、小銃の手入れをしたり、外套を背のうに結びつけてみたり、身の廻りの品を整とんしたりしていましたが、私達はその横で兵士たちには全然無関係なこと、即ち何故あの先生はあんなひどい点をくれたのだろう。あの先生が怒ると数学だけで遠慮なく落第させるそうだなどと心配そうに話し合っていたのでした。

    その時突然、その兵士の中の一人のおっさんが私たち中学生に向かって大きい声でこうさけびました。「ヨカ、ヨカ、零点たっちゃ飯は喰わるる!」その兵士は召集される前におそらく百姓でもしていたのでしょう。陽に焼けた真っ黒な顔をほころばせながら私達にこういう意味のことを叫んだのです。いいじゃないか。学科が零点でも人間は御飯が喰えるんだ。その声が余り大きかったので今までざわついていた広い雨天体操場が一瞬急に静かになりましたが、それはすぐに兵士たちの大きな爆笑にかわりました。私達中学生もその爆笑につりこまれて思わず一緒に笑い出しました。みんな心の中で何かほっとしたような気になって。

    それから十年たちました。敗戦後のその頃、私はソ連の捕虜として将校待遇の特権も取り上げられ、連日激しい肉体労働におわれていました。きびしいノルマにおわれて穴を掘り、石を割り、小麦粉の袋をかつがされました。みるみる身体は衰弱しやがて栄養失調になり、手足はやせ細りましたが顔はうっとうしい位大きくはれました。弱り切った一人の捕虜に毎日の肉体労働は余りにも重荷でした。今日一日仕事ができるだろうか。明日は本当に倒れてしまうのではないだろうか。私はとうとう人生のギリギリの瀬戸際に追い込まれたのでした。

    人間は肉体が衰弱すると頭脳の働きも鈍って意識がもうろうとなってくるものです。こうなりますと一人の捕虜が持っている学歴とか教養とか知性というものは如何にも無力なものでした。一時あれほど流れた汗も今は全く出なくなりました。私は鼻汁をたらしハアハアと荒い呼吸をしながらノロノロと毎日身体を動かしていました。あらゆる虚飾を削りおとされて今、私は一人の単純な肉体労働をする捕虜になりました。そしてこの弱り切った捕虜がそういう混濁した意識の中ではっきり聴いたのはあの「ヨカ、ヨカ、零点たっちゃ飯は喰わるる」という叫びでした。俺はやっとあの叫び声の意味が分かったような気がする。しかし、俺はもう死ぬかも知れん、私はそう思いました。

    それからもう十年たって、卒業していくあなたがたにこの文章を書いています。あなた方の大部分は将来頭脳を使う職業につくだろうと思います。これは大切な職業です。しかしそうであるが故にこれだけの事をあなたがたに言いたいのです。

一、こんな悲惨な体験はしなくても宜しいが、厳密な意味での労働を味わわないで人生の全部は分からないのじゃないか。

二、あなた方は何らかの意味で社会の指導者になってもらう人たちだと思います。そうでなくても中堅分子になってもらう人たちです。その場合「ヨカ、ヨカ、零点たっちゃ飯は喰わるる」と叫ぶ事のできるいわゆる大衆を自分は将来指導する立場にたつかも知れない或いはそういう大衆とつきあってゆくのだという謙虚な気持ちを忘れないでほしいということです。

(帰省中、高校時代の新聞を引き出して眺めていた。その中で、一年の三学期の1959年の3月7日に発行された64、65合併号に掲載されていた21人の教師団が卒業生に贈る言葉の中にあったある先生の文章にまず着目させられた。上記の文章がそれである。恐らくご自身の戦争体験とそれらを突き抜けるかのような一兵士の何気ない言葉に闊達さを発見し、労働する者の強みを通して、何が人間にとって大切かを考えさせようとなさったのでないだろうか。肝心の最後の提言は大変なエリート意識があふれていて辟易させられるが、高校進学率が50%台、大学進学率が10%台という背景があると思う。私はこの先生に「一般社会」という科目を教わった。内容がつかめず苦労した科目でつねに60点そこそこの成績だったように記憶する。後年、私も教師になり「現代社会」という科目を通して高校生諸君とともに社会のあり方を考えるなんて当時は想像もしなかった。

「時宜にかなって語られることばは、銀の彫り物にはめられた金のりんごのようだ。」箴言25・11 

 次に、もう一つ気づかされたことがあった。それは21人の教師団が贈られることばの最初の先生のそれは逆に最も短く「人はパンだけに生きるにあらず」マタイ伝とあったからである。久しく私はこのことばをどのようにして知ったのかがわからなかったのだが、この新聞の先生の言葉を通して知るようになったのでないかと思った。けれども、このことばは確かに聖書のことばにはちがいないが、その半面しかあらわしていない。語られる先生にはその信仰がなかったからであろう。だからその同じ新聞紙面に上のような「キリスト教」と題する生徒の投稿が載せてあるのは大変な編集の妙だと一人感心した。そして、その生徒が展開するのは上記の先生の人生観をも凌駕するかのような論評であるからである。明日はそれを紹介しよう。)

2015年5月10日日曜日

長島の先住者山田景久氏を偲ぶ(下)

著者宮川氏は左端の方(長島愛生園 昭和10.9.10)

 彼の晩年は不遇であって、彼の妻、しかは明治19年4月2日51歳で彼に先だち、彼は明治31年9月27日、寂しくこの世に別れを告げた。時に年84歳。

 彼は死んで日出山際に葬られ、形ばかりの石塔が積まれたが、年古りてその墳墓は壊滅し、笹の生えるに任せてあった。ここに光田園長、坂本裳掛村長など相謀り、長島の唯一のパイオニアの霊を弔わんと檄をとばし、四十数円を得て、一基の石塔を新調し、8月20日、虫明興福寺和尚を聘し(※)、一座の法会を行なった。(中略)

 偉大なる長島の開拓者よ、おんみあるによって、今日安らかな天地を与えられた数千の病者は幸いなる哉。われらまたこの清き地を、さらに清きものとすべく守りつづけるであろう。唯一の長島の先住民よ。乞う、われらを冥助せよ。(昭和7年・長島開拓)

     祈り

 人生において、祈りを土台にせずして何が出来たであろうか。釈迦の菩提樹下の涅槃は、祈りというべきではないかもしれないが、一切衆生に向かっての下座の姿は、人生のもっとも崇高な祈りの境地といってよいと思う。

 ゴルゴタ山上のイエスの祈りは、この世を根本的に改造した最高、最大の祈りである。

 みずから毒を飲み、従容と死んだソクラテスをつらぬくものは、ただ一つの祈りにすぎない。

 明治維新の大業も、また志士たちの祈りのあらわれである。地上に祈りなくして、何の事業が成就し、何の建設があろうか。三友寺墓地の祈りは岡山孤児院を生み、それを大ならしめた。

 アウガスチンを生んだものは母の祈りであった。中江藤樹も母の祈りによって学んだ。幼少のとき、四国へ渡って学んだ藤樹が、母のため「あかぎれ」の妙薬を見つけ、郷里へ持参したところ、母は藤樹を追い帰し、そのうしろ姿を拝んだという。

 今日現われて、明日消える事業はさておき、永遠に残る事業たらしめるためには、祈りが最大の要素である。

 光田先生の祈りの前に、病友たちはおちついた生活の中から、ようやく自己を見出しはじめた。先生の祈りを学び、その祈りに合わせて、ひたすら祈りたいとおもう。

(※著者宮川量〈みやかわはかる〉氏は高山にある真宗大谷派のお寺に生を得、少年時代に得度し、学校の休みの間は父の代役を果たし檀家廻りをされたと言う。その後、病を得、かつまた寺院生活に疑問を持ち、煩悶を積み重ねる内に聖書に出合い、救われた。その彼はどんな思いを持ち、この法会に連なっておられたのだろうか。
  故郷を出て千葉の高等園芸学校に学ばれ、かねて年少より持たれていた救癩の思いが主イエス・キリストと結びつけられたのは次の本間俊平のことばであった。『其許は癩は悲惨のどん底と言われるが、悲惨とは神を知らざることで、神を知ればすべてのものが感激に変るのである』以後、園芸の術を生かし岡山長島に、沖縄にとその生涯を救癩と癩者の魂の救いのために仕えられ、さらに医師となり直接的に癩患者と関わろうとされたが病と死のためにそれは実現しなかった。
 しかし、その生き様は奥様を通して子どもさんに受け継がれた。「人は信念によって生きるのではない、(イエス・キリストに対する)信仰によって生きるんだよ」とは量氏亡き後千代子夫人が子どもさんたちに語り残されたことばと聞く。 
 しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。ヘブル7・24〜25

2015年5月9日土曜日

長島の先住者山田景久氏を偲ぶ(上)


 今の日出患者住宅には、昔「狸の毛皮を纏った、六尺近い、鰡(ぼら)のような魚をも頭から喰う、赤鞘の太刀を持った侍」が住んでいた。彼は長島唯一の先住民である。われわれはこの偉大なるパイオイニヤに敬意を表し、いささか彼の風貌を録してみたい。

 長島は、古来牧場として有名であったが、幕末の頃伊木家は長島牧場の番士として山田氏を遣わし、長島日出に住まわせた。(現在の炊事場付近)彼は資性実直剛胆、行跡常人を卓越し、奇人として知られていた。任は牧場の番であったが、禄高が少ないため畑作をもって副業としていた。

 長島には古来狐狸が沢山棲んでいたので、山田氏はこれを捕えて剥ぎ、皮は衣服とし、肉は食料としていた。また、海に飛び込んで魚を手掴みにし、「たこ」のごときは生で頭から喰ってしまうような、すこぶる「グロテスク」な士であった。

 ある時、例によって真っ裸で海中にはいっていた際、参勤交代の途、島原の中川修理太夫の船が水を得んものと近づいて来た。船中の侍は海中にいる男をただの漁師と思い、何気なくぞんざいな口調をもって水を求めた。くだんの男は一言の答えもなく、急ぎ家に帰り、再び立ち帰った姿を見ると、礼服着用、威儀堂堂たる士、「われこそ伊木家の臣、山田治武左衛門景久と申す」と名乗りをあげたので、先刻の家臣は急に態度を改め、いんぎんに水を乞うた。彼は水に加えるに、平素乾し貯えた乾魚を添えて呈し帰らしめた。中川修理太夫これを聞き、大いにその好意に感じ、さらに物を与えて感謝の意を表したと伝えられている。

 彼は、備前長船横山祐之に重量二貫目の太刀を鍛えしめ、銘して「伊木家臣山田・・・」と刻せしめ、好んでこれを帯びた。長州征伐の際、兵糧運搬の任に当たり、広島に出陣した際、往来に榊原の同勢洋式の銃を組んで休息していた。

 治武左衛門例の太刀を帯び、陣羽織の下からは狐の皮がはみだしたまま通りかかり、小癪なとばかり例の太刀をもって当たれば、ことごとく銃は倒れたが、人々は彼の異様な風体に気をのまれ、誰一人として一言も言いえなかった。大西郷も傍らにあって微笑して見ていたと伝えられている。

 明治7年、版籍奉還の際、他人はその下付金で利殖を計る時に、彼は超然下付金ことごとく、投じて陣羽織、太鼓、ほら貝を求め、家族の者どもに具足せしめ、ブーブードンドンと長島の中を行軍したと。もって彼の真面目を察することができる。彼は非常に義理固く、毎年旧恩を忘れず、手作りの籠に魚類、つつじなど折添え、岡山の伊木家に献じるのを常としたという。

(『飛騨に生まれて』宮川量著193頁より引用。この著者はわずか45歳で召された。現在は国立療養所長島愛生園と称されるが、その施設を設けるべく1930年の開設期に光田園長とともに鍬を投じられた方である。総頁302頁にわたる著者の遺稿集である。『国籍を天に置いて(父の手紙)』が取り持つ縁で先頃この素晴らしい本を手にした。一部紹介する。この短文を引用するにつけ、私は同時に二つの聖書箇所を思わざるを得なかった。一つはバプテスマのヨハネの紹介文。今一つはヨハネの福音書4章に書かれてある、スカルの女に水を所望されたイエス様の記事である。読者顧みて同個所を読まれれば幸いである。ここでは以下の個所のみことばを書きとめる。そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。マタイ3・2〜4

2015年4月27日月曜日

束の間の四半世紀(3)

勢いよく花を咲かせる大手鞠(階段はモラ美術館への入口)

 1969年3月12日。交通事故にあった。1994年6月22日。継母が召された。ちょうどこの間は25年間である。その四半世紀とは果たして「束の間」だったのだろうか。たまたま今回、先週の日立行きといい、昨日のKさんとの出会いといい、二週連続して1991年の出来事を端無くも思い出す形になり、歳月の移ろいは振り返る時には短いと結論せざるを得なくなった。

 しかし、交通事故にあった時や結婚した時、当方は26、7歳であったせいもあろうが、その先に待ち構えていたのは、そのことを考えると何とも言いようのない鉛の錘りのような圧迫感を感ぜざるを得ない長い長い25年間であった思いがする。結婚生活、家族生活をめぐり、おもに私に主因がある、私たち夫婦と継母との関係をめぐる愛憎の問題であった。

 交通事故にあったのは、私たちの結婚に双方の両親が反対するという難問に直面しての結果であった。両親の反対は、まず妻の実家から出てきたものだ。妻の実家は昔の庄屋で代々宗門改めを実行していた家柄である。一家からキリスト者を出すわけにはいかないと考えていた。ところがその長女がヤソにかぶれた。だから私がヤソをやめるように説得してほしい、もしそうでなく、私までもがヤソに染まるなら、まことにもって申し訳ないから、破談にしてほしいという要請であった。

 一方、私の家はそのような旧家ではない。むしろ外観だけではあるが、近代的な住宅構造を備えた開明的な家であった。ところが、継母はやはり猛烈に反対した。この家の先祖を守るために嫁いで来た。それなのに継子がいくら好きだからといってキリスト者を嫁に迎えるのはけしからんという継母にとっては、自らの本質的な問題をカモフラージュするのにもってこいの武器となった。こうして両家の両親は不思議な形で同盟を結んだ感があった。

 ところが、結婚を望む私に対して肝心の妻の方が弱気になっており、自分は身を引くとまで言い出した。納まらぬのは、私の内にある「信教の自由」であった。錦の御旗を振りかざして何とかこの難局を乗り越えんとばかりに、一人精神は高揚していた。その翌日交通事故にあった。上から来る鞭であった。鞭は有効であった。この鞭を通し、ごう慢極まりない私は初めて主イエス様の前に砕かれ、悔い改めの祈りをする(創世記15・5)。

 しかし愛の鞭はその後も必要であった。交通事故で二三ヵ月病臥した私を心配して、継母は取るものも取りあえず北関東の地にやってきた。しかし、私はその場で即座に追い返した。継母でなく、婚約者を寄越せと言い張って(旧約聖書2サムエル13章)。今考えると何と横暴であったことだろうかと思う。継母は私に完全に裏切られたと思った。

 継母の反対はますます色濃くなって行った。結婚式の当日の朝までその反対は続いた。父までも烈火の如く怒らせる事態を引き起こしたからである。実は前日結婚式に使うエンゲージリングを京都駅で降りる際に、列車内の網棚に置き忘れて、気がついたのは、京都市内の教会でリハーサルを行なっている最中であった。慌てて電話したところ幸い大阪駅にあると言う。結局大阪まで取りに出かける羽目になり、家に戻ったのは結婚式当日の午前零時をまわったころであった。それやこれやで身支度もできず、無精髭は延ばしたまま出席した。

 喜ばしい結婚式であるはずなのに、教会でのキリスト教結婚式に賛成できないでいる両家の両親は何とも言えない苦虫を潰しているという奇妙な写真がその事実を今に伝える。あとなぜかオールバック姿で無精髭をはやしていたため、恐らくその部分だけ写真屋が修正したと思われるあとがありありと残っている二度と見ることのできぬ新郎の姿とはち切れんばかりの若さに身を包んでいる新婦の二人の出で立ちの写真である。もちろん二人にとってはそんなことはどうでもいいことであった。人生の中でこれほど手放しで嬉しいときはなかった。

 しかし、その日から苦難が始まった。継母は家内を家に寄せつけず、ある時は私までもが家を鍵締めされ、どこからも入れないという憂き目に立ち至った。どう考えても、家を捨てざるを得なかった。

 その継母が25年後には主イエス様を救い主として心に受け入れ、家内に励まされながら、天に召されて行った。まことに主のなさることは時空を越えて素晴らしい。誰にも解決不能な愛憎の関係にあった継母と私たち夫婦の間にまことの平和を下さったからである。

 それにしても、25年の月日の入口にあたる結婚と出口にあたる継母の召天の年月は、20歳の時に私が自ら蒔いた罪の結果の刈り取りをしなければならない年月ともなった。相変わらずわがままである私に、主は必要な鞭を今も与え続けていて下さる。

 このようにして大学の先輩夫妻が場所を提供して下さった交わりの場は、同行して下さったK夫妻の愛に満ちた起居動作をとおしても、三家族のそれぞれが心を開き、自由に交わり、新しい気づきを与える初めての出会いや、また50年ぶりに経験する新しい進化せる交わりとなった。

 意欲満ち 進化経営 を唱える 先輩に主 の導きあれ

思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。(ガラテヤ6・7〜10)

2015年4月26日日曜日

束の間の四半世紀(2)

ロゴハウス ここは鶯 貴人の 常宿

 先週に引き続き、再び今日は常磐線の客となった。先週と違うのは、行き先が牛久であり、その上、妻が同行したことだ。四半世紀のうちで初めてのことだと言ってもいい。大学の先輩が主催される霞ヶ浦に位置する進化経営学院、およびモラ美術館を午後に一緒に訪問する計画を持っていたからである。

 ひとり旅と違って二人となって私は途端に妻まかせになった。そのため、出発駅からしてドジをしてやらかした。9時18分柏駅発に乗り損ねそうになったことだ。ホームに滑り込む列車が乗りこむべき列車とは気づかず、待合室で悠然と構えていたからだ。次に、乗ったは乗ったで、今度は降車駅牛久に気づかず、そのまま乗り過ごしそうになった。これはこれでまた慌てて飛び降りざるを得なかった。普段なら相方に責任をなすりつけてしまう私だが、今日はおとなしい。それもそのはず、今日4月26日は45回目の結婚記念日だった。私たちの結婚そのものを象徴する朝の椿事であった。あの日のことはまた稿を改めて書くことにしよう。

 日曜日であるので、まずは先週と同じように牛久での礼拝を持った。事前に今日の出席は男性は私一人だけらしいと言う情報を得ていた。一人だと大変なのは大変だが、もともとやせ我慢を張る私はそのことはそれほど気にしてはいなかった。ところが、会場に着いたら、何とK夫妻が小金井からお見えになっていた。頼もしい援軍の出現だった。結局、先週と同じく男性2名、女性5名の総勢7名の礼拝となった。もっと言うなら、地元の方3名、外人部隊の4名というこじんまりした構成であった。

 礼拝は男性二人がそれぞれ示された聖書の個所を朗読し、お祈りする。賛美曲はこれまた二人が自由にリクエストする。その曲を女性も交えて全員で賛美する。その中で主イエス様による十字架の贖いを記念して、パン裂きをする。この間4、50分である。終って5分ほど休憩して福音集会を持つ。司会はKさんにお頼みする。Kさんは最近タイ・サムイ島でのご子息の結婚式の様子をお話し下さった。英語、中国語、日本語の飛び交う中ですべて主イエス様の完全な導きをいただいたという喜びの証だった。

 お聞きするうちに、私の聖書メッセージは今日はやめにしてそのまま話し続けていただきたい思いに駆られそうになった。しかし、踏みとどまることができた。折角、そのために牛久まで来ているし、信仰は聖書のみことばに裏打ちされなければ好い加減になり、動揺極まりないものになることを日頃自分で経験しているからだ。でもKさんのお話は私たちの心を十分和ませて、新しく結婚なさったご子息夫妻のために祈ろうという思いを出席者全員に与えたにちがいない。

 福音集会のメッセージの題は『神の知恵か、人の知恵か』で、1コリント1・25を引用聖句とさせていただいた。

神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

  神様は賢く、強いお方だが、人間の愚かさ、弱さに照準を合わせられた。そんな神様の愛が人には愚かにも弱さにも見える、それが十字架のイエス様の愛である。そんなことを語らせていただいているうちに、遠い昔、Kさんと軽井沢で二泊三日、同じ部屋で寝泊まりしたことを端無くも思い出していた。

 Kさんとお会いしたのは24年前のその時が初めてであったように記憶する。Kさんは隣の蒲団の中で苦吟されていた。それは何とかイエス様を信じたいが、それが自らの知恵ではできない、その焦りだったように思う。その何年か前、私自身がそうであったから、人一倍そのことがわかった。そして人の知恵で見つけられぬ神様をイエス様をとおして得られる御霊の導きによって今は二人とも知るようになった幸いを語り、話を閉じた。

 あれから24年目、こうして二人で少ない集まりも何のものかわ、互いにキリストのからだである「教会」を覚えて、少年のごとく妻とともに喜んで連なっていることも何と不思議なことだろう。(また、報告の場では、少ない地元の方のお一人がこの前大洗で洗礼を受けられたことを話された。これまた何たる感謝なことであろうか。)時空、人を超えた大変な主の御導きであると言わざるを得ない。考えてみると、K夫妻とはそんなに会うわけではない。特にご主人と席を同じくして話を交わすのは近年においてはそれほどなかったように記憶する。
 
 その上、なぜか二三日前、今回ご訪問する先輩との関係で明らかになった彦根の様子をさらに詳しく知りたいため、今はアメリカにいるがお母さんが彦根にいるK夫妻のお婿さんにメールしていた。そのお婿さんからのお返事の中で、義弟の結婚式に出席した様子が書かれていた。まさか日ならずして、こうしてご両親からじかにその話をお聞きできるとは、これまた何という主のご配慮であろうか。

 しかし話はそれで終わりではなかった。
 
  その後、その会場をあとにし、いよいよ私たち夫婦は楽しみにしていた霞ヶ浦行きを決行しようとしていた。交通手段は電車を利用し、先輩が高浜駅に迎えに来てくださることになっていた。ためしに地元の方であるからもしやご存知ないかと思い、すでにいただいていたご本等を参考に説明していた。その話をKさんご夫妻も傍で聞いておられた。ところが、ご主人がその本を手にするやいなや大変な興味・関心を示された。そして一緒に行ってもいい、いや行きましょう、と話は忽ちのうちに一挙にまとまったのだ。こうしてKさんご夫妻の車に乗せていただいてのご訪問となった。そこには想像を超えた交わりが待っていた。

2015年4月24日金曜日

束の間の四半世紀(1)


眼下に太平洋を望見できるお庭

 日曜日、日立の方々と一緒に主を礼拝した。男性二人、女性五名の総勢七名であった。鈍行列車で出かけることにしているので、いつも家を出るのは早い。ところが、今回は初めてとも言っていい経験をした。それは途中の乗り換え駅である柏駅がホーム上で各車両の入口に人々がたむろしていて、おかげで車内はずっと立ちっ放しであったことによる。いったい何があるのだろうと注意して眺めていたら、皆さんリュックを背負うなり、トレーニングシャツを着るなりし、一様に日焼けをし、健康そうな人ばかりだった。その内に、皆さんがてんでに「かすみがうらマラソン」のチラシを持っていることに気づく。土浦駅で人々は一斉に降りられ、やっと席に座れた。

 こんなことは初めてであった。日立行きは判で捺したようにその日程は決まっている。ただ前回大学の同窓会に出席するために当番を後退してもらったため、今回この恒例の行事とたまたまぶつかったのかもしれない。人々の喧噪からも解放され、いつものようにゆったり窓外にひろがる景色を楽しむ。いくつ駅があるかもしれないが、日立までは結構遠いのだ。ただこの日は、生憎曇り空のために筑波山も見えない。でも春の緑を見るのは心地よい。

 常陸多賀駅に着き、タクシーで向かう。いつもの方々が集っておられた。お話する中で、こうして何年通ってきているのかと、問わず語りに語ってしまっていた。朝の初体験から私の内でその思いがしきりと繰り返されていたためである。ところが、予期しない答えが帰って来た。「もう24年になりますよ」一瞬我が耳を疑った。「そうなんだ、24年なのだ」という思いがした。24年と言う年月はあっと言う間である。この間、何をしたわけでもない。こうして愚直にみことばを通してお互いが主を喜び合えていることが恵みなのだと感謝した。

 この家の主(あるじ)の方がおっしゃった。「集会に、仕事を持ちながら、日曜日になると遠くからみことばを携えて来て下さる。そのことに感謝していた。最近その自分も遠くへみことばを携えて出かけるようになった。決してたくさんの人が集まるわけではない。人数は少ないと言ってもいい。けれども、そこでお交わりをすると主にある恵みを聞かされる。多くの人の率直な証をお聞きするたびに恵まれます。主イエス様はすごいとしか言いようがありません」と。 工学部の応用化学か何かを専攻され、縁あってこの地で職を得、居を定められた方である。

 その始まりは私も昨日のごとく覚えている。集会があることを伝え聞き、一人の卒業生が近くに住んでいるので、誘った。聖書を持ってやって来た。嬉しかった。その彼女も様々な人生経験をする中で、先の震災を機に故郷の実家に帰って行ってしまった。以来、彼女の家を訪ねることもままならなくなった。時折、こちらから電話をかけたり、彼女がくれたりするが、最近ではその交流も途絶えている。ほぼその四半世紀前にベック兄が行かれて持たれた家庭集会の日時は平成3年の3月だと、やはりその場に出席している方があとで教えて下さった。

 でも話はそれで終わりではなかった。実は先週一人の方が静岡県の藤枝で召された。その方は新幹線を使ってこの地まで、みことばを求めて来られていたのだという。そしてその方が悶々とした「律法」のしがらみのある宗教生活から、真の自由を得られた。「私たちもまたそうだったんです。だから彼女は私たちにとって戦友だったんです」と、懐かしそうにこれまたご婦人たちが語られていた。四半世紀遅々たる歩みではあるが、日立まで通われた方の藤枝のお宅でも後に家庭集会・礼拝が持たれるように導かれた。こうして変らず主を賛美し、私たちの罪の身代わりに十字架にかかられ、それだけでなく三日後によみがえられた主イエス様を信ずることにより、新しいいのちを得ている幸いを感謝する。もちろん、私たちの至らなさのために、まだこの場に集い得ていない多くのまわりにいる家族友人の救いを祈るや切である。

私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ7・24)

信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。(ガラテヤ3・23〜24)

2015年4月22日水曜日

契約のしるし

  虹は「退去してゆく夜雲の上にかがやき出る太陽の多彩な光」である。(J.P.ランゲ)。天の架橋とでも言ったように、虹は上界と下界とを結び、七色にかがやきつつ(生命の色であるエメラルドの緑色をそのなかに含む。黙示録4・3)創造主と被造物との間の契約を証している(三は神の数であり、四は世界の数である。七は両方の合計であり、結合である)。

 「まだ少し前までは閃光を発しながら放電していた暗い地面の上に、虹はかがやき出でて、以って神の愛が暗い烈しい怒りに勝つことを明らかにする。黒雲に対する太陽の作用から生じた虹は、天的なものが地的なものを浸透する意志をもっていることを明らかにする。天と地との間に張られた虹は、神と人との間の平和を告げる。視野全体を蔽いつつ、虹は恩恵の契約がすべてを包括することを立証する。」

 こうして虹は、総じて救世と贖罪との型となった。そしてそのような型として虹は、救世の指揮者とし完成者としての主の王座に現われる(エゼキエル書1・28、黙示録4・3)そしてわれわれがこの地において雲のなかに虹をいつも円しか見ないようにーこれは同時に贖罪のわれわれの現在の経験が完全であることの型でもあるが(コリント前書13・9〜12、ヨハネ第一書3・2)ーいつかはわれわれは完全な円が「王座をとり巻き」、そして完全にかがやきながら、契約の神の忠信をほめたたえるのを、見るであろう。こうして虹は、われわれの永遠の救いの自然象徴となるであろう。

 このように、すべて虹と関連するものは、類型的である。

 出現の時ーそれは太陽の再出現と同時に現われる(エゼキエル書1・28
 現われ方ー闇が光によって変容されるようにかがやく(創世記9・14
 七色ー七は契約の数である(例えばレビ記16・14、その他
 緑色の優勢ー緑色は生命の色である(黙示録4・3
 弓形(あるいは橋形)ー創造主と被造物との結びつきを示す
                      (創世記9・12〜17
 視野のひろさー恩恵の契約の総合的・包括的性格を示す
              (創世記9・12、15。「すべての肉」
 永遠の天の円ー神の完全さの一類型となる
               (エゼキエル書1・28、黙示録4・3

(『世界の救いの黎明』エーリヒ・ザウアー著 聖書図書刊行会114頁より引用。この本の翻訳は小林儀八郎氏と親交のあった長谷川周治氏の令息長谷川真氏によるものである。一週間前(4月15日)の家庭集会後、皆さんがほぼお帰りになった直後にわかに雨が激しく降った、その一瞬ののち写真の虹が現われた。大急ぎで二階の窓から撮影。)

わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現われる。わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。(創世記9・13〜16)

2015年4月17日金曜日

二年浪人の日々


わが故郷高宮宿(中山道界隈)

 振り返って見ると高校三年の時から結婚するまでがちょうど10年という年数である。その高三の夏である。母はすでに病魔に冒されていて立ち上がれなかった。弟を枕辺に招き、理学部進学を主張してやまない頑固な私を座らせ、二人で説得しにかかった。叔父は自らが卒業した彦根の大学への進学を勧めた。叔父は私に対して「衣食足りて礼節を知る」と言うではないか。理学部にこだわる必要はない、と言う考えであった。それに対して私は「人はパンだけで生くるにあらず。」と突っ張ねた。その様子はオープンリールのテープレコーダーで録音しており、継母が召されるまで大事に保管していたが、その時何かのはずみで処分してしまった。そのテープには母の肉声が病臥していた座敷の畳を這いずりまわるが如き低い音声で録音されていたはずである。

 小学校の時付属中学への進学を画策したほどの教育ママであった母であったが、現実を深く認識していた。私の進学希望に対して、何とか自分が生きている間に大学進学を果たせてやりたいと思い、よりランクの低い可能性のある大学への進学を助言した。その助言も無視した。案の定受験は失敗した。母はその年の5月に亡くなった。父との二人の生活が始まった。食事つくりは私の分担となった。ところが父が結核になった。私は病気が移っては困るとばかり、薄情にもその時初めて京都での予備校暮らしを考えた。夏8月京都での下宿生活が始まった。三人のいとこはそれぞれ私の目ざす大学の大学生で、同じ京都で闊達な学生生活を楽しんでいた。

 しかし、ここでも私のわがままは現われ、結局予備校へは一月ほど行っただけで、いつの間にか行かなくなり大徳寺の下宿で「勉強」していた。来春には念願の大学に入れると、さしたる努力もせず、夢だけが膨らんでいた。高校の担任は一年浪人したら入れると言っていた。そのことばを盾に取っていた感がある。のちに自ら教師になってみてわかったことだが、教師は生徒を励ますためにそういうことを平気で言うのだ。ところが自惚れの私はそのことがわからなかった。案の定、再び受験に失敗した。さすがにこの時は頭が真っ白になった。どうしていいかわからなくなり、伯父の前で大泣きに泣いた。

 伯父はその私の悲しみを見るに見かねて、彦根の大学の夜間への受験がまだできる。そこを受けてみろと進言して下さった。すぐそうした。そしてその彦根の大学への通学が始まった。昼間の学生と顔を合わせることもあり、かつての高校の同級生と会うとみじめになった。昼間はバイトをすることにした。中学校の親友がバイト先を紹介してくれた。金物屋の帳簿付けであった。仕事は家の人の足手惑いになることもあったが、お金をいただく喜びを味わった。この頃は創価学会の折伏活動が激しくその餌食になりそうだったが、合理性を重んずる私の性質上そうはならなかった。

 一方、彦根の大学は夜間とは言え、昼間の大学の教授たちがそのまま講義をする。何ら遜色はなかった。新聞部に入り、その当時上程された大学管理法案を批判する論説を書いたりした。その論説が目にとまったのか、「民青」への加入を何度か勧められたが、私は共産党の杓子定規的な行き方が合点できず、彼らの主張は共鳴できるが断った。その内、昼間の仕事、またこのまま経済学部への進学をするとなると、一生こんな無味乾燥な生活を続けるのかと前途を考えると悲観的になった。

 10月になった。私は意を決して再び理学部受験を考えるようになった。そして今回は理学部以外にも農学部や工業教員養成所も視野に入れた。そして残るは二期の大学である彦根の大学を父の希望もあって受験することにした。今回は背水の陣を敷き、それまでの勉強と打って変わって受験勉強に勤しんだ。それと相前後して、私は父のお嫁さん探しに懸命であった。その話は何度か暗礁に乗り上げながら、4月の神社での神前結婚式と具体化して行ったのである。

 振り返れば、高校三年の卒業の年に母が亡くなり、それゆえに受けた様々な試練であったが、その大半は私自身のわがまま勝手な性格が色濃く支配しているように思う。しかし本当に私自身の真価が問われたのはこの後始まる継母との生活、彦根での大学生活であったことを知る。この4年間ほど私にとって最も大切な時期はなかった。主なる神様は、この自己中心で傲慢な者を愛の腕でじっとご自分のところに帰って来ることを待って下さっていたのだ。

 現に私が叔父に言った言葉は象徴的でさえある。私が言った言葉は聖書のことばであったが、私はそのことは知らなかった。しかも肝心の後半の言葉は脱落していた。全文は次の言葉である。

人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる(マタイ4・4)

 前半のことばはともかく、後半のことばは無神論者の私には納得できないことばであったであろう。しかし、10年と言う年月を通して私はこのイエス様のことばを全面的に受け入れる者と変えられた。

人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。(箴言14・12)

あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。(箴言3・6)

2015年4月16日木曜日

二年浪人後の大学生活(下)


大手門橋から遠望する彦根の大学 2010.2.24

 このような大学生活であったが、部活動を選ぶ時、一時テニス部に仮入部したが、駄目だった。その時、小中高と一年下のK君が「グリークラブに一緒に入りませんか」と勧めてくれ、二人して入部した。彼はテナーで私はセカンド・テナーに割り振られた。練習は確かこの大学の講堂を利用したように記憶する。

 部活内では随分濃密な人間関係を与えられたように思う。そして二学年に進学した時に、家庭教師をしていた中学生の姉も短大に進学して音楽部に所属した。そのために私たちのグリークラブと短大音楽部の交流があり、多くの団員の中に混じって彼女とも一緒にステージに立つこともあったように覚えている。その指揮者が(上)でご紹介したK氏であった。そのレパートリーには多くの宗教音楽があった。

 ところで、彼女は音楽だけでなく、絵も好きで大胆に「赤い城」の絵を展覧会に出したりしていたので、もともと絵の好きな私は徐々に彼女に興味を持ち始めていた。ところが後に結婚してから初めて知ったことだが、当時彼女は私の同級生の某君に夢中だったのだ。しかしその愛はなぜか実らなかった。彼女はすべてに絶望し、短大を卒業し、私が大学4年生の時には、家を出て県内の遠くの養護施設の寮母として住み込みで働き始めた。その職場で今は天に召されている平野幸子さんと出会った。この方は短大の先輩であったが、先に失恋を経験し、今また寮母として恵まれない環境に置かれた子どもに愛をもって接しようとしても、到底できそうにない自分に悩んでいた彼女に、救い主イエス様を伝えられた。彼女は初めて主イエス様が十字架上に自分の罪の身代わりに死なれたことを知り、主イエス様に対する信仰を持ち、前向きに人生を生きるように変えられた。

 それは私が大学を卒業し、北関東足利の新天地で生きようとしていた時と重なった。このころには私は継母との関係が自動的に断ち切られ、なぜか自らの結婚を考えようと一生懸命であった。その時、頭にあったのが故郷にいる彼女であった。こうして私たちの親しい交流、それも手紙を通してのおびただしい文通が三年に及ぶようになった。私はその大半を大学4年で身につけた思想で自らを武装し、彼女の信仰を批判していたが、ついに自ら隠し持っていた罪の告白を認めずにはいられなかった。

 ところが彼女は私の罪を攻めるどころか、逆に「私の罪も、あなたと同様に自己中心の汚れに満ちた罪でありました。どうぞ、イエス様にあなたの罪の重荷を下ろして、気を楽にして下さい。イエス様は、とっくのうちに、あなたの罪を赦して下さっていますよ。」とそれこそ福音そのものの手紙を私に寄越してくれた。今でもその手紙を読むと自然と涙が出て来る。それは主イエス様の愛が十字架刑の贖いを通して溢れ出てくる思いがするからである。

 二年浪人後の合格大学は彦根の大学だけでなく、京都の大学にも受かっていた。本命の大学ではなかったが、そちらに進学すれば理学部への転部の道は辛うじて残っていた。本命の大学であったら、喜び勇んで、京都に行ったであろう。しかし結果はそうでなかった。だから、思案した挙げ句、継母との生活も考えて結局地元の大学に決めた。その結果は思いもしない自らの情欲のとりこになった生活の始まりであり、一方では先輩がかつての高校の後輩であると言う当時の私にとり、これ以上屈辱的な生活はないと言う4年間を味わわされた。

 だから私にとってこれまで大学生活は思い出したくない自分の人生の通過点であり、同窓会も進んで出る気になれなかったのである。しかし、今回家人に勧められて端無くも同窓会出席を決断し、5分間のスピーチを考えるうちに徐々に考えは変ってきた。

 もし、私が人様より二年遅れて彦根の大学へ入らなかったら、義弟の家庭教師をすることもなく、私と今の妻との出会いは当然なく、まして、妻が主イエス様を知るようになったもともとの原因である私の同級生である某氏との出会いもなかったわけである。K氏は謙虚に自らの大学生活を振り返り『大学留年』の事実を公表し、その上で「彦根は私の生命の灯をともしてくれたところです」と結んでおられた。

 私はこのK氏を指揮者とするグリークラブをこれまた友人のT君と語らい、わずか一年数ヶ月足らずで退部した。それは「グリーには思想性がない 」という生意気にも、一方的な独断によるものであった。しかし、今回その同窓会で『山に祈る』(清水脩作詞作曲)の話が出てグリークラブのメンバーが出て歌うことになった。私は脱落者であるにもかかわらずノコノコと壇上に出て口パクでありながら仲間に加えてもらった。一挙に空白であった大学生活が私によみがえってきたからである。

 私はその後、主イエス様を信ずる仲間たちと集まるごとに主を賛美する歌を歌っている。これは大学卒業以来変らない。考えて見ればこれもまたK氏を始めとしてグリークラブの仲間が音痴である私に下さった大学生活の大きな賜物の一つであると言えるのでないか。それにくらべて自らの傲慢さはいつまで経っても治らない。今度こそ、K氏の言い分を真似してであるが、私も言いたい。

 彦根は私の「いのち」の灯をともしてくれたところです。

 もし、この大学の存在がなければ、私はイエス・キリストに出会わずして、永遠のいのちを知ることもなかったであろう、と思うからである。

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(1ヨハネ1・9)

イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカをめとり、彼女は彼の妻となった。彼は彼女を愛した。イサクは、母のなきあと、慰めを得た。(創世記24・67)

2015年4月15日水曜日

二年浪人後の大学生活(中)

彦根城表門橋にさしかかる内堀(※)

 大学入学は昭和38年(1963年)になった。遅れてやってきた春は微笑みをもたらしはしなかった。入学早々、私は多くの同級生たちが張り切って大学生活を謳歌し始めているのを横目に見ながら、なぜか心は晴れなかった。

 それは、ほぼ同じ時期に、私の家庭に父の後妻として嫁いできた継母との間でいかにその人間関係を構築するかに日々時間を奪われ、内なる情念の思いを抑えることが出来なかったからである。大学にも行かず、トンネルの中に入ったような日々が続いた。自らの内側にある「罪と汚れ」の虜になった。自らそうであってはならないと知りつつ、自分の力ではいかんとも出来かねず罪の赴くまま流されて行った。

 このような時、私は伯父の紹介により一人の中学生の家庭教師を依頼された。罪と咎の汚濁の臭いさえする私の家庭にその純真な中学生が通って来ることは一服の清涼剤のような思いさえした。しかも、後年、彼の姉を通して福音に触れ、その姉と結婚までするとはその当時はもちろん考えもしなかった。

 一方与えられた「経済学」という学問は、高校時代、私が価値を認めようとしなかった学問のうちの一つであり、私は、本来目ざそうとしていた「物理学」への執着が断ち切れず何とか文系の大学だが、理学部への転入できないかと考える始末であった。そのような中で唯一と言ってもいい授業に出会った。それは永岡薫さんの「社会思想史」という授業であった。ダンテの神曲が紹介され、資本主義発生史にまつわるウェーバーの論考、大塚久雄氏の論考などが次々と紹介された。その方は長身ではあったが決して健康そうには思えなかった。しかし、その内面からほとばしりでる清さのようなものは、罪・咎の真っ只中にいる私を圧倒し、同時に経済学に対する関心を初めて抱かしめた。

 ところが、ある時、大学の図書館でフォイエルバッハの『キリスト教の本質』という本を手にした。それは永岡さんが言わんとしていた福音思想をひっくり返す論考であった。人間性の謳歌そのものを巧みに描いた作品であった。次に、経済学の成立はそもそもいかにして可能かを考えていたときに手にしたマルクスの『経済学・哲学草稿』の中に私は次の言葉を見つけた。

「経済学は欲望の体系である。」

 私にとって、このことばはフォイエルバッハの本と同様に自らの脳天を打ち砕くのに十分であった。そうだ。欲望だ。「欲望」は否定の対象でなく、「肯定」の対象である。何をおまえはくよくよ悩んでいるのだ、おまえはむしろこの欲望の体系を妨げている社会悪そのものに目を向けて戦うのがおまえの生き方ではないのかという声が聞こえてきた。私はこうして一方では様々なキリスト教思想・文学に引きつけられながらも、他方では経済学という学問の存在根拠を確証するためにウエーバーとマルクスの思想を二つながら考えるという迂遠な道を歩み始めた。

 その後、生協運動の中で学生運動の前面に踊り出さねばならない羽目に陥った時は、敵前逃亡よろしく病気になり、体(てい)よくその現場から離れ、様々な思想家(森有正、吉本隆明)の本に沈潜し、自分の内側にある罪を再び内向せしめるように今度は思想武装さえするようになっていった。

私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。セラ(詩篇32・3〜4)

(※このお堀は風が吹いてもさほど波が立たないように工夫されている。それは水中を潜り城に近づこうとする敵をいち早く発見するために必要な造作であった。藤堂高虎の設計で、江戸城にも同じ特徴があると言う。高校時代、文化講演会で中村直勝氏が「このお堀がなぜ波立たないのかわかるか、天下の東高生が毎日お堀の前を通っていながら、わからぬのか」と講壇から挑戦的に言われて知ったことである。直勝さんは同じ滋賀県下の膳所高校の出身の著名な日本史学者であった。)

2015年4月14日火曜日

二年浪人後の大学生活(上)

彦根城下京橋にさしかかるお堀(下片原町から見やる)

 先頃大学の同窓会に出席させていただいて端無くも自分の今日あるのはこの大学生活あってのことだと思わされた。長らく、自らの大学生活を振り返ろうとはせず、逆に高校生活を事あるごとに思い出していた。高校時代は当時ジェローム・K・ジェロームの「ボートの三人男」を英語の時間に読まされたが、まさしくそのままの生き方のように思っていた自分がいる。可能性が満ちていた青春の一時期であった高校時代を自分なりに美化していたからだろう。

 それにくらべると、その高校時代の夢が破れた結果の大学生活であった。高校時代の一方的な明るさに満ちていた思い出に比べ、灰色のイメージが強く、いつもあの梅雨時分の雨がしとしと降り、しかし木々の緑はますます色濃くして行く様子は、自分の脳裏をかすめるが、思い出したくもない大学生活というとらえ方をしていた。

 だから、同窓会の日程を知らされても、その日が別の用事が既に入っていて、絶対出席は無理だと頭から決めてかかっていた。ところがである。幹事から直接電話がかかってきて卒業以来会っていない、是非参加してほしいとの要請があった。いつもはこんな時、決して賛成しない家人が、なぜか、折角の機会だからこの際出席した方が良いと勧める。とうとう出席の返事を出した。折り返し、ついては5分間のスピーチをお願いしますという丁寧な依頼を添えた案内のはがきが届いた。

 当初5分間で大学卒業後の来し方をまとめあげるのは至難の業だと思った。ところが準備している間に、私の大学に対する負のイメージに反して、現在あるのはこの大学生活があっての今だと、徐々に納得させられるように変えられていった。第一、私は簿記知識、商業知識はゼロであったが、この大学の前身が高等商業学校であったため、そのような無能力な私に大学は「商業科教員」の免許を難なく与えてくれた。わずか紙切れ一枚の免許状は効力を発揮し、本来なら社会生活ができず、路頭に迷ったであろう私が商業高校の教員になったからである。

 このことだけでもこの大学に感謝しても、し過ぎることはない。のちに社会科の教員に鞍替えするため、他大学の通信教育で社会科教員免許状を取るのに大変苦労させられた。それもこの大学の人文地理を生意気にも落としたからである。非はこちら側にあり、大学側にはないのだから、負のイメージそのものが大変な自らの思い違いであることをこの際思い知らされた。でもこのことも何となく格好よく言ったが、実はこの非をはっきり自覚させられたのは同窓会でK氏に会い、その上、家に帰ってからK氏の書いた文章を読んでからである。

 自らがいかに傲慢であるかを改めて知る。

 そのK氏の文章を拝借させてもらう。『我が青春の彦根』(http://libdspace.biwako.shiga-u.ac.jp/dspace/bitstream/10441/13433/1/%E3%82%8F%E3%81%8C%E9%9D%92%E6%98%A5%E3%81%AE%E5%BD%A6%E6%A0%B9%20.pdf)という文集に掲載されている、『大学留年』と題して記載されている文章の以下の冒頭部分である。

 大学に入学したのが昭和37年、卒業が昭和42年、在学5年、1年留年しました。留年の大きな理由は人文地理で落ちたのですが、私が生意気な生徒だったことが遠因でした。二年から三年への進級が遅れました。その結果生意気だった私の鼻が少しは折れて、留年したおかげで、その分いろいろな経過を積むことができました。

 さりげなく書かれている文章だが、この筆者もまた人文地理を落としたのである。しかも留年という高い犠牲を払わされた。私が欲しい社会科教員免許状をそのために与えられなかったのとは事情が違う。このK氏は払わされた代価にもかかわらず次のように結ぶ。

 こうして振り返ると彦根で5年の大学生活をしたことが私の人生を豊かにしてくれました。彦根は私の生命の灯を灯してくれたところです。

 私もこのK氏にならって『二年浪人後の大学生活』とでも題して、少し書かせていただこうかしら・・・

イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」(ヨハネ13・7)

2015年4月10日金曜日

私の責任

    家出少年のことをこの前書いたが、果たして、自分の取った態度はあれで良かったのか悔恨の思いが出て来た。少年とは言え、そこには主なる神様から迷い出た人の姿があったからである。「なぜ家出したの」と聞くと、その少年はお母さんが仕事が忙しくって、自分の面倒を見てくれない寂しさを言葉であらわしていたからだ。

    少年が寂しさを抱えて、「家出」したこと、たとえ、その地が数メートルの離れた土地であったとしても、もはや雨露をしのげない荒野とも言っていい土地に出立していたからだ。その日は晴れ間も見えて、その場所は陽だまりの格好の場所であったとは言え・・・。

    もし、その場にイエス様がおられたら、私のように少年の歩むままに、放置し、そのまま、その場を立ち去られたであろうかと思ったからである。スカルの井戸でイエス様は女に水を所望された。その働きかけは、女の孤独を癒すきっかけとなった。少年の心に宿る罪の思いはこれから成長するにつけて加速度的に増していくのではなかろうか。たとえ、家庭に不満があろうとも、家を出るのでなく、そこで孤独を慰めてくださる主イエス様を体験できたのなら、少年は違った思いを抱いて家に帰れたのでないかと思ったからである。

    もし、私の内に一片でも少年を愛する思いがあったら、自らの過去を振り返り、懐かしむのでなく、少年の懐に飛び込んで抱きかかえることができたであろう。

しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。(ルカ15・17〜20)

2015年4月8日水曜日

家出少年

    今日は肌寒い一日になりそうだった。関東では積りはしないが雪が降っていると今朝電話の向こうから家人が告げてきた。関西とは言え、この地方は気流が鈴鹿山系、また南北に走る福井にかけて山脈が走るため一部日本海の影響を受ける独特の地勢下にある。芭蕉が「をりをりに伊吹を見てや冬籠」と詠んだ地だ。ところが今日は関東に比べ、日本海側は晴れると天気予報が告げているとも家人は言っていた。

    確かに、午後窓の外を見やると、雲の合間に青空が広がっているのが見えた。喜び勇んで戸外に出た。一人の少年が隣地の石段の上に何やら置いて描き込んでいる姿が目に入ってきた。突然ガラガラっと戸を開けたので、さぞかしびっくりさせたであろうと思いきや、落ち着いたもので、黙礼さえするかの仕草を見せた。こちらはこの地の主とは言え、多年他郷にいる身だ。少年とは言え、見慣れぬ人が不意に留守宅と思われる家から出てきたのを不審に思っても当然の当方の出方であった。

    当てもなく散歩に出かけようと思っていたので、少年の方に歩み寄った。絵を描いているように見えた少年は実は国語の教科書をノートに写しているのだった。「何してるの?」と聞くと少年は「家出してきた」と答えた。少年のたたずんでいる場所は、私の少年時代にはとても入れない場所だった。隣家は家の親戚ではあるが、大変な大地主で、蔵が幾つも軒並みを並べていて、中学の頃二階の窓からたくさんある蔵を眺めるのが精一杯であった。

    その場所は今や時代が変わり、その大地主の一族はとっくの昔に土地を市に寄贈し、東京に移り住んでしまった。今はその跡地にたくさんの住宅が立ち並ぶように変わったが、昔小作人の方々が米を運んだであろう倉庫口の石段は今もかすかに残っている。もはやその少年が知る由もない石段であろう。そこで飛び出てきたことばが先ほどの「家出」という言葉であった。

    「どこから家出して来たの?」と聞くと、「あっち」と石段の隣地とは反対の方角を指す。そちらの方は私の記憶だと「Oさん」しかない。「Oさん?」と訊くと、そうだと言う。途端に少年が可愛くなってきた。わが少年時代を思い出す。おかずが気に入らないと言うと、母はその気に入らないおかずを毎食ごとに出す。互いの根競べであった。さぞかし、その程度の争いであろう。親の言うことはよく聞くんだよと言うべきだったが、何も言わず立ち去った。

    ややあって散歩の帰り道、その「Oさん」の家の前を通った。二人のご婦人が立ち話をしておられた。見るともなく見ていると、一人の方は当然その家の方に違いない。どこか少年と体型や顔立ちが似ていた。家に帰って来たら先ほどの少年はもうその場にはいなかった。家出を止めて家に帰ったのでないか。少年は小学校3年生だと言っていた。名前は何と言うのと聞くと、教えてくれた。「いくみ」と言うらしい。「いく」は体育の「育」だと言ったが、「み」はわからないと言っていた。明日から学校だとも言っていた。

    少年が健やかに成長できますように。

それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。(ルカ2・51〜52)