2019年11月30日土曜日

すれちがいの人生(中)

2019.11.25 A.M.6:33
愚か者は自分の怒りをすぐ現わす。利口な者ははずかしめを受けても黙っている。(箴言12:16)

 家内は家内で、私がこの日、帰ってくるらしいことは承知していた。しかし、何時ごろ帰ってくるかは知らなかった。多分いつも夜帰ってくるから、その頃だと高を括っていた。まして鍵を持っていないとは想像もしなかった。

 当日は一人で重篤のYさん(95歳)を、自転車でU病院へと20数分かけて出かけ、見舞っていた。苦しそうで、前回お訪ねした時とはちがい、随分弱っておられた。みことばを読んでお祈りしたが、アーメンと言われたのかどうか。ただ最後に「ありがとう」と言われた、ということだった。

 そのあと、美容院へ出掛けた。帰ってみて、私が帰っていること、しかも玄関先に荷物が置いてあることから、私が締め出しを喰らった事を初めて知った。あわてて私の携帯に電話したが通じなかった。私のiPhoneはすでに完全な電池切れの状態であった。

 今にして思うと、家内は典型的なアナログ人間で、私はデジタル人間。擦れ違いは早朝からすでに始まっていたのだ。LINEは家族が重宝しているとは言え、家内は全く関心がない。私の方で見るようにやかましく言って、やっと重い腰をやっこらさっと上げて参加するのが常日頃の所作である。こちらが午前7時半ごろデジタルで発信していると言っても全く通じていなかったのだ。

 問題は、そのあとだ。事態を知った私は数分前の家内への愛、感謝に満ち溢れてかけずりまわったこともそっちのけに、怒り心頭に喫して、あることないこと次々に繰り出しては、心ならずも亭主に締め出しを食わせた形になった家内を責めにかかった。とうとう最後は「ごめんなさい」の一言もないと言い張り、自らの「要求」を勝ち取った。「夫婦喧嘩は犬も食わない」とよく言うが、数分前までは野良犬同然だった私はとんでもない自己主張の権化と化した。

 考えてみると、数十年前、まだ結婚する3、4年前、京都駅前で朝、お互いに会う約束をしていたが、会ったのは午後4時ごろであった。私は約束の時間に彼女が現れなかったので、もう二人の関係はこれで終わりだと思った。でもあきらめきれなかったのも事実だ。止むを得ず、私は岡崎の美術館に行った。その時何をみたか覚えていない。上の空だったのだろう。ところが4時ごろ、当時まだ存在した京都駅構内観光デパートの階段を降りてくる彼女、憔悴仕切った彼女が、その時帰りを急いで階段を上がろうとしていた私の視界に入って来た。うれしかった。

 聞いてみると、彼女もまた岡崎美術館に行っていたということだった。ところでなぜ時間通り来なかったの?と聞いてみると、途中友人に会ってつい話し込んで遅れてしまった、と言った。こちらは関東からわざわざそのために来ているというのに・・・。人生には擦れ違いはつきものである。

 しかし、主なる神様がおられる。その方はすべての時、場所を支配し運行されている。そう考えれば、擦れ違いは本来あり得ないことでないか。そう思うのが私のうちに巣食っているエゴ、罪であることを改めて知る。冒頭のみことばの前半部は私自身の浅ましい姿そのもの、後半部はイエス様ご自身の姿である。

 明日は父の最後と自らの擦れ違いを書いてみよう。ちょうど中曽根康弘氏が亡くなったことが伝わって来た。政界の「青年将校」と言われた中曽根氏は総理大臣にまでなり、101歳まで生きられた。そう言えば一昨日前橋の知人の葬儀に出席したが、弔電のトップは御子息の中曽根弘文氏だった。

2019年11月29日金曜日

すれちがいの人生(上)

近江・能登川近郊 2019.11.24

愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。(箴言12:13)

 朝7時半ごろ、家族の愛用しているLINEに、米原駅を出発した旨、書き込んだ。午後4時過ぎ、大宮駅から荷物があるので家人に迎えに来てもらうために携帯に電話した。残念ながら通じなかった。この時点で私のiPhoneは電池切れ寸前であった。

 結局連絡できないまま、駅から自宅まで歩いて帰った。もともと出発の時点で歩いて出かけているのだから何ら不都合なことはない。ところが、玄関先は暗く、鍵がかかっていた。常時外出時には合鍵を持って出ることにしている。ところがその日に限って三日前の早朝出発時に急いでいたためもあり、不覚にも合鍵不持参であった。

 家の前でうろうろ歩くか、腰を据えて待つことにするか。二つに一つだ。確かにそのどちらも試みてみた。しかし、五分待てども帰って来ない。夕食のために買い物に出掛けたのだ。それなら、荷物はひとまず玄関先に置いて、そちらの方へと歩を進めた。もちろん歩を進めるという気楽なものではない。すでに長時間列車の旅で疲れ切っている身にとってはかなり応える歩行業となった。

 ところが、いつも今頃行くであろうと思う二軒のお店に行っても見つからなかった。この時点で、多分擦れ違いになったのだと悟り公衆電話を使って家に電話をしたが、空しく発信音が繰り返されるだけであった。

 そうこうしているうちに3、40分経ったであろうか。このごろのこととて日没も早く、その上、ぽつりぽつり雨が落ちて来た。さてどうしたものかと戻って来た玄関先で再び思案した。その内、天啓のごとく閃いた思いが浮かび上がった。そうだ、家内は私の荷物が重いのを気にしていたから、駅へ迎えついでにそちらのお店二軒に買い物に行き、駅前で待つつもりだという考えだった。

 それは申し訳ないと、再び雨中を顧みず、雨傘を持ってもう一度駅まで戻った。暗闇の中、健気に主人の帰りを待っている家内を想像しながら、道を急いだ。ところが残念ながらそこにもいなかった。これは完全な擦れ違いに違いない。そうは思っても携帯が使えないのは何といっても歯痒かった。再び駅前の公衆電話から家に電話したが、相変わらず通じなかった。

 様々な努力をしたが結局二時間弱、外をほっつき歩きまわっている野良犬同然の思いだった。六時過ぎ家に戻ったら、明かりがついており、もちろん鍵は開いていた。やっと家に入れた。あとがいけなかった。家内が家にいなかったのは私が想像していたいずれでもなかった。

  振り返ってみれば今日11月29日は父が1981年に召された日だ。あの日こそとんでもない擦れ違いだった。

2019年11月9日土曜日

天国の人名簿

長野県御代田町(2019.11.2)

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。・・・(マタイ5:3〜12)

 山上の垂訓は、わたしたちの主イエス・キリストの、記録された最も長い説教である。(略)山上の垂訓の最初の言葉に、キリストの人名録がある。この名簿に登録を許される資格は、この世の標準で判断されれば、奇妙で独特なものである。(略)

 まず最初に、イエスは心の貧しい者、みずからの霊的な絶望と要求とを感じる者の名をしるしておられる。これは、人は罪深くきよくない者であるから、功績によっては、救われないことを示すものである。彼らは、救いは恩恵によってのみ自分のものになることを知っている。こうした者に天国は約束されている。

 次にイエスは、悲しむ者を名ざしておられる。彼らは自分の罪に泣き、イエス・キリストの血がすべての罪から彼らをきよめて下さるという福音によって、慰められる者である。

 次に来るのは、たといわたしたちが高貴な身分であっても、自らの救いについて誇りうる者はだれひとりもいないということを知っている、柔和な謙遜な人である。神の恩恵は、わたしたちを神の国に招き、神の福音はわたしたちを信仰にみちびいてくれる。これは高価なものであるーーそれが神のものであるにもかかわらず、特権として受けて自分のものとなるのである。

 名簿の中には、次に義に飢えかわく者が続いている。彼らはキリストにおける神の愛を十分感知して、神に喜ばれることを行おうと切望し、努めている。彼らは満足し、神に報いる奉仕によって、最大の喜びを見いだすであろう。

 次に登録されているのは、あわれみ深い人である。彼らは親切であり、忍耐強く、思慮深い。彼らは苦しむ者とともに苦しむ。彼らはその新生した心の善良さから、善を行なう。彼らは親切をもって報い、あわれみが彼らに現われている。

 この名簿は、心の清い人がいなくては完全ではありえない。彼らの中には、わるがしこさも策略も見られない。口だけの礼拝は、このような人々には無関心である。彼らは神を見るであろう。

 記録はさらに、平和をつくり出す人たちをも含んでいる。わたしたちは、彼らを必要とする。彼らは生活をなめらかにし、摩擦をしずめる。神は彼らを、神の特別な子らと呼びたもう。彼らは家庭においても、教会においても、また国家にあっても、ものごとを円滑におさめるので、神に特に愛される者である。

 最後に、多くの迫害されてきた人たちが、キリストの名簿にしるされている。なぜなら、この世は、彼らをののしり、またきらったが、彼らはキリストを救い主また主として、告白した神の民だからである。あらゆる種類の虚偽と非難とが、彼らに計画的に投げつけられた。生活はきびしく、にがく、危険であった。しかし、彼らはどんなことにも屈せず、かえって喜んだのである。なぜなら彼らの名は生命の書に書かれているからだ。

祈り

 恵み深き主よ、あなたの恵みのうちに日々わたしを支えて下さい。罪をゆるし、正しい道にわたしをみちびいて下さい。生命の書にわたしの名が書きしるされている確かさをもって、慰めて下さい。わたしはわが主、わが救い主であるイエス・キリストによって、あなたから選ばれた者です。アァメン

(『聖書の黙想 第一巻マタイの福音書』アルフレッド・ドーフラー著矢野英武訳55〜59頁より抜粋引用。余談だが、そもそもこの本はその名も「復活書店」という知る人ぞ知る、名にしおう書店で数年前に100円で求めたものである。店主の方が今病に伏しておられることを2、3日前に知り、祈りの友の間でこの方のために祈り始めた。)