2023年7月31日月曜日

主に私は身を避ける

紺碧に 白の入道 輝けり
 ここは浅間山麓である。週末、知人の納骨の立ち会いを兼ねて、再び御代田のバイブルキャンプに出かけた。これで5月、6月、7月と出かけたことになるが、今回ばかりは、その涼しさに日頃の暑さに辟易している身に取り、大変な清涼剤であった。まさに「避暑地」である。

 もっとも避暑のためだけに、わざわざ時間をかけ、エネルギーを使い、山に登って行ったわけではない。避けどころを、主に求めて人々は全国各地から集われる。私もその中の一人であった。1990年から毎夏出かけている。30年余りの間に世代は着実に変わりつつある。

 今回、日曜の礼拝の後の福音集会でメッセージを取り次いでくださった方は、多分そのころはまだ十代に差し掛かろうとしておられらたのではなかろうか。その方は詩篇11篇を引用し、ヨブ記のみことばなどを次々紹介してくださった。ところで詩篇11篇は私にとり馴染みのある詩篇だった(と、思っていた)。その詩篇は以下のとおりである。

主に私は身を避ける。
どうして、あなたたちは私のたましいに言うのか。
「鳥のように、おまえたちの山に飛んで行け。
それ、見よ。悪者どもが弓を張り、
弦に矢をつがえ、暗やみで、
心の直ぐな人を射ぬこうとしている。
拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか。」

主は、その聖座が宮にあり、
主は、その王座が天にある。

 1990年、教会を退会するさい、私たち夫婦に示されたのは、この聖句の中の「拠り所がこわされた」という感覚であった。だから教会を出た。そのことに偽りはない。しかし、この詩篇の文面からすると、詩篇を書いているダビデが四面楚歌にあるような形で、まわりの人から非難されたことばが「拠り所がこわされたら正しい者に何かできようか」というもっともらしい語りかけであった。それに正しく答えたダビデの信仰が、冒頭の「主に私は身を避ける。」であり、そのあとの「主は、その聖座が宮にあり、主は、その王座が天にある。」であることに気付かされた。

 もし、7月30日の礼拝でその方のメッセージを聞かなかったら、私の半可通の聖書理解(この場合は詩篇11篇がそれにあたるが)はそのままで終わったかもしれない。

 今回のキャンプを通して、また多くの人々とのお交わりをいただいた。それぞれ、メッセージとはまた違った照射の仕方で、そのお交わりを通して、自らの「自己中心」のあり方があぶりだされた。キャンプの良さは結局そこに尽きる。詩篇11篇4節のみことばを写す。

主は、その聖座が宮にあり、
主は、その王座が天にある。
その目は見通し、
そのまぶたは、人の子らを調べる。(旧約聖書 詩篇11篇)

2023年7月27日木曜日

セミに学びたい

育ち行き 抜け殻残し セミ鳴きぬ
 夕方、散歩中、セミの殻を四個も見つけた。いずれもしっかりと葉末に落ちることなく、つかまっている。土を這い出したセミは、脱皮し飛び立つためにこの草をよじ登って行ったのだろう。そして、時至り、羽化し、今度は木の梢へと飛んでいったのだろうか。幼き頃、何度か羽化するセミを観察した。梅雨も開け、いよいよセミ時雨の季節とはなった。

 相変わらず、世相は悲惨な事件が続出している。人の罪のなせるわざとは言え、悲嘆この上もない。セミはせっせと己が人生をまっしぐらに歩み、生を終えている。人間だけがどうしてこんなに互いが憎しみあって生きねばならないのだろうか。聖さを求めて、愛し合って生きる道を神様は準備していてくださるのに。

神はそのひとり子(イエス・キリスト)を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(新約聖書 ヨハネ第一の手紙4章9節〜10節、19節)

互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。(新約聖書 コロサイ人への手紙3章13節〜14節)

 そして、この愛は、セミが脱皮して新しい世界に飛び立ったように、私たちの人生には確かなゴールがあることを教えてくださっている。

私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態にはなることはないからです。確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。(新約聖書 コリント人への手紙第二5章1節〜5節)

2023年7月22日土曜日

「紫御殿」という草花

夏草の 紫御殿 珍しや
 いつも自転車で通る線路際の道、様々な花が次々と出迎えてくれる。一頃盛んだった葵の花は、ややすたれ、今や紅葉葵(もみじあおい)が目を惹く。白粉花(おしろいばな)もあちらこちらに、ヤマユリに混じって咲き、朝顔やひまわりの好季節に入っている。

 ところが先ごろ、紫色の葉っぱが、青草の中にあるのに気がついた。以来、何とかその花の名前をと探していたが、やっと見つかった。何と「むらさきごてん」だと言う。紫には高貴な印象がつきまとうから宜(むべ)なるかなと思った。

 ツユクサの一種だと言う。ツユクサと言うと、あの可憐な水色と黄色のコントラストも鮮やかな花弁を思い出す。この「むらさきごてん」も先端にほんの小さなピンク色の花弁をのぞかせる(この写真ではとらえきれていないが・・・)。ほとんどNHKの朝ドラ「らんまん」を視聴していないが、牧野博士ならずとも目を見開けば、植物の世界は無限で、造物主のみわざをあらためて思わされる。

 それにしても名前とはありがたいものだ。名前、名辞をとおして私たちは思考もし、人々と認識をともにすることができるからだ。そしてそれを通してより未知の世界に分け入ることができる。ましてや、人一人を知ることはそれ以上の重味、意味があるのではないだろうか。

 最近、私は「柏木義円(1860〜1938)」「朝河貫一(1873〜1948)」「東郷茂徳(1882〜1950)」という三人の人物の歩みを時代の流れの中で追っているが、私にとっては平々凡々と過ごしてきた今日までの歩みを、もう一度一つずつ尋ね直す良き思索の時となっている。まさに一面青草の中に忽然と現れた紫の花、「紫御殿」のような思いがしてならないのだ。

神は、ソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心とを与えられた。・・・彼は三千の箴言を語り、彼の歌は一千五百首もあった。彼はレバノンの杉の木から、石垣に生えるヒソプに至るまでの草木について語り、獣や鳥やはうものや魚について語った。(旧約聖書 1列王記4章29節、32節〜33節)

2023年7月19日水曜日

東郷茂徳の生涯

凛と咲く 槿の花の 夏だより
 いったい梅雨はどうなったのだろうか。梅雨前と言う自覚もなきまま、夏本番に突入している感じである。その中でも目立つのはあちらこちらで開花せる槿の花でないだろうか。いや槿の花だけではない。花々はこの暑い最中、私たちに涼風を投げかけてくれている貴重な存在である。と言っても、秋田の内水氾濫と思われる悲惨な被害状況、はたまた降水量過多の九州各県の土砂崩れの惨状など各地で被害に直面しておられる方々を思うと、こんな呑気なことを言ってもいられない。速やかな復旧をと願う。

 さて、過日より読み進めていた総頁数500頁に及ぶ『祖父東郷茂徳の生涯』(東郷茂彦著)をやっと斜め読みではあるが、全編目を通すことができた。その生涯に圧倒されて一言で紹介できない自分が今いる。せいぜい、この槿の花に代弁してもらうしかない。槿は韓国の国花だが、東郷茂徳は始め朴重徳と称した。祖先は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の折、強制的に連行されて来た優秀な陶工であったと言う。(ちなみに以下のトーゴーさんの日本記者クラブで語られた講演がある。題して「朝鮮半島の今を知る」と言う三年前の記録があるが、そこでも触れておられる。 https://www.youtube.com/watch?v=Nby_3UmsU_w&t=605 )

 その彼が長ずるに及んで、東西文明の和を講じんとして外交官を志し、戦前日本の太平洋戦争開戦と終戦の二度にわたって外務大臣を務めた。それもあくまでも戦を止めようとして必死の努力をした結果であった。そして最後は心ならずも、極東国際軍事裁判で、勝者であるアメリカを中心とする連合軍に裁かれた。私ならずとも言いようのない無念さが残るのではないだろうか。

 以下は東郷茂徳が獄中で遺した長詩と和歌を、『時代の一面(大戦外交の手記)』(東郷茂徳著中公文庫)所収の冒頭に掲げてあった、娘のいせさん推薦のものを転写した。

憂きことを 二とせ余り 牢屋にて 過し来りぬ 朝夕に 心を紊す 束縛の とみに多ければ 内わなる 魂こそは 大鳥の 大空の辺に 羽搏きて のぼり行くごと 勢ひの たけくあれど 旅人の 高き山根に 故郷を かえり見するごと 過ぎ行きし くさぐさのこと 且又は 来るべき世の すがたをも 思ひ浮べつ 春雨の 大地に入りて 諸草を 霑ほすがごと 我胸に 思ひの花を とりどりに 育て上げたり

夜な夜なに 眠れぬ時し ありとても 書きしるすべき 鉛筆も 物見るめがねも 夕な夕なに 持ち去られ 我辺になくに 夜の明けて後 そこはかに しるしたるぞこれ

殊にわれ 稚き時ゆ 東西の 文明のすがた 較べ見て そが調整の すべもがと 心ひろめつ これこそは わが生涯の 業なりと 思ひ来ぬれば とりわけて 此方面に つき多く 思ひを馳せぬ

人の子の 育てる時と 所とは いみじくもまた 運命を さししめすかな わが育ちしは 黒潮の めぐる薩摩潟 朝夕に 煙りたへざる 高千穂に 神代を偲びぬ 秋去れば 遠なる海ゆ 台風の 天地を動かし 春来れば 霞棚引く 海門に 海面を按ず 風物の 雄々しき中に 大目球 天を敬ひ 人を愛す てふ世の道を 示したる 大南洲の 威風こそ 身にはしみたり

天地の なりにし始め 人類の 起源に付て くさぐさの 議論はあるも とことわに 空に輝く 月や星 いみじくも 花や草木に さやかなる 進化の跡 誰れとてか 自然の奥に いと貴き ものを感ぜぬ 人とてやある

さればこそ 有史以来の 四千年 人類の 進歩のいとど 早くして 絢爛として 輝ける 機械文明 飛行機は 火星に迄も 飛びぬべく 原子弾こそ 人類を 地獄に迄も 苦しめむ 科学の進みは 人類の 心の進歩を 上へ走り 世に禍ひを 齎せし 基とはなれるも いまははや 止むなきやこれ

などか世の 人の運命の 奇しくして 其為す業の はかなしや 戦に勝てる 為ならで 戦をなくする 為の公事 なりと声高く のらせしに 暇もあらせず 第三次 世界戦争 不可避とぞ 叫びちらして お互に 相手の罪を 数へあげ 今度の戦こそ ボタン一つ 押してただちに 始まること と公言しつ 且つは又原子爆弾 黴きんと 使用禁止の 約束に かかはることなく 公然と 使用すべしと 説き立てて 戦さの瀬戸に 押て来し ものとぞ見ゆる

これもよし 時の動きと 且つは又 諸大国の 不可避的 状勢と 見るべきなれど 裁判の 目あてと呼びし 戦さの廃棄は これはそも 如何なりたる 又かかる 動きのさまに 司直者は 耳を掩ひてか 判決に いそしみ居るや たわごとの さても空しき 業なれや 時に折りに不図 われはなど ここにありやと いぶかしみ 世のしれごとを あざ笑ふ ことのあればこそ ああこれ 勝ちし国の 己らに 都合よかれの 業にして 神の目よりせる 正義のしるし 今はまた 何処にぞありや 思へ人々

世の人の 尊敬と信頼を 裏切りて 本務にいそしまず 敵国の 能力を無視し 古びたる 日露戦争の 惰性にて 進歩せる 戦術を 考ふる愚かさ 政治上の 欲望のみ 強く働き 民衆を 眩惑するに 巧みなり 戦さに敗けはせずと 公言せし 其無智と無責任は いみじくも 緒戦に酔ふて 自己の権勢を 固めんと 反抗する者は 府中宮中団結して 排除す すめらぎも 遂には 軍の云ふ所信じ難し とさえ仰せらる かかる軍部の 空疎な頭 自衛的権勢欲に、国の運命を 託せしことの 如何に不幸なりしよ

あな静か死生一如の坂越えて 春の野原に暫したたずむ

鉄窓に磨硝子あり家人の しのばむ月も見えがてにして

梅雨の日に為すこともなく暮らしつつ 思い出すことのさも多いかな

獄庭のヒマラヤ杉の下に生ふる あぢさいの花に梅雨ふりそそぐ

人の世は風に動ける波のごと 其わだつみの底は動かじ

 まさに、この通りの人生であった。そして、この本書『時代の一面』なる手記は、昭和二十五年七月十八日、巣鴨拘置所に拘禁され、病重く米陸軍病院で入院加療中であった重徳を娘さんである伊勢さんがお見舞いしたおり、読んでおくように手渡されたノートブック二冊と数十枚の用紙に鉛筆でぎっしり書かれていたものであったと言う。そしてその五日後、七月二十三日に67歳7ヶ月で亡くなった。先ごろ日野原重明さんのお話をNHKの『声でつづる昭和人物史』で拝聴したが、日野原さんは『祖父東郷茂徳の生涯』251頁、341頁によると、東郷茂徳を往診した心臓医で、心電図で冠状動脈の異常を発見、何度か注射を打たれたということだ。その最後もみとられたのではないかと想像する。https://www.nhk.or.jp/radio/player/ondemand.html?p=1890_01_3873865

 聖書には亡国の民が流す涙が諸所方々に記されている。ましてや獄中で神のみぞ知る思いで手記を記された東郷茂徳さんは、やはり主なる神様がみそなわしていてくださるお一人でないだろうか(その葬儀が神式で行われたものであったとしても)。奥様のエディーはオーソドックスなキリストを信ずる一人のドイツ人キリスト者であり、ご主人の重徳さんが伝統的な日本神道に帰依していることの上に父なる神様の御憐みを確信しておられたのではないだろうか。重徳さんがたびたび夫人に「あなたの宗教的信念を尊敬する」と書き、エディーさんはエディーさんで「主人は決してうそをつかない、天地神明に誓って仕事をなしている」と如何なる時にでも夫に信頼していたことが、お孫さんである東郷茂彦さんの著書の端々に描かれているからだ(なお、エディさんは若くしてドイツ人の建築家と死に分かれたが、その間には長女ウルズラと末娘ハイデをふくむ四人の女の子と一人の男子に恵まれていた)。

平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。(新約聖書 マタイの福音書5章9節) 

2023年7月15日土曜日

歴史の歯車

金糸梅 希望の光 元気得る
 連日の暑さに閉口して歩いていた。その時、何となく、この花に目が入った。空き家になっているブロック塀に咲き乱れる黄色い花だった。何かを語りかけるようで、立ち止まってじっと見つめた。途端に元気が出てきた。

 このところ、トーゴーさん関係の本を毎日読んでいる。そのためにブログも足踏み状態を続けている。そして、本来は柏木義円、朝河貫一という二人の人物を追うことが目的であり、それぞれ三冊の本を精読した。現に今もキリスト者柏木義円さんの生き様を追うにふさわしい、膨大な『日記』『書簡』(県立図書館所蔵)を借りている。

 ところが、既述の通り、たまたまお見かけした中軽井沢でのトーゴーさんが、機縁になって、東郷茂徳という人物にも関心を持ってしまった。全く予期しなかった人物の登場である。しかも、私の思索の中では大いに三者の間に共通点があるのではないかと思い始めた。それはひとえに彼らのうちに燃える祖国日本を愛する思いであり、そのために三者それぞれ立場は違うが、戦前の軍国主義、総動員体制、翼賛体制に抵抗していった点ではないかと思ったからだ。歴史の流れに翻弄されることなく、毅然として歩むために彼らが何を基軸にして生きたかは、「新しい戦前」(タモリ)と言われる今を生きる私たちにとっても必要とされていることではないかと思う。

 試みにその三者のキリスト・イエスに対する思いをそれぞれにたぐってみた。先ずはもっとも遠いと思われる東郷茂徳に関する叙述である。これは重徳の孫に当たる茂彦さんが書かれた『祖父東郷茂徳の生涯』(文藝春秋1993年)からの引用(同書86頁)である。(なお、ついでながら書き足しておくと、私が見かけたと「思い込んでいる」トーゴーさんは双子であった。茂彦さんが兄で和彦さんが弟であり、私がテレビでお顔を知っていたのは和彦さんの方だったが・・・)

 それから(引用者注:結婚以来)二十年余り、巣鴨の獄中でエディ宛に綴られた重徳の手紙に、二人の間に築かれた精神世界を垣間見ることが出来る。そこには、裁判や社会的な出来事だけではなく、キリスト教や愛、あるいは、文学に関する様々な記述が含まれていた。

ーー昨日あなたに書いたように、私の心の平安について心配をする必要はありません。なぜなら、私は、既に、キリスト教の愛を正確に理解しているからです。神と共に在って、神を通じてお互いに愛しあう!(日付不明 独文)
ーー近頃では、聖書も私にとてもいい影響を与えています。この愛の宗教を私は、すばらしいと感じています(同)。
 シェークスピア、モリエール、ラシーヌ、ヴォルテール、ゲーテ、シラーなどの作品の一部を最近読んだこと、こうした古典は、「always tasteful, interesting, and stimulating(常に、趣きがあり、面白く、刺激的だ)」とも書いている(昭和二十四年四月二十四日付 英文)
 とくにエディの差し入れたゲーテの本をうれしく読んだこと、できれば詩集もほしいのだが、と頼んでいる。
ーーゲーテは、あなたが差し入れてくれた本の中で、こう言っています。「人間にとって必要なものは何と僅かしかないのだろう。そして、その僅かなものを自分がどれほど必要としているかを感じることは、人間にとってどんなに嬉しいことであろうか」。どうか、いつまでも、健康で元気であって下さい。 愛するあなたのシゲ(二十四年四月十一日付 独文)

 この一年余りのちに、東郷茂徳はA級戦犯として禁錮二十年の刑を受け、獄舎に囚われのまま病を得て、妻であるエディの看病を得ぬまま亡くなった。昭和二十五年七月二十三日のことであった。その悲しみぶりはすでに以下に記載した通りである。http://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/07/blog-post_7.html

 数奇な運命の下、未亡人であったドイツ人エディと結ばれたベルリンの日本大使館書記官であった東郷茂徳が、その後、開戦時と終戦時に外務大臣であったため、極東国際軍事裁判の対象者になり、挙げ句の果て、二人は私宅と獄舎とに引き離されてしまった。その五年間の獄中生活の間に、エディ夫人は夫である東郷重徳に何を伝えようとしたのだろう。また東郷茂徳はエディに何を語ろうとしていたのだろうか。短いながらも、上述の東郷茂徳のお孫さんの茂彦さんが記する叙述をとおしてしか知ることができないが、そこには互いが互いに生かされている摂理の神様に対する感謝があったのではないか。

 一片の「金糸梅」の花びらでさえ、私に希望を与えてくれた。ましてや、みことばのもたらす「平安」はいかなる状況にあっても人に生きる希望を与えてくれたに違いない。

何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(新約聖書 ピリピ人への手紙4章6節〜7節)

2023年7月10日月曜日

今盛んなり、各家の葡萄棚

葡萄棚 道行く人の 笑みこぼる
 連日、九州地方の災害が報道される。関東地方も明日は我が身と待ち構える日々である。細長い日本列島、様々な気象現象は西から東、南から北へ移行する。その先陣となるのが九州地方である。何らかの行政上の対策が立てられないものか。打って変わって、こちら関東地方も海に面する千葉県、茨城県ではやはり災害が発生しやすい。その上、地震は圧倒的にこの両県が関東地方では震源となっている。昔、富山和子が災害列島の土地対策に森林を保護するために貴重な提言を繰り返していたことを思い出す。そのような提言を無視するかのように世界的な温暖化は全世界にさまざまな環境異変をもたらしている。私たちは息を殺してその行く末を案ずるばかりである。

 今年もあちらこちらで葡萄棚が軒をはみ出しては、すでにはるか先の秋の収穫の季の到来を予告せんかのようである。たわわに実ったぶどうは、盛夏の時を過ごし、さらに熟していくことだろう。そして、その挙げ句には隣近所にもふるまわれる。自然の幸はこうして毎年葡萄棚を持たない我が家もお相伴にあずからせていただく。持ちつ持たれつの隣近所の方々との親しいお付き合いである。土曜日、共に集まる小さな集いで聖書(ローマ人への手紙13章)の輪読を行ったが、その時、一人の方が、次のみことばを読んでくださった。

愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。(10節)

 まことにその通りだと思った。そして、今しも、「ピン ポーン」と来客の知らせが鳴った。隣家の方だった。「桃を田舎(甲府)から送ってきましたから(お食べください)」とお裾分けをいただいた。ありがたいことだ。

 さて、先ほどのみことばの前には律法とは何か、ローマ人への手紙の著者であるパウロの以下の文章がある。

だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。(8節〜9節)

 今まで13章は私にとって難解な章の一つであった。しかし、ちいさな交わりの中で一人の方が感銘を受けられた10節のみことばが、私の心の内にもストンと落ちてきた。昨日は市川に礼拝に出かけ、福音集会のメッセージを担当させていただいたが、最後の最後、土壇場で示されたのが「愛ですネ」という題名であった。私にとってローマ13章10節は導きになり、早速引用させていただいた。

 それだけでなく、私の隣人、妻についつらく当たってしまう度量のなさに、今更ながら、このみことばを噛み締めさせられている。私の愛の実は自分では結べない。しかし、主なる神様を信じ従う時、結ばせていただけると確信している。主に頼っていきたい。秋の到来とともに熟するぶどうの実のようになれたらいいなあ。

愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。(新約聖書 ローマ人への手紙13章10節)

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(新約聖書 ヨハネの福音書15章5節)

2023年7月7日金曜日

汝、誰の使節か

夏涼み 名も知らぬ花 新世界
 前回は「信濃追分」の駅頭の写真をご披露した。そのおり、その写真に不満足であると書いた。人為が勝っている、と。それは自然そのもの〈浅間山〉をとらえたいのに、私にはなぜか画面にあらわれた左の立板の文字、追分宿のちょうちんが気になった。

 この信濃追分には過去一度だけ降り立ち、一、二日過ごした記憶がある。おそらくそれは1980年代であろうと思う。こどもがたくさんいて、旅行などは贅沢で、ふるさと滋賀に帰る以外はとても無理だと決めてかかっていたころだ。しかし、いつまでもそういうわけにはいかないと、家族で泊まりがけで出かけた。その旅行先に選んだのが、信濃追分であった。堀辰雄の描く世界をこの目で確かめたいという思いが私にはあったが、果たしてこどもにはどうだったのだろう。

 駅から宿まで歩くのにすでに子どもたちが喘いでいたように思う。もう歩けないという子供を叱りながら、それでも宿に着いたときのさわやかさは今も感ずることができる。その翌日であろう、サイクリングに身を任せ、子どもたち各自もそれぞれ楽しんでくれたように記憶している。

 さて、中軽井沢駅で乗車されたトーゴーご夫妻との乗り合わせが私にとってどんな意味合いがあったか、少し触れてみたい。以下はこちらに帰ってから図書館でお借りして目にした文章である。

 それは美しい夏の朝だった。
 涼やかな微風が窓のカーテンを揺らし、近くの林から鳥たちが鳴き交わす声が聞こえていた。ひんやりした空気は甘い香りに満ち、その日の上天気を予感させた。輝かしい夏の日の始まり、今日も草原では、蜂や蝶たちが花々の蜜を求めて、忙しく飛び交うことだろう。
 七月二十三日、私たちは軽井沢の鹿島の森の小さな夏の家にいた。高原の夏は始まったばかりだった。
 蝶々や蜂たちに劣らず、私にとっても忙しい日になるはずだった。ちょっと目を離したらたちまち、帽子もかぶらずに外に飛び出してしまう双子の男の子を、麦わら帽子をひらひらさせながら追いかけなくてはならないのだから。
 子どもたちは五歳と半年。愛らしいワンパク盛りだった。仕事の都合をつけて東京からやってきた夫ともゆっくり話をしたかったし、二階の寝室で目をさました私は、まださめきらない頭の中で、一日のあれやこれやをぼんやりと考えていた。
 電話のベルの音が聞こえた。こんな朝早くどこからの電話だろう・・・。やがて階下で受話器がとられる。二言三言の話し声がしたあと、家の中がしんと静まったように感じられた。
 取りつがれた電話に出た私の耳に、なんともいいようのない、重くくぐもった母の声が聞こえた。生まれてはじめて聞くような母の声だった。
 「パパガ死ンダ」
 その瞬間、輝くばかりの夏の朝はひかりを失った。
 小鳥のさえずりも聞こえず、こぼれるほどに咲いていた花々ももう目に入らなかった。
 二階から下りてきた夫に、電話で聞いた言葉をそのまま繰り返して、私は棒のように立っていた。
 子どもたちの留守中の世話を頼み、いちばん早い汽車に乗った。戦争が終わって五年、列車事情の悪い時代だったが、その日は不思議に空いていて座席に座れたのをおぼえている。
 「いせ、大丈夫か?」
 窓際に腰掛けた私の顔を覗きこんで夫がそういい、私はこくんとうなずいて、「ダイジョウブ」とかすれたような声でやっと答えた。その言葉が、その日私が話したただ一言だったような気がする。
 昭和二十五年の夏、父の死の知らせが届いた日だった。
 その日の未明、太平洋戦争の開戦時の東条内閣と、終戦時の鈴木内閣の二度の外務大臣を務めた父、東郷茂徳は、A級戦犯として巣鴨プリズンに囚われの身のまま、だれに看取られることなく六十七歳の生涯を閉じていた。
        (『色無き花火』東郷いせ著 六興出版 1991年刊行)

 この文章は、東郷茂徳とドイツ人のエディータ(※)との間にひとり娘として生まれた「いせ」さんが「昭和の記憶」と題して語る冒頭の文章である。夏の軽井沢の姿が巧みに描かれており、それだけでなく、時空を越えて、たいせつな人を亡くした悲しみが私たちに伝わってくる。七十三年前の出来事だ。私が先日、中軽井沢駅でお見かけしたトーゴーさんは、文中に登場する「双子の男の子」「五歳」と書かれている人にちがいない。

 トーゴーさんが外交官であることはテレビなどで知っていた。しかし、三代続く外交官の家系で、国の要路にあって、それぞれに苦労を重ねて来られた方だとは、つゆ知らなかった。ただ目の前に現れたトーゴーご夫妻をお見かけして、その品格にひきつけられた。それは長い大使生活から自然と備えられた品格ではないだろうか。私は御代田に出かける前、『柏木義円』の関係で、新たな文献『最後の「日本人」朝河貫一の生涯』(阿部善雄著岩波現代文庫)を紐解いていたが、なかなか文意をつかむのに苦労していた。そのこともあって、実のところ、一日も早く春日部に戻りたいと考えていたのだ。

 ところが、家に帰って、読了していないその難解な新文献を読み進めるうちに、日米開戦前夜のアメリカ大使グルーと外相東郷茂徳の交渉・宮中への参内の話が出てきた(同書253頁以下)。まさかあのトーゴーさんのお祖父さんのことだとは、そう思って読み進めるうちに、それまで難解と思っていたこの文献もずいぶんと身近なものに変えられただから不思議だ。それと同時に、一連の御代田行きもこのような導きがあってのことだったのかと改めて思わされた。

 それにしても一人の人間の存在は大きい。ましてや神の子であり人の子であったイエス・キリストの存在は大きい。その光を反射するキリスト者は神の国の大使としてあだやおろそかにこの人生を歩んではならないと思わされた。

※エディータは最初ドイツ人建築家ゲオルク・ド・ラランドと結婚し、五人の子供をさずかったが、ゲオルクが急死し、そののち東郷茂徳とベルリンで知り合い結婚に導かれた。ゲオルクの作品としては神戸オリエンタル・ホテルはじめいくつかの名建築が明治の初めから大正にかけて存在する。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。(新約聖書 2コリント5章17節〜20節)

2023年7月5日水曜日

蝶々二羽、何を語る

ひらひらと 蝶々二羽 ランデブー
 御代田は浅間山のふもとに展開する町並みである。したがって、駅からの行き来は、行きは上り坂、帰りは下り坂になり、下りは徒歩でも、重力に身をゆだねながら降りることができ快適だ。そんな私たちの前を二羽の黄蝶と白蝶が楽しく舞っていた。その色のコントラストと動きに何度かカメラを向けるのだが、中々思うようには撮れなかった。的が小さすぎるのだ。

 かと言って、今度は的を大きくして、浅間山の勇姿を、何とか画面に納めたいと思うのだが、これまたむつかしい。あれやこれやで道草を食ってしまい、御代田駅に着いた時には、信濃鉄道軽井沢行き10:22分発はすでに発車してしまっていた。春日部にまでスムーズに帰る計画はおじゃんになってしまった。ために、さらに駅頭で小半時待たねばならなかった。それはいいとしても、バス、信越線、高崎線を使っての帰りの予定は大幅に狂ってしまった。

 あれこれ言っても始まらない。昨日の件は妻に原因があるとしても、今日の件は私に原因がある。景色などを撮ろうとせず、そのままひたすら歩いていれば間に合ったのだから、自らの落ち度だけにそこはぐうの音も出ない。半ば捨て鉢で信濃鉄道に身を任せる。

 御代田から次の駅信濃追分までの区間の車窓の風景は一品だ。何しろ浅間山が眼前に広がるからだ。その間、5、6分だが絶好のシャッターチャンスだ。そう思いながらこれまで何度もそれを逃している。いや、カメラを向ける所作そのものが憚れるのだ。結局体勢を立て直してカメラに向かうのは決まって信濃追分駅に着いてからだ。以下の写真にはいつも不満がたまる(人為がじゃまになるのだ!)。でも参考までに載せる。

 列車は信濃追分駅を離れ、次の中軽井沢駅に入って行った。すると乗車口から、(テレビなどで)見覚えのある老夫妻が乗り込んで来られた。ご夫妻とも長身で、いかにも物腰に品があった。私は隣席の妻に思わず、「トーゴーさんだよ」と囁いた。妻は知るはずがないが、お二人ともマスク姿ではあったが、見紛うことない、トーゴーさんだと断案した。そして様々な行き違いで不愉快になっていたのも忘れて、その列車に乗り合わせたにすぎないことであるのに心はなぜか弾んだ。

 一昔前、高校二年か一年の時、亀井勝一郎氏を彦根駅頭でプラットホーム越しに拝見した時は畏敬の思いで、ひとり遠くから礼をした(※)。次に、浪人生活で京都駅に何か用事で夜出かけた時であったか、列車を降りる巨人軍の選手一行に出会った。まだ高三で入団したばかりの柴田勲選手、長嶋こそ遭遇しなかったが、国松選手を見かけた。二十数年前には中央線で吉祥寺から中野方面にまで乗っていた時だろうか、おはなはん、樫山文枝さんが乗り込んできた時にはびっくりした。車内は混雑もしていず、空席の目立つ車内であったが、特にどうということもなく、樫山さんも一人の行きずりの乗客にすぎなかったことを思い出す。

 ところでこのトーゴーさんについては春日部に帰ってから、その偶然な乗り合わせが決して無意味でなかったことを思い知らされている。そのことは後ほど稿を改めて触れたい。ただこうした乗り合わせは今に始まったことでなく、私は何度も経験している。さしずめ次の出来事もその一つだ。 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2011/08/blog-post.html

 蝶々二羽はそれこそ軽やかに野原を思い思いに飛翔していた。でもやけに気になった。黄蝶のあとを白蝶はひたすら追っていたからだ。昆虫の生態を知らない私にはそれ以上のことがわからない。私たち夫婦とトーゴーさん夫婦が乗り合わせて、会話を交わしたわけではない。ただ行きずりの間柄に過ぎない。片や有名人、片やこちら無名人。「袖擦り合うのも他生の縁」とはよく言ったものだ。しかし、神のみことばはそれ以上の確かなみことばを今に伝えている。

※追記 記憶っていい加減だなと思った。私はすでに亀井勝一郎氏について下記のような記事を残していた。遅まきながら追加する。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2015/12/blog-post.html

隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行なうためである。(旧約聖書 申命記29章29節)

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(新約聖書 ヨハネの福音書3章16節)

2023年7月3日月曜日

思い立ったが吉日

棚雲の 見え隠れする 浅間山 2023.6.28 
 久しくブログから遠ざかった。もちろん理由はある。先週の月曜日はコロナの第六回目のワクチン接種をした。その晩、熱があり一睡もできなかった。しかし、朝起きるなり、二、三日前に思い立っていた御代田行きを決行した。前日のワクチン接種の予後が気になったので、一日ずらして、水曜日に行くことにしようとも思ったが、雨の心配もあり。火曜日の日帰りを目論んだ。

 果たせるかな、高崎線車中ずっと全く気分がすぐれなかった。妻は心配して座席に横になるように勧めるのだが、できなかった。高崎から横川まで信越線に乗り換えてから、乗客も少なく、これ幸いとはじめて横になることができた。すると随分楽になった。しかも高崎駅から北高崎、群馬八幡とこちらが思っているより駅区間は長いのに気づいた。だから次駅である「安中」にさしかかるころはすっかり気分が良くなり、起き上がって「安中教会」はどのあたりにあるのだろうと窓越しに眺めることさえできた。

 もちろん、今回の御代田行きは「安中訪問」が目的でなく、あくまでも5月以来、放置してある部屋の管理が目的であった。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/05/blog-post_5.html
 だから、信越線の終点の横川駅で下車し、そこから碓氷峠を(バスで乗り)越え、軽井沢に入る。次に信濃鉄道で軽井沢から御代田まで乗り継ぐコースである。総乗車時間は延べ二時間半ほどであり、そこから現地へはさらに徒歩で一時間弱かかる。

 こうして朝9時半ごろ春日部の自宅を出て、念願の場所には午後2時過ぎには着けた。さっそく、下仁田から来てくださった既知の大工さんに見ていただき、用事も終わった。私はすぐにでもとんぼがえりするつもりであり、妻には前もって十分言い聞かせておいた。ところが、妻はそのことはすっかり亡失しており、泊まるつもりでいた。そして、隣の奥さんに誘われたこともあって、夕食・朝食とたっぷりとお惣菜を買い込んできた。私は自らの目論見(計画)とまったく違うので、怒り心頭に発する思いで不愉快であった。

 もちろん客観的に見るなら、折角の信州行きなのだから、ゆっくり美味しい空気でも吸って散策でもして、過ごすのが当然だと思う。だから妻のその思いは是であり、私が我意を通して機嫌が悪くなっていたに過ぎない。考えてみると、五十五年前、新婚旅行は信州だったが、その二日目だったか美ヶ原で早くも「けんか」になった。内容は覚えていないが、精々私のわがままのせいであったろう。残念ながら、五十五年経っても、私のわがままは健在だ。

 結局、不承不承一日延期したが、それはそれで導きがあった。その件については明日記したい。さて今日は遠路長女が再び長躯、車でやって来て、ベニカナメの消毒、クーラーの掃除などを手早く手掛けて帰って行った。彼女も「思い立ったが吉日」を実行したのだろう? 昨日メールで「明日月曜日か、木曜日かそちらに行きたいのだがいいか」と突然報せて来ていたのだ。

 未来は何があるかわからない。その未来に向かって人間は自ら良しとする道を選ぶ。「思い立つ」のだ。しかし、その行動の奥には言わずと知れた神様の無限の愛がある。

あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。(旧約聖書 詩篇37篇5節)