2012年12月31日月曜日

罪人を尋ねなさるキリスト(7)

『ノアのはこ船』ピーター・スピアー絵より
ローランド・ヒルの話があります。彼はある時、大群衆に向かって野外で説教をしていました。そこを馬車に乗って通りかかったアン・エルスキンという貴婦人が、「この大集会で話しているのはだれか」と尋ねたそうです。そして、彼が有名なローランド・ヒルであることを知ると彼女は言いました。
「あの人のことは聞いたことがあります。どうぞ講壇のそばによって聞けるようにしてください」

ローランド・ヒルの目に彼女がうつりました。いかにも上流の婦人らしい彼女を見て、彼はふり向いて尋ねました。しばらく説教を続けて行くうちに、突然中断して申しました。「友よ、わたしはここに売りたいものを持っています」

説教の途中で、牧師が何かを売りつけようとしていると思って、みな驚いてしまいました。
「これを競売にしましょう。ヨーロッパ中の冠よりもはるかに尊いものです。これは、アン・エルスキンさんの魂です。誰か値をつけませんか。さあ! ああ、値をつけましたね。誰ですか、サタンです。いくら払いますか。富も誉も快楽も。そうです。その魂のためなら、全世界をもあげよう。ああ、別の声が聞えました。 誰ですか。主イエス・キリストです。イエスよ、この魂のためいくら払いますか。わたしは、この世が知らない平和と喜びと慰めをあげよう。そうです。その魂のために、永遠の生命をあげよう」

そしてアン・エルスキンのほうを向いて言いました。
「あなたの魂を買おうとしたふたりの声を聞いたでしょう。どちらがよいですか」
彼女は群衆をかきわけて、出て行って言いました。

「主イエスが受け入れてくださるなら、わたしの魂をおゆだねします」

この物語がどれほどたしかなことかわかりません。しかし、ほんとうだと思うひとつのことがあります—今、あなたの魂を買おうとしているふたりの人がいるということです。どちらをとるかはあなたの決めなければならないことです。サタン(悪魔)は自分に与えることのできないものをあげようと言います。彼はうそつきでした。悪魔の約束に頼って生きている人を気の毒に思います。サタンはアダムをいつわり、だまし、その所有していたものをことごとく奪い、ついには失われた滅びの状態へと追いやってしまったのです。アダム以来、この悪魔のいつわりや約束に頼って来た人は、失望してきました。この世の終わりまでこのことは続くでしょう。

しかし、主イエス・キリストは、その約束のすべてをはたすことができるのです。主はすべての失われた魂に永遠の生命を約束しておられます。誰がそれを得るのでしょうか。あなたの救われたいという願いを、誰かが電報で神の御座に送ろうとでもいうのでしょうか。

以前、ひとりの人が、自分は救われたいと願っているのだが、キリストが尋ねて来てくださらない、と言っていました。わたしはその人に言いました。
「あなたはいったい、何を待っているのですか」
「どうしてですか。キリストが呼んでくださるのを待っているのです。呼んでくださればすぐにまいります」

同じように考えている人が、ほかにもいるかもしれません。生涯のある時期、神の霊と争わなかった人が、この国にいるとは思われません。キリストが尋ねようとされなかった人が、この国にいるとは考えられないのです。主が尋ねようとしておられることを忘れないでください。六千年の間に救われた人は、みな神がまず尋ねた人々です。

アダムが堕落すると、ただちに神は彼をさがしました。彼は驚いて逃げ出し、園のしげみの中にかくれました。その時から今日まで、神が尋ねなければ、どんな人でも救われないのです。

(同書35〜38頁より引用。今年も今日で終わりである。師走選挙が慌ただしく過ぎ去り気がついたらいつの間にか日本の政界は再び自民党の天下に戻っていた。それにしても今回の選挙ほど政治家の私心が暴露された選挙はなかったのではなかろうか。そして今日のムーデーの話じゃないが、サタン並みに候補者はサンタよろしく当選せんがために様々な景品をばらまこうとしたのである。投票する側では誰が本当のことを言い、実行してくれるか見分けがつかなかったのではないだろうか。一方今日の話の本題に戻すと、すべての悪の背後にいる本家本物のサタンの悪巧みはいつまでも続くと言う。しかし、主の約束である、失われた人にただで提供される永遠のいのちは必ず与えられるものだとムーデーは述べている。イエス様が十字架上に罪人の身代わりとしてご自身で、いのちを投げ出される前に、言われたみことばに注意して年を閉じたい。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」ヨハネ14・27)

2012年12月30日日曜日

罪人を尋ねなさるキリスト(6)

「ノアのはこ船」ピーター・スピアー絵
わたしたちは、健康を害した人のことを聞くと、その人に同情し、気の毒なことだと申します。わたしたちの心は同情でいっぱいになります。財産を失ってしまった人に会うと、「なんと気の毒なのだろう」と申します。名声を失い地位をなくした人がいると、「それは気の毒なことだ」と申します。わたしたちは、健康とか富とか名声を失うことが、どういったものであるかを知っています。しかし、これらすべてのものの損失も、魂を失ってしまうことに比べたらなんでしょうか。

有名なシカゴの大火のあった少し前、ある眼科の病院におりました。ひとりの母親が、生後数ヶ月しか経ていない赤ちゃんを医者のところに連れて来て、その子の目を見てくれるように頼みました。彼は診察しました。そして、その子はめくらで一生涯見ることはないだろうと宣告しました。彼の宣告を聞くやいなや、母親はその子をひっぱって胸の中にしっかりと抱きしめ、恐ろしい叫び声をあげるのでした。わたしの心は、刺されたようになり、涙を流さずにはおられませんでした。医者も泣いていました。

「ああ、わたしのかわいい子! おまえは、おまえを生んだおかあさんを見ることができないの。ああ、お医者さま、わたしにはこらえきれません。ああ、わたしのかわいい子」

それは、どんな人の心をも動かすような光景でした。しかし、視力を失うことは、魂を失うことにくらべたらなんでしょうか。わたしは、自分の魂を失わないのなら両眼をとり出して、めくらのままで死にたいと思います。わたしにはふたりのむすこがあります。わたしがこの子どもたちをどんなに愛しているか、ただ神のみごぞんじのことです。しかし、むすこたちがキリストを持たず望みも持たないで成長し、死ななければならないのを見るくらいなら、むしろ、彼らの目がえぐり出されるのを見たいと思います。

魂を失うこと—それはなんと恐ろしいことでしょう! もしあなたがまだ失われたままでいるなら、どうか安住しないで、キリストのうちにある平安を見出してください。もしあなたの子が箱船の外にいるなら、彼らが中にはいるまで安心しないでください。子どもたちが、キリストのもとに行くのを止めてはなりません。人の子が来たのは、白髪の老人だけでなく、子どもをも救うためでした。キリストが来たのは、すべての人、富んでいる人や貧しい人、老いた人や若い人のためでした。若い人よ、もし、あなたが失われているのなら、神があなたにそれを示し、あなたがその国に向かって前進されるようにしてください。人の子はあなたを尋ね出して救うためにおいでになったのです。

(同書34〜35頁より引用。「人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします」ルカ9:25〜26。)

大洪水 ヤコブス・レビウス詩 ピーター・スピアー英訳 松川真弓訳

ノアの作ったはこ船は せいが高くて、はば広く
板はあつくて、どっしりと いさましくもそびえたつ。 
主はのたもうた、 乗りこめ、と。

ノアの家族がよじ登る。 つづいて乗りこむ動物は、
カッコウ、コウモリ、コウノトリ、ヒグマに、
クマタカ、クマンバチ、カマキリ、キリンに、
キリギリス、ミツバチ、ハチドリ、とりどりに、
メジロにホウジロ、アルマジロ、ビーバー、チーター、
アリゲーター、ノウサギ、カワサギ、ヤギにトキ、
ドジョウにダチョウ、モンシロチョウ、ゴクラクチョウと
アゲハチョウ、シチメンチョウもかけつけて、マムシにマツムシ、
カモノハシ、イヌワシ、アザラシ、ヤマアラシ 
      
あらしの始まるそのまえに、 地上の動物すべてから         
選ばれたてきたものたちが、 大きなものも小さなものも       
元気なものもか弱いものも、 よごれたものもきれいなものも     
どうもうなものも静かなものも かたまったりはなれたり        
歩いて、はって、のそのそと そのはこ船に乗りこんで、       
かわいた場所にくつろいだ。

けれど、のこったものたちは あしきものもよきものも
とどまるものは、もういない。 地上をおおうこう水は
のこったみんなをのみこんだ。       

人間のおかした 身のけのよだつ罪のうえ、
神のいかりはくだされた。
人間のおかした わざわい多い罪のため、
のこったみんなが死んだのだ。 清めのための時がたち、
主は罪をゆるされて、 すくいをあたえてくださった。        
ただよっていたはこ船は ふたたび地上にもどされた

清められた土地に栄えあれ。 主のいつくしみを ほめたたえよ!

(引用は『ノアのはこ船』1986年評論社刊行より。ヤコブス・レビウス〈1586〜1658〉はオランダの詩人でそれを絵本作者スピアー氏が英訳し、その文章は韻をふんだすばらしいものだそうです。それを松川さんが日本語に置き換えるために努力された訳文です。)

2012年12月29日土曜日

罪人を尋ねなさるキリスト(5)

「パリサイ人と取税人」 ギュスターヴ・ドレ 画
わたしはさらに十字架で苦しまれた救い主を教えました。
「キリストは、わたしたちの負債のために苦しまれました。わたしたちの罪のために死に、わたしたちを義と認めるためによみがえられました」。

長い間その人は、あわれな罪人が救われるということを信じませんでした。彼は自分の罪を数え続けていました。わたしは彼に、キリストの血がすべてをおおってくださるのだと話しました。話し終えてからわたしは言いました。
「さあ、祈りましょう」
彼は独房でひざまずき、わたしは廊下でひざまずきました。
「お祈りしてください」
「どうしてですか。わたしがキリストを呼び求めるなんて、神をけがすことです」
「神に祈ってください」

彼はあのみじめな取税人のように声をはりあげて言いました。
「神さま、わたしをあわれんでください。この悪に汚れた罪人をあわれんでください」

小窓をとおして、彼と握手した時、わたしの手に涙が落ちました。悔い改めの涙にわたしの胸はしめつけられるような思いがしました。彼は自分が失われた者であることを認めたのです。それからわたしは、キリストが彼を救おうとしておいでになったということを信じさせようとしました。
彼はなお暗黒の中にいました。
「わたしは九時から十時までホテルであなたのために祈っていますよ」

次の朝、どうしているだろうかと思いながら、シカゴにもどる前にもう一度彼に会おうといたしました。彼の顔に接した時、すでに良心の呵責も、絶望の色も、全く彼から消え去っているのでした。彼の姿は、気高い光にあふれているようでした。失望の涙はぬぐい去られ、喜びの涙が彼の目に光っていました。「義の太陽」が彼の行く道を照らし、彼の魂は喜びにおどっていました。ザアカイのように、彼はキリストを受け入れたのです。
「話してください」
「いつ受け入れたのか知りませんが、真夜中のように思います。長い間苦しんでいましたが、一度にわたしの重荷は取り去られました。ですから、わたしほど幸福な人間はニューヨークにいないと思います」
シカゴを出発してからもどるまで、こんな幸福な人を見たことはありませんでした。彼の顔は天よりの光に輝いていました。わたしは彼と別れましたが、かの国で会えるのを楽しみにしています。

あなたは神の子があの晩、ほかの室は通り過ごしながら、あの室に行ってあの囚人を自由にした理由がわかりますか。それは

あの男が自分は失われた者である
ということを認めたからなのです

失われるということがどういうものであるか知りたいものです。この世はサタンに閉ざされ、眠らされているのです。サタンはアチコチを走りまわっては、人々に失われるという事など、なんでもないのだと告げているのです。わたしは、昔ながらの天国と地獄を信じます。キリストはわたしたちを恐ろしい地獄から救うためにきたのです。地獄へ投げおとされる人は誰でも、この福音の輝きの中に、また神の子のさかれたからだのもとに来なければなりません。

(同書32〜33頁より引用。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」ルカ18・9〜14)

2012年12月28日金曜日

罪人を尋ねなさるキリスト(4)

寒前に 紅葉見せる ブルーベリ  
何年も前のことでした。ある土曜日の夜、フルトン・ストリートの祈祷会に出席した時のことです。集会が終わるとひとりの人がわたしのところに来て言いました。
「あす、町の刑務所で囚人たちに説教していただきたいのですが」
承知してその刑務所に行くと、そこには集会室がなく、それぞれのへやに向かって説教しなければなりませんでした。鉄の手すりの所に立って、全く見ることのできない約三、四百人の囚人に向かって、大きな長い狭い廊下をとおして話しました。それは全く難しい仕事でした。わたしはその時まで、なんのかざりもないただの壁に向かって説教したことはありませんでした。

説教が終わってから、いったいどんな人に話していたのか見たいと思いました。また、彼らがどのように福音を受けとったか知りたいと考えました。最初のドアの所に行きました。そこの囚人は一番よく聞くことができたわけです。中をのぞいて見ました。そこでは何人かの人がトランプ遊びをしていました。
「いかがですか」
「そうですね、よけいなことを教えてもらいたくないですね。不正な証人が偽証をしたんだ。それでわたしたちはここにいるんですよ」

ああ、キリストはここの誰も救うことはできません。失われた者はひとりもいないのです。

次のへやに行きました。
「どうですか」
「あれをした男は、わたしとすごく似ていたんだそうです。それでつかまってここに入れられているんです」

彼もまた無罪でした。

次のへやに行きました。
「いかがですか」
「ええ、われわれは悪い仲間にはいっていました。でも、それをやった男が許されて、われわれがここにいるんです」

次のへやに行きました。
「いかがですか」
「来週、裁判です。不利になるものはないので自由になるでしょう」

ほとんどすべてのへやをまわりましたが、答えはいつも同じでした。つまり彼らは何もしていないということでした。ああ、わたしの生涯の中で、こんなにもたくさんの罪のない人がいっしょにいるのを見たことがありません。彼らの考えでは、のろわれるのは治安判事だけでした。これらの人々は、身のまわりに自己義認というきたないボロをまとっていたのでした。このような物語は、六千年も続いたものなのです(※)。わたしは、刑務所のへやからへやをまわって、どの人も口実を持っているのに失望しました。もし、それを持っていなければ、悪魔は彼にそれを作らせるのです。

刑務所をほとんど通り抜けてしまう所で、ひとりの男が両ひざにひじをつき、両手の中に顔をうめているのを発見しました。細いふたすじの涙がほおを伝って流れていました。
「どんな悩みですか」

そう尋ねると、彼は自責と絶望にあふれた顔をあげました。
「ああ、わたしの罪は、耐えられないほどです」
「神さま、感謝します」
「何ですって? あなたは、今説教していたかたでしょうね」
「ええ」
「あなたはわたしの友人だと言いましたね」
「ええ、そうですよ」
「それなのに、どうしてわたしの罪が耐えられないというのを喜んでいるのですか」
「説明しましょう。もし、あなたの罪が耐えられないものであるなら、あなたにかわって負ってくださるかたにそれをまかしてしまいませんか」
「それは誰です」
「主イエスです」
「イエスはわたしの罪まで負ってくれないでしょう」
「どうして?」
「わたしは今までずっとイエスに対して罪を犯して来ました」
「すこしも心配ありません。神の御子イエス・キリストの血が、すべての罪からきよめてくださるのです」

それから、キリストがいかにして失われたものを尋ね救うためにおいでになったかを話しました。刑務所のとびらを開いて囚人を自由にするためにおいでになったことを話したのです。自分が失われた者であることを、信じている人に会うのはすばらしいことです。

(同書29〜32頁より引用。1978年、シンガポールのチャンギー刑務所内に入ったことがあります。その時、所内には主を信じている受刑者がおられるということでしたので、私たちも入り、一緒に主を賛美できたのです。その時にはこのムーデーが話している内容を露とも考えませんでしたが、考えてみるとこれぞ罪人とは何たる者かを語る話だと思い至りました。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。」ルカ4・18※「自己義認」こそ最初の人アダム・エヴァ夫妻が身につけたもので、私たちひとりひとりが受け継いでいる生まれながらの性質です。 イザヤは端的に「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな不潔な着物のようです」64・6と言っています。)

2012年12月27日木曜日

罪人を尋ねなさるキリスト(3)

ザアカイは いっしょうけんめいに きに のぼりました (絵本聖書より)
やがてその男は通りを走って行きます。けれども背が低いので、群衆の肩で、つま先立ちになってもイエスを見ることができません。「よし」と彼は言い、一本のくわの木にのぼります。「通りの真上までのびているあの枝にのれば、あのかたをよく見ることができるだろう」

この金持ちの男が、子どものように木にのぼってしげみの中にかくれたさまは、まさに奇妙なものであったに違いありません。その中で彼は思いました。誰にも見つからずに、ここを通るあの人を見ることができるだろうと。

ガヤガヤ群衆がやって来ます。彼はイエスをさがしています。ペテロを見ます。「あの人は違う」。ヨハネを見ます。「あの人でもない」。とうとうほかの誰よりも澄みきったひとりのかたに目が向けられます。
「あのかたがそうだ」

ザアカイは、しげみの間から、このふしぎな神の人を驚きながら見おろしています。ついに群衆は木の所にやって来ます。キリストが通り過ごされるように見えた時、キリストは木の下に立ち止まって、上をごらんになって言われます。
「ザアカイよ、急いでおりて来なさい」
彼の心の中に最初に浮かんできたことを想像することができます。
「だれかがあのかたにわたしの名まえを教えたのだろう。今まで会ったこともないのに」

キリストは彼をごぞんじでした。罪人よ、キリストはあなたのすべてを知っているのです。あなたの名まえも、あなたの家も知っているのです。キリストからかくれようとする必要はありません。キリストはあなたがいる場所も、あなたのすべてを知っておられるのです。

ある人々は
突然の回心
というものを信じようとしません。そういう人たちに聞きたいものです。—ザアカイは、いつ回心したのですか。彼が木にのぼった時、彼はたしかに罪の中にいました。彼は降りて来た時には、たしかに回心していました。彼は枝と地上の間のどこかで回心したに違いありません。この取税人が回心をするのに長い時間を要しませんでした。

「急いでおりて来なさい」。もう二度とこの道を通ることはないでしょう。これが最後の訪問です。ザアカイは急いでおりて来て、喜んでキリストを受け入れました。ほかの方法でキリストを受け入れた人のことを聞いたことがあるでしょうか。彼はキリストを喜んで受け入れました。キリストは、ご自身とともに喜びをもたらすのです。罪、悲しみ、暗やみは消え去ります。光と平和と喜びが魂の中にあふれます。読者よ、あなたがその高い所からおりて、今、キリストを受け入れてください。

ある人は言われるかも知れません。「彼が回心したということがどうしてわかりますか」と。彼は、非常にはっきりした証拠を残していると思います。わたしはきょう実の伴う回心の証拠を見たいのです。ある金持ちの人が回心して、その持ちものの半分を貧しい人々に与えてごらんなさい。人々はすぐにこれこそほんとうのことだと信ずるでしょう。しかし、それよりももっとすばらしい証拠があります。もしだれかから不正な取り立てをしていたら、それを四倍にして返します。非常によい証拠ではありませんか。人が突然回心すると、ある人は長続きしないだろうと言うでしょう。ザアカイは四倍にして返すほど長続きしました。人々のふところに達するような働きです。

次の朝、ザアカイのしもべのひとりが、百万円の小切手を持って隣人のところへ行き、これを手渡すさまを想像します。これはいったいなんですか。「わたしの主人が数年前、あなたから二十五万円をだましとったので、これはそのつぐないの金なのです」※

このことは、ザアカイの回心を確信させるでしょう。わたしは今、これに似たようなたくさんの実例で、人々が突然の回心に反対するのを止めてくれるよう願っています。

主は取税人の客となります。主がそこにいるというので、パリサイ人たちはぶつぶつと不平を述べ始めました。パリサイ人たちがその時代だけで死に絶えてしまったらよかったのにと思います。しかし、不幸にして、非常にたくさんの子孫を残して、今でも生き続けているのです。彼らは「この人は罪人を受け入れている」と不平をもらします。しかし、パリサイ人たちが不満を言っていた時、主は次のように言いました。

「わたしはザアカイをみじめなものとし、のろい苦しめるために来たのではない。わたしが来たのは、彼を祝福し救うためである。人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである

(同書26〜29頁引用。もとの翻訳文では小切手は4万円と1万円であった。50年の隔たりを考慮して25倍に直してみた。果たして物価変動はいかがなものでしょうか・・・)

2012年12月26日水曜日

罪人を尋ねなさるキリスト(2)

「イエスさま たすけて ください!」 絵本聖書(1974年版)より
「なんにも。一銭もかからなかった。ただで目があいたんだ。おまえも、欲しいものをあのかたに言うといいよ。あのかたを訪ねるのに、強力な委員会を作ったり、えらい人に代理人になってもらう必要はないよ。貧しい者でも、金持ちと同じようにあのかたを動かすことができるんだ。みんな同じだ」
「そのかたは、何という名まえだって」
ナザレのイエス。もし、そのかたが、この道を通るようなことがあったら、おまえの目のことをかならず言いなさいよ」
「きっと、そのかたが来たら、かならず尋ねますよ」

二、三日して、彼はいつもの所に連れられて行き、お金を叫び求めていました。突然、群衆のやって来る足音が聞えて来ました。彼は尋ねました。
「誰ですか教えてください、あれは誰ですか」

ある人が、ナザレのイエスがお通りになっているのだと教えました。それを聞いた彼は自分に言い聞かせました。「ああ、あのかたが、めくらの目をあける人なのだ」。そして叫びました。
「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」

わたしには誰だかわかりませんが—おそらくペテロだったでしょう—ひとりの人が言いました。
「うるさい! 静かにしなさい!」

彼は考えました。主はエルサレムにのぼって、王としての冠を受けようとしておられるのだろう。だから、ひとりのあわれなめくらの乞食などにわずらわされたくないのだろうと。人々は神の御子がそこにおられる時、知りませんでした。御子は天におけるすべてのハープの音を静かにしても、ひとりの罪人の祈りに耳を傾けられるのです。どんな音楽でも、それほど御子をお喜ばせするものはありません。

けれど、バルテマイはさらに大きな声をはりあげました。
「ダビデの子よ、あわれんでください」
祈りがいつもそうであるように、この祈りは神の御子の耳にとどきました。御子の足は止まり、人々に彼を連れてくるように命じました。人々は言いました。
「バルテマイ! 元気を出せ。立ちなさい。あのかたがおまえを呼んでいる」

御子は決してほかの者を呼びませんでした。彼のためにすばらしい物をたくわえておられるのです。罪人よ! このことを覚えておきなさい。(※)彼らは盲人をイエスのもとに連れて来ました。主は申されました。
「わたしに何をしてほしいのか」
「先生、見えるようになることです」
「見えるようになりなさい」

すると彼の目は、たちまち開かれました。わたしもその場にいてそのすばらしい光景を見たいものだと思います。彼が生まれて始めて見たものは神の御子でした。ガヤガヤしている群衆の中で、目の開かれたこの男ほど大きな声を出す者はいませんでした。わたしには彼が「ホサナ、ホサナ、ダビデの子」と叫んでいるのが聞えるような気がします。

少し想像を加えることをお許しください。バルテマイはエリコの町へはいって申します。
「さあ、妻のところへ行って、このことを話してこよう」

回心したばかりの人は、絶えず自分の友人に救いについて話したいと願うものです。道をくだって行くとひとりの男に会います。その男は通り過ぎてしばらく行きかけてから、ふりむいて言います。
「バルテマイではないか」
「はい」

やはり思ったとおりでした。しかし、その男は、自分の目を信ずることができません。
「あなたの目は、どうしてあいたのだ?」
「わたしはこの町の外で、ナザレのイエスに会ったのです。そして、あわれんでくださいって言ったのです」
ナザレのイエスだって? そんな人がこの国のどこにいるんだ?」
「ええ、あのかたはたった今エリコの町にいましたよ。今ごろは西の門に行こうとしておられるところでしょう」
「そのかたに一度お会いしたいものだ」

(『失われた羊を尋ねて 』24〜26頁より引用。この記事は四つの福音書のうち、ヨハネを除くすべてに記されている史実である。ムーデーはマタイ20・29〜34、マルコ10・46〜52、ルカ18・35〜43を典拠にし、特にルカに準拠しているように思われる。※なぜ、ムーデーが私たちを「罪人よ!」と臆面もなく、呼びかけるのかを思い、読者の中には奇異な感じを持たれるだけでなく、不快感を持たれる方もおられるかもしれない。「罪人」とはいったい誰をさすのだろうか、稿が進むに連れて徐々に明らかにされていく真理である。しばし寛容をいただきたい。)

2012年12月25日火曜日

罪人を尋ねなさるキリスト(1)

人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである。
                (新約聖書 ルカ19・10)

わたしにとってこのことばは、聖書の中で最も心をひかれることばのひとつです。この短い簡単なことばの中に、キリストがこの世においでになった目的を知ることができます。キリストがきたのは、ひとつの目的のためでした。キリストはひとつのわざを行なおうとしてきたのでした。この簡単なことばの中に、すべてが語られています。キリストが来たのは、この世を滅ぼすためではなく、キリストをとおしてこの世が救われるためでした。

数年前、英国の皇太子がアメリカに来た時、大きなどよめきが起こりました。新聞はこれをとりあげて論じ始めました。多くの人は、いったい何のために来たのだろうかとふしぎに思いました。共和制の政治形態を見るためだろうか。健康のためなのだろうか。アメリカの制度を見るためだろうか。あのことだろうか。このことだろうか。皇太子はこのような論議のうちに去って行きました。しかし、何のために来たのか語りませんでした。※

しかしながら、天国の皇太子がこの世に来た時、何のために来たのか、わたしたちに語られたのです。神はキリストをつかわされました。キリストは父の御旨を行なうために来たのでした。それはなんでしょうか。”失われたものを尋ね出して救うため”でありました。

聖書のどこを見ても、神につかわされた人が、そのわざにおいて失敗したという箇所がありません。神はモーセをエジプトにつかわして、三百万の奴隷の人々を約束の地へ移そうとされました。モーセは失敗したでしょうか。最初は失敗しそうに見えました。パロがその宮廷で「神とはいったい何ものか。わたしは神に従わなければならないのか」と言って、モーセを追いはらうように命じた時、たしかに失敗に終わったように見えます。しかし、ほんとうに失敗したでしょうか。

神はエリヤをつかわしてアハブの前に立たせました。エリヤは大胆にもアハブに向かって、「今後、数年雨も露もないでしょう」と語りました。しかし、天は三年六ヵ月閉ざされたのではなかったでしょうか。今や、神はそのふところから、その王座から、いつくしみたもうひとり子を、この世におつかわしになったのです。御子は失敗しそうに見えますか。感謝なことに、御子はきわみまでも救うことができるのです。救われたいと願って救われない人は、この世にひとりもいないのです。

このような聖句をとり上げ、詳細に調べ、その意味しているものを知ることは、わたしにとって大きな祝福です。十八章の終わりの部分を見ますと、キリストがエリコの町の近くに来られる記事があります。道のかたわらに、ひとりのあわれなめくらの乞食がすわっていました。おそらく、何年もの間そこにいたのでしょう。もしかしたら、彼は自分の子どもに追い出されたのかも知れません。あるいはまた、時々見かけるように犬をつれていたかも知れません。彼は何年も何年もそこにすわって、「どうぞ、あわれなめくらに恵んでください」と叫んでおりました。ある日、そこにすわっていると、エルサレムからくだってきたひとりの人が彼のかたわらに腰をおろして申しました。

「バルテマイ、おまえによい知らせを持ってきたよ」
「何だって?」
「おまえの目をあけることのできる人がイスラエルにいるのだよ」
「とんでもないことだ。目が開かれるなんてことは、今まで一度だって聞いたことがない。めくらに生まれた、生まれつきのものがなおるわけがない。この世じゃあ見えるなんてことはないよ。次の世では見られるかもしれないが、この世はめくらで過ごすよりほかはないのだ」
「しかし、まあ、聞いてくれよ。この間、わたしがエルサレムにいた時、生まれつきのめくらのいやされるのを見たんだ。すっかりよくなって、目がねを使わなくても、全くよく見えるんだよ」

こうして、このあわれな男の心にかすかな望みが出て来ました。
「どんなぐあいで見えるようになったんだね」
「うん、イエスが、土につばをかけて粘土をつくり目にぬったのだ。そしてシロアムの池に行って洗いなさいというんだ。その男が言われたとおりにすると目があいた。そうだほんとうにあいたんだよ。わたしはその男と話した。あんなによい目を持った人を見たことがない」
「それで、どれだけ請求された?」

(『失われた羊を尋ねて』D.L.ムーデー著湖浜馨編1960年版21〜23頁より引用。※ムーデーがこの文章を書いた時、すなわち19世紀の半頃にあたるのだろうが、アメリカはイギリスからとっくの昔に独立したとは言え、まだイギリスの統治が気になる時代だったのだろうか。そのような文脈で読むときに、例話とは言え、ムーデーの言わんとしたことが、現代の私たちにもより新鮮な話としてつかめるのではないだろうか。それに比して聖書の話はそれよりもはるかに昔の2000年前の話である。けれども、その話が古色蒼然なものとして響いて来ないのは、神のことばがつねに新たであることの何よりの証拠とは言えまいか。そして、今日のムーデーの文章はまさしく「これぞクリスマス」と銘打っていい文章だと引用者は思う。)

2012年12月23日日曜日

主のご降誕を喜び感謝する時

クリスマス・ツリーのある窓辺
主があなたを祝福し、あなたを守られますように。
主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。
           (旧約聖書 民数記6・24〜26)

あなたも、私も、人々を喜ばせるために、全心全力を傾けつくすことができますように、主よ、助けて下さい。その昔、イエスがクリスマスの夜に生まれたもうたのも、人々に喜びを与えるためでありました。いろいろの思い煩いのためにあなたの心が重くなり、仕事に追われて疲れた時には、イエスのことを思い起こして下さい。

クリスマスを迎えるために、掃除をしたり、飾りつけをしたりするあなたの働きの上に、神の恵みがありますように。

しかし、あなた自身のことを忘れてはなりません。

あなたの心の隅々には、かなり、塵や埃がたまっているに相違ありません。クリスマスの大掃除。神の御前での年末の総決算です。この総決算をすましたた時、あなたの貧しい魂は、「救い主うまれたまえり」との喜びのおとずれと、クリスマスの美しい楽の音とにみたされるのです。

次に、この地上にクリスマスの喜びをもたらして下さったおかたのことは少しも考えずに、ただ自分と家族の者のことばかりを念頭において、クリスマスの準備をしている人に、ひと言申し上げたいと思います。たぶん、あなたも、クリスマスを賛美する歌をうたうことでしょう。クリスマス・ツリーをともして、家族の者といっしょに、ご降誕の聖句も読むでしょう。そして、さびついていたあなたの心の琴線に、そっとふれるものを、ことしのクリスマスにも感じるかもしれません。けれども、あなたは、神をあこがれる心や、ため息や、涙をかくそうとします。そしてみことばも、みどりごも心の片隅に押しやってしまうのです。

友よ、馬槽の中に生まれ、十字架刑で死ぬということの中には、人を浮かれた気分にするものは何もないはずです。

神は、あなたの生活が、灰色の空虚な喜びと暗い悲しみで織り出され、ついには底知れぬ限りない嘆きにおちいることを見るにしのびず、み子をつかわしたもうたのです。

それなのに、あなたは神とともにクリスマスを祝うところまで導かれながら、イエスを、こっそりと戸の外に追い出そうとするのです。イエスがあなたの側にとどまりたもうたら、クリスマスのおもしろさがうすらぐだろうと、あなたは思っているのです。

今、神にたち帰りなさい。そうすれば、あなたは、きっと新しい喜び、新しいクリスマスを迎えるようになるでしょう。

(『みことばの糧』O.ハレスビー著岸恵以訳12月23日の項より引用)

2012年12月22日土曜日

失われた羊を尋ねて(8)

ああ、羊。われは stray sheep なり  by T.Satou
福音が「すべての」造られたものに宣べ伝えられるものであることを神に感謝します。このご命令が非常に自由であることを神に感謝します。あまり遠くに行きすぎて、神の恵みがとどかないという人はありません。あまり絶望的で、あるいは悪質で、神がゆるさないという人はありません。たしかに感謝すべきことです。地獄と同じように真っ暗な男女にも福音を宣べ伝えることができるのです。キリストは”だれでもみな”招いてくださることを神に感謝します。

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者が”ひとりも”滅びないで永遠の命を得るためである」

「”誰でも望む者”は惜しみなく命の水を飲みなさい」

聖書の中に自分のための約束はないと考えていたひとりの婦人のことを聞いたことがあります。約束はすべての人のためだというのです。ある日、彼女は一通の手紙を受け取りました。開いてみると、それは彼女あてのものではなく、同じ名まえのほかの婦人あてのものであることがわかりました。このことから、彼女は自分の心に尋ねてみました。もし、聖書の中にわたしに宛てられた何かの約束をみつけたら、それがわたしのことであって、ほかの人のことではないということがどうしてわかるだろう。神は、そのみことばにおいて理解されなければならないということを考えました。

そして、”誰でも”また福音が自由に宣べ伝えられている”すべて造られたもの”の中に、自分自身をふくめなければならないことがわかりました。

”誰でも”ということばは、全世界のすべての男、すべての女、すべての子どもの意味です。それは、少年、灰色の髪の男、若い金髪の女、母親の心を痛めている青年、悲惨な境遇と罪の中にひたっている酒飲みの意味です。おお、みなさん、あなたがたはこのよい知らせを信じませんか。この驚くべきキリストの福音を受け入れませんか。あなたがたは信じませんか。貧しい罪人よ、これは”あなたがた”のためであることを信じませんか。あまりに話がうますぎて、ほんとうとは思えないというのですか。

数年前、オハイオにいた時のことです。わたしは州の刑務所で説教するように招かれました。千百人の既決囚が礼拝堂に入れられ、みなわたしの前にすわりました。説教の終わったあと、刑務所つきの教誨師が申しました。「ムーデーさん、このへやで起こったあるできごとをお話ししたいと思います。数年前、わたしたちの委員が州知事の所へ行って、模範囚五人を赦免するという約束をとりつけて来ました。知事は次のような条件で賛成しました。記録を秘密にして、六ヶ月の終わりに名簿上最もすぐれた者を誰でもゆるすことにするということでした。六ヶ月の後、囚人たちはみな礼拝堂に集められました。委員がならび、委員長が壇に立って、ポケットから五枚の紙をとり出して言いました。
『わたしはここに五人の者に対する赦免状を持っています』

教誨師は、その時のような光景を見たことがないと言いました。みな、死のように静かになりました。多くの者は死んだように青ざめていました。不安がひどくつのって、心臓がとまったのではないかと思われるようでした。

委員長は、どうして彼らがゆるされたかということについて話し続けました。教誨師は彼をさえぎって言いました。
『話す前に名まえを言いなさい。みんな不安でいっぱいです』
そこで彼は最初の名まえを読みあげました。
『ルーベン・ジョンソンはここに来て赦免状を受けとるように』

委員長はそれをさし出しましたが、誰も前に出て来ませんでした。彼は所長に『囚人はみないますか』と聞くと、所長は『みないます』と答えます。そこで、もう一度言いました。 『ルーベン・ジョンソンはここに来て赦免状を受け取りなさい。これは所長が署名捺印したものであるから、ルーベン・ジョンソンはきょうから自由なものである』

誰も動きません。教誨師は、どこにルーベンがいるか右の方を見下ろしました。彼はよく知られた男でした。彼はそこに十九年間もいたのです。多くの者は、彼が自分の足でとび上がるのを見ようと、あたりを見まわしました。しかし、当の本人はというと、ゆるしをもらった幸運なやつは誰だろうかと周囲を見まわしていました。とうとう教誨師の目が彼をとらえました。
『ルーベン、おまえがそうなんだよ』
ルーベンはあたりを見まわし、うしろをふり返って、どこにルーベンがいるのかさがしました。教誨師はもう一度言いました。
『ルーベン、おまえのことだよ』
すると、彼は誰かもうひとりのルーベンに違いないというようにもう一度あたりを見まわしました。

このように、人は福音が自分のものであることを信じないのです。それはあまりにもうまいことだと考え、自分の次の人だと思ってやり過ごしてしまうのです。しかし『あなた』が今次の人なのです。

さて、教誨師は、ルーベンがどこにいるかわかりました。彼は三回『ルーベン、来て赦免状をもらいなさい』と言わなければなりませんでした。しかしついに、ほんとうのことがこの老人の心に忍び込み始めました。彼は立ち上がり、頭のてっぺんから足の先までふるえながら通路をやって来ました。赦免状を受け取ったとき、それを眺め、それから自分の座席に帰って両手に顔をうずめて泣きました。囚人たちが独房に帰るためにならんだ時、ルーベンもまた列に加わりました。そこでまた教誨師は彼を呼ばなければなりませんでした。『ルーベン、列から出なさい。おまえは自由なんだよ。もう囚人ではないんだよ』ルーベンは列から足をふみ出しました。彼は自由だったのです。

これは人がゆるす方法です。良い性格や、良い行ないのためにそうします。

しかし、神はどんなによい性格を得なかった者、この上もなく悪い人間だった者もゆるされます。神は地上のすべての罪人が、受けようとするならゆるしを与えられます。それが誰であるか、どういう人かは問題ではありません。あるいは町一番の道楽者かも知れません。あるいはかつて生まれた者の中で一番のならず者、あるいは一番の大酒飲み、どろぼう、浮浪者であるかも知れません。

しかし、わたしは喜びのおとずれをたずさえて来て、福音を「すべての造られたもの」に宣べ伝えるのです。

(同書16〜20頁より引用)

2012年12月21日金曜日

失われた羊を尋ねて(7)

自由の福音

誰でもそれを持つことができます。「このよい知らせは誰のためですか」と尋ねる必要はありません。それはあなたのためです。そのために、キリストの言われたことばを知りたいなら、わたしといっしょに来て、エルサレムにおいて、でしたちと別れのあいさつをしている光景をごらんなさい。

カルバリは非常な恐怖の思い出と共にキリストの背後にあります。ゲッセマネは過ぎ去りました。ピラトの審きの広間もそうです。キリストはすでに墓を通り過ぎ、み父の右にすわろうとされています。彼のまわりにはでしたちの小さな一群がおります。この小さな教会を残して、キリストのあかしをさせようとしておられるのです。お別れの時が来ました。

彼らに向かって、いくつかの”最後のことば”を言おうとされています。こうした終わりの瞬間に、ご自身のことを考えておられるのでしょうか。彼を待っている王座と、彼を天に喜び迎えられる御父のほほえみについて考えておられるのでしょうか。過ぎ去った光景を思い起こしておられるのでしょうか。あるいは、悲しそうなでしたちのことを考えておられるのでしょうか。

いいえ、彼は「あなた」のことを考えておられるのです。あなたは彼を愛した人々のことを考えておられると想像されたかもしれません。そうではありません。罪人よ、彼はその時、あなたのことを考えられたのです。彼は彼の敵のこと、すなわち彼を嫌った者、彼を軽べつした者、彼を殺した者のことをお考えになったのです。彼は、どうしたら彼らのために、より以上のことをしてやれるかお考えになったのです。

彼は、彼を憎む者のこと、彼の福音を少しも受けようとしない人のこと、あまり話しがうますぎてうそだというような人のこと、彼は自分たちのために死なれたのではないのだと言いわけするような人のことを考えておられたのです。それから、でしたちのほうを向かれ、あわれみにあふれた顔を向けて言われました。

”全世界”に出て行って”すべての造られたものに”福音を宣べ伝えよ」。「すべての造られたものに」ということばが、彼の最後のおことばでした。

ペテロが次のように言っているのが想像できるような気がします。
「主よ、あなたは”すべての”造られたものに福音を宣べ伝えよと、ほんとうにおっしゃるのですか」
「そのとおりです。ペテロよ」
「わたしたちはエルサレムに帰って、あなたを殺したエルサレムの罪人たちに福音を語るのですか」

「そのとおりです。ペテロよ、帰って、上からの力を授けられるまで、そこにとどまっていなさい。第一に彼らに福音を与えなさい。行って、わたしの顔につばきをした者をさがしなさい。わたしはゆるすと告げなさい。わたしの心の中には、彼に対して愛のほか何もないと。わたしのひたいにとげの冠をおいた者をさがしなさい。救いを受けいれるなら、あなたのために天国に冠を用意しようと告げてあげなさい。その冠にはとげはない。そして彼はそれをあがない主のみ国で永遠にかむり続けるだろう。わたしの手からアシの茎をとってわたしの頭を打ち、とげをひたいに深く刺した者を見つけなさい。彼が救いを賜物として受け入れるなら、わたしは彼に王位を与え、地上の諸民族を支配させよう。わたしといっしょに王座にすわらせよう。行って、わたしを平手で打った者を求めなさい。そして、福音を語ってやりなさい。イエス・キリストの血はすべての罪からきよめる。わたしの血はあなたのために惜しみなく流されたのだと告げなさい。行ってわたしのわきに槍を刺したあのかわいそうな兵隊をさがし出しなさい。わたしはその兵隊を惜しみなくゆるそう。そして、あなたを十字架の兵士にしよう。あなたがたてるわたしの旗は愛なのだと告げなさい」

(同書14〜16頁より引用。)

2012年12月20日木曜日

失われた羊を尋ねて(6)

昨年より開花の遅れている山茶花、でも一輪、二輪と・・・
あるイギリス人がひとりむすこを持っておりました。このひとりむすこは非常に愛されて、甘やかされ、ついには台なしにされていました。この少年は片意地をはり、おとうさんとの間によくいざこざを起こしました。ある日、親子げんかをしました。父親は非常に怒りましたが、子どもも怒りました。父親は「おまえのような者は家を出て行け、もう決して帰って来るな」と申しました。少年は「出て行きますとも。おとうさんが呼びに来るまで二度と帰りませんよ」と答え、父親は「決して呼びにいかない」と言いました。ついに少年は出て行きました。しかし、父親が子どもを見捨てる時も、母親はそうではありません。

母親は子どもに手紙を書いて、「おとうさんに早くお便りしなさい。そうすれば許してくださるでしょう」とさとし始めました。しかし少年は「おとうさんが帰ってくれと頼むまで決して家に帰りません」と言いました。そこで母親は、父親にとりなしましたが、父親はすげなく答えました。「いや決して頼まない」。ついに母親は悲しみのあまり病に倒れてしまいました。病気が重くなって医者に見離されて死のうとしている時、夫は彼女の最後の願いをかなえてやりたいと思い、何かしてもらいたいことがあるか尋ねました。妻は夫をちょっと見つめました。彼にはそれがどういう意味かすぐにわかりました。

「あなたにしていただくひとつのことがあります。わたしの子どもを呼んでください。それがこの世であなたがかなえてくださることのできるただひとつのことです。わたしが死んでしまった時、あなたがあの子をあわれんでかわいがってくださらないなら、だれがしてくださるでしょう」

「うん、おまえが会いたがっていると書いてやろう」

「いいえ、わたしにあの子が会うには、あなたが呼んでくださらなければだめです」

ついに父親は事務所に行き、自分の名前で速達を書き、少年に家に帰って来るように頼みました。父親からの招きを受けるとすぐに少年は出発し、死にかけている母親に会いに来ました。少年がはいろうとしてドアを開いた時、母親は今死の直前でした。父親はその時ベッドのそばにいましたが、ドアの開く音を聞いて、少年を避けるようにし、へやの反対側に行ってしまいました。少年に話しかけるのをこばんだのです。母親はむすこの手をとりました—彼女はどんなにその手をにぎりしめようと待っていたことでしょう!

「さあ、わたしのむすこ、おとうさんとお話しなさい。はやくお話ししなさい。それでみんなすんでしまうんですよ」

しかし少年は言いました。

「いいえ、おかあさん、おとうさんが話すまで、ぼくは話せません」

母親は、夫の手を一方の手にとり、もうひとつの手にむすこの手をとって、死の直前、ふたりを和解させようとしました。その時、彼女はちょうど息をひきとろうとしていましたので、ものも言えず、この片意地なむすこの手を父親の手の中に入れて死んでいきました。むすこはその母親を見つめました。夫はその妻を見つめました。そしてついに父親の心は破れて、両腕をひらいてむすこを胸に抱きしめました。こうして死のからだを前にして彼らは和解したのです。

罪人よ、これはただぼんやりとした型であり、貧しい例話にすぎません。なぜなら、神は、この父親のように怒ってはいないからです。わたしはあなたをキリストの死体のそばに連れて行き、彼のみ手とみ足の傷、そしてわき腹の傷を見ていただきたいと思います。そしてお尋ねします。

「あなたは和解されていますか」

キリストは天を離れ、かいばおけの中に下りて来られました。それは、最もいやしい罪人をとらえ、片意地な放とう者の手を、御父の手の中に入れるためでした。そして、あなたやわたしが和解を受け入れるために死なれたのです。もし、あなたがわたしの忠告を受け入れるなら、今夜和解を受けるまで眠らないでしょう。「和解を受けなさい」

おお、この和解の福音!みなさん、これこそ喜びの福音ではないでしょうか。

そしてそれは自由の福音なのです。

(同書12〜14頁より引用。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。エペソ2・14〜15、16

2012年12月19日水曜日

失われた羊を尋ねて(5)

Jesus & the Lamb(昨日いただいたX'mas カードから)
ある人々は、福音が語られている時、葬式に出席するか、死刑に立ち会わなければならないかのような、あるいは何か無味乾燥なばかげた講義か説教を聞かなければならないかのような陰気な顔をします。

グランド将軍※の軍隊といっしょにリッチモンドへ行ったことは私の特権でした。黒人たちが、ヨベルの記念祭を持とうとしていた時のことです。この有色人種は今自由を持とうとしていたのでした。彼らのくさりはとけ落ちて、自由であるという事実に目覚めようとしていました。それは重要なできごとだと思ったので、黒人教会へ行ってみました。そこは南部で最も大きな教会のひとつで、人々がいっぱいでした。北部の黒人牧師が話すことになっていました。わたしはヨーロッパやアメリカで多くの雄弁家が話すのを聞いたことがあります。しかし、この日聞いたほどの雄弁を聞いたことは、あとにも先にもはじめてです。

彼は言いました。「おかあさんがた! きょう喜びなさい。あなたがたは永久に自由なのです! 今まで小さい子どもはあなたの抱きしめた腕の中で涙を流し、どこか遠くの州に売られていったのです。あなたがたの心がこのようなはりさける思いになることはもう決してありません。あなたがたは自由なのです!」婦人たちは両手をたたいて声の限りに叫んでいました。「栄光、神に栄光あれ!」それは婦人たちにとってよい知らせでした。彼女たちはそれを信じました。その知らせは彼女たちを喜びで満たしました。

それから説教者は青年たちに向きなおって言いました。「青年諸君、きょう喜びなさい!今まであなたがたは奴隷監督のむちのうなりのうちに日を送って来ました。あなたがたの子孫は自由にされるでしょう。青年諸君、きょう喜びなさい。あなたがたは永久に自由なのです!」彼らは両手をたたいて叫びました。「神に栄光あれ!」彼らはこのよいおとずれを信じたのでした。

説教者は続けました。「若い婦人たちよ、きょう喜びなさい! 今まであなたがたはせり市に引き出され、売られてきました。あなたがたは自由です—永久に自由です!」。彼女たちはそれを信じ、声をはりあげて叫びました。「神に栄光あれ」わたしはそうした集会に出たのは初めてのことでした。彼らは、それが彼らにとってよい知らせであることを「信じた」のです。

みなさん、これよりももっとよい知らせをあなたがたにお伝えしましょう。黒人は、サタンに仕えている者ほどいやしく邪悪で、また残酷な主人を持っていたのではありません。酒の奴隷になっている人にお話ししましょうか。キリストは杯を投げ捨てる力をあなたに与えてくださいます。あなたを酒に酔わない人にし、愛すべき夫にし、やさしいおとうさんにしてくださいます。そうです。大酒飲みを夫に持つ貧しい奥さん、あなたによい知らせをお伝えしましょう。あなたのご主人はもう一度真人間になれるのです。そして、あなたがた罪人、今まで全く反抗し続けかたくなであったかたがたよ、福音はあなたがたにゆるしのことばを伝えていきます。

神はあなたがたが神と和解されることを望んでおられます。「神に対して和解を受けなさい」。これが神のあなたがたに対するおことばなのです。

(同書10〜11頁より引用。※グランド将軍は南北戦争の北軍の将軍である。今日の話を読んでいて、『アンクル・トムの小屋』のトムが奴隷として売られていく前夜の奥さんのクローとの印象的な会話を思い出した。抄訳だが今年亡くなった丸谷才一の訳で紹介する。

「聖書には書いてあるぜ。むごいことをする者のためにも祈れ、って」
と、アンクル・トムは言った。
「あんなやつらのためにも、祈れだって——」
と、クローおばさんは言って、
「あんまりひどいじゃないか。わたしには、とてもできないよ」
「そう考えるのは自然なことさ。そして、自然というのは強いよ。でも、神さまのお恵みはもっと強いんだ。それに、ああいうことをする人間の魂はどんなにあわれかってことも、考えなくちゃいけない。そういうあわれな人間の魂を、恐ろしいめにあわせるよりは、おれが何万べんでも売られていくほうがましだ」

すでに神の和解を受け入れ(よい知らせを信じて)神さまの恵みに生きていた黒人奴隷トムが、よい知らせを信じないで人非人とも言うべき自分を買おうとしている奴隷商人に対して示す愛のセリフだ。『アンクル・トムの小屋』の著者ストー夫人も、D.L.ムーデーも19世紀の同時代に生きたアメリカ人である。 

私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ローマ7・14〜15、24〜25

2012年12月18日火曜日

失われた羊を尋ねて(4)

ある人が、かつてわたしのために”最後には”永遠の命を得るようにと祈ってくださいました。わたしはこれに対してアーメンと言えませんでした。もしこの意味で言われたのなら、ずっと前、わたしが回心した時に永遠の命を得たのです。もし神の賜物が永遠の命でないとしたら、それはなんでしょうか。そして何が福音をそんなによい知らせとするのでしょうか。福音がそれを受け入れるすべての貧しい罪人に、永遠の命を与えるからではないでしょうか。

もしひとりの天使が神の王座からまっすぐに下りて来て、何でも求めることをひとつかなえてあげるため、神がおつかわしになったのですと言ったら(なんでも自分で願うことは許されているのです)あなたは何を求めますか。ただひとつの答があります。その求めは天国のひびきがします。永遠の命を! 永遠の命を! ほかの何ものも無となるでしょう。人が望むもの、人が尊ぶものは命です。百万ドルを持った人が難破船に乗っている時、その百万ドルで、六ヶ月命をながらえることができるとしたら、いつでもそれを与えるでしょう。しかし、福音は六ヶ月間の賜物ではありません。”神の賜物は永遠の命である”それなのに、立って語り、祈ってこの高価な賜物を受けるよう懇願しなければならないということは、ひとつの大きな不思議ではないでしょうか。

みなさん、この地上に、死や罪やさばきの恐怖に悩まされることのないひとつのところがあります。罪人が立つことのできる唯一の安全なところです—カルバリです。

秋西部の草原に行くと、何ヶ月も雨が降らなかったため草が燃え出すことがあります。時によって、風の強いときなど、ほのおは巻き上がって七メートルもの高さとなり、人や動物を焼きつくしながら突進していくのが見えるでしょう。開拓者たちが見て、何がやってくるのかわかった時、どうして逃げたらよいでしょう。ほのおの進むのと同じ速度で走ることはできないことを彼らは知っています。一番早く走る馬でものがれることはできません。彼らはマッチをとって自分たちのまわりの草に火をつければいいのです。ほのおははって向こうに進みます。彼らはその焼けあとに離れて陣どっていて安全なのです。ほのおがこちらに来る時、鳴りとどろいているのが聞えます。死が抵抗できないほどの凶暴さで彼らにおしよせてくるのが見えます。しかし、彼らは恐れません。彼らは、まわりにほのおの大洋がさか巻いても身ぶるいもしません。彼らがいるところはすでに火が通り過ぎて、もう危険はないからです。火に燃える何物もありません。

この地には、神が掃ききよめられたひとつの地点があるのです。千八百年前※カルバリに突然あらしが起こりました。そして神の御子は、それをご自身の御胸の中におさめられました。そして今、わたしたちが十字架のそばに立つなら、わたしたちは永遠に安全なのです。

罪人よ、あなたは今安全ですか。あなたは過去の罪のさばきからのがれることができますか。やがて来る試みの力からのがれることができますか。それでは「とこしえの岩」の上に立ちなさい。死が来ようと、墓が来ようと、さばきが来ようと、勝利はキリストのものです。そして、この勝利は彼をとおしてあなたのものなのです。

おお、今この福音—キリストの犠牲の驚くべき知らせをあなたのために受け入れませんか。

(同書7〜9頁。※D.L.ムーデーは1837年生まれ、1899年没の人物である)

2012年12月17日月曜日

失われた羊を尋ねて(3)

寒くって寒くって開けないよー


わたしの子どものころからの罪や、あらゆるかくれた思い、あらゆるよこしまな望み、暗やみで行なったすべてのことが明るみに出され集められて、全世界に広げられたら、それはどんなに恐ろしいことかと思いました。しかし、神に感謝すべきことに、こうした考えは去ってしまいました。わたしの罪はすべてキリストの中に取り去られていると福音は告げています。神は愛の故にわたしのすべての罪をとり、その背のうしろに投げ捨ててくださいました。そこは罪に対して安全なところです。神は決して背を向けられません。いつも前進し続けられます。神は、罪がその背のうしろにおかれているなら、あなたの罪を決して見ようとされないでしょう。—それは、神ご自身のたとえのひとつです。サタンは、罪を見出すためには神のうしろに廻らなければなりません。それはどんなに遠く離れていることでしょう。もう一度帰ってくることができるでしょうか。

「東が西から遠いように、主はわれらのとがをわれらから遠ざけられる」

いくつかの罪ではありません。神は「すべて」の罪をとり去られるのです。あなたの罪を黒山のように積みあげて、考えることのできないような数になったとしましょう。その罪をひとつひとつ数えようとした時、わたしにひとつの聖句を引用させてください。その山は消え去ってしまいます。

「御子イエスの血が、すべての罪からわたしをきよめるのである」

しばらく前のことですが、アイルランドでひとりの先生が小さな少年に「神さまにできないことがあるでしょうか」と尋ねました。この小さな相手は答えたのです。「はい、神さまは、わたしの罪をキリストの血をとおして見ることができません」これこそ神がおできにならないことです。キリストの血は罪をおおいます。罪からのげれることができるということが、よい知らせではないでしょうか。

あなたは罪人のままでキリストのところにおいでなさい。そして、キリストの福音を受け入れるなら、あなたの罪はとり除かれます。あなたはそうするように、招かれているのです。いや、キリストはあなたがそうするように熱心に願っておられるのです。すべての罪を除きさること、キリストを受け入れ、キリストの義を罪の代わりに受け交換するように招かれているのです。これこそよい知らせではないでしょうか。

わたしをいつも非常になやませたもうひとつの敵があります。

さばき

わたしはしばしば、神の御前に呼び出される恐ろしい日のことを考えました。キリストが「わたしから離れなさい、のろわれた者よ」と言われる声を聞くのか、あるいは「あなたの主の喜びにはいりなさい」という声なのかわかりませんでした。そして、大きな白い王座の前に立つまで、誰も右手に行くのか、左手に行くのかわからないと思いました。しかし、このことはすでに定められているのだと福音は告げています。

”キリスト・イエスにある者は、もはや罪にさだめられることがない”

”よくよく”—このことばが聖書に使われている時、非常に重要なことが次に言われています。—”よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである”

そうです。今、わたしは罪のさばきに向かっているのではありません。それは未決定の問題ではないのです。神のみことばはそれを解決しています。キリストはわたしのゆえにさばかれ、わたしに代わって死なれました。そしてわたしは自由なのです。信じる者は”持っている”のです。

これこそよい知らせではないでしょうか。

( 同書5〜7頁より)

2012年12月16日日曜日

失われた羊を尋ねて(2)

2012年X'mas Decolation


福音はこれを除きました。わたしの思いは、何年も昔、回心する前のころにしばしばかえります。将来のことを考えるとき、どんなに暗く感じたことでしょう。どんなにしばしば死が恐ろしい怪物にみえたことでしょう。そして、それがどんなにしばしばその黒い影をわたしの生涯に投げかけたことでしょう。死がわたしのところに来る恐怖の時を思って、どんなにおののいたことでしょうか。わたしは結核のような、何か長びく病気にかかって死にたいと、どんなに願ったことでしょう。もし、そうなれば、死がいつやってくるかわかるからです。わたしはこのことをよく覚えています。

わたしの村では、古い教会堂の鐘を、亡くなった人の年の数だけ鳴らす習慣になっていました。その鐘の音は、ある時は十七、ある時は十八でした。またある時は、わたしと同じ歳の誰かの死を鳴らしていました。それはわたしに厳粛な印象を与えました。その時は、自分を臆病者だと感じました。わたしは冷たい死の手を思いました。未知の国へ行って、永遠の命をすごすように、送り出してもらうことも考えました。

わたしは、墓の中をのぞいて、寺男が棺のふたの上に土を投げかけているのを見たとき、”土は土に、灰は灰に、ちりはちりに”それはとむらいの鐘の音のようにわたしの魂に響きました。

しかし、今はすっかり変わりました。墓は恐ろしくなくなってしまいました。私は天国に向かって歩き続けているので、大声で叫ぶことができるのです。”おお、死よ、おまえのとげはどこにあるのか”そしてわたしは、カルバリから聞えてくる答を耳にします。”神の御子の御胸にのまれてしまった”彼はわたしのために、きっぱりと死からとげをとり去って、ご自身の胸に受けとめてくださいました。オオクマバチをとらえて、その針を抜きとってごらんなさい。もう、ハエほどにも恐ろしくありません。そのように死はとげを失いました。あの最後の敵はすでに征服されたのです。そして、わたしは、死をおしつぶされたいけにえのようにみることができます。今死が得ることができるのは、この古いアダムだけです。どうしたらそれを免れるのか心配しません。わたしは栄光のからだ、よみがえりのからだ、今よりもずっとすばらしいからだをいただくでしょう。

死が、わたしの立つ説教壇に忍びこんで、その氷のような手をわたしの心臓において鼓動をとめたとしましょう。そうすれば、わたしはさらにうるわしい世界によみがえって、主と共におるでしょう。福音は敵を友と変えてしまいました。死ぬ時はただイエスの御腕の中にはいり、永遠の休みの地に生まれる時だと考えることは、なんとすばらしいことでしょう、”死ぬこと”あの使徒は言っています、”それは益である”

彼らがわたしの主をヨセフの墓に横たえた時、死が墓地の上にすわっているのを誰か見たかも知れません。そうした情景が想像できます。そして、死は言っています。”私は彼をやっつけた。彼はわたしのいけにえだ。彼はよみがえりであり、いのちであると言ったが、今わたしの冷たい腕に抱かれている。彼は決して死ぬことはないと思ったが、この彼を見なさい。彼は私にささげものを払わねばならなかったのだ”。違います。栄光の朝、人の子は死のきずなを真っ二つに破って、征服者として墓からよみがえられました。”わたしは生きる故に”彼は叫ばれます。”あなたも生きるであろう”そうです。

「あなたも生きるであろう」—これがよい知らせでないでしょうか。おお、みなさん、福音に悪い知らせはありません。それは生きることを楽しくさせ、死ぬことを楽しくさせるのです。

もうひとつのわたしをなやませた恐ろしい敵は罪です。

(同書3〜5頁より引用)

2012年12月15日土曜日

失われた羊を尋ねて(1)

よい知らせ

”福音”ということばは、”神のみことば”、”よいみことば”、あるいは”よい知らせ”という意味をもっています。

福音は、「大いなる喜びのおとずれ」です。この福音ほどよい知らせが天から来たことはかつてありません。この福音ほどよい知らせが人類の耳に響いたことはありません。天使たちがこのおとずれを伝えるために下って来た時、ベツレヘムの野にいたあの羊飼いたちに、なんと言ったでしょうか。「見よ、悲しいおとずれをあなたがたに伝える」と言ったでしょうか。違います!「ごらんなさい、悪い知らせを伝えましょう」と言ったでしょうか。違います!「見よ、すべての民に与えられる大きな喜びをあなたがたに伝える。きょうダビデの町にあなたがたのために救い主がお生まれになった」

もし、この羊飼いたちが、今日の多くの人々のようだったら、次のように言ったことでしょう。「われわれはそれをよい知らせだと思わない。全くの興奮剤にしか過ぎない。天使たちはリバイバルを起こそうとしている。われわれを興奮させようとしているのだ。彼らのいうことを信じてはいけない」

これこそ、今悪魔(サタン)の言っていることです。

「福音がよい知らせだと信じてはならない。それはあなたをみじめにするだけだろう」

悪魔(サタン)は、人がよい知らせを信じる瞬間、それを受け入れてしまうことを知っているのです。そのため、悪魔(サタン)の支配下にある者は誰でも、福音がよい知らせであることを実際に信じません。しかし、あの羊飼いたちは、天使の伝えたおとずれを信じたのです。そして彼らの心は喜びに満たされたのでした。

もし、ある少年が誰かのところに一通の至急便を持って行った時、それを受けとって読んでいる人の表情から、どういう便りであったか、知ることができないでしょうか。もし、よい知らせなら、すぐその顔色でわかるでしょう。もし、ルカによる福音書15章にあるように、どこかほかの地に離れている放蕩(とう)息子が帰って来たという知らせなら、おとうさんの顔はぱっと喜びに輝いたと思いませんか。そして、彼はそのよい知らせを奥さんに伝えるでしょう。そして奥さんの顔も、彼の喜びをわけ与えられて輝くことでしょう。

しかし、福音が伝えるおとずれは、もっともっと輝かしいものです。わたしたちは罪過と罪の中に死んでいます。そして、福音は生命を与えます。わたしたちは神に敵対しています。そして福音は和解を与えるのです。この世は暗黒ですが、福音は光をもたらします。福音、つまりキリストが世の光であることを信じようとしないため、世は今暗い中にあるのです。しかし、信じる瞬間、カルバリの光は彼の生涯に流れこみ、曇ることのない光の中を歩むのです。

どういうわけで福音を喜ぶかお話したいと思います。この福音は、わたしがかつて聞いたうち、最もすばらしい知らせであったからです。

わたしが福音を喜んで伝えるのは、それがわたしに非常にすばらしいことをしてくれたからです。誰も福音が何をしてくれたかを語りつくすことはできません。しかし福音が何をとき放ってくれたか、お話することができると思います。福音は私の生涯で最も痛ましい三つの敵を取り除いてくれました。コリント前書15章には、あの恐ろしい罪が語られています。最後の敵は死です。

(『失われた羊を尋ねて』D.L.ムーデー著 湖浜馨編 1960年刊行1〜3頁。小冊子であるこの本はすでに著作権が切れています。当分の間ムーデーのこの小著作を連載させていただくことにします。今日の箇所は助走に過ぎません。その代わり、たっぷりとピンクの薔薇の馥郁とした香を味わってください。)

2012年12月14日金曜日

新しくやり直しませんか

庭に咲いた小さい清楚な白薔薇、いかなる貴婦人もこれほどには装っていない!
アドベントの日々である。しかし、O.ハレスビーは今日の霊想で次のように書いている。これもまたアドベントの日々に瞑想するべき大切なことがらのような気がする。(『みことばの糧』岸恵以訳12月14日の記事より引用)

私と私の家とは、主に仕える。(旧約聖書 ヨシュア24・15)

このヨシュアの言葉をそのまま生かして、新しい家庭生活をはじめた人はたくさんあります。

夫と妻は愛しあい、同じ信仰の道をあゆみ、苦しみも悲しみも、すべてのことを分かちあっていました。ともに祈り、ともに聖書に親しみ、ともに讃美し、信仰生活について語りあったりしました。しかし、そのような生活が、やがて跡かたもなく破壊されてしまった場合が多いのです。

家庭の利己主義というものが、頭を出してきたのです。愛する、ということよりも、愛される方に慣れてきたのです。最初は、さ細なことに対しての感謝を忘れる程度だったのが、次第に無遠慮な態度へと変わっていきました。夫婦が、お互いよりも、他人に対している時の方が親切、丁寧で礼儀を重んじるようになりました。そうなると、夫婦はお互いに不機嫌で、あまり話しあわなくなり、意地をはり、強情になりました。

愛は、傷つきやすい、弱い植物です。少しでも世話を怠れば、しおれて、枯れてしまいます。私たちの心に愛があるというだけではいけません。私たちはその愛を、現わさなければならないのです。無口な性質の人には、愛を表現したくないという気持ちが特に強く働きます。彼らの性質が頑固で不自然なために、その愛情は表現しないうちに枯れて死んでしまうのです。これは、特に男性に多いようです。

夫よ。あなたの妻に対して、愛情を示すようになさい。それは単にある特別の公式の場合だけではなく、あなたの日常生活の中にも、あらわしなさい。妻が夫にたより、夫の愛情をいちばんありがたく思うのは、家庭にあって生活している時なのです。そして、あなたが妻を尊び、高く評価しているという事実が、他人に知れることを気にする必要もありません。

愛する妻、あるいは夫の欠点や短所が気になりはじめた時は、それは、愛がためされる時です。家庭生活は親密なものでありますから、私たちはお互いの欠けたところを知るようになるのです。

私にも欠点や短所があります。しかし、私の切なる願いは、多くの欠点があるにもかかわらず、私が家族の者の愛に守られ、彼らの愛によって、私の欠点が矯(た)められていくということであります。そして、もし私が家族の者の欠点に対して怒るようなことがあれば、それは、私の愛情が、どれほど、きたない利己心にそまっているかをあらわすことになるのです。

真の愛に生きる人は、家族の者の欠点を耐え忍んで、ゆるします。が、ただそれだけではなく、欠点を持つ者を、その欠点のゆえに、深い愛で包むのです。

2012年12月12日水曜日

人間性の腐敗と神の恵み(下)

室内から見た降り始めの雪景色、湖東は今日も雪の中か?
とすると、キリスト信仰のすべては、自己否定につきることになりましょう。わたしたちの生まれつきの考え方に反対するということです。神だけに幸せを求めるということ以上に、わたしたちの習慣的な考え方に反するものが、果たしてあるでしょうか。それはわたしたちの感覚、つまりあのわたしたちになじんだ導き手が、見ることも、聞くことも、味わうこともできないような、そういう幸せと言わねばなりません。

生まれつきのままの人間を見てください。彼はこの世には限りない種類の幸福があるかのように行動します。楽しみもいら立つことも数多くあります。幸福はどこにでも見出されると考えているのです。ところが手にしたと思った幸福にだまされるという経験をする、そのためにいら立つことも多いというわけです。そこで、キリスト信仰は明らかに自己否定を主張することになります。それはわたしたちの肉的な感覚が幸福と呼んでいるような娯楽からは離れて、感覚がうかがい知ることのない幸福に導きます。

わたしたちの肉的な感覚は、いつ眠るべきか、火にはどのくらい近づいてもいいか、またどれほど重いものを運ぶことができるかなどを教えてくれます。これらのことについては、感覚は適切なガイドです。けれども罪の意識、幸福、また求めるべき徳などについて、もし肉的な感覚に頼ろうとするならば、それは目で聞こうとし、耳で見ようとするのと同じです。物ごとの真の価値ということになると、大人は子どもと同じ判断力しか持っていません。わたしたちは子どもが小さくてつまらないものをほしがるのを笑います。けれどもわたしたち自身の頭は、大きなつまらないものでいっぱいになっています。宝くじに当たったらどんなに幸せかなどと大人が考える時、それはちょうど子どもが、キャンディーを二十本買うお金がほしくてたまらないのと同じです。

心がアルコールのことでいっぱいの人は、道理にかなったことを考えることができません。そのような人とまじめな会話をするのはむずかしいでしょう。そしてスポーツやファッションやうわさ話で心がいっぱいになっている人もまた、キリスト者の見方からするならば、道理にかなったことを考えることができません。その人は霊的な会話の喜びを知ることができないのです。

聖霊はわたしたちを助けて良いものを求めるように導いてくださり、またそれをすることができるように力を与えてくださいます。

わたしたちのいのちは神によって支えられているのですが、そのように神の力が働いていることをわたしたちは目で見ることができません。わたしたちの霊的ないのちについても、聖霊がそれと同じように働いてくださっているのです。イエスは言われました。

風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。(新約聖書 ヨハネ3・8)

聖霊が働いてくださる時、その結果をわたしたちは感じることができます。風の吹いたあとを見ることができるのに似ています。けれどもどのようにして聖霊がわたしたちに力をふるってくださるのかは、わたしたちにはわかりません。パウロによれば、

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。(ローマ8・14)

ということは、わたしたちも聖霊と協力しなければならないということを意味します。岩の上に落ちた種は生長することができないでしょう。同じように、心が石ころだらけであるならば、聖霊の実を結ぶことができません。

酔っぱらいや犯罪人※が御霊の実をみのらせることがないということはだれでも認めるところです。けれども、この世の思いわずらいでいっぱいになっている心もそれと同じだと言わなければなりません。・・・もしそうならば、霊的な生長を続けることはほとんど不可能です。

(『ウィリアム・ローのキリスト者の完全』マービン・D・ヒンテン編棚瀬多喜雄訳56頁以下抜粋引用。引用に当たっては編者編纂の9章「人間性の腐敗」と10章「聖霊」の一部をつないで再構成した。[※引用者註:著者はそう断定するが例外がある、言うまでもなくルカ23・40以下のイエスとともに十字架にかけられた犯罪人である。]この本は次男が中学卒業のとき、教会の中学生スタッフから贈られたもので1988年3月の奥付がある。24年余、書棚で埃をかぶっていたことになる。小冊子ながら、多くの本が処分された中で良くぞ生き延びてきたと思う。それだけ良書なのだろう。英語の達者な方は直接以下のサイトに当たられるとWillim Lawの作品を読むことができるので紹介しておく。http://www.passtheword.org/William-Law/)

2012年12月11日火曜日

人間性の腐敗と神の恵み(上)

冬寒に 赤き実つけて 万両
聖書の中では二つの真理が特に目立ちます。人間の性質は腐敗したものであるということと、神の恵みが絶対的に必要だということです。わたしたちの腐敗は病気のようなものです。薬(恵み)を投与することによって病をいやしつつあるか、あるいはそれを無視することによって、ますますひどくさせているかのどちらかです。

したがって、わたしたちの霊的な健康状態を次のように判断することができます。もしもわたしたちが自分を否定しているならば、健全な状態に近づきつつあるということ、そしてもしも自己愛の状態にとどまっているならば、その逆だということになります。

自己否定ということを言う時、わたしたちはだれの目にも明らかな肉的な罪だけを考えることが多いようです。けれども警戒すべき最もやっかいな罪は、自己愛とか傲慢といった霊的な罪です。たとえある面で自分を否定したとしても、ほかの部分でわがままいっぱいにふるまっているならば、わたしたちは何の役にも立たない奇妙な混合物になってしまうことでしょう。木の根元に斧を置くべきです。あれこれの楽しみを否定するだけではなく、わがままにふるまおうとする性質そのものを断ち切り、自分を神の霊に委ねるようにするのです。

たとえば、自分が今まで使ってきた言語を忘れるようにキリスト信仰が要求している、と仮定しましょう。そしてむずかしい新しい言語だけを話せるようにしなければならない、とします。生まれた時から慣れ親しんだ言語というものは、意識的に使うまいと拒否しないならば、果たして忘れることができるでしょうか。時々使うだけにすることによって忘れられるでしょうか。今までの言語を使って話さないようにするだけではなく、それを用いて本を読んだり、書いたり、時には考えたりすることさえ避けるようにしなければならないのではないでしょうか。

そういうわけで、徹底的な自己否定がどうしても必要なのです。キリスト信仰は今まで使ってきた言語を捨てるように命じることはしませんが、古い性質を捨てて、新しい霊に生きるように命じます。古い性質から離れるためには、ただその性質に基づいて行動することをやめるだけではなく、その性質に基づいて何かを好きになったり、嫌いになったり、考えたり、望んだりすることさえもやめるようにしなければならないでしょう。

人間の生まれつきの性質とキリスト者としての性質とを調べると、自分の古い性質を否定することがすなわち徳の始まりであると確信できるようになります。キリスト信仰は三つの原則を教えます。第一に、神がわたしたちにとって唯一の善であり、神においてでなければわたしたちは幸福になれないということです。第二に、わたしたちの魂は死ぬことのない霊であって、この地上の生涯は言わば試用期間です。第三に、わたしたちはみな神の審きの座に出て、永遠のいのち、あるいは永遠の死の宣告を受けることになります。

キリスト者はだれでもこれらの原則に従って生きるのです。この原則に従って判断をし、考え、物ごとを選びあるいは避け、望みあるいは恐れ、憎みあるいは愛 するのです。神と共なる永遠の幸福を生きる準備として、この地上に遣わされた被造物がわたしたちです。そういう者としてわたしたちは生きます。

(『ウィリアム・ローのキリスト者の完全』棚瀬多喜雄訳54頁より引用。文中「キリスト教信仰」とあるところを引用者が勝手にキリスト信仰と読み替えています。)

ウィリアム・ローの言わんとするところは、キリスト信仰についてまだ十分理解されていない方が上述の文章を読まれた場合、やはりキリスト信仰も一つの人格完成の精進の道でないかと思われるかもしれない。長い文章のうちから今日の箇所を最初から紹介しないで、いきなり途中の文章を引用しているので、そのような誤解が生ずることを引用者は恐れている。そのために以下の重要な二つのみことばを載せ、補足したい。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(新約聖書 2コリント5・17)

イエスは・・・言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9・12〜13)


このふたつのみことばは私たちが主イエス様によってどれだけ新しい生き方、新しいいのちを得ることができるかを十分説明しているのでないか。その上で新しいいのちをいただいたキリスト者がどのように歩むのかを具体的に描いたのが上述の文章であるとご理解いただきたい。明日はこの文章の後半を紹介する。

2012年12月10日月曜日

孤児となさらない主イエスさま

彦根城佐和口と多聞櫓 2012.12.6
また久しぶりに一週間余一人の生活を送った。今年は都合何週間か一人の生活が続いた。人間生活は食べること、着ること、住まうことを抜きにしては成り立たない。ところが長い結婚生活でこれらすべてを細君に依存する生活がすっかり身についてしまっている。かく言う私も十代後半のころ、母を亡くし、父と二人の生活を送ったことがある。ご飯ごしらえは私の分担だった。その時分、テレビは土井さんという料理番組のエキスパートがいた。その番組は結構参考になった記憶がある。

今回、毎日のようにお惣菜を求めて近くのスーパーに出かけた。千円札どまりだが、あっと言う間に財布は軽くなる主婦の思いをする。けれども昨日だけは何としてもお金を使いたくなかった。冷蔵庫にある「もやし」「キャベツ」「ベーコン」「スパゲッティ」を使い切ってしまう必要があったからである。それにその前の晩こしらえた豆腐となめこの味噌汁も少々残っている。ご飯は炊くとしても、おかずはどうするかであった。肉を久しく食べていないのでそちらにも食指が動いたが、この際、そんな贅沢は言ってられない。

ややあって、近来手つかずになっているツナの缶詰をこの際使うべし、と思い至った(でも、この時この缶詰がのちにちょっとしたアクシデントになるとはわからなかった)。ただ結果的に先の材料とツナの混ぜ合わせの炒めは、結構美味しい汁が出て風合いが良く、これはこれで自分にとっては正解であった。ただ問題だったのは「量」の多さであった。その点一人の生活ほど不経済な生活はない。今回も痛感させられた。でも、何とか夕食と今朝の朝食へと振り分けることができた。残飯もなく、台所まわりも綺麗に処理できてこれなら妻も喜ぶだろうと思った。ところが好事魔多しとはこのことか、最後に缶詰を洗い流そうとして、不注意ゆえに指先を切ってしまった。見る見る血が出てくる。慌てた。幸い、バンドエイドがすぐ見つかって事なきを得た。

今回は掃除機も洗濯機も二回使った。お風呂場は寒く湯船にお湯を溜めても一人ではもったいない。シャワーも寒いので、迷った。でも、どうしても我慢できずこれも二度ほど焚くことができた。当方としてはまあまあである。

昨晩のテレビニュースによれば明日は当地方は雪とのことであった。二時半ごろ用を足すため廊下づたいに庭を見たところ、雪の様子は見られないのでニュースは何だったのかと思った。ところが時前に起きて戸外を見やるといつの間にか外は銀世界に変わっていた。してみると、気温は日の出前に向かってさらに低下していったと見える。思わぬ雪のプレゼントに庭もうっすら化粧をして取り澄ましているかのようだった。

それにしてもあの「血」はイエス様の流された血を一瞬とは言え、私に想起させた。

血したたり 主を想いし 手傷なり

ただひとり 食べるみじめさ 訴えし 友の悲しさ 主は知りたり

私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。・・・・もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(新約聖書 1ヨハネ1・3、7)

2012年12月9日日曜日

キリスト者とは祈り合う民なり!

琵琶湖岸(車の中から)2012.12.2
パウロは手紙の中で、各地の教会に対し、またキリスト者個人個人に対して、いつも彼らのことを祈っていると言います。たとえばピリピの教会に「私は、あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し」ていると書きます(ピリピ1・3)。テモテにはこう言います。「私は、夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こしては・・・神に感謝しています」(2テモテ1・3)初代のキリスト者同士の心を結びつけていたのは単なる人間的な興味や関心でありませんでした。霊的な祝福を分かち合うこと、また互いのために神に祈り、感謝をささげることが彼らを結びつけていたのです。キリスト者同士の愛を見て、世の人たちはすっかり驚いてしまったのです。

ですから自分のために祈るのと同じくらい熱心に、同じくらい度々、ほかの人たちのために祈るべきです。そうするとだんだん広い心を持ち、自分の幸せだけでなく、ほかの人たちの幸せを喜ぶようになるでしょう。ほかのだれかが永遠の幸福を得ることができるようにと祈り求めているならば、この地上でも、その人が少しでもその目標に近づくことができるように、何かを実際にしたいと思うようになるでしょう。病気の人が癒されるように神に祈りながら、その人が必要な薬を手に入れるかどうか気にもしないというのは、奇妙なことに違いないではありませんか。

あらゆるキリスト者を兄弟と考えるべきですけれども、しかし実際にはそのうちのわずかな人たちとの交わりの中でわたしたちは生きることができるだけです。ですからそのような、常に接触する人たちのために、特にとりなしをすべきです。祈りの中で、回りにいる人たちのために役立つ者となることを求めているならば、実際にあなたの隣人に対して親切になることははるかに容易になります。だれかを愛するようになる一番いい方法は、その人のために祈ることです。ある人のために神からの赦しを祈り求めているならば、わたし自身がその人を赦すのも、それほどむずかしくないはずです。このような祈りによって、キリスト者はお互いを霊の家族の一員、また本来の栄光を共に受け継ぐ者と見ることを教えられます。

両親は自分の子どものためにとりなしの祈りをすべきです。たいていのキリスト者は、ごく一般的な意味で子どもを「祝福してくださるように」祈っていると思います。けれどもわたしが言うのは、もっと具体的に子どもの霊的な必要のために祈るということです。そうすると親は自分の言行のすべてについて、前より注意深くなることでしょう。自分たちの実例がその祈りの妨げにならないようにしようと思うからです。

どうしたら人は完全に近づくことができるのでしょうか。自分をいらいらさせる人たち、あるいは敵視している人たちのために、神にとりなしをすることによってである、と言っていいでしょう。たとえばあなたの友人、隣人、あるいは親戚との間に誤解があったとします。考えつく限りの祝福と幸せがその人たちの上にあるようにと神に祈るならば、あなたは自分の心をキリストに信頼する道に戻るのに最も近い道をとったことになります。友だち同士の深い恨みごとは小さな食い違いから起こることが多いのですが、互い同士の祈りはとげだらけの心を和らげるのです。

(「ウィリアム・ローのキリスト者の聖潔」93頁より抜粋引用。今日の箇所も一つ一つ耳の痛いことばかりだ。「あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい」ヤコブ5・16)

2012年12月8日土曜日

自己を吟味する(下)

守山・今浜側から見る比良山  2012.12.2
罪が神にとってどんなに忌むべきものであるかをいつも記憶するようにしてください。不潔なものや病気が肉体を損なう以上に、罪は魂に対する大きな汚れだからです。

どんなにやすやすと神があらゆる存在を造られるのかは、創世記第一章を見ればわかります。限りない恵みをもってなお、罪の赦しがどれほど困難であるのかは、血のささげもの、高価な贖い、そして人間の死などから教えられます。神はことばで命じることによって世界を造られました。けれども世を贖うためには大きな犠牲を払わなければなりませんでした。人間の罪のために、神の御子が人となり、苦しみ多い生涯を送り、そして十字架に釘づけられなければならなかったのです。ユダヤ教の律法にある血による犠牲は、神が罪をどれほどいとわれるかを示しています。そして世は今もなお罪の呪いのもとにあると言わなければなりません。飢饉や病気や災害が世をおおっているからです。

罪のためにどんなに多くの犠牲と苦しみが神と人間にもたらされたかを考えてください。それを思えば、どれほど大きな悲しみをもって罪から潔められなければならないかがわかるはずです。徹底的な悔い改めをするためには、世における最大の罪びとにはどんな悔い改めをしてほしいかを考えるといいでしょう。

あらゆる時代の聖徒たちは自分を最もひどい罪びとと呼んだのでした。真剣に自分を吟味するならば、そういう結論に人は導かれるものなのでしょう。ほかの人の場合はよくわからない、けれどもこの点については自分は罪びとだと言わなければならない・・・そういうものがあなたの中にたくさんあるのではないでしょうか。

自分の罪を正しく知るためには、あなたの生活をほかの人の生活と比べないほうがよいでしょう。外側にあらわれる罪だけを見ていると、自分のほうがまだましだと思うかも知れないからです。自分の罪を知るためには、あなたがどんなに有利な状況にいるかを考えるべきです。あなたは教育を受けています。良い本を読む機会があります。模範となるような優れたキリスト者をあなたは知っています。自分が置かれた環境をあなたほど十分に活用していない人を神は知っているかも知れません。けれどもあなたにはそのことはわからないのです。ほかの人たちよりもどれほど有利な条件が自分に与えられているかを、考えるべきなのです。

もしかして、だれかが神の戒めを破るのを見ることがあるかも知れません。そのときはその人の境遇にあなたがいたらどうなのだらうかと考えるといいでしょう。あなたならばもっとひどい過ちを犯したかも知れないではありませんか。

(「ウィリアム・ローのキリスト者の聖潔」棚瀬訳99頁から。後半の文章は最初わかりにくいと思ったが、イギリス人の「平明」plainにして実際的な処世訓がこのように聖書に裏打ちされたものであることに思い至り感心させられた。言うまでもなく、パウロは「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです、と愛弟子テモテに書いた。)

2012年12月7日金曜日

自分を吟味する(上)

琵琶湖岸比良山系 2012.12.2 by Yoshio T.
自己吟味はたいへん有益な祈りの一つです。聖書は言います。

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(新約聖書 1ヨハネ1・9)。

自分の罪を無視したり、隠したりするならば、赦しを期待することができないとこの聖句は教えます。そして自分の罪がどこにあるかを探ることをしないならば、罪を告白することができないのは明らかです。

この場合おそらくは、ただ自分がいわゆる罪びとであることを告白し、ごく一般的な意味で罪が赦されるように祈り求めているだけというのがふつうではないでしょうか。けれどもそれは食料品店に行って、具体的に何がほしいのかを言わずに、ただ「食べ物を買いたい」と言っているのと同じくらい理屈に合わないことです。

結局のところ、告白は何のためにするのでしょうか。一つはそれによって自分の罪を恥じるようになるということです。確かにある特定の罪を思い出すときには、ただ一般的な罪の告白よりも大きな悲しみに襲われることでしょう。けれどもそのような本当の告白こそ、真に人を変える力を持つのです。

たとえばある日、人との会話の中で自分をより良く見せようとして、あなたが何かを誇張して言ったとしましょう。その失敗をあなたは思い出して神の前で自分自身を責めます。そして神の赦しを乞い、将来同じ罪を犯さないように神が恵みをもって助けてくださることを祈り求めるならば、これ以上大きな助けがほかにあるでしょうか。もし万一同じ罪を次の日犯したとして、同じプロセスをもう一度踏むならば、そのとき心の痛みと後悔の思いはどんなに大きいことでしょう。そしてキリスト者の完全に近づくことを、さらに強く求めるようになるのではないでしょうか。罪が繰り返されるとき、わたしたちは確かに謙遜な思いにさせられ、そしてやがては変えられていくものです。けれどもただ形式的な、ごくありきたりの告白は、わたしたちの心にほとんど、あるいは全く、影響を与えることがありません。

祈りをもって自分を吟味するときにより有益なのは、これまで自分が特に困難を覚えてきた部分を、特別くわしくまた定期的に点検することです。たとえばいつも怒りの心を持つことで問題を感じている人は、自分のあらゆる考え、ことば、また行為の中に怒りがはいっていないかどうかをよく考えてみるのです。

またふだん習慣的に行なっていることも吟味すべきでしょう。仕事の仕方、あるいは食習慣などが神をあがめているかどうかを確かめます。そのようなことを検討することによって、新し心を与えられ、完全を求めるようになり、霊的な知恵が与えられます。それはいまだかつてなかった新しい体験になり得るのです。

(「ウィリアム・ローのキリスト者の聖潔」棚瀬訳97ベージより引用)

2012年11月30日金曜日

あなたは何に支配されていますか

小学校三年の女の子の作品
悪者は自分の悪によって打ち倒され、正しい者は、自分の死の中にものがれ場がある。(旧約聖書 箴言14・32)

「なぜ正しい人は恐れなく死ねるのか、その理由をご存じですか」—青年たちに、そう尋ねたことがあります。

そして、素晴らしい答えを聞くことができました。ひとりがこう言ったのです。「それは、その人が日々の死に慣れているからです。」

主イエスに属する人は、地上にある間、死の修練を積みます。

神が彼らの最愛のものを取り上げてしまわれる—すると、彼らは「どうぞ」と申し上げるのです。神が彼らの願いや計画を、インクで抹消なさる—すると彼らは、つぶやかずに、自分の心を死なせます。

確かに、聖書はイエスの弟子たる者に関して、不気味なほどに大いなることばを語ります。すなわち、「(彼らは)自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまった」と言うのです(ガラテヤ5・24)

我々には、十字架に死なれたひとりの主がおいでです。主に従う者は、「私」を死に渡すことを、日々学びます。彼は死の修練を積みます。

それゆえ、真のクリスチャンにとって、息を引き取ることは、さほどのことではないのです。

さて、しかし、きょうのみことばには、それ以上のことが語られています。ラテン語訳聖書ウルガタには、実に的を得た訳し方がされています。「正しい人は死ぬときにも望みがある。」そうです。主イエスにつく者とは、死よりよみがえった方を主とする人です。それゆえ、彼には生ける望みがあります。そして死に臨んでも、このことを知っています。—「わがふるさとはかしこにあって/そこには御使いの軍団がおり/大いなる主を賛美する・・・」

もうひとつ、付け加えることがあります。泰然と死を迎え得る人は、また泰然と生きる人でもある、ということです。

主よ! あなたの死といのちにあずかり得ることを感謝します。
                         アーメン

(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著岸本綋訳 11月29日の項目から引用。二三日前、小学校1年と3年の女の子がいつも寝る前に祈っていることを知った。姉が言うには妹は随分長いこと祈っている、と言う。聞いてみると「死なないように」と祈っているということであった。このブッシュ氏の記事を読む前は、ほー素晴らしいじゃない、やはり死の恐怖を解決するお方に子どもと言えども祈らざるを得ないのだと得心していた。しかし「死なないように」とは私もふくめて人間すべてがもっている己の欲に支配されている罪そのものであることがわかり、複雑な思いにとらわれた。「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。・・・ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」ヤコブ1・14〜16、21。自分自身をふくめて幼きこどもたちの霊の眼が開かれ、真底イエス様に頼れるように祈り続けるしかないと思わされた。)

2012年11月29日木曜日

つつましく生きたい

 庭の一隅にピンクの椿が蕾を見せ始めた。小ぶりの木に咲くこの椿はこれよりは大きめの木で紅い花を咲かせるもう一本の椿に比べると日陰者のような存在である。しかも咲き方が下に向いていてうつむき加減である。ここ二三日の気の滅入るような寒さの中で、このような彩りを提供する植物の妙と造物主の配慮には感嘆させられる。

 考えてみると、この庭は31年前は隣家の土地であった。それが父が病を得て、一人息子である私のもとに転がり込んで来、父が買い求めた結果私たちのものとなった土地である。そして、今日はその父が31年前に召された日である。忘れることのない一日である。生きていれば100歳ということか。父は今で言う認知症を患っていたのだ。当時、私たちは何もわからず、昼夜逆転するような父の対応に困り、精神病院に連れて行ったり、同時に結核も患っていたので、近くの結核病院でお世話になったりした。しかし、そこでも扱いに困られて、親戚の世話で家からは遠く離れた大学病院に入院させてもらった 。

 近くだと見舞いに行けるが、電車でかれこれ二時間程度かかる場所は心配であったが治療のためやむを得なかった。家内はこの時、五人目の子どもを身ごもっていて、転がり込んで来た父を半年にわたり面倒を見ざるを得ず、一方子どもの育児もあり、それも限界が来ていた。大学病院への転院はやむを得ぬ判断であった。

 その年の11月23日の勤労感謝の日には6月に誕生した末の娘も連れ、家族7人で父の見舞いに出かけた。私たちには忘れられない至福の時となった。明らかに主がともに御臨在してくださったのだ。丘の上の窓越しに手を振る父に私たちはいつまでも手を振って幸せ一杯の思いで丘を下った。子だくさんの私を、父は初めてとも言ってもいい言辞で、ねぎらってくれた。私は私で父をふくめて8人で祈ったとき、「お父さんの病のうちにイエス様がともにいてくださいますように」と祈った。なぜか病を癒してくださるようにとは祈らなかった。

 そしてそれから一週間ほどして29日、この日は31年前は日曜日であった。教会の礼拝を終え、取るものも取りあえず父の大好物の品々をあちらこちらで買い求めて、父を喜ばせようと、その日は私一人で、その大学病院へ急行した。つい一週間前に降りて行った丘に今度は登って行くのだ、病院内を下から見上げる形であった。しかし近づいてみると、何となく病院内があたふたしているように見えた。入るなり、看護士さんが申し訳なさそうに「お父さんは昼前亡くなりました。ご家庭に何回も連絡したのですが・・・」と言われた(教会に家族がいたので連絡がつかなかったのだ)。そして父の変わり果てた亡骸に対面させられた。私にとって生涯これ以上のショックはなかった。

 父は信仰告白をしていず、普段から私の信仰に理解を示そうとしていたが「キリスト教」だけが唯一の宗教でないと反対していたが、なぜか、葬儀は牧師の配慮で教会でさせていただいた。葬儀が終わっても、丸二日泣いていた。どうしてこんなに涙が自分のうちにあるのかと思ったほどだった。家内もともに泣いてくれた。一人息子として父に苦労をかけっぱなしで、事情があったとは言え、同居せず、同居が実現した時にはすでに心が病んでいた父、地上における幸せを何一つ人並みに味わわせてやれなかった無念さも混在していた。

 しかし、涙を流し切ったあとにすがすがしい主の御声を聞いた。それは父は私たちより先に天の御国に凱旋したのだ、という私の内なる魂に直接語りかけられた主のおことばであった(信仰告白をするとか、そういうことだけが絶対的な条件でなく、ぼろぼろになって、主の前に心の底から助けを求めていた父を主は憐れまれたにちがいないという確信であった)。そして父にしてやられた、先を越された、と思った。教会生活をこの通り守っていますと言うパリサイ人的な生活をして、それを何よりも良しとしていた私より先にという思いであった。そして父をあっぱれだと思い始めた。

 口をついで出て来たことばは次の聖書のみことばであった。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画にしたがって召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています 。(新約聖書 ローマ8・28)

 このみことばは私が栃木県に住んでいた時に、礼拝する教会が近くに見当たらず悩み苦しんでいる時に、洗礼を授けてくださった古山洋右牧師(京都福音自由教会)が心配して泊まりに来て下さり、読んでくださったみことばである。牧師は、「神を愛する人々」と書いてあるけれど、私たち一人一人は生まれながら神を愛する者ではないですよ、そういう私たちを一方的に主があわれんでくださった結果、初めてそう言えるんですよ、そしてその私たちのためにはさらに神様はすべてのことを働かせて益としてくださるんですよ、という意味のことをおっしゃっていた。そのみことばが父の死を前にして再び私の心を支配したのである。

 その日から31年が経つ。私はその父と同じ年齢になった。この年齢で父が私恋しさに病に陥ったと思うと切ない。けれども主なる神様は私たちの思いを越えてすべてを支配していてくださることを思う。内外とも身辺一日として心穏やかでない日はない。しかし一たび主イエス様が地上に来てくださり、救いとなってくださり、十字架の死からよみがえられ、今も生きておられ、私たち一人一人のためにとりなし、天の御国を用意してともに住むと言ってくださっている御愛を思うと、そのような沈んだ心も吹き飛んでしまう。

天の父 庭咲く椿 見てゐたり 
日陰にて ピンクの椿 面下げる

 主イエス様を賛美しつつ、ピンクの椿のように沈める人の心を慰めるものでありたい。

2012年11月24日土曜日

平安 ハーマン・ゴッケル

アーサーズ・シートに並走する岩山(エジンバラ郊外)2010.10.3
キリストこそ私たちの平和(新約聖書 エペソ2・14)

わたしのイカリを とこしえにささえる
ゆるぎもしない 礎(いしずえ)を
    わたしは見いだしました

救い主キリストの み傷のうちに
世の創造のさきから おかれ
天と地が 過ぎ去るのちにも
ゆるぎもしない 礎を
    わたしは見いだしました

地上の責め苦が わたしを押しやり
思いわずらいが 日ごとに増しても
むなしいこの世が わたしを悩まして
主にある平安を 奪おうとしても
わたしが ちりにかえってしまっても
    なお主の恵みに
      わたしはたよっていきます

主の大きな愛が
まことにわたしを
喜んでこの人生に耐えさせます
主がわたしの不安な心を お静めになるとき
どうして主のめぐみを 忘れられましょう
試練がたとえ なんであっても
    主の愛だけが
      わたしのいこいです

わたしの内なる安らぎがおかれている土台の「隅(すみ)のかしら石」は、これなのです。わたしは神との平和を持っています。そして神との平和を持つことによって、自分自身との平和を持っています。わたしは、人生のあらゆる変転にも処する内的な力を与えられたのです。

”わたしは、争いのさなかにあっても平和をもつ。もし物事がぐあいよくいかなくなったら、どうするだろう。もしキリストにあまりに忠実であるために、反対のあらしが吹きすさぶことにでもなったらどうだろう。もし人生の川面(も)が、敵意と迫害の猛烈なあらしでもみくちゃにされてしまったら、どうするだろう。しかし、あらしよ、荒れよ! わたしは、神との平和を持っている!”

どんなに大海の表面にあらしが吹きあれ、どんなに大波がのたうち、深い波の谷間ができようとも、海の最も深いところの岩屋は、表面であれ狂っているあらしのことを何も知りません。大海の底では、いっさいが静寂です。いっさいが穏やかです。それと同様なのが、キリストによって神との平和を見いだした人の心なのです。どんなあらしも、この心の内的平安を乱すことは不可能です。

わたしはいろいろな重荷のもとにおかれながらも、平安を得ているのです。キリスト者の人生には、問題は何もないと言ったら、ばかげています。だいいち、それはうそです。心にくい込んでくるような孤独の苦痛、病気の重圧、失望のにがい苦しみ、避けがたい死の冷たい触手—すべてこうしたものは、キリスト者の上にも、他の人同様に起こってきます。しかし、相違はあります。大きな相違です。信仰者は、キリストによって神との平和を持っていることを知っています。そして自分の創造主との平和を持つことによって、かれは悲しみや、病気や、死までが、自分に対する神の「恵み深い」ご計画の一部なのだとわかっているのです。そこでかれは、どんな重荷のもとでも、真実の平安を持って安心していられるのです。

神の御手に、「きのう」のいっさいをゆだねます。恵みによって神が自分をゆるしてくださることを知っているからです。神の御手に「きょう」をゆだねます。きょうもまた、神の恵みの日であることを知っているからです。そして神の御手に「あす」のすべてもゆだねます。いままでも「朝ごとに新しい」ものであった神のいっさいの恵みが(哀歌3・23)、あすもまたきょう同様に新しくなり、同様に確実なものとなって、すべてを満たしてくれることを知っているからです。「キリストとともに神のうちに隠されている」いのちの平安、それが信仰者の平安です(コロサイ3・3)

これが、キリストをわたしの平安と呼ぶ理由なのです。

(『イエスがわたしに意味するもの』柴田千頭男訳26〜30頁より抜粋引用)

2012年11月23日金曜日

自分の十字架を負う

浅間山 2012.11.18
謙遜を身につけたいと思うならば、自分のことを学びの途上にある者と見なすべきです。これまで持っていた考え方とは相反することを、新しく学び取らなければならないからです。自己中心という、わたしたち自身のもともとの性質を捨てるようにしなければならないのです。

わたしたちは生まれつきプライドを持っていますが、それは人間に本来備わっている自己愛から自然に出てくるものです。そのためにキリスト信仰は、新しく生まれること、あるいは新しい霊を受けることと呼ばれることが多いのです。福音の歴史は、キリストがこの世の自己中心的な精神にどのようにして打ち勝ってくださるかという歴史です。そして本当のキリスト者とは、キリストの霊にしたがって、この世の霊と相反する生き方をする人のことと言っていいでしょう。

「・・・キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」(ローマ8・9)

「あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです」(コロサイ3・2〜3)。

これが新約聖書全体の中に流れている考え方です。キリスト信仰の特徴です。わたしたちは(この世の霊に対して)死ぬ者となり、イエス・キリストの霊によって新しいいのちに生きる者となります。しかしこのような教えが聖書の中に明瞭に示されているにもかかわらず、多くのキリスト者はこの世の習慣の奴隷として生き、また死んでいるのではないでしょうか。

ではこの世に対するわたしたちの勝利はどこにあるのでしょうか。それは十字架においてはっきりと描かれています。キリスト信仰とは、十字架上の犠牲において示されたキリストの御心に徹底的にしたがうことにほかなりません。

パウロがガラテヤ人への手紙6章14節で情熱をこめて語ったのは、まさにこのキリストの精神でした。「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」けれどもなぜパウロは「十字架」を「誇り」としたのでしょうか。キリストが彼の代わりに苦しみを受けてくださったので、もう自分は苦しまなくてもよくなったからでしょうか。とんでもありません。それは、パウロがキリストを信じることを告白したとき、そのとき同時にキリストと共に苦しむという栄誉へ召されたからなのです。そしてキリストが十字架の上で死なれたように、彼もまたこの世から非難を受け、世に対して死ぬという栄誉を受けたからです。ですからパウロはそのあとに続けてこう言います。「・・・この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」

そういうわけでキリストの十字架は、パウロの時代のキリスト者にとっては栄光のしるしでした。十字架につけられた主を喜んで受け入れるということを示しただけではありませんでした。十字架の教えに完全にしたがうという、そういう種類の信仰を彼らが誇りとしたということです。キリストが十字架の上で示されたのと同じ自己犠牲、同じ柔和と謙遜、キリストと同じように非難に耐えること、同じようにこの世の幸せに死ぬこと、などを十字架は彼らに呼びかけたのです。

キリスト信仰がどういうものであるかを正しく知るためには、キリストがわたしたちの代わりに苦しみに会われたとだけ考えるなら十分ではありません。わたしたちの苦しみがキリストの苦しみと結び合わされるとき、それが神に受け入れられるものとなるということが、キリストの特別な恵みなのです。もしキリストの犠牲がなければ、わたしたちの自己犠牲は神にふさわしいものではあり得ないでしょう。そしてその反対のことも同様に言うことができます。わたしたちがキリストと共に十字架につけられ、共によみがえらされるのでなければ、キリストの十字架と復活はわたしたちにとって何の役にも立ちません。

新約聖書全体の流れは、このキリストとわたしたちとの結びつきを指し示しています。

「もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。」(2テモテ2・12)「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた・・・」(ローマ6・ 6)「・・・もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。」(2テモテ2・11)「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。」(コロサイ3・1)したがってすべてにおいて、わたしたちの「いのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてある」(コロサイ3・3)ことになります。こうして、人の救いというものはキリストと共に死に、キリストと共によみがえらされることと言わなければならないのは明らかです。

この世の霊がわたしたちの主を十字架に釘づけにしました。ですからキリストの霊を持つ者—つまりキリストと同じようにこの世に反対する者—はだれでも、いろいろな意味で、十字架につけられることになるでしょう。結局のところキリスト者は、イエスを十字架につけたその同じ世界に今も生きているのですから。

「あなたがたは世のものでは」ないと主は言われま した。「それで世はあなたがたを憎むのです」(ヨハネ15・19)。わたしたちがこのことばの意味を見失いがちなのは、これはただあの初代の弟子たちのためだけに言われたのだと考えてしまうからです。けれどもイエスは、やがていつか世は弟子たちを憎むことをやめるだろう、などと言って慰めようとはなさいませんでした。

それにしてもキリストのことばは今日のわたしたちにはあてはまらないのではないか、と疑問に思う人がいるかも知れません。この世がキリスト教を受け入れるようになり、いわゆる”キリスト教国”に住んでいる人たちがたくさんいるから、というわけです。けれどもそのキリスト教国にいる人たちがみなキリストの霊を持っているとはとうてい言えないでしょう。また世がキリスト教を受け入れたということは、むしろ以前よりも危険な敵になったということでもあるのです。この世から好意を受けること、この世の富を得ること、この世の楽しみにふけることのために、迫害によるよりもはるかにたくさんのキリスト者が信仰から離れてしまっています。世がもはや敵に見えないために、より多くのキリスト者は世に支配されながら満足しています。

ある罪を、教会が全くとがめ立てないというただそれだけの理由から、どんなにしばしば良心の声が妨げられてきたことでしょう。キリスト教国が行なっていることだからというので、どんなにたくさんの人が新約聖書の教えを無視していることでしょう。教会の中のほかの人たちもみな自分と同じ生き方をしているという弁解がもしなかったならば、わたしたちのうち何人が初代教会とこれほど相反する生き方をすることができたでしょう。 いわゆる”キリスト教世界”の権威ほど、キリスト者が常に警戒しなければならないものはほかに何もありません。

(『ウィリアム・ローのキリスト者の聖潔』74〜78頁より引用。翻訳文では「キリスト教信仰」とあるところを引用者が「キリスト信仰 」と置き換えた。)

2012年11月22日木曜日

謙遜を祈り求める

西軽井沢国際福音センター 2012.11.18
あなたの祈りの生活が神に喜ばれるかどうかは、ただ単純にどれだけ度々祈るかによってきまるのではありません。しかしたとえば、空の高い所にあなたが座を占めて、この世で起こるあらゆることがらを上から見下ろすことができると仮定してください。すべてのキリスト者が毎日神にささげる祈りを、あなたはひと目で見ることができます。ある人は絶えず神の御名を呼び求めます。自分の生活の中にいつも神がはいってきてくださるようにと祈り求めます。一方、ただ自分に都合のいいときだけ、ごくたまにしか祈らない人たちもいます。

いわば神が見るような見方で地上の光景を見たとすれば、そのときあなたはどのように感じることでしょうか。たまに思い出したようにしか祈らない人が、規則正しく祈る人たちと同じ恵みを受けられると本当に信じることができるでしょうか。この二種類の人のうちどちらが、自分を神のしもべまた奴隷として見ていると言うことができるでしょうか。

聖書は祈ることを勧めますけれども、それとほとんど同じくらい強く、祈り続けること、いつも祈っていることを勧めています。よく祈る人は祈りの真の祝福を受けているとはっきりいうことができます。さらに、よく祈ることはあなたの人生に徳を加えるのに最も効果的な道です。たとえば物欲にとらえられた男が、自分の中にある物質主義の傾向について毎日祈るとしましょう。彼は誘惑が襲う度に祈ります。そしてその誘惑に打ち勝つように神の助けを求めます。祈り続けるうちに彼の良心が呼び覚まされます。そしてこれ以上自分自身の生活を変えることをしないで祈り続けることはむずかしいと思うようになるのです。

もしどの徳をまず先に祈り求めたらいいのかとあなたが考えているのであれば、何よりも謙遜を求めることを勧めたいと思います。それはキリスト者の間であまり求められることのない徳かも知れません。けれどもあらゆる良い考えや行ないは人を傲慢に導きやすいわけですから、特にほかの徳において優れている人はまさに謙遜の点で実際に一番劣っているかも知れないのです。

謙遜であるとは事実ありのままの姿よりも低く自分を見なければならない、ということではありません。そうではなく自分の弱さと罪を正しく理解するということです。わたしたちはあまりにも弱く、自分自身では何ごとも行なうことができません。存在することさえできません。わたしたちが何かをすることができるようにしてくれるのは神の力です。神に近づくようにわたしたちを導いてくれるのも神の力です。そうとすれば、傲慢は盗みと同じです。傲慢な人は神の栄光を盗んで自分のものにしてしまっていることになります。

黙想の中で個人的な謙遜を身につけるために、自分の生活を単純に反省してみましょう。あなたが心の中で考えていることが、突然まわりの人たちに何もかも明らかにされてしまったと考えてみてください。あなたの最も立派な行ないでさえも、その影にどんな隠れた動機があるか、それがどんなにみにくいものかが、みんなにわかってしまったとします。そうすればあなたは、自分の善を尊敬されたいなどとは、もはや決して考えないことでしょう。

罪がどんなに恥ずべき性質のものであるか、そしてその罪を潔めるためにどんなに大きな贖いが必要であったかを考えてください。神の御子の苦しみと死がそのために求められたのです。わたしたちがそのような罪びとであることを思い知らされるとき、自分を誇りに思うなどという余裕がはたしてあり得るでしょうか。

わたしたちはある意味でみな謙遜を愛し、傲慢を憎んでいます。ただしそれはほかの人の謙遜と、傲慢です。

目を天に向けて、自分が天使とはどんなに違うかを考えてください。天使は自分がどれほど完全な存在であるかなどと考えたりしません。けれどもみな同じ喜びにあふれています。あの天使セラフィムが神のみに栄光を帰しているときに、人間のような罪びとが天使と同じ尊敬をかち得ようとするのはなんと愚かなことでしょうか。自分自身に満足している人は、両手を広げて十字架に釘づけられたわたしたちの愛する主を思いみるべきです。そしてあの柔和な十字架の救い主と自分とを比べてみたらいいのです。

(『ウィリアム・ローのキリスト者の聖潔』棚瀬訳71〜73頁より引用。ウィリアム・ローはギボン家の家庭教師であった。その子どもが『ローマ帝国衰亡史』を著した。)

2012年11月10日土曜日

主よ、私に純真な心を与えて下さい!

読者の方々。主イエスへの愛が、真のキリスト信者の行動の源であることを忘れないようにしましょう。主イエスへの愛が私たちに自分自身を忘れさせます。自分を裸にしても、主イエスの誉れを表わしたいとの願いは、信者の心の中にお働きになる神の御業の最もうるわしい実であると言うことができます。

「世の倫理が何でしょうか。
     ああ、血を流された小羊よ。
 あなたへの愛以上に崇高な倫理はありません。」

サウルが、ダビデそのものと彼の働きを見た時の気持ちは、非常に異なっていました。彼は、自分を忘れ、他の者が働きを成し遂げるのを見て喜ぶことを習ったことがありませんでした。このことをすることができるようになるには、恵みの働きが必要です。私たちはすべて、生来、ひとかどの人物になることや、重要な役割を演じることが好きであり、注目されることや、高く評価されることが好きなのです。サウルはそのような人物でした。

彼は自尊心の強い男でした。ですから彼は、「サウルは千人を打ち、ダビデは一万人を打った。」という、イスラエルの女たちの歌に我慢できませんでした。サウルは、自分が一番でなければ気がすまなかったのです。彼は、自分がゴリヤテの声を聞いて、どれほど震え上がったかを忘れていました。少々気が引けましたが、彼は自分が勇敢で雄々しいと思われたかったのです。

「その日以来、サウルは、ダビデを疑いの目で見るようになった。」(18・9)なんと恐ろしい目—ねたみと激しいしっとの目ではないでしょうか。私たち自身の手によって得られた実りを喜ぶのと同様に、他の人々の労力によって得られた実りをも、心から喜ぶことができるためには、まことの純真さと誠実さが必要とされます。もしサウルの心が、神の栄光と神の民の利益を求める思いで満たされていたならば、彼は自分とダビデに当てられた人の数の問題に心が煩わされることはなかったでしょう。

悲しいことに、サウルは自分の栄光を求めたのです。これが彼のねたみとしっとの原因だったのです。心がキリストによって完全に満たされることの結果である自己放棄からは、なんと神聖な休息、なんと真実な気品、なんと完全な心の静けさが流れ出ることでしょう。もし私たちが、キリストの栄光が現わされることを真実に求めているならば、キリストがそのために誰をお用いになっても気にすることはないはずです。

(『ダビデの生涯とその時代』C.H.マッキントシ著90〜92頁より引用。「舌を制御することはだれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています・・・・ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」ヤコブ3・8、4・7

2012年11月9日金曜日

私の心の底を探るお方が私にいのちを与えられた

・・・すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと・・・そのようなことに心を留めなさい。(新約聖書 ピリピ4・8)

なんと深くたましいを探ることばでしょう! 聖書は我々の心の底に、我々の空想にまで届きます。

それは人間の最もプライベートな領域です。こんな民謡があります。—「心で考えるのは自由!/だれにもつかまらない。/いつでも逃げられる、/夜の陰のように・・・/永遠に変わらない。/考えるのは勝手!」

しかし、神のことばは語ります。「そうではない。考えるのは勝手ではない。イエスが十字架にかかられたのは、それによってあなたの空想の領域までもが贖われて、聖霊が心を占領なさるためだ」と。

山上の説教中に、イエスは二、三のたとえをお話しになりました。「兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません」(マタイ5・22)。「そうだ」と我々は言います。—「私にもひそかに恨んでいる人はいるさ。頭の中でもう何十遍となく、徹底的な手紙を書いてみたものだ。でも、ただ考えてみただけさ。別にそれで人を傷つけたことにはならないよ。」でも聖書は「とんでもない。あなたは自分自身を傷つけているのだよ。心をやみにしているのだ」と言います。

イエスはまた言われました。「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」(マタイ5・28)。—「何だって? ちらっと思うだけで、口に出すわけじゃない。行動に移すわけでもなし。いったいそれでだれを害するのか。」聖書は答えます。「あなた自身を汚すのだ。あなたの心に、暗やみが広がるのだ。」「すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと—きよいこと、大いなること—そのようなことに心を留めなさい。」

とすれば、それは可能だろうか? イエスは仰せになります。「人にはできないことが、神にはできるのです」(マタイ19・26参照)。

もう一度言おう。イエスは我々のぶざまな空想を救うために、来て死なれたのです。

主よ! 我らの必要は、あなたがご存じです。  アーメン

(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著岸本綋訳11月8日の項より引用)

2012年11月8日木曜日

ゆるし ハーマン・ゴッケル

この手のわざが
罪あるこの魂を 救えるのではない
この働く肉体の いさおが
わたしの霊を 正しくするのでもない

わたしがふれ わたしがするわざも
神との平和を 与えはしない
わたしの祈りが といきが なみだのすべてが
おそろしい重荷を になうのでもない

ただ あなたのみわざのみが ああキリストよ
罪のこの重荷を やわらげます
ただ あなたの血潮のみが ああ神の小羊よ
わたしに 内なる平和を 与えてくれます

わたしの あなたへの愛ではなく ああ主よ
わたしへの あなたの愛が ああ神よ
この暗黒のおののきを 取りのけて
わたしの魂を 解放してくれます
ただ あなたの恵みのみが ああ神よ
わたしに ゆるしを語ってくれます
ただ あなたの力のみが ああ神の子よ
この痛ましいなわめを 破ってくれます
神のキリストを ほめうたいます
神の愛に 身をゆだねます
くちびると心に ためらいもなく
わたしは救い主を わたしのものと呼びます

(『イエスが私に意味するもの』柴田千頭男訳)

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(新約聖書 ローマ8・1)

2012年11月7日水曜日

三泊四日(結)

イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」 (新約聖書 マルコ2・17)

天に召されたリンデ
 今回の入院は病変があるのに過去五年間ほど放ったらかしにしておいた結果である。それは一つには場所が場所だけに恥ずかしいということと手術は嫌だと言う二つの思いがあったが、その頑固な思いがくつがえされたのは、病人であるのに丈夫な者と偽っている馬鹿さ加減を家人に指摘されたからである。それで、意を決して10月22日に病院に赴いた。お医者さんは触診の後、これは間違いなく鼠蹊ヘルニアですと言われ、手術を望まれるなら日を取りますよ、と言ってくださり、明日にでもと言われたが、10日後の11月1日にしていただいた。


 入院して、病院内でお医者さんを始め様々な分野の人々が一人一人の病を治すためにいかに働いておられることか、その労働の一端に触れることができた。手術室の入り口までは初めからお世話いただいた看護士さんに連れられて歩いて行くが、手術室で外科チームに引き渡される。あとはベッドに乗せられ、様々な機器が天上から階下まで用意されている堅牢な部屋を通過し、麻酔医の先生と対面した。先生から問われるままに受け答えする。患者をリラックスさせるための質問もあり、現場の慌ただしい言葉が飛び交う中「あれーそんなものがまだ用意できていないんだ」とかすかに思いながらも、いつしか全身麻酔が効いてきたのだろう。眠りについた。だから肝心の外科医の先生のお顔は知る由もない。手術が終わると名前を呼ばれ意識が戻ると、ベッドに乗せられたままで、病室に戻された。

 ベッド数が何床あるのか確かめなかったが看護士さんは足早に動き、目一杯働いておられる。その上、厳しい夜勤もある。交替勤務のローテーションは円滑に回転して行く必要がある。鼠蹊ヘルニアのような軽度のものから生死を争う重病人を抱え、細心の注意を払いながら医療体制は組まれている。やはり尊敬せざるを得ない労働の現場の一つだと思う。一方、肉体の瑕疵の治療もさることながら、聖書の次のみことばが示すように心の問題がある。

人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか。(旧約聖書 箴言18・14)

 まことに医療現場におられる方々の気苦労が思いやられる。患者さん方の死からの解放を求める声は怨嗟の声となって集中するであろうからである。

 ひるがえって冒頭の聖句は希代の名言だと思う。なぜなら私は病気を持ちながら逃げ回っていたからである。本当はお医者さんに治療してもらわなければならない存在であったのに、体面をはばかって手術を伸ばしに伸ばしていたからである。だから私が病人であったのに、お医者さんのところに行かなかったように、自らが本当は神様の前で正しくないと知っていながらイエスさまのところに行かない人は自らを偽って正しいと主張していることになる。私の鼠蹊ヘルニアに対する長年の態度がまさしくそうであった。

 まことのお医者さんであるイエスさまこそ、ひしがれた心を癒すことの出来る唯一のお方である。なぜなら、私たちの病の果てである死を十字架刑で甘受されただけでなく、死から三日後によみがえったお方であるからである。

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、 死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(ピリピ2・6〜7) 

 世界全体が大きな病院のようなものだ、と言う。だから、この病院にはまことの医者が必要である。神の前の債務という罪を唯一解決できるお方、その名医はイエスさまだけである。 また、まことの医者を知っている人が必要である。20歳という若さで、死を直視して喜んで召された看護士リンデの「人格者とはなにか」というメモにもう一度耳を傾けたい。(『実を結ぶ命』66頁より)

人格者とは、何のために生き、何のために死ぬかを知っている人。
人格者とは、神に対する自分の罪と債務を認め、それを告白できる人。
人格者とは、単なる人間的なものに動かされず、真理をたずね求める人。
人格者とは、感謝されなくても、へりくだって奉仕できる人。
人格者とは、他の人の中に良いものを見い出す人。
人格者とは、死を直視することのできる人。

2012年11月6日火曜日

三泊四日(転)

 四人部屋はそれぞれカーテンで仕切られている。その場合、最も身近なのはやはり隣のベッドの人である。その隣のベッドからカーテン越しに何やら他国語のような声が時おり聞えてくる。どなたかと携帯で話し中なのか、それとも癒しを求めて何やら呪文を唱えているのか、と思ったくらいだ。それにしても言葉が不鮮明である。ところが昼間、二人の女性が訪ねてきた。その人々の語らいを通して、とたんにその言語が明らかになった。いつもは看護士さんと話しているので日本人だとばかり思っていたが、そうではなかった。

 その方はしきりに看護士さんに頭が痛いと訴えていた。一方、医師は肝臓に針を刺しますが、うまくさせるかわからないがやってみましょうと言われている。時を追うごとにその方がかなり重症なのが分かってきた。でもカーテンで仕切られていて中々その顔を確かめられなかった。けれども第三日目にやっと顔がわかった。明らかに東南アジア系の方であった。

 この方は生死の境目の橋を渡りつつあるように思った。何とかこの方に主イエスさまにある永遠のいのちをお伝えしなければと思い始めた。どんなふうに近づいていいのかも分からないが、とにかくそのことを主に願った。同時にちょうどその夜、祈り会に集まっている方々にも、携帯で祈りを要請した。家内にはみことばの書いた小冊子を持ってきてもらうことにした。私は明日退院である。退院である自分がどのようにしてその方の痛み、苦しみの側に立ってイエスさまのことを伝えることができるのか皆目自信がなかった。しかし、なぜか平安があった。それは朝与えられた、イエスさまと一つなら、その願いは聖なる父が成就してくださるというお約束があったからである。

 ところが、その彼は事もあろうに、突然私たちの病室から別の病室に移されて行ってしまったのである。どこかはわからない。あきらめざるを得なかったが、翌朝早く、9時退院予定の当日ではあったが、三泊四日で少し慣れ親しんだ廊下を一部屋ずつ捜すことにした。何しろ彼の名前はカタカナの長いものであったから容易に見つかると思ったからである。ところが一向に見つからない。そう思って一巡りしたら、何と隣室の四人部屋の表札の上部に彼の名前が見えるではないか。

 ぐずぐずしていると機会を逸すると思ったので検温も終わり、朝食の配膳の前の時間を見計らって隣室に入った。四方向にカーテンばかりが見え、病室は静まり返っている。私は右奥まで一歩、歩を進め、おもむろにカーテンの内側に入った。ところが彼はベッドに寝ていず、椅子に腰掛けて呆然と窓の向こう側の川を眺めていた。私は直ぐ近づき、表札に書いてあった彼の名前で呼びかけ、「イエスさまを知っているでしょう」と言った。彼は「信じているよ」と答えたのだ。私はかまわず彼に以下の祈りの言葉を読んであげた。

愛する主イエスさま

私のわがままのために、代わりに罰せられ死なれたことを感謝いたします。
あなたの流された血によって、すべてのあやまちが赦され忘れられていることも感謝いたします。
あなたを信じますから、死んでからさばかれることがないことも感謝いたします。
あなたを信ずる者は、死んでも生きると約束されていることも感謝いたします。
死ぬことは終わりではありません。あなたと一緒になることです。
私の国籍は天にありますから感謝いたします。
今からのことすべて、あなたにおまかせいたします。
あなたの御名によってお祈りいたします。

アーメン

 彼は私がこのことばを読んでいる間、うなずいたり、眼にはうっすら涙を浮かべているように見えた。そして天を指差し、「信じているよ」と言うのであった。「名前は何?」って聞いたら、「ダニエル」だと言う。すごい名前だ、旧約聖書に登場する王の迫害にあって投ぜられた獅子の穴も恐れなかった信仰の勇者だ。これは表札に書いていなかった。私は思わず主の御名をほめあげずにはおられなかった。よく確かめてみると彼の信仰はフィリピンが母国なのでカトリックであった。しかし、彼の心が直裁にイエスさまの贖罪死を自らのものとしていることだけは確かなように思えた。

 主なる神様は彼と私が地上でこれからも主にあって交わるようにと隣のベッドに置かれたのだろうか。あと一時間足らずで退院しようとしている私に、逆に「元気でね」と彼は言ってくれた。しかも彼と入れ替わりに隣のベッドに入って来た人とも一夜を共にしただけだったが、退院直前には言葉を交わすことができた。歳はほぼ私と同じだが、何も食べられずすべて戻してしまうということでもう三回目の入院だと言うことであった。聞くばかりで慰める言葉もなく、心の中で主にとりなすばかりだった。そうして部屋を後にしようとする頃、今度は先ほどのフィリピン人の方が私の病室に入ってきて、詳しい病状や家族の問題までも話してくれた。私は名刺をわたし、転院しても連絡してね、と言い置いた。頭の痛さはすでに脳に腫瘍ができていてそれによるもので、この病院では手術は出来ず、転院すると言ったからである。

 主のご計画はどうなのか私にはわからない。このような主の恵みのうちに病院生活を送らせていただいて特にお世話になった看護士さんには、同じ看護士として32年前に召されたドイツ人少女リンデの証しの本『実を結ぶ命』を是非渡したかったが、すでに先に帰られており、直接お渡しすることができなかった。しかも彼女は明日は出勤しないと知っていたので、夜勤に入られた看護士さんを通して渡してもらうことにした。その方も入院直後の私の不安を和らげるのに気を配ってくださった方であった。この方には別の薄い本をお渡した。このような知恵や話は自分の力ではとても出来ないことばかりだったが、ごく自然に進行していった事柄である。果たせるかな、その夜、寝入ってしまった私の枕元に「素敵な本をありがとうございました! 大切にします。」という最初の看護士さんからの置き手紙があるのに深夜気づいた。今もって、既に帰られたはずのその方の手にその夜のうちにどのようにして渡ったのかは知る由もないが、この彼女の走り書きのタイミング・ことばほど私を慰めてくれたものはない。

 退院し自宅に戻れば戻るで、昼前、私が入院しているのも知らずに遠来のお客さん(かつての同僚)が訪ねて来てくださり数年ぶりに一時間ほどお交わりを持たせていただいた。それは私たちのお互いにとって全くタイミングの良い必要なお交わりとなった。こうして主は私自身が本当に主のはしため、しもべになるようにとすべてのことを計画しておられることは明らかであった。次回はそのまとめをしてみたい。最後に『実を結ぶ命』に記されているみことばの一つを紹介する。

彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。(新約聖書 ヘブル13・7)

2012年11月5日月曜日

三泊四日(承)

波照間島の暁 by Yuriko.O
 第三日目の早朝、主のご計画は、鈍い私の上に、次のアンドリュー・マーレーの記す『暁の待望』の記事により明らかにされた。

それ(祭壇)に、上面・・・を純金でかぶせる。・・・アロンはその上でかおりの高い香をたく。朝ごとにともしびをととのえるときに、煙を立ち上らせなければならない。(旧約聖書 出エジプト30・3、7)

『かおりの高い香』とは祈祷のことであります。

『私の祈りが、御前への香として、私が手を上げることが、夕べのささげ物として立ち上りますように。』(詩篇141・2)。

『また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。』(黙示8・3)

大いなる祭司長を通して昇り往く祈祷は、神様にとっては馨(かぐわ)しい香です。かの香は祭司たちによって、朝ごとに、焚(た)かるべきでありました。神の家はかくて馨しい芳香をもって満たされたのであります。これはまた私も、神の祭司としてなさなければならないところのことであります—私は神の宮殿であります。

私の心の全部は私が朝ごとに神に献げ奉る祈祷と感謝との馨しい香もて満たさるべきはずであります。この目的のために如何なることにも勝って必要な一事は、私の祈祷は聖父にうけ納れらるるものであると知ることであります。聖霊はこのことの確信を衷(うち)に与え給いましょう。私は信仰によって神の愛と恵とを現実に実感するために、祈祷の前に、また祈祷の中に、また祈祷の後に、ゆっくりと時間をとらなければなりません。

私は真にキリストと一つであるとの信仰を与えられて、彼との結合を意識しなければなりません。この結合の中を歩む目的をもって、私自らを全く献ぐべきであります。わが聖父は 真に私の祈祷をお悦びをもって見ていて下さるとの活々した確信を御聖霊をして私の衷に息吹き込ましめ奉らねばなりません。

かくてこそ私は、毎朝、馨しきかおりの香を焚く力に満たされて、聖霊によって霊感させられた真の祈祷を献げ奉ることができましょう。かくてこそ私は、終日、神の御前を、祭司として歩むために、立ち上がっていでゆくことができるのであります。

 私はこのアンドリュー・マーレーの記事をありがたくいただいた。キリスト者とは別名その名を祭司と言う者であることを示されたからである。だとしたら、私はこの病院内でも祭司であることに変わらない。祭司とはキリストと一つである者として父なる神様の前に侍(はべ)るだけでいいのだと言う確信であった。ゆくりなくも傷口の痛みは峠を越え始めていた。そして無意識のうちに、病室内にいるお隣の患者さんたち、さては病室内で懸命に看病を続けてくださる方々を覚えながら神様の御前に出ることができたのである。