2012年12月7日金曜日

自分を吟味する(上)

琵琶湖岸比良山系 2012.12.2 by Yoshio T.
自己吟味はたいへん有益な祈りの一つです。聖書は言います。

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(新約聖書 1ヨハネ1・9)。

自分の罪を無視したり、隠したりするならば、赦しを期待することができないとこの聖句は教えます。そして自分の罪がどこにあるかを探ることをしないならば、罪を告白することができないのは明らかです。

この場合おそらくは、ただ自分がいわゆる罪びとであることを告白し、ごく一般的な意味で罪が赦されるように祈り求めているだけというのがふつうではないでしょうか。けれどもそれは食料品店に行って、具体的に何がほしいのかを言わずに、ただ「食べ物を買いたい」と言っているのと同じくらい理屈に合わないことです。

結局のところ、告白は何のためにするのでしょうか。一つはそれによって自分の罪を恥じるようになるということです。確かにある特定の罪を思い出すときには、ただ一般的な罪の告白よりも大きな悲しみに襲われることでしょう。けれどもそのような本当の告白こそ、真に人を変える力を持つのです。

たとえばある日、人との会話の中で自分をより良く見せようとして、あなたが何かを誇張して言ったとしましょう。その失敗をあなたは思い出して神の前で自分自身を責めます。そして神の赦しを乞い、将来同じ罪を犯さないように神が恵みをもって助けてくださることを祈り求めるならば、これ以上大きな助けがほかにあるでしょうか。もし万一同じ罪を次の日犯したとして、同じプロセスをもう一度踏むならば、そのとき心の痛みと後悔の思いはどんなに大きいことでしょう。そしてキリスト者の完全に近づくことを、さらに強く求めるようになるのではないでしょうか。罪が繰り返されるとき、わたしたちは確かに謙遜な思いにさせられ、そしてやがては変えられていくものです。けれどもただ形式的な、ごくありきたりの告白は、わたしたちの心にほとんど、あるいは全く、影響を与えることがありません。

祈りをもって自分を吟味するときにより有益なのは、これまで自分が特に困難を覚えてきた部分を、特別くわしくまた定期的に点検することです。たとえばいつも怒りの心を持つことで問題を感じている人は、自分のあらゆる考え、ことば、また行為の中に怒りがはいっていないかどうかをよく考えてみるのです。

またふだん習慣的に行なっていることも吟味すべきでしょう。仕事の仕方、あるいは食習慣などが神をあがめているかどうかを確かめます。そのようなことを検討することによって、新し心を与えられ、完全を求めるようになり、霊的な知恵が与えられます。それはいまだかつてなかった新しい体験になり得るのです。

(「ウィリアム・ローのキリスト者の聖潔」棚瀬訳97ベージより引用)

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