2012年12月18日火曜日

失われた羊を尋ねて(4)

ある人が、かつてわたしのために”最後には”永遠の命を得るようにと祈ってくださいました。わたしはこれに対してアーメンと言えませんでした。もしこの意味で言われたのなら、ずっと前、わたしが回心した時に永遠の命を得たのです。もし神の賜物が永遠の命でないとしたら、それはなんでしょうか。そして何が福音をそんなによい知らせとするのでしょうか。福音がそれを受け入れるすべての貧しい罪人に、永遠の命を与えるからではないでしょうか。

もしひとりの天使が神の王座からまっすぐに下りて来て、何でも求めることをひとつかなえてあげるため、神がおつかわしになったのですと言ったら(なんでも自分で願うことは許されているのです)あなたは何を求めますか。ただひとつの答があります。その求めは天国のひびきがします。永遠の命を! 永遠の命を! ほかの何ものも無となるでしょう。人が望むもの、人が尊ぶものは命です。百万ドルを持った人が難破船に乗っている時、その百万ドルで、六ヶ月命をながらえることができるとしたら、いつでもそれを与えるでしょう。しかし、福音は六ヶ月間の賜物ではありません。”神の賜物は永遠の命である”それなのに、立って語り、祈ってこの高価な賜物を受けるよう懇願しなければならないということは、ひとつの大きな不思議ではないでしょうか。

みなさん、この地上に、死や罪やさばきの恐怖に悩まされることのないひとつのところがあります。罪人が立つことのできる唯一の安全なところです—カルバリです。

秋西部の草原に行くと、何ヶ月も雨が降らなかったため草が燃え出すことがあります。時によって、風の強いときなど、ほのおは巻き上がって七メートルもの高さとなり、人や動物を焼きつくしながら突進していくのが見えるでしょう。開拓者たちが見て、何がやってくるのかわかった時、どうして逃げたらよいでしょう。ほのおの進むのと同じ速度で走ることはできないことを彼らは知っています。一番早く走る馬でものがれることはできません。彼らはマッチをとって自分たちのまわりの草に火をつければいいのです。ほのおははって向こうに進みます。彼らはその焼けあとに離れて陣どっていて安全なのです。ほのおがこちらに来る時、鳴りとどろいているのが聞えます。死が抵抗できないほどの凶暴さで彼らにおしよせてくるのが見えます。しかし、彼らは恐れません。彼らは、まわりにほのおの大洋がさか巻いても身ぶるいもしません。彼らがいるところはすでに火が通り過ぎて、もう危険はないからです。火に燃える何物もありません。

この地には、神が掃ききよめられたひとつの地点があるのです。千八百年前※カルバリに突然あらしが起こりました。そして神の御子は、それをご自身の御胸の中におさめられました。そして今、わたしたちが十字架のそばに立つなら、わたしたちは永遠に安全なのです。

罪人よ、あなたは今安全ですか。あなたは過去の罪のさばきからのがれることができますか。やがて来る試みの力からのがれることができますか。それでは「とこしえの岩」の上に立ちなさい。死が来ようと、墓が来ようと、さばきが来ようと、勝利はキリストのものです。そして、この勝利は彼をとおしてあなたのものなのです。

おお、今この福音—キリストの犠牲の驚くべき知らせをあなたのために受け入れませんか。

(同書7〜9頁。※D.L.ムーデーは1837年生まれ、1899年没の人物である)

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