2012年12月27日木曜日

罪人を尋ねなさるキリスト(3)

ザアカイは いっしょうけんめいに きに のぼりました (絵本聖書より)
やがてその男は通りを走って行きます。けれども背が低いので、群衆の肩で、つま先立ちになってもイエスを見ることができません。「よし」と彼は言い、一本のくわの木にのぼります。「通りの真上までのびているあの枝にのれば、あのかたをよく見ることができるだろう」

この金持ちの男が、子どものように木にのぼってしげみの中にかくれたさまは、まさに奇妙なものであったに違いありません。その中で彼は思いました。誰にも見つからずに、ここを通るあの人を見ることができるだろうと。

ガヤガヤ群衆がやって来ます。彼はイエスをさがしています。ペテロを見ます。「あの人は違う」。ヨハネを見ます。「あの人でもない」。とうとうほかの誰よりも澄みきったひとりのかたに目が向けられます。
「あのかたがそうだ」

ザアカイは、しげみの間から、このふしぎな神の人を驚きながら見おろしています。ついに群衆は木の所にやって来ます。キリストが通り過ごされるように見えた時、キリストは木の下に立ち止まって、上をごらんになって言われます。
「ザアカイよ、急いでおりて来なさい」
彼の心の中に最初に浮かんできたことを想像することができます。
「だれかがあのかたにわたしの名まえを教えたのだろう。今まで会ったこともないのに」

キリストは彼をごぞんじでした。罪人よ、キリストはあなたのすべてを知っているのです。あなたの名まえも、あなたの家も知っているのです。キリストからかくれようとする必要はありません。キリストはあなたがいる場所も、あなたのすべてを知っておられるのです。

ある人々は
突然の回心
というものを信じようとしません。そういう人たちに聞きたいものです。—ザアカイは、いつ回心したのですか。彼が木にのぼった時、彼はたしかに罪の中にいました。彼は降りて来た時には、たしかに回心していました。彼は枝と地上の間のどこかで回心したに違いありません。この取税人が回心をするのに長い時間を要しませんでした。

「急いでおりて来なさい」。もう二度とこの道を通ることはないでしょう。これが最後の訪問です。ザアカイは急いでおりて来て、喜んでキリストを受け入れました。ほかの方法でキリストを受け入れた人のことを聞いたことがあるでしょうか。彼はキリストを喜んで受け入れました。キリストは、ご自身とともに喜びをもたらすのです。罪、悲しみ、暗やみは消え去ります。光と平和と喜びが魂の中にあふれます。読者よ、あなたがその高い所からおりて、今、キリストを受け入れてください。

ある人は言われるかも知れません。「彼が回心したということがどうしてわかりますか」と。彼は、非常にはっきりした証拠を残していると思います。わたしはきょう実の伴う回心の証拠を見たいのです。ある金持ちの人が回心して、その持ちものの半分を貧しい人々に与えてごらんなさい。人々はすぐにこれこそほんとうのことだと信ずるでしょう。しかし、それよりももっとすばらしい証拠があります。もしだれかから不正な取り立てをしていたら、それを四倍にして返します。非常によい証拠ではありませんか。人が突然回心すると、ある人は長続きしないだろうと言うでしょう。ザアカイは四倍にして返すほど長続きしました。人々のふところに達するような働きです。

次の朝、ザアカイのしもべのひとりが、百万円の小切手を持って隣人のところへ行き、これを手渡すさまを想像します。これはいったいなんですか。「わたしの主人が数年前、あなたから二十五万円をだましとったので、これはそのつぐないの金なのです」※

このことは、ザアカイの回心を確信させるでしょう。わたしは今、これに似たようなたくさんの実例で、人々が突然の回心に反対するのを止めてくれるよう願っています。

主は取税人の客となります。主がそこにいるというので、パリサイ人たちはぶつぶつと不平を述べ始めました。パリサイ人たちがその時代だけで死に絶えてしまったらよかったのにと思います。しかし、不幸にして、非常にたくさんの子孫を残して、今でも生き続けているのです。彼らは「この人は罪人を受け入れている」と不平をもらします。しかし、パリサイ人たちが不満を言っていた時、主は次のように言いました。

「わたしはザアカイをみじめなものとし、のろい苦しめるために来たのではない。わたしが来たのは、彼を祝福し救うためである。人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである

(同書26〜29頁引用。もとの翻訳文では小切手は4万円と1万円であった。50年の隔たりを考慮して25倍に直してみた。果たして物価変動はいかがなものでしょうか・・・)

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