2012年12月25日火曜日

罪人を尋ねなさるキリスト(1)

人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである。
                (新約聖書 ルカ19・10)

わたしにとってこのことばは、聖書の中で最も心をひかれることばのひとつです。この短い簡単なことばの中に、キリストがこの世においでになった目的を知ることができます。キリストがきたのは、ひとつの目的のためでした。キリストはひとつのわざを行なおうとしてきたのでした。この簡単なことばの中に、すべてが語られています。キリストが来たのは、この世を滅ぼすためではなく、キリストをとおしてこの世が救われるためでした。

数年前、英国の皇太子がアメリカに来た時、大きなどよめきが起こりました。新聞はこれをとりあげて論じ始めました。多くの人は、いったい何のために来たのだろうかとふしぎに思いました。共和制の政治形態を見るためだろうか。健康のためなのだろうか。アメリカの制度を見るためだろうか。あのことだろうか。このことだろうか。皇太子はこのような論議のうちに去って行きました。しかし、何のために来たのか語りませんでした。※

しかしながら、天国の皇太子がこの世に来た時、何のために来たのか、わたしたちに語られたのです。神はキリストをつかわされました。キリストは父の御旨を行なうために来たのでした。それはなんでしょうか。”失われたものを尋ね出して救うため”でありました。

聖書のどこを見ても、神につかわされた人が、そのわざにおいて失敗したという箇所がありません。神はモーセをエジプトにつかわして、三百万の奴隷の人々を約束の地へ移そうとされました。モーセは失敗したでしょうか。最初は失敗しそうに見えました。パロがその宮廷で「神とはいったい何ものか。わたしは神に従わなければならないのか」と言って、モーセを追いはらうように命じた時、たしかに失敗に終わったように見えます。しかし、ほんとうに失敗したでしょうか。

神はエリヤをつかわしてアハブの前に立たせました。エリヤは大胆にもアハブに向かって、「今後、数年雨も露もないでしょう」と語りました。しかし、天は三年六ヵ月閉ざされたのではなかったでしょうか。今や、神はそのふところから、その王座から、いつくしみたもうひとり子を、この世におつかわしになったのです。御子は失敗しそうに見えますか。感謝なことに、御子はきわみまでも救うことができるのです。救われたいと願って救われない人は、この世にひとりもいないのです。

このような聖句をとり上げ、詳細に調べ、その意味しているものを知ることは、わたしにとって大きな祝福です。十八章の終わりの部分を見ますと、キリストがエリコの町の近くに来られる記事があります。道のかたわらに、ひとりのあわれなめくらの乞食がすわっていました。おそらく、何年もの間そこにいたのでしょう。もしかしたら、彼は自分の子どもに追い出されたのかも知れません。あるいはまた、時々見かけるように犬をつれていたかも知れません。彼は何年も何年もそこにすわって、「どうぞ、あわれなめくらに恵んでください」と叫んでおりました。ある日、そこにすわっていると、エルサレムからくだってきたひとりの人が彼のかたわらに腰をおろして申しました。

「バルテマイ、おまえによい知らせを持ってきたよ」
「何だって?」
「おまえの目をあけることのできる人がイスラエルにいるのだよ」
「とんでもないことだ。目が開かれるなんてことは、今まで一度だって聞いたことがない。めくらに生まれた、生まれつきのものがなおるわけがない。この世じゃあ見えるなんてことはないよ。次の世では見られるかもしれないが、この世はめくらで過ごすよりほかはないのだ」
「しかし、まあ、聞いてくれよ。この間、わたしがエルサレムにいた時、生まれつきのめくらのいやされるのを見たんだ。すっかりよくなって、目がねを使わなくても、全くよく見えるんだよ」

こうして、このあわれな男の心にかすかな望みが出て来ました。
「どんなぐあいで見えるようになったんだね」
「うん、イエスが、土につばをかけて粘土をつくり目にぬったのだ。そしてシロアムの池に行って洗いなさいというんだ。その男が言われたとおりにすると目があいた。そうだほんとうにあいたんだよ。わたしはその男と話した。あんなによい目を持った人を見たことがない」
「それで、どれだけ請求された?」

(『失われた羊を尋ねて』D.L.ムーデー著湖浜馨編1960年版21〜23頁より引用。※ムーデーがこの文章を書いた時、すなわち19世紀の半頃にあたるのだろうが、アメリカはイギリスからとっくの昔に独立したとは言え、まだイギリスの統治が気になる時代だったのだろうか。そのような文脈で読むときに、例話とは言え、ムーデーの言わんとしたことが、現代の私たちにもより新鮮な話としてつかめるのではないだろうか。それに比して聖書の話はそれよりもはるかに昔の2000年前の話である。けれども、その話が古色蒼然なものとして響いて来ないのは、神のことばがつねに新たであることの何よりの証拠とは言えまいか。そして、今日のムーデーの文章はまさしく「これぞクリスマス」と銘打っていい文章だと引用者は思う。)

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