2016年12月31日土曜日

静けき親密感

大落古利根川の土手

主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。(ゼパニヤ書3:17)
 
 通りがかりの人とか儀礼的に知り合った人とは、あなたは話をしなければならない義務を感じ、社交儀礼としてあなたは彼らを楽しませようと努力をするでしょう。その結果、疲れ果てるかも知れませんが、そんなことにはお構いなく一生懸命であらねばならないと思うことでしょう。

 ところが、あなたのそばに非常に親しい親密な友がいる時、その種のことは思いもしません。 なるほど、あなたはお互いに思いや共感を交わして、和らげられたり新たにせられたりして、ありとあらゆる親密性を注ぎ出して話すことができます。しかし、もしあなたが大変疲れてでもするなら、一言も話す必要がないことも分かっています。あなたは完全に理解されていて、そのことをあなたも知っています。あなたは友がいるということだけで楽しくなり、会話以上にそのことがもっといいことだと知っています。そのように一緒にいて気が合うので、どんなことばを交わすよりもあなたをくつろがせるのです。そして、あなたの友人はそのことを友情と親密な間柄であることの最高の証拠だと受け取り、おそらくこういう静かな時ほど生き生きと愛する時は決してないことを知っているでしょう。

 それでも、私たちは主の前で静かにしているほうが良いのです。なぜなら、主が私たちを愛し、しかも徹底的に理解してくださることを知っているからであります。 肉体的にか精神的にか、あるいはどちらも非常に弱くされている時、主を楽しませようと、言わば、発することばや整えた思いを何らか義務的に果たすように努めて、自らを鼓舞させる必要はないのです。

 主が私たちにとって一晩滞在するために立ち寄る徒歩旅行をする人だけであって、私たちとともに住み、つねにそこにいるために来られた愛される親切なお方でなかったとしたら、鼓舞させる必要があるかも知れません。もし、これが主と私たちとの間柄であるなら、普段たくさんの交わりについて心配はいりません。しかし、私たちが「大層疲れている」今は、主に話しかける代わりに、主の前で静かにしているほうが良いでしょう。

愛は 祝福の頂点にある 
愛が 白く 揺らぐことがなく 
恐れを消滅させる 輝きに 届く時
そして
愛が知るとおりに 知られることを 知るのは
心強いことばも また なだめる口吻も 必要ない
愛は 静けき親密感以外に 切望しない
言わば 憩うがごとく 音もなく 動きもない
聞かれずして 感じられる愛 長々と静かに
時が 永遠の大海原の上の 雪片を 溶かすまで

この静かな時は あなたの過ぎ去りし日に 星ちりばめたか
記憶を 栄光の出入りする所としたか
知力がたどることのできるあらゆる喜びを 教えたか 

影以外のさらに偉大な光の帯が投げかけられて
主なるあなたの神は あなたを 喜ばれるでしょう
さすれば あなたは 主の愛に 憩い
まことに 静けさを 体験するでしょう 

By greater light 'tie but a shadow cast—
So shall the Lord thy God rejoice o'er thee,
And in His love will rest, and silent be.

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-31-silent-nearness/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97530です。一年の終わりです。ハヴァガルはいったい何を伝えようとしたのでしょう。むつかしい英文の連続でしたので、大分意訳を試みました。ひょっとしてハヴァガルの文意を取り違えているかも知れません。今年の1月10日からおぼつかない足取りでしたが、拙い私訳を毎日掲載し続けました。読者、家人の背後の暖かいお祈りなくしてなし得ませんでした。ここに感謝の意を表させていただきます。新年度も最初の9日間は引き続いて訳業を続けさせていただきます。それで全訳となり私の試みも終了します。もちろん、多くの誤訳があると思います。新年度は思いも新たにハヴァガル訳の再点検の年とすると同時に何か別のものに挑戦したい思いもあります。引き続きお祈りをお願いします。

※Godhold Beck(131)

『聖書とは何か』第四部[完]

 みことばに頼らない者は悪魔の餌食になってしまうのです。イエス様は旧約聖書の歴史や出来事も100%信じていました。マタイ伝22章31節32節をお読み致します。
それに、死人の復活については、神があなたがたに語られた事を、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。

29節
しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。

と。「あなたがたは読まなかったのですか」これはパリサイ人に対する驚いた主イエスの問いでした。そしてまたイエス様は創造主の報告の完全な霊感を信じておられました。マタイ伝19章の4節、5節をお読み致します。
イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。

と。そしてまたイエス様はノアの洪水の報告をも信じておられ、ノアの歴史的な報告をも信じておられたのです。そして主イエスは創世記がイエス様のことについて報告していることを文字どおり信じて理解しておられたのです。ルカ伝17章26節27節に
人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。

と、あります。それゆえ、主イエス様はモーセがほんとうにご自分について書き記したことを私たちに証明しておられます。ヨハネ伝5章46節、47節に
もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。

モーセを信じない者は、主イエスを偽り者にします。またイエス様は詩篇の二ヵ所を引用して、ダビデがご自身について書き記していることを私たちに証しておられます。マタイ伝22章43節、44節で
イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは、御霊によって、彼を主と呼び、
『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』と言っているのですか。

と。またイエス様は預言者ヨナについて書かれていることを文字通りに、信じておられました。マタイ伝12章40節
ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。

と、あります。ヨナが三日間大魚の腹の中にいたのと、全く同じように確実に主イエス様は三日間墓の中におられました。もしも人がどちらか一方を疑うならば、もう一つの方も疑わしいものにならざるを得ません。主イエス様は十字架上で死の時を迎え、聖書のみことばがどれもみな神のみことばであることをはっきりと証なさいました。主イエスは詩篇の一つ一つのみことばをお取りになり、それがご自身の死の瞬間に成就されることをご存知でした。それはヨハネ伝19章の28節です。
この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。

よみがえりの後、主がもはやしもべの形ではなく、再び神の全き栄光をお持ちになられた時、旧約聖書のみことばは主にとって再び主の宣べ伝えた土台と内容になりました。

引用者註:最後に述べられている短いベック兄のことばですが、ルカの福音書24章25節以下のことを指すように思われます。このあとに聖歌532番「ひとびとはイエスのおしえを古しとて、見向かず、『あたらしきことをのべよ』とあざけり顔に言う。古びはせじ、とうときはイエスのおしえぞ、よし世はいかにあざけるとも、動かぬはげにこのおしえぞ。」と歌わしめておられます。)
 

2016年12月30日金曜日

無限の愛の導水

白子鳩 群れ広がりて さんざめく

なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ5:5)

 聖霊はキリストの愛を啓示し、私たちの心のうちに神の愛を注ぎます。この(生来の)愛は、まるで新しいお方を見つけるかのように新しい愛の原理に導かれるのです。そのお方のうちに見るすべてのものが、この愛に新しい深みと新しい神の性質を与えるのです。この愛は聖さ、美しさ、栄光を見るにつれ、自らのうちにある罪深さ、無価値を深く覚えさせられます。また知識を越える愛を一瞥さえし、驚きと感謝の思いにとらわれます。
 
 そして、血で贖われた赦しにより、もっとも深い必要へと近く引き寄せるその愛を知る時、この愛は強められ掻き立てられるのです。もはやこれ以上に主の愛を推し量る時はありません。私たちを愛するために刺し貫かれた(十字架のイエス様の)足もとで、私たちは涙を流してこの生来の愛のうちにあるすべてを注ぎ出すにちがいありません。

 次に何があったでしょうか。その愛の流れは次第次第にゆっくりとなり、浅くなって行ったのでしょうか。私たちの主は「私の兄弟たちは川のように裏切った。流れている川筋の流れのように(ヨブ6:15)。」と言う理由があったでしょうか。「あなたの年ごろは恋をする時期になっていた(エゼキエル16:8)。」その時に私たちは恋をしていて、主を愛し続けられなかったことを知るとは何と恥ずかしいことでしょうか。私たちにはできなかったことが明らかになったのです。このことを主はできるということを証明する踏み石とだけしましょう。

愛する方 あなたはイエス様のために 輝いていますか
あなたは 心を イエス様に あずけたことがありますか
しかし その光は 心のうちにあって 強いですか
それとも 薄く 消え入るばかりですか
誰もが 見ることが できますか
イエス様が あなたにとって すべてであることを
あなたのイエス様に対する愛は 燃えていますか
輝ける暖かさと 真実をもって
額には 印が ありますか  
そうであるなら あなたは 知られているに違いありません
あなたは 「イエス様のためのすべて」で あると
あなたの心は 全部 イエス様の ものであると 
 

※Godhold Beck(130)

『聖書とは何か』第四部[6]

 今まで私たちは二つのことについて考えて参りました。第一番目は人間となった神のみことばとしての主イエス様。そして、第二番目は文字となった神のみことばとしての聖書でした。続いて第三番目で、すなわち旧約聖書についてのイエス・キリストの証し、という点について考えてみたいと思います。聖書のことばはどれもみな本当に神のことばなのでしょうか。私たちはまだこの問いに答えるためにただ一つの道を持っています。すなわち私たちは聖書自身に訊ねなければなりません。

 聖書が、聖書にふくまれている一つ一つのことばが本当に神のことばであることを要求しているのでしょうか。そしてまた聖書の一つ一つの文字が神の権威を持ち、それゆえに永遠に続くものであるということを要求しているのでありましょうか。私たちはこのことについてイエス様御自身よりも偉大な人に訊ねることができません。主イエス様こそ最高の権威なのです。パウロはコロサイ書の中でイエス様について次のように書き記したのです。コロサイ書2章9節
キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。

3節
このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。

と、あります。この主イエスは神の権威を持って旧約聖書全体を神のみことばと言っておられます。しかし、神のみことばは、誰一人改善したり、補ったり、変更したりすることのできない最高のみことばです。主イエス様は旧約聖書を100%信じておられました。そして旧約聖書の一つ一つのみことばはイエス様にとって手をつけてはならない神聖な神のみことばでした。主イエス様を信ずることは旧約聖書に対して同じように信頼を置くことを意味します。イエス様は一つ一つのみことばが聖書に書いてあることを何でも保障して下さり、旧約聖書全体が真理そのものであることをはっきりおっしゃいました。

 ですから、私たちは聖書のことばがどれもみな神のことばであることを、他の方法で証明する必要はありません。真理そのものである主イエス様が、聖書の霊感を100%信じておられますから、私たちもまた聖書の霊感を信ずることができます。世の光であるイエス様はいろいろな疑いの影をすべて追い払わなければなりません。主のみことばはあらゆる人間のことばや理解力にまさるものです。聖書の理解に対する決定的に大切なものは、イエス様のお取りになられた態度でした。

 聖書は、イエス様にとって、力の源でした。イエス様が旧約聖書のみことばを引用する時、その確信は巌のように堅固なものでした。神のみことばは真理そのものであると、信じて疑わなかったお方です。主イエス様が聖霊による荒野に導かれた時、悪魔と言う恐ろしい敵に立ち向かうただ一つの武器は、みことばの力だけでした。マタイ伝4章1節から10節までお読み致します。
さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」

と、あります。もしもイエス様がみことばに対してほんの少しでも疑いを持っていたならば、すべては崩れ去り、敗北者となっていたことでしょう。みことばこそイエス様が勝利を治めることのできた武器となったのです。

引用者註:イエス様が旧約聖書を全面的に信頼しておられた。これほど確かな旧約聖書の「霊感」を説明する根拠はありません。 ) 

2016年12月29日木曜日

忠誠を誓いなさい

あなたがたは、かねてから、ダビデを自分たちの王とすることを願っていたが、今、それをしなさい。(2サムエル3:17〜18)
 
 他の何らかの王の束縛は日々ますます激しかったので、当然であろう。私たちの忠誠を待っていたまことの王の恵みと威光を私たちがまさにおぼろげながらも垣間見るのも当然だ。私たちは先ず不安気にまた漠然と何かを(それが何かほとんど知らなかったが)求めていたに過ぎない。次に単なるあらゆる民の願いだけでなく、私たち自身の願いであったある方を求めていた。

 しかし、私たちはその地点にまで到達していなかった。私たちは主による絶対的な支配の心備えがなかった。と言うのは、私たちは以前の暴君の意志を愛し行っていたからである。私たちは偉大な「今」に直面していた。「 今、それをしなさい。」主は忠誠を強制なさらない。主はじっと待たれるだけだ。

 私たち自身の個別の愛や忠誠の冠は私たち自身の手によって差し出されねばならぬ。私たちがそうせねばならないのだ。いつか? おお、今だ。今先ず神聖な心を明け渡し、次に開かれた誤りなき生活を告白し、自分自身を私たちの主権者、統治者としての主に明け渡そう。これがなされる時、私たちの前にはどんな勝利と平和の栄光ある生活が開かれることか。これは将来も過去と同じようになってしまうのではないかという私たちの恐れ不安をなんと(みごとに)解消してくれることか。( What a silencing of our fears lest the time to come should nevertheless be as the time past!)

神様の「今」は あなたの耳に鳴り響いています
おお 心に届かせましょう
あなたに 分かつように 命令されるのは 
罪深さだけでなく あなたの義も そうです 
汚いボロ着は 全部捨てられねばならないのと 同じように
そして ただ罪なきイエス様の 尊い死だけが
あなたの弁護と ならねばなりません   

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-29-pledge-allegiance/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97528です。サムエル記の微妙なところを引用しながら、ハヴァガルははるかに私たちの主イエス様への忠誠を重ね合わせているようです。訳出は困難を極めました。特に最後のフレーズはそうでした。ために英文を併記しました。引き続き読者のご指導をお願いします。12/31追記 下記の訳がコメント欄にある通り、投稿されましたので、拙訳をそのとおり訂正しました。

※Godhold Beck(129)

『聖書とは何か』第四部[5]

 聖書の中に書かれている一つ一つのことばは本当に神のことばなのでしょうか。それとも一部分は神のことばで、他の部分は人間のことばというふうに混ざり合っているのでしょうか。残念ながら今日の大部分の神学校で教えられている事柄がそういうものです。すなわち、ちょうど混合物の中にふくまれている金のように、神のみことばも人間のことばの混合物の中にふくまれているという考え方です。

 しかし、もしもそうだとするならば、どれが神のことばで、どれが人間のことばなのかを判断するのは一体誰なのでしょうか、という疑問が起こって来ます。両者を区別する権威はどこにあるのでしょうか。神のことばと人間のことばを正確に区別することはもっとも大切なことになるでしょう。少しでも間違った判断をするならばそれは悲劇的なことになるでしょう。すなわち、神が語られたことを人間が語ったと言ったり、その逆に人間のことばを神のことばだと言ったりすることはまことに悲劇的と言わざるを得ません。まちがった判断によって人間が永遠の滅びに行くこともあることを考えると、それはとんでもないことであると言わざるを得ません。

 一言で言いますと被造物であるちっぽけな人間はこれほど重大なことを判断する能力を持っていないということです。確かに聖書の中には神のことばがふくまれていると多くの人は言いますが、そのようなことは確固たる土台とはなり得ません。そういう人々は結局はっきりとした確信を持てなくなってしまいます。そういう人々は聖書を信じているかも知れませんが、みことばの何たるかを知らないのです。これこそ現代人の絶望のもとです。また、これは多くの牧師の問題でもあります。

 彼らはどれが神のことばで、どれが人間のことばであるかを区別できないために、人を導くことができないのです。医者が患者に薬を間違えて死なせるよりも、はるかに恐ろしい悲劇は神のことばと人間のことばを間違えて判断し教えることです。多くの教会で牧師は確かに福音を語り、ただイエス様によってのみ救いが成就されると言われるのですが、聖書のことばがまことに神のみことばであり、信頼するに足るものであることを伝えることができなければ、語られた福音も十分な効力を発揮することができません。聖書全体を神のみことばとして受け取る者だけが確信と安らぎと支えを持つことができるのです。

 人は聖書を全部神のみことばとして持つか、さもなければ全然持たないかのどちらかです。すなわち人は聖書を神のことばとして完全に認識し、信仰と人生の土台を見出すか、さもなければ、聖書の要求を現代人はとても信じられないこととして退け、聖書全体を失うかのどちらかです。

 わかりやすい一例を挙げてこのことを説明してみましょう。列車で橋を渡れば、すぐ目的地にたどり着くことがわかっているとします。もしもその橋が頑丈な橋であれば、乗客はみな安心して乗りますが、その橋が危ないところもあるということが分かれば、誰もその列車に乗ってその橋を渡ろうとはしないでしょう。聖書の場合も同じようなことが言えるのではないでしょうか。つまり、聖書のある部分は確かで、別の部分は不確かであるとするならば、結果的には聖書全体が不確かなものとなります。

引用者註:憂国の情ということばがありますが、ベック兄の今日のくだりは聞き書きではうまく伝わらない激情があります。それは聖書を全面的に神のみことばとして認めないところに、現代人の絶望の根拠があるという診断であり、あらゆる牧師たちの足もとを襲っている不信の罪の指摘です。)

2016年12月28日水曜日

満たされし心 ゆるがされない心 

寒風に 裸木凛なり 妹と仰ぐ

その人は主に信頼して、その心はゆるがない。(詩篇112:7)

 誰の心ですか。天使の心ですか。栄光ある聖徒の心ですか。いいえ。ただ主を恐れ、主のご命令を大いに喜んでいる人の心です。だから、神様がそうであって欲しいと思われるあなたの心であり私の心であります。まさしく神様を恐れる心の平常心であり、功績とは縁遠い極めて絶望的で何もない心です。

 「信頼してゆるぎがない」ここにゆるがない方法があります。それは信頼です。主は私たちの内に信頼を働かせられます。それは聖霊が私たちの信頼は絶対的に無限に価値あるものとして、キリストにある神様を啓示するために遣わされることによってです。私たちが聖霊の働きによる信仰によって「イエス様を見る」時、私たちは主を信頼せざるを得ません。

 私たちは以前よりも自分の心をさらに正しくも信頼せず、私たちは主だけを信頼しますので、主を絶対的に信頼します。なぜなら、主に対する信頼にゆだねて、主がゆだねるものを支えることがお出来になると知っているからです。それが主ご自身が私たちの心を主ご自身のために勝ち取りゆるがせになさらない方法です。

むなしい骨折りはやむことがない  
私たちが人生の暗い惑わしのうちに
痛んだわがままな歩みを導いて
主ご自身が 道であり いのちであり 平和であることを
気づかせてくださるお方に お会いするまでは
主にあって 長期にわたる不安は 和らげられ 沈静化されます
私たちの心は 満ち足りるのです

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-28-hearts-filled-and-fixed/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97527です。

※Godhold Beck(128)

『聖書とは何か』第四部[4]

 音楽が、ある時は竪琴、ある時はオルガン、ある時はバイオリン、ある時はラッパによって自分の中にあるものをあらわそうと試みるように、主なる神は語りたいと思う時、全能なる力をもって、ある時は王、ある時は羊飼い、ある時は祭司、ある時は医者、ある時は神学者、ある時は漁師、ある時は取税人を選び、言い表わしたいことを表現致しました。

 神の御霊は選ばれた一人一人の個性を用いて書かせました。神の霊は人間に臨み支配しお用いになります。私たちは聖書を書いた人々の言うことを聞くことができ、彼らの人間的な個性を見ることができます。彼らは、みことばをそれぞれの個性に応じて宣べ伝えました。それは、確かに人間のかたちによるものではありますが、完全なみことばなのです。

 私たちは、いろいろな書物の作者の個性によって聖書の中に、言い表わすことの出来ないほどの豊かさを見出すことができます。旧約聖書において、モーセは教養の高い指導者であり、生まれながら民の指導者であり、レビの家系を持つ情熱的な男でしたが、もっとも柔和な人間となりました。イザヤは王の家系を持つ預言者であり、すでに千年王国の約束された平和の国を見た者でした。そして支配者の洞察力を持って、自分の時代を見透しました。エレミヤは感受性の強い詩人の性質を持ち、イスラエルの民の苦しみと悩みを深く同情し、ともに耐え忍び、イスラエルの民に対してする神の悲しみを理解することが出来ました。アモスは羊飼いであり、羊飼いの経験する事柄を通して、主のみことばを宣べ伝えたのです。ダニエルは賢い政治家であり、バビロン帝国の大臣であり、将来の世界史を主によって見させることができました。エゼキエルは祭司であり、宮の中の状態と将来の宮に対する目を開かれました。

 新約聖書において、マタイは取税人であり、天の御国に対する幻を持つことができました。ルカは医者であり、罪人の救い主を見、この方の癒す能力を確認しました。ヨハネは神秘主義者であり、神の御子の本質、ならびに主との交わりの本質を見ました。ペテロは行ないの人であり、彼の色々な思い出はマルコ伝に再現されており、彼の手紙の中では主の将来が描かれています。パウロは考える人であり、聖書の真理をもっとも簡潔に言い表わす人となりました。ヤコブは実践的な信仰の代表者です。

 これらの人たちはみな聖霊のご支配を受け、啓示を受け、駆り立てられました。彼らは覚めた状態で神のみことばを受け取り、開かれた魂と明晰な理解力をもって覚めた状態でみことばを書き記しました。彼らは神のみことばを宣べ伝える器に過ぎなかったのです。しかし、大切なことは聖書がつねに神のみことばであること、しかも完全で間違いのない人間のことばのかたちを取っているということです。

 神のみことばでありながら、人間のことば、そしてまた人間のことばでありながら、神のみことば。一体そんなことがどうしてあり得るのでしょうか。聖書は神の奇跡を私たちに説明してくれませんが、証しをしてくれます。主イエスの処女降誕はどうして可能なのでしょうか、人間は年老いてからどうして生まれ変わることができるのでしょうとか、このような私たちの問い、すなわち、「どうして」という問いに対して、聖書はいつも「聖霊によって」「聖霊の力によって」という答えだけを与えています。

 みことばの霊感はどうして可能なのでしょうか。ペテロ第二の手紙1章21節に
聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語った

と、書いてあります。人間の口をお造りになった方が、この口を自分の思い通りに使うことができないのでしょうか。出エジプト記4章11節と12節をお読み致します。
主は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれがおしにしたり、耳しいにしたり、あるいは、目をあけたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」

と、あります。私たちが召されたのは神の奇跡を説明するためではなく、宣べ伝えるためです。聖書のことばはどれもみな神のことばです。

引用者註:この最後のベック兄のことばは当然と言えば当然し過ぎることばだが果たしてそうだろうか。「説明する」のでなく「宣べ伝える」とは何と意味深なことばであろうか。ここには「宣べ伝える」者とは、何よりも神様の前にへりくだりを求めれている者にちがいないからだ。)

2016年12月27日火曜日

ささげることに関して

桐見上げ 妻と歩めり 冬空を

あなたの神、主が賜わった祝福に応じて、それぞれ自分のささげ物を持って出なければならない。(申命記16:17)

 私たちが「全部」と言っているだけで、もし私たちが過去に「いくらか」と言ったに過ぎず、きわめて限定的に言ったのなら、実際にはより不十分である危険性がつねにあります。神様はこのことを十分お知りになるので、それに反して多くの部分にわけて用意されるのです。たとえば、私たちの時が神様にとって「すべて」であっても、神様は厳格に神様にとって特別な一日を分離されるのです。

 神様より良く知っていると思い、毎日が日曜日だと告白する人々は、自分たちが書かれていることにまさりそれほどまでに自らを賢いとすることによって、どんな誘惑を思う存分開いているかほとんど知らないのです。

 神様は最善をご存知で、そのことはあらゆる誠実な心にとって全く十分であるはずであります。そのように、お金に関して、たとえ私たちが主の処理に全部をおまかせし、主のために直接的にせよ間接的にせよ使うことを喜んでいても、主に直接お仕えするために収入や収益の決まった部分を取りのけておくことは、大きな助けであり、予防措置であり、さらには主のご命令の精神に対して単純な従順の根拠であると私は確信します。

わたしは あなたに わたしのいのちを与えました
わたしの尊い血を流したのは あなたが贖われ 
死からよみがえるためです
わたしは あなたのために わたしのいのちを与えました
あなたは わたしのために 何をささげましたか
 
I gave My life for thee, My precious blood I shed, from
That thou might'st ransomed be, and quickened from the dead.
I gave My life for thee; what hest thou given for Me?

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-27-on-giving/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97526です。一年間ハヴァガルを訳し続けてここまで辿り着きましたが、今日の箇所は特に感慨深いものがあります。なぜなら詩の英文を読むうちに彼女の若い時の作品だと、私は思い至ったからです。まさしくそうでした。手許の大野野百合著『賛美歌・聖歌ものがたり』を見ますと21歳の時だということが分かります。しかも散文の文章部分を読むと、いかに彼女が実際的に主に身をささげる意味を把握して信仰生活を送っていたかがわかるというものです。このようなハヴァガルを苦しみながらも一年間訳し続けられたことを感謝したい思いです。ベック兄が数年前にこの邦訳書[最初の100日分、ただし詩は訳されていない]をご婦人方になぜプレゼントされたかがわかるような気がします。

※Godhold Beck(127)

『聖書とは何か』第四部[3]

 神の霊による霊感とは、まず神の語られたこと、それから人間をとおして受け取られたことだけではなく、みことばの伝播もそうなのです。したがって、みことばの伝播もまた神のみこころと導きによるものです。

 主なる神はご自身の啓示、すなわちみことばを全人類に伝えるために書物という手段を選びました。文字による継承、すなわち受け継がれることは、口によるものより確かであり、すなわち広がることの出来る領域に、空間的に制限されません。そしてまた時間的にも制限されず、いつの時代にも通用します。

 主なる神が、歴史上アブラハムを通して救いのご計画を実行し始めたとき、文字は既に発明されていました。モーセはエジプトのあらゆる知恵の中で教育されましたので、その中には当然文字もふくまれていました。使徒行伝7章22節に
モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにもわざにも力がありました。

と、書いてあります。神ご自身がお書きになりましたし、出エジプト記31章18節に
こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられた。

と、書いてありますし、32章の16節に
板はそれ自体神の作であった。その字は神の字であって、その板に刻まれていた。

と、書いてあります。また、モーセは神のことばを書き記すように命令されたのであります。出エジプト記17章14節に
主はモーセに仰せられた。「このことを記録として、書き物に書きしるし、ヨシュアに読んで聞かせよ。

と、ありますし、24章の4節に
それで、モーセは主のことばを、ことごとく書きしるした。

と、書いていますし、34章の27節に
主はモーセに仰せられた。「これらのことばを書きしるせ。わたしはこれらのことばによって、あなたと、またイスラエルと契約を結んだのである。」

と、あります。 また民数記33章の2節に
モーセは主の命により、彼らの旅程の出発地点を書きしるした。

と、あります。また申命記28章58節に
もし、あなたが、この光栄ある恐るべき御名、あなたの神、主を恐れて、この書物に書かれてあるこのみおしえのすべてのことばを守り行なわないなら、主は、あなたへの災害、あなたの子孫への災害を下される。

と、あります。サムエルも書いたと聖書は言っています。サムエル上10章25節に、
サムエルは民に王の責任を告げ、それを文書にしるして主の前に納めた。

と、あります。エレミヤという預言者は、みことばを書くように要求されています。36章の2節
「あなたは巻き物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書きしるせ。

と、ありますし、6節
だから、あなたが行って、主の宮で、断食の日に、あなたが私の口述によって巻き物に書きしるした主のことばを、民の耳に読み聞かせ、また町々から来るユダ全体の耳にもそれを読み聞かせよ。

と、ありますし、17節
彼らはバルクに尋ねて言った。「さあ、どのようにして、あなたはこれらのことばをみな、彼の口から書きとったのか、私たちに教えてくれ。」バルクは彼らに言った。「エレミヤがこれらすべてのことばを私に口述し、私が墨でこの巻き物に書きしるしました。」

と、書いてあります。 23節
エフディが三、四段を読むごとに、王は書記の小刀でそれを裂いては、暖炉の火に投げ入れ、ついに、暖炉の火で巻き物全部を焼き尽くした。

と、ありますし、28節
「あなたは再びもう一つの巻き物を取り、ユダの王エホヤキムが焼いた先の巻き物にあった先のことばを残らず、それに書きしるせ。

と、書いてあります。 また51章の60節
エレミヤはバビロンに下るわざわいのすべてを一つの巻き物にしるした。すなわち、バビロンについてこのすべてのことばが書いてあった。

と、あります。ダニエルも「書き留めた」と聖書は言っています。ダニエル7章1節に
バビロンの王ベルシャツァルの元年に、ダニエルは寝床で、一つの夢、頭に浮かんだ幻を見て、その夢を書きしるし、そのあらましを語った。

と、あります。

引用者註:ベック兄はここで、「でんぱ」と言っておられます。「でんぱ」と言えば、普通の日本人は「電波」しか想像しないでしょう。しかし「伝播」です。こんなむつかしい日本語の用法を駆使されるとは何とも頭が下がります。そしてこの「でんぱ」こそ神様が私たち罪人にご自身を伝えようとなさる意味を集約していることばはありません。)  

2016年12月26日月曜日

私たちはあなたの骨肉です

王は、われわれの身内だからだ。(2サムエル19:42)

「あなたのうちから、あなたの同胞の中から(申命記18:15)」起こされた預言者および人々の間から取られた「同族」である大祭司の内に、私たちはキリストの身内を見るだけでなく、神に選ばれた王のうちに同じ驚くべき関係が与えられているのです。「あなたの同胞の中から、あなたの上に王を立てなければならない。同胞でない外国の人を、あなたの上に立てることはできない(申命記17:15)。」

 私たちは「兄弟」という全く完全で親愛ある考え方にふくまれるすべての表現を使い尽くしたとき、さらに「兄弟よりも親密な(箴言18:24)」方を認めるようにと導かれるのです。王なる方は大変な身内だから、イスラエルの部族が集まって「ご覧のとおり、私たちはあなたの骨肉です(1歴代誌11:1)。」と言ったように、私たちは、主のところに近づくことができます。主は「すべての点で」「兄弟たちと同じようになる(ヘブル2:17)」ほど親密であります。それは「われわれの身内(2サムエル19:42)」というほどであります。しかしその方は神様なのです。このことは考え抜く価値がないでしょうか。

おお 歌わせて下さい まさしく喜びのために あなたは私の王ですから
おお ほめあげさせて下さい 私の生きる限り あなたの愛と誠実を


※Godhold Beck(126)

『聖書とは何か』第四部[2]

 イエス・キリストは人間となった神のみことばです。主はその本質上、完全な神の御子であり、形式上はこの地上におられる間、完全な人の子なのです。ピリピ2:2〜7までお読み致します。
私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

と、書いてあります。聖書はことばが人となった、という事実を私たちに告げ知らせていますが、この大変な結果がどういうふうにしてなされたかは説明していません。ヨハネ伝1章14節に
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

と、ありますし、そして前に読みましたルカ伝1章35節、もう一回、お読み致します。
御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。

と、書き記されています。「ことばは人となった。」「聖霊と処女マリヤをとおして生まれたのです」としか、書いていません。聖霊は神の創造的な力であり、マリヤという人間は受取人となり、生むために用いられた器となったのです。この転換はどのようにして行われたのかという私たちのあらゆる問いに対して、聖書はただ聖霊によってという答えを与えておられます。人の子・主イエスはしもべの形をお取りになりましたが、全く完全であり、すなわち私たち人間でありながら罪を知らないお方でした。主イエスの内には神のご性質が満ち満ちています。しかし、私たちが主イエスのうちに神を見ることができるために主は人の形を取ってくださったのです。

 第二番目は文字となった神のみことばとしての聖書について考えたいと思いますが、聖書は文字となった神のみことばであり、聖霊の働きによってできあがりました。神のみことばは使徒と預言者をとおして語られ、また書かれた人間のことばになりました。聖書はしもべの形を取られた、すなわち人間のことばの形を取られた神のみことばです。聖書は人の子イエス・キリストと同じように完全で誤りがありません。聖書は内容的にも形式的にも完全です。

 私たちが神の御子から人になったみことばへの転換の奇跡を問う時、聖書は聖霊によってというただ一つの説明として私たちにお語りくださいます。ちょうどそれと同じ答えを聖書が私たちに与えてくださるのは、私たちが文字となった神のみことばの奇跡を問う時です。すなわち、それは聖霊によるのですと。多くの人たちは何とかしてこの転換の奇跡を説明したいと思い、あらゆる可能な機械的な試みをしてきましたが、ちょうど先生が読み上げる文章を一字一字生徒らが書き写すのと同じように聖霊がみことばを使い使徒と預言者たちがこれを一言一言書き記したことではないかという解釈や学説もあります。しかし決してそうではありません。

 創造主なる神は人間をロボットのようにお造りになったのではなく、自由意志をもった人格としてお造りになったからです。しかし、いくら考えても人間には説明がつかないので、聖書は単純に事実だけを述べて「聖霊によって」という表現を使っておられるのです。

引用者註:書かれた言葉である聖書の誕生と主イエス・キリストの誕生はともに不可思議なことであるが人間はいかようにも説明できない。それは聖霊によると神様は私たちに語られるのみだとベック兄は断言しておられる。それがいかにして説明できるか、科学者のごとくベック兄の聖書による説明は続く。明日は文字の発明による書き言葉による伝播が聖書に即して語られる。 )

2016年12月25日日曜日

不思議な

わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり・・・

その名は「不思議な」と呼ばれる。(イザヤ9:6)

 イエス様のこの他のすべての名前は名詞です。しかし、ここには形容詞の名前があります。だから私たちはその名前をそれ自身の名前としてだけでなく主のあらゆる他の名前の形容詞として用いることができます。そして私たちは主を知れば知るほど、また愛すれば愛するほど私たちはこのことを喜ぶことでしょう。 

 もし私たちがイエス様を我が救い主として知っているなら、私たちは主が不思議な救い主と全く確信することでしょう。そしてもし私たちが私たちの主であり救い主イエス様の恵みと知識において成長するなら私たちはますます年毎に、日毎に主がどんなに不思議な友、不思議な贈り物、不思議な大祭司、その他すべての不思議なお方であることを発見することでしょう。 

 あなたは不思議な景色を見たら、必ず真っ先に他の人々に見て欲しいと思わないでしょうか。そしてもしあなたが彼らを見に連れて行くことができないなら、そのことについて話し、その思いを伝えたくないでしょうか。そのように、私たちがまことにイエス様を見出したのは私たちが他の人々にどんなに不思議な救い主を見出したかを来て知ってもらいたいという一つの証しだと思います。

 イエス様がどんなお方であるか不思議です。天使でさえ神の御子を見て不思議に思ったに違いありません。天使は全員で小さな赤ちゃんとして飼葉おけに寝かせられている御子を礼拝しました。けれども私は彼らが「引き渡され、不法な者の手によって十字架につけて殺されるお方(使徒2:23)」を知っていたので、なおさら不思議に思ったに違いないと思います。彼らはその時、知識をやり過ごすキリストの愛に心底驚いたに違いありません。しかしキリストは彼らのために死なれずあなたのために死なれたのです。そうして「あなたの私への愛は、すばらしかった(2サムエル1:26)。」と言うでしょう。

 キリストがなされたすべてのことが不思議でした。イザヤは多くの人がびっくりすると言いました。そして私はあなたにそのことがどんなふうに正確に実現されているか知って欲しいです。マルコの最初の7章をご覧なさい。そうすれば彼らがキリストに驚いたり当惑したりしていることが五度にわたって記されていることがわかるでしょう。

 さらにキリストのことばは不思議以上でした。ルカの4章をご覧なさい。そうすれば、主を愛さなかった人々でもどんなに主のことばに驚き、びっくりし、当惑したかを知ることができます。もし私たちが今私たちに話されているやさしいことばに驚くなら、私たちが主の栄光の御座におられるキリストを見、主ご自身の声を聞く時どれほどはるかに驚くことでしょうか。

おお 救いの運び手 あなたは 驚くべき 主人を働かせ
漕ぎ手の考えを越える愛の啓示である あなたご自身だ
私たちはあなたを礼拝し あなたを誉め称え あなた一人に向かって 歌う 
私たちは あなたを 讃美し あなたに 告白する
私たちのやさしい主よ 王よ

O Bringer of Salvation, who wondrously host wrought,
Thyself the revelation of love beyond oar thought:
We worship Thee, we bless Thee, to Thee alone we sing;
We praise Thee, and confess Thee, our gracious Lord and King!

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-25-wonderful/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97524です。

※Godhold Beck(125)

『聖書とは何か』第四部[1]

 今まで大きく分けて二つのことについて考えて参りました。第一に主なる神が聖書の発起人・起草者すなわち著者そのお方であること、第二に神のことばが人間、すなわち使徒と預言者に与えられ、吹き込まれたことを見て来ました。そこで、最後に第三として使徒たちと預言者たちが与えられ受け取ったものをさらに伝えて行き宣べ伝え、書き伝えたことを見てみましょう。すなわち別のことばで表現しますと、第一に語られたみことば、第二に受け取られたみことばを見て来ましたが、今度は第三に書かれたみことばを見てみるわけです。

 人間は主なる神から受け取ったみことばを書き記した事実について考えてみましょう。主なる神は時々召された人たちにお語りになり、受け取った事柄をさらに宣べ伝えることを禁じました。そういう場合、私たちは神が語られたことばだけはわかりますが、主が何を語られたかはわかりません。たとえばダニエル書8章26節に
先に告げられた夕と朝の幻、それは真実である。しかし、あなたはこの幻を秘めておけ。これはまだ、多くの日の後のことだから。

と、あります。黙示録10章4節に
七つの雷が語ったとき、私は書き留めようとした。すると、天から声があって、「七つの雷が言ったことは封じて、書きしるすな。」と言うのを聞いた。

と、ありますし、コリント第二の手紙12章4節にパウロは次のように書き記したのです。
パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。

と、あります。 しかし、神のみことばすべてが受け取られ、語られ、また語ることがなかったならば、私たちは主なる神について何も知らず、聖書もなかったことでしょう。使徒と預言者はみことばを聖霊をとおして受け取っただけではなく、さらに聖霊を通してことばを宣べ伝えました。みことばの霊感は初めから終わりまで主なる神の御業です。神のみことばの伝播はしたがって神のみこころのあらわれであり、与えることまた受け取ることと同じように主の御心です。聖霊の働きを通して受け取られたみことばは、変わることなく語られたり書かれたりしたみことばになります。受け取られたみことばは神によるものであるなら、宣べ伝えられたみことばも神によるのです。

 そのことについて聖書は私たちに何と言っているのでありましょうか。神のみことばが人間に理解できるものとなるべきであるならば、主は人間のことばの形でお語りにならなければなりません。私は小さな子どもに私の言うことを分からせようと思うならば、子どもの話し方で語らなければなりません。しかし、私が語ることは私のことばであり、それがただ子どもの話の形になっているというだけです。私の話している事柄は私のことばであるに違いありません。霊感の奇跡の一つは語られた神のみことばが、語られたり書かれたりした人間のことばに変わることです。変圧器は高電圧から低電圧に電流を変えます。神のみことばは使徒と預言者を通して人間のことばに変えられました。

 神のみことばである聖書は内容的には完全な神のみことばであり、形式的には完全な人間のことばです。全体をわかりやすく6つに分けてみますと、次のようになります。第一番目は人間となった神のみことばとしてのイエス・キリスト、第二番目は文字となった神のみことばとしての聖書、第三番目は旧約聖書についてのイエス・キリストの証し、四番目は旧約聖書についての使徒たちの証し、五番目は新約聖書についての使徒たちの証し、そして六番目は神のみことばに対する信仰です。この六つの点について考えてみたいと思いますが、第一番目は人間となった神のみことばとしてのイエス・キリストです。

 主なる神はイエス・キリストをとおして私たち人間にご自身を啓示なさりたいと思われた時、次のようになさいました。ピリピ書2章7節に
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

と。イエス・キリストというまことの人間のかたちを通してのみ、私たちは主なる神を具体的に把握し知ることができたのです。みことばそのものである神は隠されたままにいることはなく、人間となり、私たちは神の栄光を見たと主イエスの弟子たちは言わざるを得ませんでした。すなわち、私たちは神の不完全さを見たのではなく、むしろ私たちは恵みとまことにしておられたひとり子としての栄光を見たのです。ヨハネ伝1章14節に書いてあります。ですから、主イエスは聖霊による処女マリヤから生まれなければなりませんでした。イエス様のご降誕については次のように記されています。ルカ伝1章35節です。
御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。

と、書いてあります。

※不思議や不思議。今日のベック兄のメッセージはちょうどクリスマスに触れています!今日のクリスマス・カードの図柄の聖句は申命記32:11〜12と詩篇5:8です。) 

2016年12月24日土曜日

単純な信頼と無限の慰め

His name shall be called...The Mighty God
王さまのことばは私の慰めとなろう。(2サムエル14:17)

 ここにはそもそもの初めから終りにいたるまでの慰めの全秘訣があります。私たちの王なる方のおことばは私たちが持ち、深く絶対的な心の慰めのために必要とするすべてです。その慰めはこの骨の折れる世の表面的ないかなる波も妨害することができないものです。

 私たちが救いと平安を望んだ時、先ず最初に何が「あなたの痛み、あなたへの激しい怒りを除き、あなたをいこわせ(イザヤ14:3)」たでしょうか。私たちのところに来たのはばくぜんとした喜びの印象、表現できない静寂ではなく(それとも、もしそうだったら、慰めの虚構性はすぐに証明されたでしょう)私たちが全部受け入れる価値があると見た私たちの王なる方のいくつかのことばでした。

 まさしく同じもの以外に広範囲にわたる慰めのいかなる他の方法もありません。私たちが単純に王なる方のいかなることばも信ずるなら、その瞬間私たちはそれが依拠する点に関して真に「慰め」であることを知ります。そして、もしどんな端的な事柄にあっても王なる方のことばを受け取り続ける以外にはしたくないのなら、私たちはつねにみことばにその場ですぐに「慰め」を見出すはずです。

主はそうおっしゃった
このことを喜び
いかなるしるしも求めません
主のおことばは 私たちが確信を持つのに
十分です
「聖書は廃棄されるものではありません」
(ヨハネ10:35)

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-24-simple-trust-for-infinite-rest/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97523です。

※Godhold Beck(124)

『聖書とは何か』第三部[完]

 預言者は神の啓示を直接見たり聞いたりします。主なる神は行動するお方であり、みことばを与えて下さるお方です。これに対して預言者は単に受身的に参加し見たり聞いたりするのです。神のみことばは言わば預言者たちを襲ったのです。決して預言者たちが自分勝手に作り上げたものではありません。そのことによって本当の預言者と偽りの預言者とが区別されます。ほんとうの預言者は神のみことばを受け取る時に全く受身的に預かります。ところが、偽りの預言者は神の啓示を自分の意思で作り替えてしまおうとします。偽りの預言者は心に偽りのことばを抱きます。イザヤ書59章の13節に
私たちは、そむいて、主を否み、私たちの神に従うことをやめ、しいたげと反逆を語り、心に偽りのことばを抱いて、つぶやいている。
と、あります。主なる神のもっとも嫌われることは神から直接に受け取ったみことばをではなく、自分勝手なことばを神のことばとして言いふらす偽りの預言者のことばです。エレミヤ記14章14節に
主は私に仰せられた。「あの預言者たちは、わたしの名によって偽りを預言している。わたしは彼らを遣わしたこともなく、彼らに命じたこともなく、語ったこともない。彼らは、偽りの幻と、むなしい占いと、自分の心の偽りごとを、あなたがたに預言しているのだ。

と、あります。主なる神は偽りの預言者のことばを「わら」に過ぎないとおっしゃり、まことの預言者のことばを「麦」と呼んでいます。同じくエレミヤ記23章28節に
夢を見る預言者は夢を述べるがよい。しかし、わたしのことばを聞く者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない。麦はわらと何のかかわりがあろうか。――主の御告げ。――わたしのことばは火のようではないか。また、岩を砕く金槌のようではないか。――主の御告げ。――

と、あります。 私たちが神のみことばを判断する時、ほんとうの預言者と偽預言者との間の明確な区別をするよう、注意しましょう。神のことばは人間のことばとして説明するならばそれは大変な債務となります。神のみことばの霊感はただ単に人間の意志とは無関係であるのみならず、人間の理解力とも関係がありません。霊感と啓蒙とは全く異なったものであり、聖霊の働きの結果という点でも両者は全く異なったものです。

 神が語る時に、用いられた人間たちは、神のみことばをごく一部分しか理解できないことがしばしばありました。みことばは多くの場合、人間の理解力をはるかに越えていたのです。したがって、みことばを極めて小さな基準でしか理解できなかったのです。啓蒙と霊感は本質的に違ったものです。すべての信ずる者はある程度啓蒙されています。しかしながら、極めて少ない信者だけが霊感を受けた神のみことばを宣べ伝えるように召し出されました。啓蒙は段階的であり、啓蒙はしたがって信者の認識には成長があります。しかし、霊感は段階的ではなく、つねに全体的です。ことばは神のことばであるか、他のどちらかです。その中間はありません。啓蒙は持続的で、霊感はある時だけ与えられるものです。

 主のことばが私に臨んだと、預言者たちは言いました。そうして彼らの語ったことばを「直接上から聞いたことば」と言います。すべての預言者たちは自分がまことの預言者であるということに大きな価値を置いています。そのために多くの預言者たちは自分たちの召された歴史をくわしく私たちに語り、他の預言者たちは彼らが宣べ伝えていることばを直接主から受け取ったことをはっきりと私たちに証しています。

 最後にイザヤは自分の召しについて次のように述べていることを読んで終わりたいと思います。イザヤ書6章1節からお読み致します。
ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

 私は主を見た、私は災いなるかなと言った。私は主の声を聞いた。すなわちイザヤは主を見、そして聞きました。イザヤは大いなる任命に直面し、いかに無価値な者かと思い、主の前に汚れた者として立ちました。しかし、彼は聖められ、彼の唇は火の炭で触られ、聖められました。このことを通して彼は主に用いられる器となったのです。

引用者註:「啓蒙」はドイツ聖書批評主義の象徴なることばでないか。ドイツ人であるベック兄はこの「啓蒙」がいかに「霊感」と異なるものかを根底から批判して述べておられる。一読価値のある箇所である。そしてクリスマス・イヴのこの日、ハヴァガルの黙想は余りにも素っ気ないと思われるだろうか。いやいやどうしてハヴァガルは詩の最後のことばに万感を込めている。これぞ贖い主の誕生を待ち望むすべての人の確信に違いない!)

2016年12月23日金曜日

やさしさ

His name shall be called...the Prince of Peace
王は・・・命じて言った。「私に免じて、若者アブシャロムをゆるやかに扱ってくれ。」(2サムエル18:5)
 
 アブシャロムか! 冷酷で、計画的な裏切り者の叛逆者なのに。私たちははっきりとダビデがどんな男であったか、あわれみようのない時に荒削りな戦争の将軍たちにそのような命令を出す美しいやさしさを認め、思い起こさねばならない。ダビデは民とその王国のために、彼に刃向かう前面に将軍たちを派遣しなければならなかったが、その深い愛が「私に免じてゆるやかに扱ってくれ」という命令となってほとばしり出た。

 それは一時的な衝動でなかった。アムノンが殺された時、大変ひどく嘆き、毎日我が息子のために喪に服した。しかし、兄弟殺しが逃げた時、ダビデ王の心は彼のところへと出発することを念願し、王の心はアブシャロムに向かって行った。そして神様ご自身の復讐が悪い息子に下った時、ダビデの息子に対する哀歌はおそらく人のやさしさの記録のうちにあっても感情の強さにおいて並ぶところがないものであろう。

 目を転じて私たちの王なる方の神のやさしさを味わえ。何度も何度もそのやさしさは光り輝いている。主はご自身のために嘆かれただろうか、主は「泣かなくてもよい(ルカ7:13)。」と言われたかどうか。やさしい顔つき、やさしいことば、それとももっともやさしいあわれみの触れ合いだったろうか。

 キリストのやさしさの例をたどる責任はもちろんのことここにおける命令を私たちはよく知っていないのではないだろうか。おそらく、この次に罪を犯したり感情を損う人に対して少し不快感やイライラする誘惑に駆られる時、ささやきが聞こえてくるだろう。「私に免じて、ゆるやかに扱ってくれ。」と。

帰って来なさい
罪を犯したけれど 愛された人よ
わたしは あなたの血の出た足に
包帯するのを待っている
あなたのいたところには
鋭い恨みが 刺となっているから
わたしは あなたに 赦し 愛 安息を
与えようと待っている
あなたが 安全で 祝福を受けるのを
見るのが わたしの喜びでないか

帰って来なさい
わたしは もう一度 あなたの声を 聞きたい 
新しくされたあなたを 迎え
あなたの心に 喜びを告げるために 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-23-tenderness/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97522です。

※Godhold Beck(123)

『聖書とは何か』第三部[6]

 今から次の三つの事柄を見てみたいと思います。先ず第一にみことばを宣べ伝える者としての預言者たち、第二にみことばを宣べ伝えるお方としての主イエス、そして第三にみことばを宣べ伝える者としての使徒たち、この三つに分けて考えてみたいと思います。

 先ほど、例として挙げましたように、神は人間以外の動物をとおして私たちに語ってくださることもありますが、普通は人間をとおして語られます。主なる神は用いようとする人々をお選びになります。神によって選ばれた人たち、すなわち預言者たちに対して主なる神は直接語ってくださり、したがって預言者たちは神の声を聞き、みことばを受け取るわけです。すなわち、預言者たちは神のみことばを宣べ伝える者となるのです。このようにして特別に神によって召し出された人たちのことを聖書は預言者、すなわち宣べ伝える者と呼んでいます。したがって、預言者とは言わば神の通りよき管のようなものです。すなわち、預言者はみことばを直接主なる神から受け取り、それをさらに人間に伝えるわけです。つまり預言者の特別の使命は主なる神から受け取ったみことばを私たちに伝えることに他なりません。

 このように聞いたことをそのままの形で伝えることを聖書は「霊感」と読んでいます。一つの実例を挙げますと、それにやや近い形を旧約聖書の中に見ることができます。たとえばモーセがアロンの口を通して語った時、アロンは言わばモーセのことばの預言者、すなわち宣べ伝える者になったわけです。宣べ伝えられたものはモーセのことばですが、それをアロンは宣べ伝えたわけです。出エジプト記4章16節に
彼があなたに代わって民に語るなら、彼はあなたの口の代わりとなり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。

と、書いてありますし、出エジプト記7章1節と2節に
主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたをパロに対して神とし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。あなたはわたしの命じることを、みな、告げなければならない。あなたの兄アロンはパロに、イスラエル人をその国から出て行かせるようにと告げなければならない。

と、書いてあります。それと同じように主なる神はその口を通して、神が語りたいと思う人たちを選び出し、直接その人たちに語られます。このようにして主なる神はモーセとともに顔と顔とを合わせて、人が友と語るように語られました。出エジプト記の33章の11節に、
主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。モーセが宿営に帰ると、彼の従者でヌンの子ヨシュアという若者が幕屋を離れないでいた。

と、あります。しばしば、主なる神はみことばを、ただ単に聞かせるだけでなく、見させることもなさいます。神は人間のことばで表現することの出来ない事柄を預言者たちに見させるのです。したがって、預言者たちは主なる神の啓示を聞く者でもあり見る者でもあるのです。サムエル上9章の9節
今の預言者は、昔は予見者と呼ばれていたからである。

預言者の一人は神のみことばを受け取ったときの様子を私たちに正確に書き記しています。民数記の24章の3節と4節です。
彼は彼のことわざを唱えて言った。「ベオルの子バラムの告げたことば。目のひらけた者の告げたことば。神の御告げを聞く者、全能者の幻を見る者、ひれ伏して、目のおおいを除かれた者の告げたことば。

と、書いてあります。

引用者註:明日は第三部の最終章です。でも『聖書とは何か』のシリーズはまだまだ続きます。同じようなことが繰り返されているように見えますが、神のみことばの真理はますます深まって行きます。)

2016年12月22日木曜日

私たちの無敵な守り手

Love would strew upon thy way....と歌い上げるハヴァガルの詩と絵

だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。(ルカ10:19)
 
 このみことばは私たちが少し言い回しが強過ぎると思い、話半分に受け取っているかなり強い約束の一つではないでしょうか。さあ、「神は、ほんとうに言われたのですか(創世記3:1)。」と言わないで、自分自身のためにあるそのみことばの慰め、安らぎ、喜びをすべてそのまま受け取りましょう。

 私たちの愛する主が純真な70名の人々にそのことをおっしゃった時と同じようにみことばをことごとく信じましょう。人々は自分たちが予期していたよりも主のお名前がはるかに力あるものであることに大変びっくりしたのですから。「何一つありません」ですか。もし主が「何一つありません」とおっしゃったのなら、私たちに「そうです、ですが・・・」と付け加える権利が少しでもあるのでしょうか。

 もし、主と私たちを引き離すべきものが何も見つけられないなら、キリストに属する者を害するものは何もありません。「なぜなら、私といっしょにいれば、あなたは安全だからです(1サムエル22:23)。」そして「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか(ローマ8:35)。」

 この世の苦難、もっとも恐ろしいものでさえ害を加えることはありません。なぜなら、「私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです(ローマ8:37)。」それにもかかわらず、はるかに広範囲でまことに完全な余すところのない項目が与えられていますが、そのうちの何も、また「そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません(ローマ8:39)

私たちの父 私たちの父 光のうちに住まれる
私たちはあなたの愛によりかかり
あなたの力に憩います
弱さ疲れのうちに 喜びがあふれます
なぜなら あなたのうちにある 永遠に続く力が
見出されるからです
私たちの避けどころ 私たちの助け主
争いと敵のさなかにあって
私たちの力ある守り手
あなたにあるものは 力であると 知るとは
どれほど ありがたいことでしょう 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-22-our-invincible-defender/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97521です。

※Godhold Beck(122)

『聖書とは何か』第三部[5]

 しかし、みことばを受け入れ、イエス・キリストのうちに救いがあると信じる者はこのみことばによって新しく生まれ変わり、永遠のいのちを持つようになります。ペテロ第一の手紙1章23節に
あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

「あなたがたが新しく生まれたのは、神のことばによる」と書いてあります。みことばのいのちの結果はイエス・キリストによって新たにされることであり、そしてまた新たなる歩みでもあります。エペソ書2章10節に
私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

と、あります。新しく生まれ変わった人間は、みことばの霊感に対する目に見える証明なのです。ヨハネ第一の手紙5章10節11節に次のように書かれています。
神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。

 ある会社の社長が秘書に一通の手紙を書き取らせています。彼が語ることを秘書が全部書き取り、それをタイプすると社長がそれに署名をしました。この場合、この手紙を書いたのは一体誰でしょうか。余り深く考えない人は、秘書と言うかも知れませんが、しかし秘書は社長が書こうと思ったことを書いたに過ぎないのですから、やはり、これは社長の手紙です。ペテロ第二の手紙1章21節に
預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。

と、あります。預言とは聖書のすべてのことばです。聖書は神からのことばを受けた40人ほどの人々によって書かれましたが、それらの人たちは聖霊の力により、聖書の完成まで完全に導かれました。ですから、聖霊の働きのもとにあって人々が書いた聖書は彼らの著作ではなく神の著書です。聖書記者たちを導いた聖霊はその聖書を読む人々も導かれます。ですから、聖書は心して読む人に真理を教え、その罪を改めて悔い改めに導き、救いを与えることができるのです。

 今まで、私たちは先ず神ご自身がみことばの発起人、すなわち著者であることを見てまいりました。そこでこれから、神のみことばは人間に与えられ、吹き込まれたということを見ることにしましょう。主なる神が差出人であり、人間が受取人であるわけです。今までは神が語られたみことばについて見て来ましたが、これからは人間によって受け取られたみことばについて学んでみることにしましょう。

 主なる神はご自分との交わりを持つことができるようにと私たち人間を造って下さいました。しかし、交わろうとすればことばなしには不可能です。というのは、ことばの中にこそ本質が現われるからです。それですから、主なる神は人間に語ってくださるのです。主なる神はいろいろな方法で語ってくださいました。主なる神は預言者のかたくなさを砕くために、ろばを通して語られたこともありました。民数記22章28節に
すると、主はろばの口を開かれたので、ろばがバラムに言った。「私があなたに何をしたというのですか。私を三度も打つとは。」

と、ありますし、そしてペテロ第二の手紙2章16節に
しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の気違いざたをはばんだのです。

と、あります。また神は壁にみことばをお書きになられたこともありました。ダニエル書の5章5節
すると突然、人間の手の指が現われ、王の宮殿の塗り壁の、燭台の向こう側の所に物を書いた。王が物を書くその手の先を見たとき、王の顔色は変わり、それにおびえて、腰の関節がゆるみ、ひざはがたがた震えた。

それで神の前から手の先が送られてこの文字が書かれたのです、とあります。

引用者註:みことばを受け入れることが人の「新生」です。ハヴァガルもまたいかに厳密にみことばを受け入れていることでしょうか。クリスマスを目前にして人々が「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」の二千年前の御使いのことばを受け入れられますように!) 

2016年12月21日水曜日

より高い動機

wishing you a happy Christmas(near oberhofen, on Lake Thun)

主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。(詩篇40:3) 
新しい歌を主に歌え。全地よ。主に歌え。(詩篇96:1)

 私たちがまだ救われていない人々が救い主のところに来て欲しいと思うのは彼らのためだけではない。私たちの熱意はそれよりももっと強い源泉を持っているのです。私たちは私たちの主を愛しています。それゆえ私たちは主が正しく尊重されないことに耐えられないのです。私たちは主が全然考えられず誤解されていることに耐えられないのです。私たちにとり、主が感謝されず愛されもせず崇められもしないのは痛みです、まことに痛みです。主がなされたすべてが心をこめた感謝と愛に値しないと扱われ、主の偉大で血をもって贖われた救いが無視されているのは。主ご自身の愛された方のために、主ご自身の栄光のために、私たちは他の人たちがやって来て、その人たちもまた主を愛し、祝福し、ほめたたえるのを望んでいます。 

あなたがたは私たちの弱々しい証しを疑うのですか
あなたがたはたとえ私たちを軽蔑しても来て見てください
ご自身で主のところに来て聞いて下さい
そうすればそのお方は主であることがわかるでしょう
あなたがたは主のうちに中心なるお方 
真理そのものいのちそのものであるお方
終りなき疑いと争いの輝かしい解決を
見出すでしょう。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-21-a-higher-motive/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97520です。

※Godhold Beck(121)

『聖書とは何か』第三部[4]

 今まで私たちは父なる神が語られたこと、次にイエス様が語られたこと、第三に聖霊が語られたことについて学びました。それからみことばの一体性、そしてまたみことばの内容について聖書から見て参りました。

 次にみことばの結果について見てみることにしましょう。ことばは人格を持っているものをあらわすものであり、それによってその方の本質と意志を知ることができます。語り手が偉大であればあるほど、語られたことばの結果も大きなものとなります。主なる神が語られました。したがって、みことばは神ご自身の本質と意志のあらわれであり、語られたみことばの重さは大変なものであるに違いありません。父なる神はご自身の中におけるいのちそのものですとイエス様は私たちに証しています。ヨハネ伝5章26節に
それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。

と、書いてあります。主なる神がいのちそのものなのであれば、神のみことばはいのちをもたらすに相違ありません。したがってイエス様のみことばも霊であり、いのちです。ヨハネ伝6章63節に
いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。

と、イエス様は言われたのです。そしてイエス様はご自身を信ずる者に生ける神の御霊を与えて下さいました。そして聖霊について次のように証しています。「いのちを与えるのは御霊です」と今読みました6章63節に書かれています。 したがって、私たちは聖書の中にものすごい力と作用を持ったものを見出すことができます。そしてこの書物の比類なき意義は他のあらゆる人間のことばは絶対にできないこと、すなわち、いのちをもたらすことがお出来になるということの中にあります。人間のことばはいのちを説明できますが、神のことばはいのちを与えることがお出来になります。

 造られたものはすべて神のみことばによって成立しました。ヘブル書11章3節に
信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。

と、書いてあります。したがって、すべての被造物、また神によって造られた人間は神のことばのいのちの力を証明するものです。しかし、私たちが見ている被造物や私たちの体は過ぎ行くものであり、罪の支払う報酬、すなわち「死」を味わわなければなりません。神のみことばによって、再び新天新地があらわれ、その時、死ぬものが不死を着るのです。コリント第一の手紙15章53節に
朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。

と、あります。

 しかし罪と死に特徴づけられた今の時代に神のみことばのいのちの力はどのようにしてあらわれてくるのでしょうか。エペソ書2章1節によると、すべての人間は罪と罪過の中に、生けるまことの神の前に死んでいるのです。しかし、神のみことばによってこの死んでいた者が生かされるようになり、新しいいのちを持つようになります。みことばの力について、ヘブル書4章12節13節に次のように書いています。
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。

と、あります。神のみことばは人間の罪の状態を明らかにします。みことばは真理ですから剣のように人間の心を刺し通します。私たちはみことばを通して、燃えるような神の目に出会い、主なる神が語られると私たちは沈黙しなければなりませんし、またサマリヤの女のように次のように言わざるを得ません。ヨハネ伝4章39節に
あの方は、私がしたこと全部を私に言った。

と。これこそ罪と罪人に対するみことばの結果であり、このみことばのゆえに、みことばを受け入れなかったすべての人の上に神のさばきが下されるのです。みことばによって生かされたいと思わない人々にとってみことばは永遠の死へと導くみことばとなります。ヨハネ伝12章48節にイエス様は次のように言われました。
わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。

と。

引用者註:ベック兄のメッセージの特徴は極めて実際的であり、聖書のことばを真剣に受け止められるところにある。その辺が私のようないい加減な信者と異なるところである。このところで「みことばの結果」と言われているが、この用語こそその現れである。今日のところはみことばを受け入れない者の結果、神のさばきで終わっているが、もちろんさばきがすべてではない。明日はその続きである。) 

2016年12月20日火曜日

「後になると」(その時だけでなく常に)

ハヴァガルの詩と親しい友の絵の組み合わせ

すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。(ヘブル12:11)

 私たちが大きな出来事のために備え、その結果絶えず繰り返される慰めを失くしがちである幾つかの約束がここにはあります。恐らく私たちはこのみことばをため息をもって読み、言うでしょう。「主によってほんとうに懲らしめられる人にとって、これはどんなに美しいことでしょうか。もしそのような約束がその時私のものとなるなら、そのことを嫌だと思ってはいけないと危うく思いそうになります。しかし、私を試す事柄は毎日思い煩い、意気消沈するように仕向ける小さなことばかりなのです。」

 よろしい、それでは主は悩みがどの程度か、あるいは悩みがどんな種類かが、約束が与えられるに当たっては全く必要だと明確に述べておられますか。主が述べておられないのなら、なぜあなたがそうしなければならないのですか。主はただ単にそれを「喜ばしいものではなくかえって悲しみ」だと明確に言っておられるに過ぎません。

 おそらく今日もあなたにとって「喜ばしいものではなくかえって悲しみ」であった様々なことがあったことでしょう。そしてそれらを大きなことと感じたことに恥を感じ、ほとんどそれらが大変な試みであったと告白することを好まず、それらが「懲らしめ」だともったいつけて考えたくないとしても、もしそれらを主の説明にまかせるなら、主はそれらについてすべてを知られるだけでなく、それらがすべて主の御手からの懲らしめであったことは明らかです。

 その間ずっとそれらがあなたを悲しませた時、「何でもない」と軽蔑されたり呼ばれることもなく、退屈させられることもないのです。なぜなら、それらはあなたにとって祝福をもたらし、主に対しては栄光をもたらすからです。それらのすべては主のあなたに対する愛と関心の見分けられないしるしでありました。なぜなら「主はその愛する者を懲らしめ(ヘブル12:6)」られるからです。

「わたしにとって地上にあって
『後になると』ということはない」

愛されし者よ 私たちには そんなものではない

神ご自身の「後になると」は 
あなたに約束されているのだということを
あなたの生活は 示すことでしょう


けれども 主に向かって義の生ける実を
主の懲らしめは 生み出すのです
繰り返される「後になると」は もはやかすむことなく
あらわにされるのです

あなたの心に 主の愛が広く 流れ込むのは

「後になると」ではないのですか
さらに 主の御霊が 神の平安を 吹き込むことも 

"There is no 'afterward' on earth for me!”
Beloved, 'Us not so!
That God's own "afterward" are pledged to thee,
Thy life shall show.
But living fruit of righteousness to
Him His chastening shall yield,
And constant "afterward," no longer dim,
Shall be revealed.
Is it no "afterward" that in thy heart
His love is shed abroad?
And that His Spirit breathes, while called apart,
The peace of God?

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-20-afterward-now-and-always/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97519です。今日の箇所も実に難解でやっかいな文章の連続だ。やむを得ず詩の部分は英文も併記した。

※Godhold Beck(120)

『聖書とは何か』第三部[3]

 日本語の表現では必ずしも明確ではないかも知れませんが、神に与えられている名前は600以上にも上ります。ところが、注意すべきことに贖い主とか、救い主という名称が数多く出てくることです。この贖い主は聖書の第一頁から行動しておられる方、臨在しておられる方です。黙示録1章8節に
神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方

と、書いてありますが、この方は永遠から永遠に至るまで、救い主であられ、贖い主であられます。「世の罪を取り除く神の子羊」として召し出された救い主は、出エジプト記12章に描かれている「過越の子羊」という形をとおして素晴らしくはっきりと描き出され、生き生きと描写されています。債務を負うために流される血潮の力はレビ記をとおして極めて明確にされています。殺された罪なく子羊の血を携えて至聖所に入って行った大祭司はご自身の流された血潮によって全人類の罪を赦してくださったまことの大祭司である御子イエス・キリストを象徴する役割を果たしています。ヘブル書9章12節に
また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。

と、あります。イエス・キリストの偉大さは旧約時代における幕屋とか、礼拝とか、ささげる生けにえとかをとおして明らかにされています。聖書の中心はほふられた小羊であるイエス・キリストなのです。

 旧約時代の預言の中心なるものはイスラエルのまことの王とはいかなるものなのか、ということです。その王は先ずダビデの子孫であると書き記されています。サムエル下7章12、13節に次のように書いています。
あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。

と、書いてあります。そして、この方はダビデの故郷であるベツレヘムに生まれると預言されています。ミカ書5章2節に
ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。

と、預言されています。その王はソロモンより偉大で平和の君と呼ばれるお方です。イザヤ書9章6節に
ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

と、あります。しかし、その王は多くの場合、主のみこころに反することを行ったユダの王やイスラエルの王たちとは、ちがったものであると預言されたのであります。イザヤはこの王は処女から生まれることを預言したのです。イザヤ書7章14節に
それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。

と、書いてあります。平和の王として支配するお方であり、すべての諸国民は仕えるようになる、と預言したのです。しかし、イザヤはまたその王を神のしもべとしてほふり場に引かれて行く小羊のように、世の罪を荷なうお方であるとも、主にイザヤ53章を通して預言したのであります。

 預言書や詩篇においてはイエス・キリストの姿は偉大なる王として描かれている反面、ご自分を空しくして、打たれ、欺かれる羊飼い、また迫害された者、死に追いやられた者、罪なき者としてご自身のいのちをささげてくださった方として描かれ、そして最後に世界史を完成するために、世界の裁き主、またイスラエルの王としてあらわれてくるというふうに描かれています。来たるべき方イエス・キリストは旧約聖書の中では明けの明星のように上って来るお方として表現されています。それに対して新約聖書においては主イエスは真昼に輝く太陽のように現われたのです。そしてしばらくの間その輝きを隠し、すなわち昇天されたのですから、今私たちは主の輝きと栄光を見ることは出来ません。しかし、新約聖書の希望は天の栄光のうちに再び来られるお方に対して私たちの目を開けて下さいます。

 聖書の最後の書はイエス・キリストの啓示と言われ、ほふられてから神の右の座に着かれ、天と地において測り知れない権力と力とを持った小羊として紹介されています。永遠にわたって次のような歌が繰り返し歌われることでしょう。黙示録5章12節に
ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」

引用者註:折しも今週はクリスマスを目前に控えている週である。聖書で主イエスがどのように旧約で預言され、新約でその預言を成就するお方として来られたかを、ベック兄の「聖書とは何か」のメッセージで語られた箇所をともに見ることは感謝である。広範囲にわたる厳密な聖書の説明は何とも感謝にたえない。)

2016年12月19日月曜日

卓越と遠きまで

主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。(創世記6:5)

 生まれながらの人の心にはかることがみないつも悪いことだけに傾くことを知るのは本当に慰めとなることです。なぜなら、このことは主が私たちの心の中に植えつけ守って下さった聖いものを知る時、いかに主が真実に私たちの内に働かれるかを示しているからです。私たちには神様を敬ういかなる思いも自然には湧いて来ないことは全く確かなことです。ですが、主の新しい契約は「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける(ヘブル8:10)。」であります。

 みことばは非常に卓越しており遠くまで伝わるものです。私たちはみことばが深みそのものまで届くものであると感じております。このように聖別の香りを充満させられているのが私たちの全精神存在であります。心の内の奥まったところに守られているだけでなく、そして一方ではやはり意識のうちに守られているだけでもないのです。「その心に計る思いをとこしえにお守りください(1歴代誌29:18)。」

かような内にある咎の不思議
いやしのために 何々を 
私たちがさぞかし嫌うに違いない 

主は祝福された木を考えられた
主は私たちに示された
苦い水が流れているのにその泉を 
放り込んでいやすことの出来るものを

私たちがその力を感じ
その恵みを私たちは理解しないが
知っている 神の治癒 

Such mystery of iniquity within,
That we must loathe our very the'ts, but for the cure
He hath devised the blessed Tree
The Lord hath shown us, that, cast in, can heal
The fountain whence the bitter waters flow.
Divinest remedy whose power we feel,
Whose grace we comprehend not, but we know.

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-19-remarkable-and-far/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97518です。 青字の詩の部分は読み切れないので英文を併記した。恐らく出エジプト記15:23以降がハヴァガルの念頭にあっての作品であろう。

※Godhold Beck(119)

『聖書とは何か』第三部[2]

 聖書は一冊の本です。これこそ神の奇跡です。聖書のどの頁を開いてもその一つ一つは同じ神の啓示が明らかにされています。神ご自身が聖書全体の著者であるならば、それは当然と言えましょう。「主なる神は語ってくださいました。」聖書の各巻また各部分は御子イエス・キリストをとおしてご自身を啓示して下さった生ける神を正しく知るためにどうしても必要な貢献をしてくれています。聖書は最初の一頁から最後の一頁にいたるまでイエス・キリストを明らかにしておられます。

 聖書は御子イエス・キリストのために書かれました。そしてすべてのことはイエス・キリストによって成就されました。イエス・キリストは神の啓示の内容そのものですから聖書全体の中心点となっています。イエス・キリストは聖書の一番最初、すなわち創世記において救い主として預言されており、そのあとに続く多くの預言書をとおしてはっきりと預言されています。そしてイエス様が実際に地上に来られた時、初めて神はご自身を私たちの目にも見えるような形であらわして下さいました。「私たちは主の栄光を見た」と弟子たちは証しています。ヨハネ伝1章14節に
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

これこそが弟子たちの経験だったのです。しかし、弟子たちがまだ耐える力がなかったため、イエス様はこの地上ですべてのことを解き明かすことができませんでした。ヨハネ伝16章12節に
わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。

と、あります。しかし、主がお遣わしになって下さった聖霊がこのことをしてくださり、弟子たちがまた見たり聞いたりしたことだけでなく、理解していなかったことをさらに一層明らかにして下さいました。すなわち聖霊の働きを通して、私たちは使徒たちの書かれた手紙を通して、主イエス様の偉大さを知ることができます。旧約聖書はイエス・キリストの目に見える啓示の準備でしたが、新約聖書はイエス・キリストについて以前に語られたすべての事柄をあらわして成就されたものとなっています。

 私たちは旧約聖書に書かれた事柄を通して主イエスをどのような方であられるかを正確に描写することができます。なぜなら約束された救い主については333回も預言されており、そのことによって明確な姿が描き出されており、それが具体的現実となったものが地上における主イエス様だったのです。

 今まで見て来た聖書こそ、神のみことばであることは、このようにしてはっきり致しました。そこでこれから少しばかり神の言わんとしていることが何であるかをみことばから見てみることにしましょう。

 聖書の内容は一体何なのでありましょうか。このことについて、これからご一緒に見てまいりたいと思います。堕落した人間の望みは蛇のかしらを打ち砕く人でした。創世記3章15節に、この解放者、救い主について次のように預言されています。
わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。

と、あります。その方は聖書によるとアブラハムの子孫であり、ユダ族から出る者と預言されています。創世記12章の3節に
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。

と、ありますし、創世記49章10節に
王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。

と、書いてあります。

引用者註:ハヴァガルは創世記を引用して人とはいかなる者か示し、いかに人が神様によってどのように整えられる存在であるかを書いていたが、期せずして今日のベック兄の内容も聖書とは何かを述べるに当たって同様なことを指摘されている。偶然の一致だがこういうこともブログ記事の面白いところかもしれない)


2016年12月18日日曜日

誘惑に対する予防手段

伊勢崎にて
祭司は罪過のためのいけにえの血を取り、それをきよめられる者の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗りつける。(レビ記14:14) 
私たちは足りるだけの食物を得ようと、エジプトやアッシリヤに手を伸ばしました。(エレミヤ哀歌5:6)

 それは奇妙な考えに見えるかもしれないが、「この手は私のものではない、イエス様に差し出されたもので、イエス様のために守られねばならない」と思い起こして、手をチラッと見るのは、時にはあやふやな態度を変えて、いくつかの誘惑からの予防手段となるかもしれません。

 手を見る時、心に浮かぶその新鮮な考えでもって、控え目に言っても、イエス様のためでない物を取り上げさせることができるでしょうか。それはどんなものかというと明らかに用いられ得ない物、確かにほとんど、主のためにもまた主によっても用いられないような時です。たとえば、花札!

 あなたは誘惑の中にある種の本を細心の注意を払って抑えることができますか。あなたを主にもっと近づける代わりにもっと遠ざけるように導く、あわれにも繰り返される経験によってあなたが完全に良く知っている本です。心がはまり込んでみことばを窒息させ、他のことで満たされねばならないしそうなる本でしょうか。もし心があなたを祝福するために主の足が近づいて来て心が燃やされていたなら、読みたいとは全然思わない本でしょうか。

 この次この種のいかなる誘惑が近づいて来ても、ちょっと手を見ることにしなさい !
 
一日中 主に 何をすべきか 尋ねるだけ
そして あなたが 従うことを 迅速にさせ 真実にさせるために

主が授けてくださる 必要とされる恵みを 知るだけ
時と場所のあらゆる制約が あふれる

あなたの命令を まっすぐ 受け取るだけ
主ご自身の命令から

祝福された日
このようにしてその時
私たちは私たちの主権者の御手をつねに
待ちます

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-18-a-safeguard-from-temptation/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97517です、何ともいやはや難解な英文です!唯一頼りになるのはハヴァガルも訳者も同じ主を仰いでいることだけです。

※Godhold Beck(118)

『聖書とは何か』第三部[1]

 南太平洋にある島の話ですがヤシの木陰で一人の土人が聖書を読んでいました。そこへ神を信じない西洋人が通りかかりイギリス辺りではよほど時代遅れの者でなければそんなものは読まないよ、と言いました。すると土人は顔を上げて、ニッと白い歯を見せながら、「しかし、私がこの本を読んでいればこそあなたはここに無事にいられるのですよ。私どもは人食い人種でしたが、キリストを信じてから以前の悪習慣を捨てて全く生まれ変わった人間となりました。もし、私どもが聖書の教えを知らなかったら、あなたは私の腹の中にいることでしょう。」かの西洋人ブルッと身震いしたまま、二の句も告げず、そのまま足早に立ち去って行きました。

 聖書は神が語られたことをそのまま私たちに伝えています。すなわち、主なる神は語られました。神の御子主イエス様がおられ、そして語られました。それから聖霊が遣わされ証しをし宣べ伝えました。神ご自身が聖書に記されている黙示を書いたお方なのです。

 神のみことばの一体性についてもう少し考えてみたいと思います。主なる神ご自身が聖書の著者ですから、聖書は完全に統一を持った一体的な福音そのものです。1600年の間かかっていろいろな人たちによって書かれた聖書の66巻はモザイクの一つ一つの石のようにしっかり結びついて全体を構成しており一体的な全体として神の啓示そのものです。

 ちょうどみことばが一つの大きな建物を構成する礎石のように一つであるのと同じように聖書の一巻一巻は神の完全な啓示を私たちに伝えるためになくてならないものです。天と地をお造りになった全知全能の神は何億と言う星から宇宙を持つことになりました。果たして誰が一体この星はいらないとか、あの星は必要だなどと言うことができるでしょうか。果たして誰が一体この星の形はどうしてこういう形になっていて、他の形にならなかったのかを説明することができるでしょうか。誰も出来ません。ヨブ記38章31節から33節までお読み致します。
あなたはすばる座の鎖を結びつけることができるか。オリオン座の綱を解くことができるか。あなたは十二宮をその時々にしたがって引き出すことができるか。牡牛座をその子の星とともに導くことができるか。あなたは天の法令を知っているか。地にその法則を立てることができるか。

と、あります。そういうことは私たちにはできませんし、また私たちには分からないことです。

 なぜ、ちょうど66巻が聖書を構成していて、それよりも多くもなければ少なくもないということについて私たちは説明することが全くできないと言えましょう。ご自分の思いどおりに天と地を造られた最高の神が私たち人間にも神の思いをあらわす書物として聖書をお与えになって下さったのです。もしも私たちが人間的な思いで66巻を一緒にしようとするならば66のちがった考え方が出てきて一巻、一巻に対してそれを書いた人の神概念が出て来ることになり、それらを一つにまとめることが到底できそうにありません。なぜならば二冊の本でさえも一つの考えで統一することは困難だからです。

引用者註:冒頭の話は中々面白い話でありますが、ベックさんの表現力、ユーモアさが存分に発揮されていますね。 ) 

2016年12月17日土曜日

与えるには犠牲が伴います

by Toshihiro H.
彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。 
費用もかけずに、私の神、主に、全焼のいけにえをささげたくありません。(2サムエル24:24)

 けれども、私はわがままと不必要な贅沢が真の献身と一体全体どのようにして共存できるのか全然分かりません。もし私たちがほんとうに主のために何もなしに決して済ませないのなら、だが、ちょうど主は私たちに恵み深く富を与え、つねに私たち自身のためにあらゆる必要だけでなくあらゆる細々したものまでも供給して下さったから、私たちが神の御前で問題を詳しく調べたのはちょうど良い時だと思います。
 
 なぜ、裕福でない人々だけが、何かしら犠牲を払ったものを主にささげる特権を持っているのでしょうか。 それは単に私たちが生まれながら持ったり行動するのを好むものなしに済ませるだけでなく、イエス様のためにそれなしに済ますことだということを認めなさい。

「私はそれなしに済ませたい。なぜなら、結局私はそれを全く手放すことができないから」さもなくば「言わせてもらえば私はお金を使わなかったことを喜んでいるから」いや「私はそれなしにしたい、なぜなら私は私を愛する主のためにもう少ししたいから もし私がこの他のことをしたなら私ができるよりもはるかに多くのことを」

 私はこれが大抵、いかなる切りつめも、全然計画もせず自由に与える人々よりも、切りつめ計画しなければならない人々の言語、心であると思います。神様の良い贈り物が非常にありあまることも、余りにもしばしば、贅沢や、快的や、並みでないのにほんとうにささげられる特権や喜びを妨害し、主に対してなおさらそれをちょっと与えるのかもしれないのです。何と哀れなことでしょうか!

全部 最後まで 余すところなく
主は 上げるために 身を低くされる
その私の偉大な大祭司の祭壇こそ
私の贈り物を 聖別されるところだ

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-17-giving-must-cos/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97516です。 

※Godhold Beck(117) 

『聖書とは何か』第二部[完]

 パウロは神が語ってくださる預言者であることをよく知っていたので、彼が書き記す事柄に対して完全な権威を要求しています。したがって私たちはパウロを神の預言者として認め、神の要求を信ずるか、さもなければきちがいとして彼を退け、彼のことばを一言も信じないかのいずれかです。

 パウロの書いたことばに新たに耳を傾けましょう。

コリント第一の手紙14章37節に
自分を預言者、あるいは、御霊の人と思う者は、私があなたがたに書くことが主の命令であることを認めなさい。

と、書いていますし、ガラテヤ書1章8節に
しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。

と。テサロニケ第一の手紙2章13節に
こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。

コリント第二の手紙13章3節に
こう言うのは、あなたがたはキリストが私によって語っておられるという証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対して弱くはなく、あなたがたの間にあって強い方です。

と、書いてあります。

 主なる神はちょうど預言者を口として語られたように、使徒たちの口を通してお語りになるならば、当然のことながら人間は神のみことばについて議論したり、その信憑性を調べたり、人間の理解力や意志に合うかどうかを考えたりすることは許されません。 新約聖書の福音は無条件の服従を要求します。「聞きなさい。従いなさい。」ということは従って新約聖書が読者に対して無条件に立てる要求でもあります。神のみことばに対する完全な肯定、すなわち人間の理解力・気持ち・意志をみことばに服従させることはそれゆえにキリスト者のあらゆる倫理道徳の土台です。

 このようにして必然的な一つの結論に辿り着きました。すなわち私たちは旧約聖書と同じように、新約聖書においても全く同じ証しを見出すことができます。すなわち、神は特にそのために召された人たちの口を通してお語りになられました。神のみことばを宣べ伝えた人々は旧約聖書においては預言者と呼ばれ、新約聖書においては使徒と呼ばれます。使徒たちの与えられた啓示は、預言者によって受け取られた啓示よりもはるかに広く深いもので、それですから新約聖書の中で両者を上げる時にも先ず使徒たち、それから預言者たちというふうに、使徒たちが優先されており、次のようにして教会は建てられたことが私たちに証しされています。エペソ書2章20節に
あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。

と、書いてあります。したがって、旧約聖書と新約聖書の喜びの訪れは統一されています。聖書は教会の唯一の土台です。聖書こそが不動の土台であり、信者たちの教えと生活に対する唯一の権威です。主なる神のお語りになったみことばは使徒と預言者が受け取ったことばとして変わることがありません。すなわち、送り手のことばと受け手のことばとは等しい、ということがここでも立証されます。

 今まで私たちは大きく分けて第一に主なる神が聖書の発起人、起草者、すなわち著者そのものであること、そして第二に神のみことばが、人間、すなわち使徒と預言者に与えられ、吹き込まれたことを見ました。

 最後に5つのことを述べて終わりたいと思います。聖書とは何なのでしょうか。第一は聖書の年代についてで、一番古い部分は紀元前1500年ごろ書かれました。それは今から3500年前のことで、日本でもっとも古い本、古事記・日本書紀よりも2000年も古いのです。聖書の期間について一番新しい部分は紀元90年ごろ書かれました。創世記からヨハネ黙示録まで1600年という驚くべき歳月をかけて書かれました。聖書の著者について、身分、職業、学識の異なった40人ほどの人々によって書かれました。彼らは住んでいる場所も年代も違うので何の連絡も取らずに各自がそれぞれ独立して書きました。聖書の内容について、こうして書かれた本でありながら、聖書は完全な統一を保ち、主題が一貫しています。また古い時代に書かれていながら、今の人々の心には強く迫って来る不思議な本です。聖書の普及について1400以上の国語と方言に訳されている聖書は世界でもっとも広く読まれている本で一年間に3500万冊も売れている超ベストセラーであります。

引用者註:このメッセージの中では日本人でも中々使い慣れない「しんぴょうせい」という表現が出てきたり、一方では「最後」と言うべきところを「さいしょに」と言われていたり、随分苦心なさってメッセージなさっている様が窺える。そして恐らくご家庭でのマイクに向かっての録音であろう。ゆったりとした時間が流れていて好もしい。これで第二部が終わった。引き続いて第三部を明日から連載したい。なおベック兄は、聖書が正しい日本語に置き換えられた新改訳聖書第二版を大変評価されていた。さて、写真は畏友が昨日送信して来られたベック兄の2015年1月10日における吉祥寺集会所での写真である。)

2016年12月16日金曜日

仕える喜び

主人の身を守る者は誉れを得る。(箴言27:18) 
彼はいつまでも主人に仕えることができる。(出エジプト21:6)
 
 約束と脅迫とは、一つの事、すなわち愛によって異なるに過ぎません。だが、その愛こそあらゆる相違をもたらすのです。依然として心の中に敵意を抱いている人々にとって、永遠に仕えなければならない前途は楽しみどころではないでしょう。だが、憎しみが、キリストの十字架によって殺され、万事が新しくされ、キリストの愛が強いるなら、その時、憎しみは、私たちの多くの輝ける期待の最高の輝きの一つとなり、永遠に続く喜びと永遠に続くご奉仕はほとんど同義となることでしょう。

 安息は快いが、奉仕は(私たちの愛に比例して)さらにもっと快いものです。たくさん仕えた人々は、ここにおいてさらに満ち足り、完全な上なる奉仕を期待しないではいられなくなるのです。ここに立ち待つことに毛が生えたことをせざるを得ない人々は、他の人々よりも、恐らく活動的な奉仕の新しい経験において、言わば完全な喜びにただちに参入できることを喜ぶことでしょう。


彼に仕えましょう(詩篇72:11)。」
そして とこしえに
おお もっとも確かな もっとも美しい 希望 
完全な愛が ほとばしる
そこに 完全な奉仕となって

 
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-16-joy-in-serving/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97515です。短い文章ではあるが、今日もご多分にもれず、あいまいな訳となっているので原文をお確かめいただきたい。 

※Godhold Beck(116)

『聖書とは何か』第二部[5]

 ですから、パウロは彼が多くの手紙の中で書いているみことばが啓示をとおして彼が受け取った神の直接のみことばであると証言しています。 パウロは非常に情熱的に自分がイエス・キリストの使徒として自分が召されたことを弁護しています。

 なぜでしょうか。自分の名誉のためでしょうか。もしも、そうだったらならば、彼は別のものを選んでいたことでしょう。コリント第一の手紙4章9節10節に
私は、こう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出されました。こうして私たちは、御使いにも人々にも、この世の見せ物になったのです。私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。私たちは弱いが、あなたがたは強いのです。あなたがたは栄誉を持っているが、私たちは卑しめられています。

と、あります。

 いいえ、パウロは自分自身の名誉を求めたのではなく、使徒の権威を、自分の語ることばは神のことばであることを強調しました。なぜなら、彼の語ることばを誰一人軽い気持ちで、人間のことばとみなすことがないようにするためだったのです。主なる神の名誉のために、パウロはイエス・キリストの使徒と認められることを要求しています。コリント第二の手紙11章の5節に
私は自分をあの大使徒たちに少しでも劣っているとは思いません。

と、書いていますし、またコリント第一の手紙15章8節から10節までに次のように言っています。
そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。

また、パウロは彼が他の人たちによっても認められたことを強調し、全く彼らと同列に置かれることをためらいませんでした。ガラテヤ書2章6節から9節までお読み致します。
そして、おもだった者と見られていた人たちからは、――彼らがどれほどの人たちであるにしても、私には問題ではありません。神は人を分け隔てなさいません。――そのおもだった人たちは、私に対して、何もつけ加えることをしませんでした。それどころか、ペテロが割礼を受けた者への福音をゆだねられているように、私が割礼を受けない者への福音をゆだねられていることを理解してくれました。ペテロにみわざをなして、割礼を受けた者への使徒となさった方が、私にもみわざをなして、異邦人への使徒としてくださったのです。そして、私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し伸べました。それは、私たちが異邦人のところへ行き、彼らが割礼を受けた人々のところへ行くためです。

と、あります。パウロは使徒と召されました。そして神のみことばを直接聞きました。それはちょうど他の人たちや旧約時代の預言者たちと同じでした。それだけでなく、今まででは隠されていたことを主が彼に啓示して下さったことも主張しています。エペソ書3章2節から5節までお読み致します。
あなたがたのためにと私がいただいた、神の恵みによる私の務めについて、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。先に簡単に書いたとおり、この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよくわかるはずです。この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。

と。パウロは旧約聖書の啓示を継承発展させた新約聖書の預言者たちについても語っています。ロマ書16章25節26節
私の福音とイエス・キリストの宣教によって、すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが、今や現わされて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを堅く立たせることができる方、知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン。

と、書いてあります。

引用者註: やや単調な学びが続くように見えますが、パウロがどのような思いで手紙を書いたのか、彼の思いの背後に著者としての神様、聖霊なる神様がおられたことの部分証明になる箇所です。さらにパウロを通して明らかにされた神の奥義がどんなに素晴らしいものかを伝えているメッセージです。そして、明日は一挙に、だからどうなのだという結論に至ります。) 

2016年12月15日木曜日

重味のあるみことば

あなたのくちびるからは優しさが流れ出る。神がとこしえにあなたを祝福しておられるからだ。(詩篇45:2)
みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。

 福音書を一つ以上心にある特別な思いをもって読み通し、どれだけ多くのことが関係しているかを知る上で、これらのみことばは、しばしば助けとなります。私たちがこの考え、すなわち「私のために主が語られる」という驚くべき思いをもって、唇に流れ込むやさしさや福音書から落つるやさしいことばに、福音書から流れ出るやさしさ・力・知恵・愛の累積する力と無限の富にますます驚きながら、節から節へ読み通す時、私たちは唇とあらゆる唇の実が主のために完全であるべきだと願わずにはいられません。

「あなたのために」唇は祝福のうちに開けられたのです。「あなたのために」主が殺戮される子羊のように導かれた時、閉じられました。そして、主の守りのうちにある教え、警告、助言、慰めであろうと、励まし、命令であろうと、私たちが求めたり考えたりするすべてにまさる大きな報酬や約束があります。すなわち主の唇のすべての貴重な実は「あなたのため」であり、真実にまぎれもなく「あなたのために」と目論まれていたのです。

キリストは宝だ おお 最大の宝 
父なる神によって証印を捺された贈り物
もっとも大きな値が張る宝物である真珠が 
隠されていたが 今や 私たちに明らかにされた
ご自身の民の栄光の冠 キラキラ輝く王冠
民にとって 千の世界よりもさらに
あらゆるいのち・愛よりも  さらに高価だ

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-15-words-with-weight/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97514です。

※Godhold Beck(115)

『聖書とは何か』第二部[4]

 パウロはイザヤとかエレミヤと全く同じように直接主なる神から召された者でした。ガラテヤ書1章11節12節
兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

15節16節
けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、私はすぐに、人には相談せず、

と、書いてあります。

2章8節
ペテロにみわざをなして、割礼を受けた者への使徒となさった方が、私にもみわざをなして、異邦人への使徒としてくださったのです。

と、パウロは証しています。

 パウロは預言者として召されました。というのは、アナニヤがイエス・キリストの命を受けて彼に次のように伝えているからです。使徒行伝22章の14節と15節に
彼はこう言いました。『私たちの先祖の神は、あなたにみこころを知らせ、義なる方を見させ、その方の口から御声を聞かせようとお定めになったのです。あなたはその方のために、すべての人に対して、あなたの見たこと、聞いたことの証人とされるのですから。

と。この神の召しに基づいて、パウロはつねにイエス・キリストの使徒と自らを呼んでいます。ロマ書1章1節
神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ

と、書いていますし、コリント第一の手紙1章1節です。
神のみこころによってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロ

と、なっています。それから、コリント第二の手紙1章1節に
神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロ

と、書いてありますし、ガラテヤ書1章1節に
使徒となったパウロ――私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです。――

と、あります。またエペソ書1章1節に
神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロ

と謳っていますし、コロサイ1章1節に
神のみこころによる、キリスト・イエスの使徒パウロ

と、なっています。同じくテモテ第一の手紙1章1節に
私たちの救い主なる神と私たちの望みなるキリスト・イエスとの命令による、キリスト・イエスの使徒パウロ

云々となっています。またテモテ第二の手紙1章1節に
神のみこころにより、キリスト・イエスにあるいのちの約束によって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから

と、なっています。またテトス書1章1節に
神のしもべ、また、イエス・キリストの使徒パウロ――私は、神に選ばれた人々の信仰と、敬虔にふさわしい真理の知識とのために使徒とされたのです。

と、なっています。

引用者註:パウロが使徒であることは、彼自身が諸教会に手紙を書く際に述べた挨拶文に明らかに記されていることを労を厭わず聖書箇所を繰り返し引用されています。一方、アナニヤの言も紹介されていて、厳密な考証がなされています。そして、上述のハヴァガルの黙想とあわせて考える時、パウロを通して語られたことばもまた、聖霊により語られた、いずれおとらず重味のあるみことばだと考えられないでしょうか。)