あなたがたが御父を知ったからです。(1ヨハネ2:14)
「もし彼らが知ってさえいたら」私たちは彼らが私たちが知っていることを知らないゆえに、人、立場、あるいは行動を誤解したり間違って判断する時、どれだけしばしばこのようにも言いもし、考えもすることでしょうか。私たちは彼らが知らないことを悪く話していたり、とりわけ彼らが知っているのにはるかにまさって私たちが知っている人を悪し様にまた価値がないと話している時にどんなにイライラすることでしょうか。
ああ、彼らが知ってさえいてくれたら!この無知に対する不公正を悲嘆する感覚は私たちが誤解され誤審される神様ご自身を見る時、信仰と忍耐の和らぎを必要とする感情に達します。おお、彼らはどのように日ごとに主のことば、主の御人格を誤解し、どのように私たちを傷つけるでしょう!なかんずく、私たちが主を知る特権にあずかっている限り、どのように私たちは彼らが主がどなたであるかを知って欲しいのでしょう!
あらゆる目が主を見る日、主、私たちの父なる神様はついにご自身であることが明らかにされ、イエス様、私たちの主であるお方がご自身の栄光のうちに見られ、もはや決して決して見誤られることのない日を待ち望むに際して、どんなに付加される壮大さが与えられることでしょうか。
おお 何たる喜び あなたの統治を見るとは
あなたを 私自身の愛する主を
あらゆる舌が あなたのお名前を 告白する
あなたに 喜びの和音を 共に連れ来たりて
あなたは 私の主 そして私の友である方は
疑念を晴らし 王位につき
もっとも遠い地の果てまで
栄光を受けられ 賛美され ご自分のものとされる
あなたを 私自身の愛する主を
あらゆる舌が あなたのお名前を 告白する
あなたに 喜びの和音を 共に連れ来たりて
あなたは 私の主 そして私の友である方は
疑念を晴らし 王位につき
もっとも遠い地の果てまで
栄光を受けられ 賛美され ご自分のものとされる
Oh, the joy to see Thee reigning,
Thee, my own beloved Lord!
Every tongue Thy name confessing,
Every tongue Thy name confessing,
Brought to Thee with glad accord!
Thee, my Master and my Friend,
Vindicated and enthroned,
Unto earth's remotest end
Glorified, adored, and owned!
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-10-ignorance-and-knowledge/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97509です。なお、今日の詩の訳について、読者の方から素晴らしい訳をいただいた。残念ながら、当方が英文翻訳に関して、いかに「無知」であるかを暴露しています。コメント欄を是非ご参照ください。
※Godhold Beck(110)
『神のみことばは神のみことばである』[4]
出エジプト記の中には同じように何度も何度も「主は仰せられた」特に「主はモーセに語られた」という表現が出てきます。ほとんどすべての書がこのことばで始まっています。たとえば、3章の4節、7節、12節、14節です。そして4章の2節と11節です。6章の1節です。7章の1節です。8章の1節です。9章の1節です。
レビ記の場合も同じように「主はモーセに語られた」ということばで、新しい章が始められています。旧約聖書の中で「主は語られた」という表現にアンダーラインを引いてみるとその数がいかに多いか驚くことです。次の箇所をお読みになればわかると思います。申命記1章の6節、3章2節、4章の12節、5章の5節です。それから、イザヤ書の1章1節と10節と11節と18節、また24節です。それから6章の8節です。また8章の11節です。13章の1節です。そして40章の1節です。
また、エレミヤ記の7章1節、11章1節、18章1節、21章1節、26章1節、27章1節、30章1節を読むと、いつも「主は仰せられた」「主は語られた」と書いています。エレミヤ記の中だけでも500回以上この表現が出てきます。あるいはミカ書4章4節、エレミヤ記9章12節、13章15節、30章4節、50章1節にも同じ表現が出てきますし、またサムエル下23章2節、それからエレミヤ記の9章20節、10章1節、それから列王紀上12章22節、17章2節。ルカ伝3章2節。それからダニエル書2章23節、8章28節です。
また、エゼキエル書1章3節、3章22節、8章2節、2章1節、4章7節、3章の1節と4節と16節、また22節です。そして45章の9節と18節です。またホセア書1章の1節です。アモス書3章1節です。ヨナ書1章の1節と3章の1節です。ゼパニア書1章1節です。ハガイ書1章1節です。ゼカリヤ書4章1節と5章5節、8章1節であります。またマラキ書1章1節にも同じ表現が出て来るのです。
このように旧約聖書における預言者の章を見ると私たちはほんとうに主が語られたことを認めざるを得ません。
そして預言者が書き記したことばは確かに神のみことばであると言わざるを得ません。
たとえば、エレミヤ書の中だけでも「主が語られた」とか「主からエレミヤにあったみことばはこうである」という箇所にアンダーラインを引くならば、その数もまた前に言いましたように驚くほど多いことがわかります。そして、神がみことばを書くようにと命令して下さいました。出エジプト記17章14節、24章4節、34章27節にそう書いてあります。またサムエル上10章25節、またエレミヤ記30章2節、36章2節にみことばを書くようにと命令されたことが分かります。
旧約聖書の中では「神が語」られた」という表現が象徴的に書かれたのに対して、新約聖書では「主イエスが語られたということばで表現されているのが特徴的です。いたるところで「イエスが語られた」、「イエスが語られた」という箇所を見出すことができます。ヘブル書1章1節に
神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。
「神は、御子によって語られた」とあります。主イエス様のみことばは神のみことばです。それは、ちょうど預言者たちのことばが神のみことばであるのと同じように確かなことです。主イエスが語られたことばは、上から、すなわち父なる神から与えられたみことばです。それですから、それらのみことばは霊といのちなのです。ヨハネ伝6章63節にイエス様が次のように言われたのです。
わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。
と。主のみことばによって生かされた者は永遠のいのちを持っています。そして、そのような永遠のいのちを持っている人にとっては、主イエス様のみことばは単なる教えではなく、力であり、喜びです。
ヨハネ伝7章46節を見ると分かりますが、当時の人たち、そして役人たちでさえもイエス様のみことばに接した時「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」と言わざるを得ませんでした。そして、今日までイエス様のみことばを越えるものは何もありません。すなわち、主は神の完全な認識を持っておられ、常に愛に満ちて語られます。主のみことばは少しの疑いもない明確な真理なのです。今日に至るまで主のみことばは時代遅れの古くさいものとはならず、何一つ変えるべきものもなく、削除すべきところもなく、撤退するところもありません。主のみことばの一つ一つがいのちそのものであり、いのちを造るものであり、心開いて主のみことばを聞く者は誰でも測り知れない神の力を経験致します。主イエス様が地上で語られたことは父なる神ご自身が御子を通して語られたことでした。主イエスの声は神の声に他なりませんでした。
引用者註:最初の何章何節という言い方は聞く方も大変かもしれないが、ドイツ人がまわらぬ舌を使いながら日本語で繰り返しておられることに注意したい。旧約聖書の引用と言いながら一ヵ所新約聖書のルカの福音書が登場するがバプテスマのヨハネに下った神のことばはやはり旧約聖書の預言者の範疇だと考えておられたのだろう。マタイ11:11〜13を参照のこと。)
我が愛しまつる主
返信削除凡ての国、民が 御名を 告げ
悦びの和音をもて 馳せ参じる
主の統治こそ
こよなき 我が喜び。
我が主。我が友。
主の義は 立証され
主は 王座に着座される。
主は 地の隅々、地の果てまでも
治められる。
栄光と称賛のうちに。
こんなに素晴らしい訳をいただき感謝です。当方の稚拙な訳よ、退け!ですが、恥さらしにそのまま載せておきます。
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