2016年12月22日木曜日

私たちの無敵な守り手

Love would strew upon thy way....と歌い上げるハヴァガルの詩と絵

だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。(ルカ10:19)
 
 このみことばは私たちが少し言い回しが強過ぎると思い、話半分に受け取っているかなり強い約束の一つではないでしょうか。さあ、「神は、ほんとうに言われたのですか(創世記3:1)。」と言わないで、自分自身のためにあるそのみことばの慰め、安らぎ、喜びをすべてそのまま受け取りましょう。

 私たちの愛する主が純真な70名の人々にそのことをおっしゃった時と同じようにみことばをことごとく信じましょう。人々は自分たちが予期していたよりも主のお名前がはるかに力あるものであることに大変びっくりしたのですから。「何一つありません」ですか。もし主が「何一つありません」とおっしゃったのなら、私たちに「そうです、ですが・・・」と付け加える権利が少しでもあるのでしょうか。

 もし、主と私たちを引き離すべきものが何も見つけられないなら、キリストに属する者を害するものは何もありません。「なぜなら、私といっしょにいれば、あなたは安全だからです(1サムエル22:23)。」そして「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか(ローマ8:35)。」

 この世の苦難、もっとも恐ろしいものでさえ害を加えることはありません。なぜなら、「私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです(ローマ8:37)。」それにもかかわらず、はるかに広範囲でまことに完全な余すところのない項目が与えられていますが、そのうちの何も、また「そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません(ローマ8:39)

私たちの父 私たちの父 光のうちに住まれる
私たちはあなたの愛によりかかり
あなたの力に憩います
弱さ疲れのうちに 喜びがあふれます
なぜなら あなたのうちにある 永遠に続く力が
見出されるからです
私たちの避けどころ 私たちの助け主
争いと敵のさなかにあって
私たちの力ある守り手
あなたにあるものは 力であると 知るとは
どれほど ありがたいことでしょう 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-22-our-invincible-defender/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97521です。

※Godhold Beck(122)

『聖書とは何か』第三部[5]

 しかし、みことばを受け入れ、イエス・キリストのうちに救いがあると信じる者はこのみことばによって新しく生まれ変わり、永遠のいのちを持つようになります。ペテロ第一の手紙1章23節に
あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

「あなたがたが新しく生まれたのは、神のことばによる」と書いてあります。みことばのいのちの結果はイエス・キリストによって新たにされることであり、そしてまた新たなる歩みでもあります。エペソ書2章10節に
私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

と、あります。新しく生まれ変わった人間は、みことばの霊感に対する目に見える証明なのです。ヨハネ第一の手紙5章10節11節に次のように書かれています。
神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。

 ある会社の社長が秘書に一通の手紙を書き取らせています。彼が語ることを秘書が全部書き取り、それをタイプすると社長がそれに署名をしました。この場合、この手紙を書いたのは一体誰でしょうか。余り深く考えない人は、秘書と言うかも知れませんが、しかし秘書は社長が書こうと思ったことを書いたに過ぎないのですから、やはり、これは社長の手紙です。ペテロ第二の手紙1章21節に
預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。

と、あります。預言とは聖書のすべてのことばです。聖書は神からのことばを受けた40人ほどの人々によって書かれましたが、それらの人たちは聖霊の力により、聖書の完成まで完全に導かれました。ですから、聖霊の働きのもとにあって人々が書いた聖書は彼らの著作ではなく神の著書です。聖書記者たちを導いた聖霊はその聖書を読む人々も導かれます。ですから、聖書は心して読む人に真理を教え、その罪を改めて悔い改めに導き、救いを与えることができるのです。

 今まで、私たちは先ず神ご自身がみことばの発起人、すなわち著者であることを見てまいりました。そこでこれから、神のみことばは人間に与えられ、吹き込まれたということを見ることにしましょう。主なる神が差出人であり、人間が受取人であるわけです。今までは神が語られたみことばについて見て来ましたが、これからは人間によって受け取られたみことばについて学んでみることにしましょう。

 主なる神はご自分との交わりを持つことができるようにと私たち人間を造って下さいました。しかし、交わろうとすればことばなしには不可能です。というのは、ことばの中にこそ本質が現われるからです。それですから、主なる神は人間に語ってくださるのです。主なる神はいろいろな方法で語ってくださいました。主なる神は預言者のかたくなさを砕くために、ろばを通して語られたこともありました。民数記22章28節に
すると、主はろばの口を開かれたので、ろばがバラムに言った。「私があなたに何をしたというのですか。私を三度も打つとは。」

と、ありますし、そしてペテロ第二の手紙2章16節に
しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の気違いざたをはばんだのです。

と、あります。また神は壁にみことばをお書きになられたこともありました。ダニエル書の5章5節
すると突然、人間の手の指が現われ、王の宮殿の塗り壁の、燭台の向こう側の所に物を書いた。王が物を書くその手の先を見たとき、王の顔色は変わり、それにおびえて、腰の関節がゆるみ、ひざはがたがた震えた。

それで神の前から手の先が送られてこの文字が書かれたのです、とあります。

引用者註:みことばを受け入れることが人の「新生」です。ハヴァガルもまたいかに厳密にみことばを受け入れていることでしょうか。クリスマスを目前にして人々が「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」の二千年前の御使いのことばを受け入れられますように!) 

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