2016年12月8日木曜日

自己のほんとうの喜びとは?

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨てなさい。」(マタイ16:24) 
私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てました(ピリピ3:8)
 
 「自己否定とは何でしょうか」と、読者の方は問われることでしょう。献身は自己否定に取って代わるものではありません。むしろ、その姿を変えたものであります。文字どおり献身の生涯は自己否定の生活であり、そうでなければなりません。しかしその努力や痛みのすべては大変な喜びに変えられるのです。

 私たちは私たちの主を愛しています。つまり、主が私たちのすべてのことばを聞き、道を見つめておられること、そして主が私たちを「主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれる(コロサイ1:10)」特権を有するように招かれたことを確かなこと絶対的なこととして知っています。そしてこのことが私たちにとって本当である限り、ある意味で自己否定であることとそっくりなことは他面において実際に自らの喜びとなります。持っていて便利でもあり楽しみでもある私たちの財布を手の届く範囲内に置かず、目を背けることは私たちにとって自己否定となるかも知れません。

 しかし、もし主がベールを上げ、私たちの側に立っておられるご自身を啓示され、私たちに主の声を聞かせられ、主のささげるもののために犠牲を蓄えておくように要請されるなら、その時、私たちは自己否定について語るべきなのでしょうか。私たちはそのことについて考えると全く恥じ入らないでしょうか。それとも、むしろ私たちは即座に自己についてあるいは自己否定についてそもそも考えねばならないのでしょうか。主が私たちにそのお金でなすように求められたことをすることは考えられない喜びとはならないのでしょうか。

 しかし、主ご自身の変わらざる約束が「見よ。わたしは、いつも、あなたがたとともにいます(マタイ28:20)。」と私たちのために主が書かれているみことばに立っている限り、私たちは主が私たちとともにおられることを確信できます。そして主が献金箱に向かって座り、二枚のレプタ銅貨が投げ込まれるのをご覧になる時、主の目は献金箱に向いているのと同様に私たちの全開しているあるいは半開きになっている財布の上にもあることを確信します。だから「目に見えない方を見るようにして(ヘブル11:27)」買い物もしましょう。

与えるべきただ一つの心
用いるべきただ一つの声
生きるべきただ一つの小さないのち
失うべきただ一つ
貧しさは私の最善
そして小さきことも
どのようにして私はあえて分けることができるでしょうか
確かに私の主はそれをすべてお持ちなのだ
主は拒まれないだろう

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-8-delight-of-self/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97507です。ハヴァガルの念頭にあるのは、マルコ12:41〜44があるような気がする。最後の数シラブルのところが訳せていないで誤訳だと思うが・・・

※Godhold Beck(108)

『神のみことばは神のみことばである』[2]

 信者はみことばをとおして語ってくださる聖霊により、「聖書とは何か」そして「聖書はいかなる要求をするか」について宣べ伝える責任を持っています。どうしても必要なことは聖書をとおして、主のみことばを聞くことです。キリスト者として、人間の理性の力で聖書を理解し把握しようとすることは罪である、と言っても言い過ぎではありません。

 どんな外科医の名人でも、生きている人のからだを切り刻んで解剖することはできません。その外科医はまず患者さんが死んで初めて解剖することができるのであって、死体にはいのちがないと言っても、それは当然のことです。ちょうど外科医が人間を先ず殺してから死体解剖をするのと同じように、人間の理解力で聖書を理解しようとする者は、聖書を先ずいのちのない書物にしてしまい、それから小さく切り刻んだ一部分を顕微鏡で調べるのと変わりないわけですが、そこにいのちがないというのは当然のことです。

 私たちは聖書を死んだものにしたいとは思いません。聖書はいのちであり、生きる言葉として、私たちに語りかけてくれるはずです。そうすると、聖書が主体で、私たちが客体、すなわち、聖書が中心で私たちが対象物になるわけです。私たちが聖書を判断するのではなく、聖書が私たちを判断するのです。

 聖書の絶対無比な性質は「霊感」ということばで表現されます。それでは「霊感」とは一体何でしょうか。「霊感」とは、「神が吹き込む」という意味です。テモテ第二の手紙3章16節に

聖書はすべて、神の霊感によるものです

と、書いてありますが、ここで神の霊感と言われるものは、「神が吹き込んだ」という意味です。ペテロ第二の手紙1章21節に次のように書いてあります。

なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。

と。これら二つのみことばは次のような三つの事実をふくんでいます。先ず第一に「主なる神は聖書の発起人」すなわち、著者そのものです。第二に神のみことばは人間に与えられ、吹き込まれました。第三に彼らは与えられ、受け取ったものをさらに伝えて来ました。すなわち宣べ伝え、書き伝えました。

 霊感としての聖書は、これら三つの事実を特徴として持っています。これら三つの面は実際は一つの統一的なものを形成しています。すなわち第一は遣わすこと、第二は受け取ること、第三はさらに伝えることです。あるいは同じことを次のように言うこともできるでしょう。第一は語られたみことば。第二は受け取られたみことば。第三は書かれたみことばです。私たちはこの構造を次のように図解することもできるでしょう。Aはすなわち差出人。Bはその受取人。Cは宣べ伝え、書き伝えられたこと、すなわち「聖書」です。

 聖書は旧約聖書と新約聖書の中で次のような要求をしています。すなわちA=Cつまり、語られたみことばは書かれたみことばに等しい、という要求です。私たちはこういう聖書の要求を聖書の完全な霊感と呼びます。部分的ではなく、聖書の全体こそが主なる神のみことばなのです。神によって語られたみことばは、少しも変わることなく人間によって書かれたみことばに等しいものとなっています。ヘブル書1章1節に

神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られました

と書いてあります。「神は語られたのです」と。このみことばの中に霊感の三つの構造が要求されています。すなわち、第一に神が語られたということ、第二に預言者を通して語られたということ、第三に先祖たちに語られたということです。はっきりしていることは預言者たちを通して、主は語られました。すなわち、すべての預言者たちを通して語られ、しかも、すべての預言の全体によって語られたということです。すなわち、聖書は間違いのない主なる神のみことばそのものなのです。

引用者註:このメッセージがいかに周到に考えられ、日本語の語彙を選んでなされたかを思うとびっくりさせられる。唯一お愛嬌とも言えるベック兄の日本語の発音があった。「構造」を「こうどう」と言っておられるからである。おそらくドイツ人にとってkouzouというシラブルの組み合わせの発音が難しかったのであろう。それにしても完全な日本語である。 )

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