2016年12月31日土曜日

静けき親密感

大落古利根川の土手

主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。(ゼパニヤ書3:17)
 
 通りがかりの人とか儀礼的に知り合った人とは、あなたは話をしなければならない義務を感じ、社交儀礼としてあなたは彼らを楽しませようと努力をするでしょう。その結果、疲れ果てるかも知れませんが、そんなことにはお構いなく一生懸命であらねばならないと思うことでしょう。

 ところが、あなたのそばに非常に親しい親密な友がいる時、その種のことは思いもしません。 なるほど、あなたはお互いに思いや共感を交わして、和らげられたり新たにせられたりして、ありとあらゆる親密性を注ぎ出して話すことができます。しかし、もしあなたが大変疲れてでもするなら、一言も話す必要がないことも分かっています。あなたは完全に理解されていて、そのことをあなたも知っています。あなたは友がいるということだけで楽しくなり、会話以上にそのことがもっといいことだと知っています。そのように一緒にいて気が合うので、どんなことばを交わすよりもあなたをくつろがせるのです。そして、あなたの友人はそのことを友情と親密な間柄であることの最高の証拠だと受け取り、おそらくこういう静かな時ほど生き生きと愛する時は決してないことを知っているでしょう。

 それでも、私たちは主の前で静かにしているほうが良いのです。なぜなら、主が私たちを愛し、しかも徹底的に理解してくださることを知っているからであります。 肉体的にか精神的にか、あるいはどちらも非常に弱くされている時、主を楽しませようと、言わば、発することばや整えた思いを何らか義務的に果たすように努めて、自らを鼓舞させる必要はないのです。

 主が私たちにとって一晩滞在するために立ち寄る徒歩旅行をする人だけであって、私たちとともに住み、つねにそこにいるために来られた愛される親切なお方でなかったとしたら、鼓舞させる必要があるかも知れません。もし、これが主と私たちとの間柄であるなら、普段たくさんの交わりについて心配はいりません。しかし、私たちが「大層疲れている」今は、主に話しかける代わりに、主の前で静かにしているほうが良いでしょう。

愛は 祝福の頂点にある 
愛が 白く 揺らぐことがなく 
恐れを消滅させる 輝きに 届く時
そして
愛が知るとおりに 知られることを 知るのは
心強いことばも また なだめる口吻も 必要ない
愛は 静けき親密感以外に 切望しない
言わば 憩うがごとく 音もなく 動きもない
聞かれずして 感じられる愛 長々と静かに
時が 永遠の大海原の上の 雪片を 溶かすまで

この静かな時は あなたの過ぎ去りし日に 星ちりばめたか
記憶を 栄光の出入りする所としたか
知力がたどることのできるあらゆる喜びを 教えたか 

影以外のさらに偉大な光の帯が投げかけられて
主なるあなたの神は あなたを 喜ばれるでしょう
さすれば あなたは 主の愛に 憩い
まことに 静けさを 体験するでしょう 

By greater light 'tie but a shadow cast—
So shall the Lord thy God rejoice o'er thee,
And in His love will rest, and silent be.

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-31-silent-nearness/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97530です。一年の終わりです。ハヴァガルはいったい何を伝えようとしたのでしょう。むつかしい英文の連続でしたので、大分意訳を試みました。ひょっとしてハヴァガルの文意を取り違えているかも知れません。今年の1月10日からおぼつかない足取りでしたが、拙い私訳を毎日掲載し続けました。読者、家人の背後の暖かいお祈りなくしてなし得ませんでした。ここに感謝の意を表させていただきます。新年度も最初の9日間は引き続いて訳業を続けさせていただきます。それで全訳となり私の試みも終了します。もちろん、多くの誤訳があると思います。新年度は思いも新たにハヴァガル訳の再点検の年とすると同時に何か別のものに挑戦したい思いもあります。引き続きお祈りをお願いします。

※Godhold Beck(131)

『聖書とは何か』第四部[完]

 みことばに頼らない者は悪魔の餌食になってしまうのです。イエス様は旧約聖書の歴史や出来事も100%信じていました。マタイ伝22章31節32節をお読み致します。
それに、死人の復活については、神があなたがたに語られた事を、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。

29節
しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。

と。「あなたがたは読まなかったのですか」これはパリサイ人に対する驚いた主イエスの問いでした。そしてまたイエス様は創造主の報告の完全な霊感を信じておられました。マタイ伝19章の4節、5節をお読み致します。
イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。

と。そしてまたイエス様はノアの洪水の報告をも信じておられ、ノアの歴史的な報告をも信じておられたのです。そして主イエスは創世記がイエス様のことについて報告していることを文字どおり信じて理解しておられたのです。ルカ伝17章26節27節に
人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。

と、あります。それゆえ、主イエス様はモーセがほんとうにご自分について書き記したことを私たちに証明しておられます。ヨハネ伝5章46節、47節に
もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。

モーセを信じない者は、主イエスを偽り者にします。またイエス様は詩篇の二ヵ所を引用して、ダビデがご自身について書き記していることを私たちに証しておられます。マタイ伝22章43節、44節で
イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは、御霊によって、彼を主と呼び、
『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』と言っているのですか。

と。またイエス様は預言者ヨナについて書かれていることを文字通りに、信じておられました。マタイ伝12章40節
ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。

と、あります。ヨナが三日間大魚の腹の中にいたのと、全く同じように確実に主イエス様は三日間墓の中におられました。もしも人がどちらか一方を疑うならば、もう一つの方も疑わしいものにならざるを得ません。主イエス様は十字架上で死の時を迎え、聖書のみことばがどれもみな神のみことばであることをはっきりと証なさいました。主イエスは詩篇の一つ一つのみことばをお取りになり、それがご自身の死の瞬間に成就されることをご存知でした。それはヨハネ伝19章の28節です。
この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。

よみがえりの後、主がもはやしもべの形ではなく、再び神の全き栄光をお持ちになられた時、旧約聖書のみことばは主にとって再び主の宣べ伝えた土台と内容になりました。

引用者註:最後に述べられている短いベック兄のことばですが、ルカの福音書24章25節以下のことを指すように思われます。このあとに聖歌532番「ひとびとはイエスのおしえを古しとて、見向かず、『あたらしきことをのべよ』とあざけり顔に言う。古びはせじ、とうときはイエスのおしえぞ、よし世はいかにあざけるとも、動かぬはげにこのおしえぞ。」と歌わしめておられます。)
 

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