2016年12月28日水曜日

満たされし心 ゆるがされない心 

寒風に 裸木凛なり 妹と仰ぐ

その人は主に信頼して、その心はゆるがない。(詩篇112:7)

 誰の心ですか。天使の心ですか。栄光ある聖徒の心ですか。いいえ。ただ主を恐れ、主のご命令を大いに喜んでいる人の心です。だから、神様がそうであって欲しいと思われるあなたの心であり私の心であります。まさしく神様を恐れる心の平常心であり、功績とは縁遠い極めて絶望的で何もない心です。

 「信頼してゆるぎがない」ここにゆるがない方法があります。それは信頼です。主は私たちの内に信頼を働かせられます。それは聖霊が私たちの信頼は絶対的に無限に価値あるものとして、キリストにある神様を啓示するために遣わされることによってです。私たちが聖霊の働きによる信仰によって「イエス様を見る」時、私たちは主を信頼せざるを得ません。

 私たちは以前よりも自分の心をさらに正しくも信頼せず、私たちは主だけを信頼しますので、主を絶対的に信頼します。なぜなら、主に対する信頼にゆだねて、主がゆだねるものを支えることがお出来になると知っているからです。それが主ご自身が私たちの心を主ご自身のために勝ち取りゆるがせになさらない方法です。

むなしい骨折りはやむことがない  
私たちが人生の暗い惑わしのうちに
痛んだわがままな歩みを導いて
主ご自身が 道であり いのちであり 平和であることを
気づかせてくださるお方に お会いするまでは
主にあって 長期にわたる不安は 和らげられ 沈静化されます
私たちの心は 満ち足りるのです

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-28-hearts-filled-and-fixed/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97527です。

※Godhold Beck(128)

『聖書とは何か』第四部[4]

 音楽が、ある時は竪琴、ある時はオルガン、ある時はバイオリン、ある時はラッパによって自分の中にあるものをあらわそうと試みるように、主なる神は語りたいと思う時、全能なる力をもって、ある時は王、ある時は羊飼い、ある時は祭司、ある時は医者、ある時は神学者、ある時は漁師、ある時は取税人を選び、言い表わしたいことを表現致しました。

 神の御霊は選ばれた一人一人の個性を用いて書かせました。神の霊は人間に臨み支配しお用いになります。私たちは聖書を書いた人々の言うことを聞くことができ、彼らの人間的な個性を見ることができます。彼らは、みことばをそれぞれの個性に応じて宣べ伝えました。それは、確かに人間のかたちによるものではありますが、完全なみことばなのです。

 私たちは、いろいろな書物の作者の個性によって聖書の中に、言い表わすことの出来ないほどの豊かさを見出すことができます。旧約聖書において、モーセは教養の高い指導者であり、生まれながら民の指導者であり、レビの家系を持つ情熱的な男でしたが、もっとも柔和な人間となりました。イザヤは王の家系を持つ預言者であり、すでに千年王国の約束された平和の国を見た者でした。そして支配者の洞察力を持って、自分の時代を見透しました。エレミヤは感受性の強い詩人の性質を持ち、イスラエルの民の苦しみと悩みを深く同情し、ともに耐え忍び、イスラエルの民に対してする神の悲しみを理解することが出来ました。アモスは羊飼いであり、羊飼いの経験する事柄を通して、主のみことばを宣べ伝えたのです。ダニエルは賢い政治家であり、バビロン帝国の大臣であり、将来の世界史を主によって見させることができました。エゼキエルは祭司であり、宮の中の状態と将来の宮に対する目を開かれました。

 新約聖書において、マタイは取税人であり、天の御国に対する幻を持つことができました。ルカは医者であり、罪人の救い主を見、この方の癒す能力を確認しました。ヨハネは神秘主義者であり、神の御子の本質、ならびに主との交わりの本質を見ました。ペテロは行ないの人であり、彼の色々な思い出はマルコ伝に再現されており、彼の手紙の中では主の将来が描かれています。パウロは考える人であり、聖書の真理をもっとも簡潔に言い表わす人となりました。ヤコブは実践的な信仰の代表者です。

 これらの人たちはみな聖霊のご支配を受け、啓示を受け、駆り立てられました。彼らは覚めた状態で神のみことばを受け取り、開かれた魂と明晰な理解力をもって覚めた状態でみことばを書き記しました。彼らは神のみことばを宣べ伝える器に過ぎなかったのです。しかし、大切なことは聖書がつねに神のみことばであること、しかも完全で間違いのない人間のことばのかたちを取っているということです。

 神のみことばでありながら、人間のことば、そしてまた人間のことばでありながら、神のみことば。一体そんなことがどうしてあり得るのでしょうか。聖書は神の奇跡を私たちに説明してくれませんが、証しをしてくれます。主イエスの処女降誕はどうして可能なのでしょうか、人間は年老いてからどうして生まれ変わることができるのでしょうとか、このような私たちの問い、すなわち、「どうして」という問いに対して、聖書はいつも「聖霊によって」「聖霊の力によって」という答えだけを与えています。

 みことばの霊感はどうして可能なのでしょうか。ペテロ第二の手紙1章21節に
聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語った

と、書いてあります。人間の口をお造りになった方が、この口を自分の思い通りに使うことができないのでしょうか。出エジプト記4章11節と12節をお読み致します。
主は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれがおしにしたり、耳しいにしたり、あるいは、目をあけたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」

と、あります。私たちが召されたのは神の奇跡を説明するためではなく、宣べ伝えるためです。聖書のことばはどれもみな神のことばです。

引用者註:この最後のベック兄のことばは当然と言えば当然し過ぎることばだが果たしてそうだろうか。「説明する」のでなく「宣べ伝える」とは何と意味深なことばであろうか。ここには「宣べ伝える」者とは、何よりも神様の前にへりくだりを求めれている者にちがいないからだ。)

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